月刊『地域と人権』No.264. 2006年1月号(全国地域人権運動総連合)2007.3一部改訂

 

沖縄戦の実相「つくる会」による改ざんの動きをめぐって

                             林 博史


 これは上記の雑誌に書いたものです。その後、『沖縄タイムス』(2007年1月15日)が「集団自決」遺族の援護に関する文書を発見して紹介する記事を出しましたので、それに関する叙述を追加するなど若干の修正を加えました。いざというときには自決せよと日本軍あるいは日本兵に言われていたことは当時の人々の証言のなかにいくらでも出てきます。これを書いてから見つけた慶良間のケースについての米軍文書については、『沖縄タイムス』で報道してもらいましたが、その解説は、「慶良間・集団自決 米公文書にみる軍命」をご覧ください。
 なお上記の『沖縄タイムス』の記事の内容を3月に追加したところで、教科書検定問題がおこり、次々と原稿を書いたり、談話を出したりする状況になり、この原稿に手を入れるという状況ではなくなってしましました。検定問題をふまえてのものは、別に書いたものをこれから掲載していきますので、これはこれで掲載しておきます。ですから検定問題には触れていません。  2007.7.3記


はじめに

近年、日本では排外的なナショナリズムが広がり、日本がおこなった侵略戦争や植民地支配を正当化しようとする歴史修正主義の勢力が強まっている。そうした歴史認識をめぐる動きは、憲法を改悪しアメリカの戦争に日本も参加する態勢作りと連動していることは言うまでもない。

そうした中で、2005年の夏に、2006年度より使用される中学校教科書の採択がおこなわれた。歴史修正主義の代表的な組織である「新しい歴史教科書をつくる会」の作成した歴史と公民教科書を自民党がバックアップして、10パーセント以上のシェアを獲得しようとした。しかし多くの市民が採択しないように求める運動を展開、4年前に比べれば若干増えたが、同教科書の採択率は歴史が0.4パーセント、公民が0.2パーセントに抑えることができた。この「つくる会」の策動をめぐっては、アジアへの侵略や植民地支配を正当化することが注目されているが、2005年になってから沖縄戦をめぐる記述についての策動も始めた。ここではその問題について取り上げたい。

 

「つくる会」の策動

 まず「つくる会」歴史教科書(『新しい歴史教科書』扶桑社)で沖縄戦についてどのように書いているか、紹介しておこう。  

現行版(2001年検定合格)
1945年(昭和20年)4月には、沖縄本島でアメリカ軍とのはげしい戦闘が始まった。日本軍は戦艦大和をくり出し、最後の海上特攻隊を出撃させたが、猛攻を受け、大和は沖縄に到達できず撃沈された。沖縄では、鉄血勤皇隊の少年やひめゆり部隊の少女たちまでが勇敢に戦って、一般住民約94000人が生命を失い、10万人に近い兵士が戦死した。」

新版(2005年検定合格)
「4月、日本軍戦死者約9万4千人、一般住民約9万4千人を出す戦闘の末、
2ヶ月半のちに沖縄を占領した。」

現行版の記述の方が詳しいが間違いだらけである。まず米軍が沖縄本島に上陸したのは四月一日であるが、米軍による攻撃が始まったのは三月二三日からであり、四月から激しい戦闘が始まったという記述は間違っている。また「学徒隊」という言い方はできても、「ひめゆり部隊」という「部隊」は存在しない。軍隊であるかのように聞こえる「部隊」という言葉を使っているのは作為的である。また彼女たちの役割は看護や炊事などだけであり、「勇敢に戦って」などいない。これは明らかに事実の捏造である。住民の死亡者数についても(12万人余から15万人と推定)、この数字の不正確さについて脚注などで注記する教科書があるなかで、この記述は不親切である。

 「つくる会」教科書の新版では、沖縄についての記述が断片的に5か所だけしかなく、琉球王国、沖縄戦に至る近代沖縄、戦後の米軍占領から日本復帰にいたる経緯など沖縄の歴史の流れや重要なポイントはよくわからない。天皇あるいは中央中心で、「周辺」部分は無視ないし軽視するという特徴が示されている。

さらに新版では沖縄戦についての記述が極端に減り、沖縄戦の内実はまったくわからない、そっけない記述になっている。日本軍による住民虐殺も、住民を犠牲にした南部撤退も、一切触れないこと自体が意図的であるが、沖縄戦には触れたくないかのような記述である。太平洋戦争についての新版の叙述では、日本によるアジアへの加害の事実を書かないだけでなく(文科省の検定により若干の抽象的な記述が追加されたが)、原爆や東京大空襲なども含めて、日本人の被害の実相もほとんど触れていないのが特徴である。侵略戦争であることを否定しようとするだけでなく、戦争が日本国民にも多大の犠牲を生み出したことも生徒たちに知られたくないようである。

