「女性・戦争・人権」学会 学会誌  『女性・戦争・人権』   第7号、2005年3月

 アメリカ軍の性対策の歴史―1950年代まで  

                林 博史


 アメリカ軍の性対策について調べ始めたのが2002年からですが、これは私が最初に書いた論文です。ずいぶん労力と時間を費やした仕事で、アメリカ史を一から勉強しなおしましたが、まだまだ理解が浅いことを痛感しています。その後、関連するものをいくつか書いていますが、これは私にとって重要なものであることは間違いないでしょう。  2006.7.28記


はじめに                    

一 米軍の海外駐留の開始と性病対策の確立

二 売春禁圧策の実施―第一次世界大戦

三 第二次世界大戦前の政策の修正

四 第二次世界大戦下の米軍

五 占領下日本での米兵向け売春宿

六 兵士処罰の廃止と人格指導計画の導入

七 朝鮮戦争の勃発と基地売買春の拡大

おわりに 

はじめに

  二〇〇二年三月アメリカのフォックステレビが、米陸軍第二師団が駐屯する韓国東豆川のキャンプ・キャスィー郊外で憲兵が人身売買の実態を知りながら米兵の買春を容認している様子を報道した。この東豆川で一九九二年に米軍専用クラブで働いていたユン・クミさんが同師団の兵士によって残虐な殺され方をして人々の怒りをかったことはよく知られている。この報道に対し五月三一日一三人の上下院議員がラムズフェルド国防長官に対して徹底的に調査するように要望した。これを受けた陸軍は調査をおこなったが、陸軍長官は売春、とりわけ人身売買に関連するような売春を奨励、支持、容認するようなことは一切していないと回答した[1]

 東アジアの米軍をよく知る者にとってはこの回答がうわべを取り繕ったものに過ぎないと思うだろう。朝鮮戦争やベトナム戦争時の米兵の振る舞いは買春と性暴力にあふれていたし、韓国ではその問題は依然として深刻である。湾岸戦争の際には米軍はサウジアラビアでは将兵に厳しく買春を戒めたが、空母ミッドウェイらは帰還途中にタイのパタヤビーチに立ち寄り米兵を遊ばせたことに見られるように買春は司令官たちによって大っぴらに容認され、その機会が兵士たちに積極的に提供されていた[2]

 米軍内部での性犯罪も深刻である。二〇〇四年三月に報道されたところでは中東に駐留する米軍内で女性兵士が同僚から性的暴行を受けた被害が一四か月間で一〇六件にのぼり、うち陸軍内の犯罪八六件中軍法会議が開かれたのは一四件だけと報告されている[3]。さらに四月になって明るみに出たように、イラクの刑務所内において広範に性的虐待がおこなわれていた。

 ここで取り上げるのは、その中でも米兵による買春についてである。現在の世界の戦争と平和を考える上で、米軍を内在的に分析しそれを批判する作業が求められている。ここでは米軍の内部資料を使って、米軍が将兵の売買春問題をどのように考え、どのような対策をとってきたのか、一九五〇年代(朝鮮戦争期)までの歴史的変化を跡付け、現在の問題を考えるうえでの歴史的背景を明らかにしたい。これまでの日本での議論は、将兵の性病予防のために娼婦を隔離、登録、性病検査をおこなうヨーロッパの公娼制、ならびにその極端な暴力的なケースである日本軍慰安婦制度から類推して米軍の対応を判断してきたが、はたしてそれでよいのかどうかも検証したい。

利用した資料は米国立公文書館や米議会図書館に所蔵されているもので、陸軍省や各地の派遣軍の高級副官部、憲兵隊、法務総監部、監察官部、軍医総監部、チャプレン部などの文書・年次報告、軍医関係の雑誌、公衆衛生関連機関の報告書や雑誌などである[4]

 

一 米軍の海外駐留の開始と性病対策の確立

  近代国家の軍にとって性問題とはなによりも将兵の性病問題であった。その性病との関係で売春が問題とされた。米軍に関しては一九世紀においては、南北戦争の際に北軍が南部のいくつかの都市において娼婦を登録し性病検査を実施したという経験があるが、全体としては陸軍として性病問題にはきちんと取り組まなかった。治療法がなかったことに加え、陸軍は二万数千人の小規模の軍隊にすぎなかったことが背景にはあるだろう。淋病や梅毒などの主な性病の病原体が発見されたのは一九世紀末から二〇世紀にかけてであり、梅毒の最初の治療薬であるサルバルサンが開発されたのは一九一〇年だった。それも副作用がきつく、治療に数か月から時には一年以上かかり、かつ効果も限定されていた。淋病にはようやく一九三七年ごろからサルファ剤が開発されて治療ができるようになった。

 さて二〇世紀に入ると医学の発達とともに米軍をめぐる状況が大きく変わりはじめた。つまりハワイ併合や米西戦争、義和団事件などの結果、ハワイ、フィリピン、キューバ、パナマ、プエルトリコ、中国など海外各地に米軍が駐留を始めたのである。米陸軍の将兵の性病罹患率のデータは一八一九年から残っているが、年間千人あたりの罹患率が一九世紀末は七〇台で推移していたのが一八九九年以降二倍に急増した[5]。特に海外駐留部隊の罹患率は二〇〇から四〇〇台ときわめて深刻な状態になった。性病にかかると将兵は治療のため勤務から外される。つまり兵力の損失になるわけで軍にとっては大問題であった。ようやく軍中央でも性病問題の重要性が認識されるようになり、各駐留軍の経験を集約したうえで陸軍省の軍医総監部では一九一〇年末までに結論がまとまった。娼婦をいわゆる赤線地区に隔離し、登録、性病検査、治療させる方式(いわゆる公娼制ないし集娼制)は「将兵の性病管理において効果的ではない」という結論だった[6]。この結果は一二年五月に陸軍省一般命令第一七号として全軍に通達された。そこで示された対策は、第一に買春は不道徳な行為であり、しかもその結果ほぼ確実に性病に感染してしまうこと、性病は恐ろしい病気であることなど、兵士への教育である。第二に性病感染の危険に身をさらした兵士が部隊にもどってきた場合(つまり買春からもどってきた場合)、ただちに消毒予防策をとらせることである。もし兵士がこの消毒予防策をとらずに性病に罹った場合は任務を怠ったという理由で軍法会議にかけることも定めた。第三に抜き打ちで月二回の徹底した身体検査(性病検査を含む)をおこなうことも規定された[7]

 その三か月後の八月には議会で、麻薬や酒、その他の自らの不品行により勤務を外れた者はその間の給与を差し止めることが承認された。これは二年後には恒久法となった。性病という言葉を法律に入れることに抵抗があったので「その他の不品行」という言葉が使われているが、そこに性病が含まれると解釈された[8]

 このように米軍の対策は、性病罹患者を軍法会議にかけ、あるいは給与をカットするなど処罰という厳しい態度でのぞみ、買春自体をさせないようにすると同時に、それでもあえて買春する者には予防策を講じて兵力の損失を抑えようとするものであった。

 女性を管理するのが公娼制の発想であるが、米軍は逆に兵士を管理するのが効果的であると考えたのである。そのためには何よりも買春自体を不道徳な行為としてさせないことが強調された。ただ消毒予防策を提供することは買春を公認あるいは奨励することになってしまうのではないかということを軍は自覚しており、「不道徳な性交を避けるのが性病から逃れる唯一の確実な方法である」としながら、「予防策は兵士自らのおろかさの結果から保護するためだけに提供されるのであって、不道徳な性交を陸軍省が認めていることを意味するものではけっしてない」と弁解している(陸軍規則四〇―二三五、一九二四年)。

 この段階での対策は軍内部でできるものに限定されている。軍駐屯地周辺での売春については軍の権限外であるのでアウトオブバウンド(後にはオフリミッツという言い方が一般的になる)に指定して将兵の立入りを禁止するという以外には明確な対応はなされていなかった。しかしヨーロッパや日本の軍の認識とはまったく異なる、米陸軍の基本的な考え方が一九一〇年から一二年にかけて確立したことは確認しておかなければならない。

 

二 売春禁圧策の実施―第一次世界大戦

  一九一七年四月アメリカは第一次世界大戦に参戦し、五月に選抜徴兵法が制定され、米軍はフランスに派遣された。同月議会は陸軍長官に対して、軍施設から一定の範囲内において売春宿などの経営や設置を禁止するために必要なあらゆる手段をとる権限を与えた[9]

 一般命令第一七号の内容に加えて、基地周辺から売春宿を禁止し娼婦を排除するという方針が実施されることになった。同年八月に陸軍長官は軍施設のある市長や郡長に送った手紙のなかで「基地周辺での赤線地区の存在を陸軍省は容認することはできない。(中略)この問題について唯一の実際的な政策は断固とした禁圧策である」と軍の意思を表明している[10]。陸軍省が一九一七年に出したパンフレットSmash The Lineは、娼婦を隔離登録し性病検査をおこなう赤線地区方式はかえって売春を拡大すること、医学検査をおこなっているから性病にかかっていないという偽りの安心感をあたえて予防策をとらなくなりかえって性病が拡大すること、定期的な性病検査では性病を見つけることは不十分であり、かりにそこでチェックできてもその後すぐに感染すれば次回の検診まで感染させることを阻めないこと、見境のない性交渉を刺激することにより女性への犯罪を増加させること、地域社会のモラルを悪化させ青少年を誘惑すること、警察の収賄を増加させることなど、問題点を列挙している。

