関東学院大学経済学部総合学術論叢『自然・人間・社会』第38号、20051

日本人のアイデンティティと天皇

捕虜になった日本兵の天皇観―

                                                                                  林 博史


これは別に紹介した「アメリカが分析した日本人の天皇観」の資料を基に書いたものです。2011.2.28記


 

1 序論―米軍の心理戦

 心理戦Psychological Warfareは古くからおこなわれていたものではあるが、特に第1次世界大戦中に「戦時プロパガンダ」としておこなわれ、さらに第2次世界大戦では各国がこの心理戦を意識的に展開した。心理戦とは心理学的手法を使って、敵の抗戦意志をくじき、自軍の損害を最小限に留めることにより、戦争目的の達成を促進するための軍事作戦の一つであるといえる。国民全体の士気が戦争に大きな影響を与える総力戦段階になって全面的に活用されるようになった。

 アジア太平洋戦争においてアメリカは、日本軍将兵や国民の抗戦意志を削ごうとしたが、将校と兵士、国家・軍指導者と国民、軍人と民間人、日本軍と現地住民、本土人と沖縄人などの間を離反させて抵抗力を削ごうとしたり、投降を誘ったり、厭戦気分を増長させるなどさまざまな観点からの工作をおこなった。特に捕虜になることを拒否する日本兵を説得することは米軍の損害を最小限に抑えるうえでも重要な課題であった。

 敵に働きかける手段としては、ラジオ放送、リーフレットの散布(空中散布など)、前線でのラウドスピーカーによる宣伝などがあったが、問題はそのなかで何をいかに語るのか、という問題だった。敵の心理にうまく付け入ることのできる内容にするためには敵の心理分析が不可欠だった。そのために歴史や地理などの研究はもちろんであったが、現在の生の資料が求められた。過去の日本人の意識ではなく、いま現在の日本人の意識をさぐるデータが求められた。日本の通信の傍受解析や出版物の入手分析などもおこなわれたし、在米日本人の尋問もなされたが、特に重視されたのが現役の日本軍将兵の意識分析だった。

 日本兵捕虜は貴重な情報源であり、アメリカ軍は一人ひとり丁寧に尋問をおこなってさまざまな情報を取った。同時に戦場で日本軍の文書の捕獲に努めた。軍の命令書や陣中日誌などの公文書は日本軍の作戦計画や配置その他の情報を入手するうえで重要であることは言うまでもないが、将兵個人の日記も重要な情報源だった。日本兵は私的な日記をつけていることが多かった。それらの日記には公文書からはうかがえない情報がたくさん含まれていた。たとえば将兵たちの士気(抗戦意欲、上官への信頼度あるいは不満など)、食糧事情(人肉食の情報も日記から得られたものが多かった)、前線に来るまでに通ってきた地域や日本本土の状況などに関わる情報が含まれていた。

 捕虜からはただちに尋問調書が取られて印刷配布されたし、捕獲された文書は翻訳係によって通読され重要な箇所は英訳されて印刷配布された。緊急を要する軍事情報(日本軍の作戦命令や配備状況など)はただちに関連部署に伝達され、それ以外はあらためて分析の対象にされた。日本軍の占領地や日本本土の軍事・政治・経済情報や民衆の意識まで実に多方面の情報が収集され分析された。たとえば捕虜たちの尋問からいかにして投降を引き出すのか、という教訓が整理され、リーフレットの内容に反映されていった。協力してくれる捕虜にリーフレットの下書きを示して意見を聞いて修正するということもおこなわれた。

 さらに戦争の勝利がほぼ見えてくると、次には日本軍の武装解除と日本占領、その後に来る占領行政をおこなうにあたって、それらへの障害を除去し占領を円滑に進めることも視野に入ってきた。

