『季刊戦争責任研究』第42号、2003年12月

 

資料紹介 記録された最も早い生物戦

          日本の戦争責任資料センター研究事務局(文責 林博史)


 これはアメリカの議会図書館で資料を見ていたときに、たまたま見つけたもので、興味深い資料だったので紹介したものです。この事実そのものはよく知られていることなので、特に新しい発見ではないのですが。 2006.2.14記


解説 

 戦争において細菌を利用する生物戦について興味深い文献があったので紹介したい。アメリカ陸軍の軍医部が出していた雑誌『米陸軍軍医部雑誌』一九四七年二月号の記事である。アメリカ合衆国の独立前のアメリカ先住民に対する戦争において天然痘を利用したというものである。この事実そのものはすでに知られているが、米軍の軍医部の機関誌において「記録された最も早い生物戦」として紹介されているのでその箇所を取上げた。ちょうど東京裁判が進行中の時期であり、アメリカが七三一部隊の関係者と密かに接触をはかっていた時期にアメリカ陸軍中央の軍医部の雑誌にこうした記事が出たことは興味深い。

 記事ではフレンチ・アンド・インディアン戦争(一七五五年〜六三年)の時のこととされているが、状況から判断すると、その戦争後のポンティアックの反乱(一七六三年〜六六年)の初期のころ、おそらく一七六三年のことと思われる。フレンチ・アンド・インディアン戦争で勝ったイギリスは、フランスからカナダ、ミシシッピー以東、フロリダを獲得するが、そのイギリスに対して反乱をおこしたのがポンティアックの反乱だった。ウエスト・バージニアからペンシルバニアにかけて横たわるアリゲニー山脈の西側の地域、オハイオ州やミシガン州などの地域で先住民の指導者ポンティアックに率いられて起こされた蜂起であり、当初は先住民側が攻勢に出ており、その際に苦境に陥ったイギリス軍側が天然痘を利用したことがわかっている。和平交渉の際にプレゼントの振りをして天然痘付き毛布を贈るというやり方には慄然とする。ここで天然痘を使ったのはイギリス軍であるが、この軍隊の主力は後のアメリカ独立戦争においてイギリス軍と戦い、アメリカ軍となっていくことにも留意しておきたい。

(注) ( )は原注、[ ]は訳者が付け加えた訳注である。
(
出典) The Bulletin of the U.S.Army Medical Department, Vol.7. No.2. February 1947, pp1731-1732.

[資料]記録された最も早い生物戦

  おそらく生物戦について最初の言及されたもの、少なくともそれを使用するように勧めたことがアレン・スターンとエスザー・スターンAllen E. & Esther W. Stearnの著書『アメリカ・インディアンの運命に与えた天然痘の影響The effect of Smallpox on the Destiny of the AmerIndian』に記されている。この中で、フレンチ・アンド・インディアン戦争においてこのようにして天然痘を利用しようとする考えが幾人かの軍司令官におこったことを示している。使用されたという証拠は次の通りである。  

インディアンの蜂起の間、アリゲニー山脈の西側のイギリス守備隊と駐屯地が破壊されるような企てがなされたとき、イギリス軍の最高司令官ジェフリー・アマースト伯[将軍]は、その戦力が限られていることを知り、さらに反乱の広がりと深刻さに困惑し、ブーケット[大佐]に送った手紙の追伸に、反乱をおこしている種族に天然痘を送り込むように指示した。ブーケットは、彼もまた追伸のなかで次のように答えた。「私は、いくつかの毛布を使って、私自身には病気が移らないように注意しながら、彼らに………[原文のまま]を植え付けるようにやってみましょう」。ブーケットが駐屯していたフォート・ピットで天然痘が発生したので、このことは容易になされることができた。ブーケットの追伸に対してアマーストは返事を書き、「この説得されやすい人種を絶滅させうるあらゆるほかの手段を試みるのと同様に、毛布を使ってインディアンたちに[天然痘を]植え付けることをうまくやれるだろう」。六月二四日、大英帝国アメリカ軍Royal Americansのエクアー大尉は彼の日記に次のように記している。「彼ら(すなわち二人のインディアン酋長)に敬意を表して、われわれは天然痘病院から持ち出した二枚の毛布と一枚のハンカチを彼らにやった。これが期待通りの効果を発揮するように望んでいる」。二、三か月後、天然痘がオハイオの種族らの間で大流行した。翌春になってからでも百人近くのミンゴとデラウエア、何人かのシャワノが天然痘で死んだ。
 この記録は、おそらく、組織化された軍隊による実際の生物戦実施についての最初の記録された事例である。この通信の正確な日付は記されていないが、多分、アマーストがポンティアック反乱で困難に直面していた一七六一年か一七六二年のことであろう。