関東学院大学経済学部総合学術論叢『自然・人間・社会』第3637号、20041月・7

 

連合国戦争犯罪政策の形成―連合国戦争犯罪委員会と英米

 

                     林 博史

 

 

これは大学の紀要に書いた論文です。400字で200枚弱の長いものですが、一挙掲載します。アメリカで取ってきた英文の資料のコピーをかなり時間をかけて読んでまとめたものです。大変勉強になりました。ここで得られたものは、『BC級戦犯裁判』(岩波新書)を書くうえでとても役に立ちました。ファイルが大きいので、重たいかもしれません。 2005.8.1記 

     

 

 

 

要旨   本稿では連合国の戦争犯罪政策の形成過程について、連合国戦争犯罪委員会に焦点をあて、同時に連合国の中小国の動向、役割に注意し、かつイギリスとアメリカ政府の動向を合わせて分析する。枢軸国による残虐行為に対してどのように対処するのかという問題を扱うために連合国戦争犯罪委員会が設置された。委員会は従来の戦争犯罪概念を超える事態に対処すべく法的理論的に検討をすすめ、国際法廷によって犯罪者を処罰する方針を示した。だがそれはイギリスの反対で潰された。その一方、委員会の議論は米陸軍内で継承されアメリカのイニシアティブにより主要戦犯を国際法廷で裁く方式が取り入れられていった。委員会における議論はその後に定式化される「人道に対する罪」や「平和に対する罪」に繋がるものであり、理論的にも一定の役割を果たすことになった。だが当初の国際協調的な方向から米主導型に変化し、そのことが戦犯裁判のあり方に大きな問題を残すことになった。

 

キーワード   連合国、戦争犯罪、戦犯裁判、平和に対する罪、人道に対する罪、国際刑事裁判所、ニュルンベルク裁判、東京裁判、 

  

              

はじめに                           

T 連合国戦争犯罪委員会の設立

U 連合国戦争犯罪委員会の活動

V 連合国戦争犯罪委員会と英政府―国際法廷をめぐって

W 米政府内の政策形成  

X 疎外された連合国戦争犯罪委員会

おわりに

 

 

はじめに

 1980年代以降、欧米においてはニュルンベルク裁判研究が、日本においては東京裁判研究が進みはじめた。裁判資料の公開だけにとどまらず、アメリカならびにイギリスの関連する公文書の公開が進んだことによって、これまでわからなかった裁判に至る過程と裁判の舞台裏の状況が明らかにされてきており、資料に基づいた議論が可能になってきている。一方、BC級戦犯裁判についてはイギリス、アメリカ、オーストラリアなどで資料の公開は進んでいるが、その研究はまだ遅れていると言わざるを得ない。しかしいずれにせよ二つのA級戦犯裁判(ニュルンベルク裁判と東京裁判)とBC級戦犯裁判の双方を合わせて、第2次世界大戦後の戦犯裁判の全体像を明らかにしうる条件はかなり整ってきたと言えるだろう[1]

 本稿において取上げるのは、連合国の戦争犯罪政策の形成過程についてである。日本の議論ではA級を扱った東京裁判とそれ以外のBC級戦犯裁判という区分を自明の前提とした議論がなされているが、この区分そのものはけっして自明のものではなかった。そもそも何が戦争犯罪かという問題自体が戦時中においても明確であったわけではなかったし、さらにそうした戦争犯罪を犯した者をいかに扱うのか、たとえば裁判にかけるのかどうか、裁判にかける場合、どのような法を根拠にどのような法廷で裁くのか、ということも決まっていたわけではない。ニュルンベルク裁判方式が決まったのは19458月のことであったし、東京裁判についてはもっと遅れた。BC級戦犯裁判についても実際におこなわれたような形になるかどうか、必ずしも決まっていたわけではなかった。

 日本では戦犯裁判は、勝者の裁き、報復裁判、不公平な裁判などの言葉で語られることが多い。しかもその場合はたいていが日本側の言い分だけを鵜呑みにして、裁判記録そのもの、あるいは裁判をおこなった側の資料、被害者の主張や資料も見ずに一方的に断罪するものが多い。戦犯裁判の評価についてはこれまで論じてきたし、今後さらに論じたいと考えているが[2]、本稿との関連で言えば、戦犯裁判について議論する際には、なぜあのような戦犯裁判方式が取られるようになったのか、何があのような戦犯裁判を実現させたのか、そこにはいかなる意図が込められていたのか、など連合国の戦争犯罪政策の形成過程を分析する必要があると考える。

 連合国の戦争犯罪政策の形成過程については、ニュルンベルク裁判との関連で欧米で一定の研究の蓄積がある。日本では大沼保昭氏の先駆的な研究、近年では清水正義氏や日暮吉延氏の研究がでてきている[3]。東京裁判については粟屋憲太郎氏による一連の研究がある[4]。ただし欧米の研究ではもっぱらニュルンベルク裁判との関連に関心が集中し、日本の問題が視野に入っていないし、また非主要戦犯問題までは意識されていない。ただ連合国戦争犯罪委員会の役割については、これまではあまり評価されていなかったが、コチャヴィ氏が積極的に評価する議論を提出しており、そこから学ぶところが多い。日本の研究について言えば、大沼氏の研究は平和に対する罪の形成過程について貴重な成果であり、連合国戦争犯罪委員会について紹介した先駆的な研究であろう。日暮氏の研究は東京裁判を含めて連合国の戦争犯罪政策について取上げた最初の業績と言えようが、非主要戦犯問題が視野の外におかれているだけでなく、本稿で扱う連合国戦争犯罪委員会の役割がきわめて低くしか評価されていない。これは大国によるパワーポリティックスによって国際関係を説明するという氏の理論的枠組みから来ていると思われるが、大国以外の役割、法律家などの個人や非政府機関の役割が評価されない傾向がある。清水氏は、連合国戦争犯罪委員会の役割に初めて本格的に光をあてようとしており、人道に対する罪と共同謀議論の関連の指摘など学ぶところが多いが、まだまとまった議論が出されておらず今後の氏の成果に期待したい。

