『前衛』20059月号

インタビュー記事

《特集》アジアでの日本の戦争で何が裁かれたのか

●BC級戦犯裁判を追って  

                           林 博史


 最初は沖縄戦についての話の依頼だったように記憶しているのですが、『BC級戦犯裁判』(岩波新書)を出したところだったので、この内容でインタビューしたいということで、話したことを編集部が整理したものです。インタビューをうけたのは2005年7月1日です。
 それにしても、いまでもよくBC級戦犯裁判に関して本が出版されていますが、資料をろくに読みもせずに、よくここまで偏見と独断で書けるものだと感心します。   2006.1.19記


■なぜ戦犯裁判を調べたか

 私が、戦争の問題を研究しはじめたのは、一九八〇年代の中ごろからで、最初に取り組んだテーマは沖縄戦です。当時、沖縄戦の研究は、藤原彰先生の先行的研究をのぞいては本土の研究者はほとんどやっていませんでした。この沖縄戦は、太平洋戦争の最後の時期の戦闘です。実際に、日本はその前にアジアで何をやってきたのかという問題が重要です。そこで、太平洋戦争のいちばん最初の舞台となったマレー半島に、現・琉球大学教授の高嶋伸欣さんと行き、その後、日本軍が華僑を虐殺した資料を発見したこともあって、その調査をすすめました。当時、日本には、朝鮮半島や中国の問題は関心をもつ研究者もおり、国民の関心もありましたが、日本が東南アジアで何をやったのかということ自体はあまり明らかにされていませんでした。八〇年代から九〇年代にかけ、私自身、研究者として、シンガポールとマレー半島での華僑虐殺や日本軍「慰安婦」の問題など、東南アジアで日本軍がいったい何をしたのか、実態をまず明らかにしなければと考えました。

  同時に私が問題意識をもったのが、その戦争の実態をその後の日本人が、どのように認識してきたのかという点です。反省と言ったとき「謝罪」や「戦後補償」ということが問題になりますが、たんに”悪かった”と反省するだけではなく、大事なことは、そうした残虐行為、侵略戦争をおこなった日本社会のあり方、そこでの日本人一人ひとりのあり方をきちんと問い直し、再びそのことがくり返されないような社会の仕組み、個人のあり方をつくるということです。そのことがきちんとおこなわれていないからこそ、依然として戦争での残虐行為の否定論や、侵略戦争を認めず戦争を正当化する議論がくり返し出てくるのではないのでしょうか。

 このように戦後、一九四五年以降、私たちがどのように日本の戦争犯罪、侵略戦争と向き合ってきたのかを考えるとき、一つの出発点になるのが戦犯裁判です。もちろん、戦犯裁判は、連合国が裁いたものであり、連合国の裁き方自身に問題があります。原爆投下など連合国の犯罪が裁かれなかったことや、天皇が裁かれなかったこと、また七三一部隊などの犯罪も裁かれなかったなど多くの問題もあります。そしてそのことが日本人の戦争責任への認識を歪めてしまったのも事実だと思います。

 また日本人自身のなかには、とくに戦犯裁判をつうじて、一握りの戦犯に戦争の責任を押しつけ、自分たちの責任を回避するという傾向が存在したと思います。他方では、「戦犯裁判は、勝者である連合国による一方的なものであり、不当だ」と、戦犯裁判を否定することで日本全体の戦争責任を解除しようという動きもあわさって、日本社会のあり方や、当時の国民のあり方がきちんと問われないままにきたのではないでしょうか。

 その結果、いま日本の進路をみずから決めるのではなく、外圧で考えるという体質もできてしまいました。「戦争に負けたんだから、アメリカの言うことをきくのは仕方がない」などです。現在の靖国問題も、「中国にあれだけ言われるから参拝を控えたほうがよい」というとらえ方でいいのでしょうか。自分たち自身の問題だととらえるようにならなければならない。そういう日本人の戦争への向き合い方の問題点の一つの原因として、戦犯裁判の問題があるように思います。

