『民主法律』(民主法律家協会)第273号、2008年5月

日本軍「慰安婦問題」問題とマレー半島・シンガポールにおける日本の戦争犯罪

                                  林 博史


 これは、2007年9月14日に大阪の民主法律家協会の主催の講演会での話をテープおこしをしたもので、『民主法律』という雑誌に掲載されたものです。大阪の人たちが、マレー半島とシンガポールのスタディ・ツアーに行くので、そのための事前学習会として開催されたものです。 2009.2.1記


 はじめに

 昨日は東京で「慰安婦」問題の講演をしてきました。ワシントンポストに右派の人びとがウソだらけの宣伝をし、インターネット上でもデマがとびかっています。いま世間に広がっている「慰安婦」問題に関するデマを1つ1つ切るという、昨日はそういう話をしてきました。また今年の春に教科書検定で「集団自決」における日本軍の強制を削除させるという検定がありました。文部科学省があの検定のときに根拠にしたのが実は私の本です。教科書執筆者に対して、「林博史の本に沖縄戦についてこう書いてある。だから強制したという文言を削除しろ」ということを言っていましたので、私は激怒しました。私の本の結論には「集団自決というのは日本軍の強制と誘導によるものである」ということを断定しているのですが、全体の文脈と切り離して、ただ「当日の部隊長の命令はなかったと思われる」という下りがあり、その1行だけをとりだして、「日本軍の強制そのものはなかったんだ」とされた。このことについてはNHKにも何回か出て反論をしているところです。

 今年、私は「シンガポール華僑粛清」という本を出しました。これは誰でも手に取ればシンガポールのいろんな現場に自分で行けるように書いています。いわゆる研究書の書き方ではなくて、たとえばその現場は地下鉄のどこで下りて、どこの通りになるという、1人で歩けるような本というつもりでまとめていますのでご参考にしてください。

 

1 シンガポール華僑粛清の経過

マレー半島の住民(1941.6時点)は合計552(76.9)万人(*括弧内はシンガポールのみの人数)で、そのうち、中国人238(60)万、マレー人228(7.7)万、インド人74(6)万、ヨーロッパ/ユーラシアン人(1.5)万人です。このように、マレー半島は多民族の地域です。
 戦争が始まる前、中国人とマレー人が同じぐらいの人口でした。ただ、シンガポールは圧倒的に中国人の町です。シンガポールは、東南アジアの全体の地図があれば分かりますが、東南アジアにおける軍事、政治、経済、あらゆる面における中心です。当時はイギリスの植民地でした。
 太平洋戦争の開戦は、真珠湾攻撃によってはじまったのではなくて、マレー半島上陸作戦によってはじまりました。真珠湾攻撃より1時間あまり前にマレー半島上陸作戦がはじまりました。

もともと日本が太平洋戦争をはじめた最大の目的は、東南アジアにおける石油をはじめとする資源の獲得でした。そのためには東南アジアを抑えるために、要であるシンガポールを取るということを考えたのです。ただシンガポールは海から攻めるのは非常に難しいので、北にあるマレー半島のほうから入って南下をしてくるという、そういう戦略をとります。この地域、シンガポール、マレー半島も含めてですが、とくに中国人たちは本国が長年日本の侵略戦争の被害を受けており、長年にわたり抗日運動、祖国を支援する運動をやっていました。シンガポールは経済の中心です。当時、華僑は非常にお金をもっていて、彼らがお金をカンパして、それを中国に送金する。あるいは、たとえば日本製品の購入をボイコットするというような、東南アジアにおける抗日活動の拠点でもありました。ですから日本軍は最初からこの地域の中国人というのは大体にして抗日的であるという先入観をもって入ってきます。シンガポールの攻略戦に参加したのは第25軍で、構成は3つの師団で、マレー半島の北から入ってきます。

1942年1月末にはマレー半島の南端にあるジョホールバルという町を占領する。約1週間の準備期間を経て、2月8日の深夜にシンガポールへ上陸する。そしてイギリス軍が降伏するのが2月15日です。ですから、シンガポールではいつも戦争の一つの重要な記念日は2月15日になっています。
 このときに、日本軍は戦闘部隊を市街地に入れると不祥事を起こすということから、これは南京をはじめとしていろいろ経験がありますから、戦闘部隊は一切街には入れなかった。憲兵隊と補助憲兵―歩兵部隊を一時的に憲兵にした部隊―だけを街に入れ、そこで「華僑粛清」というのが行われます。
 河村参郎少将が、シンガポール警備司令官に任命され、そこで山下奉文中将から掃蕩作戦命令を受けます。それは「シンガポールにおける抗日分子を絶滅する。それを3日間でやれ」という命令です。シンガポールの当時の人口は約70万人です。マレー半島の北部からどんどん日本軍が迫ってきますから、それにともなって半島の南端にあるシンガポールに逃げ込んできている人もいますから、当時はもっと人口が増えていたはずです。しかも圧倒的多くは中国系でした。日本軍の掃討作戦で考えられている抗日分子というのは中国系の人びとです。

たとえばどういうものを対象とするのか、この対象というのは単に逮捕するのではなく、処刑する対象です。「元義勇軍兵士」、「共産主義者」、「略奪者」、「武器を持っていた者」、「日本軍の作戦を妨害する者」、「治安と秩序を乱す者」、「治安と秩序を乱すおそれのある者」などです。これはマレー半島でもそうですが、実際に何か妨害活動をやっていたものだけではなくて、その「おそれのある者」、つまりやりかねないものは予め殺してしまうという非常に荒っぽい手段がとられてきます。
 当時、シンガポールにいる中国人が約60万人です。基本的にだいたい18歳から50歳ぐらいのまでの男が対象にされましたが、実際には年齢幅はもうちょっと広がります。人口の半分が女性だとしても、男性が30万人、そのうちの18歳から50歳の年代はたぶん20万人ぐらい。その中から3日間で抗日分子を選び出して処刑するという、少し考えただけでも非常に荒っぽい手段です。

当時、憲兵隊は約200名です。あと補助憲兵がいますが、200名の憲兵で20数万人の人を抗日分子かどうかという選別するわけです。憲兵隊ではそのような命令を受けて、「とてもそんなことできない」ということで抵抗します。ただ軍司令部は「命令だからやれ」ということでやっていきます。そのときに憲兵隊は自分たちだけでは選別することができないので、以前からの現地の警察官を使います。警察官や情報局員、イギリスの植民地支配ですから、イギリス当局は現地の中国人やマレーシア人などを使っていろんな情報を収集する活動させるわけです。とくにマラヤ共産党があり、その共産党組織を探らせる、そういう情報収集にあたったものたちを連れてきて、それを「粛清」で利用していきます。

2月21日からシンガポールの市街の7個所で、「18歳から50歳までの男子はどこそこに集合しろ」という布告を出して集めます。この段階から混乱がはじまりまして、憲兵隊将校の証言では「18歳以上と布告をした」とありますが、実際にシンガポールの人々の証言を聞くと、「17歳以上と言われた」、「16歳以上と言われた」、「女もいっしょ」、「男だけでいい」などと非常に混乱している。だいたい10代の後半から50歳ぐらいまで中国系男子が中心に集められ、そこで「選別」がされました。何千人、何万人集まってくるなかでどうやって「抗日分子かどうかを選別」するのか──。これはでたらめとしかいいようありません。まず、入れ墨をしている者はダメです。どうも日本人は変な先入観があり、入れ墨をしている人間は秘密結社の一員で抗日組織だということで、入れ墨しているのはまずダメです。「選別」された人がある程度集まるとトラックに乗せて郊外に連れて行き機関銃で処刑していく。