 米国内において陸軍省が設置した訓練キャンプ活動委員会は行政当局などの協力を得て基地周辺からの売春排除をすすめ、多くの赤線地区を廃止し、YMCAなどの団体と提携して将兵のための図書館、劇場、スポーツ、社交クラブ、その他のレクリエーションの機会の充実を図った。「兵士を不道徳な目的で誘惑する女は大体が病気持ちであり敵の味方だ」と娼婦を非難するとともに性病の恐ろしさをフィルムやパンフレットなどを通じて教え込んだ。「性病に罹った悪い女は、ロンドン上空にやってくるドイツ航空部隊よりも害を与えうる」「ドイツの銃と同じように、あるいはそれ以上にそうした女は兵士を効果的に破壊する」という言い方もされた[11]。娼婦は敵であると認識され、娼婦あるいは不道徳な女とみなされた女性は逮捕されて強制検診を受けさせられた。性病に罹っていると知りながら性交渉をした男は咎めを受けず、また売春宿の経営者や斡旋業者はほとんど処罰されない一方で、もっぱら娼婦だけが罰せられた。しかも上層階級の男を相手にする娼婦はあまり取締りの対象にならず、街娼など比較的下層の娼婦が厳しく処罰された。売春禁圧策にはこうした性的階級的差別が貫かれていた[12]

 米軍が駐留したフランスでは現地当局が公娼制を採用していた。米軍の上陸地となったセントナザレには娼婦が集まってきた。米派遣軍司令部(司令官パーシング)は性病に罹ったものは予防策をとったかどうかにかかわりなく国家への義務を怠ったとして厳重に処罰すること、部下に性病罹患者が多いことは指揮官としての能力の欠如の表れとして勤務評定の対象にすることなどの対策を打ち出した。フランス当局の検診により安全とされた娼婦から感染した兵士が多かったため当局にも対策をうながし、一八年八月にはフランス全土にわたって売春宿をオフリミッツに指定した[13]。その直前の七月にロンドンで英軍とこの問題について協議し、英軍も売春宿の禁圧措置に同調することが合意された[14]。この報告を受けたパーシング司令官はミルナー英陸軍大臣に手紙を書き、英軍の決定に満足の意を表するとともに「我々多くは公娼制あるいはそれに類する方法が肉体の悪魔(性病)を最小限にとどめることを期待していきましたが、そうした規則の廃止こそがこの古くからの悪魔と戦う唯一の効果的な方法であるという結論を認めざるを得ないでしょう」と述べている[15]

 米軍のなかには娼婦の登録、検診制度を認めるべきだという意見もあり、部隊長によっては売春宿をオフリミッツにしなかった例もあったが、軍全体としては売春禁圧策を維持した[16]。こうした対策によりフランスに派遣された米軍の性病罹患率は一九一八年後半(一一月の停戦まで)一六〜一九というきわめて低い水準に抑えられた。これは本国内よりも低い数字だった。しかし停戦になるととたんに軍紀が弛緩し、将兵たちも帰国前に休暇を取って遊びに行くようになると罹患率が急増した。軍は性病が治るまで帰国させないなどの対策をとったが効果なく、ピークには一〇四七(一九年九月)にまで達した[17]

 こうした米軍の売春禁圧策と予防策の二つを柱とする対策は、ピュアリタニズムと当時の革新主義を背景に成立したと言ってよいだろう[18]。革新主義とは、一九世紀末から第一次世界大戦期にかけてアメリカで高揚した思想・運動であるが、政治腐敗や児童・女性問題など社会問題に対して社会改革を求めた。一九一九年に成立した全国禁酒法もその表れの一つである。革新主義思想は、科学性と効率性を重視し、かつ人間の道徳性・自己規律を信頼した。そして理想的な社会が人間の理性によって実現可能であると考えた。性的禁欲も自己規律により可能であると考えた。と同時に兵士の性病予防にあたっては合理的に対策を考え、禁欲を説くと同時に自己管理できない兵士のための予防策(性交渉後の洗浄消毒など)を徹底することを提案した。一方、売春は道徳的に悪であると断定し厳しい措置によって撲滅できると考えた。道徳主義的な要素はピュアリタニズムとも重なるところがあった。買春後の洗浄消毒策は買春を奨励するものであると批判を受けたが、兵士の性病罹患を防ぐという合理的理由でそれらの批判を退けた。ただ兵士に禁欲を強いる方針は現場の将校たちからは必ずしも歓迎されず、その対立は以後くりかえされることになる。

 

三 第二次世界大戦前の政策の修正

  第一次大戦の経験はその後整理され一九二三年に新しい陸軍規則四〇―二三五が定められたが原則は継承された。ただヨーロッパで戦争が勃発した直後の三九年一〇月陸軍規則四〇-二三五の重要な改正がなされた[19]。性病に罹った者は直ちに司令官に報告することが求められ、それを怠った者のみが軍法会議にかけられることになった。しかも軍法会議にかけるかどうかは司令官の裁量に委ねられることになった。この改正点は翌年二月にくわしい説明が付けられ、淫らな性交渉の後に予防策をとらなかったという理由で、あるいは性病に罹ったという理由では軍法会議にかけられないし、規律処分も受けないことが明記された。

 この改正とは別だが、米国内では売春宿の禁止措置が徹底される一方で自動車を使った売春や酒場でのピックアップ、街娼など売春が一定地区でおこなわれず拡散している状況では予防所だけでは効果的でないと判断され、兵士個人が携帯できる予防具セット(コンドームを含む)をPX(軍販売部)において安価で販売する措置がとられるようになった[20]。道徳的観点よりは性病予防・治療の効率を重視し、コンドームの使用を奨励することと兵士の処罰を緩和するこうした措置はその後の米軍の方向を示す重要な変化であった。こうした対応は一九三六年に公衆衛生総監に就任し大戦終了後まで米国内における性病対策を主導したトーマス・パーランが道徳的な観点を排除し科学的な観点から性病対策をおこなったことと対応している[21]。この点は革新主義の影響が強かった第一次大戦期との大きな違いである。

 さてヨーロッパで戦争が始まり世界的に緊張が増す中で一九四〇年五月「八項目合意」が陸海軍、公衆衛生局など政府機関の間で取り決められた。ここで警察や関連諸機関の協力により売春を禁圧するなど性病を撲滅するための包括的な対策を採ることが合意された[22]。さらに四一年七月には、提出者である下院軍事委員会委員長アンドリュー・メイの名前を取って呼ばれる法律、メイ法が制定された。この法律は第一次大戦中の法にきわめて似たものであり、陸海軍基地などの軍施設周辺の一定範囲内において、売春に従事すること、売春宿の維持設置、売春の幇助、教唆など売春にかかわる行為を禁止する権限を、必要な場合には陸軍長官あるいは海軍長官に付与するというものである。この法律は四五年五月までの時限立法であったが一年延長され、その後恒久法となった。メイ法は四二年にテネシーとノースカロライナで二回発動されただけにとどまったが、それは軍が前面に出ても地元行政や住民の協力がなければ効果的でないという反省からであって、実際には軍は地元に協力を要請し、軍官民が協力して売春禁圧策が実施されることになった[23]。行政当局は基地周辺の売春宿を閉鎖し、街娼、ピックアップなどの如何を問わず娼婦を逮捕し性病検査をおこなったうえで追放する措置をとった。将兵や住民に対して性病の恐ろしさを宣伝し、将兵にリクレーションを提供するなどの施策もとられた。その手法は第一次大戦時にすでに実施されていたものである。

 四〇年八月に陸軍省が製作した入隊者向けパンフレットでは、男は健康でいるためにはセックスをする必要があるなどという愚かな考えがあるが、すぐれたレスラーやボクサー、スポーツ選手はセックスを控える。男はセックスをしなくても健康で強くいられる、と説明して、性的禁欲と男らしさは両立すると説いている。同時に娼婦はみんな性病にかかっている、ふしだらな女とセックスするな、と将兵を説得しようとしていた。その一方で「よき兵士は性病に罹らない。おまえがおろかにも淫らな女と接触するようならば予防手段をとれ」と表紙に書いた、予防所についてのパンフレットを作製配布していた[24]

 

四 第二次世界大戦下の米軍

  こうした中で日本軍が真珠湾を攻撃しアメリカも参戦した。第一次大戦とは違って米軍はヨーロッパだけでなく、中東、アフリカ、太平洋諸島、オセアニア、インド、中国など世界各地に派遣された。第一次大戦のフランスでは戦線は固定し兵士の管理もまだ比較的容易であったが、今回は状況が異なり、戦線の移動も激しく兵士の管理体制を整備することは容易ではなかった。参戦前後から売春禁圧策に従わない将校がいるとの警告が何度も発せられているが(たとえば四一年一一月陸軍省高級副官通達、一二月陸軍省回報など)、戦線の拡大はそうした事態を一層広範に引き起こしていった[25]