  一九九八年に国際刑事裁判所設立条約が調印され、二〇〇三年に発足しました。これは戦争犯罪や人道に対する罪など重大な非人道的行為を犯した個人の責任を裁くための常設裁判所です。それ以前、九〇年代半ばには旧ユーゴとルワンダの国際刑事裁判所がつくられるなど、現在では、残虐行為や戦争犯罪を裁こうということが国際的に大きな流れとなっています。民衆レベルでとりくまれた二〇〇〇年の女性国際戦犯法廷の意味も大きかったと思います。

 犯罪が裁かれなかったということは、許されるべきではない犯罪が許されたということです。そうした犯罪を裁いてこそ、国際社会の意思としてそういったことを許さないということになるのです。こうした重要な意味が戦争犯罪を裁くということにはあります。その最初の大きな経験が、第二次大戦後の一連の戦犯裁判だったわけです。この裁判の問題点とうけつぐべき意義を、きちんと明らかにする必要があると思います。この戦犯裁判の問題は、戦後の日本人のあり方自身を考え直す重要な手がかりであると同時に、世界的に戦争や残虐行為を許さない国際的なとりくみのうえで重要な意味をもつものです。

 この点で、東京裁判については粟屋憲太郎立教大学教授などの仕事があり、私たちも基本的な資料に接することが可能です。しかし東京裁判は被告はたった二八人です。これにたいしてアジアでおこなわれたBC級裁判は、七カ国で五七〇〇人(これにソ連が加わります)です。アジアでおこなわれた犯罪を裁くという点ではBC級裁判が大きなウエイトを占めているのです。私は、数年まえ、イギリスがおこなった裁判について調査し、『裁かれた戦争犯罪』という本にまとめましたが、これまでほかに、信頼できる研究がほとんどありません。あらためて、その全体の概要だけでもまとめる必要があるとは思って、今回の『BC級戦犯裁判』にとりくんだわけです。

 

■戦争犯罪とは何か

  戦争犯罪という場合、第二次世界大戦の時点では、大きく言って、二つの内容がありました。

  一つは、「通例の戦争犯罪」と言われる戦争の法規慣例違反です。当時の世界では、戦争をおこなったとしても、戦争の中で、あまりにも非人道的なこと、犠牲が多くでるようなことはやめようという取り組みがすすめられていました。一八九九年と一九〇七年の「陸戦の法規慣例に関する条約」とその付属文書「陸戦の法規慣例に関する規則」(通称「ハーグ陸戦法規」)、一九二九年のジュネーブ条約などで、たとえば捕虜や戦闘力を失ったものを虐待するのを禁止することや、民間人を殺傷したり、その財産を略奪をしたりするのはやめようということ、毒ガス兵器などを使うことを禁じるというようなことが決められています。そして、被害国は、これらに反する行為を戦争犯罪として、その犯罪者をみずから設けた裁判所で裁く権利が認められていましたし、第一次大戦後は、戦争犯罪人を被害国に引き渡し、軍事裁判所で処罰する方式も国際的に認められるようになってきていました。

 戦争犯罪の二番目は、「平和に対する罪」です。第一次大戦で多大な犠牲を出した反省から、一連の残虐行為がおこなわれるのは戦争がおきるからであり、そうした戦争を計画、準備し、実行した政治指導者、あるいは軍の指導者の責任を問うことで、戦争に訴えること自体を禁止しようとしたわけです。通例の戦争犯罪ではどうしても現場の人間が裁かれることになります。しかし、むしろそうした状況を引き起こした政治指導者、軍の指導者の責任こそ問題です。そこから、とくに侵略戦争をおこなったことの責任を「平和に対する罪」という概念で定式化し、東京裁判やニュルンベルク裁判で裁かれることになったわけです。ただ、これについては、処罰の手続きが決まるのが四五年八月であり、それが事後法と批判される理由となっています。