タン・カーキーという人物がいて、この人はシンガポールの財閥の大物です。いわゆる抗日運動のリーダーです。「タン・カーキーを知っているか?どう思うか?」と聞く。だいたいの人は知っているわけですが、「知っている」と答えるとだいたいだめで、「知らない」と言えばいい。「蒋介石と汪兆銘とどっちがいい」と聞く。蒋介石は日本に抵抗していましたが、汪兆銘は日本の南京にあった傀儡政権です。ですから「どっちを支持するか」と聞かれて、「汪兆銘」と答えればいい。もし「蒋介石」なんて言うと「選別」される。それから、公務員はだいたいダメで「選別」される。義勇軍というのがあり、現地の人間をイギリス軍が義勇兵として召集しましたが、その義勇兵であったということを申告するとそれもアウトです。学校の教員もだめです。教員というのは反日教育をやっているから教員というのはだいたいダメです。場所によって違うのですが、何万ドル以上の財産がある者は「選別」されるところもありました。財産があるということは中国に対していろいろ義援金、支援金を送っているだろうとみなされる。

ある憲兵隊の曹長の証言がありますが、当時、日本軍の間で「シンガポールの人口を半分にする」ということが言われていた。だから半分にするには抗日分子をいっぱい「選別」して殺さないといけない。憲兵隊の曹長が「インテリらしいものはみんな選別した。これは服装で判断した」と言っています。ですからせいぜい質問されても1人につき1つか2つの質問で、それで生きるか死ぬかが「選別」される。どうも最初のうちは1人ひとりに一言、二言聞いていたようですが、途中から時間がなくなってまとめて「公務員だったものは手を挙げろ」、「教員だったものは手を挙げろ」と聞かれて、手を挙げたものは「選別」されて殺される。1人1人に質問せずにそういう形で「選別」をするというやり方もとられています。

「選別」されて集められた人たちはトラックに乗せられて、シンガポールの街から東海岸の方に連れて行かれて、波打ち際で機関銃で一斉射撃する。そのあと生き残っているものは日本兵が1人1人銃剣でとどめを刺して海に流すという、そういう手法がとられています。あといくつか沼地のところへ連れて行って殺したあと、遺体を軽くちょっと埋めるという、そういう手法もとられていますが、どちらとも東海岸が多い。

シンガポールの東端にチャンギ空港というのがあります。チャンギ空港はほとんど戦後埋め立てられたところにつくられた1970年初めにできた空港ですが、チャンギ空港のターミナルはターミナル1とターミナル2があって、ターミナル3がまもなくオープンします。ターミナル1というのは、戦争当時はちょうど海岸線にかかっているところに建っています。シンガポール航空でいくと今はターミナル2に着きます。そこは当時は海でした。今度できるターミナル3は当時のほぼ海岸線に沿ってつくられます。ちょうどそのあたりが虐殺の地です。ですからチャンギ空港に着いたときにたぶんそのあたりの足元の海は虐殺された死体がただよって地域と考えてまず間違いないです。チャンギ空港からは非常に広いハイウェイがずっと続いていて市街に入っていきます。ハイウェイが通っているところは全部戦後、1970年代以降に埋め立てられたところです。だいたい空港から市街にいく海岸線というのはあちこちで処刑が行われた地です。その地帯にいまハイウェイが走っています。ですからシンガポールに行かれた場合、チャンギ空港に着いたとき、まさにそこが虐殺の現場です。たぶんそんなことを誰も意識しないでチャンギ空港に降ります。私も最初のうちは分からなかったのですが、とにかく今の地形と当時の地形がシンガポールはまったく違います。以前の、開発される前の地図を手に入れて、それをずっとトレースして当時の海岸線と処刑の場所をポイントしていくと、まさに空港の位置が処刑の場所にあたるのです。

「粛清」によって殺された人びとの数については、シンガポールのミュージアムなどでは2万人という展示もありますが、大体5万人という数字が多いです。日本軍側、これは戦争が終わったあとの戦犯裁判で戦争犯罪として追及されたときに日本側、つまり弁護側が主張した人数ですが、その人数は5000人です。「粛清」の存在自体は日本軍も認めざるを得ないので、日本軍が認めた犠牲者数がだいたい5000人です。その根拠になっているのが、河村少将個人が付けていた日記があります。そこに194222311時、憲兵隊長を集めた会議を行い、そこで各地区での処分人数を報告させたところ「合計が約5000人」と書かれてあり、おそらくこれが日本の主張の根拠になっている。この日記はずっと行方不明で現物が一体どこにあるのか分からなかったのですが、これを私がイギリスの公文書館の中に眠っているのを見つけて現物で確認しました。日本の弁護側は、河村少将の日記の記述を基にして戦犯裁判で弁護に使うのですが、そのときに日本軍に都合のいいように書き換えている。原本がでてきたので、戦犯裁判で日本軍が都合のいいように書き換えて主張していたことが分かりました。結局私がいろいろ調べた限りでははっきりした犠牲者の数はよく分かりません。 

シンガポールは1960年代ぐらいから少しずつ郊外の開発が始まり、あちこちで死体が出てくるのです。もちろん、海に流された分はもう分かりませんが、沼地などに埋めた分に関しては再開発されていくとそれが出てきて、その遺体を集めて甕に入れていった。シンガポールの中心に血債の塔という大きな記念碑が建っていますが、いまはそこの下にその甕が納められています。ただ、遺体もバラバラになっていますから正確に何体というのははっきりと分からないのですが、粛清で殺された人は、ともかく5000人以上であることは確実だと思います。
 シンガポールの「粛清」では、殺されたのは基本的には男子です。10代の後半ぐらいから上は50代ぐらいまでの成年男子がそういう形で殺された。シンガポールの首相だったリー・クアン・ユーという人物がいますが彼も「粛清」を体験しています。彼は殺される方には「選別」されなかったので生きているのですが、彼の友人たちはずいぶん殺されたようです。

 

2 マレー半島での華僑粛清

シンガポールで占領後すぐにこういう「粛清」をやります。それと同時に、2月19日の南方軍の命令、そして21日の第25軍命令で、マラヤ全域での治安粛清命令というのが出されます。マラヤという言い方はシンガポールとマレー半島を含めた言い方です。

シンガポールの「粛清」は市街地を憲兵隊が担当しました。郊外のシンガポール島に関しては東京で編成された近衛師団が担当しました。そして、マレー半島全域は第5師団(広島・師団長松井太久郎中将)と第18師団(久留米・牟田口康也)が担当しました。現在、広島城の中に護国神社がありますが、そこが第5師団の司令部あとです。第18師団がジョホール州という、マレー半島の一番南側の州を担当し、残りのマレー半島全土を第5師団が担当しました。

このマレー半島のなかで、日本軍の詳細な記録が残っている地域が1つだけあります。それがネグリセンビラン州という州です。マラッカとクアラルンプールに挟まれた州がネグリセンビラン州です。ネグリという語源はネーション(国)です。センビラン(正確にはスンビラン)は「9つ」という意味です。ここは小さな国が9つあり、それがいっしょになって、ネグリセンビランと称した。その周りにクアラルンプールのあるセランゴール、パハン、ジョホール、マラッカという非常に大きな勢力のある王国があって、その大きな王国に挟まれた9つの小国がいっしょになった。それぞれの州にはスルタン(あるいはサルタン)という王がいて、かれらはイスラムの宗教上の指導者でもある。政治と宗教の指導者であるスルタンがいます。ネグリセンビランは、マレー人の国ですが、ここの地域の人々はもともとマレー半島にいた人びとではなくて、対岸のスマトラ島から移ってきた人びとです。同じマレー人のなかでもこの地域の人々だけはちょっと違うそうです。ただ私などは見ても全然分かりませんが。同じマレー語でもちょっと言葉が違ったり、いろんな習慣だとか、風習が違うようです。それはよほど詳しく知っている人ではないと分からないと思います。

この地域の「粛清」を担当した部隊の「陣中日誌」という記録が残っています。この歩兵第11連隊というのが、ネグリセンビラン州とマラッカ州の「粛清」を担当した部隊です。この第11連隊の本部は広島市です。広島城のお堀のすぐ東側が歩兵第11連隊の本部があったところです。この11連隊のなかのいくつかの部隊の記録が残っています。
 私がこれを見つけたのがちょうど20年前です。非常に驚いて、それ以来、資料を見つけた責任上これをきちんとまとめておくことが仕事だと思いました。『華僑虐殺』という本、私が15年前に出した本ですが、これがネグリセンビラン州での「粛清」を、日本軍の資料と、現地でずっと聞き取りをしまして、約50人〜60人に話を聞いて、それらを含めてネグリセンビラン州の地区での実態をまとめた本です。いまはもう手に入らないのですが、図書館のどこかにあるかもしれません。