 こうした対日心理戦をおこなった機関はアメリカにはいろいろあった。列挙すると、戦時情報局Office of War Information(OWI)、戦略事務局Office of Strategic Services(OSS)、陸軍諜報部Military Intelligence Service(MIS)、連合軍翻訳通訳部Allied Translator and Interpreter Section(ATIS)、海軍諜報部Office of Naval Intelligence(ONI)、東南アジア翻訳尋問センターSouth East Asia Translation and Interpretation Center(SEATIC)、南西太平洋方面軍心理作戦部Psychological Warfare Branch, SWPA(PWB), などがあげられる(ATISSEATICは連合軍組織、前者にはオーストラリア軍など、後者にはイギリス軍も参加している)。これらの相互の関係は単純ではないので省略する[1]

 これらの機関によって収集された情報は戦争を遂行するうえで必要な情報であったが、戦後においても重要な意味を持つこととなった。そのなかにはここで検討するように、日本人が天皇・天皇制についてどのように考えているのかに関する同時代の生の情報も含まれていた。日本を占領したアメリカにとって天皇・天皇制をどのように扱うのかは大変難しい問題であったが、それを考えるうえで貴重なデータであった。

 日本人の天皇観に関するデータは心理戦をおこなったそれぞれの機関による報告書のなかに散在していたが、それらをサーベイして総合的に分析したレポートも作成されていた。これまで筆者が見た限りで最も包括的なものとして挙げられるのが、戦時情報局海外士気分析部臨時国際情報サービスが作成した『日本の天皇』と題されたレポート(19451031日付)である[2]

 この戦時情報局OWIとは、19426月にルーズベルト大統領によって戦略事務局OSSと同時に設立された機関である。OSSが諜報を担当し、OWIは国内外向けのプロパガンダを担当した。ハリウッドと協力して映画製作や海外向けラジオ放送、敵軍や敵に占領された地域の住民へのリーフレット散布などさまざまな活動をおこなったが、敵に対して有効なプロパガンダをおこなうために、捕虜の尋問や没収した敵文書の分析、敵のラジオ放送の傍聴、新聞のモニターリングなどもおこなった。

対日戦について言えば、日本本土やその植民地・占領地の政治経済社会状況、日本兵や日本人の意識、占領地住民の意識などの実態を把握分析し、それをプロパガンダに生かそうとした。OWIの海外組織としては、中国の重慶や昆明、インドのニューデリーやボンベイ、カラチ、カルカッタ、ビルマのアッサム、オーストラリアのブリスベーン、後にはサイパンやマニラなどに前哨拠点がおかれた。

 OWIの中の海外士気分析部は、日本軍ならびに日本本土の状況とその士気について調査し分析するのが主要な任務であった。その活動上、陸軍諜報部MISと密接な協力関係にあった。一般に、捕らえた日本兵捕虜の尋問は軍に付いているMISがおこなうことが多かったが、OWIはそうした尋問調書などを総合的に分析してレポートを作成し関係機関に配布した[3]。ここで利用するレポートもそうしたレポートのなかの一つである。 

このレポートは、3000点以上の文書を点検して、そのなかから天皇について言及されている、133人の日本陸軍兵士、22人の海軍兵士、30人の民間人(ほとんどは日本軍に所属)の尋問調書、ほかに没収した日記、手紙類、命令書など81点を拾い出して分析したものである。天皇について意見を述べることを拒んだ捕虜が多かったようだが、ここに集積されたデータは貴重なものと言えよう。ここにそのレポートの目次を示しておく。

 1 序論/2 主な結論/3 利用した資料の分量と由来、編集における限定要因/4 天皇への信頼、献身、忠誠/5 平和の人としての天皇/6 騙された天皇/7 自由主義者ならびに民主主義者としての天皇/8 敗戦のなかの天皇/9 天皇への攻撃についての心配/10 天皇が排除されることへの心配/11 戦争指導者としての天皇/12 天皇制への反対/13 戦争における士気のための天皇の利用/14 結論的所見

 本稿ではこのレポートを手がかりにして、アジア太平洋戦争下における日本兵捕虜(一部、軍人以外も含む))の天皇観を見ていきたい[4]

 

2 天皇への信頼・忠誠意識を示す日本兵捕虜          

レポートによると、「天皇に言及しているものの圧倒的多数が信頼、献身、忠誠の表現と天皇の重要性についての意思表明であった」という。その根拠として77人の捕虜の尋問と28件の日記や文書があげられている(8)

