江口圭一さんへの追悼文

江口さんと沖縄戦研究 

                    林博史

     (追悼文集刊行会編『追悼 江口圭一』人文書院、2005年9月)  

 私にとって雲の上の存在でしかなかった江口さんと親しく話をできるようになったのは、一九八六年六月に故藤原彰先生の呼びかけで「沖縄戦を考える会(東京)」が発足してからでした。そのとき藤原先生のお宅に高嶋伸欣、纐纈厚、山田朗の三氏を含めて六人が集まり、本土でもきちんとした沖縄戦研究をやろうと確認し、それから研究会を始めました。ちょうど家永第三次訴訟の争点の一つが沖縄戦であったことから裁判闘争を支える意味がありましたが、同時に八七年一〇月に沖縄で国体が開催されることになっており、昭和天皇の訪沖も予定され、そうした中で本土からも沖縄戦についてのメッセージを発信しようという意図もありました。江口さんがこの会に参加されたのは、八一年の教科書検定の際に、江口さんが執筆された実教出版の日本史教科書で、沖縄戦の際の日本軍による住民殺害の記述が削除されるという経験をしていたからだったと思います。この問題は八二年の教科書問題の際の争点の一つでした。

 この「沖縄戦を考える会(東京)」は精力的に研究会を重ね、一九八七年七月に藤原彰編著『沖縄戦―国土が戦場になったとき』(青木書店)、同年一一月に藤原彰編著『沖縄戦と天皇制』(立風書房)を刊行しました。江口さんは、沖縄戦の全体像を描いた前者では「アジア太平洋戦争」と「日本軍の住民虐殺と集団自決」の項を執筆され、論文集である後者では「教科書問題と沖縄戦」と題した論文で、ご自分の検定の経験とともに日本軍の沖縄住民虐殺の要因を分析されています。

 振り返ると、江口さんは歴史学研究会が編集発行(発売は青木書店)した『歴史家はなぜ“侵略”にこだわるか』(一九八二年一二月)に「理不尽な検定の内幕」と題して沖縄戦や三・一運動、朝鮮人強制連行などへの不当な検定を批判する文を寄せられています。当時、歴研の委員であった私はこの本の企画編集に関わっていました。この一九八二年の教科書問題をうけて江口さんは『歴史学研究』一九八二年一二月号に「十五年戦争史研究の課題」を書かれて、これまでの現代史研究の問題点を指摘され、日本によるアジアに対する加害の事実を明らかにする研究の必要性を訴えられました。この問題提起は―それにすぐに応えたわけではありませんでしたが―私に大きな影響を与えました。もちろん私が日本の戦争犯罪・戦争責任問題を研究するようになったのは、恩師の藤原彰先生の影響が最も大きかったことは言うまでもありませんが(藤原先生に「沖縄戦を考える会」に誘っていただいたのが、こうした研究を始めるきっかけでした)、二〇代から三〇代にかけての研究者として出発するうえで重要な時期に江口さんといろいろな仕事を一緒にさせていただき、問題意識の点でも、資料や実証への厳しい姿勢からもたくさんのものを学ぶことができたのは幸いでした。

 最近の日本の状況について感じるのは、国民の排外主義の高まりが政策を硬直化させ、冷静な対応ができなくなるという問題です。それは一九三〇年代の状況と似ているように思います。こうした問題は江口さんがすでに一九七〇年代に分析解明されていることであり、いまあらためて『日本帝国主義史論』を読み直しています。江口さんの研究の射程距離の長さ、深さをあらためて認識させられています。

 さてその後、「沖縄戦を考える会(東京)」は南京事件調査研究会と合同で研究会を重ねて今日に至っていますが、両会のメンバーであった江口さんにはくりかえし貴重なアドバイスをいただきました。私自身、二〇〇一年にようやく沖縄戦についての本を出すことができましたが、そのそもそもの出発点は、今は亡き家永三郎さんと江口さんが日本史教科書に沖縄戦を書こうとしたことにあったということに気付かされます。江口さんがあの検定にあったときの年齢に、ちょうど私も達してしまいました。藤原先生が現代史サマーセミナーを開始されたときの年齢はすでに超えてしまっています。学生・院生のころに見上げていた江口さんを思うと、自分の至らなさに忸怩たる思いです。江口さんから学んだことを生かすことが私にできる追悼の仕方だと思っています。