『現代史研究』第53号、2007年12月 

沖縄戦における「集団自決」と教科書検定

                           林 博史


 現代史研究会というヨーロッパ史研究者の学会誌に書いたものです。原稿を出したのが10月中旬ですので、その後の正誤訂正については触れていません。同研究会の12月の例会でもこの内容を含めて報告しました。 2008.1.24記


1 「日本軍による強制」を削除した教科書検定

2008年度から使用される高校教科書の検定にあたって、日本軍によって「集団自決」を強いられた、あるいは「集団自決」に追い込まれたという叙述から、すべて“日本軍”という主語が削除させられたことが、20073月末に発表された。たとえば、「日本軍によって壕を追い出され、あるいは集団自決に追い込まれた住民もあった」という申請段階での原稿が検定によって「その中には日本軍に壕から追い出されたり、自決した住民もいた」となった。日本軍によって強制された、あるいは追い込まれたという叙述に対して、「沖縄戦の実態について、誤解するおそれのある表現である」という検定意見が付けられて修正させられたのである。

これまでの教科書記述は、長年にわたる沖縄戦研究の成果をふまえて、「集団自決」は日本軍の強制によっておきたものであり、日本軍による住民被害の一つの類型として説明するというものが定着してきていた。しかし、今回の検定の結果、「集団自決」を日本軍によってひきおこされた住民被害から切り離し、別の出来事として解釈できるような叙述に変えられた。このことにより、なぜ、あるいはだれが住民を「集団自決」に追いやったのかという理由がわからなくなり、教え方によっては、お国のために自ら進んで命を捧げた尊い行為であるという説明が可能になるような記述になってしまった。

問題になっている慶良間列島の渡嘉敷島でも座間味島でも、日本軍はあらかじめ手りゅう弾を配って、いざというときには自決するように命令・強制・脅迫・誘導・教育していたことは多くの証言で明らかにされている。なにか命令文書があって、そこに「自決せよ」との命令文が書かれていなければ、日本軍が自決を強制したことにはならないかのような文部科学省や一部の議論はまったく詭弁でしかない。さまざまな方法で住民は「自決」するしかないと思い込まされ、そう実行させられていったのである。それを一言で表現するならば、日本軍によって「集団自決」を強いられたというしかない。

この検定の背後には政治的な動きがある。2005年春から「新しい歴史教科書をつくる会」が、この問題は「健全な歴史認識及び国防意識の育成」にとって重大な問題であり、「皇軍および無念の冤罪を着せられた軍人の名誉を回復」しようとして取り上げたのが始まりであった。それに続いてその夏に座間味島の元日本軍部隊長と、渡嘉敷島の元部隊長の弟が、軍命令がなかったのにあったと書いたのは名誉毀損だとして大江健三郎氏と岩波書店を相手取って、「集団自決」に関する出版差し止めと損害賠償を求めて大阪地裁に提訴した。

文科省はこの訴訟での原告側の言い分を検定意見の根拠として挙げている。教科書調査官としてこの検定を担当したのが、「つくる会」の幹部でもある伊藤隆元東大教授の教え子であり、「つくる会」の意向がストレートに検定に反映したと言える。

「集団自決」における日本軍の強制性を否定するような研究は皆無であるにもかかわらず、こうした検定をおこなったことは、日本軍の犯罪性を消し去り、沖縄戦研究の成果と沖縄県民の苦難の戦争体験を否定しようとするきわめて政治的な検定である。前年度まで認められていた記述が突然、認められなくなったのは安倍内閣の登場と不可分であろう。安倍前首相が、「つくる会」を支援する「日本の前途と歴史教育を考える若手議員の会」の元事務局長であり、かれらが教科書から日本軍「慰安婦」の記述を削除させる運動を行ってきたことはよく知られている。同会の元事務局次長であり、安倍政権の官房副長官に就任した下村博文衆議院議員は、政権発足直前におこなわれたシンポジウムで「自虐史観に基づいた歴史教科書も官邸のチェックで改めさせる」と発言しており、政治的介入がなされたという疑いを免れない。

日本軍の強制性を否定するのは「慰安婦」問題での安倍前首相らの言動とまったく同じである。この沖縄戦についても右派の攻撃は、住民の証言は信用できない、裏付ける公文書がない、金ほしさに軍命を捏造したのだ、というように「慰安婦」での攻撃の仕方と共通している。日本軍「慰安婦」など日本の戦争犯罪についての教科書記述を検定前の申請段階で大幅に減少あるいは削除させてきた日本政府は、残されていた沖縄戦に手をつけてきたと言えるだろう。

