『琉球新報』2007年6月18・19・20・21日

米軍1次資料に見る沖縄戦  

                    林 博史


 これは沖縄の新聞「琉球新報」に4回にわたって連載した資料紹介です。これらの資料について、もっとくわしくは、『季刊戦争責任研究』第52号(20066月)と第54号(200612月)に資料紹介を書いていますので、そちらを参照してください。 2009.4.1記


 沖縄戦では、日本軍や沖縄の行政機関などの資料の多くが失われてしまい、現在利用できる日本軍資料も米軍が沖縄の戦場で押収し、戦後、日本に返還されたものが中心である。しかしアメリカでの資料調査でわかったことは、返還された文書をはるかに上回る文書が押収されていたことである。しかし残念ながら、この数年来、米国立公文書館では、押収しながら行方不明の日本軍資料を手を尽くして調査したが結局、一部(主に南太平洋地域での資料)を除いて見つからなかった。

米軍は押収した文書に目を通し、重要なものは英訳して作戦の参考にしていた。そのため現物は失われてしまった(少なくとも所在を確認できない)が、英訳だけ残っているものがたくさんある。それらの資料から失われた日本軍文書が再現できるのである。その中には驚くようなものも少なくない。ここでは、そうしたいくつかの日本軍の関係文書を紹介したい。これらはすでに報道されているものであるが、記事では断片的な紹介しかされていないので、いくつかの重要な文書をまとめて紹介することとしたい。

 最初に紹介するのは、鉄血勤皇隊の編成に関する資料である。師範学校や中学校の男子生徒を動員した鉄血勤皇隊について学徒たちの体験記は少なくないが、それらは動員されてからの体験に限られる。そもそも鉄血勤皇隊の編成がどこでどのようにして決定され、どのような手続きを経て動員されたのか、兵役に服するのは一七歳からであったにも関わらず、なぜそれ以下の生徒までもが軍人として動員されたのか、などわからないことが多かった。その経緯を示す文書5点が残されていた。その中でも第32軍司令官、沖縄連隊区司令官(徴兵業務を担当)、沖縄県知事の合意文書は驚くべき内容が含まれていた。おそらく軍は一七歳未満の青年を徴兵する法的根拠がないため、県を巻き込んだのだろう。県と学校が鉄血勤皇隊を編成して軍の援助で軍事訓練を施し、また一四歳以上の生徒の名簿を作成して軍に提出していた。そしていざ米軍上陸というときには、その組織を丸ごと軍に編入するという手はずを三者で取りまとめていたことがわかる。

 軍隊だけでは戦争はできない。県と学校、つまり行政と教育機関が軍と結んで、当時の法をも無視して生徒たちを戦場に駆り立てたことがはっきりと示されている資料である。日本軍だけを非難して行政機関を美化するような議論はあらためて再検討されるべきだろう。そのことは今日の有事法制のおける住民動員の問題につながっている。

 

鉄血勤皇隊の編成ならびに活用に関する覚書    

  球一六一六部隊長(訳注 第32軍司令官)

沖縄県知事

沖縄連隊区司令官

 

この覚書は、沖縄島における中学校ならびにそれ以上の学校(師範学校を含む)の学徒の動員に関する現地軍ならびに県当局との間の合意である。他の諸島での学徒の動員は本島での動員に準じて、現地守備隊長と現地県当局(県知事によって選任された者を含む)との協議によって決定される。

方針

 南西諸島は重大な戦場になることに鑑み、中学校ならびにそれ以上の学校(師範学校を含む)の学徒を各学校ごとに鉄血勤皇隊に編成し、軍との密接な連携の下に軍事訓練を実施し、而して非常事態が生じた際には、それらを直接軍組織に編入し戦闘に参加させるものとす。

要領

一 鉄血勤皇隊の編成は、沖縄県知事が沖縄連隊区司令官の援助をうけておこなうものとす。知事は、学校における訓練の利点を考慮するとともに、鉄血勤皇隊の防衛召集実施に備えるものとす。編成完了は三月八日一二〇〇とす。なお関連諸機関の都合により若干の遅れがありうる。(訳注1)

 

