〔博士論文要旨〕  

  近代日本国家の労働者統合

        ―内務省社会局労働政策の研究―


 1985年2月に一橋大学大学院博士課程社会学研究科に提出し、同年9月30日付で社会学博士を授与された博士論文です。この要旨は『一橋論叢』1985年11月号に、博士論文の審査報告とともに掲載されたものです。この論文は、補章Uを除いて、翌年に同じタイトルで青木書店から出版しました。
 今からみると、文章も硬くてぎこちなく、恥ずかしくてとても読めたものではありませんが、こんなことを書いていた時期もあったんですね。  
2000.10.21記


 本稿は、第一次大戦後より戦時体制に入るまでの国家の労働政策を、国家の労働者統合の視点から、内務省社会局の労働政策を中心に検討することにより、その政策構想・立案・決定から実施過程とその帰結を含めて総体的に明らかにすることを課題とするものである。
 第一次大戦後、労働争議の激増、労働組合の続生など本格的労働運動が急速に展開する中で、そうした状況をふまえた国家による新たな労働者統治政策の確立が重要な問題として提起された。その課題を坦うぺく登場したのが内務省社会局(外局)であった。治安警察法を前提として温情的労資関係が存立し、それはまた工場法によって補充されていた労資関係・労働政策のあり方は再検討を余儀なくされた。
 本稿では、「譲歩・改良による統治」の視点、政治的社会的宥和政策の視点から、国家による労働者統合・統治政策として労働政策をとらえることとする。そこでは、労働組合・労働争議など労働運動に対する対応のあり方が労働政策の基本を形成する。

 本稿の分析にあたっての留意点は次のとおりである。
 第一に労働政策をその構想・立案過程や法律だけでなくその実施過程と帰結をも含めて総体的に明らかにすること。
 第二に労働政策の実地過程を明らかにする上で、労働組合政策と共に労働争議対策(争議調停を含む)を重視すること。
 第三に労働政策と労働運動との相互関連に留意すること。
 第四に社会局の政策の検討を中心にすえつつも、支配諸勢力の動向をも検討し、国家の労働政策の全体像を明らかにすること。
 第五に協調的労働政策の展開の条件とそれを限界づける条件にも注意すること。
 第六に在日朝鮮人労働者による運動に対する対策を労働政策の中で位置づけること。

本稿の構成は以下のとおりである。
第一章  社会局労働政策の前史として原内閣期における労働政策をめぐる議論をとりあげ、原内閣の特徴を明らかにする。
第二章  一九二二年の社会局設置以来、一九三一年の労働組合法の最終的挫折まで基本的に続く社会局の労働政策構想をその内部における差異も含めて明らかにする。
第三章  社会局によって主導された労働政策の転換(国家による協調的労働政策の採用)を労働組合政策と労働争議対策の両面から明らかにし、同時に労働政策の転換を支えた一つの条件として「右翼」的労働運動の形成とその特徴を明らかにする。
第四章  労働争議調停法成立以後の労働政策の展開を、調停に焦点をあてて明らかにする。
補章T  在日朝鮮人労働運動に対する対策を検討する。第四章を補完する章である。
第五章  一九二〇年代における労働政策に関する総括的な章である。ここでは、資本家団体、国家諸機関、既成政党など支配諸勢力の労働政策に対する対策を検討し、一九二〇年代における労働政策の枠組みとその下での対抗のあり方を明らかにし、協調的労働政策が転換を余儀なくされる(労働組合法の放棄)にいたる経緯をのべる。
第六章  一九三一年以降、協調的労働政策からファッショ的労働政策に転換する過程を明らかにする。
補章U  一九三〇年代を通じて労働政策に対する警察の影響力が高まり、特に調停において警察が主導権を握るような状況になっていることを鑑み、警保局官僚の検討をおこなう。第六章を補う章である。

 次に本稿の目次を示す。

 はじめに

 第一章 社会局成立前史−原内閣期における労働政策構想
   一、臨時産業調査会について
   二、農商務省の労働運動対策構想
   三、内務省の労働運動対策構想
   四、原内閣期の歴史的位置
     小括