 

2 「集団自決」がおきなかった島々

 地域住民の一定数がまとまって集団で自決をおこなうというケースを「集団自決」と呼ぶとすれば(家族ごとなど小規模なケースを除く)、「集団自決」の事例はそれほど多くはない。沖縄で本島以外の周辺の離島で、米軍が上陸してきた島を見てみると、激しい戦闘がおこなわれた伊江島を除くと、「集団自決」がおきたのは慶良間列島の渡嘉敷、座間味、慶留間の三つの島に限られる。

 いくつかの島を見てみると、渡嘉敷島の那覇寄りにある前島では、一度、渡嘉敷島の日本軍がやってきたことがあるが、島の国民学校分校長が自分が責任をもって島民を預かると言って、日本軍には引き取ってもらった。そして米軍が上陸してくると、島民をまとめて集団で投降して、島民からは犠牲はでなかった。

 沖縄本島の東海岸に勝連半島があり、その先にいくつかの島々が連なっている。現在では海中道路や橋によってつながっている。その中の浜比嘉島では、移民帰りの老人が米軍と話をして住民はまとまって投降している。平安座島の警防団長は移民帰りで英語ができたので、米軍と英語で交渉して集団で投降した。その警防団長は、米軍と一緒に隣の宮城島に行って、人々に投降呼びかけたので、宮城島の人々も無事に保護された。この宮城島では、日本軍がやってきて偽装大砲を作って行った。しかし島民たちは、こんなものがあると攻撃されるだけだからと言って破壊してしまった。そういう島だったから、隣島の警防団長の呼びかけに応じたのだった。一番先端にある伊計島でも住民たちはまとまって米軍に保護された。この島では、島出身兵1516人だけが配備されていたが、本島に移動せよとの命令を受け、ようやく宮城島まで移動したところに米軍が上陸してきた。彼らはどうするか話し合ったが、自分たちが斬り込みをすると米軍を刺激して住民を巻き添えにするからと考え、武器を捨てて伊計島に逃げ帰り、元の住民にもどった。

 こうしてこれらの島々では、米軍が上陸してきても、「集団自決」などおこらず、島民たちは米軍に投降し、保護されることになった。島出身兵若干名がいただけで、基本的に日本軍はいなかったので、特に危険なく米軍に保護されることができたのである。

 慶良間列島の北にある粟国島では、米軍が上陸してきたらどうするか、島の幹部の間で激論があった。玉砕を主張する者もいたが、反対に、白旗を掲げて投降すべきだと主張する者もいた。結局、米軍が上陸前におこなった砲爆撃によって死者が出たが、「集団自決」には至らなかった。日本軍がいなかったので、投降しようと公然と主張することができる状況だったことが大きな要因だろう。

日本軍が駐留していた島として、慶良間列島の西にある久米島がある。ここでは海軍通信隊約30人が山に陣地を構えていた。しかし、この通信隊長は非常に横暴だったため、島幹部は強く反発し、米軍上陸前から対立していた。その軍民間の不信が強かったことが「集団自決」がおきなかった一つの大きな要因と考えられる。ただこの島では島民20人が日本軍に虐殺され、島幹部の何人もが日本軍から殺害の対象者とされており、狙われた者たちは日本軍から身を隠さなければならなかった。

慶良間列島で、「集団自決」がおきた島々と同じような状況にあったにもかかわらず「集団自決」がおこらなかった島、それが阿嘉島である。この島に駐留していた戦隊長は、隣の慶留間島で島民たちを前にいざという場合には自決せよと演説したことで知られている。ただ阿嘉島では、米軍が上陸しても山の中まで追ってこずに、すぐに引き上げ、その後も海岸付近にしか来なかったことも幸いした。またある少尉は米軍が上陸してくると朝鮮人20人を引き連れて白旗を掲げて集団投降し、さらに米軍側からスピーカーで軍や島民に投降を呼びかけた。その少尉は、日ごろから島民に対して、「国のために死んではいけない」、自分は敵が上陸したら逃げると公言していた。また別の将校は、島民に死を急ぐなと説得していたし、別の中尉は、白旗を掲げて投降した。こういう状況の中では「集団自決」はおこらなかったのである。ただ、米軍に保護された島民や、逃げようとした朝鮮人軍夫が日本軍によって虐殺される事件が多数おきており、この島の日本軍が、島民が米軍に保護されるのを認めていたわけではない。