  もう一つ、第二次大戦後の日本に対する裁判では、ほとんど適用されなかったのですが、「人道に対する罪」というものがあります。通例の戦争犯罪は、個々の残虐行為を対象にした考え方なのです。これに対し第二次大戦では、とくにナチスがユダヤ人の絶滅を図るというきわめて組織的、計画的な残虐行為をおこない、日本軍の場合も、個々の将兵の問題にとどまらない、同じような残虐行為がアジアの各地で同時に行われことなどから、個々の残虐行為の責任者を裁くだけでは対処できないという認識が連合国の関係者のあいだにひろがり、軍や国家の体質自身、あるいはそうした軍や国家をつくっていった政治指導者、軍の指導者の責任が問題になってきたわけです。さらにホロコーストの場合、その行為が戦前から、しかも自国民に対してもおこなわれていましたが、「通例の戦争犯罪」では戦争中の敵国民への犯罪しか裁けないという限界がありました。その結果、こうした組織的計画的な残虐行為を推進した指導者たちを裁くという「人道に対する罪」という概念がつくられたのですが、日本に対しては、この考え方はほとんど適用されませんでした。

 ■何が裁かれたのか

  戦犯裁判では何が裁かれたのか。そのなかで明らかにされた日本がおこなった犯罪はいくつかタイプにわけられます。

  一つは、アジアの民衆に対する犯罪です。日本軍による組織的集団的な住民虐殺が中国や東南アジア各地でおこなわれました。日本軍の占領に対して民衆の抵抗活動がおこなわれ、それに住民も協力するという状況の下で、日本軍は現地の住民全体を敵視しました。占領軍にとって住民全体が敵に見えてしまうという事態は、ベトナム戦争でも、現在のイラクのアメリカ軍でもおこっていることです。日本軍はゲリラ討伐という名目で出動して、その村民を女性や子ども、老人をふくめて虐殺をするという行為が頻発します。また、いったん捕らえて警察署や刑務所に留置をしたのちひそかに集団処刑するという場合もたくさんありました。

 こうした残虐行為は、従来の戦争にはあまりなかったことです。それ以前の戦争は「軍隊」対「軍隊」の戦争でした。第二次大戦は総力戦であると同時に、日本は民衆の抵抗を排する形で広範な地域を占領しました。日本軍は、連合国の軍隊だけではなく、占領地の民間人自体を敵として攻撃する状況に陥りました。誰が戦闘員なのか区別がつかなくなり、無差別に虐殺することが頻発しました。その一つの典型がシンガポールの華僑虐殺です。

 一九四二年二月一五日にシンガポールの英軍が降伏し、マレー半島全土を日本軍が占領下におきました。その直後、第二五軍司令官山下奉文は「敵性華僑を剔出処断」せよという命令を下しました。憲兵隊を中心としたシンガポール警備隊が市内の、近衛師団が市内を除くシンガポール島を担当し、一八歳以上五〇歳までの華僑男子は二一日までの指定された場所に集まるように布告が出されました。各検問所では簡単な尋問がおこなわれただけで、「抗日」とみなされた者はトラックに乗せられて郊外の海岸などに運ばれ、機関銃で射殺されました。この粛清の事実上の首謀者だった軍参謀辻政信は検問所をまわって、「何をぐずぐずしているのか。俺はシンガポールの人口を半分にしようと思っているのだ」と憲兵隊を激励してまわったと言います。この粛清を指揮したシンガポール警備隊長河村参郎の日記には、粛清の途中の二三日に憲兵隊長を集め、そこで「処分人数総計五千名」と報告を受けたことが記されています。戦後、日本軍関係者が作成した文書では約五〇〇〇人を、裁判にかけずに直ちに処刑したとしてされており、シンガポールでは四〜五万人が虐殺されたとされています。この事件にたいする裁判では、最高責任者の山下中将はすでにアメリカの別の裁判で死刑判決をうけており、実質的に主導した辻参謀は戦犯追及をおそれて潜行し、逃れていたため裁かれず、判決では二人に死刑判決、人に終身刑が言い渡されました。

