林 博史 『沖縄戦と民衆』

大月書店、2001年12月刊


この本の構成は次のようになっています。そのなかから「はじめに」の部分を紹介します。 2002.1.5upload

[目次]

はじめに―いまあらためて沖縄戦をとりあげる意味  

T部 沖縄戦への道
  1 第32軍の編成と飛行場建設       
  2 戦争準備下の日本軍         
  3 緊迫化する軍民関係           
  4 根こそぎの戦場動員           
 
U部 戦場のなかの民衆
  5「集団自決」の構造            
  6 生き残ろうとする人々          
  7 「玉砕」を拒否した防衛隊        
  8 学徒と教師たち             

V部 沖縄戦のなかの日本軍
  9 軍紀の崩壊と日本軍の構造変化      
  10 米軍から見た日本軍と住民        

さいごに―沖縄戦の体験と戦後          


はじめに― いまあらためて沖縄戦をとりあげる意味

 沖縄戦について取り上げる場合に、読谷村のチビチリガマとシムクガマの二つの対照的なケースが取り上げられることがよくある。この二つのガマ(壕)はともに波平という字の住民が避難していたガマであるが、チビチリガマでは避難していた一四〇人のうち「集団自決」によって八三人が死亡したのに対して、シムクガマでは隠れていた約一千人はハワイ帰りの二人の判断によって米軍に投降し助かった。

 沖縄戦について語る場合に、沖縄の人々が徹底して皇民化教育をうけ、「集団自決」までおこなったことが、その特徴の一つとして指摘されることが多い。だとすればシムクガマのようなケースはどのように説明されるのだろうか。普通は、移民帰りという「皇民化」されていない人の存在が人々を助けたと説明することが多いが、はたしてそれだけだろうか。字波平に限って言えば、シムクガマで投降した人数はチビチリガマで「集団自決」をした人たちの十倍以上にのぼる。これまでの沖縄戦についての理解の仕方では、この二つのケースを―しかもシムクガマのケースが人数も多い―うまく理解できないのではないだろうか。沖縄戦にいたる過程のなかで、さらに沖縄戦の中で人々は何を考え、いかに行動したのか、あらためて見直すことが必要ではないだろうか。

 沖縄戦とは、アジア太平洋戦争の最終盤、一九四五年三月二三日、米機動部隊による空襲、二四日の艦砲射撃によって始まり、二六日の慶良間諸島への上陸、四月一日沖縄本島への上陸より本格的な地上戦が開始され、六月二二日牛島第三二軍司令官の自決、七月二日米軍による沖縄戦終了宣言によって組織的な戦闘は終了し、沖縄の日本軍が降伏調印式をおこなった九月七日に最終的に終了した戦いである。両軍の組織的な戦闘は約三か月間続き、そこに約五十万人の住民が巻き込まれ、県民のなかから約十五万人が犠牲になった。

 日本軍が日本本土でおこなった地上戦としては、ほかに硫黄島の戦い(四五年二月〜三月)があるが、硫黄島では住民はあらかじめ強制疎開させられていたので、多数の住民を巻き込んだ地上戦としては沖縄戦が唯一の戦いだった。それまで朝鮮、中国、東南アジア、太平洋諸島など外地で侵略戦争を戦ってきた日本軍が、多数の自国民を抱えて戦った戦闘であった(正確に言えば、サイパンやテニアンなどでも多くの日本人を巻き込んだ戦闘をおこなっており、これらについても本書で取り上げる)。

 沖縄戦については、一方で元軍人たちや防衛庁などによって戦史(軍としての戦闘の記録)としての記録や研究がなされてきたが、住民に立場に立って、住民の視点からの記録としては一九五〇年に刊行された沖縄タイムス社の『鉄の暴風』が最初である。また学徒隊については当事者による記録が刊行されている。

 しかし本格的に住民の視点からの記録・研究が始まるのは、一九七一年に刊行された『沖縄県史 第九巻 沖縄戦記録1』と七四年の『同 第一〇巻 沖縄戦記録2』からだった。それまでの戦史が軍人の視点から戦闘に主眼がおかれ、住民の体験が付けたし程度にしか書かれておらず、しかも「殉国美談」として賛美されていることへの批判がその出発点だった。そこで『沖縄戦記録1』では主に座談会形式で住民の戦争体験談を収集し、のべ四六一人の体験談をもとに編集された。このことによってはじめて沖縄の人々にとって沖縄戦が何だったのかが、浮き彫りにされた。

その後、沖縄の各市町村で自治体史の編纂が進むが、特に一九八四年に刊行された『浦添市史 第五巻 戦争体験記録』は、各字ごとに徹底した悉皆調査をおこない、一軒一軒ごとに被害の実態を明らかにしていった。それまで沖縄戦の戦没者について援護行政上の不十分なデータしかなく、国も県も戦没者の調査すらおこなっていない状況のなかで、市町村がその実態を調査解明する作業を進めるきっかけとなった。

 こうした自治体史の調査を担った沖縄の研究者たちによる沖縄戦研究が、大田昌秀、安仁屋政昭、大城将保、石原昌家など各氏によって次々に発表されていった。そうした中で、沖縄戦が国体護持(天皇制の護持)、本土決戦準備のための時間稼ぎの戦いにすぎなかったこと、住民の生命や安全はまったく顧みられず軍のために利用されただけでなく、日本軍による住民虐殺、強要された「集団自決」、壕からの追い出しや食糧強奪など、日本軍の銃剣が住民に向けられていったこと、お国のために自ら命を捧げたなどという「殉国美談」はまったくの虚構であり、天皇制や日本軍、本土のために沖縄が犠牲にされたこと、など沖縄戦の特徴が明らかにされていった。

