林博史『シンガポール華僑粛清』高文研、2007年、より

はじめに


 同書の「はじめに」を紹介します。 2009.5.2記


チャンギ国際空港

 東京二三区と同じくらいしかない小さな島に四四〇万人あまりが住んでいる国シンガポールは、日本人にとって魅力ある観光地である。毎年六〇万人の観光客が訪れ、さらに仕事などで在留している日本人も約二万六〇〇〇人にのぼり、日本人学校(小学校)も二つある。

日本からの飛行機はシンガポールの東端にあるチャンギ国際空港に着く。東京からは夕方に出て深夜に到着する便が多いので、着陸前には付近の島々や海岸沿いの夜景がきれいだ。東南アジアの空港に着くと、独特の香りがするものだが,チャンギ空港は近代的すぎるのか、あまりそういう香りがしない。しかし入国審査の列に並ぶと、英語や中国語、マレー語、タミール語、日本語などさまざまな言葉で歓迎の言葉が書かれた垂幕が並んでおり、シンガポールらしさを感じさせてくれる。成田空港の入国審査場の殺風景な様子とはまったく違う。

日本やアメリカの航空会社を使うとチャンギ空港のターミナル1に、シンガポール航空はターミナル2に着く(二〇〇八年にはターミナル3が完成予定)。この空港は、空軍基地があった場所にさらに海を埋め立てて建設されたもので、一九八一年に開港した。現在、二本の滑走路が使用されているが、海側の滑走路からターミナル2のある一帯はかつては海の中だった。内陸側の滑走路とターミナル3のあたりが元の海岸線で、ターミナル1はその両方にまたがっているようである。

このあたりの海岸線はタナメラ海岸と呼ばれていた。ここは、少なくとも数百人の中国人が日本軍によって連れてこられ、機関銃で処刑されて死体が海に流された場所である。一部の死体は岸に打ち上げられ、地元の人たちなどによって近くに仮埋葬された場所でもある。ターミナル1の入国審査場の一つ(内陸側、筆者の経験ではユナイテッド航空やノースウェスト航空を使った際にこちら側の審査場を使った)やタクシー乗場のあたりが当時の海岸線だった。チャンギ空港に降り立った人々の中で、その足下で60数年前に残忍な殺戮がおこなわれていたと想像できる人がどれほどいるだろうか。

空港から市街地に行くには地下鉄もあるが深夜は動いていないので、たいていはタクシーか旅行社のバスでホテルに向かうことになる。車は空港からイースト・コースト・パークウェイという広々とした自動車専用道路を通って市街地に向かう。途中、この道路の海側にはイースト・コースト・パークという海水浴場やシーフード・レストランなどが並ぶ公園が続くが、その公園もパークウェイも埋立地に作られたものなので、元の海岸線は道路の右側になる。実は、この東海岸沿いのあちこちで、空港と同じように日本軍による中国人虐殺がおこなわれたのである。タナメラ海岸と同じように、海岸で殺して死体を海に流すか、少し内陸に入った谷間で殺して埋めるか、どちらかの方法がとられた。このパークウェイは死体が漂っていたあたりの上を通っているといっても言い過ぎではない。私たちがシンガポールを訪ねるということだけで、実は日本軍の残虐行為の現場をたどっているのである。ただ誰も気がついていないだけで。

 

シンガポールの厳しい目

 二〇〇一年から毎年、当時の小泉首相が靖国神社を参拝したことに対して、中国や韓国から批判が起きたが、シンガポールも厳しい目を向けていた。シンガポールのメディアが批判しただけにとどまらず、二〇〇六年二月にシンガポールで開かれたアジア太平洋円卓会議で基調講演をおこなったゴー・チョクトン上級相(前首相)は「日本の指導者たちは参拝を断念し、戦犯以外の戦死者を悼む別の方法を考えるべきだ」と小泉首相の靖国神社参拝をやめるように求めた。同年六月に同じくシンガポールで開催されたアジア安全保障会議でも、リー・シェンロン首相(リー・クアンユー元首相の息子)が「過去の戦争の問題に取り組めば、相互依存がうまくできる。そのとき、より強固な協力と地域への融合に進むことができる」と日本の姿勢を批判した。リー首相は二〇〇五年五月に日本を訪問する直前の日本人記者団とのインタビューで、小泉首相の靖国参拝が「この地域で日本の占領を経験した国に悪い記憶を思い起こさせる」「シンガポール人を含む多くの人にとって、靖国参拝は日本が戦時中に悪いことをしたという責任を受け入れていない事の表明、と受け取れる」と語っていた。

こうしたシンガポール首脳の厳しい目を意識せざるをえなかったからか、二〇〇六年六月にシンガポールを訪問した天皇は、その歓迎晩餐会でのスピーチの中で「私どもは、それに先立つ先の大戦に際し、貴国においても、尊い命を失い、様々な苦難を受けた人々のあったことを忘れることはできません」と日本軍占領中の歴史に触れている。

