『沖縄タイムス』2006.10.11

慶良間・集団自決 米公文書に見る「軍命」   

                                林博史


 ここで紹介する米軍資料については、『沖縄タイムス』2006年10月3日付で報道されました。その解説として文化欄に書いたものです。タイトルは編集部がつけたものです。  2006.10.19記


「集団自決」とは、日本軍や行政、地域、教育、マスコミなど含めた戦時体制によって、死以外の選択を閉ざされ、あるいは死以外には選択肢はないと思い込まされ、その結果、「自決」あるいは家族・地域住民が相互に殺しあった出来事を指している。そうした状況に強制や誘導などによって人々を追い詰めていった。その中で日本軍が果たした役割が決定的に大きいことはこれまでも明らかにされてきた。

 これまで「集団自決」については、戦後の生き残った人々の証言によって明らかにされてきたが、私が一つ関心を持ったのは、その当時、言い換えれば「集団自決」がおきた直後の時点で人々はそのことをどう認識していたのだろうかということである。米軍の資料の中にはそうした住民の証言などがないのだろうかと探していたところ、いくつかの資料と出会った。

 慶良間列島の占領作戦は歩兵第77師団が担当しており、さまざまな作戦報告書が作成されている。そのなかからいくつかの記述を紹介したい。まず194543日付、同師団砲兵隊の報告の中に、「約100名の民間人をとらえている。二つの収容施設を設置し、一つは男性用、もう一つは女性と子ども用である。尋問された民間人たちは、321日に、日本兵が、慶留間の島民に対して、山中に隠れ、米軍が上陸してきたときには自決せよと命じたとくりかえし語っている」と書かれている。この日本兵は複数形である。その以前の大詔奉戴日(毎月八日)に阿嘉島にいた海上挺進第二戦隊長野田義彦少佐が来島し島民の前で演説をしている。この演説はいざというときには「玉砕」しろということだと島民は受け止めていた。321日のことはこれまで何も語られていないようだが、同戦隊の第1中隊が慶留間に駐屯していたので、その兵士たちが上記のようなことを島民に言ったということだろう。

 歩兵第77師団の別の作戦報告では「軍政府」の項の中に座間味島での状況が記されている。そこでは「治療が必要な民間人には第1医療部隊によって応急手当がなされ、さらに第68移動外科病院によってきちんとした治療が施された。一部の民間人は艦砲射撃や空襲によって傷ついたものだが、治療した負傷者の多くは自ら傷つけたものである。明らかに、民間人たちは捕らわれないために自決するように指導されていた」と記述されている。軍政府は327日に座間味島に上陸するが、「集団自決」を生き延びた住民の治療が大きな仕事となっていた。ガマの中から傷ついた島民を救出し治療している様子がさまざまな報告書に記されている。

また軍政府分遣隊の41日付「作戦報告」にも、そうした島民の治療についての記述がある。少し引用すると、「一人の女性は砲弾(訳者注−手りゅう弾か?)の破片によって首に深い傷が口をあいていた。ジョン・マッカートニー軍医大尉が最初に治療したのは、父親の手によって殺されようとして、あるいは自殺しようとして首を切られた母親と赤ん坊であった。殺人あるいは自殺を試みた―そして実際に死んでしまった―ケースはたくさんあり、そうした行為は、日本の宣伝、つまりアメリカ軍は殺人者であり、男たちは殺し女は強かんすると教え込んでいた宣伝に従ったものであることが、すぐにわかった」。

これらの米軍の報告書の記述は、何人かの島民の証言に基づく記述であると見られる。報告書の日付から見てそれらの証言は3月末か4月初めにはなされている。それらの証言を記録した尋問調書があるはずだが、残念ながらまだ見つかっていない。それらが出てくるともっと詳細にその証言内容がわかると思われる。ただこれらの断片的な内容からも、「集団自決」がおきた直後の時点において、慶留間島では複数の日本兵から米軍上陸時には自決せよと命じられていること、座間味でも島民たちが自決するように指導されていたことが、保護された島民たちの証言で示されている(ただ座間味以外の慶良間の島民による証言が含まれている可能性はある)。日本兵という主語が明記されているのは慶留間のケースだけだが、日本兵からの自決命令があったことは、戦後創作されたものではなく、すでに3月下旬時点において島民たちによって語られていたことがわかる。慶良間の島民たちは、いざというときには自決するように命令あるいは指導・誘導されていたことは、多くの島民の証言によってすでに明らかにされているが、あらためて当時作成された報告書によっても裏づけられた。米軍の状況認識は正確であったといえるだろう。

米軍に保護された島民たちからは、家族を殺したことを悔い、山に隠れている人たちに本当のことを話して死なずに家に戻るように話したいとはっきりと言う人たちが何人も出てきたことも書かれている。日本兵による虐待に反発し投降してきた朝鮮人軍夫の記述がいくつもある。3月下旬の段階での慶良間列島の状況がわかる資料であり、日本軍を中心とする戦時体制が島民の生命を犠牲にしたことがよくわかる。部隊長の特定の命令があったかなかったという問題だけに「集団自決」の議論を限定し、日本軍の名誉回復をはかろうとする企てが、いかに視野の狭い、木を見て森を見ない愚論であるか、米軍資料を読みながら改めて感じた。