この資料「陣中日誌 第5号 歩兵第11連隊第7中隊」をちょっと見てください。こういう資料を見ると臨場感があるので、これでちょっと説明します。
 歩兵第11連隊の中に大隊が3つあります。第7中隊というのは第2大隊に所属しています。第1〜4中隊が第1大隊、第5〜8中隊が第2大隊、第9〜12中隊が第3大隊という構成です。
 25軍命令→師団命令→連隊命令→大隊命令ときます。資料の最初のところ「第2大隊命令」とあり、「師団ハ、ジョホール州及ビ昭南島ヲ除ク馬来全域ノ迅速ナル治安粛清ニ任ズ 渡邉部隊……」とあり、この渡邉部隊というのが歩兵第11連隊です。連隊長の名前が渡邉です。
 2月の末にこの部隊はネグリセンビラン州に入ってきます。「227日」というところに「南警備隊命令」とあります。この南警備隊というのは歩兵第11連隊のことです。「227日に南警備地区ニ於ケル敵性分子ノ分布並ビニ策動状況ハ別紙要図ノ如シ」とあります。

資料別紙に「南警備地区ニ於ケル敵性分子ノ状況」という地図があります。これは日本軍の陣中日誌に挿まれている地図です。これで日本軍のネグリセンビラン州の情勢認識が非常によくわかります。かなりでたらめな部分とある程度正確に情報をつかんでいる部分と両方ありますが、でたらめな部分でいうと、地図の右下に「約2千ノ敵性分子500宛ノ組ヲ作リ…」と書かれています。この情報がどこから来たのか確認できません。

実は日本軍がここに入って来たとき、1942年2月末、シンガポールが陥落してからだいたい2週間後ですが、ここにいた抗日ゲリラは約30数名です。マレー半島の抗日ゲリラの研究というのはずいぶん進んでいまして、戦後になって、この抗日ゲリラのメンバーの回想録がいっぱいある。また戦後もどってきたイギリスもかれらの研究をやっています。日本軍が最初入ってきたときから、自分たちがどういうふうにゲリラを組織して、どういうふうに配備して、どういう風に戦ったのか、というのがずいぶん記録が残っています。一部かなり誇張されている部分もあるのですが、いろいろよくわかります。

戦争が始まると、日本軍とたたかうためにイギリス軍がマラヤ共産党の協力を得て青年たちを集め、シンガポールで訓練をします。全部で165人の青年を集めて、それを4グループ分けてマレー半島に送り込んできます。そのうちの35人のグループがこの州に入ってきます。
 シンガポールから密かにジャングルの中をずっと入ってきて、この地図でいいますと右側の上のほう、クアラピラという地があり、「共産党根拠地」と書いています。この近くに入ってくる。この地図に「1月14日放火アリ、2月6日、警察ヲ襲撃スル」と書かれています。実際、ゲリラが警察署を襲撃する事件がありました。2月6日ですからシンガポールへの上陸作戦がはじまる前です。ところがこのゲリラたちは遠くから銃を撃ちながら近づいていったので簡単に撃退されます。副隊長以下3名が死亡するという損害をうける。簡単に撃退されてそこから北西のほうに逃げていく。クアラピラの上に、カンポンペリトチンギと書いていますが、正確にはパリッティンギという村があります。ここを通ってさらにずっと北西のほうへ逃げていく。この辺りは今も道路がないように、完全に山です。山を越えて北西の方に逃げていく。ここのパリッティンギという村はもうそこで行き止まりです。ですから日本軍はゲリラがパリッティンギのほうへ逃げていったという情報は得たようで、そのためにこの村にゲリラが潜んでいるというふうに判断したようです。

今回のツアーの中で孫建成さんに会われるのですね。彼は虐殺で生き残った方でパリッティンギ村に住んでいた方です。そこで約600数十人の村民が皆殺しにされています。女性、子どもも含めてみんな皆殺しです。彼は確か11人ぐらいの家族でしたが、彼とおばあさんだけが助かりました。日本軍が1軒1軒家の中に入ってきて住民全部連れていきます。村の広場に集めるんですね。そのときに彼とおばあさんとだけは恐くて隠れていたので助かったんです。それ以外の家族はみんな殺されています。村民たちを村の中心に集めて、そして十数人ずつに分けてゴム園だとか畑に連れて行ってそこで刺殺です。銃剣で刺し殺しています。シンガポールでは機関銃で撃ち殺しているのですが、ネグリセンビランの虐殺は、すべて銃剣で刺し殺しています。

いまの陣中日誌の地図で言いますと左上にクアラクアラン、「共産党根拠地」と書いてあるところがありますが、そのうえにチチ、性格にはティティという街があります。その横にイロンロンという村がありますが、ちょっと状況を説明しますと、マレー半島の中部に山脈が走っています。その山脈がちょうどネグリセンビラン州の途中まできている。マレー半島はスズ鉱山で有名ですが、マレー半島のスズというのはこの山脈の両側で採れます。このティティという村、ネグリセンビラン州の北のほうにもスズ鉱山がある。ティティの周辺もスズ鉱山があって、スズ鉱山の労働者を組織してそこに共産党の影響力が入っている。このティティの周辺はかなり共産党が強かったようですし、近くにあるイロンロンという村は、共産青年同盟の拠点だったそうです。30人あまりのゲリラがクアラピラの警察襲撃に失敗して、このジャングルを抜けて、こちらのほうに逃げてくる。このあたりには共産党の組織があるのでジャングルのなかにキャンプを構えますが、食料などは共産党のルートを通じていろいろと援助してもらっていた。実際には村にはいなくてジャングルのなかでキャンプをはっていた。

このイロンロンというティティの隣村でも約一千人あまりが皆殺しされています。当時約二百軒ぐらいの家があったのですが、日本軍はここでも村民をみんな集めて、十数人ずつ家の中に入れて銃剣で刺し殺して家に火を付けて村全部を燃やした。これにかかわった当時の日本兵の話も私は聞きましたが、「遠くからでも村が燃えるのがよく見えた」という話です。そこでは千数百人が殺されている。ネグリセンビラン州で最大の虐殺があったところです。
 陣中日誌をみますと、この部隊の陣中日誌では、3月4日「本日不偵分子刺殺数五五名」、3月5日は「本日不偵分子六〇名刺殺ス」という、こういう形でずっと書かれています。
 3月12日、このときの粛清命令が、いま言ったクアラピラの近くのパリッティンギの虐殺があったときの作戦です。ネグリセンビラン州を大体6つに分けて、連隊が順番に「粛清」を行ってきています。
 3月16日、ここには「不偵分子一五六ヲ刺殺シ」とあります。この陳中日誌は第7中隊ですが、第7中隊はパリッティンギには行っていません。これはクアラピラの南側での「粛清」の記録です。
 3月18日、19日もそういうふう「不偵分子ヲ刺殺シ」という記録があります。

資料としてジョルンドン(イロンロン)村の地図をつけておきました。マレー語ではジョルンドンが正確ですが、ただ中国人たちは自分たちで中国名の名前をつけます。それがイロンロンです。この地図は戦犯裁判にかけられた将校が書いたものです。クアラクラワンとチチから少し西に入ったヂーロンロンと書かれている村が1千人あまりが虐殺されたイロンロンにあたります。イロンロン村のちょっと北のほうにゲリラがキャンプをはっていたようです。村の人びとは学校に集められますが、これを書いた将校は集めた人びとを警備する担当でした。ですから直接の処刑はやっていない。別の中隊がやったのですが、彼はこの体験が非常に衝撃だったようです。とくに彼が戦犯裁判で語っているのは、「10代の若い女の子たちが日本兵に殺されていく。それで自分の妹を思い出してしまった。それがすごくつらかった」という話しをしています。彼は中隊長としてそれから1年ぐらいこの地域に駐屯するのですが、自分の警備地区では二度とこういうことはやるまいと決意した。それ以降はいろいろ憲兵隊が「おまえの警備地区にゲリラが潜んでいる」ということを言われても、「それは村民ではない。外から入ってきている連中だ」とか言って、憲兵隊の動きをはねのけたというのでこの地域ではその中隊長は非常にみんなに慕われています。私が驚いたのはその地域に入ってみると、「あの中隊長は元気?あの人はすごくいい人だった」という話をよく聞きました。