 米国内においては陸海軍と行政当局、社会衛生協会など諸団体との協力において売春禁圧と性病撲滅策が実施された。一部の地域あるいは基地司令官は売春を公認するなどの例外はあったが全体としてはその方針が実行され、国内で六〇〇以上の売春地区を消滅させたと報告されている[26]。こうした対策の結果、米国内にいた陸軍の性病罹患率は二〇台から四〇台という低い水準で維持された[27]。もちろん第一次大戦時と同様に娼婦あるいはその疑いをかけられた女性のみが犯罪人視され処罰されたことは同じだった。

 しかし海外では事情が違った。海外に派遣された米軍のなかに売春禁圧策に従わずに売春を容認あるいは公認し、米兵向けの娼婦の登録、性病検査をおこなった例が多かった。そうした事例については田中利幸氏がいくつか紹介している[28]。ほかにも各地でそうした事例が確認できるがここでは省略する。問題はそうした事例がどのように位置づけられるのかということである。

 参戦してから陸軍省は第一次大戦の経験を再現しようと考え、売春禁圧と性病予防の方針を徹底するようにくりかえし注意を促した。しかし売春が公認ないし容認されている地域に進出した米軍には駐屯地の周囲にいる娼婦を取り締まる権限はなく、米兵を取り囲む娼婦を排除できないので、一定の売春管理をおこなおうとする部隊が少なくなかった。このことは軍中央や派遣軍司令部にも知られ、陸軍省内でもそうした方法を認めてはどうかという議論が出されたが、陸軍省やヨーロッパ方面軍などは、売春に対して直接間接を問わず容認、公認、援助をしてはならない、売春禁圧という軍の方針に従うように何度も通達を出している(四三年七月高級副官通達、四四年三月ヨーロッパ方面軍司令官通達など)[29]

 第一次大戦時との一つの決定的な変化は治療法の発達である。一九四三年からペニシリンによる治療が試行錯誤を経ながら実用化されていった。当初は梅毒に、さらに淋病にも適用され、四四年九月には陸軍省は例外を除きサルファ剤からペニシリン治療に完全に転換することを決定した。四五年春には国内外の軍の需要を満たすだけのペニシリン生産がおこなわれるようになった[30]。ペニシリンは米兵の間ではone shot cureとも呼ばれた。つまり注射一発で直るという意味である。ある米兵がサンフランシスコの父親に送った手紙のなかで「フランス女は簡単に手に入るよ、タバコとチョコレートがあれば、彼女たちの目から見れば僕らは英雄だから」と書き、「ペニシリンがあれば性病に罹っても九五%は一日で直ると聞いている。そちらではまだ使っていないの?でも心配しないで。注意するから」と書き送っている[31]。つまり性病は不治の病ではなくかんたんに治療できると将兵に受け止められるようになったのである。こうした事態は軍にとって性病罹患がただちに兵力の損失とは言えない事態を生み出した。三七年からのサルファ剤の利用により治療期間の短縮がなされ、性病に罹っても軽度であれば入院させずに勤務させる措置が四一年以降試行され始めた。四二年秋より軽度の梅毒患者、淋病・軟性下疳患者を軍に受け入れるようになり、四三年二月からは軽度の梅毒患者は国内ならびに後方部隊で勤務させることが試行されはじめた。四五年六月までに陸軍は一九万五千人の性病罹患者を徴兵し治療のうえ勤務に就かせた[32]

それに対応して、給与カット問題についても四三年より議論が進み、四四年九月議会は性病感染者を原則として勤務させること、給与カット条項を削除することを承認した[33]。三九年の陸軍規則改正以来のこうした対応は、処罰はかえって感染隠しと不完全で危険な自己治療を招いてしまうという判断からだった。性病に罹った場合はすみやかに報告させ治療させた方が兵力の維持という点からも効果的であると判断されたのである(感染を知りながら隠していた場合のみ処罰される規定が残された)。性病による勤務損失日数は一件あたり一九四〇年の三二日から四四年には七日に、千人あたりの勤務損失日数は年間、四〇年の一二八〇日から四四年三二五日へと大幅に減少した[34]。ただペニシリンはすべての性病に効くわけではないし、効果には個人差もあり、軍にとっては性病問題がなくなったわけではなかったことにも注意しておく必要がある。

 ただ兵士から見れば、買春によって性病に罹っても、処罰もされずかんたんに直るようになった。買春を慎むようにと教育しようとしても兵士からは「勤務扱いですよね」と言い返されてしまう[35]。将軍クラスの将校の間でも性病は「普通のかぜほど深刻でない」と平然と述べるものが生まれ部下の性病管理への関心を低下させていった[36]。ヨーロッパでの戦争が終わった直後に地中海方面軍が二七二九名の将兵におこなったアンケート調査によると、イタリアでセックスをした兵士は白人兵七三%、黒人兵九六%、月に平均二、三回という結果が出ている[37]。性的禁欲という方針はほとんど効果がなかったことがうかがわれる。こうした状況下で、海外の各地で米軍が売春を容認、公認する状況が生まれたのである。

このような事態の背景として、第二次大戦中にアメリカ社会において性意識が大きく変化したことも指摘しておく必要があるだろう[38]。労働力としての女性の動員は女性の社会的進出を大きく進めてそれまでの伝統的な性的役割分業を揺るがせ、離婚の増加、青少年の非行の増加などモラルの崩壊が繰り返し問題にされるようになった。特に二〇代の青年が多い軍隊ではその影響は大きかったと思われる。

しかし四四年から四五年にかけて事態は変化した。一つは、米軍の性病罹患率の増大で

ある。連合軍は四三年七月にシシリーに、ついでイタリア本土に上陸、四四年六月にローマを解放した。他方、同月ノルマンジーに上陸した連合軍は八月にパリを解放した。その直後からパリなど大都市での性病感染が増えていった。イタリアに入った米軍の多くの司令官が売春を肯定し売春宿の公認管理政策をとった。フランスへの進攻にあたってヨーロッパ方面軍司令部(アイゼンハワー司令官)は売春禁圧策を指示していたが、民政を担当したG5(参謀第五部)は売春を容認する各部隊の対応を放置した[39]。第三軍司令官であったパットン将軍は四四年一〇月にアイゼンハワーに手紙を書き、人間の本能に逆らう企ては無駄だと述べ、売春宿に米軍のペニシリンを提供すること、米兵向けに開いていると言わなければいいのだと売春宿の利用を提言した。もちろん軍中央の方針をよく知っているアイゼンハワーはそれを却下したが[40]

アジア太平洋地区では太平洋諸島での戦闘が続いていた時期は米兵の性病罹患率はきわめて低かったがフィリピンに米軍が入っていくと四五年に入り急激に罹患率が上昇していった。こうしたデータはすべて陸軍省に集約されており、問題にせざるをえなくなった[41]

 もう一つは、軍が売春を容認・公認していることが国内でも知られるようになり、厳しい批判が寄せられたことである。従軍していたチャプレン(従軍牧師・司祭)から陸軍省へ批判の手紙が寄せられ、あるいは兵士が郷土の牧師に手紙を書いて問題化した。時には国会議員にその情報を持ち込んで陸軍長官や参謀総長に直接訴えることもあった[42]。こうした情報が多数寄せられた陸軍省では四五年に入り、このままでは大衆的な議論と非難が巻き起こってしまうことを危惧し、軍医総監部とG1(参謀第一部)の間で対策が検討された。この結果、出されたのが、四五年四月二四日付で陸軍長官の命を受けて高級副官名で各派遣軍に出された通達「海外作戦方面における売春について」である[43]。この中で、売春に軍が関与することを禁じ、売春禁圧策という軍の政策を徹底するように指示した。組織的な売春の容認は医学的に不適当であり(つまりかえって性病を増やしてしまう)、社会的スキャンダルとなって陸軍省への非難を引き起こすなど社会的に好ましくないし、市民と軍の士気をそこなう、などの理由を挙げて、売春容認は陸軍省の方針にまったく反すると戒めている[44]

 陸軍省では各地での経験を集約し整理しているが、売春宿を公認し娼婦の性病検査をおこなっているケースと売春禁圧策を実施したケースを比較し、前者ではいくら性病検査をおこなっても無意味であり、買春に行く兵士が多ければいくら娼婦の検査システムを整備しても性病罹患率が高いという結論であった(四五年一月のヨーロッパ方面軍司令部公衆健康部の報告、四五年六月太平洋方面軍軍医部通達も同様の結論[45])。ドイツ軍から没収した文書によりドイツ国防軍専用の売春宿のデータを分析し、女性を隔離し性病検査を厳しくおこないながらも将兵の性病罹患率が高いという結果から、こうした公認売春宿方式は性病予防の観点から見て失敗だったと結論づけるレポートも出されていた(四六年七月ボーク中尉メモ[46])。したがって陸海軍ともに軍中央が売春公認策を否定したのは国内の批判やスキャンダル化を恐れたためだけではなく、医学的にもそれが性病予防にはならずかえって性病拡大の原因になってしまうという合理的実際的な判断からでもあった。本音では買春を奨励ないしは認めたかったが、スキャンダル化を恐れて表向き禁止する振りをしただけだという議論は一面的すぎるだろう。また売春を公認することがスキャンダル化するということは将兵を海外に送りだしているアメリカ社会において売春を許さない性モラルが―大きく変化しつつあったとはいえ―依然として強いことを意味しているのであり、軍としては国民の支持を得るためにも売春を公認することはできなかったのである。

