共同通信配信記事 2008127 地方紙各紙朝刊掲載

 ハンセン病の39人砲撃 患者虐殺の実態判明  戦時中、ナウルで旧海軍

 太平洋戦争中に日本が占領した南太平洋の環礁ナウルで一九四三年七月、旧日本海軍の警備隊が現地のハンセン病患者三十九人をボートで海上に連れ出し、砲撃や銃撃を加え虐殺していた事件の詳細な実態が六日、オーストラリア国立公文書館に所蔵されているBC級戦犯法廷の裁判記録などから明らかになった。

 ナウルでハンセン病患者が旧軍に殺害された事実は、地元住民や戦後ナウルを統治した関係者の証言で断片的に指摘されていたが、それを具体的に裏付ける公文書の発見は初めてとみられる。虐殺に関与し終身刑を言い渡された元海軍兵の法廷証言録も含まれており、患者への偏見と民間人の殺害という二重の加害を浮き彫りにしている。
 関東学院大の林博史(はやし・ひろふみ)教授(現代史)が同公文書館やオーストラリア戦争記念館で先月発見した。

 判決言い渡しのために四八年十一月二十九日から十二月三日に香港で開かれた裁判の判決記録や被告の証言録によると、ナウルに駐屯した海軍第六七警備隊の副長=別件で死刑=は四三年七月九日ごろ、米軍の空襲で隔離中の患者が逃亡するのを恐れ、部下の兵曹長に殺害を命令。兵曹長は別の島に新設された収容所に移送すると偽り患者三十九人をボートに乗せ、海軍船でえい航し殺害することを計画した。

 計画に基づき、兵士四人と軍属の船員八人が乗り組んだ海軍船が患者のボートを海上に誘導。砲撃でボートを沈没させ、水死を逃れた患者は射殺した。
 事件に関与した兵士や軍属の大半が戦死する中、生き延びた兵曹長と砲撃を行った二曹、見張り役の一等水兵が訴追され、兵曹長と二曹は終身刑を言い渡された。
 犠牲となった患者は十一―六十九歳で、男性二十四人、女性十五人。戦前ナウルを委任統治したオーストラリアが地元住民の証言を基に捜査したが、旧軍上層部がどこまで把握していたかは解明できなかった。

 

加害の根底に偏見   戦争犯罪の内実伝える

 オーストラリア国立公文書館などが所蔵するBC級戦犯法廷の裁判記録から詳細が判明したナウルでの旧日本軍によるハンセン病患者虐殺は、隔離した患者が逃げ出せば日本兵に感染しかねないとの杞憂(きゆう)が背景にあった。その根底には患者への著しい偏見があり、社会的弱者に対する戦争加害の深層に潜む意識は、一九〇七年から約九十年間続いた患者隔離政策にも通じるものがある。
 また旧軍の占領下にあった社会的弱者が、戦況悪化に伴って一層弱い立場に追いやられ、より残忍な被害を受けたという実態は、旧軍による戦争犯罪の知られざる内実を伝えている。

 今回見つかった史料は、訴追された被告が殺害状況を図示したメモが含まれるなど、虐殺の現場を生々しく再現しているのが特徴的だ。現地駐在の日本人会社員が「極悪」行為を告発する日本語の「宣誓書」も見つかっており、弱い立場にある患者への非人道的な行為に対し、日本人社会にも反発と嫌悪が広がっていたことをうかがわせる。

 「傷者ヲ抱キ一同起立歌ヲ唱フ。恐ラク神ニ祈リノ歌ナラン」。宣誓書は虐殺に関与した軍関係者から聞いた話を基に、ボートに砲弾が命中した際の患者の様子をこう描写している。
 ほかにも、全容解明につながりそうな多数の文書が発見されており、人権侵害と戦争犯罪が交差した残虐事件の真相究明が進みそうだ。

 

前ハンセン病市民学会事務局長の藤野豊(ふじの・ゆたか)・富山国際大准教授(日本近現代史)の話

ナウルのハンセン病患者虐殺は地元住民の証言を基に疑いないとされていたが、具体的なことはまったく分からなかった。今回見つかった史料では、関与した兵士、目撃者が詳細に証言しており、大変貴重だ。(太平洋地域の)パラオでも患者の殺害が確認されている。ナウルの虐殺が偶発的だったとは思えない。占領政策の一環として、ハンセン病が日本兵にうつるのを防ぐため、ほかの地域でも同様の事件があったのではないかと疑われる。

オーストラリアで公文書を発見した林博史(はやし・ひろふみ)・関東学院大教授(現代史)の話

太平洋戦争中、多くのハンセン病患者が餓死したことは知られていたが、日本軍が殺害行為にまで及んでいたことを示す史料が見つかったのは初めてだろう。関係者の証言は詳細で非常にリアルだ。虐殺の事実は動かしようがなく、患者への偏見のひどさがうかがえる。戦時中の太平洋地域での出来事や海軍の行為はあまり知られておらず、今後も真相を明らかにしていく必要がある。

 

 公文書の要旨

 ナウルでハンセン病患者が虐殺された事件に関するオーストラリアの公文書の要旨は次の通り。

 ▽戦犯法廷記録

 一、戦犯法廷は一九四八年十二月三日、旧日本海軍の兵曹長(事件当時)と二曹(同)に終身刑を言い渡した。

 一、海軍第六七警備隊の副長は四三年七月九日ごろ、兵曹長に対し、ナウルのハンセン病患者の殺害、処分を命じた。

 一、兵曹長は、患者をボートに乗せ神州丸(海軍船)でえい航する段取りを整えた。海上でロープを切り、二曹がボートを砲撃。二曹と他の兵士は、沈みかけていたボートでまだ生存していた患者を射殺した。一等水兵(事件当時)は見張り役だった。

 ▽兵曹長の法廷証言(四八年十一月二十九日)

 一、副長は、連合軍による空襲が激しくなっており、収容所に爆弾が落ちれば患者が逃げ出し、島民が感染するかもしれないと言った。潜伏期間は十年以上、次世代に遺伝する病気だと語った。

 一、副長から、患者を乗せたボートを砲弾で沈め、小銃で生存者を撃つよう命じられた。人道にもとると思ったが、命令に従うしかなかった。

 ▽二曹の法廷証言(同十一月三十日)

 一、患者を移送中に殺害するよう命じられた。神州丸の船長は絶対秘密だと言った。

 一、四三年七月十一日だったと思うが、午前七時に患者の収容所に行った。そしてボートに患者を乗せ、正午ごろナウルが見えなくなったところで、船長が砲撃準備を命じ、えい航するロープが切られた。

 一、船長は「標的患者船、射撃用意」と号令をかけた。私が五発続けて撃つと、四発命中した。黒い煙が上がり、ボートが沈んでいく中、患者を小銃で撃った。

 一、船長は処分が終了したのを確認すると、黙とうをささげるよう命じた。私は心の底から患者の冥福を祈った。事件後もふびんに感じ、神仏に許しを請うた。