『琉球新報』2010年11月2日

与那原飛行場も検討/1950年代 米海兵航空隊配備/反発恐れ 普天間で決着

     
 
【米ワシントン1日=与那嶺路代本紙特派員】1950年代に日本本土から沖縄へ移駐してきた米海兵航空隊の配備先について、当初与那原海軍飛行場=現西原町=や那覇空軍基地、ボーロー飛行場=読谷村=などが検討されたが、新たな土地接収による住民反発を恐れ、曲折の末、既に強制接収していた普天間飛行場で最終決着したことが分かった。基地建設のための土地接収が軍事的に必要でも、政治的に不可能だと判断した経緯がうかがえる。有事の際は空軍が普天間を優先使用することを取り決め、嘉手納基地の相互補完的な滑走路として位置付けていたことも明らかになった。

 林博史関東学院大教授がワシントンの米国立公文書館で一連の公文書を発見した。公文書によると、配備先をめぐり、使い勝手の良い広大な基地を求める海軍(海兵隊)と、新たな軍の駐留で沖縄の基地が手狭になることを嫌がる空軍、住民反発を懸念する国務省などの間で意見が対立。計画が二転三転した。

 55年5月の第3海兵師団の沖縄移駐発表後、ヘリ部隊(第1海兵航空団)の配備先に那覇基地やボーロー飛行場などが候補に挙がったが、空軍などが反発。海軍は与那原飛行場の拡張計画を進め、那覇基地を上回る1855エーカーの土地と、それに伴う6245人の移転が必要だとした。
 しかし米国民政府(USCAR)は56年10月「極めて好ましくない」と反対。その理由に(1)住民の移転先がない(2)基地には農業ほどの雇用がない(3)西原村長が社大党で、村は反基地運動が強い−などを挙げ、「アジア全域に反米感情をあおることに利用される」とし、反米感情の拡大を恐れた。

 那覇総領事や駐日大使から上がった地元報告を受け、国務省は、国防総省に計画変更を要求。国防総省はこれをのみ56年12月、海、空軍の両長官に対し、普天間の共用を指示した。
 普天間を共用する利点として(1)土地の追加取得や住民移転の回避(2)建設経費の軽減と工期の短縮−などを挙げ「平時は海軍が優先利用し、有事は空軍が優先利用する」と条件を記した。
 さらに米国民政府は57年9月、普天間配備への住民反発をかわすため、先に与那原飛行場返還に着手するよう海軍に要求。メディアを利用して返還を強調するよう勧告した。


米国政策決定に地元反発が影響/林教授

 文書を発見した林教授は「米軍が絶対的権力を持っていた1950年代でさえ、沖縄の反対運動は米国の政策決定に大きな影響を与えていた。今の辺野古計画に対する世論にも神経質になっているはずだ」と、地元の反発が米政府に与える影響力を強調している。


■解説
  米政府は1950年代の米海兵隊沖縄移駐をめぐり、住民反発を最も恐れ、航空部隊の配備先を二転三転させていた。反米感情が高まれば米軍が安定駐留できなくなるため、最終的に「既に接収していて住民を移転させる必要がない」として、消去法で普天間飛行場に決めた。そこに軍事戦略的理由はなく、あったのは県民世論を注視する政治的意図だった。

 そもそも本土にいた海兵隊が沖縄に移駐したのも、50年代に本土で反基地運動が激化し、出て行かざるを得なくなったからだ。本土で抵抗に遭い居場所を失ったため、当時米国が施政権を握っていた沖縄に押し寄せてきた。だがその沖縄も、米軍の銃剣とブルドーザーによる強制土地接収が行われ、住民と米軍が激しく衝突していた時期だった。那覇駐在のスティーブス米総領事が、アリソン駐日米大使に沖縄移駐反対の書簡を送っていたことは広く知られている。

 結局、スティーブスらの工作は実らず、海兵隊は沖縄に移駐した。だが海兵航空部隊についてはスティーブスら国務省やUSCARの反対が軍を動かしていた。「新たな土地接収は無理。住民反発が強すぎる」との現地報告が、使い勝手の良い土地を求める軍に計画変更を余儀なくさせた。それが今回の公文書で明らかになった。普天間飛行場へのヘリ部隊配備の経緯を公文書が語ったことで、普天間にヘリがいる軍事的理由がないことが裏付けられた。

 その普天間の移設先に今、辺野古が挙がっている。日米両政府は「地政学的重要性」を理由にするが、もともと戦略もなく沖縄にやってきて、行き場が見つからず、たらい回しにされた航空部隊だ。政府の説明に無理があることと、住民の抵抗の強さは今に連なる。辺野古移設計画が政治的に限りなく実現不可能であることは、歴史が証明している。

 (与那嶺路代ワシントン特派員)

■我部政明 琉大教授の識者談話(略)  *ご本人の了承をとっていないので、ここでは省略させていただきます。