 しかしかれらに沖縄戦への関心がないわけではない。20054月、「つくる会」の中心人物である藤岡信勝は「沖縄プロジェクト」への参加をよびかけるアピールを自由主義史観研究会の機関誌『歴史と教育』で発表し、5月に「沖縄戦慰霊と検証の旅」と称するツアーをおこなった。藤岡は、「過去の日本を糾弾するために、一面的な史実を誇張したり、そもそも事実でないことを取り上げて」、児童・生徒に「失望感」や「絶望感」を持たせようとする傾向があるとし、その「事例の一つ」が「沖縄戦で民間人が軍の命令で集団自決させられた」ということがあるとしている。この呼びかけと一緒に同誌に掲載された沖縄戦についての“歴史授業案 無念の授業「沖縄戦 集団自決の真実」”では、この問題が「日本軍の名誉に関わるものであり、児童生徒の健全な歴史認識及び国防意識の育成にとって見過ごすことができない」とし、「皇軍および無念の冤罪を着せられた軍人の名誉を回復する授業を提案したい」としている。皇軍の名誉回復と国防意識の育成が教育の目標として堂々と掲げられているのである。そこでの主張は、かんたんに言ってしまうと、渡嘉敷島と座間味島における「集団自決」では、「自決せよ」という軍命令は出されていなかった、軍が命令したというのは、「国から補償金をもらうために」村の幹部がついたウソだとしている。「授業案」では、<国からの補償金を得るため(「援護法」)→ウソの証言→証言の拡大・定着>と「板書」し、教師が「このようにして、ウソが「事実」として拡大し、定着していったのです。恐ろしいですね」とまとめることとされている。

 この点に関わって、「つくる会」などの支援を受けて、座間味島の元日本軍部隊長と、渡嘉敷島の元部隊長の弟が、軍命令がなかったのにあったと書いたのは名誉毀損だとして大江健三郎と岩波書店を訴えた。そもそもこの二つの島での「集団自決」を最初に書いたのは、沖縄タイムス社編『沖縄戦記―鉄の暴風』(1950年、朝日新聞社、のちに沖縄タイムス社から刊行)だったにも関わらず、大江氏の『沖縄ノート』(岩波新書、1970年)を訴訟の対象にしたのは、著名であると同時に、沖縄戦については素人の大江氏を攻撃し、沖縄戦での策動の突破口にしようとしていると思われる。またかれらは同時に、岩波書店から出版されている、家永三郎『太平洋戦争』(初版1967年、第2版1986年)と中野好夫・新崎盛暉『沖縄問題二十年』(1965年)の出版販売差し止めも請求している。この訴訟の弁護士らは、日本軍が南京攻略にいたる過程での百人斬りはなかったとして、本多勝一氏や毎日新聞、朝日新聞を訴えていたメンバーと重なっている(当然のことながら東京地裁ではかれらは敗訴した)。かれらは訴訟によって、気に入らない者を脅し口を封じようとする策動をくりかえしている。

なお「つくる会」からは離れたようだが、小林よしのりも同じような論理で日本軍を弁護する議論をおこなっている。ただ「つくる会」は対米協調路線に切り替えて、現行版の反米的な記述を新版ではすべて削除し、アメリカにおもねる記述を加えたのに対し、小林は反米主義の立場から「つくる会」と距離を置いている。そのため小林は、アメリカが住民の犠牲をもたらせたという議論もしている。

いずれにせよ、「つくる会」は、教科書や教師用指導書、さらには各出版社の出版物に対して、「集団自決強要」の記述を削除するように求めている。かれらが沖縄戦を攻撃の材料にし始めたことだけは確かである。

 

1980年代の教科書裁判

  沖縄戦についての教科書叙述がはじめて大きな問題になったのが、1982年の検定だった。このとき、高校日本史において、江口圭一氏が日本軍による住民殺害について記述したところ、検定意見がつき、結局、削除せざるをえなくなった。この検定について沖縄のメディアが問題にしただけでなく、沖縄県議会は全会一致で、「県民殺害は否定することのできない厳然たる事実であり……、削除されることはとうてい容認しがたい」とし、「同記述の回復が速やかに行われるよう強く要請する」という意見書を採択した。その結果、その後は日本軍による住民殺害の記述が教科書に載るようになった。このころより一部右派グループから、住民殺害や集団自決の強要を否定する声が出ていたが、党派を超えた沖縄の一致した声の前に、ほとんど影響を持つことはなかった。