その人は「ほんとうに日本軍がやったことはひどかった」ということを反省しているのですが、ただ戦友会の手前、「自分がそういうことを言っていることは伏せてくれ」といわれています。現地の犠牲になった人たちのお墓に花束を供えてほしいと私にお金をくれて支援はしてくれていますが一切匿名です。

ネグリセンビラン州では、順番に時計回りで地域を「粛清」しました。最後にセレンバンという州都の「粛清」をやります。これが最後です。セレンバンとマラッカを同時に粛清します。都市部では皆殺しにするということはできないので、シンガポールとほとんど同じで、日本軍が1軒1軒入っていってそれで抗日分子らしきものを引っ張ってきて処刑するというやり方をとっています。そのときの日本軍の作戦命令書があります。
 3月25日に実施されたセレンバンとマラッカの粛清命令文書の一部です。
「一」、「二」は省略して、「三、検索検挙実施要領、四、敵性容疑者トシテ判定標準左ノ如シ」とあり、「──(イ)検索或ハ検挙ニ際シ反応シ又ハ態度不遜ナル者」と書いてあります。こうした者は検挙しろということです。不愉快な態度を示すとそれで「不遜だ」と言われて逮捕されるわけです。

「(ロ)第三項記述ノ物品ヲ所持スルモノ(家宅内ニ於イテイルモノヲ含ム)」とあります。銃、刀とかあるのですが、あと蒋介石の写真とか、中華民国の国旗、或いは蒋介石を援助したようなもの。ですから抗日宣伝のビラだとか、そういうものを置いているとそれだけで検挙される。
「(ニ)敵性分子共産党員ノ疑ヒアル者」
「(ホ)馬来作戦開始以後ノ新来者並無頼漢」──この新しく来た者というのは、シンガポールでも実はこれで「選別」されているのですが、大体3年か、4年以内に来た者というのが選別される対象になります。なぜ新しく来た者が選別される対象になるかというと、つまり「日中戦争が始まってから中国からマレー半島に来た。これは要するに反日的だ。日本に反発をもっているから中国から逃げてきたんだ」という、そういう認識だったようです。ですから新しく来た者は抗日的と見なされる。
「(ヘ)教員」──学校の教員はもうダメなんです。

以上の者たちを逮捕しろということです。

「五、処断  先ノ者ハ処断ス」として挙げられている項目は次の3つです。
「(イ)敵性分子
共産党員タル事明カナル者
「(ロ)態度終始不遜ナル者」

 つまり態度不遜であれば検挙して、態度終始不遜であれば処刑しろということです。

「(ハ)本人ノ存在ハ社会ノ秩序ヲ乱スト判定セラレシ者」

 つまりこれが生きていると社会の秩序を乱すと判定した者ということです。
 これが人を処刑する理由です。めちゃめちゃな理由としか言いようがありません。

 次に「1942年3月6日セランゴール州内の一斉検挙の結果」とつけた資料があります。
 この資料はセランゴール州の「粛清」の記録です。活字にしてあるのは日本語が残っていなくて英訳だけが残っていたからです。これはアメリカの公文書館で見つけた資料です。アメリカ軍は日本軍から没収した重要な資料は英訳しています。残念ながら原文が見つからないのです。

 クアラルンプールを含めセランゴール州の「粛清」を担当した部隊はその後ニューギニアに送られます。ニューギニアのポートモレスビー作戦というニューギニアを山越えして南側のポートモレスビーを攻撃する作戦に投入されてほぼ全滅します。たぶんそのときに持っていた資料がオーストリア軍かアメリカ軍に没収されて、彼らがそれを翻訳したものでしょう。たった1枚だけです。今年の夏もアメリカに3週間行ってきましたが、1回行くと何百箱か、アメリカというのは公文書がボックスに入っていますから何百ボックスかみるのです。その中でたまたま1枚見つけた資料です。
 ここでもどういうものを逮捕し、処刑したのかということを書いてあります。

日本軍に抵抗した者/スパイ容疑者、武器や破壊的文献の所持者/逃亡を企てた者/中国旗、反日写真、親英の所持者/旅館の宿泊人とその従者/教員/平和回復社会の確信的同調者/敵の貨幣、有価証券の保持者/他の容疑者(ギャングを含む)

 マレー半島での主な虐殺事件というのは19423月に集中していますが、ネグリセンビラン州では830日に368人が犠牲になった住民虐殺事件がおきています。これは虐殺のあとに生き残った人びとが日本軍の許可を得て死体を全部埋葬したときに数えた数だと言われていますからかなり正確な数字と思われます。その事件について日本軍の文書が残っていますが、ここでは殺したのは80人だと書いています。

 このネグリセンビラン州における「粛清」に関しては日本軍の資料が残っていたことによってほぼ実情が分かります。現地の人びとの証言と日にちも一致しますし、大体の状況も一致しているので非常によく実態が分かるところです。このネグリセンビラン州で殺された人数というのは合計で3000数百人ぐらいではないかと私は推定しています。他の州でもあちこちでそういう事件が起きています。このときに上のレベルの具体的な命令書というのがそれほど残ってはいないのですが、第5師団の何人かの下級将校の将校の証言が残っています。その証言をいくつかみていくと、たとえば命令の文書には出てこないのですが、口頭で「女や子どもまで殺すんだ」というふうに言われている。マレー半島の北の方にケダ州というところがあるのですが、そこの将校が「いくら抗日で共産党員であっても子どもまで殺す必要がないんじゃないか」と言ったら、上官から朝鮮半島の例を持ち出されて、「朝鮮で独立運動家を処刑した。そうしたらその子どもが大きくなって日本に恨みをもって独立運動をやる。だから子どもも殺すんだ。」と言われた。

 第5師団のなかのいくつかの部隊の将校の証言からも、口頭で「女性や子どもも殺せ」ということがあっちこっちで言われたようです。師団として共通の命令であったと思われます。ただこれは文書には残っていません。だいたい命令の文書というのは「女、子どもまで殺せ」とまで書かない。安倍首相は辞めましたが、彼に言わせると「そんな証拠はない。文書がないから事実ではない」というふうになるのでしょうが、そういうことはみんな口頭でやるわけです。かなり末端のほうでは、下級の将校、小隊長、中隊長クラスは抵抗するようですが、でもそれは「やれ」ということで命令された。

 マレー半島、シンガポールを含めますと農村地帯においては、ここは抗日の拠点だと見なされた村・集落が皆殺しにされています。女性、子どもも含めてです。シンガポールを含めて都市部では皆殺しにはできませんから、だいたい男を捕まえてそれを選別して、一旦集めて、それをトラックに載せて人里離れたところに運んで処刑をするという手法がとられています。
 実際に処刑にかかわった兵士の証言を私も以前に聞いたのですが、残念ながらだいたいもうみなさん亡くなられてしまっています。あるところでは、クアラルンプールで中国人を刑務所からトラックに乗せて処刑場に運ぶ、そのトラック運転手をしていた兵士の証言を聞きました。その方も何年か前に亡くなられましたが、彼に話によれば、全部で
700800人ぐらいをクアラルンプールの郊外に連れて行って、ちょっと穴を掘らせてその前でみんな銃剣で刺殺していく。そういうやり方をしたそうです。

ネグリセンビラン州でもそうですが、とくに農村地帯の場合には女性や子どもの犠牲者が非常に多い。いろんな聞き取りで家族の構成を聞いても、女性、子どもの犠牲者が非常に多い。なぜかと言うと、集落ぐるみで皆殺しにされているところは主な道路からかなり離れたところ、奥に入ったところにあった集落です。さきほどのパリッティンギもちょうどその集落の裏で道が途切れて、あとはジャングルだというところに位置しています。イロンロンもそうです。

