アクティブ・ミュージアム「女たちの戦争と平和資料館」編『証言 未来への記憶 アジア「慰安婦」証言集U 南・北・在日コリア編・下』明石書店、2010

資料紹介 看護婦にされた「慰安婦」たち

                               林 博史


 この証言集のなかに書いたコラムです。この証言集は現在、「南・北・在日コリア編」上下の2冊しか刊行されていませんが、韓国・朝鮮の出身の元日本軍「慰安婦」の方々の貴重な証言を、丁寧な注釈も付して収録しています。この2冊はぜひ読んでいただきたいと思います。この資料については共同通信の配信で紹介されましたので、こちらをごらんください。 2011.7.31記


 日本の敗戦後、日本や朝鮮半島などから中国や東南アジア各地に送られた「慰安婦」たちがどのように扱われたのか、ということは大きな問題である。現地で放置された女性もいれば、とりあえずは日本や朝鮮半島に戻ることができた女性もいた。

 戦後、日本軍が作成した文書のなかに、朝鮮女性が敗戦前後に看護婦として登録されたことを示すものがある。金福童さんも、敗戦時に看護婦としての訓練を受けている。金福童さんは陸軍病院に配属されたようだが、ここで紹介するのは海軍について、日本人「慰安婦」を病院の補助看護婦にするように命令したこと、ならびにそうした措置をとったことを示す海軍の電報である。いずれもイギリス軍が日本海軍電報を傍受し、暗号解読をおこなって英訳したものである。その英訳から原文の日本語を推測して訳したものである[1]

一九四五年八月一八日一一時二一分
発信者 第一南遣艦隊司令長官(参謀長) 
宛先 第
11特別根拠地隊(サイゴン)、第13特別根拠地隊(ラングーン)、第15特別根拠地隊(ペナン)

シンガポールの海軍「慰安施設」に関して、八月一日付で日本人従業員は海軍第一〇一病院で雇用されることとなった。少女たちの多くは補助看護婦とされた。これと同様の措置をとるべし。(写真)

 一九四五年八月二〇日一九時一五分
発信者
   第八通信隊 
宛先 すべての民政部長官

 全地区の日本女性を各地区の病院(第一〇二病院の支部または民政部病院)に看護婦として配属すべし(旧例に従って取り扱うべし)。しかしながら、スラバヤとジャカルタは特別命令に従って扱うべし。完全に了解すればこの電文は焼却せよ。

 

  前者は、シンガポールに司令部を置いていた第一南遣艦隊の命令であり、その指揮下のマレー半島、インドシナ、ビルマなどの部隊に伝達されたものである。ここでは、シンガポールにおいては八月一日付で日本人「慰安婦」を看護婦にしたことが報告され、ほかでも同様の措置を取るように命じている。ここでいう「日本人」とは金福童さんなどの例から考えると、朝鮮人女性も含まれていると見てよいだろう。

後者は、インドシネア第二南遣艦隊の指揮下にあった通信隊からのもので、占領地行政を担当していた各地の海軍民政部(軍政機関)に宛てた電報である。インドネシアの海軍占領地では民政部が慰安所を管理していたので、民政部長官宛になっていると思われる。

海軍の指揮命令系統で見ると、大本営海軍部―連合艦隊―第一〇方面艦隊―第一・第二南遣艦隊となる。この二つの艦隊でフィリピンを除く東南アジア地域全域を担当していた。したがって、この二つの電報から、ほとんど米軍に占領され海軍組織が実質的に解体していたフィリピンを除いて、海軍については東南アジアのほぼ全域で、同様の措置を取るように命令が出されていたと見てよいだろう。

南方軍の「留守名簿」によると[2]、韓丁洙という朝鮮女性が四五年八月一日付で「看護婦」として「発令」されている。この女性は第五陸軍病院の「留守名簿」に記載されており、第五病院はジャカルタにあったのだが、その後、その女性はシンガポールで病死している。現在、シンガポールの日本人墓地に南方軍の「病院関係物故者」氏名一覧が刻まれた碑が建っており、その一覧のなかに彼女の名前が刻まれている(写真)。彼女が慰安婦だったかどうかは断定できないが、その可能性は高い[3]。これは記念碑であってお墓ではないが、「慰安婦」だったとすれば、こうした碑に名前が刻まれているのは非常に珍しいケースだろう。

いずれにせよシンガポールでは八月一日付で看護婦として登録したとの電報の内容は留守名簿によって裏付けられたと言ってよい。電報は海軍のものであるが陸軍も同じ措置を取ったと見られる。金福童さんの場合は、陸軍第一〇病院に八月三一日付で「雇人」になっている。この病院はスマトラにあった[4]。後者の電報ではシンガポールでの措置にならって各地でも同様の措置を取るように命令しているが、それによってとられた措置だろう。

日本陸軍の「留守名簿」を調査した姜貞淑氏の論文によると、そこに「看護婦」や「雇人」などとして記載が確認された朝鮮人女性三一四人のうち、四五年八月一日付で登録された者八三人、ほかは一一日5人、二二日八七人、三〇日三五人、三一日一〇四人、となっている。

八月一日付でなされた措置が、実際にはいつなされたのか、特に敗戦前か後か、というのははっきりとはわからない。敗戦がわかってから、元々看護婦だったという体裁を取り繕った可能性が高いと思われるが、それは遅くとも八月一八日午前中までになされたことは確実である。

こうした措置を取った意図は電報には書かれていないので推測するしかないが、一つには日本軍が慰安所を持っていたこと、ならびに慰安婦の存在を隠蔽しようとしたのではないかと考えられる。もう一つは、連合軍に武装解除される際に軍人軍属の登録がおこなわれるだろうが、その際に日本人「慰安婦」の扱いに困り、看護婦であれば軍属にできるので(事実、留守名簿に記載されている)、そのように登録して一緒に帰国する便を図ったのではないかという推測も可能かもしれない[5]。 

 

 (注)


[1] ともにイギリス国立公文書館所蔵の資料で、請求番号はHW23/764HW23/637である。

[2] この「留守名簿」については、姜貞淑「解放以後に日本軍は朝鮮人の軍慰安婦を軍属で採用」(挺身隊研究所News Letter、第五八号、二〇〇五年一月)、参照。

[3] 琉球朝日放送制作「揺らぐ刻銘―沖縄「平和の礎」の理念を問う」(二〇〇四年三月二一日放送)で彼女を日本軍「慰安婦」として取り上げ、名前も紹介している。

[4] 敗戦時におけるこれらの病院の所在地は、一応確認できるが、その後、移動してから復員しているので金福童さんが看護婦にされたのがスマトラなのかシンガポールなのか、よくわからない。「留守名簿」自体が四七年九月に「調製」されたもので、かなり混乱しているようにも見える。さらに検証が必要である。

[5] この二つの電報に関して、George Hicks, The Comfort Women(Singapore: Heinemann Asia, 1995)p112 に、同じ電報と思われるものが紹介されている。これも日本軍の電報を暗号解読したものと書かれているが、英文表記は私が見つけたものとはかなり異なる。ヒックス氏は一切、出典を明記していないので、これまで信頼できる資料としては利用できなかった。