林博史『裁かれた戦争犯罪―イギリスの対日戦犯裁判』1998年(岩波人文書セレクション、2014年)

「岩波人文書セレクション版に寄せて」 

                                                    *末尾に正誤訂正があります。

本書で扱っているBC級戦犯裁判についての日本人の認識は今日においても独特の歪みと屈折したものを持っているように見えます。だいたいにおいて日本では、BC級戦犯裁判は一方的で不公正なものという否定的な見方が多いでしょう。連合国だって悪いことをやっただろうに、なぜ日本だけが責められるのかという不満をぶつける対象にされているようです。日本の加害の事実を帳消しにするための材料に利用しているだけという、きわめて後ろ向きの傾向があります。

本書が出るまでのBC級裁判に関する本は、圧倒的に日本側の言い分だけを鵜呑みにして不公正さを非難するものばかりでした(今でもそうですが)。いくつか特定の事件についての米国の裁判記録を使うものは出ていましたが、連合国のBC級裁判とは全体としてどういうものだったのかについて資料に基づいて論じたものはほとんどありませんでしたし、あったとしても日本側の文献だけで議論していました。本書の後に出た本でも、連合国側の資料を読んでいれば、とてもこんなことは言えないだろうということを根拠なしに推測で連合国側を非難するようなものが後を絶ちません。

戦犯裁判は刑事裁判であるので、裁いた側(裁判官や検察、捜査官など)、裁かれた側(被告)、さらに被害者側の三つの立場があります。たとえばシンガポールで日本軍に虐殺された中国系住民についての裁判では、それぞれイギリス、日本、シンガポールの中国系、となります。当然、三者の言い分を把握したうえで裁判の評価をしなければなりません。ところが日本では裁かれた側の言い分だけで議論しており、普通に考えれば、そのようなものは通用しないでしょう。

私はちょうど一九九五年夏から一年間、イギリスに留学する機会があり、それを機会に政策形成・決定過程、捜査記録、裁判記録、裁判終了後の減刑釈放などの処理、というイギリスによる対日戦犯裁判の全プロセスに関する資料を徹底的に読むことにしました。もちろん、日本側の資料も読んでいましたし、被害者側の言い分も調べて、三者の対応を相対化しながら資料を読み込んでいきました。資料を読みながら、次々にこれまで持っていた先入観が崩れてくるという状態が続き、日本での議論が、その通りと言える側面もありますが、全体としてはいかに歪んでいるのかがよくわかりました。

そのうえでデータベースを作成して分析を進め、イギリスによる対日裁判の全体像を描こうとしたのが本書です。一国だけですがBC級戦犯裁判研究の新しい地平と方法を開拓した著作として、少なくとも研究者の間では受け入れられたのではないかと考えています。また元戦犯、あるいは元戦犯の家族の方からいろいろ問い合わせがあり、自分の父がいったい何をしたのか、事実を知りたいという冷静な方々が何人もおられました。関係者の方々には私が集めた資料は喜んで提供しています。

本書の刊行後、BC級裁判について連合国側の資料もあわせて活用した実証的な研究が進み始めたと思います。最もまとまった成果はフィリピン裁判を扱った永井均氏の二冊の著作(『フィリピンと対日戦犯裁判』岩波書店、『フィリピンBC級戦犯裁判』講談社)でしょう。また中国国民政府の裁判については、伊香俊哉氏(『戦争はどう記憶されるのか』柏書房)や和田英穂氏、宋志勇氏らの研究論文がでました。また内海愛子氏は私がこの問題に取り組み始める前から地道に研究を進められ、朝鮮人BC級戦犯問題や戦犯釈放問題、巣鴨刑務所に入っていた戦犯の平和運動など多くの研究成果(『キムはなぜ裁かれたのか―朝鮮人BC級戦犯の軌跡』朝日新聞出版、など多数)を発表しています。

東京裁判を考えるにあたってもBC級戦争犯罪の問題が重要であるという認識が生まれ、東京裁判とBC級戦争犯罪・戦犯裁判との関連を意識した研究が進んでいることも指摘できるでしょう。私自身、連合国戦争犯罪委員会の資料やアメリカの関連資料を合わせて全二三巻の史料集として刊行し、そもそもなぜ東京裁判・ニュルンベルグ裁判(いわゆるA級裁判)とBC級裁判という形になったのかを解明する研究を発表しています。

そうした研究と資料調査の進展のなかで、私自身、二〇〇五年に『BC級戦犯裁判』(岩波新書)と二〇一〇年に『戦犯裁判の研究―戦犯裁判政策の形成から東京裁判・BC級裁判まで』(勉誠出版)を出すことができました。前者はBC級戦犯裁判の全体像を描こうとしたもので、連合国側の資料も使って全体像を描いたものは同書が最初であり、ほかには出ていないと言ってよいと思います。もちろんまだ利用できていない資料も膨大にあり、端緒的な試みにすぎませんが。後者ではA級裁判とBC級裁判を関連づけて総合的に分析すると同時に、オーストラリア裁判やアメリカ海軍裁判なども全体的な分析をおこなっています。二〇〇七年に出した『シンガポール華僑粛清―日本軍はシンガポールで何をしたのか』(高文研)はイギリスの裁判資料を利用しながらまとめたケーススタディと言えるでしょう。 

