戦犯裁判と「慰安婦」問題史料   

                       林 博史


 金富子・中野敏男編『歴史と責任―「慰安婦」問題と1990年代』(青弓社、2008年6月)の中に書いた、短いコラムの文です。末尾のブックガイドでも紹介している、かもがわのブックレットに書いたものの要約版とでもいうものです。 2008.12.24記


第二次世界大戦後、連合国がおこなった東京裁判やBC級戦犯裁判では、「慰安婦」問題は裁かれなかった、あるいはほとんど扱われなかったとされてきた。当時の段階では、ジェンダーの視点はなく、政策の立案から実施に関わるのは男だけであり、女性の人権という観念が極めて弱かったのは事実であるが、しかし、性暴力が無視されていたわけではない。事実、東京裁判には、日本軍が「慰安婦」を強制したことを示す証拠書類がいくつも出されている。またBC級戦犯裁判においても、オランダ女性が慰安婦に強制されたケースが裁かれただけでなく、アジア系女性のケースもいくつか扱われている。

これまでわかったかぎりでは、東京裁判に提出された証拠書類では7点が「慰安婦」に関係するものである。オランダは、インドネシアのボルネオ島(カリマンタン)のポンティアナック、モア島(チモールのすぐ東にある島)、ジャワ島マゲラン、ポルトガル領チモール(東チモール)の四か所での事例について証拠書類を提出しており、そのなかでジャワ島のケースはオランダ女性が被害者であるが、それ以外の三つについては地元の女性が被害者のケースである。フランスはベトナムのランソンのケース、中国は桂林のケースを取り上げている。いずれもベトナム女性と中国女性、つまりアジア系女性が被害者のケースである。徹底した調査をすれば、さらに文書が見つかるだろう。

東京裁判の判決では、中国についての叙述の中で「桂林を占領している間、日本軍は強姦と掠奪のようなあらゆる種類の残虐行為を犯した。工場を設立するという口実で、かれらは女工を募集した。こうして募集された婦女子に、日本軍隊のために醜業を強制した」と桂林のケースに言及されている(『極東国際軍事裁判速記録』判決速記録一八六頁)。

こうした証拠書類での取り上げ方を見ると、一見しただけで強制的に「慰安婦」にしたとわかるケースだけが取り上げられているようである。実際の「慰安婦」制度では、騙したり、人身売買で借金で縛り付けて集めるという方法が、特に日本本土や朝鮮・台湾の植民地では多いと見られるが、そうした事例はあまり取り上げられていない。また当時の戦時国際法では、「慰安婦」制度自体を戦争犯罪だと認識するまでには至らなかった。また個々の被告の関わりを立証するまでには至っていない。

しかし、検察が取り上げたケースを見ると、(1)日本人と性的な関係があった女性、あるいはその嫌疑をかけた女性を逮捕して裸にし無理やり「慰安婦」にしたケース、(2)部族長に「若い女を出せ」と脅して出させたケース、(3)抗日勢力の討伐に行き男たちは殺害しながら若い女性を連行し「慰安婦」にしたケース、(4)女工だと騙して募集して無理矢理「慰安婦」にしたケースなどが取り上げられている。 (1)はインドネシアで多かったケースであるが、(2)は中国やマレー半島など占領地各地でおこなわれていた方法であるし、(3)は中国山西省のケースとまったく同じものである。(4)のように騙して連れてきて、結局は「慰安婦」に強制する手法は広く見られる手口である。検察団がそれらのパターンを認識してそのような証拠書類を作成したのかどうかはわからないが、日本軍が女性たちを「慰安婦」にした手口の主なパターンが取り上げられていることがわかる。

そうしたことから、東京裁判で「慰安婦」制度が裁かれたとまでは言えないにしても、そうした強制が戦争犯罪であるという認識は、検察団の多くも持っており、証拠として提出し、判決でもわずかながらも言及されていることも事実である。強かんについては、東京裁判できわめて多くの証拠書類が提出されていることも合わせてみると、東京裁判を含めて対日戦犯裁判は、戦時性暴力が戦争犯罪であることを認定し、戦時性暴力処罰の端緒となるものであったと評価してよいと思う。もちろんその不十分さゆえに、女性国際戦犯法廷が開かれなければならなかったのであるが。

東京裁判の証拠書類は公開の法廷に提出され、かなり前から一般にも公開されているものである。これらの書類は「通例の戦争犯罪」の訴追のなかで提出されたものだが、東京裁判では「平和に対する罪」だけでなく「通例の戦争犯罪」、いわゆるB級犯罪についても膨大な証拠書類が提出され、取り上げられていた。しかし日本社会はこの事実をまったく認識してこなかった。事実を無視した東京裁判認識が定着したことが問われなければならないだろう。徹底した史料の調査と事実の解明をおこなわずに、安易に「和解」を語ることは、今を生きる私たちの歴史に対する責任の放棄でしかないと思う。

 

ブックガイド  

1 日本の戦争責任資料センター、アクティブ・ミュージアム「女たちの戦争と平和資料館」編『ここまでわかった!日本軍「慰安婦」制度』かもがわ出版、2007

タイトルの通り、日本軍「慰安婦」問題についての研究の到達点をわかりやすく解説したシンポジウムの記録。このなかで東京裁判やBC級裁判で「慰安婦」問題がどのように扱われたのかがくわしく説明されている。

2 林博史『BC級戦犯裁判』岩波新書、2005

 日本だけでなく連合国の各国の資料も使い、BC級戦犯裁判の全体像についてまとめた本。戦時性暴力がどのように扱われたのかについても検討している。

3 戸谷由麻『東京裁判第二次大戦後の法と正義の追及』みすず書房、2008

 東京裁判の速記録や証拠書類を読み込んで分析した研究成果。東京裁判で日本軍「慰安婦」問題をはじめ日本軍の残虐行為がどのように裁かれたのか、東京裁判自体の資料を深く読み込んだ研究である。論争的な本でもあるので、議論をおこすだろう。