林博史・中村桃子・細谷実 編著

『連続講義 暴力とジェンダー』白澤社、2009

 


 2009年6月に刊行した本の「はじめに」に書いた文を掲載します。5人の講義の内容を収録したもので、ぜひお読みいただければ幸いです。発行は白澤社、発売は現代書館、定価は2200円+税 です。 2009.7.26記


はじめに

  本書は、女と男の関係について、特に暴力の問題についてさまざまな視点、分野から論じた、五回の連続講義をまとめたものです。取り上げたテーマは、直接の物理的暴力や視覚メディアによる性表現という暴力、戦争・植民地支配と言葉のかかわり、人身取引という国際的な構造的暴力、戦時あるいは軍隊と性暴力・性売買、とさまざまです。日常生活から戦時における問題まで、しかもそれらが複雑に交錯し関連性をもって展開しています。連続講義を担当した五人の専門分野も哲学、社会学、言語学、政治学・平和学、あるいは弁護士、といろいろです。それぞれが異なった問題意識を持ち、異なった対象を扱い、特に見解をあらかじめ一致させるようなことはしていませんが、男女間の暴力の問題について、日常から戦時まで、家庭内のあり方から国際関係まで、切り離さないで関連したものとして把握しようとする共同の試みであると言ってよいと思います。

本書は、関東学院大学生涯学習センターの公開講座「平和について語る 4 女と男の平和学―男女共生の社会をめざして」(二〇〇八年一一月〜一二月)でおこなった五回の連続講義を基にして編纂したものです。
  
ここでは、この連続講義をコーディネートした者として、本書の趣旨について少し説明させていただきます。私(林)は、この連続講義の開催にあたって、その趣旨として次のような短い紹介を書きました。

最近、米軍兵士による犯罪が問題になっていますが、米軍の女性兵士への性犯罪や兵士の家庭における家庭内暴力も深刻です。日常生活のなかの男女のあり方と軍隊・戦争における性暴力がつながっているのではないでしょうか。この講座では、日常生活と戦時における女と男の関係についてさまざまな角度から考えてみたいと思います。」

  私の研究テーマの一つは、日本軍「慰安婦」や米軍の性暴力・性売買を含めた軍隊・戦争と性暴力の問題です。前者の日本軍との関連で言えば、レイプをする兵士がいれば、レイプをしない兵士もいます。あるいは慰安所に行く兵士と行かない兵士がいます。慰安所に行ったとしても、ただ遊びにいったとしか感じられない兵士と、慰安婦にされた女性の境遇に思いをはせ、その悲惨さを書き残す兵士がいます。そうした違いはどこから生まれるのだろうか、戦争にレイプはつきものだという言い方がありますが、それはいくつかの条件付きのものであって、その一つの条件は、その兵士が日ごろからどのような人間であるのか(女性に対する意識、振る舞いを含めて)ということではないだろうか、と感じています。

沖縄戦も私の研究テーマの一つですが、米軍に追い込まれて食糧が乏しくなる中で、子どもから食糧を奪う兵士がいれば、わずかなおにぎりを朝鮮人軍夫と分かち合う兵士もいました。戦争だから……、という言い訳では、とても理解できないことが、たくさんありました。戦後、日本人は、戦争だから……、戦争とは人を狂わせるものだというような言い訳で、日本軍が犯した戦争犯罪・残虐行為のことから目を背けてきたのではないかと感じています。戦争だから……、と言っていれば、日常の自分たちとは関係ないと思っていられるからでしょう。しかし、そのことによって、軍隊を生み出し、侵略戦争を支えた、日本の社会のあり方、人々のあり方を見つめ、反省し、変えることを怠ってきたのではないでしょうか。言い換えると、戦争責任問題にきちんと取り組んでこなかったことは、被害者への償いを果たしていないということにとどまらず、今日の日本社会・日本人のあり方、特にその問題点とつながっているのではないかということなのです。

日本軍「慰安婦」制度の一つの特徴は、人身売買を広範に、かつ組織的に国家が利用したことです。ところが暴力的に連行したことだけが問題であるかのように限定し、強制的に連れて行ったことはないから「慰安婦」は悪いことではなかったなどと強弁している人たちがいます。その人たちは、人身売買を問題として認識できない人々です。二〇〇七年六月に「ワシントン・ポスト」に日本軍「慰安婦」制度を正当化しようとする意見広告を出した人々の認識がそうでした。この意見広告を出した人々は、人身売買など、一体どこが悪いのか、と思っている人々だというのがよくわかる内容でした。

