林博史『戦犯裁判の研究』勉誠出版、2010年

 

あとがき

  この間、欧米では東京裁判についてのシンポジウムがいくつも開かれています。欧米ではニュルンベルク裁判の研究が主なものでしたが、近年では東京裁判の研究も日本以上に盛んになっていると思えるほどです。また第二次大戦後のヨーロッパにおけるBC級戦犯裁判についての研究も進み始めています。一九九〇年代からの旧ユーゴスラビアをはじめとする各地での国際刑事裁判所の設置、二〇〇三年には常設の国際刑事裁判所の設置など、戦争犯罪裁判が現実に実施されていることが、戦犯裁判が注目される一つのきっかけになっているようです。その点では、日本での関心のもたれ方とはやや違っているように見えます。日本においても、現在の戦争・紛争をどのようにして解決して平和を建設するのか、という観点からもっと前向きな議論ができればと感じます。いずれにせよ対日裁判と対独裁判なども合わせて、第二次世界大戦後の戦犯裁判の全体像を見通すことができるような状況が生まれつつあるように思います。ただそのためにはドイツ語などヨーロッパでの研究を読む語学力が求められ、ますます一人では手に負えない状況になっていますが。

 本書は私にとって九冊目、そのうち戦犯裁判を扱ったものとしては『裁かれた戦争犯罪―イギリスの対日戦犯裁判』『BC級戦犯裁判』に続いて三冊目の著作です。しかし論文集を出すのは初めてのことです。対日裁判に限ったとしても戦犯裁判それ自体が膨大なもので、本書においても全体像を描ききるまでには至っていません。東京裁判には少ししか触れていませんし、BC級裁判についてもその一部しか扱っていませんが、先に出した二冊と合わせて、対日戦犯裁判全体を見通すうえでの一つの手がかりになるのではないかと思い、これまで書いてきたものを一つにまとめて、このような形で刊行することにしました。

 ここで最近、戦犯裁判の研究をめぐって感じていることを少し書きたいと思います。
 なによりも裁かれるべき非人道的行為が実際におこなわれたことというが戦犯裁判がおこなわれる大前提にあります。戦犯裁判の焦点は、その行為の事実と責任者を認定し、いかに裁くのかということであることは言うまでもありません。戦犯裁判自体が―特に東京裁判のような国際法廷では―国際政治の産物であることはその通りですし、私もそうした観点からの分析をおこなってきていますが、裁判が扱った非人道的行為の事実認識を抜きにして裁判を議論できないはずです。戦犯裁判の研究は、国際政治ならびに国際法の展開のなかで戦犯裁判をとらえるという視点とともに、裁判が扱った出来事そのものの実証的な分析が不可欠だと思います。両者を同時におこなわなければ戦犯裁判の理解はできない、少なくともきわめて一面的なものにしかならないと考えています。

 また、戦犯裁判に関わる記憶や言説の研究もおこなわれるようになってきています。そのことによって戦後から今日に至るまでの各国間、各国民間の認識の相違など重要な問題が明らかにされ、その意義は大きいと思います。ただたとえば、映画『私は貝になりたい』を例にあげると、あれが実際にあちこちで起きていた事実に基づく内容であったのか、あるいは本書でも指摘したように実際にはまったくなかった虚像に基づくものであったのか、それによってその記憶や言説のもつ歴史的な意味はまったく異なってくるはずです。あるいは、日本軍による残虐行為を現場で体験し、かろうじて生き延びた人の記憶・言説と、本や映画を通じて形成された、戦争体験がない戦後生まれの人の記憶・言説とを、同じ記憶・言説として紹介分析するような手法には違和感を覚えます。記憶・言説の対象となっている実態の研究を抜きにした記憶・言説の研究の危うさと軽さを感じています。最近よく見られる、ある種の「和解」の流行も同じような事実軽視の風潮に乗っかっているように思います。

 事実の検証をきちんとおこないながら、そのうえに戦犯裁判の研究あるいは記憶や言説の研究をしている方を見ると、考え方の違いがどうであれ、しっかりと地に足のついた、ぶれない姿勢に信頼感を感じます。事実を大切にする人は、事実の前に謙虚であるとともに、時流に流されず、大切なものはなにか、そこに徹底的にこだわっているように思います。私もそうした研究をおこないたいと考えています。

(中略)

 本書が戦犯裁判全体の研究にとって、さらには、国際平和の実現にむけての人々の努力に―間接的ではありますが―なんらかの貢献ができれば幸いです。

 2009年10月1日

林 博史