 第二次世界大戦中の米軍の売春・性病対策は、売春禁圧と予防策の二本立てが維持されていた。国内ではそれが行政当局や住民の協力を得て強力に実施されたが、海外では前者が建前化していた。その理由としては、現地社会で売春が容認されていたこと、現場の部隊長らが将兵に禁欲を強いるのをいやがり、同時に娼婦の性病検査により性病を防ぐことができるという考えが根強くあったこと、ペニシリンにより性病が恐るべき病気ではなくなり買春への大きな抵抗要因がなくなったこと、性病罹患に関する処罰が基本的になくなったことなどから、国内とは明らかに違う状況が生まれたのである。また軍中央のくりかえしの説得にも関わらず、買春を容認し公娼制を支持する司令官や将校たちが少なくなかったことも軍中央の政策が徹底しなかった一因であろう。

 現地で売春が容認されており、米軍にはそれを取締る権限がないという弁解について言えば、インドのシロン地区に駐留した米軍内での性病問題の会議(四五年二月)の際に、元々この地域には性病は少なかったのに米軍が持ち込んだのであり、むしろ米軍が非難されるべきだと発言した大佐がいた。しかしこの意見はまったく無視されている[47]。また太平洋の島のなかには米軍が淋病や梅毒を持ち込んだことを認めている報告もあるが(たとえば仏領ボラボラ島[48])、米軍が来たことが売春を拡大させ、あるいは性病を持ち込み拡大させたという視点はほとんど欠落していた。悪いのは悪徳の売春を容認・肯定している、あるいは淫らな性慣行のある現地社会であるというのが米軍の認識だった。性病の感染源は娼婦だと一方的に決めつけ、女性のみを犯罪人扱いしたのと同じ発想である。

 さて四五年四月の売春禁圧の通達の効果はどうだったのかと言えば、性病罹患率から見る限りまったく効果はなかったと言えるだろう。その直接の理由はヨーロッパついでアジアでの戦争の終結であろう。ヨーロッパ方面軍では四二年から四四年まで罹患率が四〇前後で安定していたが五月の戦争終結とともに急上昇し、八月には一五〇を越え、一二月には二二三まで上がった[49]。南西太平洋方面軍(マッカーサー司令官)ではフィリピンに進出した部隊の罹患率が上昇し、特に日本に上陸してからは急上昇する。こうした問題は次に見ることにしよう。

 

五 占領下日本での米兵向け売春宿

  第二次世界大戦後、日本の内務省が進駐してくる米兵向けの売春宿RAA(特殊慰安施設協会)を用意提供したことはよく知られている。これを米軍も積極的に支持し利用した。GHQの公衆衛生福祉局長に就任したサムス大佐(のち准将)や性病管理将校であったゴードン中佐、第八軍や第六軍の関係者らは陸軍省の政策に従わず、管理された売春制度(公娼制)の再確立を主張し、日本側にもそれを求めた。サムス局長は、四五年一〇月一六日、売春宿をオフリミッツにしている司令官たちを批判し、オフリミッツにしても私娼が散在するだけであるから日本の現存する売春統制の法と手続きを拡張し厳密に実施することが実際的で緊急な対応として求められると参謀長に提言さえしている[50]。その五日後の会議の席上、第八軍軍医ライス准将は、売春宿をオフリミッツにするだろうと言いながら、ホステスと性交渉できる「アミューズメント・ハウス」を日本側が設置してくれないかと示唆していた。サムスは大戦中、北アフリカ、イタリアに軍医として行っていた。これらは米軍が売春を公認し陸軍省から問題にされた地域である。そうした行為にサムスがどれほど関わっていたかはまだ確認していないが、関わっていた可能性が高いし、少なくとも知っていたはずである[51]

 さてここでも第二次大戦中と同じような問題が出てきた。一つは米兵の性病罹患率の急増である。第八軍の罹患率はフィリピンにいたときは多くても三〇台にとどまっていたが、日本に来てから、九月三三、一〇月五四、一一月八六、一二月一五三、四六年一月一七九、二月一九七、三月二五〇と急上昇した[52]。概ね五〇以下に抑えるのが米軍の性病管理の原則であったがその危険水準をあっという間に超えてしまった。そのため一二月五日には太平洋陸軍司令部(マッカーサー司令官)の軍医部から第六軍と第八軍に対して、米兵専用の売春宿で性病感染が繰り返されており、性病管理に問題があると警告が出された。

 同時にRAAのような売春公認策は米軍内部からも批判を生み出した。すでに一一月五日の時点で第五空軍司令部は、基地周辺五マイル以内の地域から娼婦を排除するように日本政府に要請することを太平洋陸軍司令部に訴えた。メイ法の精神を日本でも実施したいという要望であり、売春禁圧こそが唯一効果的な性病管理方法であるという陸軍省の政策を強調した。空軍(正確にはまだ陸軍の一部)としては売春宿をオフリミッツにしたいが陸軍がオフリミッツにしないので困っているとも訴えている。極東空軍司令部もこの要望に賛成した。

 日本に来ていた軍のチャプレンたちもさまざまな方法で売春公認策を非難し改めさせようとした。第四一師団のチャプレンは師団長に注意を喚起したが改善されないのでワシントンのチャプレン部長に訴えた。チャプレン部長はこれを陸軍省人事部長に伝えている[53]。あるいは日本に来ていた兵士が家族に手紙を書き、上院議員を通じて陸軍長官に実態を訴える者もいた[54]。米本国でもNewsweekがこの問題をレポートした。四五年一〇月二二日付で米兵たちが「ゲイシャ・ガールズ」たちとダンスしている写真が一挙に五枚も掲載され、二九日付では「娯楽協会」としてRAAのことを取り上げ、東京の米兵たちはまもなく五千人の新しいゲイシャ・ガールズから歓待を受けるだろうという記事を掲載した。そこではまだ売春については言及されていなかったが、一一月一二日付では「水兵とセックス―日本で売春がはびこる:海軍の政策が非難」と題して一ページ全部を使った記事が掲載された。記事の材料は日本に来ていた海軍のチャプレンからNewsweekに送られた手紙だった。その中で、ミズーリ号艦上で降伏調印式がおこなわれた九月二日には軍医から娼婦の検査など売春地区を管理するのが政策だと告げられたことをはじめ海軍が売春を公認する措置を取っていることが告発されていた。こうした報道は陸軍省海軍省でも問題にされた。

 海軍においては、一〇月三一日付で海軍長官が売春禁圧の方針を占領地でも適用するという通達を出し、一一月二日には太平洋艦隊兼太平洋地区司令部(最高司令官ニミッツ)もそれに基づいて同趣旨の通達を出していた[55]。ところが一一月に、Newsweek記事が下院で取り上げられた。海軍長官フォレスタルは一二月七日付で回答を送り、売春禁圧が海軍省の一貫した政策であることを強調した。これを受けて一三日海軍省軍医部長と人事部長名で全艦隊・部隊に対して、売春を奨励、暗黙に公認、容認すると解釈されるような措置は一切とってはならないという通達を出した[56]。おそらくこれを受けてと思われるが、太平洋艦隊兼太平洋地区最高司令官ニミッツの名前で四六年一月一四日に通達「売春に関する政策―性病管理」が出された。ここではいく人かの司令官が売春禁圧への協力を売春婦を隔離することと解釈したものがいると批判し、それは売春禁圧策に反する、海軍省の政策は売春の抑制ではなく禁圧であると強調した[57]

日本においては陸海軍チャプレン協会東京横浜支部がこの問題を取り上げて議論し、一月八日には八八名が参加した会議で全員一致でこうした売春宿の利用をやめ売春を禁圧するようにとの決議を採択し、一一日付で連合軍最高司令官マッカーサー宛に書簡を送った。

 こうした状況の中で太平洋陸軍司令部内では軍医部がチャプレンたちの意見を受け入れて米兵向け売春宿への関与を直ちにやめることに賛成したが、買春を奨励する予防所をなくせという要求に対しては性病予防の点から拒否する意見であった。こうした動きに対して第八軍は、すべての売春宿をオフリミッツにするには憲兵を大幅に増員する必要があるので現状ではできないなどと抵抗を示した[58]