 天皇へのそうした信頼、献身、忠誠の表現はさまざまであるが、一つ重要視されたのは天皇のために任務を遂行しようとする決意が日本軍の士気を支える重要な要素の一つであったことである。捕虜になることは天皇への恥であり不名誉であり不面目であるという意識につながっていることだった(12-13頁)。そのことは同時に天皇の命令がなければ戦争を終わらせられないことともつながっていた。日本人は最後まで戦い、かりに負けたとしてもみんな自殺するだろうと述べる捕虜も、「もし天皇が武器を置くように命令すれば、人々は喜んでそうするだろう」と答えている(14頁)。ともかく戦争を終わらせるには天皇の命令が必要だと多くの捕虜が言及した。捕虜の尋問よりも日記のなかでは「天皇のために死ぬ決意だ」「天皇のために身をささげるのは喜びである」などという表現がよりはっきりと出されていた(17頁)。

 それに対して、多くの日本人捕虜たちが天皇の神聖性については疑問を表明しているが、天皇に対して敵意を示しているか、あるいはその廃止を主張している資料や意見は、きわめてわずかであるとされている(5頁)。捕虜になった日本兵は完璧に打ちのめされ、日本から永遠に切り離されたと感じているにもかかわらず、さらに天皇の敵の手に落ちていて反天皇の心情に共鳴するように期待されているかもしれないにもかかわらず、天皇を批判する者が極めて少ないことが注目されている。レポート作成者が調べた資料の中で、天皇制の廃止に無条件で賛成しているものはたった7点しかないという(45頁)。

 最初にあげられている例は中国で活動していた日本人民解放連盟の声明であるが、この声明のなかでさえも天皇制打倒は含まれておらず、「日本人の多数が天皇の存続を熱烈に望むならばそれを認めなければならない」と留保している。

米軍が没収した日本軍の軍法会議の記録のなかに、共産主義者である兵士が「天皇陛下の尊厳をののしった」という容疑で裁かれたケースが紹介されている。それによると1944年1月はじめ、彼は同じ管理任務の部隊にいた何人かの兵士に「おれは天皇に憎まれている者だから、閲兵式での通過のときに‘頭右’をするのが大嫌いだ」と語ったという。

天皇をはっきりと批判した捕虜は3人だけだという。「天皇は、軍国主義者の手中にある操り人形以上の何者でもない、気の弱い人間にすぎない」と語った兵士、神格神話による皇位に天皇を留めておくのは間違いだ、神道は破壊されなければならない、日本人の神格性や信条はイソップ童話のたぐい程度のものでしかないことを教育制度の改革によって示すべきだと述べた中尉(大学に3年間通った)などだけだった(48-49頁)。もう1人マニラの大使館に勤務していたという民間抑留者が、この封建制度が残れば日本人は変わらず、10年か20年後にはまた太平洋で戦争が起きるだろう、だから新しい日本を築く第一歩として天皇とそのすべての思想をなくさなければならない、ただ徐々にそうする必要があるだろうと語っている(47-48頁)。いずれにせよ天皇や天皇制を明確に批判する者はきわめて少なかった。

 

3 戦争に批判的な日本兵の天皇観    

ほとんどの日本人にとっては天皇の声を聞く機会はなかったし、天皇が国民に語りかけることもなかった。詔書や勅語という形で天皇の意思が表明されることはあっても、それが天皇の本意であるかどうか、それを判断できる材料はなかった。本当のところ、天皇が何を考えているのか、何を望んでいるのか、一部の側近など指導者を除いて、まったくうかがい知ることはできなかった。そうした中で日本人それぞれが異なった天皇のイメージを作り上げていたことがこのレポートで浮き彫りにされている。

 レポート作成にあたって調べられた資料によると、ほとんどが天皇の平和的な資質と意図をあらゆる機会をとらえて強調している。戦争を肯定する者でも否定的な態度を示す者でも共通していた。