 第二章 内務省社会局の労働政策構想−一九二〇年代−
   一、安井英二の労働政策構想
   二、社会局の労働政策構想
     小括

 第三章 一九二〇年代前半における労働政策の転換
   一、労働政策の転換
   二、労働政策転換の条件−「右翼」的労働運動の形成
     と労働政策
     小括

 第四章 一九二〇年代後半における労働政策の展開
   一、労働争議調停法の制定と調停方針
   二、労働争議調停法の展開
     小括 
 補章T 在日朝鮮人労働運動に対する対策
   一、在日本朝鮮労働総同盟結成以前
   二、朝総期
   三、全協期
    小括                

第五章 一九ニ○年代の労働政策をめぐる諸勢力の動向とそ
    の帰結
  一、資本家団体
  二、国家諸機関      
  三、政友会と憲政会・民政党 
  四、労働政策をめぐる対抗とその帰結

第六章 ファシズム形成期の労働政策
  一、「非常時」下の労働政策
  二、ファシズム的労働政策の展開
    小括

補章U ファシズム形成期の警保局官僚
   一、「非常時」への突入と新指導精神の模索
   ニ、警保局の思想対策
   三、警察精神作興と「非常時特高警察」の提唱
   四、警察精神の「具体的活用」
   五、右翼運動と警保局官僚
   六、「新官僚運動」と警保局官僚
     小括    

まとめ             

次に各章ごとに内容の要旨を記す。

 <第一章>
 臨時産業調査会などにみる内務省と農商務省の議論は,国際的革命運動の高揚の中での日本労働運動の急成長・全体としての階級的強化、政府の英米協調路線の一環としてのILO参加とそのインパクトをうけて、労働政策の外枠(労働組合法という形式)を輸入しながら、その構想の内容・発想は産業政策または治安政策の枠内にとどまっていた。つまり国内の労働運動に対してまったく未成熟なものとして専ら予防的観点から見るか、全労働組合を監督取締下において治安維持を全うするか、であった。であるから、国内外の運動・世論が弱まれば、治安政策等がストレートに出てくることになる。事実、原内閣は一九ニ○年六月以降労働組合法の検討を打ち切り労働攻勢をカで抑圧した。三菱川崎争議はその頂点である。原内閣は、一九一九年には労働組合排除をねらった協調主義を提唱したが、それ以降の労働組合の展開に対して、新たな理念をもった労働運動対策―労働政策を打ち出すことができなかった。しかし一時的には労働攻勢を打ち破ったが、労働組合はもはや無視できぬものとしての地歩を固めていった。そうした事態をリアルに認識した官僚たちは、一九二二年一一月に設置された社会局の下で、新たな労働政策を堆し進めることになる。    

 <第二章>           
 社会局は労働組合、同盟罷業などを必然的な現象と見、事実の問題として対処しようとする。普選という支配のあり方の変化、世界的な労働運動穏健化の流れの中で、労働組合に一定の積極的役割を認め、それを支配の中に組みこんでいくことによって国家の安定と発展をはかろうとする。労働組合の自然な発展―穏健化の障害を除去し、対等な労資の闘争 (争議を含めて)によってより合理的な労資関係の形成、労働者の不満の解消をめざす。国家は、その労資の闘争が経済闘争にとどまり社会秩序を乱さないかぎり干渉しないことを基本とする。もちろんその枠からはずれるものへは当然チェックする。その立場は国家を維持し資本主議経済制度を維持する立場であるといえよう。こうした政策は、労働運動・労働組合の現実への対応(将来の先取りを含めて)として考えられる。ただそこでは団結権は権利として認められているし、組合法案には争議免責規定が含まれ争議の自由も承認されている。また社会局は労働者を「過激」化あるいは左翼化させないこと、言いかえると左翼労働運動との対抗から労働政策の内容をとらえていた。
 安井英二の構想は、彼の立案した労働組合法案・労働争議調停法案などの形で社会局の政策として追求されていった。しかし、同盟罷業権も含めて労働者の「権利」の問題として労働政策を構成しようとした彼の構想・政策意図は社会局内で受けいれられなかったのであり、社会局内の最も進歩的分子にとどまったのである。