つまり日本軍が来るときに女性や子どもは市街にいると危ない、あるいは主な道路沿いにいると危ないというので、男はだいたい市街あるいは道路沿いの家に残って、女性や子どもを道路から奥まったところの親戚などを頼って、ゴム園の宿舎や、奥まった集落に避難させたんです。ところが日本軍は奥まった集落にいるのは抗日ゲリラか抗日ゲリラの協力者に違いないと考えたようです。ですから主な幹線道路沿いに残った男たちはだいたい助かって、むしろそういう奥まったところに避難した女性や子どもたちがみんな殺されている。これは日本人の華僑認識とも関係しますが、ある兵士が言っていましたが、華僑というのは大体街で商売をやっている者だというイメージをもっている。だからジャングルの奥にいるのはあやしいやつらだということを、このネグリセンビラン州にいた日本兵が言っていました。

しかし実際には農民がたくさんいるわけです。街で商売をやっている華僑もたくさんいますが、ジャングルを開拓して自分たちで農地をつくっている農民の華僑もたくさんいるわけです。ですから日本軍の華僑認識が全くでたらめな認識で、そのためにおそらく全然関係ない女性や子どもまで皆殺しされたという、そういうケースがたくさんあると思います。

 

3 華僑粛清の背景・理由など

 日本軍はかなり早い時期から「華僑粛清」の計画を立てたようです。第25軍軍政部は『華僑工作実施要領』を19411228日に作っています。そこでは「積極的誘引工作ハ之ヲ行ハズ」とあり、華僑の誘引工作を求めるようなことをやらない。そして、「(服従を誓い協力を惜しまない者)然ラサル者ニ対シテハ断固其ノ生存ヲ認メザルル者トス」という、つまり、自分のほうから日本軍に服従をして積極的に協力しないものは生存を認めないという方針を1941年の年末に、まだ日本軍がマレー半島の北の方にいる段階で決定します。

 シンガポールの華僑粛清については1942年の1月末か2月初めの時点で、つまりシンガポールにまだ上陸する前の段階で、憲兵隊に対してシンガポールを占領すれば「粛清」を行うから準備しろという命令が伝えられています。ですから日本軍は最初からこの地域の華僑というのは抗日的だというふうに決めつけてかかっている。つまり占領した直後に抗日分子、あるいは抗日活動をやりかねないようなものを最初に処刑して殺してしまう。それによって抗日活動が起こらないようにするという、そういう政策で臨むというわけです。ですから何もやらないうちに抗日活動をやりかねないものを予め殺してしまうという、非常に乱暴なやり方がやられたわけです。

     一般的に言われている理由(俗説)に根拠はあるのか?

シンガポールの華僑粛清については、いろんな俗説、根拠のない俗説がいっぱいありました。まともな研究者でも「シンガポール戦における華僑義勇軍の激しい戦いのためにして日本軍に多大な犠牲が出た。それで日本軍が非常に激怒してそれへの報復として粛清をやった」──といった書き方がされる場合がときどきありますが、これはまったくでたらめです。そのような理由は戦後の戦犯裁判のときにも日本の弁護側は一切言っていません。もしそうであれば当然戦犯裁判のときに弁護側が言っているはずでしょう。そもそもシンガポールに上陸する前に粛清をおこなうことが憲兵隊に命じられていることを見ても明確です。

華僑の義勇軍で実際に戦闘に参加したのは多めに見積もっても600人ぐらいです。4つの部隊に150人ずつに分かれて配置された。イギリス軍は華僑義勇軍を信用していなかったので旧式の小銃しか与えていない。ですから機関銃は与えられていない。日本軍の記録は私が調べてイギリス軍側の記録はシンガポールの研究者が調べたのですが、記録をみても戦闘において華僑義勇軍というのはほとんど影響を与えていない。日本軍の記録をみても華僑義勇軍の話は出てこない。華僑義勇軍がいたという程度のことはわずかに日本軍の記録にもあるんですが。

戦後になって義勇軍の参加者たちが軍人として認められなくて、それで戦死したり怪我をしてもなんの補償もないということで問題が起きています。そこでかれらはイギリス軍人なみの補償を受けるためにイギリス当局に対して「自分たちはこんなに勇敢にたたかい、こんなに成果をあげたんだ」ということを書いて宣伝をします。しかし日本軍の記録とイギリス軍の記録をみても華僑義勇軍がほとんど重要な役割を果たしていないことは明らかで、義勇軍の戦いというのは戦後になってかなり想像でつくられたものです。逆にそれが日本の右派から「華僑義勇軍がこんなに日本軍に打撃を与えたからだ」ということに利用されている。そういう関係があるのだと思いますが、実際の戦闘ではほとんど影響を与えていません。そもそもシンガポールに上陸する前からこの粛清計画というのは計画されていたのですから、シンガポール戦で華僑義勇軍が勇敢にたたかったのでその報復でやったという理由はそもそも成り立たない。

この「粛清」というのは当時の憲兵隊からも非常に不評でした。大谷敬二郎憲兵中佐という人物がいますが、彼は「この華僑弾圧は、第1、その後におけるマライ地区治安不良の重要な原因をなし、第2に華僑軍政不協力となって酬いられることとなった」と批判しています。また、当時の大西覚憲兵中尉という粛清を行った憲兵隊の幹部ですが、「これは人道に反する大罪悪である」というふうに彼は断言しています。したがって、さすがに日本でも、いくら日本軍を弁護しようとする人々でも、こんな事件はなかった、とはさすがに言えない事件です。それでもウソを言う人はいますが。

 

4 マレー半島・シンガポールの日本軍「慰安所」

 日本で日本軍「慰安婦」の問題がかなり大きくクローズアップされたのは1992年です。91年ぐらいから元慰安婦の方が韓国で出てきて、日本軍の資料が出てきたのが92年です。関係者はみんな知っていたわけですが、92年に資料が公にされた。

当初は日本軍「慰安婦」というのは圧倒的に朝鮮半島の女性が多いと思われていました。私はマレーシアにずっと通って、「それはちがうだろう」という印象をもっていました。それでいろいろ資料を調べて、現地での聞き取りをしていったんですね。90年代の前半にかなり集中して調べたんですが、東南アジアでは太平洋戦争の開戦前から軍の中央、陸軍省において「慰安所」設置の計画があり、準備がされています。すでに日本は日中戦争をやっていますから、東南アジアを占領したあとどうするのか。「慰安所」が必要だということを、太平洋戦争開戦前から陸軍の内部でずっと議論し検討しています。中国の場合には日本本土や朝鮮、台湾から女性を集めて連れて行くというケースが多いのですが、東南アジアの場合は、大体現地の女性を集めている場合が非常に多い。もちろん日本や朝鮮半島からも連れて行っていますが、そんなにたくさん連れて行けないので現地で集めている。その場合、軍が直接に行っているケースが多いです。東南アジアにおいて「慰安婦」を集めた方法、詳しくは参考文献の中にいくつか書いてありますし、私のホームページを参考にしてください。

東南アジアで「慰安婦」をどういうふうに集めたのか。マレー半島で特徴的なやり方は、現地に渡って売春をしていた日本女性で「からゆきさん」とよばれる人がたくさんいました。第一次大戦後、日本の外務省は日本人が海外で売春するのは国の恥だというのでみんなやめさせて若い女性を本国に帰した。ただ売春をやめたあとも現地の人と結婚して残っている日本人がマレー半島やシンガポールには多くいました。彼女たちは売春の業者といろいろコネクションがあります。そこで日本軍は現地に残った日本の女性に「慰安婦」集めや、「慰安所」の管理を任せた。実はそれを全部取り仕切った日本兵の証言があって、私はずいぶん詳しく聞きましたが、残念ながらその方も亡くなられました。