二 鉄血勤皇隊の編成が完了した時点で、軍は訓練において学校当局を支援するものとす。

  軍が訓練において支援するものは以下の通りである。

   戦闘訓練(特攻訓練を含む) (訳注2

   陣地構築ならびに通信業務

   医療応急手当

   現地自活

三 非常事態が生じた場合、球防衛召集第一三五号「球部隊防衛召集規則」ならびに添付の「鉄血勤皇隊防衛召集要領」に従って、軍命令によって鉄血勤皇隊が防衛召集される。軍の部隊として鉄血勤皇隊は戦闘ならびにその他の任務に配属される。

 

編成

一 学校長が鉄血勤皇隊を指揮する。しかしながら防衛召集命令が発せられた後は、学校配属将校が軍将校名簿に記載されている学校教職員の中から隊長を指名してよい。また軍将校名簿に記載されていない学校長と教職員は軍属とす。すべての該当する教職員と十四歳ならびにそれ以上のすべての学徒(通信訓練を受けている者は除く)は鉄血勤皇隊に編成される。

二 各学校での学年(学級)は鉄血勤皇隊の基礎となる。学校はその人数に応じて、大隊、中隊、小隊、分隊に編成される。

三 沖縄県知事が鉄血勤皇隊を編成した際、知事は付属書式第一号の其の一ならびに其の二にしたがって作成した隊の編成表ならびに人員名簿の写しを直ちに第三二軍軍司令官ならびに沖縄連隊区司令官に提出するものとす。

 

訓練

一 訓練はすべて実際の戦闘に適応したものとす。強力なる日本軍兵士として皇土防衛の戦いに備えるものとす。訓練は学徒たちのこれまでの学問上の知識を増進し、兵士にとって必須である基本的な事項についての実際的訓練、特に軍事技能を必要とする訓練を重視す。夜間訓練もまた重視す。

二 全学(全学級)による訓練を可能な限り実施する。訓練が進むにつれ、兵士としての精神練成を強化す。隊の中核としての部隊長とともに、学徒たちは不滅の忠誠と任務遂行の断固たる決意を固めんとす。

三 軍は次の部隊長に各学徒隊の訓練の援助任務を与える。

 (原訳注:各学校に訓練指導員を派遣する部隊の一覧は省略する)

四 軍は必要ならば訓練のための指導員を派遣す。

五 訓練に必要な武器や物資は必要ならば軍が貸与または供与す。

 

宿舎、配給ならびに医療

一 当該の学校当局はすべての宿舎と配給を担当す。防衛召集命令が下された後は、軍が担当す。寝具の不足分については事情の許す限り軍が貸与す。

二 訓練を担当する部隊長は訓練による病人や負傷者の手当てを援助す。防衛召集命令が下された後は軍が責任を持つものとす。

 

(訳注1)同じ文書の別の英訳があり、そこでは「鉄血勤皇隊の編成は、沖縄県知事ならびに沖縄連隊区司令官が共同でおこなうものとす。両者は、学校における訓練の活用を考慮し、鉄血勤皇隊の防衛召集を準備するものとす」となっている。

(訳注2)別の英訳では「技術訓練」となっている。

(訳注3)62師団命令に添付された文書では、第二十二独立歩兵大隊長―鉄血勤皇商工隊、第二十三独立歩兵大隊長―鉄血勤皇開南隊、師団工兵隊長―鉄血勤皇工業隊、と割り振られている。なおこれは防衛召集されてからの配属先ではない。

 

 

鉄血勤皇隊防衛召集要領        (作成者・日付不明)

 