また近年、日本軍「慰安婦」関係の資料がBC級戦犯裁判やその捜査記録の中に多数含まれていることから、そうした視点での裁判記録の活用が進んでいます。

以上が日本の状況ですが、注目されるのはドイツにおいて連合国による対独BC級裁判の研究が進んでいることです。しかも日本の状況とは違って、裁判の積極的な側面に注目する研究です。東西統一後のドイツは、世界平和に貢献するうえで、二〇〇三年に発足した、国際刑事裁判所(ICC)に積極的に関わっています。そうした取組みとの関連でニュルンベルグ裁判のみならずBC級裁判にも関心が向けられるようになり、そこでは多くの問題点はありながらも国際人道法(戦時国際法)の発展過程の重要な取組みとして第二次大戦後の一連の戦犯裁判を位置づけようとしています。日本の内向き・後ろ向きの退廃した姿勢ではなく、前向きの未来志向の観点であると言えるでしょう。

ドイツでの研究状況を知りたいと考え、二〇一四年一月に日本の研究者五人でドイツを訪問し、ドイツの研究者とワークショップを開催し、意見情報も交換してきました。ドイツの前向きの研究姿勢に日本からの参加者はみな感銘を受けていました。BC級裁判研究はこれまで日本の方が先行してきたと思いますが、日独国際比較研究も可能になりつつあります。ただドイツでの研究がほとんど日本語に翻訳されていないのが残念です。

第二次大戦後の戦犯裁判についてはこの間、世界各地で研究対象として注目を浴びてきています。アメリカのカリフォルニア大学バークレー校、ボストン・カレッジ、ドイツのマールブルク大学、イエナ大学、ハイデルベルグ大学などでこの問題の研究組織あるいは研究プロジェクトが進められていますし、中国の上海交通大学でも東京裁判研究センターができBC級も含めて実証的な研究が始まっています。二〇一三年一一月にこのセンターでシンポジウムがあり私も報告者として参加してきましたが、中国側が資料に基づいて実証的に取り組もうとしているのが印象的でした。こうした国際的な取組みの進展に比べて、日本の大学でBC級戦犯裁判についての研究組織や組織的な取組みは皆無と言っていいでしょう。日本では何人かの研究者が共同で日本学術振興会の科学研究費をとって戦犯裁判の共同研究を二〇〇七年度から継続しておこなってきていますが(ドイツでのワークショップもこの共同研究の一環です)、いずれも研究者個人の集まりであり、大学など機関のバックアップはありません。日本社会全体がこの間、内向き・後ろ向きになっており、日本の戦争犯罪を研究すること自体が忌避されるような社会の雰囲気の中で、ドイツのような前向きの戦犯裁判研究が、組織的に進展するような状況はしばらくありそうにありません。

さて、資料について近年、日本の法務省が持っていた関連資料が国立公文書館に移管されて閲覧できるようになってきています。日本の公文書館はプライバシーの保護などの理由でやたらと資料に墨塗りをして、誰の話かわからないようにしてしまう悪しき慣例があり、それが最近、どんどんひどくなってきているという問題がありますが、数千件の資料が利用可能になったことは大きな前進です(若干、面倒な手続きがありますが)。

イギリス、アメリカ、オーストラリアの裁判記録はそれぞれの国立公文書館などでほぼ全面的に公開され利用可能ですが、本国でもまだ十分に公開されていない、あるいは散逸してしまって所在がわからない裁判記録(特にオランダや中国、フランスなど)が多数含まれているのは貴重です。この資料群を活用すれば、BC級裁判について、これまでよくわからなかったことを含め、さらに高いレベルの研究成果を生み出せるのではないかと期待しています。

本書について言えば、こうした新しい資料を利用したとして、個々のケースの細部については訂正加筆すべきことが多々出てくると思われますが、本書で論じたイギリスの戦犯裁判政策とその実施過程の全体的な枠組みと基本線をひっくり返すような資料が出てくる可能性はないでしょう。

日本においても、連合国はけしからんという後ろ向きの議論の仕方はもうやめて、世界から戦争をなくし、あるいは戦争による惨禍を少しでも減らしていくために、戦争犯罪という考え方、戦犯裁判という方法を、どのように生かしていくのか、日本はそのためにどのような貢献ができるのか、という視点から、戦犯裁判研究が発展することを期待しています。本書はBC級戦犯裁判を研究するうえで、まず参照していただきたい成果であると確信するとともに、これを乗り越える研究が出てくることを期待しています。

                 二〇一四年九月五日   林博史


 『裁かれた戦争犯罪』正誤訂正リスト

9 6行目  土屋正三 → 土屋芳雄

56 後ろ6行目  有期形 → 有期刑

108 表                →下の表を参照

海軍

有罪

死刑

死刑確認

3 → 2

3 → 2

3 → 2

2 → 1

 

119 後ろ5行目  それを防ごうとする  → 戦争犯罪を防ごうとする

141 後ろ5行目  慣習  → 慣例

175  1行目   四ページ  → 四頁  

          以上