 その後、1984年に家永三郎氏が第三次教科書訴訟を提訴した。その中の一つの争点が沖縄戦における「集団自決」であった。日本軍による住民殺害の記述に対して、国側は、犠牲者の多かった集団自決を加えるように検定意見を付けてきた。1988年に裁判でこの点が取り上げられ、沖縄出張法廷まで開かれた。国側は曽野綾子らを証人として出し、「集団自決」を日本軍による犠牲としてではなく、国のために自ら殉じた崇高な死として描こうとした。つまり住民殺害を削除できない代わりに、国家への崇高な死を書かせることにより、日本軍の加害を薄めようとしたのである。このときも「集団自決」の命令の有無をめぐって論議があったが、家永側からは沖縄戦研究者の安仁屋政昭氏や、渡嘉敷島の「集団自決」から生き残った金城重明氏が証人に立ち、曽野が取り上げた渡嘉敷島ではあらかじめ日本軍の兵器軍曹から村の兵事主任を通して役場職員や17歳以下の青年を集め、手りゅう弾を一人2個ずつ配り、いざという場合はこれで自決せよと命令していた事実が示された。そうしたことに国側の証人は何も反論できなかった。ただ判決では、集団自決を記述せよとの検定意見は違法とまでは言えないとして家永側の敗訴となったが、事実関係については家永側の調査研究が明らかに勝っていた。

 

「集団自決」か「集団死」か

  この一連の教科書問題を通じて、「集団自決」という言葉そのものに問題があると指摘され、それに代わって“日本軍に強制された「集団死」”という言葉を使うことが提起されるようになった。「集団自決」という言葉は、戦争中から使われていた言葉ではなく、先に紹介した『鉄の暴風』で使用されて以来、使われるようになった。「集団自決」という言葉を使わないように提起している人たちは、「自決」という言葉には住民が自ら進んで命を絶ったという意味が込められており実態とは違っている、巻き添えになった人たちもいるし、特に子どもはみずから決断したわけではない、またこの言葉を使うことによって国や右派から、国のために自ら犠牲になったという殉国美談に解釈される余地を与えたという批判がなされている。

私はその批判は理解できるが、ただ「集団死」ではあのような事態を表す固有の表現とは言えないのではないかと考えている。沖縄戦のなかで、投降しようとして背後から撃ち殺されたり、ガマの中で泣く子どもが殺されたり、日本軍による住民虐殺があちこちでおこなわれたが、「集団自決」の場合、日本軍に殺されたそのようなケースとは違って、自らが死ぬことを納得させられ(死ぬしか選択肢がないと思い込まされ)住民同士で殺しあうという状況になった。つまり大人たちにとっては「自決」という形(肉親に自分を殺してくれと頼むことも含めて)をとらざるを得ないような状況に追いやられた。そうした状況を表現する用語として「集団自決」は、事態の重要な側面を表しているのではないだろうか。人々をそうした状況と意識に追いこんだものこそが問題なのであり、その点にこだわりたいと考えている。

 

なぜ「集団自決」がおきたのか

 「集団自決」がどこでどのようにして起きたのか、については私の本で詳しく検討している(『沖縄戦と民衆』)。「つくる会」が問題にしている渡嘉敷島と座間味島に関しては、前者についてはすでに触れたので後者について述べておこう。座間味島については、宮城晴美氏が『母の遺したもの―沖縄・座間味島「集団自決」の新しい証言』で詳細に明らかにしたように、特攻艇が配備されていた座間味島では日本軍は住民をとりわけスパイ視して、厳しい監視体制を作り上げていた。日ごろから、住民に対してもけっして捕虜になるなと皇民化教育をたたきこみ、米軍は捕まえた男は戦車でひき殺し、女性には暴行を加えて殺してしまうなどと恐怖心を煽る宣伝・教育が、軍や役場、学校などからあらゆる機会を使っておこなわれていた。

弾薬運びを手伝っていた若い女性たちには、軍曹から「途中で万一のことがあった場合は、日本女性として立派な死に方をしなさいよ」と手りゅう弾を渡されていた。彼女たちは、日本軍が斬り込みに行くと言って、いなくなってから、みんな死んでしまったと思い、もらった手りゅう弾で自決を図るが幸い不発に終わって助かった。