 そうしたところに三月四日付で陸軍省から太平洋陸軍司令官マッカーサーに対して、売春禁圧の陸軍省の政策を厳格に遵守すること、陸軍次官を派遣するので協議し状況を報告せよと通達がなされた。陸軍省では各地に派遣した米軍が売春禁圧策に反して売春を公認し、性病罹患率が急上昇している状況を解決するために性病罹患率の高い軍司令部に次官を派遣することにした[59]。日本もその一つに含まれていた。ケニス・ロイヤル陸軍次官は日本に来てマッカーサーと会談した。三月一二日付の次官より陸軍長官宛の報告によると[60]、マッカーサーは太平洋地域での性病の多さに当惑しているが、これまで取られてきた方策以外にできることがわからないので、ほかに考えがあれば歓迎すると述べた。またマッカーサーは売春宿をオフリミッツにする政策を含めてあらゆる可能な方法で売春を禁止する陸軍省の政策に厳格に従っている、ある一つの師団でこれに反する方策がとられているのを発見したので直ちに変えさせたとも述べている。いずれにせよ自己弁明に終始しながらも陸軍省の政策に従うことをマッカーサーは約束した。太平洋陸軍司令部はすでに二月一八日に高級副官名で第八軍などに対して、陸軍省の売春禁圧策に反する、現在のいかなる手段も直ちにやめるように通達していたが、この次官とマッカーサー会談をうけて、ようやく三月一八日第八軍はその通達を実施して売春宿はすべてオフリミッツにするように指揮下の部隊に通達した[61]。この通達を受けて二五日に東京憲兵隊司令官が内務省にその旨通告し、RAAにはオフリミッツが実施されたのである[62]

 RAAの利用は、日本に駐留していた米軍内部からの批判と陸軍省からの批判をうけて取り消されることになった。米兵の性病予防という観点からRAAあるいは売春管理方式は失敗だったからであり、サムスら公衆衛生福祉局や第八軍もそれを受け入れざるを得なかった。陸軍省では陸軍次官の派遣を受けて、四月五日付で参謀総長アイゼンハワー名で陸軍規則六〇〇―九〇〇を全軍に通達した。その中で、売春の組織化は、性病予防策としては完全に非効果的であり逆に性病が増えてしまい、医学的にも不健全であるということ(医学的理由)、社会的に批判を受け、道徳を破壊し、さらに米国市民の希望に反すること(社会的理由)などの理由を列挙して売春公認策を強く否定した。そしてすべての売春宿をオフリミッツにし売春禁圧策をとるように指示した[63]

 

六 兵士処罰の廃止と人格指導計画の導入

  さて世界各地に駐留する米軍の性病罹患率が増大する問題に頭を悩ませた陸軍省は、性病に感染した兵士への処罰をやめたことに問題があるのではないかと考えた。一九四六年六月一二日陸軍省高級副官名で各方面の軍司令官に対して、処罰方式の復活についての意見を求めた[64]。日本の第八軍は六月二八日アイケルバーガー司令官名で意見を送っている。そこで彼は性病患者を勤務扱いにしたのが間違いだと指摘し、そのことにより性交渉は軍によって「公認されたレクリエーション」とみなされてしまい、淫らな性交渉を増長させてしまった。さらにペニシリンがあるから大丈夫という誤った認識を奨励し予防策をとらなくなってしまったなどの理由を挙げて、処罰方式の復活を支持した。太平洋陸軍司令部もこの第八軍の意見を取り入れた意見書(七月一三日付)を陸軍省に送った[65]

 こうした海外の軍司令部の意見をふまえて、四七年一月三一日陸軍長官より「規律と性病」と題した通達が出された。そこでは禁欲の奨励と予防策の徹底、売春の禁圧、部隊長の性病予防責任の強調、性病罹患者の最低三〇日間の外出禁止、くりかえし性病の罹るものは昇進の考慮材料にすること、性病罹患後すみやかに報告しない者は軍法会議にかけること、などが指示された[66]。この方針では、規律処分が少し強化されるとともに、道徳的精神的アプローチ、兵士の自己規律と自己責任が強調され、それを管理する部隊長の責任も強調された。この方針を具体的に実施するために各部隊に性病管理協議会が設置されることになった。

 戦争中の性病対策はなによりも兵士の性病感染を防ぐという予防策に重点が置かれていたが、予防策の強調とペニシリンの普及によって兵士の性的乱交に拍車がかけられてしまい、軍紀の悪化を招いたという反省から、兵士たちの自己規律を強化して軍紀を高揚させ、そのことを通じて性病罹患を減らそうとするものだった。第二次大戦を通じて、結婚外での性交渉が増えそれを許容する意識が広まるなどアメリカ人の性意識が大きく変化したことに対する軍としての対応でもあった。またペニシリンはまだ完全な治療薬ではない(特に淋病には効かないケースが多かった)という状況が背景にあった。この方針を徹底させるために性病問題講習会が各地で開催されたが、そこでは多くの司令官が売春公認策を有効だと考えているのは問題であると批判し、その方法は性病予防策としては失敗であることがあらためて強調された[67]

 ところがこの政策はすぐに見直しがなされた。規律処分がかえって性病罹患者の性病隠しと不十分な自己治療を招いたこと、部隊の性病罹患率を部隊長の勤務評定と結びつけた点について、性病率は駐屯地の状況に左右されるのであって必ずしも部隊長の指導性とは関係がないことなどから四八年八月三日陸軍回報第二三一号が出され、その中で四七年一月の陸軍長官の通達は廃棄され、人格指導計画が導入された[68]。これは四七年一月の方針から処罰・規律処分を廃止し、もうひとつの柱であった道徳的精神的心理的アプローチのみをとるものであった。各部隊に設置されていた性病管理協議会は人格指導協議会に組織替えされて軍紀の改善にあたった。同時に毎月定例の性病検査を含む身体検査は廃止された。

 こうしたモラル・アプローチが強調される一方で、日本では四八年九月に施行された性病予防法を使って、街頭での娼婦の摘発が強化されていった。第八軍では、売春自体が非合法化されていない日本での可能な対策として性病に感染している女性の逮捕、拘留による売春禁圧しかないという議論になった(四八年一二月一五日付メモなど[69])。四七年九月・一〇月の第八軍のデータでは性病に罹った米兵が感染した相手は、ピックアップ八九六人、娼婦一七八人、友人二四二人、街娼一四人、コールガール八人、となっており、いわゆる売春宿の娼婦よりも街頭やバーなどで相手を探すピックアップなどが性病の大きな感染源であると見なされていた[70]。したがってそうした疑いのある女性を日本警察の協力を得て逮捕拘留し、強制的に性病検査と治療を受けさせるというやり方がとられた。この結果、街頭でむやみやたらに女性が逮捕され問題になる事態が各地で頻発した。

米兵には自己規律が強調され処罰はなくなる一方で、娼婦や性病感染の疑いを持たれた女性が一方的に逮捕、検診を受けさせられ、性病に罹っていると強制入院・治療を受けさせられた。四九年一月・二月に別府でおこなわれた摘発では一〇五三人の女性が逮捕されたが、警察は娼婦はせいぜい四分の一程度と推測しており、多くの関係ない女性たちまで犠牲にされた[71]。もちろん娼婦であったとしても人権侵害であることは言うまでもないが。

 ところで本土とは切り離されていた沖縄では那覇だけでも四〜六千人と言われた娼婦をどうするのかが四七年二月に軍政部内で議論されている[72]。沖縄の米軍の性病罹患率は四八年末までは二桁と低い水準で抑えられており、かつ沖縄内での感染はそのうちの約半数と報告されていた(四七年一月の数字)。軍政部の公安局、公衆衛生局、法務局らの代表が集まって議論したが、そのなかで公認売春宿も有効であると言えるが、陸軍省の政策に反するので採用することはできないと判断し、具体的には、売春のための前借金の禁止、米軍人への売春禁止、性病に罹った者の届出と治療の義務化、逮捕した娼婦の性病検査と治療、などの施策とともに、米兵に対してレクリエーションや趣味の施設を提供すること、売春をなくすことはできないし若い男を性から遠ざけることはできないのでコンドームを簡単に手に入るように公然と展示し予防所をあらゆる軍事施設に設置する、性病予防とその危険性についての教育をおこなう、などの方針を決めた。米軍人への売春のみを禁止するという措置は、沖縄社会では売春は認められてきたのでそれを一方的に否定できないからと説明されている。この会議の決定に基づいて、三月一日付で占領軍への娼業禁止、花柳病取締り、婦女子の性的奴隷制廃止の軍政特別布告が出された。このように表向きは陸軍省の政策に従わざるを得なかったが、買春はやむをえないものと認めて予防措置の徹底と性病感染した娼婦の取締りに重点がおかれた。娼婦と疑われた女性の逮捕、強制検診・治療は本土と同様におこなわれた。なおこの時期、沖縄はワシントンからも極東米軍からも見捨てられた状態で軍紀は乱れていた。売春を取り締まる警察を武装した米兵が襲撃したり、米軍内の女性が米兵に襲われるので外出時には武器を携帯しエスコートをつけるようにと軍が警告せざるをえないほどであった[73]