あと、新聞で募集したケースというのが19423月の初めにちょっとあります。これは非常にめずらしいケースです。
 多いのは村長とか、治安維持会を利用するケースです。中国でもそうですが、一応治安を確保するために地元の幹部を集めて治安維持会というのがつくられます。その幹部たちに「女を集めてこい」ということを言うわけです。ネグリセンビラン州では19423月に「粛清」をやっていますが、その最中に「慰安所」を開設します。ですから村の幹部にしてみると「日本軍が虐殺をやっている」という情報は入ってきます。そのときに日本軍から「女を集めてこい」と言われた場合、これは強制以外になにものでもない。こうした手法は中国でもよくあったケースです。

今回、みなさんはクアラピラに行かれると思います。クアラピラには慰安所が2軒ありました。たぶん、訊けば分かります。街中に1軒と少し郊外に1軒です。郊外にサルタンの親戚の邸宅があります。立派な邸宅ですからあれは残っていると思いますが、そこを「慰安所」に使っていました。クアラピラでは町の幹部に「女を集めてこい」と言って集めさせています。後者は日本軍の将校たちの宿舎のすぐに近くにあって、将校のための「慰安所」だったようで、街中にあったのが兵士用の「慰安所」だったようです。
 ほかの集め方としては、東南アジアでは暴力的な拉致、これは要するに反日的、抗日的とみなした住民、主に男たちを虐殺しながら、若い女性たちを拉致してくるというケースがありました。

シンガポール、マレー半島は比較的治安が安定していたので、主にこういう村民を皆殺しするような虐殺というのは19423月の占領初期に集中しており、その後はそんなにないのですが、たとえばフィリピンで言いますと、むしろアメリカ軍が上陸してきてから、ゲリラがアメリカ軍に呼応して日本に攻撃をかけます。そうするとそれに対して日本軍がゲリラ討伐と称しながら村民を虐殺する。その過程で女性を拉致してくる、というケースがフィリピンやビルマでもそういうケースがありますし、中国の山西省もそういうケースです。マレー半島、シンガポールの場合は戦争が終わるまで比較的治安が安定していたので、そういうケースはあまり今までのところ多くないようです。こうした剥き出しの暴力的な連行は、むしろ治安が不安定なフィリピン、ビルマだとか、中国のそういう抗日勢力が強かったところで多かったと見られます。

これは日本ではほとんど知られてないのですが、インドネシアのジャワ島の女性がシンガポール、マレー半島、ボルネオなどに「慰安婦」として連れて行かれています。戦争の終わりになってくると朝鮮半島から女性を連れて行くというのはちょっと難しくなります。アメリカ軍の潜水艦が活動しますから。そうするとジャワが「慰安婦」の供給地にされる。ジャワの女性たちがその周辺の地域に連行されています。

ジャワから連れてこられた「慰安婦」についてはシンガポールの人たちのいろんな証言があります。看護婦になるというふうに言われて来たとか、あるいはシンガポールの工場で働くんだと言われてきたという形でジャワから直接連れてこられた。それがシンガポール市郊外の東側にカトン地区という地区がありますが、そこに日本軍の陣地があって、そこに「慰安所」がたくさんあり、そこから「慰安所」の女性たちが泣き叫ぶ声が聞こえたというのが、周辺の住民の証言として残っています。

さきほど新聞で募集したという話ししましたが、おそらくそのケースだと思いますが、資料の中に総山孝雄『南海のあけぼの』という回想を載せておきました。227日に、彼は近衛師団ですが、自分たちの駐屯地の近いところに「慰安所」が開設された。たぶんこの女性は募集に応じて「慰安所」に来たのだと思われます。ただ、日本兵がずっと列をなすので、もう体が続かないと言って拒否をする。それを管理している日本兵が女性をベッドにひもで縛り付けて継続させたという、それをみた衛生兵が真っ青になって逃げて帰っていたという話です。一応、新聞で募集してそれに応募してきたといっても、そこで一旦「慰安所」に入れられるとそういう強制的な扱いを受けるという1つの例です。

シンガポール、マレー半島においては大体地元の中国人女性の「慰安婦」が多かったと思われます。マラヤの日本軍政府が「慰安所」の管理をしていますが、「慰安婦」はできる限り現地人を活用するという規定がありますから、だいたい現地の中国人女性を使った。マレー人女性の場合にはイスラム教ですし、その女性を「慰安婦」にするというのは差し控えたと思います。日本軍はマレー人と中国人に対しての政策が違います。マレー人はうまく利用して日本に協力させる。中国人は抑えつける。そういう分断政策をとりますから、マレー人の女性に手を出すとこれはまずいという判断が働いたと思います。また中国人のほうが皮膚の色など日本人に近いですから、そういう要素もあると思います。

クアラルンプールでは、1942年末までに7カ所、16軒の「慰安所」が開設されています。これは全部聞き取り調査でわかったことですが、たぶん「慰安婦」の総数は約150人くらいになります。これは「慰安所」をずっと管理していた日本兵から聞いた話です。その人は各地の「慰安所」をずっと回っていましたので、どこの「慰安所」にだいたいどういう人がどれぐらいいたかをよく知っていました。一番の多いのは中国人で、朝鮮人が少し、あとタイ人、ジャワ人、インド人、ユーラシアンなどだったと言っていました。

ネグリセンビラン州では、セレンバン、クアラピラ、ゲマス、ポートディクソンという4つの都市に「慰安所」があったことは確認しました。おそらくもうこれ以外にネグリセンビラン州にはないでしょう。ここはかなり丁寧に私が歩いてずっと調べました。中隊以上の規模で駐屯しているところにだいたい「慰安所」があります。ネグリセンビラン州では朝鮮人はほとんどいなかったようです。だいたい中国人、現地の中国人です。1942年7月の憲兵隊の報告書が残っていますが、マレー半島とスマトラを合わせて日本人、朝鮮人、台湾人の「慰安婦」が194人います。おそらくシンガポールなど大都市に集中していたのではないかと思います。

いろんな資料や証言から、マレー半島の約30都市で「慰安所」の存在を確認しています。マレー半島では元「慰安婦」の方が名乗り出るというのはあまりなく、やはり被害者の女性の視点からみた実態というのはなかなか分からない。マレーシアやシンガポールの場合は元「慰安婦」の人たちを支援する団体もなく、もし名乗り出てもそれを支える組織がありません。
 シンガポールの場合にはシンガポール政府がそういう市民運動を一切許しません。シンガポールは市民の自主的な運動というのを一切認めない国です。したがって、なかなか被害者が名乗り出るなんてことはできない。

シンガポールというのは日本軍にとってはすごく物資があったところで、「慰安所」にしても、料亭にしても、最後の最後まで、つまり1945年の8月まで開いていて、将校たちは毎晩ドンチャン騒ぎをしていたといいます。将校の中には「いくらなんでもこんなに形勢が悪くなってひどいときに料亭で騒いでいるのはけしからん」という声があったそうですが、結局、敗戦までずっとその料亭は開かれていた、という証言があります。

「粛清」で直接殺された人ということも問題ですが、問題はそこだけではないと思います。粛清によってシンガポールでどれだけの市民が殺されたのかということを調べるのでシンガポールの人口統計を調べました。イギリス時代から、日本の占領下も、生まれた人、死んだ人、など人口統計をかなりキチッととっている。ただ「粛清」で殺された人は別です。そうしたデータから、戦争前と戦争後、それから戦争中を比べると、もし戦争がなかったとすればと想定した死亡率と比較すれば、占領中は死者がぐっと増えている。これは直接戦争で殺されたわけではないけども、戦争がなければたぶんは死ななかったはずの人数です。そのように戦争があったために増えた死亡者数を計算するとシンガポールだけで6万数千人になります。「粛清」という直接に殺すということはもちろんひどいことですが、それだけでなく、シンガポールには食糧がないですから、たぶん市民は飢えで非常に苦しんだでしょう。飢えで体が弱ると簡単に病気にもなって死んでしまう。ですから日本の占領によって当時のシンガポールの約1割の人びとが戦争がなければ生きられたはずなのに亡くなっている。こういうことも忘れてはいけないと思っています。

