科学研究費補助金 基盤研究(B)海外学術調査研究成果報告書(研究代表者保坂廣志)
『沖縄戦における日米の情報戦―暗号・心理作戦の研究』
20063

沖縄戦における米軍心理戦研究の課題

                     林 博史


 これは科学研究費を得ておこなった2年間の海外調査の成果の報告書に掲載したものです。いわゆる科研費の報告書ですが、一般の刊行物とはちがって、書店で売られることもなく、また主な大学図書館でなら見られるというものでもありません。作成したのは100数十部程度でしかなく、ほんの一部の大学図書館などで見られるかどうかというものです。私は、この報告書のなかで、この論文(というより、研究ノートあるいは資料紹介ですが)のほかに、米軍資料の翻訳も掲載しています。
 なおこのVで紹介した沖縄戦の関係文書については、『季刊戦争責任研究』第52号(2006年6月)に全部紹介していますので、ここには掲載していません。申し訳ありませんが、そちらでご覧ください。 2007.2.13記


はじめに
T 米軍の対日心理戦の研究史
U 太平洋方面軍司令部の心理戦―沖縄戦の前史
V 沖縄戦における押収文書の意義
まとめにかえて
参考文献

 

はじめに

  心理戦Psychological Warfareとは、心理学的手法を使って、敵の抗戦意志をくじき、自軍の損害を最小限に留めることにより、戦争目的の達成を促進するための軍事作戦の一つであるといえる。敵対する敵軍将兵に対する心理戦は古くからおこなわれてきたと言えるが、総力戦段階になって国民全体の士気が戦争に大きな影響を与えるようになると、心理戦は全面的に活用されるようになった。前線の敵国将兵から銃後の一般国民、敵国によって占領されている住民や植民地住民など幅広い層が心理戦の対象とされた。したがってその射程範囲も、戦場で直面している敵軍将兵の士気を弱め、投降を促し、当面の戦闘においてより少ない損害と短い期間での勝利を目指すという戦術的なものから、敵国民全体の抗戦意欲を弱め、戦争のすみやかな勝利をめざす戦略的なもの、さらには戦争での勝利後の占領統治など戦後をにらんだ、より長期的な目的(たとえば天皇制をどう扱うのか、というような)などさまざまなレベルがあった。日本も連合国に対して心理戦をおこなったが、戦争の趨勢が敗戦に向かう中では有効性は乏しかった[1]。それに対して、アメリカはきわめて広範に心理戦を展開した。心理戦が有効であるためには、戦場での勝利・優勢が不可欠であった。

米軍による心理戦の手段としては、ラジオ放送、リーフレットの散布(空中散布など)、前線でのラウドスピーカーによる宣伝などさまざまな手段が講じられたが、何よりも重要なのはそのなかで何をいかに語るのか、という問題だった。敵将兵や国民の心理にうまく働きかけるためにはかれらの心理分析が不可欠だった。そのために相手の歴史や地理などの研究は基礎研究として重要であったが、それらは通常、戦争開始前の情報であった。そのためそれだけにとどまらず戦争が始まってからの敵国民の心理がわかる生の資料が求められた。そのデータ源として、敵国の新聞やラジオなどのメディアの分析もなされたが、特に重要だったのは敵軍将兵の捕虜だった。彼らはまさに生の情報源であり、米軍は捕虜一人ひとりに丁寧に尋問をおこなってさまざまな情報を取った。同時に戦場で日本軍の文書の押収に努めた。軍の命令書や陣中日誌などの公文書は日本軍の作戦計画や配置その他の情報を入手するうえで重要であるが、それだけでなく将兵個人の日記も重要な情報源だった。米軍と違って日本軍将兵は個人の日記をつけていることが多かった。それらの日記には公文書からはうかがえない情報がたくさん含まれていた。将兵たちの士気、武器弾薬や食糧の事情、日本本土の状況などに関わる情報が含まれており、心理戦にとって重要な情報も含まれていた。

捕虜に対してはすぐに尋問がおこなわれて調書が取られた。押収された文書は翻訳係によって読まれ、重要な箇所は英訳されて関係部隊に配布された。日本軍の作戦命令や配備状況など緊急を要する軍事情報はただちに関連部署に伝達された。尋問や翻訳のためには日本語のできるスタッフが大量に必要であり、そのための日本語教育が戦争開始直後から開始されたが、特に日系2世が動員された。

日本に対する心理戦に関わったアメリカの機関としては、次のようなものがあった。列挙すると、米軍の組織としては、陸軍諜報部Military Intelligence ServiceMIS)、海軍諜報部Office of Naval IntelligenceONI)、太平洋方面軍統合情報センターJoint Intelligence Center, Pacific Ocean Area(JICPOA)南西太平洋方面軍心理作戦部Psychological Warfare Branch, SWPAPWB)、軍ではないアメリカの組織として、戦時情報局Office of War InformationOWI)、戦略事務局Office of Strategic ServicesOSS)、連合軍組織としては、東南アジア翻訳尋問センターSouth East Asia Translation and Interrogation CenterSEATIC)、連合軍翻訳通訳部Allied Translator and Interpreter SectionATIS)などがある[2]

本稿は、沖縄戦におけるアメリカの心理戦を本格的に研究するための準備作業であり、そのために次の3点について検討する。第1に、沖縄戦を中心にしながら、対日戦におけるアメリカの心理戦についての日本での研究について取り上げ検討する。第2に沖縄戦を担当した太平洋方面軍司令部が、沖縄戦を準備する段階で心理戦についてどのような認識を持っていたのか、同司令部の資料を紹介しながら検討する。第3に心理戦に関する資料は心理戦の研究だけにとどまらず、ほかの観点からも資料的価値は高い。沖縄戦研究においてそうした資料が持つ意味について、具体的な資料を紹介しながら考えたい。

 

