『社会評論』151号、200711

安倍首相と日本軍「慰安婦」問題

                                       林 博史 


 季刊の雑誌『社会評論』の巻頭エッセイとして書いた小文です。書いたのは8月だったと思います。米議会の決議が出てからです。 2008.6.12記


 さる7月30日、米議会下院は日本軍「慰安婦」問題についての決議を異議なく採択した。今年1月末に提出されてから、6月に下院外交委員会において39対2の大差で可決され、日本政府などによる執拗な働きかけにもかかわらず、圧倒的な支持を受けて採択された。この決議は「日本軍が性奴隷制を強制したことについて、明確かつ曖昧さのない形で歴史的責任を正式に認め、謝罪し、受け入れるべきである」との意思を表明している。

 この決議を受けて、日本の戦争責任資料センターなど慰安婦問題の取り組んできた市民団体は翌日、共同で「提言 日本軍「慰安婦」問題における謝罪には何が必要か」を発表した。その中で、日本国家としての責任を明確にした謝罪の表明、被害者一人ひとりへの謝罪の手紙、謝罪の意を示すため被害者への賠償などを提言した。

 各新聞の社説を調べてみたが、この米下院の決議を正面から受け止め、真剣に問題に取り組むことを訴えたのは一部の地方紙にとどまり、中央紙では「朝日」が社説で首相の談話を出すようにという、きわめてあいまいなことを言っただけで、ほかの中央紙は日本軍「慰安婦」を正当化するなどまともに向き合うことさえも拒否した。

 私が大きな問題だと思うのは、安倍首相らが、元慰安婦である被害者をこれほどまでにひどい言葉で踏みにじり、被害者を含めて多くの人々から抗議の声が上がっているにもかかわらず、ほとんどの日本人が人事のように眺めていることである。少なくとも、それによって内閣支持率が下がるということはないようである。この数年、日本のメディアは日本軍「慰安婦」問題を徹底的に無視してきたが、その結果、日本社会において1990年代の研究や運動の成果がほとんど継承されず、むしろ「慰安婦」制度を正当化するものでメディアの世界は溢れている有様である。自民党でも民主党でも若手には極右としか言いようがない政治家が次々に登場し、かつての保守本流の政治家が良識ある政治家であるかのようにさえ思えてくるほどである。

 今回の米下院の決議は、東アジアの大きな変化の一つの表れとも言えるかもしれない。中国との関係を重視しはじめたアメリカにとって、いまだに過去を改めず、自国の戦争を正当化するしか能のない日本はかえって問題である。太平洋戦争では、アメリカと中国は連合国として共に日本と戦ったことを日本人は忘れているようだ。米議会決議でも日米同盟の重要性に言及しているが、日本が過去の戦争にけじめをつけることが、アメリカの東アジア政策にとっても必要になってきていることを示唆している。北朝鮮をめぐる動きを見ても米中の提携は強まることはまちがいない。“拉致”ばかりを叫び、北朝鮮問題解決のための具体的な努力を棚上げしてきた日本は孤立しつつある。安倍のような極右路線は、中国・韓国からだけでなくアメリカからも認められないというメッセージが今回の決議であろう。安倍や「新しい歴史教科書をつくる会」など極右路線が国際的に隘路に陥っていると言える。

 しかしこうした状況のなかで、「和解」という言葉が流行しはじめている。もちろん「和解」は必要だが、国家としての責任の承認や公的な謝罪、被害者への個人補償を抜きにして、日本はこれまでもしばしば謝罪してきたのだからそれで十分であるかのようにあいまいにし、他方で中国や韓国のナショナリズムを批判して、「和解」しようという動きが一部の知識人などから出てきている。そこでは公的な謝罪や個人補償を要求することは「和解」に逆行するかのような非難が浴びせられる。米中日の支配層による被害者抜きの手打ちがなされる危険性もありうる。こうした「和解」と、被害者の立場に立った「和解」との対決が今後、一つの争点となってくるだろう。

 他方、日本国内では権力に抵抗する運動への弾圧・抑圧の体制づくりが進んでいるし、教育現場でも民主的な教育や平和教育を実践できるような環境は急速に潰され、その担い手も次々と定年退職の時期を迎えつつある。外にはある程度ソフトな対応をしながらも、内には閉塞した抑圧的な政治社会が作られるという危険性が高い。

外との関係の変化を生かして市民の意識を変え、より開かれた社会を作る可能性を追及すべきである。そのための市民運動や政治勢力の再編成が必要だろうし、その条件も生れつつあるように思う。<米中日の支配者たちの「和解」と、日本支配層のための二大政党制>という枠組みではない、オルターナティブを示す取組みが求められる。いずれにせよ東アジアが大きく変わろうとしていることは間違いない。