また日本軍は島民にデマを流していた。別の女性のグループは島内を逃げ回っているうちにほかの住民に出会ったが、そのとき、「あなた方はアメリカーに強かんされて、二本松に吊るされていたと兵隊さんたちが言っていたけど、なににあなた方、生きていたの」と驚かれた。つまり日本兵たちは、若い女性は強かんされ、木に吊るされているとウソをついて島民に恐怖心を煽っていたのである。また座間味島では何人もの島民が日本軍に殺されている。米軍に捕まったが殺されることもなく、かえって食糧をもらえたので、山中に隠れている島民に、米軍は悪いことをしないし食糧もたくさんあるから出てくるように呼びかけた島民は、自宅で寝ていたところを日本軍に殺された。また米軍が投降を呼びかけたのに対して、周りの人たちに出て行こうと促した二人の島民は日本兵に背後から撃ち殺された。

このように、米軍に投降しようとすると日本兵に殺され、米軍に捕まると女性は強かんされて木につるされるなどと恐怖心を煽られ、さらに前もって、いざというときは自決しなさいと手りゅう弾を渡されていた。こういう状況のなかでは、米軍が上陸し、小さな島で逃げ場もほとんどない状況に追い詰められた島民にとって、「自決」するほかにいかなる選択肢があったのだろうか。真綿で首を締め付けられるように、日本軍によって死以外の選択肢を封じられていたのである。そこでは、住民に「自決」させるうえで、直接の軍命令など不要だった。

さらに日本軍がくりかえし宣伝していた「軍官民一体」「軍官民共生共死」という思想が浸透していたなかでは、村役場の通達はイコール軍命令と受けとめられる状況にあった。日本軍と一緒に住民もみな「玉砕」するのが当然と思われていた。そして「集団自決」は、日本軍もこれで玉砕するのだと人々から思われたときに起きている。日本軍や各級行政機関ら日本国家全体が、住民をそうした「集団自決」に追いやったのである。だから、「集団自決」で死に切れず生き延びた住民が、後になって、日本軍が山中にこもって生き残っていることを知ると、裏切られたという思いをもつととも、もはや自決しようとはしなかった。つまり「軍官民共生共死」の思想を叩き込みながら、日本軍は山に隠れて生き残りを図る一方で、その思想を信じ込まされていた住民は「集団自決」をはかるという結果になったのである。渡嘉敷でも座間味でも日本軍の幹部たちは生き延び、のちに山から降りて米軍に武装解除されるのである。

 沖縄の各地の状況を詳らかに調べると、米軍がやってきたとき、日本軍がいるところでは住民は投降できず、壕にかくれたまま米軍に攻撃されて犠牲になるか、逃げ道があれば逃げた。ただ逃げ場がなくなった場合、あるいは日本軍の精神を叩き込まれた者がリーダーでいた場合、読谷村のチビチリガマのように「集団自決」したケースもある。渡嘉敷島や座間味島は、逃げ場のない壕と同じで、かつ投降しようとすると日本軍に殺される状況があった。

 かりに「集団自決」の問題を横に置いたとしても、渡嘉敷島や座間味島に駐屯していた日本軍は多くの住民や朝鮮人軍夫を虐殺しており、その部隊長の残虐行為に対する責任は免れない。その点だけでも「皇軍の名誉」などとうてい回復できるものではない。

ところで、沖縄本島の各地や離島の状況を見てみると、日本軍がいなかったところでは、地域のリーダーの判断によって集団で投降して助かっているケースが少なくない。そうした事例は、私の本のなかでたくさん紹介しているのでここでは省略するが、日本軍の宣伝のウソを見抜き、住民の助けを求めて米軍と直接交渉して集団で投降したケースもたくさんある。それらはいずれも日本軍がいなかったから可能だった。

近年、日本の各地で無防備地区運動が取り組まれている。それは、自治体レベルで、一切の軍事施設、軍隊をおかず(あるいは施設があっても敵対行動をとらない)、住民は戦争に協力しないことによって、攻撃されないという国際法上の保護を受ける権利を獲得し、地域住民の安全を確保しようとする取組みである。これには沖縄戦の経験から学んだことが反映されている。軍隊や基地があるからこそ相手から攻撃を受ける対象になるのであり、軍隊や基地がないことこそが、市民の安全につながるという教訓である。それは、日本国憲法の平和主義の精神に則った、市民の安全保障の取組みである。

