朝日新聞 2002年811日夕刊 

実験目的に沖縄の離島を新兵器で爆撃 大戦末期の米海軍

 

太平洋戦争末期の45年6月に、開発中の爆弾の効果を試すため、米軍機が沖縄の離島の南大東島と沖大東島を爆撃していたことが、当時の米海軍の秘密文書から明らかになった。島では学校が損壊するなどして死者も出た。沖縄戦はまだ続いていたが、二つの島は本島から300キロ以上離れている。戦況に及ぼす影響のほとんどない島が、米軍の兵器開発の実験台になっていた事実が浮かび上がった。

 爆撃の記録があったのは、沖縄攻略に参加した米第3艦隊やその機動部隊の戦闘報告書など。研究者らでつくる「日本の戦争責任資料センター」(東京)が昨年から今年にかけて米国立公文書館で見つけた。

 45年7月14日付の報告書によると、6月9日に沖大東島を、10日に南大東島を爆撃した。

 「VT(近接)信管付き爆弾で高射砲陣地を爆撃するという目的と、様々な種類の目標物に投下方法を変えてナパーム弾を落としてみるという目的があり、その結果、規模が拡大した」と記載し、「両日の作戦は訓練・実験として非常に有益だった。敵施設の破壊という大きな副産物もあった」と評価している。

 4隻の空母の艦載機が2日間で97.55トンの爆弾と46発のナパーム弾を投下。第3艦隊の日誌には「操縦士の報告では、結果は良好で目標物はいずれも破壊した」と書かれていた。

 大戦末期、両島には日本軍の守備隊が駐留。南大東島には住民約1500人が居住し、沖大東島にも観測所員が残っていた。日本側の記録によると、沖大東島では9日の攻撃で1人が死亡。10日の南大東島への砲爆撃では飛行場や学校などが被害を受け、少なくとも3人が犠牲になった。

 VT信管は、目標に電波を当てて近づいたことを感知すると起爆する当時の新型装置で、航空機撃墜などのために米国が巨費を投じて開発していた。ナパーム弾はゼリー状の燃料を散らせて広範囲を焼き尽くす兵器で、その後の戦争でも数多く使用された。

 前年10月の米軍の文書には「ナパーム弾の使用はまだわずかだ。一部の操縦士は、着陸する時に危険があるとの不信から使いたがらない」と書かれている。衝撃による爆発を懸念していたようで、その後、実験を繰り返していたと見られる。

 文書収集に当たった資料センター研究事務局長の林博史・関東学院大教授(現代史)は「両島への爆撃は作戦遂行のためではない。手ごろな実験場所として使われたのは明らかだ。空爆を重視し、その効果を少しでも上げようとする現在の米軍の体質にも通じる行動ではないか」と話している。