 規律処分の廃止とともに大きな意味を持った施策がある。性病治療の進歩はさらに状況の変化を生み出した。第八軍は軍医総監部の回報にしたがって、四九年八月から特別なケースを除いて複雑でない性病については外来患者扱いする方針を実施に移した。この結果、一週間あたりの平均損失日数は四九年前半が五九二二日であったのが八月〜一二月では一〇四日に激減した[74]。フィリピンと琉球でも五〇年から実施することになった。病気による勤務除外のなかで性病によるものは、米陸軍全体で第二次大戦前には一八%を占めていたのが五三年には一%以下にまで減少し、性病は兵力の損失にとってきわめてマイナーな病気になったのである[75]。ペニシリンの試用から始まった治療法の改革はここに一段落を告げたのである。

 

七 朝鮮戦争の勃発と基地売買春の拡大

  朝鮮戦争の勃発により、朝鮮半島に大量の米軍が投入されるとともに日本はそれらの部隊の経由地となり、また在日米軍も増強された。日本では陸軍の駐屯地やR&R(休養回復)センター周辺が売春地域となった。朝鮮戦争勃発後、いくつかの司令部から極東軍司令部に対して、売春勧誘を禁止する法令を出すように要請があったが極東軍司令部は反対して実現しなかった[76]。日本が独立を回復するとGHQの命令は出せなくなった。そこで米軍の経済的影響力を使って、性病感染源をオフリミッツにすることにより、その経済的打撃を憂慮する行政と地元の協力(性病に感染した女性の摘発と治療)を得るという方式をとった。極東軍司令部はオフリミッツがそうした道具に利用できることを理解していた(五二年七月七日の指揮下部隊への通達[77])。売春地区をオフリミッツにして売春を認めないという建前を維持しながら、街娼の排除と米兵相手の娼婦の性病検診を行政と業者にやらせる方式を意識的にとりはじめた。

韓国では米軍政は公娼制廃止を宣言しながらも他方では接客婦の定期健診と性病治療を警察を使って実施していた。四九年には韓国全土で五万三六六四人の接客婦を検診していた[78]。朝鮮戦争開始後しばらくは性病罹患率が急低下するが、戦線が三八度線付近で停滞しはじめた五一年に入ると米軍の罹患率が急上昇した。その対策として国連軍文民援助司令部が五一年七月八日付で作成した計画によると、売春婦に週二回、ダンサーに週一回、ウェイトレスに月一回の性病検査をおこない、保健社会部がIDカードを発行する、登録されていない娼婦は警察が集めて検査を受けさせ引き続き私娼を続ければ二九日以内の拘留をおこなう、国連軍がペニシリンを供給するなどの計画を策定し、まずプサンから実施することとされた[79]。こうして警察を表に立てながら売春管理をおこなう方策はその後、形成されていく基地村にも拡大されていった。

 沖縄では、沖縄を視察した極東軍司令部憲兵隊から警告を受け、米民政府は五二年五月に琉球軍司令部に対し、ニューコザ(八重島特飲街)をオフリミッツにするように要請した。しかし第二〇空軍がオフリミッツに反対したため琉球軍司令部は行政当局が必要な措置をとっているという理由でオフリミッツにはしないと米民政府に回答した[80]。沖縄では現地の軍が地元に作らせた米兵向けの売春地域が継続されたのである。そして五三年からはAサイン方式が導入された。

 朝鮮戦争下で売春禁圧方針は実質的に空洞化したといえるが、この変化はなぜ起きたのだろうか。一九五〇年代の米軍の関連資料は現在順次公開中であり、資料的に確認できるものとまだ推定にとどまるものがあるが、現在の段階でその要因を整理しておきたい。

第一にすでに述べたように治療法の進歩により、通常の性病は外来患者扱いで治る病気になり怖い病気ではなくなったことである。五四年の時点では医療部隊にとって「性病の治療は何の問題もない」と言われるようになった[81]

 第二に部隊の性病罹患率は部隊長の勤務評定の材料であったのが四八年に廃止された。この結果、軍幹部のこの問題への関心が急速に低下した。朝鮮戦争中の五三年八月七日極東軍は、部隊の性病率は部隊長の性病管理活動の正確な指標ではないと説明する通達を出している(テ報告)。まさに韓国で基地村が形成され、日本で基地売春が横行していた時に、である。

第三に性病罹患者の処罰・規律処分は徐々に取り除かれ、単なる規律処分(パスを取り上げるなど)さえもなくなった。将兵は買春が公認されたと受け止めるようになった。

第四にこうしたことから軍にとって性病問題の比重・関心が著しく低下したことである。五二年一月陸軍疫学委員会の性病問題特別委員会は「現代の治療法によって、性病は軍人の勤務除外を起こす主要な原因ではなくなった」と報告し、軍医総監部の一九五三年度年次報告は「性病は一〇年や一五年前のような軍にとっての問題ではもはやなくなっている」と明言している[82]。五四年の性病による勤務除外は一日平均一〇万人あたりわずか八人にすぎなくなっていた[83]。五〇年代に入ると軍医総監部の年次報告や雑誌でも性病問題に関する記事数が急減していった。アメリカで性病問題をリードした社会衛生協会の雑誌「社会衛生ジャーナルJournal of Social Hygiene」が五四年末で廃刊になったのは象徴的である。

第五に、最初から抱えていた矛盾であるが、禁欲を説きながら他方で予防策をとれという方針の矛盾が明確に指摘されるようになった(テ報告)。予防策ならびに治療法が完全ではないからこそ禁欲が強調されていたのだがもはや禁欲はまったくの建前化してしまった。

第六に韓国や日本でのたくさんの娼婦の存在である。売春禁圧には米国内での経験からもわかるように行政当局の協力が必要であるが、売春を容認し集娼制に固執する日本政府と社会にあっては売春禁圧策をとることができない。そこから現地社会の売春容認(公認)を前提とした対策をとるという認識になっていった。しかし米軍が来るから売春がおこなわれかつ拡大するという自己認識は皆無であったし、米兵が性病を持ち込み拡大するという認識もまったくなかった。

第七に軍医総監部などの雑誌を見て明らかなのは、五〇年代に入ると戦闘神経症問題が重視されてくる。先に紹介したティンマーマン中佐は、勤務除外日数について第二次大戦中は性病と戦闘神経症の比率が一対四だったのが、朝鮮戦争においては(五二年末まで)一対四五と大きく広がったことを示して、性病問題が重要でなくなったことを説明している。朝鮮戦争さらにはベトナム戦争と米軍が勝てない戦争が続くが、そのことも戦闘神経症の問題と関連しているだろう。そうした問題への対策から将兵のローテーションと休暇制度の充実が図られた。日本に作られたR&Rセンターもそうした施設だった。所属部隊での勤務中よりも休暇で部隊から離れたときに買春をおこない性病に感染する率が多かったのは大戦中からの特徴であったが、ここでもそうしたことが言えた。性病が軍にとって大問題でない以上は、あえて禁欲を強いるよりは自由に遊ばせたほうがよいという判断が生まれても不思議ではない。

第八に米軍自体の変化もあると思われる。米軍は一九三〇年代には陸軍が一三万人あまり、全軍でも二〇数万人の小規模な軍隊しか有していなかった。ところが第二次大戦中は最大時には陸軍八二六万人、全軍一二〇〇万人に膨れあがった。戦後は復員が進み五五万人(全軍一五〇万)規模に縮小するが、朝鮮戦争勃発とともに一五〇万人(三五〇万)体制になる。朝鮮戦争休戦後は九〇万人(二五〇万)規模に縮小するが、ベトナム戦争によりまた朝鮮戦争時と同じ規模に復活する。いずれによせ戦前の小さな軍隊から戦後は一〇倍以上の大きな軍隊に変わり、かつ大量の軍を海外に長期駐留させるようになる(五三年百二〇万人、五五年九二万人[84])。また第二次大戦、さらには一九六〇年代とアメリカ社会の性意識は急速に変わっていった。第二次大戦前の厳しい規律と禁欲を求める性対策がこうした軍隊には適用できない変化があったのではないだろうか。

こうした中で、売春禁圧は建前化した。予防策をしっかりとって、性病に罹っても早く治療すればよいと考えられた。ただし外来患者扱いといっても病気である以上、性病が少ない方がよいので、現地行政に売春婦の性病検査と強制治療をさせる。軍としての方針があるので米軍自体は表向きは関与しない。検診を受けない娼婦は警察を使って徹底して摘発させた。このことが娼婦を一定の地区に閉じ込める機能を果たしたことはすでに指摘されている(集娼制の強化)。そうした中でオフリミッツはかつては売春禁圧措置の一つとして米兵の買春を防止するための措置として使われていたが、この時期には、オフリミッツにすれば業者や現地社会への経済的打撃になるので、行政や現地社会が性病対策に乗り出す手段として利用した。つまり米軍は売春地域をオフリミッツにして売春を認めないという建前を維持しながら、現地社会に性病管理・娼婦管理を促す、という方策である[85]。オフリミッツ措置の抜け穴は軍上層部も認識しながら目をつぶり(憲兵の見回りの時刻さえはずせば問題ないというような)、オフリミッツ地区とその周囲におかれた予防所の地図は地理にうとい米兵には売春地区への案内になった。憲兵自体が売春宿に出入りし、オンリーを囲うということが報告されている資料がいくつもあることから、売春宿と警察の癒着と同じ状況が憲兵と業者の間に存在していたこともわかる。