一 鉄血勤皇隊の防衛召集執行者は、鉄血勤皇隊の訓練を援助している部隊長とす。編成の場所は、当該の学校とす。

二 防衛召集の待機中の者は、鉄血勤皇隊に編入す。十四歳から十七歳までの学徒は、付属書式第二号にしたがって書類を作成す。これらは沖縄連隊区司令官に提出す。

三 沖縄連隊区司令官は、沖縄県知事から提出された鉄血勤皇隊の名簿を基に、召集されるべき者に対する召集命令を作成す。

四 防衛召集執行者は、あらかじめ当該の学校長に対して、召集命令を伝達する。執行者は召集のためのすべての準備をなし、三月十日十二時までに完了せしむものとす。

五 第三二軍司令官は、全般的な状況を判断し、防衛召集執行者に、鉄血勤皇隊の召集を命令す。

六 防衛召集執行者は、第三二軍司令官より鉄血勤皇隊の召集命令を受けたとき、あらかじめ準備しておいた計画にしたがって、直ちに召集をおこなう。

七 召集されて軍に編入された学徒は、編成地において直ちに防衛召集執行者の指揮下に入る。防衛召集執行者は、必要ならば、下士官や将校を鉄血勤皇隊に編入す。

   付属 書式第一号其の一
   鉄血勤皇隊編成表(空白)
   第一号其の二  名簿書式(空白)  
   第二号     召集命令(空白)

   

2 

警察が、民衆を監視し、戦争に反対したり政府や軍に批判的な言動を取り締まり、民衆を戦争に動員していくうえで大きな役割を果たしたことはよく知られている。しかし沖縄戦において警察がいかなる役割を果たしたのか、資料がほとんど残っていないこともあってあまりよくわかっていない。警察関係者の証言では、日本軍のひどさばかりが強調され、警察も被害者であるかのような印象を受ける。

ここで紹介する文書は、沖縄県警察の文書と見られる。この二つの文書はセットで米軍によって英訳されていた。後者の「戦闘活動要綱」は一九四五年二月下旬に編成された県警察警備隊のものである。警察が平時業務を停止し、戦時態勢に編成替えされて生まれたのが、警察警備隊(隊長は県警察部長)である。生存者の証言で組織編成の概略と、おおまかな目的はわかっていたが、実際の具体的な活動についてはよくわからなかった。しかしこの要綱によって、くわしいことがはっきりした。住民を組織し、士気高揚をはかるだけでなく、警察官自らが軍事訓練をおこない、さらに住民に軍事訓練を施し、米兵との戦闘方法、夜襲の方法などの訓練を警察が指導するという任務が明記されている。また警察警備隊のなかに特別行動隊を設置し、特別行動隊は、内密に行動し、民間人の行動を警戒、情報収集をはかる任務が与えられている。つまり住民を秘密裏にスパイする役割である。

 この要綱の延長線上に、前者の警察への指示があると見られる。警察官あるいは民間人のなかから密偵を敵占領地に送り込んで、日本軍の遊撃戦に協力するだけでなく、米軍に保護された住民の動向を監視し、米軍に協力する者を殺すように指示されている。警察官も民間人も国家のために命を捧げることを要求し、軍官民一体化を具体的に示している。文書の内容から米軍上陸後の四五年四月ないし五月ごろ、国頭地区の警察に指示されたものと推測される。国頭地区では米軍に保護された住民や指導者を日本軍が虐殺する事件が起きている。警察が実際にどこまでこの命令を実行したのかはわからないが、実質的には、この指示内容が実行されていたと言えるだろう。住民たちは、日本軍だけでなく警察も含む行政機関、それに協力する民間人など何重にも監視され、国家のために「命を捧げる義務」を強いられていった。この二つの文書は、沖縄戦の直前ならびに沖縄戦の最中における警察の役割を明らかにする貴重な資料である。

   

(タイトルなし)  沖縄県警察部が作成した文書と見られる。日付不明

 1 軍に入っていない民間人と同様に警察官も、緊急事態において自らの命を国家に捧げることは臣民の国家に対する偉大な義務であることを認識しなければならない。この訓示は完全に履行されなければならない。

2 警察官はいかなることがあっても敵に捕らわれてはならない。

3 遊撃戦への協力 

(イ)変装した警察官あるいは民間人から選抜した密偵は、敵に占領された地域に潜入し、敵の状況を偵察すべし。而して、陸軍部隊との連絡を確保したのち、遊撃戦が有益かつ効果的に遂行できるように努力すべし。

