『歴史地理教育』2006年10月号

なぜ東京裁判がおこなわれたのか 

   林 博史


 歴史教育者協議会の機関誌に書いた小論です。

[訂正のお知らせ] 
 掲載されたものでは、「東京裁判は、日本軍慰安所制度=性奴隷制は戦争犯罪であると判決で認定した最初の戦犯裁判となった」とありますが、東京裁判は、日本軍慰安所制度=性奴隷制は戦争犯罪であると判決で
認識を示した最初の戦犯裁判となった」と訂正してください(本文では青字で示しています)。同誌の12月号で正誤訂正を出してもらいます。
 編集部に出した原稿では前者のようになっていたのですが、アメリカに行っていたために校正をすることができませんでした。この表現は気になっており、ここまで言うのは言いすぎだと感じていたのですが、もとのままで出てしまいました。これは私のミスであって、読者のみなさんにはお詫びします。
 個々の慰安婦強制事件を裁いたBC級戦犯裁判はあるのですが、東京裁判では、ヨーロッパ人女性だけでなくアジア女性への慰安婦強制も含めて多くの証拠書類が提出され、判決においても中国人女性の慰安婦強制のケースが言及されており、慰安所制度についての認識を示した戦犯裁判としては最初のケースと判断した次第です。「認定した」と言うには、不十分だと思いますので、このように訂正させていただきます。2006.11.14


 東京裁判は、政治的立場や歴史観の違いを超えて評判が悪い。一方からは「勝者による裁き」「 復讐 ( ふくしゅう ) 」だと非難され、他方からは天皇や七三一部隊を免罪するなどアメリカの政治的思惑に左右された、 ( せい ) 奴隷制 ( どれいせい ) を裁かなかったと批判される。そうした批判を否定するつもりはないが、こうした議論ばかりでいいのだろうか。

戦犯処罰を求めたのは

第二次大戦中の戦争犯罪への取り組みは、米英など大国の主導ではなく、ドイツなどの残虐行為の被害を受けたヨーロッパの中小国やユダヤ人など被害者たちの声から始まった。一九四二年一月にロンドンでヨーロッパの中小国九か国が集まり戦犯処罰を「主要な戦争目的」の中に入れることを決議したことはその代表的な動きである。中国もただちにこれに賛同した。

この前提として、第一次大戦後、戦争違法化にむけた法律家たちによる国際的な努力があった。戦争犯罪を法に基づいて国際法廷で裁こうという構想はそのなかですでに出されていた。こうした動きをうけて四三年一〇月に連合国戦争犯罪委員会が発足した。

国際法廷で裁く構想

そもそも戦争犯罪とは、戦場において個々将兵が犯すものと認識されていたが、第二次大戦では、たとえばホロコーストはナチス・ドイツによる国家的組織的犯罪であったし、日本軍による 捕虜 ( ほりょ ) 虐待 ( ぎゃくたい ) 住民 ( じゅうみん ) 虐殺 ( ぎゃくさつ ) もあちこちで同様の残虐行為がくりかえされ、個々の将兵による犯罪では理解できないものだった。連合国戦争犯罪委員会ではそうした点がくりかえし議論され、そのなかから、組織的大規模な残虐行為をおこなった国家や軍、ナチスの指導者たち、さらにはそうした残虐行為をおこなうような戦争を計画準備実行した指導者たちを裁くべきだという考えが出てくる。これらが後に「人道に対する罪」「平和に対する罪」として定式化される。そしてこうした新しい概念の戦争犯罪を裁くためには、従来のような個別国による裁判(BC級裁判のような)ではなく、国際社会の総意を示すものとして、国際条約に基づく国際法廷によって裁くべきであるという提案がなされるのである。

この提案は英政府の反対によって一度は潰された。当時、英米の国内では指導者を逮捕すれば即決処刑すべきだという意見が強かったが、その後、国際法廷の提案を受け継いだ米陸軍がリードして意見をまとめていった。最終的に大国主導で、条約ではなく四大国の政府間協定に基づく国際法廷としてニュルンベルク裁判が行われた。即決処刑論は退けられたのである。

米以外の役割

日本に対しては、他国との交渉を嫌ったアメリカは、単独で極東国際軍事裁判所(東京裁判)を設置したが、裁判長を米国人以外から選ぶなど国際法廷の形式をとった。裁判長ウェッブはアメリカへの不信感を持っていた人物で、訴訟指揮はアメリカの思惑通りにはいかなかった。また首席検察官キーナンは「通例の戦争犯罪」には無関心だったが、他の検察官らの主張によって、中国東南アジアにおける日本軍の残虐行為について多くの証人や証拠が提出された。死刑の七人はいずれもB級「通例の戦争犯罪」で有罪になった者だけであり、「平和に対する罪」だけでは死刑になっていない。もし米の思惑通りに進んでいたならば死刑になった者はいなかったかもしれない。また検察の努力の結果、東京裁判は、日本軍慰安所制度=性奴隷制は戦争犯罪であると判決で認識を示した最初の戦犯裁判となった。東京裁判は米主導だと言える面はあるが、米以外の諸国、中国やフィリピン、オランダ、英連邦などの検察官・裁判官が果たした役割も大きかった。

今日につながる東京裁判

評判のよくないことの一つが 広田 ( ひろた ) ( こう ) ( ) の死刑判決である。ただルワンダの国際刑事裁判所においてジェノサイドに対する文官の責任を問う裁判で広田のケースが判例として援用され、市長が有罪になっている。死刑が妥当かどうかは議論があるが、文官の責任を問ううえでこの判決は重要な意義がある。

二〇〇三年に国際刑事裁判所が発足した。この裁判所の土台となっているのは言うまでもなくニュルンベルク裁判と東京裁判である。その二つの国際裁判を生み出した力は、被害者たちと国際法学者たちの、二度と同じ 惨禍 ( さんか ) を繰り返してはならない、「法の裁き」によって報復の連鎖を断ち切ろうとする意志だった。それは米英など大国の思惑によって歪められたが、だからといって全部否定してしまっていいのだろうか。

[参考文献]林博史『BC級戦犯裁判』(岩波新書、二〇〇五年)、林博史「連合国戦争犯罪政策の形成―連合国戦争犯罪委員会と英米」『自然・人間・社会』(関東学院大学)第三六・三七号、二〇〇四年(筆者のウェブサイトに全文掲載)、戸谷由麻「東京裁判における戦争犯罪訴追と判決」(笠原十九司・吉田裕編『現代歴史学と南京事件』柏書房、二〇〇六年)