T 米軍の対日心理戦の研究史

  沖縄戦における米軍の心理戦については、これまでもさまざまな文献や証言で言及されているが、本格的な研究はまだ始まったばかりと言える。『沖縄県史 資料編2 沖縄戦2』において、宮城悦二郎氏と保坂廣志氏の解説によって関連する資料がいくつか紹介されている。その中で、OSSが作成したレポート「琉球列島の沖縄人―日本の少数民族」の全文や沖縄戦で使われたビラなども収録されており、重要な資料が多い。同じく『沖縄県史 資料編1 沖縄戦1』に全文が掲載されている「民事ハンドブック」も心理戦に関わる基本的な資料である。また筆者も部分的ではあるが、『沖縄戦と民衆』においていくつかの資料を紹介しながら論じている。

その後、大田昌秀氏によって、沖縄戦における米軍の心理戦について概括した、初めての著作『沖縄戦下の米日心理作戦』が出されている。大田氏の研究は、貴重な貢献であるが、戦後まもなくの時期にアメリカで書かれた二本の未公刊論文がベースになっており、その後に大量に公開されている関連資料や研究がほとんど利用されていない。また問題関心と対象が沖縄戦に限定されているためか、ヴァッチャー氏の未公刊論文を典拠にして、沖縄戦以前には「対日本軍心理作戦を軍事作戦で展開することなど考えもしなかった」(同書157頁)かのような記述があり、沖縄戦以前から対日心理戦が積み重ねられその経験のうえに沖縄戦での心理戦があるということが無視されてしまっている。たとえばAllison B. Gilmoreのすぐれた研究によって、南西太平洋方面軍司令部GHQ, Southwest Pacific Area(SWPA)(司令官ダグラス・マッカーサー)を中心とした米軍による心理戦の試行錯誤と経験の蓄積が明らかにされているし、また沖縄戦を担当した太平洋艦隊兼太平洋方面軍司令部United States Pacific Fleet and Pacific Ocean AreasCINCPAC-CINCPOA)(司令官チェスター・W・ニミッツ)が、沖縄戦にいたるまでにおこなった心理戦についての資料もたくさん公開されているが、そうした研究や資料にはまったく触れられていない。したがって一般には入手がきわめて難しい戦後まもなくのアメリカの未公刊論文を使って、沖縄戦における心理戦の概要を示された点は、今後の研究にとって大きな意味があると考えられるが、これまでに蓄積された研究をふまえ、大量に公開されている資料に基づいた本格的な研究は、依然として残された課題である。

 沖縄戦に限定せずにアメリカによる対日心理戦についての研究動向を見ると、資料が一般に利用できなかった時期には、ザカリアスやラインバーガー、ケーリなどアメリカ側の関係者による体験記や著作がいくつか出されて邦訳されている。アメリカの宣伝活動に協力した日本人捕虜たちから丹念に聞き取りをおこなって調べた、上前淳一郎『太平洋の生還者』という労作が出されている。また宣伝ビラを集めた著作も、鈴木明・山本明編著『秘録 謀略宣伝ビラ―太平洋戦争の“紙の爆弾”』や、平和博物館を創る会編『謀略宣伝ビラは語る―紙の戦争 伝単』が刊行されている。

その後、アメリカ側の原資料が米国立公文書館などで公開利用できるようになり、研究も進み始めた。前述の『沖縄県史』も沖縄戦に関わるいくつかの心理戦関係の資料を翻訳掲載しているし、また沖縄で配布された宣伝ビラも収録している。1990年代末より天皇制へのアメリカの政策をめぐって心理戦の資料が分析の対象になり、特にマッカーサー司令部のフェラーズ文書が利用された研究が、東野真『昭和天皇 二つの「独白録」』や張會植「マッカーサー軍の対日心理作戦と天皇観」として発表された。また山際晃・中村政則編・岡田良之助訳『資料日本占領1 天皇制』には関連する資料が収録されている。

2001年にアメリカで日本帝国政府情報公開法が発効して関連資料の公開が進むとともに、戦争犯罪に関する資料を中心とした対日戦関係についての資料検索リストが米国立公文書館で作成された。そのことによって、資料の検索が一気に便利になったこともあり、アメリカの資料を使った研究が急速に進み始めている[3]。山際晃『米戦時情報局の「延安報告」と日本人民解放連盟』や山本武利『日本兵捕虜は何をしゃべったか』『ブラック・プロパガンダ―謀略のラジオ』などの諸論考、『季刊戦争責任研究』に発表されている諸論文などが挙げられる[4]。また心理戦を主要な対象としたものではないが、関連する研究も河野仁氏などから出されている。

ただし一部の例外を除き、個々に興味深い資料がたくさんあるので、そうした中からいくつかが紹介されているという段階にとどまっている。対日戦だけでもアメリカの心理戦に関わった機関は多数あり、しかもそれらの関係は複雑である。一つの機関の活動の全体像をつかむためだけでも大量の資料と格闘する必要があり、大変な時間と労力のかかる作業であるが、それぞれの機関の相互関係も含めてアメリカによる対日心理戦の全体像を改名することは並大抵の仕事ではない。いずれにせよ対日心理戦についての全般的かつ本格的な研究は今後の課題であろう[5]

 アメリカにおける近年の研究成果としては先にも紹介したアリソン・B・ギルモアAllison B. Gilmoreの研究がある。これは、南西太平洋方面軍司令部の心理戦を中心に、南太平洋方面からフィリピン戦にいたる心理戦についての研究であり、学ぶところが多い。ただ米軍の対日戦は、太平洋戦線においては、ニューギニア方面からフィリピンへ進攻していった南西太平洋方面軍(マッカーサー司令部)と、中部太平洋方面をタラワからサイパン、硫黄島、沖縄へと進攻していった太平洋方面軍(ニミッツ司令部)の二方面からおこなわれた。日本占領は前者が中心となって実施された。したがって戦後の天皇制の扱いなどは前者が関わったのに対し、沖縄戦については後者が担当している。ギルモアの研究ではもっぱら南西太平洋方面軍の心理戦が取りあげられているために残念ながら沖縄戦が扱われていない。この両方面軍による心理戦の相互の関連が問題になるが、そこまで明らかにしている研究はまだない。