「戦争は犯罪であると考えているが、天皇は戦争を好んでいないと信じている」。「戦争はいいことではない。捕虜は、天皇と日本の人々は戦争を好きではないと思っている」。「天皇はたしかに戦争を好きではない。戦争はアメリカのせいだ」。「戦争をよいと信じていないし、戦争は非常に悪いことだと考えている。天皇は戦争を好きでないと考えている」。「戦争をよいと信じていないし、天皇もたしかに戦争をよいと信じていない」。「天皇は心から平和を愛している人物」である、というように戦争を望んでいない者は天皇も戦争を望んでいないと考えている(21頁)。

そして、「日本は輸出市場が閉ざされたために戦争することを余儀なくされた。(中略)ABCD諸国による資産の凍結が戦争の始まりと関係している」というように連合国が圧力を加えたために仕方なく戦争せざるを得なかったのだと弁明しようとする(22頁)。

戦争に否定的な者は天皇もそう考えていると思い込もうとしていた。つまり「彼らは戦争の恐怖から自らが逃れようとする、その投影を天皇の中に見ようと」していたのである(21頁)。

さらに戦争に批判的な者は東条や陸軍、軍閥などが天皇をだましていると非難し、天皇は平和を望んでいるのに彼らにだまされたのだという議論をする者も多い。そうした例として、「陸軍は伝統的に偏狭で、偽りのアドバイスや(政敵を)絞殺する力を得たことによって天皇の尊厳を実際に冒涜した」。「軍閥、東条、嶋田や他の者たちにすべての責任があると信じている」。「戦争は天皇が知らないうちに、しかもその許可もなく始められた。天皇は戦争を好きではないし、臣下が戦争に引きずり込まれるのを承認しなかっただろう。天皇は兵士たちがどれほどひどく扱われているのか、知らない」。「天皇は戦争が好きな人ではない。東条がいまの戦争を起こしたのだ。近衛首相が職についている間は平和を保つことができたのだから、戦争は避けられないものではなかった」。「東条ほど気が狂ったやつはいない。天皇は相談されなかったのであり、天皇なら戦争を始めなかっただろう。政府は文官であるべきだ」。「天皇は、東条を含む信頼していた大臣たちにだまされたのかもしれないが、戦争について責められるべきではない。天皇を批判するようなことはなにもない」。「東条は日本が戦争に突入したことについて最も責任がある。天皇は平和を愛する人であり、非難されるとすれば、東条が日本をこの戦争に引き入れた、最も責任ある人物であると信じている」。「国を愛することは、日本民衆の心を、軍部に支配された現在の政府への反対に転じさせるだろうし、またそうできるだろう。(中略)軍閥がついには爆発して崩壊する火花が点火する時が来ることを祈っている。そのような重要な結果をもたらすような力を発揮するだけの権力を天皇はもっていない」。「天皇には陸軍を抑える力がなかったのだから、陸軍が天皇を犠牲にしたと強く感じている」。「平和を愛する陛下」というような言説である(2324頁、なお尋問者による観察も含まれている)。

 さらに天皇は自由主義や民主主義的であるという理解もあった。

「天皇はいつも自由主義的であり、戦争に反対していた」。「天皇が承認するならば、民衆は民主的政府を受け入れるだろう」。「天皇は満州事変への態度を表明した際に、反軍国主義であるという自らの姿勢を示した。そして実際に日本において軍国主義精神が台頭する前には、天皇は『ある種の民主主義』を指導した。しかし天皇の態度がどうであれ、もし天皇が除去されるならば、日本は存続しないだろう」。「天皇を維持した政府だけが民衆の支持を得られるだろうし、また天皇によって設けられた民主的な政府は民衆によって支持されるだろう」「天皇の指導の下で新しい制度の上に築かれた新しい日本を、強力で普遍性をもった文化と人間性の上に打ち立てられた平和の時代を見たい」というように、天皇があってこそ日本の自由主義・民主主義が可能であるという認識も強くあった(2526頁)。

