「つくる会」教科書批判
―アジア太平洋戦争と消された加害事実―
林 博史
VAWW-NET Japan編『ここまでひどい! 「つくる会」歴史・公民教科書』(明石書店、2001年6月)に書いたものの一つです。ほかに明治憲法や自由民権についても書いていますが、ぜひ買って読んでみてください。 2001.6.18記
この教科書では、アメリカなどの圧迫によって日本はやむをえず太平洋戦争(大東亜戦争)を決意せざるをえなかったのであり、しかもそれはアジアを解放するための戦争で、アジア諸国の独立をもたらせた、というような内容になっています。大東亜戦争という呼称も問題があります。日本が戦時中に自ら名づけた名称で、自己を正当化しようとするものなので戦後は使われなくなりました。アメリカの呼び方である太平洋戦争よりは、現在では中国などアジアへの侵略戦争である側面を重視してアジア太平洋戦争と呼ぶことが増えています。
開戦にいたる経緯について、アメリカが「中国の蒋介石を公然と支援」するようになり、さらに「対日石油輸出の全面禁止」などをおこない、ついには「ハル・ノートとよばれる強硬な提案を突きつけ」たために日本は対米開戦を決意したと、太平洋戦争の原因はアメリカにあり、日本はやむなく戦争をせざるをえなかったかのように描いています。そもそもアメリカが日本に経済制裁をおこなったのは、日本が中国への侵略戦争を継続拡大しただけでなく、インドシナ北部さらに南部へと拡大したからでした。戦争を主導したのが日本であるという事実は逆転させられてしまっています。
「アジアを欧米の支配から解放」するのが日本の戦争目的だったとも書いていますが、そのような公式の声明はありません。戦争開始直前に大本営政府連絡会議において、重要国防資源の確保などが東南アジア占領の目的だと決定し、さらに1943年には天皇も出席した御前会議でインドネシア、マレーシア、シンガポールにあたる地域は「帝国領土」にすることを密かに決定しました。つまり本音は領土拡大だったのです。「地域の人々の日本に寄せる期待にこたえるため」にビルマとフィリピンを独立させたと書いていますが、イギリスはすでにビルマをカナダやオーストラリアと同等の自治領にすることを約束していましたし、アメリカはフィリピン独立を認め、憲法も政府もできていました。ですから日本はこの二つに形だけでも「独立」の体裁を与えざるを得なかったにすぎません。いったん領土にすると決めたインドネシアに、政策を変更して独立を与えることを表明したのは、サイパンも陥落して本土防衛にあたふたしはじめた44年9月のことで、しかも日本の敗戦まで独立は実現しませんでした。また朝鮮や台湾の植民地を独立させることなどまったく考えていませんでした。要するに東南アジアを日本のものにして石油など資源を確保し、中国との戦争を継続することが目的だったのです。東南アジアの人々は欧米と日本の両方の帝国主義と戦って独立を獲得したのが実態でした。そうした人々の主体的な努力を無視して、日本が解放したのだというのは、東南アジアの人々を見下した傲慢さの表れでしかないでしょう。
ソ連が「約60万の日本人をシベリアに連行して…およそ1割を死亡させた」と書いていますが、日本軍の捕虜になった連合軍兵士の27〜28パーセントが死亡したことには触れていません。米軍による空襲については比較的詳しく触れていますが、日本軍による重慶など中国都市への無差別爆撃が先行していたことは無視しています。ナチス・ドイツは一般住民のうち約600万人のユダヤ人、約200万人のポーランド人とそれを上回る旧ソ連人、約50万人のロマを「収容所で殺害」したと書いていますが、収容所でこれだけの人々が殺されたという事実はなく、間違った記述です。いずれにせよナチスの犯罪あるいは日本が被害者の場合については具体的に数字を示している(根拠がはっきりしないものも含めて)のに対して、日本軍がアジア諸地域で殺害した人数については南京事件を含めて何も書いていません。
「中国の兵士や民衆には、日本軍の進攻により、おびただしい犠牲が出た」とか「フィリピンやシンガポールなどでも、日本軍によって抗日ゲリラや一般市民に多数の死者が出た」というようにアジアの市民を殺した主体が誰なのかは、あいまいにして逃げています。あるいは「非武装の人々に対する殺害や虐待をいっさいおかさなかった国はなく、日本も例外ではない」と弁解がましい言い方をしているだけです。これでは日本軍がアジアの人々に与えた膨大な被害の深刻さを理解しようがないでしょう。
この教科書を読んでいると、多くの犠牲を出し、苦労したのは日本人だけであるかのように思えてしまいます。戦後、GHQの宣伝や東京裁判が「日本人の自国の戦争に対する罪悪感をつちか」ったと決めつけ、日本が犯した数々の戦争犯罪について反省の気配はまったくありません。
検定意見や海外からの批判を意識してか、白表紙本に比べてわずかに日本が犯した加害行為をわずかながら付け加えていますが、ほとんど実態がわからない記述でしかありません。また他国のひどさをあげつらうことによってそれを薄め、日本がおこなった戦争を正当化しようとしている点では何も変っていません。中国もアメリカもソ連もドイツもひどかった、唯一日本だけが正しかったと言わんばかりの、自分に都合のいいところだけをつまみ食いした、独り善がりの歴史叙述でしかありません。