インド・ビルマ・中国方面では、太平洋戦線とは別に東南アジア翻訳尋問センターなどのように英軍や中国軍と共同で心理戦が実施された。また中国共産党ならびにその下で対日心理戦に関わっていた日本人捕虜たちと、アメリカの戦時情報局OWIなどとの間で、ビラの内容など心理戦のあり方について交流がおこなわれていた。

ほかの機関について見ると、連合軍翻訳通訳部ATISは主にマッカーサー司令部の下で活動をおこなっているが、戦時情報局OWIと戦略事務局OSSは軍とは別の機関であり、軍と協力しながらも独自に活動をおこなっていた。OSSはマッカーサー司令部とは関係が悪く、全体として太平洋地域では活動ができなかった。他方ではOWIは太平洋方面軍司令部からは好意的には見られていなかったようである。このように心理戦に関わる諸機関の関係は複雑であり、アメリカとして統一した心理戦が展開されたとは言えないだろう。諸機関の相互の関連と対立・矛盾については、ここでは省略する。

OSSとOWIについて説明しておくと、この二つは1942 6 月にルーズベルト大統領によって同時に設立された機関である。OSSが諜報を担当し、OWI は国内外向けのプロパガンダを担当した[6]。OWIはハリウッドと協力して映画製作や海外向けラジオ放送、敵軍や敵に占領された地域の住民へのリーフレット散布などさまざまな活動をおこなったが、有効なプロパガンダをおこなうために、捕虜の尋問や没収した敵文書の分析、敵のラジオ放送の傍聴、新聞のモニターリングなどもおこなった。対日戦については、日本本土やその植民地・占領地の政治経済社会状況、日本軍将兵や民間人の意識、占領地住民の意識などの実態を把握分析し、それをプロパガンダに生かそうとした。OWIの海外組織としては、中国の重慶や昆明、インドのニューデリーやボンベイ、カラチ、カルカッタ、ビルマのアッサム、オーストラリアのブリスベーン、後にはサイパンやマニラなどに前哨拠点がおかれた。OWIの中の海外士気分析部は、日本軍ならびに日本本土の状況とその士気について調査し分析するのが主要な任務であった。その活動上、陸軍諜報部MISと密接な協力関係にあった。一般に、捕らえた日本兵捕虜の尋問は部隊に配属されているMISがおこなうことが多かったが、OWIはそうした尋問調書などを総合的に分析してレポートを作成し関係機関に配布した[7]

心理戦に関わった諸機関のレポートでは、当然のことながら自らの活動の成果を高く評価するものが多い。しかし、Clayton D. Laurieの研究のように、心理戦に関わる機関の分立と対立、戦闘部隊による理解の弱さなどから、対日戦における心理戦はあまり成果を挙げられなかったと結論づける研究もある。特に数万数十万人単位で捕虜を得たヨーロッパ戦線と比べると、太平洋戦線での捕虜は、戦争末期になるほど増えてはいるが、圧倒的に少なかった。ウイリアム・リーヒ海軍提督は「心理戦は専門的な兵士や水兵にとってはいくらか新しいものだった。それが日本人に対して一体どのような効果を与えたのかについて私はよくわからない。だがかれら野蛮人に対しての最高の心理戦は、爆弾だった。そう、われわれは精力的に爆弾を使ったのだ」と評価している[8]

このように心理戦がアジア太平洋戦争の帰趨を決めるうえで、どれほどの役割を果たしたのかについて、あまり過大評価はできないだろうが、戦争末期にいたるほど日本軍将兵の捕虜が増大することは確かであるし、沖縄では多くの住民が早くから米軍保護下に入ったことも事実である。また心理戦に関する資料自体が、戦争中の日本軍や日本人を理解するうえで貴重な興味深い素材をたくさん提供してくれている。したがって心理戦に関するアメリカの資料群は、心理戦の研究のためだけでなく、違った観点からの研究にとっても資料の宝庫であると言える[9]

さて、沖縄戦とのかかわりで言えば、沖縄戦は太平洋方面軍(ニミッツ司令部)による作戦であり、この太平洋方面軍の沖縄戦にいたる経験が問題になるだろう。もちろん南西太平洋方面軍とも相互に情報を交換していただろうから、その関連も問題になるが、まずは太平洋方面軍の心理戦の経緯を見ておく必要があるだろう。

   

U 太平洋方面軍司令部の心理戦―沖縄戦の前史

  太平洋方面軍によっておこなわれた心理戦の具体的な分析は今後の課題として残しておき、サイパンやグアムなどを占領した直後にまとめられた同軍の文書を基に、かれらが心理戦についてどのように考えていたのかを紹介したい。この文書は、19448月末に太平洋艦隊兼太平洋方面軍United States Pacific Fleet and Pacific Ocean Areasの司令部CINCPAC-CINCPOAがまとめた「心理戦」第1部・第2部”Psychological Warfare,” Part 1 & Part 2である。沖縄戦の7ヶ月前、かつ沖縄進攻作戦であるアイスバーグ作戦が決定される前の段階での同軍の認識を示すものである[10]

 ここでは心理戦は「戦闘宣伝」として位置づけられ、その宣伝は言葉とアイデアという媒介を通じて組織的に他者の行動と思想に影響をあたえるものとして定義されている。以下、その要旨をかんたんに整理して紹介しておこう。  

