沖縄タイムス  2003年5月12日 <朝刊 1.18.19面>

旧日本軍の作戦資料入手/関東学院大・林博史教授/民間人装い奇襲/案内に沖縄住民

 沖縄戦で旧日本軍が民間人を装って米軍に奇襲攻撃をかけるよう指示した作戦要領を英訳した資料が、十一日までに明らかになった。関東学院大の林博史教授(日本の戦争責任資料センター研究事務局長)が昨年夏から今年春にかけて米国立公文書館から入手した。米軍はその作戦要領を没収、翻訳して兵士たちに配布していた。そのことから、林教授は「米軍が近づいてくる住民を斬(き)り込み隊と疑い、民間人の犠牲を増大させる要因になったのではないか。軍隊が住民を保護する発想がないことを具体的に表す一つの例だ」と指摘している。

 旧日本軍の第六二師団が作成したとみられる「西原地区における戦闘実施要領」は、一九四五年四月十七日に米陸軍第九六歩兵師団が没収し、同月二十二日に翻訳・配布されている。

 同要領で旧日本軍は、「斬り込み隊」など奇襲攻撃の準備として(1)服装、話し方において現地住民のように見せかけること(2)方言を話す若い兵を各隊に一人割り当てよ(3)攻撃の案内として現地住民を連れていけ―などと指示している。

 艦隊付米海兵隊の久米島上陸部隊の情報報告では、米軍が拉致した十六歳の少年「アラグスク・マゴゾリ」、別の場所で捕まえた民間人の証言を記載。同証言で、旧日本軍の守備隊が機関銃一丁と小銃のみで武装した小規模の通信隊であるとの情報から、米軍は久米島を砲撃せず、当初より小規模の戦闘員七百四十二人で上陸した経緯がつづられている。

 久米島では米軍上陸後、拉致された後に帰島した住民や家族、関係者ら二十人前後がスパイ容疑などで旧日本軍によって虐殺されたが、米軍の資料で住民の証言内容が明らかになるのは初めて。

 林教授は「二人の証言が米軍の久米島への攻撃をやわらげ、多くの住民の命を救うことにつながったのではないか」とみている。

 四五年五月十五日付の米軍司令部軍医部の医学会報では、愛楽園以外の沖縄本島と周辺離島にいる約二百人のハンセン病患者について「逮捕し、できるだけ速やかにハンセン病施設に送ることを勧告する」とあり、米軍が兵士への感染を恐れて隔離を進めたことがうかがえる。

 旧日本軍第三二軍(沖縄守備軍)参謀部作成の「徴用労務者の配属」(四五年二月現在)では、沖縄本島の島尻、中頭、国頭各軍で約四万人を徴用。それぞれ飛行場建設や材木徴発隊などに配置された実数が記されている。


少年の証言が島救ったかもしれない/久米島虐殺新資料/消えぬ傷、口閉ざす遺族/絡み合う被害と加害

 一九四五年六月、久米島の具志川村(当時)北原で米軍に拉致された住民が、帰島後、旧日本軍にスパイ容疑をかけられ、家族や関係者が殺害された住民虐殺事件。新たに発見された米軍資料は殺された十六歳の少年の証言や、米軍による住民連行の状況が記されている。久米島町教育委員会は「米軍を案内して艦砲から久米島を救った仲村渠明勇さんは知られているが、少年の証言も大規模な攻撃を免れる有力な情報になったのではないか」と驚きを隠せない。一方、事件の遺族や当時を知る住民は「もう思い出したくない」と口を閉ざす。事件から五十八年。「友軍」による住民虐殺の記憶は島に深い傷跡を残したままだ。

 艦隊付海兵隊による「久米島攻略並びに占領 アクション・リポート」(四五年八月十五日付)によると、米軍の水陸両用偵察大隊は四五年六月十三日深夜、駆逐艦で久米島北海岸に接近。三手に分かれた偵察隊が北原の集落で「沖縄語を話し、日本語をはなせない」男性と、十六歳の少年「アラグスク・マゴゾリ」を捕らえ、駆逐艦に連行した。