このように戦争に批判的な者、自由主義的民主主義的な傾向を持つ者たちも、天皇を批判するよりは、天皇は東条など軍部によってだまされているか、抵抗できなかっただけであって、本当は平和を望んでいるのであり、日本の民主的発展に必要な存在であると主張していた。

 

4 戦争を支持する日本兵の天皇観

もちろん戦争に批判的な者ばかりではないことは言うまでもない。東条は天皇の承認を得て戦争を始めたのであると、天皇と東条の両者を支持する者もいる。

「外国が日本と貿易することを拒否し、アジアの発展を妨害していたのだから、大東亜戦争は避けられなかった。彼は天皇が戦争に反対していたことは否定し、東条は日本で最も力のある影響力を持った人物であり、すべての部局から完全な協力を得ていると述べた」。「天皇は最近の情勢について知らされており、東条は天皇の承認を得てまさに国家のために働いている」。「天皇はおきていることを十分に承知しており、東条を支持している。東条は自分の野心のためでなく国の利益のために働いている」。「天皇は平和を愛する人物であり、東条は天皇の命令に従っていると信じる」。「天皇は戦争を好きではないが、そうした状況からほかに選択肢がなかった」。「東条は天皇の意思を遂行している。天皇は戦争をきらいだが、国民のために戦争をおこなった」。「天皇はすべての国との平和と友好を望んでいる。天皇は、戦争が避けられないと認められるときにかぎり戦争を開始することを東条に認めた」。「(通訳者から軍国主義者は天皇の許可なしに戦争を始めたと聞いた捕虜は)開戦と同時に詔書が出されているのだから、そんなことは信じられない」(41-44頁)。

天皇が戦争を余儀なくされた理由としては、日本は人口が多すぎるのに土地が狭く海外に発展するのを英米に抑えられたこと、日本への経済的圧力、連合国が中国に戦争物資を支援したこと、など連合国の姿勢が指摘されている。これらは日本の戦争を正当化する理由として戦後も繰り返されてきたものであることは言うまでもない。

戦争を支持する者たちにとっても、天皇は平和を望む人物と考えられていたのである。

 日本が負けた場合、天皇はどうなるのか、それも捕虜たちの重大な関心事であった。敗戦の責任を天皇に帰するような意見はほとんどなかったとされている。「日本が負けた場合、非難は天皇にではなく政治家たちに帰せられるだろう」。「国民は、どんな不幸なことがおきても天皇の責任だとは考えない。それは政治と軍の指導者の責任である」。「たとえ日本が戦争に負けたとしても、天皇に責任があるとは日本人は信じることはできないし、想像すらできない」と天皇の責任を否定する議論ばかりであった(27-28頁)。

 そしてさらに天皇制をなくすことへの強い反対が示され、どのような形にしろ、天皇を残すことが主張された。自由主義的な者でさえも、天皇には戦争の責任はないのであり、自由主義的で民主主義的な日本の建設に天皇制は必要であるという主張をおこなった。自分は「自由主義的」であるというある捕虜は、天皇が神聖だとは思っていないが戦後はイギリスの国王と同じように名目上の長として天皇を維持することが日本にとって最もよいと信じると語っている。民主主義的考えを持ちアメリカを賞賛しているという捕虜は、民主主義の日本を建設する方向が避けられないとしたうえで「連合国は天皇を名目的な長として維持すべきだ。さもないと日本人は反乱をおこし天皇を元に戻そうとするだろう」と語っている。天皇にも少し戦争の責任があると考えている捕虜は、天皇制は日本に必要なので残すべきであり、皇太子が後を継ぐべきだという考えであった。国民的自殺を防ぐには天皇を残すしかないという捕虜もいたし、「陸軍や海軍はいらないかもしれないが天皇なしの日本など想像できない」と述べるものもいた(32-39頁)。

 天皇制を残すべきであるという主張にはさまざまなバリエーションがあり、天皇なしの日本は考えられないというようなものから、国民が廃止に抵抗・反乱するだろうという警告あるいは脅しのようなもの、共産主義化を恐れるもの、天皇なしには民主的な政府も国民の支持を得られないというもの、など一つにまとめられないが、戦争への態度の違いを超えて、天皇を残すべきという意見であった。