宣伝は、直接には敵の抵抗を弱め、さらには敵軍の投降を促し、戦争を早く終わらせ、多くの命を救うためである。捕虜を取ることは、人道的であるだけではなく、非常に有益な軍事的に企てであり、貴重な情報を得られる。日本人の内面の自然な感情はほかの人種とも同じであり、狂信的な態度も確実に影響されうる。実際に捕虜になる率は増えている。日本兵はもし捕虜になったら、日本が戦争に勝って戦争が終わり、日本に戻ったときに軍法会議にかけられると思っていたが、日本が勝つことはなくなり、日本全体が捕虜になったような状態になると考え始めた。だから捕虜になることを拒み最後まで抵抗することをやめさせることが可能な状況が生まれてきている。また別の要素で重要なことは、日本守備隊の構成員には多くの軍人でない人々が含まれていることである。かれらは、現地住民であったり、徴用された日本人や朝鮮人労働者、民間の住民たちである。これまでの過去の経験から、これらの人々は少なくとも一部は中立的な立場をとらせるか、あるいはわれわれを支援するようにさせることができることが示されている。だから現地住民や朝鮮人に対する日本人の抑圧や、民間の日本人に対する日本軍人の伝統的な尊大な侍のような態度は、敵軍内の不和や不一致を生み出す上で強調される事実である。
 ここでの心理戦は、軍事的進攻の宣伝であって、文民機関である戦時情報局がおこなうような宣伝、つまり日本本土に向けた宣伝や長期的政治的な宣伝とは区別されなければならない。

 ここで注目されるのは、日本軍の将校などの特権階層と、徴兵された日本人労働者や市民たち、労務者や現地住民たちにはそれぞれ区別して働きかけることが指摘されていることである。日本軍守備隊の中でも、朝鮮人や徴兵された労働者、あるいは現地住民は日本軍人の頑固さを持っておらず、またかれらは日本軍から抑圧的な扱いを受けているので、抑圧者を嫌っており、不和の材料が豊富であるというように認識していた。

 日本軍の中でも将校たち幹部とそれ以外の兵士たち、正規兵と現地召集の兵士、労働者として徴用された現地住民、朝鮮人、民間人などを区別して、それぞれに応じた心理戦に働きかけをしようとするものだった。

 訴えるテーマとして次の7点をあげている(以下、要旨)。

    1 身体的に求める物への訴え。つまり飢えや疲労、休養や治療、食糧への欲求。

2 自己破壊をやめさせること。つまり無駄に自分を犠牲にしてしまえば、国や家族のために何ができるのか、と問いかけ、敗北し軍国主義精神が除去された日本があなたたちを暖かく迎えるときが来るだろう、と訴えることである。

3 面子を保たせること。「降参」や「降伏」、「俘虜」や「捕虜」という言葉は使わず、「武器を置け」とか「戦闘をやめよ」と言うべきである。

4 日本の指導者たちのウソを引用する。現実の戦況を知らせること、米軍が捕らえた者を拷問するという宣伝に捕虜の写真などを使って反駁すること、日本海軍が助けにくるというのはウソだということ、などを示す。

5 不和や摩擦を引き起こすような訴え。兵士たちの将校に対する、陸軍の海軍への、朝鮮人の日本人への、民間人の軍人への反感を促し、不和や摩擦を促進する。

6 法の権威とその尊重。米軍は合法的にその地域を占領し施政権を行使するのだから、その権威と法に従うように促す。

7 米軍とアメリカの産業の圧倒的な力を示す。

 ここでは「捕虜」や「降伏」という言葉を使わないように指示しているが、それだけでなく「天皇」にも言及しないように確認している。

 別の箇所では、米軍の宣伝に対する日本側の反応として、インパール作戦に参加した第33師団の文書を取り上げ、そのなかで「捕らえられた際の“帝国陸軍兵士に要求される完全性”」についての指令が出されていることをあげ、これは日本軍兵士が捕虜になるかもしれないことを認めた初めての公文書であると紹介している。

 この文書の第2部には、実際のビラが多数収録されているが、そのなかにも「徴募労働者」向け、朝鮮人向け(ハングルで書かれている)、市民向け、短期工員向けなどのリーフレットが含まれている。沖縄戦において配布されたリーフレットのなかには、すでにここに収録されているものもある。

 ここで一つのリーフレットを紹介しておくと、たとえば「日本の市民に告ぐ!!」と題されたリーフレットの内容(原文も日本語)は次の通りである(シリーズ・ナンバー509)。  

「皆様が教えられて来た事とは凡そ反対に米国人は日本人市民に対して少しも敵愾心を持っていません。サイパン島だけで一萬八千百二十五名の老若男女が米軍の方に来ました。そして今では安全に保護され親切な米国人の待遇の許に楽しく其の日を送って居ます。只米国人が残酷であるといふデマ宣伝を信じて数名の人がはかなくもこの世を逝りました。

 米国人が残酷であると言ふ様な虚言を信じてはなりません。百聞は一見に如かず!代表者を選んで米軍の方に送りなさい。そしてその代表者が如何なる取扱を受けるかを御覧なさい。これ等代表者が皆様の所に帰って皆様を安全な所に誘導する事が出来ます。そうして皆様方には美味しい食物、冷たい水、着物、治療等が与えられます。昼間に来なさい。そしてその際皆様が兵隊と間違はれない様に白又は色付の着物を着て来なさい。一刻も早く来なさい。其処にはよい待遇が保証されています。」  

 このように米軍は一般の市民には危害を加えず保護すると約束する内容となっている。

 この太平洋方面軍がまとめた心理戦のレポートには他にもさまざまな内容が含まれているが、ここでは省略する。ここで確認できることは、19448月末という時点、つまりサイパン戦という多くの日本人民間人を抱えた地域での戦闘の経験を踏まえて、日本軍はあくまでも最後まで抵抗するという狂信的な一枚岩の集団ではなく、うまく働きかければ士気を低下させ投降を促すことができると認識していたことである。さらに日本側の内部にも将校と下士官兵、徴兵された日本人、労務者、朝鮮人、現地の住民など不和や不一致があり、それらの亀裂を利用できるという認識も得ていた。太平洋方面軍はこうした経験を踏まえて、沖縄戦における心理戦の計画・準備に入っていくのである。沖縄戦における心理戦は、そこから突然始まったのではなく、太平洋の島々での一連の戦闘の経験を踏まえておこなわれたのである。特にサイパン戦の経験は重要だったと見られる。そうした視点が、沖縄戦の心理戦研究には必要であろう。こうした資料をさらに丁寧に収集分析することが必要である。  