この地域というのは、日本軍が最重要地域として乗り込んでくる。そして、最初から日本の領土にする予定でした。太平洋戦争が始まる前に陸軍の中で東南アジア地域を占領したあとどうするのか、ということを検討している。シンガポール、マレー半島については、ここは日本の領土にするという方針をつくっています。ただ最終決定していなかった。1943年の御前会議で、シンガポール、マレー半島、ジャワなどは日本の領土、帝国の領土にするという決定をしています。ですから、アジアの解放なんていうのはまったくウソで、ここは最初から日本の領土にするということを天皇も臨席した御前会議で決定していた。ただその御前会議の決定は当分公表しない。これを公表するとまずいですから、アジアの解放のためにという宣伝がありますから、それを隠していたわけです。ただシンガポールは、ここは占領直後に「昭南」という日本名に改めてしまうわけです。最初から日本領土にするということがはっきりと示されています。そのために「抗日運動、あるいは抗日活動をやりそうなものは予め殺してしまえ」というのが華僑粛清だったと言えるでしょう。

この背景にあるのは中国での経験です。中国であまりはうまくいかなかった、だから今回シンガポール、マレー半島を占領するときには、彼らなりに考えた。彼らなりに中国の経験からともかくそういう悪いことをやりそうなやつは予め全部殺してしまえということをやった、非常に残虐で非情なことだと思います。

ただ日本社会の中ではこの問題はそれほど知られてはないし、シンガポールの「華僑粛清」についても詳しく書かれている本は、実は私の本(『シンガポール華僑粛清』2007年、高文研)が初めてでしょう。他にも本はありますが、でたらめな本ばかりと言っても言い過ぎではないと思います。日本側の資料とシンガポールの資料と、ここはイギリスの植民地でしたからイギリスの資料と、これらの資料をきちんと使ってまとめたものは今までなかったので、書かないといけないと思って今回の本を書きました。

シンガポールは1人でもいろいろ行けるところはたくさんあります。本の中にはもっと詳しい地図をたくさん載せたかったんですが、コストがかかるからやめてくれと出版社から言われて載せられませんでした。それらは私のホームページに全部載せています。PDFファイルでダウンロードできるようにしています。そこには非常に細かな当時の名前が全部載っています。それをみればだいたい自分で街を歩けるようにしています。シンガポールに行かれたときはぜひそれを利用していただきたいと思います。

いまシンガポールはあちこちに戦争中の「ここはどういう場所であったのか」という説明のプレートがつくられています。英語と中国語だけのものが多いのですが、英語と中国語とマレー語と日本語で書かれたものもたくさんあります。ちょうど本をひろげた形の碑があちこちに建っています。それには大体日本軍の占領にかかわることが書かれています。ぜひそういうのを見ていただきたいと思います。

マレーシアのほうは、とくにネグリセンビラン州は田舎ですから、案内人がいないと1人ではいけません。マレーシアのほうがずっと人はやさしくて、食べ物はおいしくて、物価が安いですから、マレーシアのほうが絶対にいいです。マレーシアの人はほんとうにすごくやさしいです。私はずいぶんたくさんの、虐殺から生き残った人の証言をずっと聞いてまわりましたがすごく親切でした。私がたぶん戦争経験していない世代というのが分かっていることもあるからだとは思いますが。確かに証言すると激昂する人もいますが、日本からこういう話をわざわざ聞きにきてくれたというので非常に親切でやさしくしてもらったことが多かったです。なかには「日本人はけしからん!」とやられる場合もありますのでそれは覚悟しておいてください。一番きついのは、怒らないで、ほんとうにつらそうにさみしそうに淡々と語られるのが一番こたえます。私が話を聞いた人もどんどん亡くなられているので、たぶん今が話を聞ける最後のチャンスじゃないかと思います。ツアーに参加される方は、そこで聞いたこと、見たことをぜひ多くの人に広めていただきたいと思います。ご静聴ありがとうございました。

 

<質疑応答>

── 「辻参謀の独断専行だ」という説についてはどうですか?

林   そういう説もありますが、事実に反すると思います。もちろんこの「華僑粛清」計画を辻がつくったのはまず間違いないです。彼は指導者で、首謀者と言いますか、実際にリードしたのは事実だと思います。ただ極端な説では、数年前にシンガポールでは出された本があり、英語の文献ですが、それによれば、山下軍司令官に黙って辻が独断で全てやったんだという説を唱えた本があります。しかしそんなことはあり得ない。山下軍司令官が実際にいろんな命令を出している。その報告も受けていて、実際の命令も山下が知らないところで辻が勝手にやったということはあり得ない。山下はあとで日本軍のフィリピン方面軍司令官になりますが、そのときにシンガポールでは最初にぴしゃりとやったからよかったのだと、彼は「粛清」のことを評価しています。辻が一番の首謀者であることは事実ですが、山下がそれを承知し支持していたことも事実なのです。話のなかでは省略しましたが、当時の第25軍には、非常に強硬派の参謀たちがここに集まっていましたから、軍司令部が全体としてここの「粛清」をやったというふうに考えるべきだと思っています。

 

── 緻密な研究に基づいた非常によく分かるお話しでしたが、こういったこと日本の教育の中ではほとんど教えられていないのではないかと。私も学校時代にこういうことを勉強した記憶はあまりありません。実際にシンガポールの、あるいはマレーシアでの学校教育の中ではどのような教育がなされているのかということを教えていただきたい。

林   シンガポールの中学校の歴史教科書、現代史(モダンヒストリー)の教科書が、日本語に翻訳されています。80年代に1つ、そのあと梨の木舎からも出ていたと思いますが、日本語でも一応読めるようになっています。シンガポールの中学校の教科書は現代史だけで1冊の本になっています。シンガポールの現代史では、日本の占領時代の記載が数十ページにわたっています。また、街のあちこちに占領時代にここはこういう場所であったという、記念碑があちこちにできています。いろんなミュージアムも、日本の占領に関する博物館がたくさんあって、学校の生徒たちの体験学習の場になっています。ですからシンガポールの人々にとってみればこの日本軍の占領時代の体験というのは非常に大きなウエイトしめています。それが教育の中でもかなり重視されています。さきほどシンガポール政府は全く市民の自由を認めない国だとご説明しましたが、シンガポールという国は多民族国家なのでシンガポール人としてのアイデンティティを育成するためにかなり戦争中の体験を重視しています。つまり自分たちは中国人、マレー人、インド人ではなくて、シンガポーリアンだという意識を育てるために、日本の占領によってすべての民族が共通の苦難を経験した。そして日本軍に対してすべての民族が勇敢に抵抗したんだという意識を共有しようとしています。今日は中国人の話を主にしましたが、マレー人の抵抗運動もあります。インド人はインド人で別に抵抗運動をやっています。ですからかつては中国人、マレー人と別々だったけど、みんな等しく同じ苦難を日本の占領下で経験をして、それに対してそれぞれの民族が闘った。それが現在のシンガポールの統一と団結のベースなんだという認識です。これはかなり政治的に使われています。そういう中で日本の占領時代というのが繰り返し取り上げられている。ですから非常に教育の中では重視されています。日本人の中ではたぶん高校の日本史の教科書の中に書いていても、「シンガポールで住民殺害があった」とかいうせいぜい1行ぐらいです。ですから日本人とシンガポール人とでは認識のギャップが大きい。最近はちょっと分かりませんが、シンガポールの日本人学校では80年代から90年代にかけてかなりそのへんの教育をやっていました。そうしないとシンガポールで生活できない。シンガポールの日本人学校ではいろいろいい教育実践が行われていたようですが、この数年はちょっと分かりません。

── マレーシアはどうでしょか?