現在の日本は、人身売買(最近は、人身取引という少し広い概念を使うようですが)によって多くの女性が連れてこられ、性売買を強いられており、不十分な対応が国際的にも批判されていますが、意見広告を出したような人たちが日本の権力を握っているのだと考えれば、いまの状況がよくわかります。この人身売買(人身取引)の問題は、戦時性暴力と平時の性暴力とに共通する問題です。第四章の三木恵美子さんは、神奈川の地で、弁護士としてNGOの代表として、人身取引された女性たちの救援のために長年尽力されてきた方であり、今日の実態について話していただきました。第四章と第五章は一連の問題です。

米軍の場合も、世界各地に駐留する米軍将兵による地元女性への性暴力が問題になっていますが、同時に、かれらが帰国してからの家族へのドメスティック・バイオレンスも深刻です。アメリカのある調査では、米軍将兵の家族が毎週一人ずつ、将兵の手によって殺されているという数字があります。ここでは戦争と日常とがストレートに結びついています。米軍兵士としてリクルートされる青年たちは貧しい家庭・地域で生まれ育ち、そこでは暴力が日常的な環境です。そこで育ち、まともな仕事もない状況におかれた青年たちが軍によって詐欺のような手法でリクルートされ、殺人マシーンになるための訓練を受けて、実際に殺人をおこなわさせられ、その彼らが、またアメリカ社会・家庭にもどってきます。暴力的な社会が、軍隊という暴力装置を支え、軍隊でより暴力的になった青年たちが社会に戻ってきて、社会をより暴力的にしていくという悪循環を見て取ることができます。社会と軍隊は相互作用を及ぼしあっていることは、近代の日本でもまったくその通りです。自衛隊はいま米軍のような訓練法を取り入れてきていますが、アメリカに見られるこの悪循環は日本社会にとっても他人事ではありません。

ところで、兵士の戦意高揚のためにポルノグラフィが利用されたというのは、フォークランド紛争の際のイギリス軍でおこなわれたこととして紹介されたことがありますが、女性を、性的欲望を満たす道具、あるいは客体としてしか認識されないようなメディアのあり方が、日常における性暴力から戦時性暴力までつながっていることは十分に想像できることです。米軍のみならず、自衛隊内でも女性自衛官に対するセクシャルハラスメント、性暴力は、外部に漏れ出てくる情報だけ見てもかなり深刻な状況ですが、これも日本社会のあり様の反映でしょう。第二章の西山千恵子さんの扱った問題は、こうした問題とつながりますし、暴力とつながる男らしさを身につけていくのは何よりも日常に接するさまざまなメディアを通じてですから、この視点はもっと重視されていいでしょう。

この連続講義の企画を作っているときに起きたのが、秋葉原事件(二〇〇八年六月八日)です。この事件をジェンダーの視点、特に男の暴力の問題として読み解く作業は、第一章で細谷実さんがされています。私はこの事件についてのいくつかの解説、特に細谷さんもくわしく紹介されている、北原みのりさんの分析(『世界』二〇〇八年八月)を読みながら、ふと思い浮かんだのが、沖縄戦における「集団自決」でした。もちろんまったく違う出来事なのですが、男の暴力、言い換えると、暴力によって男であることを証明しようとするような男のあり方の問題の共通性を感じました。

私の講義の際に時間があれば、少し触れようと思っていて、実際にはやはり時間がなくてしゃべらなかったことなのですが、少しここで触れておきたいと思います。「集団自決」は軍と国家の強制と誘導によって強いられたものであることは言うまでもないことなのですが、それを前提としたうえで、家父長制的な家制度とそこでの男らしさ、男の役割の問題が深く関わっていると考えています。

沖縄の慶良間列島のケースをふりかえると、追いつめられた人々はだいたい家族単位で集まって、日本軍によって配られた手榴弾を爆発させます。しかしそれでは全員が死に切れない、あるいは不発のこともあります。そうすると、大人あるいは青年の男が、包丁や木、石、ひもなど手に入るもので家族を殺していくのです。このことが「集団自決」をとりわけ悲惨な出来事にしました。家族を殺した、あるいは殺そうとした男たちは、特に女性が米軍に捕まると強かんされたうえで無惨に殺されると信じ込まされていました。家族の女性たちを敵の陵辱から守るために、「汚されない」うちに確実に殺すことが家族の中の男の役割・責任と信じていたからです。「集団自決」にあたっては、天皇制国家の地域支配、その地域の強制力が利用され、さらに家父長制的な家制度のなかでの家父長=戸主(あるいは将来戸主になるべき青年男子も含めて)としての男の役割・責任を通じて、自分で死に切れない女子どもを殺すという形で実行されました。男の役割が、人を殺すことに利用されたケースであると言えます。これは男の暴力の一つの表れ方だと思います。