 <第三章>             
 労働組合政策は一九二四年二月のILO労働代表選出方法の変更=労働組合による互選を画期に転換をとげた。それに対応して労働争議調停政策が形成されつつあった。つまり労働組合を公認し、公益事業の争議には厳しい制限を加えながらも、他の争議に対しては事実の問題として対処し調停をはかるという方向が、構想にとどまらず、現実に実行されはじめてきていた。これは他方での左翼労働運動に対する抑圧と一体のものである。調停政策は、一九二六年の労働争議調停法制定、治安警察法一七条撤廃という形で一方の定着をみた。
 こうした労働政策の転換は「右翼」的労働運動の形成に寄与し、逆に「右翼」的労働運動は新しい労働政策を支えることになる。総同盟はこの「右翼」的路線を採用していった。その内容は、争議統制(争議抑制と調停利用)と、消費組合・共済制度等の自助的活動を二本の柱とし、それは政治面での「議会主義」と一体であった。また資本に対しては、一九ニ○年代後半以降、労働協約締結運動を積極的にすすめていくことになった。ここでは資本や官憲の圧迫の激しさと、相対的に「進歩的」な労働政策とがあいまって、総同盟にこのような路線を強いたのである。

 <第四章>
 一九二〇年代後半における労働争議調停の内容をみると、評議会関与争議に関しては、徹底した弾圧を基本としつつ、地域の有力者などによりかなり調停がおこなわれ、金銭の支給などがおこなわれている。総同盟関与争議に関しては、総同盟の争議統制・調停利用方針もあってほとんどの争議で調停がおこなわれ、その中で労働組合を保護する規定が認められる例も一定程度存在している。組合同盟・全労関与争議に関しては、「暴動」化しながらも調停利用方針をとったこともあって調停多い。調停官や警察官による調停は、争議の一定の推移をふまえた上で介入し、資本家にも一定程度譲歩させることによって収拾をはかろうとするものであった。他方、公益事業争議に対しては警察が前面に出、罷業自体を許さず、徹底した弾圧を加えた。このような調停と弾圧は一体のものとして機能し左翼労働運動の鎮圧、治安上重要な公益事業からの争議行為の除去と共に、「穏健」な労働組合を保護・助長し、「穏健」な争議は容認することにより、労資関係の安定化をはかったのである。
 一九三〇年には初めて調停委員会による調停が成立したが、恐慌下の争議の激増の中で社会局は、調停法の積極的活用と調停官よる調停の拡大によって対処しようとした。しかし社会局の対策はいずれも実現しなかった。他方警察官による調停が急増していた。こうした中で、労働組合法は不成立に終わった。
  
<補章T>

 在日朝鮮人労働者が労働組合に結集し日本人労働者と連帯してたたかう状況が一九二〇年代中頃には生まれはじめていた。そうした運動はしばしば朝総と評議会との共同闘争となったが、それに対しては徹底した弾圧が加えられた。こうした弾圧は、左翼労働運動に対する弾圧という性格だけではなく、日朝労働者の連帯に対する攻撃としての性格をも有しているととらえることができよう。また民族差別撤廃の要求を警察や調停官は認めようとしなかった。ただ賃金支払要求については賃金不払があまりに不当であるゆえに、警察も認める動きを示した。朝鮮人労働者に対する「宥和」的対応はせいぜいこの程度のものであった。全協の段階では、治安維持法を含めて徹底した弾圧が加えられた。
 朝鮮人労働者の運動は、たとえ経済的な労働運動であっても治安対策の対象としてしか扱われなかった。政府の労働運動対策は、日本人労働運動と在日朝鮮人労働運動とでは、明確に異なっていたといえよう。