 このシンガポールの事件後、マレー半島の各地で華僑の虐殺はくり広げられ、戦争の末期にはフィリピン、ビルマ、インドネシアなどでもこうした住民の集団的な虐殺が相次いだのです。

 戦犯裁判で裁かれたもののなかに連合軍の捕虜への犯罪があります。アジア太平洋戦争で日本軍の捕虜になった連合軍将は約三五万にのぼります。日本軍は国内外に捕虜収容所を設け捕虜を収容しましたが、その捕虜を移動させる過程で起きた大きな事件が「バターン死の行進」です。一九四二年四月フィリピンのバターン半島に立てこもっていた米比軍が降伏。彼らは収容所までの長い道のりを一部区間を除いて歩かされ、途中、飲食物をろくに与えられず、警備の日本兵から殴打されたりし、収容所にたどり着くまでに七万六〇〇〇人中約一万七〇〇〇人が死亡し、収容所についてからも犠牲者が続出しました。

 また日本は、捕虜を各地で強制労働に従事させましたが、泰緬鉄道の建設には約六万一八〇〇人の捕虜が投入されました。泰緬鉄道はタイのノンプラドックからビルマのタンビュザヤまでの四一五`の鉄道で、四二年六月大本営によって建設が決定され、直ちに着工、翌年一〇月に完成しています。人跡未踏のジャングルの山岳地帯であり、マラリヤなど熱帯伝染病の多発地帯に短期間に鉄道を建設するため、病気の捕虜までも作業に駆り出し、食糧も医薬品も欠乏するなかで約一万二三〇〇人の捕虜が犠牲になりました。また、ロウムシャとよばれたアジア人労働者二〇万人中四万二〇〇〇人(日本側推計)、あるいは七万四〇〇〇人(イギリスの推計)が死亡しました。
 こうした捕虜への扱いも戦時国際法に反する行為として裁かれたわけです。

 

■裁く側の問題と裁判の意味

 もちろん第二次大戦のなかでは、連合軍、とくにアメリカ軍も、戦争犯罪にあたることをたくさんおこないました。しかし、日本とドイツの犯罪のひどさはぬきんでていました。そのために被害をうけた中小国――主にヨーロッパ諸国ですが、アジアでいえば当時独立していた中国、その後にフィリピンが独立します――が、戦争犯罪者を裁判で裁くべきだと主張します。当初、アメリカやイギリスなどの大国は、ナチスドイツの指導者らについては裁判で裁くことは考えておらず、即処刑論に傾いていたのですが、こうした要求に押される形で、犯罪者を裁判で処罰するという方向に向かいました。

 裁判は、法に照らして事実を明らかにし、そして犯罪者を処罰するという手続きです。連合国が、自分たちの戦争は正義であるという建て前をとる以上、あくまでも正義、法に照らしてその犯罪者を処罰する手続きをとる必要があるわけです。連合国のなかからは、一国の利害を超えて国際社会として、きちんとした国際法廷で戦争犯罪人を裁こうという意見が出されましたが、現実のパワーポリティックスのなかで、国際法廷という形は、主要戦争犯罪人を裁いた東京裁判とニュルンベルク裁判にとどまり、それ以外は各国ごとに裁くという、当時の国際法で認められていたやり方でおこなわれることになりました。ただ、東京裁判などについて、「平和に対する罪」などは後からつくられた法律であるという批判的な議論がありますが、BC級裁判は、以前から確立していた戦時国際法にのっとって戦争犯罪人が裁かれたもので、こういう批判の対象にはなりません。

 BC級戦犯のすすめ方では、実際には、捜査や容疑者の逮捕で連合国間でいろいろな協力がおこなわれましたが、裁判規程は連合国それぞれの手で制定され、裁判は各国ごとでおこなわれるという形ですすめられました。フィリピンは、四六年に独立をかちとり、このフィリピンでも独立後に裁判がおこなわれました。