男であろうとすることが人を殺すことにつながる構図は、男たちを兵士として戦場に駆り立てていく際の理屈としても使われます。つまり家族を守るためという理屈です。そこで言われている家族とは、男が戦場に行った後に残される女子どもを意味します。特攻隊を美化した映画「俺は、君のためにこそ死ににいく」、これは製作総指揮と脚本を石原慎太郎都知事が担当している映画ですが、ここで言う「君」とは女性を意味していると理解するのが妥当でしょう。特攻隊であろうと兵士が戦場に戦いに行くということは、人を殺しに行くことを意味します。男の役割・責任を果たすことが、ここでも人を殺すことにつながっています。秋葉原事件と一緒だということはとてもできないのですが、男であろうとすることが人殺しと結びついてしまうようなあり方として、共通点を持っているように思うのです(「集団自決」と男の暴力の問題は、近刊の拙著『沖縄戦 強制された「集団自決」』吉川弘文館、でくわしく論じていますので、ご参照ください)。

男らしさは、女らしさと一対の概念ですが、その「らしさ」は言葉遣いと表裏一体です。日常何気なく使ったり、聞いたりしている言葉の問題を、意識化することの大切さを感じていますが、その女ことばを、戦争、特に大日本帝国の植民地支配との関わりで解き明かしたのが、第三章の中村桃子さんです。中村さんの議論は、近代の国民国家形成における「国語」の意味について、それをジェンダーの視点から、「国語」とは男ことばであることも論じており、広い視野と長い射程をもった議論をされています(射程という言い方も武器に関わる言い方ですがほかにいい言葉が思いつかなかったので)。

戦時性暴力とか、軍隊による性暴力というと、それは戦争に特有のものであって、日常の私たちの生活とは関係がないものであるかのように受け止められがちです。しかし、けっしてそんなことはありません。日常と戦時はつながっているというのが、私の実感です。ただ一人の力では、そうした問題を多方面からアプローチし論ずることは難しいので、さまざまな分野・問題に取り組んでいるみなさんの協力を得て、検証してみたいと思い、この連続講義を企画してみました。

本書を編纂した問題意識について、いろいろ書いてきましたが、以上の説明は、軍隊・戦争と性暴力を研究テーマとしている私の関心と視点で書いたものであって、多様な側面のなかのある一面についてしか触れていません。本書のそれぞれの講義で取り上げている問題について、別の視点、問題関心で読めば、まったく異なった関連性、意味を読み取ることができると思います。読者のみなさんの方が、私よりも、もっといろいろな発見をしていただけるでしょうし、本書の内容を再構成して、より立体的なイメージを作っていただけるのではないかと思います。そういう手がかりがたくさん詰まった本であることは間違いないと言えるでしょう。

  最後になりましたが、関東学院大学の生涯学習センターの公開講座では、「平和について語る」というタイトルのシリーズで、第一回(二〇〇七年春)は、丸山重威法学部教授のコーディネートで開催されましたが、第二回以降は、林がコーディネーターを担当することになり、継続している企画です。第二回(二〇〇七年秋)は「市民の目から神奈川の基地問題を考える」、第三回は「日中双方平和への努力」、そして第四回が今回の企画です。なお第五回(二〇〇九年六−七月)は「戦犯裁判とは何だったのか―東京裁判とBC級裁判」です。

「平和について語る」シリーズは、私が生涯学習センターより個人的に企画を依頼されて開催しているものですが、今回だけは、関東学院大学経済学部企画と相乗りする形になり、経済学部共通科目教室の教員のみなさんのご協力を得ることができました。その共通科目教室で同僚でもある細谷実さんと中村桃子さんのお二人にも企画にあたっては相談にのっていただいたこともあり、本書は三人の共編著とさせていただきました。

これまでの「平和について語る」の企画にご協力いただいた講師のみなさん、またこの講座に参加され、熱心に聴講していただいたみなさんにこの場を借りて、あらためてお礼申し上げます。いずれの企画もできれば本にしたいものばかりなのですが、一人でコーディネートをしている状況では、なかなか難しく、ようやく今回、初めて本の形にすることができました。

昨今の困難な出版事情のなか、出版助成も経費の支援も何も得られないにも関わらず、出版を引き受けていただいた白澤社には、いくら感謝してもしすぎることはありません。小さいながらも、ジェンダーの視点を明確に持ち、問題意識あふれる良書にこだわって刊行している白澤社から出版できることは幸いです。編集作業にあたっては、稲塚由美子さん、吉沢佳世子さん、小澤かおるさんにご協力いただきました。この場を借りてお礼申し上げます。

           二〇〇九年五月     編者を代表して 林 博史