こうしたことから示されることは、天皇が特定の思想や政治的立場を示す存在として、国民に共通の認識をもってとらえられていたわけではなかったことである。戦争に批判的な者は、天皇は戦争を望んでいない平和的な人物であり、東条や軍部によってだまされ、あるいは抵抗できなかった人物としてとらえられている。日本における立憲君主制を展望する者たちは、天皇を自由主義者あるいは民主主義者として見なし、天皇の存在によってこそ民主主義的な発展が可能になるのであり、天皇は必要であると考えている。

その一方で、戦争を支持する者たちは、天皇は平和を望んでいるが、連合国による圧迫の前にやむなく戦争に訴えざるを得なかった存在として考えている。

 戦争を正義のためのやむをえない戦争と考えるか、あるいは戦争そのものに批判的であるかを問わず、一部の共産主義者をのぞいてほとんどが、天皇は戦争を望んでいない平和を愛する人物だと思い込んでいるのである。各人は自分の個人的な考えや願望を、それは天皇の意思でもあるのだと、天皇に投影して見ている。そのことにより自分の考えを正当化し根拠付けようとしている。神聖化された天皇というものは中味が空虚なものであることによって、各人それぞれが自己の期待を投影させることができるのである。

 戦後、天皇の戦争責任が追求されなかった、人々の意識のあり方がここに示されているだろう。天皇に自らを同一化させていた人々にとっては、天皇の戦争責任が追求され批判されることは自らが批判されることのように受け止めた。天皇の責任が免罪されることは自らの責任が免罪されることでもあった。この時点では天皇が実際にどのような戦争指導・国家指導をおこなっていたのかを国民は知るよしもなかったが、その天皇の具体的な活動の実態は1970年代以降、公開された極秘資料を使った研究がはじまり、特に1990年代に入ると天皇関係の資料の公開がすすんだこともあって実証的な研究が次々と発表され、天皇の果たした役割が明らかにされてきている[5]。にもかかわらず一般には、天皇は戦争指導には関わらなかった、あるいは軍や内閣の決定をただ事後的に認めていたにすぎないなどという実態とはまったく異なる歴史像が広く信じ込まれている。そうした虚像が戦後形成されたものではなく、すでに戦中に形成されはじめていたことがわかる。もちろん戦後、その虚像が強化されていくのであるが。その虚像は自己の正当化・弁明と結びついていたがゆえに、事実であるかどうかに関わりなく、広く受け入れられていったのではないだろうか。

同時に自己の考えの根拠を天皇の意思に求めるというところに、国家から相対的に自立した市民社会の未成熟さ、個人の内面的な自立の未成熟さを読みとれる。日本の民主主義者あるいは自由主義者といわれる人々の、天皇制への弱さの現われ、つまり天皇制民主主義にとどまっていたことを示している。

 

5 まとめにかえて  

このレポートの結論において、「国家の理想を天皇と同一化することによって、通常の事柄の成り行きにもかかわらず、国家の理想は無傷で、高貴で、神聖のまま維持されただけでなく、平均的な日本人が個人的に天皇と同一化し、また投影の過程によって自分自身の人生観あるいは目標を天皇に求めるという、多くの日本人の傾向がある。(中略)天皇がすべての人にとって、それぞれのものであることができ、単一の固定した役割を与えられていないという事実は、欠点であるとともに利点ともなっている」(59頁)と述べている。そうした柔軟性は、「天皇が慣習と儀礼によって公衆との直接の接触を妨げられてきたことによって、またうまくないことあるいは不運なことの責任を負わせることのできる部下や顧問に取り巻かれていたということによって、可能になった」と分析している。

このことから、確かに天皇()は軍国主義に動員するために利用されたが、「民衆に対する天皇の威信と影響力」(5頁)はほかの方向に日本人を誘導するうえでも有効であると判断された。特に終戦時における日本軍の降伏が天皇の命令によって速やかにおこなわれたことはそうした見方を補強する重要な経験になった。