 

V 沖縄戦における押収文書の意義

  米軍による心理戦において、日本側の情報を収集する方法はいくつかあるが、その時点での生の情報を得る手段として、捕虜の尋問とともに戦場で日本側の文書を押収して通読し分析することがあげられる。押収文書では日本軍の命令や作戦計画、部隊の配置、行動などが文章だけでなく地図や図面など詳細に、かつ正確に把握でき、戦闘において直接役に立つ情報が多数得られた。そうした公文書以外に将兵個人の日記は、公文書からはうかがえない将兵たちの士気(戦意や不満など)や弾薬・食糧事情など具体的な状況が把握できるものが含まれていた。こうした文書の押収は心理戦のためだけではなく、むしろ戦闘にあたっての直接の情報収集のためでもあったことは言うまでもない。

 他方、今日のわれわれの立場から見ると、一般に日本軍の資料は、敗戦直後に大量に処分されて失われてしまったものが多い。現在、保存され閲覧が可能な資料は、そうした大量処分を免れた資料群と、戦中から戦後にかけて連合軍、特に米軍に押収され、後に日本に返還された資料群である。後者の押収文書は、一部は戦後、日本に返還され、一部はアメリカ本国で現在でも保管され、その多くは一般に公開されている[11]。沖縄戦関係の日本軍資料について言えば、防衛庁防衛研究所図書館に多くの沖縄戦関係資料があり、研究者や自治体史などで利用されている。ただそうしたものをすべて集めてみても、おそらく実際に作成された文書のほんの一部にしかならないだろう。圧倒的多数は失われてしまったと言ってよいだろう。そのためわからないことが多い。そうした資料状況のなかで、原文書の所在はわからないが、米軍に押収されて全部または一部が英訳されて、各種のレポートに収録されているものが多数ある。もちろん現物がどこかに残っている可能性が皆無とは言えないかもしれないが、これまでのところわかっていないものが多い。最近、米国立公文書館では、日本帝国政府情報公開法が成立したことにより対日戦関係の資料の洗い直しがおこなわれ、そのなかで海兵隊が押収した日本軍文書がまとめて見つかり公開された[12]。ほかのアメリカの機関で、このようなケースが今後も出てこないとも限らないが、なかなか難しいだろう。米軍あるいはアメリカの心理戦や情報関係の機関のレポート類を丹念に調べると、日本軍や日本の行政文書、日本人将兵個人の日記などの英訳がたくさんあり、そのなかに沖縄戦関係も多数含まれている。こうした資料は失われた日本側文書を復元できる貴重なものである。

 ここではそうした資料のなかから沖縄戦に関して、日本軍と沖縄住民との関係について興味深いものを紹介したい。本書の資料編に言及する資料の和訳を掲載しておいたのでそれを参照していただきたい。

 ここで紹介する資料は、いずれも日本軍あるいは日本側が作成した文書を沖縄で米軍が没収し、重要な箇所を抜粋、英訳して関係部隊に配布したレポートに収録されているものである。特に米軍が沖縄本島に上陸した19454月以降の日本軍文書はほとんど残っていないが、こうした米軍のレポートには、4月以降の日本軍文書が多数紹介されており、貴重な内容が含まれている。沖縄戦の最中における日本軍の作戦命令や情勢認識などがわかる文書がたくさん含まれており、沖縄戦研究・理解にとって、貴重な情報が多い。

 

1 徴用労務者数とその配属先(資料1) 

沖縄戦の準備段階から日本軍は多くの住民を動員した。当初は主に飛行場や陣地構築のための勤労動員であった。後には防衛隊や義勇隊など軍事動員もおこなわれた。防衛庁防衛研究所図書館に残されている日本軍の関連部隊の陣中日誌などから、伊江島の一部の時期などにおける動員人数は把握できるが、全体的にその動員の実態がわかる資料がないのが実情である[13]

資料1は沖縄戦直前における住民動員について実態がわかる資料である。これは1945130日に第32軍参謀部が作成した文書であるが、2月はじめの時点における徴用労務者の部隊ごとの割当て数が記されている。国頭郡では第2歩兵隊、中頭郡では第62師団、島尻郡では第24師団、第62師団、独立混成第44旅団が担当して労務者の動員にあたり、そこで徴用された39742名が配属された部隊がわかる。たとえば第62師団(石部隊)には労務者3500名、学徒255名、計3755名(島尻郡から1350名、中頭郡から2405名)、北飛行場(読谷)には労務者1400名、学徒100名、計1500名(すべて中頭郡より)、伊江島飛行場には労務者3500名が配属されたことがわかる。このように沖縄本島と伊江島での労務動員の状況がくわしくわかる資料である。

これまでは、多いときで一日約5万人の勤労動員があったというような概数はわかっていたが[14]、沖縄本島全体での動員数がこれほどくわしくわかる資料はなかった。  

2 防衛召集の動員数と配属先(資料2)

 日本軍兵士としての召集において、大きな比重を占めるのが防衛召集である。沖縄戦直前の194536日におこなわれた防衛召集について第62師団だけであるが、防衛召集者の村ごとの割当てと召集人数がわかった。村ごとに待機者数と召集人数が記されているが、第62師団の管轄地域では待機者6940名に対して5489名を召集することとなっており、行政関係者や病人などを除くと根こそぎ動員と言ってよいだろう。かれらの配属先も記されており、たとえば西原村では待機者461名中400名が召集され、36日朝9時に浦添村国民学校に集合することとされ、第5砲兵司令部と歩兵第63旅団にそれぞれ200名ずつが割りふられた。後者に配属される200名は、同文書の「配属計画」によると独立歩兵第14大隊の1個中隊として編成されたようである。宜野湾村で召集されて歩兵第63旅団に配属された270名は、4つの小隊に分けられたようである。ただしこの数字は実施計画であるので、実際に召集された人数は確認できない。防衛召集者についてこうした具体的な数字が出てくる資料はほとんどなく、貴重な資料である[15]  