(ロ)警察官ならびに民間人の中から適任者を選抜し、陸軍部隊とともに遊撃戦に活用すべし。

(ハ)警察官は軍に協力し、最後の一人まで戦闘に参加すべし。また国や県市町村の官吏ならびに民間人は日本人としてこの精神を示し、栄誉のために戦うべし。

4 現在敵の掌中にあるわが国民を利用して、かれらとの接触体制を確保し、わが遊撃隊と密かに連絡すべし。それらの者たちは敵幹部を暗殺し、敵兵舎を破壊し、さらに敵陣営を混乱に落としいれよ。この者たちを上述の目的のために徹底して訓練した後、敵地域へ深く潜入させるべし。

5 敵占領地域にいる者たちについて秘密裏に捜査をおこなうべし。もし敵への協力者を発見すれば、殺すか、あるいは然るべく処置すべし。

6 特に敵占領地域にいる民間人にとっては、敵の宣伝に打ち勝つ努力がなされなければならない。

7 各守備隊長は、村内の官吏に対してと同様、部下に対しても厳格な命令を発すべし。そして危険に陥ったときには、任務を断固として遂行すべし。日本人の特徴を体現するということは、自らの命の危険を顧みず、敵と戦うことであるという旨の徹底した指示がなされなければならない。

8 皇土を防衛するために、兵士だけが命を捧げる義務があるのではなく、すべての日本人は命をかけて皇土を防衛すべし。この精神を持ってはじめて、われわれは高慢な米軍兵士を一人残らず殺すことができるし、皇土を防衛することができるのである。

9 国頭から島尻へ小船で進入することが不可能なので、情勢報告は状況が許されるときにせよ。

 

戦闘活動要綱

 要旨

 各市町村の警察管轄区域は警部補あるいは巡査部長が長となるべし。その長は、警備隊を配置し、町村内での戦闘の結果を報告せよ。このように長の任務は、わが部隊と戦っている敵部隊に対する行動の確固とした指令を出すことである。また長は戦闘地域での情報連絡の任務を与えられる。

一 警察部の制度と組織

(イ)警察警備隊本部  警察部長ならびに若干の職員

(ロ)各町村の分遣隊  警部補あるいは巡査部長と五人で分遣隊を編成する。

(ハ)その他の隊    隊長と二人から五人で一班を編成する。数班を編成する。

(注)補強は必要に応じて、警察本部から供給する。

二 活動の目的

 戦場生活ならびにその目的の実際の状況を把握すること、同時に情報の確固とした速やかな連絡を先んじておこなうこと、住民の戦闘意欲を一層高めること。このため敵に対する活動を全力をあげて実施すべし。

(イ)活動を遂行する具体的な方法

(1)ガマで生活をしている家族たちの組織を確立すること。

(2)敵と戦うための組織的な訓練を確立すること。

(3)竹やりや鎌などの、武器の装備、使用、検査

(ロ)陸軍部隊にならった訓練 まず何よりもすべての警察官が訓練すべし。ついで民間人も訓練すべし。

(1)攻撃してくる敵兵に対処する方法

(2)パラシュートで降下してきた敵兵を急襲、対処する方法

(3)敵の野営地への夜襲の方法

(ハ)警報   敵の航空機や戦車、地上兵力による奇襲攻撃のような緊急事態の場合、鐘や笛のようなものの音で警報を出すべし。

 

三(イ)情報網  

町村の各隊長は、警察警備隊長に毎日あるいは隔日で報告すべし。

(ロ)警察警備隊の各隊長は、管轄区内の状況を報告せよ。またすべての情報報告を収集せよ。情報が入り次第、警察本部に報告せよ。

 (注)各警備隊長は、それぞれの隊員ごとに地区を割り当て、正確な情報を収集せよ。警備隊長は管轄区の責任者あるいは適当な○○(*判読不能)を任命し密接な連絡を維持せよ。

(ハ) interviewing(*この項、意味不明)

 インタビューの方法は次の通りである。戦場生活をよりよくするために、個々の鐘状のたこつぼは、重要な交通地点に直ちに建設せよ。

 (注)避難壕は、地形の必要に応じて配置せよ。一人をこの建設の担当者として任命せよ。

(ニ)特別行動隊の活動 

  (*直訳すると「特別活性化部隊」だが、『沖縄県警察史』を参照して訳した)