 シンガポールの建国以来、長年にわたって首相を務めたリー・クアンユー元首相はその回想録の中で、「日本人は我々に対しても征服者として君臨し、英国よりも残忍で常軌を逸し、悪意に満ちていることを示した。日本占領の三年半、私は日本兵が人々を苦しめたり殴ったりするたびに、シンガポールが英国の保護下にあればよかったと思ったものである。同じアジア人として我々は日本人に幻滅した」とその体験を語り、「戦争が終わって五十年もたつのに、歴代の自民党政権政府は、そして主要政党の主だった指導者、学界、そして大半のメディアはこの悪魔の行いについては語ろうとしない。ドイツと違い、彼らは世代が過ぎていくことでこのような行いが忘れられ、彼らの行為の記述が埃をかぶった記録の中に埋もれ去られてしまうことを願っている。もし、これらの過去を隣人に対して認めないならば、人々はこうした恐怖が繰り返されることもありえると恐れるしかない」と日本政府の姿勢を厳しく批判している(リー・クアンユー『リー・クアンユー回顧録 上』三五、六〇頁)。

彼自身、日本軍の粛清によってあやうく命を失いかけた経験をもっている。少し前にさかのぼるが、一九九二年二月に上級相として来日して、関西財界セミナーで講演した際には、シンガポールの慰安所に日本軍兵士が長い列をなしているのを見たことに触れ、日本政府が長年にわたって慰安所への軍の関与を否認し続けてきたことを批判した。同時にカンボジアでの国連平和維持活動(PKO)に日本の自衛隊が参加することに関わって、軍事的役割ではなく後方支援に限定すべきであると警戒心を示した。その前年におこなわれたインターナションル・ヘラルド・トリビューン紙とのインタビューでは、日本が平和維持活動へ軍事的に参加することは「アルコール中毒者にウイスキー入りチョコレートを与えるようなものだ」と痛烈に皮肉った(以上の引用はすべて『朝日新聞』より)。

 天皇は「貴国においても、尊い命を失い、様々な苦難を受けた人々」と抽象的にしか語っていないが、一九四二年二月から四五年八月までの三年六か月にわたる日本軍の占領時代に一体何があったのだろうか。シンガポールの人々が受けた苦難は多岐にわたっているが、その最大のものが本書で取り上げる華僑粛清、すなわち華僑虐殺である。

 シンガポール市街地の中心部に地下鉄のシティ・ホール駅があり、その上はラッフルズ・シティというショッピング・モールになっており、ホテルも入っている。その北隣にはシンガポール最高級ホテルのラッフルズ・ホテルがある。このラッフルズ・シティの海側に高さ約六八メートルの高い塔がそびえている。できた当時はひときわ目立つ塔だったようだが、現在はまわりに高いホテルなどが立ち並び、小さく見える。ここは戦争記念公園War Memorial Parkとなっており、この塔は「民間人戦争記念碑Civilian War Memorial」、厳密には「日本占領時期死難人民紀念碑Memorial to the Civilian Victims of the Japanese Occupation」という名前である。日本では「血債の塔」と呼ばれることが多い。その台座には英語、中国語、マレー語、タミール語の四ヶ国語で碑文が刻まれ、その一つには「深く永遠の悲しみとともに、この記念碑は、日本軍がシンガポールを占領していた一九四二年二月一五日から一九四五年八月一八日までの間に殺されたわが市民たちの追悼のために捧げられる」と刻まれている。

一九六七年二月一五日に除幕式がおこなわれ、この塔の下には日本軍によって虐殺された人たちの数多くの遺骨も眠っている。日本軍によって被った苦難を象徴的に示している記念碑である。シンガポールにはたびたび日本の首相が訪れているが、この「血債の塔」に初めて首相が訪れて献花したのは、一九九四年八月二八日の村山富市首相だった。自民党の首相は誰も避けていたことになる。

この塔が完成したすぐ後の六七年一○月に佐藤栄作首相がシンガポールを訪問したが、ここには来ようとしなかった。当時のシンガポール駐在の日本大使は「祖国に忠誠を尽した無名戦士の墓ならとにかく、シンガポールの記念碑は戦争中に死んだ一般人の墓にすぎない。わざわざ首相がいく性質のものではないと思う」と語っている(『朝日新聞』一九六七年八月一九日)。こういう発想しかできない日本の外交官に対しては、さきほど紹介したリー・クアンユーの批判がそのままあてはまるだろう。

日本軍占領下のシンガポールについては、シンガポールにおいては実にたくさんの本が出され、新聞、雑誌、テレビでもくりかえし取り上げられている。学校教育においてもくわしくその歴史が教えられている。

日本では、シンガポールの中学校で使われている現代史教科書などいくつかの文献が翻訳紹介され、またシンガポールでの華僑粛清事件についての証言集の翻訳、ルポルタージュのようなものはいくつかある。しかし高校の歴史教科書でも触れられてもせいぜい1、2行だけでしかない。この事件の全体像を資料に基づいてきちんとまとめた文献は日本ではまだないのが実情である。戦後六〇年以上がたつというのに、シンガポール華僑粛清事件について、これを読めば全体がわかるという、資料に基づいたきちんとした本がないというのは、日本人の戦争認識の欠陥を示す大問題ではないだろうか。

その実態を明らかにするためには、粛清をおこなった日本軍、その対象となったシンガポールの人々、この地を植民地にしていたイギリスの三者の資料、つまり日本語、中国語、英語によって書かれている資料を丁寧に見ていく必要がある。本書では、そうした資料を総合して、この事件の全体像を描きたい。残念ながら粛清をおこなった日本軍の核心となる資料がほとんど失われており、よくわからない部分もいろいろあるが、全体像は十分に把握できるだろう。事件は一九四二年二月下旬のことである。この粛清について語るために、アジア太平洋戦争の開戦、一九四一年一二月から始めることとしよう。