 当初、連合国は、戦犯裁判は、戦争が終わって早期に、一年か二年ぐらいで終わらせる予定だったのだと思われます。戦後処理のためには裁判だけに時間をかけるわけにいかないという判断でした。そのために、このBC級戦犯裁判は、裁判であるけれど、手続きは簡略化され、一審だけであるとか、被告の人権保障という規定が弱くなっていた点は問題として指摘されなければなりません。

 しかも戦争中の犯罪を、犯罪から何年もたった戦後に捜査をはじめるのですから、なかなか証拠が集まらず、犯罪人が特定できないとか、犯人を捕まえられないというケースも少なくありません。一方で、被害者からすれば”犯人を捕まえて処罰してほしい”という要求が強いわけですから、どうしても拙速になりやすくなり、比較的簡単な証拠で、有罪判決を出すという裁判自身の問題点が生じてきます。事実、人違いで処罰されたケースもありました。

 日本軍が犯した膨大な戦争犯罪のなかで、実際に証拠を集め、犯人を特定逮捕し、起訴までもっていったケースは限られています。同じような犯罪を犯しながら、実際に裁かれたものは少ない。すると裁かれた被告からすれば、なぜ自分だけが裁かれるのかという不公平感が生じます。とくに現場にいない上級の将校たちが、その残虐行為にかかわったことを証明するのは困難で、命令書が残っていない場合も多い(日本軍の命令書は抽象的で、具体的な内容は口頭でおこなわれ後に残らない場合が多い)。その結果、上級のものが裁かれないで、下級将校、つまり現場の末端管理職ばかりが裁かれるという傾向が強かったという問題もありました。  

 ただ、こうした問題がありながらも、この戦犯裁判がもっていた意味は決して小さくはないと思います。もし戦犯裁判がおこなわれなかったらどうなっていたでしょうか。あれだけの残虐行為がなされたわけですから、現地の人々は黙っていなかったでしょう。裁判をおこない責任者を処罰するということで、民衆や元捕虜の怒りを抑え、私的な報復を防いだという意味は大きいと思います。

 しかも裁判ですから、裁判をおこなった国の指導者の政治的思惑どおりに裁判官が判決を下したわけではありません。それなりに冷静な判断がなされ、無罪判決も全体の二割ていどあります。予想に反して軽い刑というのもたくさんあります。法による裁きは、裁いた国をも制約し、決して政治的な思惑通りにはいかないのです。戦争中には、重大な戦争犯罪人は捕まえたらすぐに処刑という意見がありましたが、それをおこなわず、裁判をおこなったことは重要だと思います。

 

■裁かれなかったこと  

 日本におけるBC級裁判に対する議論は、基本的に被告の言い分だけを聞いて判断する傾向があります。裁判ですから、裁判記録をはじめ裁いた側のいろいろな資料があります。また、被害者の声というのもある。アジアの民衆が被害者のケースが多いわけですが、裁いた国は、イギリスやアメリカ、オランダというその地域の人々を植民地として支配していた国です。植民地の宗主国がほんとうに被害者のことをきちんと考え、被害者の意見を反映していたのかは疑問です。だからこそ日本側の言い分だけでなく、裁いた側の資料、さらに被害者の資料もふまえ、事実はなんだったのかを確定する必要があります。もともと裁判では、人は必ずしも本当のことを言うわけではありません。自分に有利になる発言をすることは、裁判の手続き上ごく当然のことです。にもかかわらず、事実を明らかにするという基礎的な作業さえも、これまできちんとおこなわれてこなかったのです。

 膨大なBC級裁判のなかのいくつかを検討したかぎりでいっても、事実関係が明らかにされ、そこにかかわった責任者も特定され、納得できる判決が下されている場合もあります。他方裁判記録を読むかぎりでは、なぜこの人が有罪になったのかがよく理解できないような問題のある裁判もあります。一つひとつ検証していく必要があるのです。  