 特別行動隊は、それぞれの分遣隊相互の連絡を維持し、活動を容易にしながら、各町村のそれぞれの地区を組織的にパトロールせよ。同時に特に防諜に従事し、民間人の行動に警戒せよ。さまざまな防衛情報を収集せよ。

 特別行動隊は、常に内密に活動せよ。警察部長は、自身で活動の概要と連絡方法を計画し、それを最大限活用するように努めなければならない。

 

日本軍の作戦命令書などの文書もたくさん米軍に押収されている。特に日本軍の作戦命令は直ちに英訳され、米軍各部隊に配布された。その一つが、西原地区における日本軍の作戦計画の文書である。これは四月一七日に押収され、二二日には英訳が配布されている。西原地区の守備は第六二師団の独立歩兵第一一大隊が担当していたので、この大隊か、その上の歩兵第六三旅団の命令であろう。

これは斬り込み攻撃をおこなうにあたって、住民の服を着て住民の振りをし、話し方も住民のように装って、攻撃をおこなえという命令である。このことが米軍にわかり、米軍は各部隊に注意するように指示しているのである。そうなると、住民も米軍の攻撃の対象にされることは容易に推測できる。住民を戦闘に利用しても、住民の生命や安全を守ろうとする意思がまったくなかったことを示す命令書であろう。NHK番組「その時歴史が動いた さとうきび畑の村の戦争」(二〇〇四年三月三一日放送)はこの資料を手がかりに制作されたが、その中で女装をして斬り込み攻撃をおこなったという住民の証言が紹介されており、この命令がその通りに実行されていたことがわかる。

もう一つの文書は、沖縄戦が始まる前の文書であるが、捕虜になった際の心得についての文書である。日本軍は、将兵にも住民にも絶対に捕虜になるなとくりかえし教育をおこなってきたが、太平洋各地の戦闘で捕虜が次々に生れ、かれらが軍事情報を米軍にしゃべっていることがわかってきた。そのため捕虜になった際の心得を教育しておかなければならないことを認識しはじめていることを示す興味深い文書である。この英訳をレポートした米軍編集者は、「日本軍兵士が捕虜になっていること、ならびに全軍に対して捕虜になったときにしてはならないことを指示する必要があることを認めているということは、日本軍の伝統の重大な変化である」とコメントを付けている。最初の西原の文書にも捕虜になった場合を想定した指示が含まれている。こうした捕虜が増えていることへの苛立ちが、将兵や住民を脅し、投降する者を殺すなど、さらに将兵や住民を追いつめることにつながったのかもしれない。

   

西原地区における戦闘実施要領  日付なし

1〜4 (略)

5 最大限迅速に奇襲攻撃のための準備を完了せよ。

イ 常に二―五名で戦闘班を組織せよ。(陣地戦においても)常に班で戦え。

ロ 斬り込み攻撃に際しては、特別な個人の技術を活用し、それに応じて任務の分担を決めよ。

ハ 敵を欺け、しかし敵に欺かれるな(陸軍教令第一二)

二 服装においても話し方においても現地住民のように見せかけることが必要である。住民の服を借りてあらかじめ確保せよ(第一中隊によってなされている準備を承認す)。一案として方言を流暢に話す若い兵を各隊に一人を割当てよ。

ホ 攻撃や侵入、偵察に出た際、班あるいは隊から離れてしまっても、希望を捨てず、むやみに自決するな。たとえ一か月や二か月になろうとも、忍耐強く生き続けよ。そして敵の前線を突破して帰還せよ。食糧はどこででも手に入れられる。帰還の途中、敵に奇襲をかける機を逃すな。

へ 絶対に捕虜になるな。たとえやむなく捕虜になったとしても、むやみに自決するな。時を稼ぎ、機会をうかがい、噛みついてでもよいから敵に打撃を与えよ。逃げる機会をうかがい、そして敵司令部や高級将校を襲え。味方については一切何もしゃべるな。敵を欺け。

チ 敵の装備、弾薬、食糧を奪い、それらを活用せよ。攻撃の案内として現地住民を連れて行け。

 

石部隊(第六二師団) 情報記録(付録)

