『琉球新報』2005年2月10日

沖縄戦新聞 2月10日号 

コラム  住民保護策ないがしろ      林 博史


  琉球新報が「沖縄戦新聞」というユニークな企画を1年かけておこないました。それらはまとめて出版されましたので、ぜひ買ってみてください。その中で毎回、研究者が書くコラムがあり、そこに書いたものです。2月12日号というのは、1945年2月12日前後の状況をまとめたものですので、ここでは沖縄戦に突入する直前の状況について書いています。タイトルは編集部がつけたものです。 2005.11.4記


 第九師団が台湾に転出した後の四五年一月末、軍中央は本土決戦準備を優先し沖縄を事実上放棄することを決定した。
 この時期、沖縄に戒厳令を敷くかどうか議論されたが、島田知事が着任し県が軍に協力する体制ができたので見送られた。この結果、住民保護策がないがしろにされたまま沖縄戦に突入していった。

 日本軍の駐留が長引く中で食糧事情は悪化し、繰り返される徴用に割り当て人数を確保することも難しくなっていた。そうした状況下にもかかわらず本土からの支援を望めなくなった第三二軍は沖縄内部のあらゆる資源を根こそぎ動員することにし、同時に北部疎開も急がせた。軍の高圧的な姿勢はますます強まった。

 前年秋から軍と県・警察によって住民をスパイ視し、住民同士で監視密告させる体制つくりが進んでいた。移民帰りなどは警察や憲兵の監視下におかれた。住民虐殺の下地はこの時期に作られていった。
 三月一日には現地召集の初年兵が入隊し、さらに三月六日前後には大規模な防衛召集(一七歳から四五歳の男子対象)が実施された。第六二師団だけで五四八九名が召集された。このときの当該町村の召集待機者は計六九四〇名だった。西原では四六一人中四〇〇人、南風原では四一三人中三四〇人が召集されるなど、特別な職務についている者を除いて、少しでも動ける者は根こそぎ召集した。この三月初旬だけで約二万人が防衛召集されたと推定されている。戦前の徴兵による召集者が毎年二千人台だったのに比べるとその規模の大きさがわかる。

学徒隊もこの時期に動員された。県は女子生徒の動員には抵抗したが軍に押し切られた。師範学校女子部では一部の教員が反対し生徒たちにこっそりと疎開を進めたが、学校側は疎開しようとする者は非国民だ、これまで支給した奨学金を返せ、など脅迫まがいの圧力で生徒を動員した。他方で一部の学校では配属将校や教師が生徒を家に帰すなど密かに抵抗し生徒を守ろうとした。全体が戦争に駆り立てられるなかで良識ある行動を貫いた人たちの存在を忘れてはならない。

県は召集や徴用対象者が家族とともに疎開しないように監視の目を光らせながら、「足手纏いの老人子供病人」などだけで北部疎開をさせていった。長勇参謀長は新聞紙上で、「全県民が兵隊」になり「一人一〇殺」を実行するように煽った。全県民の兵士化をはかりながらも役に立たないものは見捨てられていった。米軍が上陸すると警察では米軍保護下に入った住民の動向を探り、敵への協力者を殺せとの指示まで出された。

 住民の生命や安全を守るという観点とその対策が欠落した根こそぎ動員が、住民の犠牲を大きくした重要な原因となった。

住民の安全確保のためには軍と住民を切り離さなければならない。今日の有事法制でも国民保護法があるとはいえまず戦争に必要な人材が徴用されるという発想に変わりはないし、住宅地と隣接している沖縄の基地状況を見ると住民の安全はまったく無視されている。沖縄戦から一体なにを学んだのだろうか。
 なおこの時期、愛楽園では軍と県の政策によりハンセン病患者の強制収容が進んで収容者は倍増し、食糧難などによって四四年末から死者が急増した。米軍上陸前より戦時体制による犠牲が生み出されていたことも忘れてはならない。