天皇(制)をなくそうという意見はほとんどなく、共産主義者でさえも慎重であると指摘し、天皇制をなくそうとする試みは「主に日本の内部から発せられたもの」「日本民衆によって精神的に承認されたもの」でなければならないとも述べている(61頁)。こうした認識は象徴天皇制として残し利用するという政策とつながるであろう。

 ところでこのレポートを作成した者が具体的に誰なのか、このレポートがマッカーサー司令部や米本国政府の政策決定にあたってどれほど利用されたのかどうか、などまだわからないことが多い。マッカーサー司令部(南西太平洋方面軍)には19446月に心理作戦部PWBが設置されており、その責任者はフェラーズ准将であった。マッカーサーの側近でもあったフェラーズは戦前から日本兵の心理分析のレポートを執筆するなど米軍の中でも日本通であり、戦中から天皇制を儀礼的な形で残すことを提案しており、戦後も天皇の免責と天皇制維持(象徴天皇制)に動いた人物として知られている[6]。このOWIレポートを読んだかどうかに関わりなく、フェラーズの行動は変わらなかっただろう。あるいは勘ぐって言えば、マッカーサー司令部の天皇への政策を正当化するためにこのレポートが作成されたという疑念が生じないわけでもない。ただそうであったとしても、このレポートにはたくさんの尋問調書や没収した日記などからの引用が含まれており、そうした解釈を許すような材料がふんだんにあったことは否定できない。

 個々人が自らの願望を天皇に投影させ、自らの考えの正しさの根拠を天皇に託するというあり方は、その後の日本社会において深刻な問題となり続けている。たとえば国家による教育内容の統制・介入、具体的には教科書検定や道徳教育、「心のノート」、日の丸・君が代の強制、愛国心の強調などに示されるように個人の内面への国家による介入が公然とおこなわれ、しかもそれらを多くの日本国民がそれほどの抵抗もなく受け入れている状況は、国家(あるいはお上)に依存することによってしか、自らの拠り所を確認するしかない、市民社会の未成熟さを示しているだろう。個人の思想と行動の基準を市民が相互の共同のなかで主体的内発的に確立しようとするうえで、天皇制の呪縛からの解放は避けて通れない課題であるだろう。

 

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[1]  もっとも包括的な研究は、Allison B. Gilmore, You Can’t Fight Tanks With Bayonets: Psychological Warfare Against the Japanese Army in the Southwest Pacific. Lincoln; University of Nebraska Press, 1998。日本での研究としては、張會植「マッカーサー軍の対日心理作戦と天皇観」(『季刊戦争責任研究』第41号、20039月)、山本武利『日本兵は何をしゃべったか』文藝春秋2001年、同編『米軍による日本兵捕虜写真集』青史出版、2001年(山本氏の解説)、など。

[2]   Interim International Information Service,(OWI),Foreign Morale Analysis Division, Report No.27, The Japanese Emperor, October 31, 1945(米国立公文書館所蔵RG165/Entry172/Box335)。表紙と目次を含めて62ページである。

[3]  対日戦におけるOWIの組織や活動については、”OWI in the Far East”と題されたレポートによる(作成日不明、米国立公文書館RG208/Entry6H/Box5)。

[4]  訳語について、捕虜からの尋問に出てくる言葉でEmperorは「天皇」、Imperial Institutionは「天皇制」と訳した。前者について、日本兵はおそらく「天皇陛下」「陛下」などいう言い方をしており「天皇」と呼び捨てにすることはないだろうし、後者は「国体」などの言い方をしていると思われるが、ここでは意味からそのように訳した。このレポートからの引用には本文中にページ番号のみを記す。

[5]  井上清『天皇の戦争責任』現代評論社、1975年、が先駆的な研究であるが、近年のまとまった成果としては、山田朗『昭和天皇の軍事思想と戦略』校倉書房、2002年、があげられる。主な研究については、後者の1823頁参照。

[6]  フェラーズについては、東野真『昭和天皇二つの「独白録」』日本放送出版協会、1998年、張會植前掲論文、参照。