 一九四四年一二月三〇日

一 対間諜

イ、敵は、わが軍の陸軍航空部隊の配置や編成、装備、移動についてきわめて詳細な情報報告を受け取っている。以下はその例である。
(略)
上述のように、敵は、戦闘の最中に、あるいは沈んでいる船から、わが軍の秘密文書を捕獲している。またさらに高級司令部の将校の個人の日記が没収されたり、捕虜が情報を漏らした可能性もある。

二 対策

イ、秘密文書の配布上の機密保全

(四項目略)

ロ、完璧な精神教化

1 防諜を真剣に遂行する能力を育成するとともに、鋭く徹底した防諜観念を植え付けること。
 最近、航空機の性能や名称、部隊の移動などの機密事項の情報が、それらの飛行場に駐屯している兵士から、飛行場管理にあたる労務者や新兵、学徒の中に伝わっている。そうした情報が郵便で送られる手紙のなかに書かれている。さらに軍人や軍属らが地元住民の名前を使って、検閲を逃れた手紙が多数、投函されている。これらの手紙のなかに軍事機密にかかわることがたくさん含まれている。
 このことは、防諜教化における弱さと機密保持意識の欠如の結果であり、これらの課題について徹底しなければならない。

2 捕虜になった際における精神教化

 最近の敵の情報によると、捕虜が情報をもらした例が大変多い。
 戦争の激しさがさらに極端にすすむにつれ、敵の手に落ちたり、捕虜として捕まる者が出てくるだろう。それゆえ、特にこの点についての精神教化が考慮されなければならない。また兵士への教化はできる限り完璧でなければならない。
 上記の点に関連して、万一敵の手に落ちた場合、私的な手帳や日記など、わが軍の状況が敵に知られるような物は携行してはならないということは緊要である。
 さらに、敵の航空機搭乗員を尋問する際に注目すべきことは、かれらは自分たちの戦闘任務について最低限の必要な知識しか与えられていないということである。
 精神教化という点では本質的に異なっている敵にとっては、そうした指示は適当な方法である。これはわが軍では訓練とは呼ぶことができないだろうが、場合によっては、考慮する価値があるだろう。

 

 

 二〇〇八年度から使用される高校教科書の検定にあたって、日本軍によって「集団自決」を強いられた、あるいは「集団自決」に追い込まれたという叙述に検定意見がつき、すべて“日本軍”という主語が削除させられた。これは日本軍の犯罪性を消し去ろうとするものであり、沖縄戦研究の成果と沖縄県民の苦難の戦争体験を否定しようとするきわめて政治的な検定である。

ここで紹介するのは、慶良間列島の占領を担当した米歩兵第77師団のさまざまな報告書のなかから「集団自決」に関する叙述を抜き出したものである。日本軍の文書ではなく、米軍が慶良間の人々から聞取った証言や人々の状況のレポートである。いずれも1945年3月下旬の時点でのものである。上陸した米軍は、「集団自決」に驚き、負傷者の治療をおこなうとともに、なぜそんなことをしたのか、生き残った住民たちから事情を聞いた。断片的な叙述ではあるが、その中から、慶留間島では複数の日本兵から米軍上陸時には自決せよと命じられていること(toldという単語が使われているが、単に言われたのではなく、命令と受け取らざるを得ない状況を考慮して命じたと訳した)、座間味でも島民たちが自決するように指導されていたことが、保護された島民たちの証言で示されている(ただ座間味以外の慶良間の島民による証言が含まれている可能性はある)。

親切に治療してくれる米軍によって自分たちが騙されていたことがわかり、家族を殺したことを悔い、山に逃げている人たちに本当のことを話して助けたいという人たちが何人も出てきたことも記されている。日本軍が、米軍に捕まるとひどい目にあうというウソの宣伝を徹底し、捕虜になるな、いざというときは自決せよとくりかえし教え込んでいたことを多くの島民たちが語っている。ここで紹介したなかには触れていないが、日本軍はあらかじめ手りゅう弾を配って、いざというときには自決するように命令・強制・脅迫・誘導・教育していたことは多くの証言で明らかにされている。なにか命令文書があって、そこに「自決せよ」との命令が書かれていなければ、日本軍が自決を強制したことにはならないかのような文部科学省や一部の議論はまったく詭弁でしかない。さまざまな方法で住民は「自決」するしかないと思い込まされ、そう実行させられていったのである。それを一言で表現するならば、日本軍によって「集団自決」を強制されたというほかない。