   <第五章>
 資本家団体は一九ニ○年代中頃においては、公然と労働組合法反対を言えず、「修正」を要求するという形をとらどるを得なかった。一九三〇年には公然と反対を主張した。各省庁においては、社会局の政策が全体の枠組を構成し、陸海軍・逓信・鉄道省などはその枠組に規定されながら、その中で自らの主管する事業において独自に監督主義的政策を追求した。司法省・商工省などは、労働組合法制定の大勢には反対できず、その内容をチェックし、監督取締法的内容を強める方向で動いた。 政友会は、一九ニニ年以降、民衆の政治的自由の拡大、社会政策の重視の動きを示した。しかし、二〇年代中頃以降、権利の拡張に反対し、社会政策なき上からの統合路線へとかわり、労働組合法反対の一翼を担うことになる。憲政会は、普選と一連のものとして労働組合法制定などを構想した。これは民政党にもうけつがれ、「緊縮・金解禁政策の補完的政策手段」として労働立法を位置づけた。しかし、浜口内閣の下で、これらの政策も変質し解体していくことになった。協調的労働政策は、労働運動等の発展への対応として出てきたと共に、ILO問題という国際的契機に規定されていた。ま
た普選という新たな人民支配と一体のものであった。協調的労働政策は、満州事変、五・一五事件などの中で「非常時」に突入したことにより、決定的な打撃をうけ、再検討を余儀なくされた。

 <第六章>

「非常時」の下で労働組合法は放棄された。この下で、「労働組合主義」を積極的に評価し育成しようとする協調的官僚と、他方で日本主義労働運動を育成し、「国家革新」=ファッショ化を志向する「新官僚」とが各々独自に労働政策を追求した。内務省・社会局としては前者に比重がかかっていた。 しかし一九三五年以降、内務省は「労資一体」理念を公認し、日本主義労働運動の急進化はおさえつつ、「積極的調停」をはじめとするファッショ的労働政策を推進しはじめた。二・二六事件後、その路線は確定し、その過程で協調的路線は一掃された。
 軍工廠においても同様であった。海軍工廠においては海軍の指導により一九三四年に海軍労働組合連盟は日本主義へ転換していた。陸軍工廠では官業労働総同盟は解体に追いやられた。この段階で睦海軍の協調的労働政策も完全に姿を消した。一九三六年において、協調的労働政策をすすめようとする路線は、ほぼ一掃された。ただし、基本的に協調的労働政策を否認しつつも、現実には現存の労働組合をある程度利用せざるをえなかった。一切の労働組合を解体に追いやるのは、日中全面戦争の開始とその長期化という新たな事態の下でであった。

 <補章U>

 協調的労働政策からファッショ的労働政策への転換の過程において、警保局とその下にある警察の果たした役割は大きかった。警保局官僚にとって、労働問題へのそのような関与は、彼らの治安対策の全体的な構図の一部であった。
 警保局官僚は、自らを「国家革新」=ファッショ化の「動力」として位置づけ、一方で警察精神作興運動を提唱・発展させ、「農村政策」など積極的警察活動を展開した。他方で、右翼運動を「善導」し、また自らそれを代弁することにより「革新」気運を扇動した。こうした活動を積極的に担ったのが、社会運動に直面し、国家・社会の矛盾を痛感していた特高警察であった。こうした活動とそれを支える警察理論は、一九三四〜四五年にほぼ成立し、以後、その方向が推進されていくことになった。

 まとめ

 社会局は、労働者の自主的団結=労働組合を基礎とした労働者統合政策を追求した。「穏健」な労働組合の活動(労働争議や団体交渉も含めて)はより合理的な労資関係を形成するものとされ労働者統治上積極的に評価された。社会局の労働政策は英米協調に示される国家的枠組、普選に示される支配体制の再編の一環として位置づけられる。それは国内外の労働運動に対する帝国主義諸国の対応の一つであった。社会局の構想は様々な制約はうけつつも国家の労働政策の基本となった。社会局によって主導された協調的労働政策は、「穏健」な労働組合を生みだし、労働運動内における「右翼」的潮流の優位をもたらせた。しかしながら、労働組合法は成立せず、協調的労働政策は法体制としては確立しなかった。
 一九三〇年代にはいり、社会局や警保局の中から、日本主義労働運動を支援し、また国家が直接労資関係に介入し調整しようとする政策がでてきた。協調的労働政策は一掃されファッショ的労働政策が展開されるようになった。日中全面戦争の開始以降、労働政策は「譲歩と改良による政治」という性格を失い戦争とファシズムのための人的資源の保全と動員のための政策となった。一九三八年に厚生省が設置され、社会局の歴史的役割は終わった。