 少年について既存文献は、北原で牧場を経営していた「宮城栄明さんの妻の弟」とあるだけで、初めて名前が明らかになった。拉致されたもう一人は既存文献と照合すると同村北原の比嘉亀さんと思われる。

 資料で米軍は、少年と別の場所で捕らえた民間人から、同島の旧日本軍について「准士官以下二十二人の海軍兵 通信所」「小銃と機関銃一丁」との証言を得た。結果として、当初計画を大幅に下回る戦闘員七百四十二人、非戦闘員二百二十四人の計九百六十六人で上陸した、と記述している。

 十五歳で、旧日本軍が駐屯していた大岳のキャンプと学校間を伝令として往復した体験を持つ久米島町の男性(73)は、当時の島の状況を「前門のトラ後門のオオカミ」にたとえる。海岸には米軍、後方の山には鹿山正兵曹長が指揮する旧海軍通信隊が布陣。鹿山隊長は各区ごとに食料を供出させ、ごう掘りもさせた。島民はいや応なく、戦争に駆り出されていた。

 拉致された二人は六月二十六日の米軍上陸に伴い送還された。しかし、米軍の通報者とみなされ、鹿山隊長の命令で家族、北原区長、警防団長らが小屋に集められ殺害後、火を放たれた。

 数少ない同事件の遺族は「事件で戦後も大変な思いをしてきた。思い起こしたくない傷はもうたどりたくない」と固く口を閉ざした。

 事件を調査している久米島町議の上江洲盛元さんは、見つかった資料を「拉致の経過と少年の名前がわかったことは新発見だ」と話す。一方で、「加害と被害が複雑に絡み合っているのが、久米島事件を語る難しさだ」と指摘した。      


民間人、英語で抗議・部隊は撤退/愛楽園砲撃の詳細判明/米軍刊行戦史

 「われわれが上陸すると、白旗をふる武器を持たない民間人のグループがいて、その中の英語を話せる人物が、あなたがたは害のない無防備のハンセン病院をめちゃくちゃに破壊していると知らせた。われわれはそのことを中隊本部に報告し、撤退の命令を受けた」。一九四五年四月二十一日、本島北部の屋我地島。今回明らかになった第一装甲水陸両用大隊の公刊戦史(一九九六年)は、ハンセン病療養施設を砲撃、上陸したときの状況をこう記す。

 さらに、大隊長の記述として「戦利品も日本軍も見つけることができなかった。本部半島に戻ると、ハンセン病施設は気に入ったかと聞かれた」とつづられていた。

 愛楽園の歴史を調べている沖縄平和ネットワークの吉川由紀さん(32)によると、米軍が愛楽園に入った日は四月二十一日、二十二日、二十三日と資料によって記述が異なっていた。今回の発見で、二十一日だったことがほぼ確定される。

 また、吉川さんは米軍が愛楽園の内情を知ったのは、米陸軍の写真が撮影された四五年七月と受け取っていた。だが、今回確認された「ワトキンス文書第四一巻」には、第六海兵師団軍医部の少佐や憲兵らが四月二十七日に愛楽園を訪問したことが書かれていた。

 同文書には勧告として、沖縄のハンセン病患者はすべて愛楽園に収容して隔離し治療を受けさせることや、海兵隊は療養所に必要なだけの十分な医薬品と食料を供給することなども掲げられている。吉川さんは、愛楽園では主に米軍上陸後の四、五、六月に死亡者数が多くなっていることを挙げ「実際は患者は救われておらず、勧告がすぐに実行されたかどうかわからない」と指摘した

 一方、今回明らかになった文書類には、愛楽園の様子や当時の入所者の個人データ(十七人分)も含まれていた。沖縄愛楽園自治会の迎里竹志副会長(70)は「米軍が当時の資料を持っているとは。データに見覚えがある名前があり、生存している方もいる」と驚いた。