 ところで、戦後、遺族が援護の対象になるために軍命令という話が作られたということについて言えば、戦傷病者戦没者遺族等援護法(援護法)では、軍に協力したものしか援護の対象にならない。軍に食糧を強奪されても「食糧提供」、壕を追い出されても「壕提供」と申請しなければ援護を受けられない。日本軍に殺されたという理由では対象にされない。「集団自決」でも日本軍あるいは国家によってそうした死に追いやられたという利用では援護を拒否されてしまう。軍命令に従って軍の足手まといにならないように軍に協力して「集団自決」したのだと申請しなければならないように、国が仕向けているのである。この援護法の発想は、日本がおこした誤った戦争の被害者に償うというものではなく、軍に協力した者に報償として与えるというものであり、侵略戦争への反省のまったくないものである。空襲などで亡くなった民間人がこの援護の対象にされていないこともその表れである。こうした日本政府の姿勢こそが、問題である。

  また、いわゆる「戦闘協力者」の援護申請は1957年からおこなわれているが、渡嘉敷や座間味の「集団自決」遺族の申請に対して、最短で3週間、平均3か月ほどで厚生省から補償対象として認定されている。通常の援護の認定にはそれ以上の期間がかかっており、「集団自決」の遺族には、当初から対応が早かったことが『沖縄タイムス』(2007年1月15日付)が発見した文書から判明した。当時の琉球政府の援護課は1953年に設置されてからすぐに慶良間諸島の調査をおこない、「軍命」があったことは当時から聞いていたことを関係者は証言している。つまり、「集団自決」という悲惨なことがおこり、それは「軍命」によるものだったということは早くから援護行政の担当部局による調査でわかっており、したがって申請するとほかの戦没者のケースよりも早く援護の認定が厚生省から下されたということである。
 遺族が援護ほしさに日本軍の名誉を傷つけるウソを作り上げたと非難するのは筋違いだろう。

 

沖縄戦から学ぶ取組みを

  「つくる会」は、そうした状況を一切捨象して、直接の軍命令があったかどうかだけに争点を絞り、そこから皇軍の名誉回復、さらには沖縄戦における日本軍の加害行為、沖縄戦自体が沖縄住民を犠牲にするものだったことを否定しようとしている。沖縄の人々の苦しみ、悲しみを一切切り捨てる冷酷な策動であるとしか言いようがない。南京虐殺や日本軍「慰安婦」、朝鮮人強制連行などの日本の加害行為を否定し、教科書から抹殺する策動をおこなってきた彼らは、これまで手をつけられなかった沖縄戦にまで手を伸ばしてきた。沖縄は、現在の日本のなかで最も戦争と平和の問題に敏感な地域と言ってよいだろう。と同時に、米軍基地など重圧を最も受けている地域でもある。この沖縄の反戦平和世論に打撃を与えること、軍隊は住民を守らないという沖縄戦の経験を否定することによって、新たな戦争への道を掃き清めようとしていると言えるだろう。「つくる会」教科書が日本国民の被害をも書かないことと、沖縄戦をめぐる策動とは関連しているだろう。国民を新たな戦争に動員するためには、日本人にも被害を出すなどということは触れたくないのだろう。

 沖縄のメディアは「つくる会」の策動について大きく報道し、その問題点を洗い出す連載をおこなった。こうした策動は沖縄ではかんたんには受け入れられないだろう。ただ二〇〇五年五月に沖縄県内の高校二年生を対象におこなわれたアンケート調査では、「今年は沖縄戦が終わって何年になるか」の問に「六〇年」と正確に答えられたのは五五パーセント、従軍慰安婦について理解していたのは三割弱に留まっていた。そうしたことから、小林よしのりなどを通じて、沖縄戦の実相をよく知らない世代には、かれらが作り上げる虚像が浸透する危険性もなくはないだろう。さらに問題は、本土のメディアの扱いがきわめて小さいことである。2006年度から使用される中学の歴史教科書では、全体として沖縄戦の叙述は少なくなっている。

有事法制が制定され、改憲が日程に上り、アメリカとともに戦争する態勢が作られつつある今日、沖縄戦から何を学ぶのか、あらためて問い直すべき課題である。

   

【参考文献】

沖縄県歴史教育者協議会『歴史と実践』第26号、20057

石原昌家ほか編『オキナワを平和学する』法律文化社、2005

林博史『沖縄戦と民衆』大月書店、2001

宮城晴美『母の残したもの沖縄・座間味島「集団自決」の新しい証言高文研、2000

安仁屋政昭編『裁かれた沖縄戦』晩聲社、1989

藤原彰編著『沖縄戦と天皇制』立風書房、1987

『琉球新報』『沖縄タイムス』20055月−7月に関連記事が多数ある。

筆者のウェブサイト「日本の現代史と戦争責任についてのホームページ」にも関連する論文が多数ある(http://www32.ocn.ne.jp/~modernh)。