「集団自決」という言葉の妥当性については議論があるが、「集団自決」とは何だったのか、なぜ住民はそれを強いられたのか、それを徹底的に調べ見極めることこそが求められている。どのような表現を使うにせよ、日本軍によって犠牲にされたという最も重要な特徴がわかるような叙述がなされなければならないことだけは確認しておきたい。

     

歩兵第77師団 「G2 サマリー 慶良間列島」194542

「前島で一人の民間人を捕らえた。その民間人は、日本軍はしばらく前に引き上げ、島には約二〇人の民間人が隠れていると語った。」

「慶留間− (略)ある洞窟のなかで、12人の女性が島民らによって首を絞められているのが見つかった。ほかの民間人たちが言うには、日本兵たちから、米軍が上陸してきたときには、家族を殺せと諭されていたという。民間人たちはいま、その指導に従ったことを非常に憤慨しており、ある民間人は恨みを晴らそうとある日本兵捕虜を殺そうとしたほどである。合計30人の日本兵を殺し、2人の捕虜を得、島の100人の民間人と接触した。」

「民間人の反応― この地域の民間人については何の問題もない。武器を持っていないし、反抗もしなかった。かれらは山に逃げて、自決したものもいたが、戦闘が終結し親切な扱いを施されると、喜んで戻ってきた。短期間に、かれらは物分り良く、協力的で満足するようになり、恐怖は感謝の念に変わった。幾人かは、捕らえられないように家族を殺したことを率直に後悔し、多くの者が山にもどってほかの民間人に真実を話し、かれらもまた生きて家に帰れるようにしたいと頼んできた。」

 

歩兵第77師団砲兵隊「慶良間列島作戦報告」194543

「(慶良間に派遣したパトロール隊が)およそ100人の民間人を捕らえた。またおよそ40人の民間人が洞窟の中で自決しているのを発見した。」

「約100名の民間人をとらえている。2つの収容施設を設置し、一つは男性用、もう一つは女性と子ども用である。尋問された民間人たちは、3月21日に、日本兵たちが、慶留間の島民に対して、山中に隠れ、米軍が上陸してきたときには自決せよと命じたとくりかえし語っている。」

 

歩兵第77師団軍政府分遣隊 「作戦報告」194541日 

(座間味における民間人の治療についての記述)

「補助軍医であり分遣隊の衛生将校でもあるジョン・マッカートニー大尉が上陸し、第一大隊の衛生兵と一緒に負傷者の治療に加わった。砲弾(訳者注−手りゅう弾か?)の破片によって首に深い傷が口をあけていた一人の女性、父親の手によって殺されようとして、あるいは自殺しようとして首を切られた母親と赤ん坊が、最初に治療を受けた中にいた。殺人あるいは自殺を試みた―そして実際に死んでしまった―ケースはたくさんあり、そうした行為は、日本の宣伝、つまりアメリカ軍は殺人者であり、男たちは殺し女は強かんすると教え込んでいた宣伝に従ったものであることが、すぐにわかった。」

 

歩兵第77師団「アイスバーグ作戦 段階1 作戦報告 慶良間列島・慶伊瀬島」

「軍政府」の項

 327日座間味島上陸  (以下、座間味の状況報告)

「治療が必要な民間人には第1医療部隊によって応急手当がなされ、さらに第68移動外科病院によってきちんとした治療が施された。一部の民間人は艦砲射撃や空襲によって傷ついたものだが、治療をうけた負傷者の多くは自ら傷つけたものである。明らかに、民間人たちは捕らわれないために自決するように勧告されていた。このような自決の多くの試みが実際になされていたことが後に判明した。」

 

(注)最後の文書のみ、上原正稔『沖縄戦 アメリカ軍戦時記録』でも紹介されているが、ほかと関連する資料なので合わせて紹介する。