 同時に、私たちはこの戦犯裁判で裁かれなかったことの方がはるかに多いということを認識しておく必要があります。たとえば、先ほど紹介したシンガポールの華僑虐殺では、日本側の計で約五〇〇〇人、現地では四万人〜五万人虐殺されたという事件で、死刑がたった二人です。実際には、何百人、あるいはそれ以上の日本軍の将兵がかかわっていたにもかかわらず、それがほとんど裁かれなかったのです。

 マレー半島でも、数十人数百人規模の虐殺はあちこちで行われています。ところがそのほとんどが裁かれていません。強かん事件や、無理やり「慰安婦」にされた事件などもほとんど裁かれませんでした。毒ガスの使用もほとんど裁かれていない。つまり膨大な戦争犯罪が裁かれていないのです。

 もちろん、連合軍による戦犯裁判というやり方では、もともとすべてをカバーするには、スタッフという点でも、時間という点でも限界がありました。だからこそ問題は、私たち日本人がその後、どう対処するのかにあったと思います。裁かれなかった残された問題については、私たち日本人の責任のはずです。そのことを私たちが認識すべきだと思います。

 たしかに一握りの人だけが戦犯として裁かれたのは不公平です。犯罪は同じく裁かれるべきだったのですが、日本の犯した犯罪はそれができないほど大規模であったのです。そのことについて、その後の日本国民全体が真剣に考えるべきだったと思うのです。にもかかわらず、逆に、戦犯裁判の問題点を批判することによって、自らの責任そのものを解除してしまいました。私たちはこの責任に真剣に向かい合わなければなりません。

 

■加害の事実に向き合うことの意味

 たとえば南京虐殺について、日本軍の残虐行為はなかったという議論が横行しています。あるいは日本が東南アジアを独立させたという議論もくり返しおこなわれます。そのことによってあの戦争を引き起こし、遂行した日本社会のあり方への反省を避けています。つまり反省しないための議論です。

 南京虐殺はなかったという点については、いろいろな研究によって明らかにされていますのでここではふれません(『南京大虐殺否定論13のウソ』南京事件調査研究会編、柏書房などを参照)。東南アジアを独立させたという議論に対しては、たとえば、現代のインドネシア、マレーシア、シンガポールの地域は、一九四三年五月の御前会議で、日本の領土にするということを決定していることを指摘するだけで十分です(「大東亜政略指導大綱」)。これは、日本にとって必要なところは日本の植民地にするということにほかならず、これ一つをみても、このときフィリピンやビルマを「独立」させることを同時に決めたということが、たんなる政治宣伝目的以外の何ものでもないことがわかります。

 しかも、藤原彰先生が明らかにしたように、日本軍の兵士の死者の半数以上が餓死だったのです(『餓死した英霊たち』)。これは戦争だからおきたことではなく、自国の兵士に十分な食糧の供給も保障せずに戦場に送り出した軍の指導の問題です。当然、食糧をもたないで放り出された兵士たちは、住民がいるところでは住民から略奪するしかありません。住民も、日本軍に食料をわけることができるほど豊かではありませんから拒み、抵抗する。日本軍は、略奪に抵抗するものは殺していくことになったのです。他方、住民がいないジャングルでは餓死するしかない。こうした日本軍のあり方を反省しない議論は、自国の兵士たちをそのように追いやった日本の指導者たち、責任者たちの責任を見えなくし、免罪していくのです。

 日本は、一九三〇年代には、国民の多数が排外主義的になり、軍部だけでなく、国民が戦争を推進する一翼をになうことになります。そうした国民の拝外主義的なあり方についても問い直す必要があると考えています。また当時、戦争に反対する人々に対する弾圧がおこなわれ、多くの人が特高警察による拷問で傷つき、殺された人も少なくありません。そのことも問われなければなりません。そうしてこそ、侵略戦争をおこなった日本社会のあり方を、戦後の日本社会がきちんと克服できるのです。

 しかし、戦後の日本では、東條など一握りの戦犯がトカゲのしっぽきりのごとく切り捨てられただけで、戦争中の指導者の多くはそのまま政府の中枢部に残りました。瀬島龍三氏のような大本営参謀が戦後長い間、政界のブレーンになっていたのはその一例です。