軍中央がこうした状況をどのように考えていたのか、まだ資料的な裏づけがとれないが、性病が兵力の損失につながらない以上、売春問題が重視されなくなったことは間違いない。一九六〇年代後半から七〇年代にかけての性革命によってアメリカ社会は性的自由化が一気に進んだが、他方で厳格な性道徳意識は根強く残っており、そうした人々からの目を軍中央は意識せざるをない状況はその後も続いていると言えよう。

 

おわりに

このように米軍の性管理の政策は、西欧や日本の軍隊とは大きく異なっていた。軍隊と性の関連を一つのパターンだけでとらえてきたこれまでの議論は見直さなければならないだろう。たとえば売春に対する国家の政策や社会の売春に対する意識は国によって決して一様ではないし、軍隊のあり方はその社会のあり方と密接に関連していることを考えると、各国の軍隊ごとにていねいに政策と実態を明らかにする作業が必要であろう。売春ならびに公娼制を公式的には否認していたアメリカ連邦政府と軍中央の性政策は、西欧や日本とは異なる一つのタイプして位置づけられるだろう。そうした政策の背景には、第二次世界大戦期と一九六〇年代に性モラルが大きく自由化したとはいえ、ピューリタニズムの影響もあって売春を忌避する性道徳が強いアメリカ社会のあり方があるだろう。その拘束力は冒頭に記した、在韓米軍の買春問題に対する陸軍の対応にも現れている。

米軍について言えば、米軍の性暴力的な体質の一因はそうした米軍の政策に起因するように考えられる。

娼婦を一方的に性病を蔓延させる原因として犯罪人扱いしたのは米軍の一貫した考え方であった。娼婦は兵士に害を与える敵と同様の存在と見なされた。女性の人権はまったく考慮されず、特に性病に罹患している女性は排除の対象でしかなかった。売春で利益を得る者たちへの厳しい措置が欠け、女性のみを犯罪人視し、その一方、買春側(米兵)はあくまで保護されるべき対象だった。娼婦への蔑視観は軍の教育を通じて兵士の意識に叩き込まれていった。売春を禁止し性的禁欲を教え込もうとする、ある意味ではストイックな教育が、女性を犯罪視することを通じて女性への蔑視意識を強化再生産し、そうした女性への非行を逆に促すことになったのではないかと思われる。そして上からの道徳的説教は、たいていの道徳教育がそうであるように、兵士にとっては耳から耳に抜ける建前上の教義に過ぎなくなっていったのではないだろうか。

本論ではほとんど触れることができなかったが、こうした米軍資料を見て気づくことの一つは黒人兵に対する視線である。各種データを見ると、黒人兵の性病罹患率が白人兵の数倍から時には十倍以上になるが、軍首脳部は黒人兵を特に問題視し、外出した黒人兵全員に性交渉をおこなったかどうかに関わりなく強制的に洗浄消毒をさせたり、一律にペニシリンを投与するなど、健康上問題のある実験をおこなっている[86]。確かに罹患率の高さは目立つが、黒人兵全体が自己規律のない問題児集団のように扱われている(第二次大戦の少し後まで黒人兵は白人兵とは別の部隊にまとめられていた)。

 民族差別的な意識は、アジアや中東、アフリカなどの社会への視線にも感じられる。米軍はしばしば現地社会が売春を肯定し、現地の娼婦が米兵を誘惑し性病を感染させると批判しているが、米軍の存在が売春を増長させ、あるいは米兵が性病を持ち込んでいるという認識は欠如している。

ただ米軍は国内のように売春禁圧が実施可能なところではそうした施策をおこなっており、その意味では売春を肯定する現地社会のあり方が米軍の対応を規定する一因になっていること、つまり海外に駐留する米軍の買春問題は米軍と現地社会の相互作用によって増幅されている点も見落とせないだろう。売春業が地域経済にプラスになるという思考や、米兵相手の娼婦の存在が一般の女性の身を守るというような考え方が、米兵相手の女性を蔑みながらもその存在を肯定する背景にあった。

 軍隊と“男らしさ”という点で見ると、従来の議論では、軍隊の“男らしさ”と買春奨励が深く関連しているとされている。ただ米軍がスポーツ選手を持ち出して禁欲を訴えたように、大事なときに我慢できるのも“男らしさ”の表れであると言えるのではないだろうか。“男らしさ”の議論についても一面的な理解に陥ることなく、実態をさらに明らかにしながら理論をより豊かにする作業が必要であるように思う。

今後解明すべき課題は多い。たとえば人格指導計画はその後どのように展開したのか、それはどのように評価されるのか、米軍が兵士の自己責任・自己規律を重視したということはどのように考えればよいのか、五〇年代の日本などで娼婦の性病検査を要求する米軍司令官が依然として多かったのはどのように説明されるのか、など資料的にも理論的にも解明されるべき課題は多い。

また当然のことながら兵士による性暴力を生み出す米軍の構造的要因は別に分析が必要であろう。ただその際にも留意しなければならないのは、たとえば第二次大戦中には米軍の歩兵のなかで敵に向かって銃を発砲した兵士が一五から二〇パーセント程度しかいなかったが、その後軍が殺人への抵抗感を克服させる訓練を工夫し、朝鮮戦争のときには五五パーセント、ベトナム戦争では九〇〜九五パーセントが発砲できるようになったという研究がある[87]。米軍のあり方も大きく変化したと考えられるだろうし、またこうした兵士の改造は性暴力の現われ方と無関係ではないだろう。

いずれにせよ軍隊と性暴力の関係は、各国の軍隊ならびに時代に即してその実態を明らかにし、あらためて理論構築されるべきであろう。本稿はそのための一つの予備的作業である。

   

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[1]  陸軍長官からの手紙(六月一九日ならびに八月一六日付)。この一連の資料はKatharine Moon氏より提供していただいた。関連する記事は、Equality Nowのウェブサイト(http://www.equalitynow.org/)参照。

[2]  Cynthia Enloe, Maneuvers:The International Politics of Militarizing Women’s Lives. California : University of California Press , 2000, pp.71-72.

[3]  『琉球新報』二〇〇四年三月七日。

[4]  米国立公文書館所蔵資料は、Record Group(RG)/Entry/Boxを記す。なお米軍資料には「売春prostitution」と区別した「買春」を意味する言葉はないが、米兵(男)が娼婦を買う行為を意味する場合には「買春」と意訳した。

[5]  一月に一〇〇〇人中一〇人が罹患するとこれを一二倍し、一二〇がこの数値となる。以下、性病罹患率はこの基準を使う。本章の米軍のデータは、The Army Medical Bulletin(以下、AMBと略記)の各号より。No.67(May 1943)は米陸軍の性病対策の歴史をまとめており参考になる。

[6]  AMB, No.67, p.79.

[7]  AMB, No.67, p.92.

[8]  Ibid..

[9]  第一次大戦中の対策については、George Walker, Venereal Disease in the American Expeditionary Forces. Baltimore: Medical Standard Book,1922、が包括的にまとめている。

[10]  Commission on Training Camp Activities , War Department, Smash The Line!. 1917(ページ数は打たれていない)。

[11]  Allan Brandt, No Magic Bullet: A Social History of Venereal Disease in the United States Since 1880(Expanded Edition). New York: Oxford University Press, 1987, Chapter 2, 参照。

[12]  この時期の米国内での売春対策全般については、Barbara Meil Hobson, Uneasy Virtue: The Politics of Prostitution and the American Reform Tradition. New York: Basic Books, 1987, Chapter 6 & 7, 参照。

[13]  AMB, No.67, pp.120-138.

[14]  この会議の内容は、WO32/11404(イギリス国立公文書館所蔵)

[15]   Walker (1922), pp.49-50.

[16]  軍による売春公認・管理を正式に提案した事例(司令官によって却下されたが)は、RG112/31/1267に関連資料が収録されている。

[17]  AMB, No.67, p.107 & pp.138-148.

[18]  こうした米軍の考え方と革新主義との関連については、Brandt1987)が興味深い分析をしている。

[19]  AMB, No.67, pp.164-168.

[20]  Brandt1987, pp.164-165; Medical Department, United States Army, Preventive Medicine in World War U, 1959, Chapter 10, pp.110-112(以下、PMと略記する)。

[21]  トーマス・パーランについては、Brandt1987,pp.138-160、ならびに公衆衛生総監Office of the Surgeon Generalのウェッブサイト(http://www.surgeongeneral.gov/)参照。

[22]  Journal of Social Hygiene, January 1942, あるいはPM, p.32などにくわしい。

[23]  一九四〇年から四二年ごろのこうした対策については多くの文献でくわしい解説がなされているが、RG112/31/1272, RG107/102/85など参照。なお第二次大戦期の米国内における軍の性対策についての日本での研究としては、島田法子「第二次世界大戦期におけるアメリカの軍隊と性―売買春と性病の政治学」(科学研究費補助金研究成果報告書、研究代表者白井洋子『戦争と女性―アメリカ史における戦争と女性に関する多文化主義的社会史的研究』一九九八年)、ハワイについては、同「第二次大戦期のハワイにおける軍隊と性」(『アメリカ研究』三四、二〇〇〇年)がある。ただいずれも海外の米軍については扱っていない。

[24]  AMB, No.67, pp.176-183.