林   マレーシアはまた複雑なんです。マレーシアはご存じのようにマレー人の政権です。一応連立与党なので中国人の政党も入っていますが、マレー人が中心のところで、マレー人優遇政策をとっています。日本軍によって一番ひどい被害を受けているのは中国人ですから、その中国人が受けた苦難の体験というのは非常に軽視されています。ですからマレーシアのほうでは日本の占領中に関する、たとえばミュージアムだとかはほとんどない。もちろん一般のミュージアムの中に日本占領時代は必ず入って、展示がありますが、その中には非常にひどい時代だったというのは共通認識としてあります。ただ、どうしても中国人の被害が大きいですからその部分については非常に軽視されている。ですからマレーシアの学校、教科書の中でも、たとえば「華僑粛清」についてはあまり触れられていない。そういう意味ではマレーシアにおける華僑の被害者の人たちというのは、戦後もかなり冷遇されているという状況にあると思います。マレーシアでは1990年ぐらいまでマラヤ共産党のゲリラとのたたかいがずっとありました。戦後、マラヤ共産党が武装闘争をやって、ずっとジャングルで武装闘争を継続して、最後はマレーシアから追い出されてタイのほうに入ってジャングルを拠点として闘争するのですが、日本軍に「粛清」された(殺された)人びとも共産党に関係があるという地域が多かった。ですからその支持者たちがマラヤ共産党としてゲリラ闘争をやって、マレーシア政府と対立していた。そのような事情もあって、マレーシア政府には、日本軍による被害者はマラヤ共産党の関係者、ないしはそれに近いんだというような意識が背景にある。ついでに言えば1990年でしたか、マラヤ共産党がタイのジャングルの中の陣地を最終的に引き上げる。マレーシア政府と交渉して武装闘争は一切放棄する。ジャングルのキャンプにいた人びとも原則として恩赦を受けて山を下りてマラヤ共産党の闘争が終わる。そのときに、ゲリラのなかに日本人が2人いたのです。その1人からは帰ってきてから神戸に住んでいたので話を聞きました。彼がなぜマラヤ共産党に入ったのかと言えば、彼は戦争中工場の技術者としてマレーシアに来て、実際の日本軍の占領をみて、「日本軍は非常にひどい」、つまり、日本軍人は非常に威張り散らしていて、アジアの解放なんていうのは全くのウソ。日本軍はあまりひどいと思ったそうです。戦争が終わったときにマラヤ共産党から「技術者がほしいのでぜひ残って協力してほしい」と頼まれた。日本軍が非常に地元の人びとにひどいことをして、さらに戦争が終わったらマレーシアを全部イギリスに返すというのは、あまりにもひどい。だからマラヤの独立のために自分も協力をしようというので、マラヤ共産党に協力した。それが90年まで続いた。そういう人が最初は何人かいたようです。最終的に残ったのが2人、そのうちの1人が神戸の出身で、話を聞きました。その方の住んでいたところは、ちょうど長田の、震災で全部つぶれた地域でした。震災以降、全然連絡がとれていません。

── 一般的には朝鮮人の「慰安婦」の数が一番多いと言われていますが、その点はいかがですか?

林   「慰安婦」問題が90年代はじめに出てきたときには圧倒的に朝鮮半島の女性だと言われていたのですが、その後、いろいろ日本軍の資料だとか、兵士の回想、現地の調査などをみていると、たとえば中国で言うと、大都市は日本人や朝鮮人の「慰安婦」が多い。ところが中規模の都市になると圧倒的に中国人なんです。さらに下になるとみんな中国人。そうしたことが調査が進むと分かってきたのです。東南アジアの場合でもマレー半島では圧倒的には現地の中国人女性が多い。朝鮮人の「慰安婦」がいるのはシンガポール、クアラルンプールという大都市に限られている。これは他の東南アジア地域でも同じような傾向があって、そうするとかつては日本軍「慰安婦」の8割ぐらいが朝鮮人だと言われていたけども実際にみるととてもそんなことは言えない。ひょっとしたら半分か、半分以下ではないかと思います。多いのは中国人女性の「慰安婦」。私は朝鮮人「慰安婦」と中国人「慰安婦」のどっちが多いかと言われるとちょっと分からないという感じですね。「慰安婦」という言い方でいいのかどうかという問題があって、たとえば山西省のケースでは末端の日本軍の駐屯している部隊が村に行って勝手に若い女性を拉致してくる。家に閉じこめてまさに監禁レイプです。それを「慰安所」と称している。だからほとんどもう、監禁レイプと変わらないような事態が末端のほうでいっぱいありました。大都市の「慰安所」というのは、たとえば「慰安婦」の名簿もつくられて、組織的に管理されていましたが、下のほうへ行くとかなりでたらめな、さらに輪姦だとか、強姦とかがあって、だから日本軍の性暴力というのはいわゆるフォーマルな、正式な「慰安所」だけではなくいろんな形態がある。これは研究者の間でいろいろ議論があるところですが、どこまでが「慰安婦」と言えるのかということがあるですが、末端で「慰安所」もどきのことをやっているのを含めるとたぶん現地の女性の方がずっと多くなるだろうというのが全体の状況の中では分かってきていることです。というので、今では、朝鮮人と中国人がともに多いという認識です。あと現地のそれぞれの女性たちがいる。

──2つお聞きしたいのですが、いまのお話との関係で、「慰安婦」という言葉は、資料の中では「慰安所」という言葉があるから戦前から使われていたのかもしれませんが、ずいぶんとその対象に対する認識というか、立っている位置が違うような感じもあって、「慰安婦」という言葉をたとえば私たちも社会問題として考えるときにそういう言葉でいいのかどうなのか、ということをぼくは疑問に思っているのですが、先生はどうお考えかなぁということをお聞きしたい。オランダの植民地のところなんかではオランダ人も被害にあったということで、今でも被害を訴えておられる方がおられますが、シンガポールとかマレーシアはイギリスの植民地でした。イギリス人のそういう被害もあったのかどうでしょうか。

林   「慰安婦」という言葉なんですが、日本軍の資料で「慰安所」とか、「慰安婦」という言葉が出てきます。日本軍「慰安婦」の本質は、たとえば性奴隷であったという言い方をします。人によって「慰安婦」という言葉を使わないで性奴隷という言い方する場合もあります。ただ難しいのは歴史の事実を表現する場合に、歴史用語を全く新しい、つまり本質規定を示す言葉で置き換えるのが歴史の表現の仕方としていいのかどうかという問題があります。当時から使われていた言葉として、通常、書く場合は、括弧を付けて「慰安婦」として書いています。これは逆に言うと当時の日本軍、日本の軍人はそれを「慰安」というふうに理解していた。この言葉は逆に日本軍の欺瞞性というか、それがよく分かる言葉でもあります。つまり同じ現象が女性の立場でみるのか、軍人の立場でみるのかで全く違っている。それを「慰安」というように理解しているような日本軍のあり方を示す言葉として、ですから括弧を付けて「慰安婦」と示しています。ただ説明するときには日本軍「慰安婦」というのはまさに性奴隷であった、軍の性奴隷であったというふうにキチッと規定する。歴史的な用語の場合には、その言葉の示す意味と実態とがかなり違うという場合はよくあります。その場合、どう表現するのかは常に問題があります。

戦争の呼称とかであれば大東亜戦争じゃなくて、いまアジア太平洋戦争だと言いますが、個々のケースの場合にはその当時使われた言葉を使いながら、これの本質はこうだという、そういう説明をする場合が多い。ですから「慰安婦」という言葉を使っています。

インドネシアにはオランダ女性がたくさんいて、彼女たちがずいぶん「慰安婦」に強制されています。それ以外の、とくに白人の欧米系の女性についてですが、イギリス女性の場合にはよくわかりません。間接的な証言はありますが、オーストラリア人、シンガポールにいたオーストラリアの女性、軍の看護婦たちがシンガポールから逃げる途中で日本兵につかまる。その女性の中で「慰安婦」に強制されるケースがあって、ただ生き残っている看護婦さんたちはみんな拒否をしたと言います。みんなでかばっている可能性もあり、ほんとうは「慰安婦」にされたんだけども、それは言えないからみんなで抵抗して防いだという証言をしているのかもしれません。ですから可能性としてあり得るし、それからアメリカ人の女性でもそういうケースが、これも間接的な証言ですが、アメリカ軍の資料の中に出てくる。その可能性はあり得るのですが、ただはっきりといたというふうに裏付けるものはまだありません。あり得ると思いますが、いまの段階ではオランダ人の女性の場合、確実ですが、それ以外の場合にはいくつか可能性があるんですが、それを裏付けるものはありません。

── 先生どうもありがとうございました。もう一度大きな拍手をお願いします。