 BC級裁判にかかわって言えば、当時、世界的に確認されたこととして、たとえ上官の命令であっても、人道に反する行為は罰せられるということがあります。上官の命令であっても不当な命令には従ってはならないというのが、民主社会の基本的な考え方なのです。しかし、そのことが、戦後の日本社会でどれだけ教訓として生かされているでしょうか。たとえば公務員でも企業でも、その機関、企業が犯罪や不法行為をおこなった場合に、内部告発をする、告発をした人が不利益を被らないよう保障される措置がどれだけされているのか。「日の丸・君が代」の問題を見ても良心をふみにじって強制がされる状況にあります。

 社会的な不正が横行し許されてしまう、あるいは個人の良心がふみにじられてしまうようなあり方、これは侵略戦争を遂行した社会のあり方が克服されず、その体質を引きずっているということの表れともいえるのではないでしょうか。

 侵略戦争に対する責任をとらないことは、被害者に対して償いをおこなわないということと同時に、あの戦争が自分たち自身に及ぼした問題をえぐり出し、自己改革をすることをしないということも意味します。戦争を正当化する議論は、日本社会の改革、すなわち自らの力による民主化を阻む議論なのです。

 岸信介氏は、中国人強制連行を国策としてすすめることを閣議決定したときの主務大臣です。孫である安倍晋三氏は大学入試センター試験で出題された朝鮮人強制連行にかかわる問題を攻撃しましたが、この朝鮮人強制連行は中国人のそれとセットであり、彼の議論はその正当化にほかなりません。町村信孝外相も、くり返し、かつての戦争を擁護する発言をしていますが、彼の父親の金吾氏は警保局の警務課長時代に日本軍「慰安婦」の募集に担当者として関与していたのです。九六年に吉川春子参院議員が、政府に出させた警察大学校の資料によると、内務省は軍と共謀してひそかに「慰安婦」を集め中国に送り出す計画を立て、各知事に指示しているのですが、県や警察が関わっていることがわからないように業者が自発的にやっているかのように装うように指示しています。米兵による性暴力被害をうけた沖縄の女性の訴えに対して、「一面的」だと批判を加えた外相の発言を聞くと、戦前から受けつがれている日本の政治指導者の体質というものをみることができるのではないでしょうか。

 戦争責任をとらないという日本のあり方は、アメリカとの軍事同盟とセットになって戦後展開されることになりました。日本の重要な戦争犯罪を裁かなかったのは、なによりもアメリカの政策的な意図が大きかったことは言うまでもありません。毒ガス戦について裁かなかったのは、明らかにアメリカ自身が今後毒ガスを使いたいという意図があったからでした。重慶などで日本が最初におこなった無差別空襲を裁かなかったことによりアメリカ自身も空襲という手段を正当化するようになります。日本の無反省は、同時にアメリカの戦争犯罪を批判しないということとセットなのです。

 いま自衛隊がアメリカ軍といっしょになって、戦争に参加しようとしています。ほんとうに日本が戦争犯罪を反省しているのならば、いまのアメリカ軍といっしょイラク戦争に参加することなど許されるはずがありません。捕虜に対する虐待や住民にたいする殺戮などイラクでアメリカ軍のおこなっている戦争犯罪を批判せず、アメリカを支持することは、まさに日本の戦争犯罪を正当化する議論とかさなるのではないでしょうか。しかも、戦犯裁判はナンセンスだったという批判の仕方は、同時に、現在の国際刑事裁判所はナンセンスだということとつながって、この国際刑事裁判所を拒否するアメリカの行動を正当化していくのです。

 たしかにBC級戦犯裁判には問題は少なくありません。しかし、あそこで裁判という手続きで、戦争犯罪を裁いたことの意義は小さくありません。そのことをもう一度見直すことは、日本のかつての戦争責任と向き合うことと同時に、これからの世界の平和をつくるうえでも大きな意味をもつことだと私は思っています。