[25]  RG112/31/1272-1273にいくつものそうした通達や回報類が含まれている。

[26]  PM, p.107. Journal of Social Hygiene各号にそうした取組みの事例が多数報告されている。

[27]  RG112/31/1273.

[28]  田中利幸「なぜ米軍は従軍慰安婦問題を無視したのか」(『世界』一九九六年一〇月・一一月、後に一部修正されて、VAWW-NET Japan編『加害の精神構造と戦後責任』緑風出版、二〇〇〇年に収録)。

[29]  RG112/31/1272-1273.

[30]  米軍における治療法の進歩については、The Bulletin of the U.S. Army Medical Department, Vol.8, No.5(May 1948), pp.336-338(以下、BAMと略記), PM, pp.115-120, にくわしい。

[31]  John Costello, Virtue Under Fire: How World War U Changed Our Social & Sexual Attitudes. New York : Fromm International Publishing Corporation, 1985, p.248.

[32]  性病罹患者の徴兵・軍勤務については、PM, pp.58-62,pp.121-123RG107/144/509, RG495/230/1534などにも関連資料が多数ある。

[33]  PM, pp.63-66, RG112/31/1265など参照。

[34]  BAM, Vol.9, No.1(July 1945), p.14, PM, p.164.なおRG112/31/1273には各種統計が含まれている。

[35]  チャプレン部長の手紙、四五年一二月六日付(RG247/1/335)。

[36]  ストロング准将のメモ、四五年一一月(RG112/31/1269)。

[37]  PM, pp.197-200.

[38] 第二次大戦が後の性革命の伏線となったことは、John Costello(1985),Chapter 16 The Seeds of Sexual Revolution, 参照。  

[39]  RG112/31/1273, RG331/6/45, RG331/56/121など。

[40]  RG331/6/45.

[41]  フィリピンでの状況はRG112/31/1273, RG496/187/1584などにくわしい。

[42]  こうしたいくつかの事例については、前掲田中論文参照。

[43]  陸軍省内での議論については、RG112/31/1272などにくわしい。

[44]  田中利幸氏はこの通達を紹介して「筆者が入手した数多くの関連資料の中で、これが最初で最後の唯一のものである」としているが、こうした売春禁圧の通達は戦中戦後にも数多く出されている。また氏はこの通達を駐留軍がどこまで徹底させたか知ることができるような資料は入手していないと述べているが、ヨーロッパでも太平洋でも方面軍が下部に徹底させる通達を出していることが確認できる。その前後の通達についても同様である。さらに氏は通達の発信者を軍務局長としているが正確には陸軍長官の命を受けて高級副官が出したものである。別件であるが、氏は海外ではコンドームと消毒剤を無料で配布したが米国内では「無料にしろ有料にしろ」そうした「事実を示唆するような資料は存在しない」と断定し内外でダブルスタンダードをとっていたとしているが(ただし修正版ではこの箇所は削除されている)、米国内でも当初は有料で、途中からは無料で、軍施設や予防所だけでなく民間の病院や消防署、警察署、公衆衛生施設などでも配布していたことはさまざまな資料に明記されている(たとえばPM, p.112)。またメイ法のことを氏は「五月布告」と訳し、さらに陸軍省が「最初から……海外駐留軍への適用を諦めており」としているが、国内法であるメイ法May ActMayは下院議員の名前である)がそもそも海外で適用できないのは当たり前のことだろう。氏の研究は高く評価するものであるが、こうした点が多いのが惜しまれる。

[45]  RG331/65/7, RG112/31/1273.

[46]  RG331/SCAP/9370.

[47]  RG493/118/723.

[48]  PM, p.172.

[49]  RG112/31/1273.

[50]  RG331/SCAP/9370.本章で出典を注記していないものはこのボックスより。

[51]  なおサムスの評伝がいくつか日本でも刊行されているが、彼が米兵向けの売春宿の公認を支持していたことはなぜか伏せられ、日本の公衆衛生に積極的な役割を果たしたことのみが評価されているのは不可解である。

[52]  RG338(第八軍資料)のさまざまなボックスから数値を集計した。

[53]  RG112/31/1272.

[54]  ここでは福岡の事例が取り上げられている(RG112/31/1272)。

[55]  RG331/SCAP/477.

[56]  下院での議論からの一連の動きについては、Journal of Social Hygiene, Vol.32, No.2(February 1946), pp.82-89.

[57]  RG496/187/1584.

[58]  太平洋陸軍軍医部長メモ(四六年一月二二日付)、第八軍より太平洋陸軍への手紙(二月一日付)。

[59]  RG338/A1-136/1048.

[60]  RG112/31/1272.

[61]  前者は、RG331/SCAP/477,後者はRG338/A1-132/312,その他。

[62]  ところでほとんどの著作では四六年一月の公娼制廃止、売春のための前借金無効の連合国軍最高司令官覚書について、RAAのオフリミッツ措置と一連のものとして記述している。しかし周知のように占領軍は、占領行政を管轄する連合国軍最高司令官GHQ/SCAPと米太平洋陸軍司令部の二重構造になっていた。日本で一般にGHQといわれているのは前者である。公娼制廃止覚書は前者の、RAAをオフリミッツにする措置は後者の行為である。公娼制廃止問題についてはGHQの公衆衛生局や法務局で日本の実態を調査しながら検討し、女性の「意思に反する奴隷化」がおこなわれ「実質的に囚人」であるという実態認識がなされていった(RG331/SCAP/9370)。そこでは娼婦の検診治療にあたっていた医師らの意見が反映していると思われる。公娼制廃止がなされた時点ではRAAの米兵利用問題については議論の最中であり、RAA閉鎖までは念頭に置かれていなかった。そしてここで紹介したような議論を経て、太平洋陸軍―第八軍の指揮命令系統を通じてRAAのオフリミッツ措置が取られた。これは日本の内政問題ではなく米軍としての措置であった。両者はまったく関係ないとは言えないが、区別して考えるべきだろう。

[63]  RG107/110/221.

[64]  RG496/194/1703.

[65]   RG338/A1-132/313.

[66]  RG554/67/62.

[67]  この方針の解説は、RG247/1/458,RG554/67/103など。

[68]  RG338/A1-132/394.

[69]   RG338/A1-132/394.

[70]  RG338/A1-132/349.

[71]  RG331/SCAP/9336.

[72]   RG554/67/62.

[73]  この時期の乱れきった米軍の姿を米軍自らが記録したものとして、『沖縄県史 資料編14 琉球列島の軍政 一九四五―一九五〇 現代2(和訳編)』二〇〇二年、七一―七四ページ、参照。

[74]  RG407/429/1078, RG554/125/29.

[75]  Office of the Surgeon General, Department of the Army, Annual Report of the U.S. Surgeon General: Medical Statistics of the United States Army: Calendar Year 1953, p.43. (以下、Annual Report)

[76]   RG554/79A/280. 極東軍は四七年一月に編成された。

[77]  RG554/79A/62.

[78]  RG331/SCAP/9432.

[79]  RG554/A1-1301/27.

[80]  RG554/79A/50, RG554/67/443.

[81]  ティンマーマン中佐の報告(RG112/31/1267)。この時点での陸軍の考え方をまとめたものとして参考になる(以下「テ報告」と略記)。

[82]  前者はテ報告、後者はAnnual Report, Calendar year 1953, p.43

[83]  Annual Report, Calendar year 1954, p.55.

[84]  米軍の人数について一九四九年までは、U.S. Department of Commerce, Statistical Abstract of the United Statesの各年版、一九五〇年以降については、国防総省のウェッブサイトより。

[85]  この時期、「売春禁止」やオフリミッツが果たした実際の機能については、平井和子「米軍基地と『売買春』―御殿場の場合」『女性学』Vol.5、一九九七年一二月、菊地夏野「売春禁止の言説と軍事占領」『ソシオロジ』第四六巻三号、二〇〇二年二月、藤目ゆき『東アジアの冷戦とジェンダー』(科学研究費補助金(C)研究成果報告書)二〇〇三年、第二章・第三章、など参照。

[86]  その例としては、四九年から五〇年にかけての六か月間に七八六名が延べ二万六三〇〇回の性交渉をおこなったが経口ペニシリンを全員に投与した結果、梅毒には実質的に一人も罹らなかったという、神戸の基地部隊での実験があげられる(RG338/A1-206/1558)。

[87]  S.L.A. Marshall, Men against Fire: Problem of Battle Command. Norman: University of Oklahoma Press, 2000(Originally published in 1947), p.4, pp.54-57. ただしこのマーシャルの分析にはかなり批判もあるのでこの数値の信頼性については保留しておきたい(同書のRussell W. Glennの解説参照)。 デーヴ・グロスマン(安原和見訳)『戦争における「人殺し」の心理学』ちくま学芸文庫、二〇〇四年(原書房、一九九八年)、四三、三九〇、四九九ページ、も参照。