沖縄戦における警察官の秘密戦活動に関する日記の新聞報道
          ―沖縄タイムス+朝日新聞+琉球新報

 

沖縄タイムス  2008年6月11日(水) 夕刊  

警官が偵察活動従事/沖縄戦下の本島北部


 沖縄戦で日本軍がゲリラ戦を展開した本島北部で、軍に協力した警察官たちの行動を記した日誌の英訳資料を、関東学院大学の林博史教授が米国立公文書館で見つけた。警察官が偵察活動や米軍への破壊活動に従事したほか、住民への宣伝活動を行ったことも記されており、警察官が軍と住民の間を行き来して秘密戦を支えていた構図が浮かび上がった。
 日誌は、一九四五年七月三日に米軍が廃屋で発見。記述者は名護署の警部補とされ、米軍上陸後の四月二十三日から六月三十日までの署員の行動が記録されていた。

 日誌によると、名護署員らは米軍上陸後、日本軍のゲリラ戦部隊である護郷隊が陣を敷いた多野岳の南西に野営。各地の偵察を盛んに行い、四月二十六日には「源河で通信線を切断」と米軍への破壊工作も行った。

 軍への協力についての記述も多く、五月一日には日本兵七人に食料を提供し、六月十二日には日本軍少尉と、十七日には大尉と接触。同月二十一日には「署員を道案内のため多野岳へ」と記されていた。

 同時に、住民の避難壕がある地域にも署員が頻繁に行き来し、住民の動静やうわさ話などを収集していた。六月二十四日には「住民たちに米軍へ収容されないよう指示するため」として署員二人が派遣されたとある。

 林教授は、住民に対する米軍の尋問記録も同館で入手。これによると、住民の一人は「警察官が時々、軍の情報を基にした新聞を住民に配っていた」と証言しており、住民への宣伝を警察が担っていたことを裏付けているという。

 戦時中の警察に関する資料としては、県警察部の「戦闘活動要綱」が〇五年に見つかっている。それには警察の方針として「遊撃戦(ゲリラ戦)への協力」が掲げられ、「遊撃隊とひそかに連絡すべし」「民間人に敵の宣伝に打ち勝つ努力をさせる」などが示されていたが、活動の実態はわかっていなかった。

 林教授は「現場の警察官たちは要綱を忠実に実行し、軍の手が回らない部分を埋め合わせていたことがうかがえる。秘密戦の一端を具体的に記録した貴重な資料であると同時に、根こそぎ動員で秘密戦を継続しようとした日本軍の実態をよく表している」と話している。

朝日新聞   2008年6月24日 

沖縄戦、警察も米軍破壊工作や投降阻止 米軍文書で判明

 太平洋戦争末期の沖縄戦で、警察官が日本軍の士官らと連絡を取りながら、沖縄本島北部で米軍に対する破壊工作をしたり、住民の米軍への投降を抑えようとしたりしていたことが、当時の米軍の秘文書からわかった。北部地域では日本軍がゲリラ戦を展開しており、警察が軍と一体になってこの作戦に加わっていたことを裏付けるものと研究者はみている。 

 文書は、沖縄を攻略した米軍第27歩兵師団司令部の45年7月7日付報告書。本島北部の廃屋で同3日に没収した名護警察署の警部補の日誌の記述を抜粋、英訳したとされ、米軍上陸後の4月23日から6月30日まで、名護市東部の山中での署員の行動が書かれている。関東学院大の林博史教授(現代史)が米国立公文書館で入手した。没収した日誌の原本は見つかっていない。 

 文書によると、警部補らは、ゲリラ戦部隊「護郷隊」が陣取った名護市多野岳の南西に野営。「夜間、敵の状況を偵察するため2隊にわかれる」(4月23日付)、「分隊長○○(実名)……通信線を切断」(同26日付)など、偵察活動や破壊工作を行った。 

 住民らの避難壕(ごう)がある地区にも頻繁に出入りし、日本軍の組織的戦闘が終結した後の6月24日には、米軍の収容所に入れられないように住民に指示するため、2人が派遣されたほか、「毎日、多くの住民が米軍に収容されている」(6月25日付)といった情報を集めていた。 

 日本軍への協力の記述も多い。5月1日には日本兵7人に食料を配給し、6月12日には少尉、同17日には大尉と接触していた。 

 沖縄戦で、日本軍は本島中南部の戦線に主力部隊を置き、北部にはゲリラ戦を任務とした部隊を配置。米軍が北部西岸から上陸し、南部へ勢力範囲を広げてからも山間部などで抵抗を続けた。この地域での警察の活動については、住民を利用した敵陣営の攪乱(かくらん)など、警察官の任務を記した「戦闘活動要綱」が05年に米英軍の没収文書のなかから見つかったが、活動の実態はわかっていなかった。 

 林教授は「文書は住民の命を軽視し、住民から警察官まで根こそぎ動員してゲリラ戦を続けようとした日本軍の方針が実際に実行に移されていたことを裏付ける史料だ」と話している。

 

琉球新報  2008年6月28日(土)

警察、日本軍と一体行動 警部補日記基に米軍が資料作成

 沖縄戦中、警察が本島北部で日本軍とたびたび連絡を取り、米軍への破壊工作や偵察、住民たちへの宣伝活動などを行い、遊撃戦や秘密戦に協力していたことが、当時の米軍が作成した文書から分かった。資料を入手した関東学院大学の林博史教授は「軍と警察が一体となっていたことを裏付ける重要な資料」と話している。

 文書は沖縄を攻略した米第27歩兵師団司令部の第165歩兵連隊第三大隊が1945年7月3日、名護警察署の警部補の日記を見つけ、7日付で作成した報告書。4月23日から6月30日までの日記の記述が英訳されている。「日記は、警察官と日本軍との間の非常に緊密な関係を示している」との説明も付いている。

 報告書によると、警部補が多野岳の南西で野営した際の「敵の状況を偵察するために二隊に分かれる」(4月23日)や「通信線を切断」(4月26日)など、日本軍がゲリラ活動を行っていた北部地域で偵察や破壊工作をしていたことが記述されている。また住民に対し、米軍に収容されないよう伝えたことも書かれている。日本軍への食料配給、少尉や大尉と接触した記述もある。

 林教授は「秘密戦についての資料はよく知られているが、沖縄戦が始まってからの活動はよく分かっていない。この日記は警察が軍と協力して、米軍の破壊工作、偵察、軍との連絡、住民監視、住民への宣伝活動、投降の阻止など秘密戦の活動を少なくとも6月末まで継続していたことが分かる。他の地域でも警察が軍にかなり協力していたことも予測できる」と話した。