3 今帰仁防衛義勇隊の動員数(資料3)

 防衛隊以外に義勇隊も各地で結成されて住民が動員された。その実態についてはわからないことが多いが、国頭で米第6海兵師団が押収した文書のなかに今帰仁村の帝国防衛義勇隊(Imperial Volunteer Defense Unitをこのように訳した)の1945321日現在の人員報告があった。正規兵や防衛隊員が召集された後の残された者のなかから、16歳から60歳までの男子が動員された。防衛隊が17歳から45歳までの男子であるので、16歳と46歳以上、あるいは17-45歳で防衛召集にも耐えられない男たちや残っていた役場吏員らが駆り集められたと思われる。今帰仁村は1935年時点で人口が1万2689人、2826世帯である。本土への疎開による減少と本島中南部からの避難による増加などを勘案するとこの時点での人口はよくわからないが、4916名という数字は、病気などによる不参加者が165名と明記されていることを考えると、村内にいる対象年齢男子のほぼ全員と見てもよいかもしれない。その動員された者のなかには、避難民も含まれていることがわかる。義勇隊といっても、米軍に保護された者を尋問して得られた証言によると、竹槍かナイフしか持っていないとのことであった。ともかく男の場合、動員されないものはいないと言ってよい状況であったことがわかる。  

4 作戦命令「民間人の振りをして夜襲をかけよ」(資料4)

 これは1945417日、激戦の続く西原で米軍が押収した文書である。「西原地区における戦闘実施要領」(日付なし)と題された文書には奇襲攻撃の際の注意として次のようなことが書かれていた。

「常に2−5名で戦闘隊を組織せよ。常に(陣地戦においても)組になって戦え」。「敵を欺け、しかし敵に欺かれるな」「服装においても話し方においても現地住民のように見せかけることが必要である。住民の服を借りてあらかじめ確保せよ(略)一案として方言を流暢に話す若い兵を各隊に一人を割当てよ」。「敵の装備、弾薬、食糧を奪い、それらを活用せよ。攻撃の案内として現地住民を連れて行け」

 つまり奇襲攻撃にあたっては民間人の服を着て言葉遣いも住民のように振舞えということである。この文書が押収された5日後には英訳されて米軍の各部隊に配布されていた。米軍は各部隊に注意するように指示しているのであり、その結果、一見、住民であったとしても偽装して夜襲をかけてくる日本兵ではないかと見なされて、米軍の攻撃の対象にされることは容易に推測できる。こうした日本軍の作戦を知った米軍は、近づいてくる者はたとえ民間人であっても日本軍の攻撃部隊だと判断するしかなかっただろう。昼間は砲爆撃のためにガマに潜んでいた住民が夜に食糧探しや移動のために外に出ていったが、そうした人々が米軍の一斉射撃をうけて犠牲になったことはよく知られている。そうした背景にはこのように住民を利用はしても、その保護をまったく考慮しなかった日本軍の作戦計画があったことがわかる。日本軍が住民を道案内に使いながら、民間の服装をして夜襲をかけたことは、住民の証言によっても裏付けられる[16]  

5 捕虜が出ることを認識していた日本軍(資料5・6)

日本軍は将兵が捕虜になることを一切許さなかったことはよく知られている。もはや逃げ場のなくなった日本軍将兵は、万歳攻撃をして敵に殺されるか、自決するしか許されなかった。しかしながら、実際の戦場ではやむなく捕虜になるケースもあったし、戦争が進むに連れ、自発的に捕虜になるケースも増えていった。捕虜になる経緯はどうであれ、捕虜になった際の心得をまったく教育されておらず、また捕虜になり名誉を汚したからには生きて日本には帰ることはできないと信じ込んだ日本兵捕虜は、自分の知っている軍事情報をどんどん米軍の尋問者にしゃべった。それは米軍の担当者が驚くほどであった。日本兵捕虜が情報をどんどん提供していることは日本軍にもわかってきた。そのためなんらかの対策が必要となってきた。だが捕虜になった際の心得を教えることは、捕虜には絶対になるなという教えとは矛盾してしまう。そのためそれはなかなか難しい問題だった。

そうした状況のなかで、日本軍は躊躇しながらも、ある場合は婉曲的な言い方で、捕虜になった際の心得を教えようとする指示を出すようになったのである。このことは、そうした指示文書を押収した米軍も注目していた。つまり日本軍の士気が低下し投降者が出ていることを日本軍自らが認めざるを得ない状況に追い込まれつつあったからである。それは心理戦が有効に働きうる条件が広がっていることを意味した[17]

19441230日の第62師団の文書のなかで、防諜の強化とともに「捕虜になった際における精神教化」の指示が示されている。具体的な教化方法・内容は示されていないが、捕虜になった際の心得についての精神教化を考慮しなければならないことが提起されており、また日記などが米軍の重要な情報源になっていることを認識して、そうした物を携行しないように指示している。捕虜になることを公式に認めている米軍とは違って、対策に苦慮している様子がうかがわれる内容である。

なお資料4にも「絶対捕虜になるな」と言いつつも、「捕虜になったとしても……」と、捕虜になった場合を想定した指示が含まれている。

資料6は、194555日に米軍が押収した文書と見られる。「極秘」「攻撃に際して遵守すべき注意事項」と題されたものの抜粋で、「敵は卑怯にも、この県の人々に日本軍の軍服を着させるなど前線で利用している。そういう時には必ず、敵と交戦している者は躊躇なくそうした者を射殺せよ」「降伏する振りをして白旗をふる者がいるかもしれないので、前線の部隊はそうした者はすべて殺せ」という二項目が英訳されている。やや意味がわかりにくいのだが、投降する者は殺せという趣旨の命令であると理解できる。米軍の心理戦担当者の解釈では、日本軍将兵が投降しているとは認められないので、こういう言い方をしているのではないかと推測している。この文書は作成時期がわからないのだが、内容から見て沖縄戦が始まって米軍との戦闘がおこなわれているときに出されたものではないかと思われる。沖縄戦のなかで投降する者たちが出ているということを認識し、そういう者がいれば殺せとより一層ヒステリックになっていったのではないかと思われる。  