 教科書検定において文部省が、アジアへの「侵略」や南京大虐殺などの日本の侵略戦争や植民地支配などの加害行為についての記述を削除したり書き換えさせるなどの検定をおこなっていたことが国際問題になった一九八二年のいわゆる教科書問題の際に、沖縄戦についての記述も問題となっていた。実教出版の高校教科書『日本史』で、「戦闘の邪魔になるなどの理由で、約八〇〇人の沖縄県民が日本軍の手で殺害された」と記した原稿が検定によって削除された。さきほど紹介した『沖縄県史』を根拠として示した執筆者に対して、教科書調査官は、県史は体験談を集めただけで一級の資料ではないと否定したという。このことに対して沖縄県議会は全会一致で意見書を採択した。そのなかで「県民殺害は否定することのできない厳然たる事実であり、特に過ぐる大戦で国内唯一の地上戦を体験し、一般住民を含む多くの尊い生命を失い、筆舌に尽くしがたい犠牲を強いられた県民にとって、歴史的事実である県民殺害の記述が削除されることはとうてい容認しがたいことである」として県民殺害「記述の回復」を要請した(歴史学研究会編『歴史家はなぜ“侵略”にこだわるか』の江口圭一氏の文参照)。沖縄においては自民党も含めて政治的立場を超えて、日本軍による県民殺害という事実が共通の認識となっていることを示している。結局、政府はその後、県民殺害の事実を教科書に載せることを認めざるを得なくなった。

 一部の戦史研究を除いて、今日広く理解されている沖縄戦のイメージはこうした沖縄の人々の努力によって明らかにされてきたのである。

 その後も自治体史の刊行が続いている。現在でも毎年のように沖縄戦の戦争体験記録が刊行されており、さらに精密な調査がなされてきている。また日本軍の慰安所・慰安婦や強制連行されてきた朝鮮人たちの実態の解明、沖縄の人々も軍による住民殺害などの加害行為に関わっていること(単純な本土対沖縄という図式の克服)、米軍資料の発掘により両サイドから沖縄戦をとらえはじめてきていること、など新たな視点や研究も生まれてきている。そうしたことをふまえた沖縄戦についての概説書も多数刊行され、沖縄戦について少し学んだことのある方ならばわかるように、ほぼ共通の沖縄戦イメージが了解されている。

 そうした中でなぜあらためて沖縄戦について取り上げようとするのか。

 冒頭でチビチリガマとシムクガマのことを紹介したが、これまでの沖縄戦のイメージでは、沖縄の人々は皇民化教育を徹底されてそれを信じ込み、軍に利用され、あるいは米軍の捕虜になることを潔しとせずに「集団自決」をおこなった。さらに日本軍によって虐殺されるなどの迫害を受けたというイメージであろう。もちろん沖縄の人々がたんなる被害者ではなく、加害者にもなっていたことは指摘され始めているが。
 そうした側面はそのとおりであり、否定するつもりはないし、沖縄戦を考えるうえで重要なポイントであることは同感である。

 しかし、こうしたイメージは、ひめゆりなどに象徴される学徒たちや、「集団自決」をおこなったチビチリガマや慶良間諸島の事例などで沖縄の人々を代表させてしまっているのではないだろうか。たとえば、沖縄戦では多くの日本兵が米軍の捕虜になった。また防衛隊という現地召集された人々が次々と敵前逃亡をおこない、時には進んで米軍に投降していった。シムクガマのようにガマに隠れていた人々が集団で米軍に投降していく例も実にたくさんある。住民の体験記を読んでいくと、そうした事例はかぎりなく出てくる。同じ学徒隊でもひめゆりとそれ以外とでは動員の仕方についてもかなり異なっている。そうしたことはどのように考えられるべきなのだろうか。

 「集団自決」がなぜ起きたのか、その理由を説明する場合、必ず皇民化教育が挙げられる。そのことを否定するつもりはないのだが、しかしそれでどれほど説明できるのだろうか。こどもや赤ん坊には「自決」を決断することは不可能であることは別としても、たとえば小学校にもまともにいけなかった人にどのようにして皇民化教育が徹底されていたのか。また沖縄の人々がそれほど徹底して皇民化されていたのならば、なぜ日本軍はあれほど沖縄の人々を疑いスパイ視したのだろうか。徹底して皇民化されていたのならば、沖縄の人々がなぜあれほどかんたんに米軍に協力していったのだろうか。
 これまでの沖縄戦のイメージが間違っているというのではなく、それだけでは説明できないことがたくさんあるということだ。

 日本の戦時体制がどれほど深く人々をとらえていたのか、そしてそれがどのようにして崩壊していくのか、戦争に協力しないということがどのようにして可能であり、また不可能なのか、日本を再び戦争のできる国家にしようとする動きが強まりつつある今日、沖縄戦から汲み取ることのできるものは無数にある。

 これまで沖縄の人々が長年努力をされて積み重ねられてきた調査研究に敬意を表するとともに、それらの成果を利用させていただきながら、沖縄戦とはどのようなものだったのか、沖縄戦像を再構成したいと思う。その試みが本書である。