いずれにせよ日本軍がいない島では「集団自決」は起きなかった。日本軍がいても、島民と対立したり、日本軍内部で矛盾があると、島民を死に追いやることはできなかった。

 

3 なぜ慶良間列島でおきたのか

 慶良間列島の渡嘉敷島、座間味島、慶留間島の三つの島に共通していることは何だろうか。背景にある一般的な原因も含めて、かんたんに指摘すると、第1に、住民に対しても、捕虜になることは恥であり、捕虜になるくらいなら自決せよという宣伝・教育がくりかえし叩き込まれていたことである。皇民化教育はこれにあたるだろう。

 第2に、米軍に捕らえられると、男は戦車でひき殺され、女は辱めを受けたうえでひどい殺され方をすると日本軍将兵たちからくりかえし宣伝・教育されていたことである。特に日本軍が中国でおこなった、そうした残虐行為の物語は、一層恐怖心を煽った。

第3に「軍官民共生共死の一体化」が叫ばれ、日本軍とともに住民も玉砕するのだという意識が叩き込まれていたことである。慶良間列島での「集団自決」に共通してみられるのは、日本軍は玉砕するのだからわれわれ住民も一緒に玉砕するのだという意識である。

第4に、慶良間列島で見られるのは、あらかじめ日本軍あるいは日本軍将兵が住民に手りゅう弾を配布し、いざというときはこれで自決せよと命令あるいは指示・勧告していることである。この手りゅう弾が「集団自決」の引き金として使われた。特に渡嘉敷島では役場職員や青年たちが集められ、組織的に手りゅう弾が配布され、いざという場合には自決せよと言い渡されていた。

第5に、「集団自決」をおこなうきっかけとなったのが、「軍命」が下されたと聞いたことである。

ただ日本軍の部隊長がその命令を出すのを直接聞いたのか、という点についてはよくわからない部分があり、「つくる会」の訴訟でかれらが論点として取り上げているのはその部分である。しかしこの点について、部隊長と会った座間味村助役(「集団自決」により死亡)が「軍からの命令で、敵が上陸してきたら玉砕するように言われている。まちがいなく上陸になる。国の命令だから、いさぎよく一緒に自決しましょう。敵の手にとらえられより自決したほうがいい。今夜11時半に忠魂碑の前に集合することになっている」とその父に話すのを助役の妹が横で聞いていたことを証言している。この妹の証言は、今回の検定が表面化してから初めてなされたもので、彼女は県史や村史の編纂の際には島外にいたため、証言を得られなかった人物である。また忠魂碑の前に集まった島民たちに対して、日本兵が「米軍に捕まる前にこれで死になさい」と手りゅう弾を渡していたという証言も最近、出てきた。渡嘉敷島では、先に紹介したようにあらかじめ組織的に手りゅう弾を配布し自決を命令していたことに加え、伝令としてやってきた防衛隊員が村長に耳打ちをし、その後、村長が手りゅう弾を使って自決を開始したという証言が新たに出てきている。

慶留間島では、隣の阿嘉島にいた部隊長が米軍上陸の前月にやってきて島民を集め、敵が上陸してきたら「全員玉砕」だと訓示していた。このようにいざという場合には自決せよとの軍の意思がさまざまな形で伝えられていた。当時、沖縄の住民にとって日本軍の存在は絶大であり、住民にとっては「軍命」以外の何物でもなかったのである。

 慶良間列島の3島ではこうしたことが、日本軍が駐留していた何か月にもわたって、島民に叩き込まれていった。阿嘉島を例外として、日本軍が全体として一致して、「自決」に強制・誘導していった。慶良間列島に駐留していた日本軍は、米艦船に背後から突入する特攻艇の部隊であり、自らも死ぬことを前提としていたこと、米軍には秘匿していた特攻隊であったため、軍機保持のために防諜がより一層強調され、スパイへの警戒心、島民相互の監視システム、島民の情報統制がほかの島々・地域よりはるかに厳しかったと言ってよい状況だった。

 いくつかの要因を見てきたが、住民たちは米軍に保護されて親切な扱いを受けると、自分たちが騙されていたことがわかり、もはや自決しようとはしなかった。あるいは玉砕したはずの日本軍が生き残っていることがわかると自決をやめ生き延びようとし始めるのである。米軍は住民を保護するとわかった住民たちは、山に隠れている人々に、大丈夫だから降りてくるように働きかけたが、日本軍からスパイ視され殺された人も少なくない。「集団自決」で傷つきながらも生き残った人々を米軍は助け出し、野戦病院は急いで上陸して住民の治療にあたった。日本軍の狙撃兵による銃弾が飛ぶ海岸で、米軍の医療スタッフが傷ついた住民の治療にあたるという倒錯した状況が生じたのである。