6 沖縄警察文書「米軍に協力する者は殺せ」(資料7)

資料7には、二点の文書が含まれているが、ともに沖縄県警察の文書と見られる。後者の「戦闘活動要綱」と題された文書は、19452月下旬に編成された沖縄県警察警備隊のものと見てよいだろう。警察が平時業務を停止し、戦時態勢に編成替えされて生まれたのが、警察警備隊(隊長は県警察部長)である。これまでは、生存者の証言などで組織編成の概略と、おおまかな目的がわかっているだけであり、警備隊の任務は「住民の保護、避難誘導、治安維持、軍作戦への協力」とされている[18]

組織は、警察部長(荒井退造)を隊長とする警察警備隊本部、刑事課長を隊長とする警察警備中隊、警察署ごとに警察署警備中隊(その下に警察署管内を分割し警備小隊を編成)、さらに特高課長を隊長とする警察特別行動隊が設けられた。最後の特別行動隊は、「軍と協力して主として防諜取締り」を任務としており、ほかに県民の戦争協力状況を内務省に報告することも任務とされている。言い換えると軍と協力して住民を監視しスパイを摘発することを任務としていた。だがこの警察警備隊が沖縄戦の中で実際にどのような活動をしていたのかはよくわかっていない。

 英訳された資料7の文書を日本語に反訳した表記の仕方と上述の組織編制とはやや食い違うところがあるが、この警察警備隊の文書と判断して間違いないだろう。これを見ると、警察警備隊は、住民を組織し士気高揚をはかるだけでなく、警察官自らが軍事訓練をおこない、さらに住民に軍事訓練を施し、米兵との戦闘方法、夜襲の方法などの訓練を警察が指導するという任務が明記されている。また警察警備隊のなかに設置された特別行動隊は、内密に行動し、民間人の行動に警戒、情報収集をはかる任務が与えられている。つまり住民を秘密裏にスパイする役割である。

 この要綱の延長線上に、前者の警察への指示(題名不明)があると見られる。ここでは警察官あるいは住民から密偵を選抜して米軍の占領地に送り込んで情報収集に努めるだけでなく、米軍に保護された住民と接触して、住民の動向を監視し、米軍に協力する者を殺すように指示されている。警察官も一般住民も軍人と同じように皇土防衛のために命を捧げるように求める指示であり、警察がけっして住民の保護の任務を持っていたのではなく、軍とともに住民を戦争に動員し、敵に協力する者は処刑しようという任務を持っていたことを示す文書である。

前者の文書はその内容から米軍上陸後の19454月ないし5月ごろ、県警察部長あるいは県警察部の幹部から国頭地区の警察に指示されたものと推測される。この二つの文書は、国頭地区において一緒に押収されたもののようである。いずれにせよ沖縄戦の直前ならびに沖縄戦の最中における警察の役割を明らかにする貴重な資料である。

 なお沖縄県内では、警察署は9か所(宮古八重山各1を含む)にあり、さらに19453月に塩屋署が設置されたので計10か所あった。その下に派出所(首里と那覇のみ)または駐在所が置かれていた。19437月現在、警部補以下、計397人、警部・警視を含めると400人余がいた。警察警備隊は6月9日に警察部長より解散命令が出されたとされている。

 改めて確認しておかなければならないことは、軍隊だけでは戦争を遂行することはできないということである。行政組織や警察、官製・民間の諸団体なども総動員して住民を戦争協力に駆り立てていく。沖縄戦において、その動員は徹底していた。そうしたなかで警察が果たした役割は大きかったが、その役割の解明は遅れている。沖縄県警が所蔵している資料を公開し、警察の役割を検証する必要がある。資料が公開されていないなかで、この資料はきわめて重要なものと言えるだろう。  

 以上、7点の押収文書を紹介した。いずれも沖縄戦の実態を解明するうえで重要な資料である。こうした資料が米軍の心理戦・情報戦の資料群のなかにたくさん含まれている。もちろん狭い意味での軍事作戦上の重要な文書も多数含まれている。ここでは紹介しなかったが、沖縄に派遣されていた日本軍将兵の個人の日記の英訳も多数ある。また捕虜になった日本軍将兵や朝鮮人軍夫、沖縄住民からの尋問調書はきわめて膨大にある。残念ながら、日本語の現物がもはや見つからないものがほとんどである。しかしこうした資料から新たに浮かび上がってくるもの、明らかになってくるものは少なくない。これらの押収文書を調査して系統的に収集し、それらを分析することはきわめて重要な課題である。

   

まとめにかえて

  沖縄戦における米軍の心理戦を研究するためには、沖縄戦に至るまでの太平洋の島々での戦闘における心理戦の実態と経緯、そこで米軍が学んだことを明らかにする作業が不可欠である。沖縄戦はアジア太平洋戦争の最後の大きな戦闘であり、それに至るまでの展開を明らかにすることなしには沖縄戦を論じることはできないだろう。

また沖縄戦での経験が、その後の本土進攻作戦準備や終戦をめぐる動き、さらには日本本土の占領統治(天皇制の扱いも含めて)、沖縄の分離統治に与えた影響はどうだったのか、という点も重要な問題である。沖縄戦における心理戦の経験と、その後の対日政策・対沖縄政策との関連も分析されなければならない。