日本軍の存在と「集団自決」とは不可分である。沖縄本島においても、地域住民たちが集団で米軍に保護され、地域の犠牲者が少なかったところはすべて日本軍がいなかった所である。日本軍がいれば、投降することができず、うまく逃げられればよいが、さもなければ米軍に攻撃されて殺されるか、餓死・衰弱によるマラリア死に追いやられるか、形は違っていても死に追いやられた。「集団自決」にとどまらず、沖縄の住民たちの犠牲の多くは、日本軍によって引き起こされた、あるいは強いられたものだった。

 

4 超党派の沖縄の声に本土(ヤマト)はどう答えるのか

こうした検定に対して、「『集団自決』が日本軍による命令・強制・誘導等なしには起こりえなかったことは紛れもない事実」(那覇市議会)であるなどとして、検定意見の撤回を求める決議が、6月末までに沖縄県下の市町村41議会すべてで採択された。また県議会においては当初は自民党内で動揺があったが、世論に押されて622日全会一致で検定意見撤回と記述の回復を求める意見書を採択した。県議会や県教育委員会は文部科学省に要請をおこなったが、文科省は検定の訂正を拒否した。文科省や政府の冷淡な対応に怒った県議会は7月11日には「(文科省の)回答は到底容認できるものではない」と批判する文言を加えた検定意見撤回を求める意見書を再度採択した。

検定意見撤回を求める超党派の沖縄の要求に対して、安倍政権の下では文科省は冷淡に拒否しつづけてきた。そうした日本政府の対応に対して、929日沖縄で検定意見の撤回を求める県民大会が開催され、11万人以上が集まった。宮古八重山での集会を合わせると約12万人に及ぶ。米兵による少女暴行事件への抗議と基地整理縮小を訴えた1995年の集会の85000人をも大きく上回った。この県民大会は全政党が参加する超党派の大会で、自民党・公明党を与党とする県知事をはじめ、県教育長、県議会議長、41市町村の全首長が参加した。沖縄の怒りが政治的意見の違いを超えた、全沖縄の怒りであることが明確に示された。

県民大会以降はさすがに本土のメディアも無視できなくなり、この問題での報道が増えたが、沖縄では「沖縄タイムス」と「琉球新報」の二つの地元紙が連日にわたってこの問題を取り上げ続けていることに比べ、本土の極端な冷淡さ、無関心さが対照的である。こうした対照性は、中国や韓国、その他日本軍の侵略・残虐行為の被害を受けた国々に対する日本の対応と共通するものがある。

安倍内閣に代わって登場した福田内閣は、検定意見撤回を求める沖縄の声には答えず、検定意見は維持したまま、教科書会社からの正誤訂正申請に基づいて、いくらかの記述修正によって事態を切り抜けようとしており、その溝は依然として大きい。沖縄の声に本土(ヤマト)がいかに答えることができるのか、問われているのは本土(ヤマト)である。

 

[主な参考文献について]

拙稿「沖縄戦「集団自決」への教科書検定」(『歴史学研究』2007年9月)で、経緯を含めてかんたんに整理している。また「集団自決」が起きた所と起きなかった所の比較、地域社会の構造、階層の中で「集団自決」の要因を整理する作業を拙著『沖縄戦と民衆』(大月書店、2001年)でおこなっている。筆者のウェブサイトにもいくつか関連するものを掲載している(http://www32.ocn.ne.jp/~modernh)。

また教科書検定をめぐる動向については、沖縄県歴史教育者協議会『歴史と実践』第28号(20077月)が検定の実態を含めてくわしい資料を掲載している。「つくる会」による訴訟がいかに事実を歪曲しているかという点については、大城将保『沖縄戦の真実と歪曲』(高文研、2007年)、「大江健三郎・岩波書店沖縄戦裁判支援連絡会」のウェブサイト(http://www.sakai.zaq.ne.jp/okinawasen/)が参考になる。なお検定が発表されてから、これまで語っていなかった体験者が次々に証言を始めており、日本軍が人々を「集団自決」に追い込み強制していった経緯がより詳細に判明しつつある。それらの新しい証言については、『沖縄タイムス』のウェブサイト(http://www.okinawatimes.co.jp/)で読むことができる。安倍内閣と「つくる会」との関係など歴史問題との関連については、俵義文ほか『安倍晋三の本性』(金曜日、2006年)にくわしい。(20071018日記)