またアメリカによる心理戦は、南西太平洋方面司令部SWPAと太平洋艦隊兼太平洋地区司令部CINCPAC-CINCPOAの二つの米軍、ATISSEATICのような連合軍組織の心理戦機関、さらにはOWIOSSなどの軍以外の機関などが関わっており、単純ではない。沖縄戦はCINCPAC-CINCPOAが担当したが、そこだけを見ていても沖縄戦における心理戦を十分に解明したとは言えないだろう。いずれにせよ沖縄戦研究は、時間的にも空間的にも広い視野が必要であり、そうした研究によってこそ、沖縄戦研究の意義が明確になるだろう。

心理戦そのものではないが、心理戦・情報戦に関わる資料には沖縄戦など戦争の実態を明らかにするうえで貴重な資料が少なくない。また当時の日本軍将兵や民間人、朝鮮人などの意識やかれらの相互関係を理解するうえで重要な材料がたくさん含まれている。そういう意味でも資料の宝庫である。

ここではいくつかの資料を紹介したにすぎない。すべては私たちに課せられた今後の課題である。この報告は研究の出発点にすぎないと言える。  

 

(注)

[1]  連合国の植民地民衆に対して、「アジア人のためのアジア」など欧米諸国から離反させるようなプロパンガンダがおこなわれ、それが一定の効果をもったことはよく指摘されている。もちろん石油などの重要国防資源獲得がアジア太平洋戦争の主要な目的であり、東南アジアの主要地域は日本の領土にすることを決定していたことなどは巧妙に秘匿されていた。日本側の心理戦についての担当者の記録として、恒石重嗣『大東亜戦争秘録 心理作戦の回想』が参考になる。また平和博物館を創る会編『謀略宣伝ビラは語る―紙の戦争 伝単』と鈴木明・山本明編著『秘録 謀略宣伝ビラ―太平洋戦争の“紙の爆弾”』には、日本側が作成したリーフレットなどが収録されている。山本武利編『第2次世界大戦期 日本の諜報機関分析』全8巻には、心理戦に関わる資料も収録されている。

[2]  諜報活動と心理戦とは密接に関連しているので、ここでは諜報機関であっても心理戦に関わっていると考えられるものを挙げた。

[3]  こうした資料状況については、拙稿「次々と公開される戦争関係資料―米国立公文書館資料調査中間報告」(『季刊戦争責任研究』第35号、20023月)、拙稿「進展するアメリカの戦争関係資料の公開―米国立公文書館資料調査報告(その2)」(『季刊戦争責任研究』第37号、20029月)、「特集 現代史・戦争責任研究と情報公開法」所収の諸論文(『季刊戦争責任研究』第40号、20036月)、参照。

[4]  筆者も資料紹介などをいくつか書いている。たとえば、日本の戦争責任資料センター研究事務局(文責 林博史)「資料紹介 アメリカが分析した日本人の天皇観」(『季刊戦争責任研究』第41号、20039月)、拙稿「日本人のアイデンティティと天皇―捕虜になった日本兵の天皇観」(関東学院大学経済学部総合学術論叢『自然・人間・社会』第38号、20051月)、「暗号史料にみる沖縄戦の諸相」(『(沖縄)史料編集室紀要』第28号、20033月)など。

[5]  中国戦線において、野坂参三や鹿地亘らが関わった、日本人捕虜を組織した活動についてはこれまでにさまざまな文献が出されている。それらの文献については山際氏の同書の引用文献表を参照していただきたい。

[6]  OSSについては、George C. Chalou, The Secrets War: The Office of Starategic Services in World War U、参照。

[7]  対日戦におけるOWI の組織や活動については、“OWI in the Far East”と題されたレポートによる(作成日不明、米国立公文書館所蔵RG208/Entry6H/Box5)。

[8]   Clayton D. Laurie, “The Ultimate Dilemma of Psychological Warfare in the Pacific: Enemies Who don’t Surrender and GIs Who don’t Take Prisoners,” p.395.

[9]  陸軍諜報部Military Intelligence ServiceMIS)の退役軍人たち、特に日系人の退役軍人たちの証言を集め、そうした証言を紹介し、あるいはMISの戦史をまとめる仕事、あるいはそうした経験を教育のなかに生かそうとする努力がなされている。そうした仕事についてはここでは触れることはできなかった。今後の課題としたい。

[10]  RG165/Entry79/Box520(米国立公文書館所蔵)

[11]  米軍による押収文書が日本に返還されるまでのその後の経緯については、グレッグ・ブラッドシャー(荒井信一訳)「日本の押収文書の行方 1945-1962」(『季刊戦争責任研究』第38号、200212月)、参照。

[12]  計43箱の押収文書が出てきたが、残念ながら沖縄戦関係は含まれていない。ガダルカナルなど南太平洋方面の文書が中心だった。

[13]  拙著『沖縄戦と民衆』2934頁、参照。

[14]  「第32軍史実資料」の「航空作戦準備」の項(沖台/沖縄37、防衛研究所図書館所蔵)。ここには「一日平均約五万人の島民を使役せり」という記述がある。

[15]  防衛召集の具体的な人数について、最もくわしく全体を把握できるのは、戦後に琉球政府社会局援護課調査係がまとめた「防衛召集概況一覧」(沖台/沖縄28、防衛研究所図書館所蔵)であるが、多くは概数にすぎない。なおこの資料から推定すると、3月6日の防衛召集だけで、おおよそ1万4000人前後ではないかと思われる(『沖縄戦と民衆』235頁、参照)。

[16]  TBSテレビの「ニュース23」の沖縄戦特集で、こうした証言が紹介されている(2005623日放送)。

[17]  沖縄戦における日本軍将兵の捕虜については、『沖縄戦と民衆』第7章および第10章、ならびにHayashi, Hirofumi, “Japanese Deserters and Prisoners of War in the Battle of Okinawa”、参照。

[18]  荒井紀雄『戦さ世の県庁』(私家版、1992年)111-113頁。それを基にした記述が『沖縄県警察史』第2巻(1993年)633-635頁にある。両者では組織編成について少し食い違っている。なお後者では出典として前者を挙げているが、後者には前者にはない記述があり、沖縄県警が何か資料を持っている可能性が高い。以下、両者を参考に記述する。

   

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