 連合国戦争犯罪委員会United Nations War Crimes Commission(以下UNWCCと略記)は、194310月に連合国17か国が参加してロンドンに設立され、1948331日まで存続した機関である。194411月から473月までは重慶にその下部組織である極東太平洋小委員会Far Eastern and Pacific Sub Commissionが設置されて活動をおこなった[5]UNWCCはその後の連合国の戦争犯罪政策に理論的にも実践的にも大きな影響を与えており、この委員会の検討は重要であると考えるが、UNWCCについてのまとまった研究はまだなされていない。

そうした研究状況をふまえ、本稿では連合国の戦争犯罪政策の形成過程について、連合国戦争犯罪委員会に焦点をあて、同時に同委員会を足場に主張を展開しようとした中小国(そのほとんどがドイツと日本の残虐行為によって大きな被害を受けた国々)の動向、役割に注意し、かつイギリスとアメリカ政府の動向を合わせて分析したい。その際、コチャヴィ氏の連合国戦争犯罪委員会への一定の積極的評価を受け継ぎながら、日本との関連、非主要戦争犯罪との関連にも留意する。このことを通じて、戦犯裁判とは何だったのかという議論への一つの材料を提供したい[6]

 

T 連合国戦争犯罪委員会の設立

1 戦犯処罰への動き

ヨーロッパにおけるドイツによる、特に東ヨーロッパに対する一連の残虐行為、あるいは日本による中国さらには東南アジア諸地域における残虐行為は、これまでの戦争からは推し量ることのできない大規模で組織的なものであり、こうした残虐行為をどのように扱うのかは、連合国にとって大きな問題であった。現実におこなわれている残虐行為と戦時国際法で言う戦争犯罪とはどのように関連するのか、残虐行為の実行者のみならず計画者や命令者をどのように扱うべきなのか、など従来の戦時国際法では対応しきれない状況が生まれた。何が戦争犯罪なのかということ自体が自明のことではなかったし、誰が誰をどのような法理と手続によって処罰することができるのか、ということも明確ではなかった。しかしこうした一連の残虐行為を抑え、さらに将来の再発を防止し、犯罪者を処罰しなければならないという声は被害国を中心に噴き出てくることになる。

まず日独伊の枢軸国による残虐行為に対する連合国の動きから見てみよう。

最初の政府による声明としては、194011月にポーランドとチェコスロバキア政府が出した共同宣言を挙げることができるだろう。両亡命政府は、本国でドイツによっておこなわれている暴行と残虐さは人類史上、例を見ないものであると厳しく非難した[7]

19411025日ルーズベルト米大統領とチャーチル英首相は同時にそれぞれ声明を出し、その中でドイツが各地でおこなっている残虐行為を指摘し、チャーチルの声明のなかでは「これらの犯罪の懲罰は今や主要な戦争目的の一つに数えられるべきである」と宣言した。

これに続いてソ連も1125日モロトフ外相がナチスの残虐行為を非難する声明を出して英米の動きに歩調を合わせた。

最初の大きな動きとして注目されるのは1942113日のセント・ジェームズ宮殿における宣言である。ベルギー、チェコスロバキア、自由フランス、ギリシャ、ルクセンブルグ、オランダ、ノルウェー、ポーランド、ユーゴスラビアのヨーロッパの9か国がロンドンのセント・ジェームズ宮殿に集まり、ドイツによって行われている市民に対する暴力を非難し、「組織された裁判の手続によって、これらの犯罪につき有罪で有責の者らを、かれらが命令したか、実行したか、あるいはその他の方法でこれに参加したかを問わず、処罰することを主要な戦争目的の中に入れる」ことを決議した。連合国間において、残虐行為の犯罪者の裁判による処罰を宣言した最初の公式宣言であると言える。なお主な大国はオブザーバーとしてこの会議に出席していた。

オブザーバーとして出席していた中国代表のウン・キンWunz Kingは、中国政府はこの宣言で示された諸原則に同意する旨を表明し、中国にいる日本の占領者たちにも同じ原則を適用する意思を表明した[8]。なおソ連も後にこの宣言に同意した。

このセント・ジェームズ宮殿の会議に出席した国々はいずれも本国をドイツによって占領されており、亡命政府の代表が集まった。ヨーロッパ大陸がドイツに占領されてしまっている状況下で、それらの亡命政府はイギリスにいるしかなかった。その結果、それらの政府の声、残虐行為の関係者を処罰せよという声は、誰よりもイギリス政府に対して向けられることになった。イギリス政府は戦争犯罪問題で何らかの行動を余儀なくされていくのである。

1942107日にルーズベルト大統領とサイモン英大法官とが、連合国戦争犯罪捜査委員会United Nations War Crimes Commission for the Investigation of War Crimesを設立することを同時に声明した。ルーズベルト大統領は、「すべての入手しうる証拠を収集し、これを評価することによって、有罪である個人の責任を確立する目的をもって、わが国の政府は、連合国戦争犯罪捜査委員会を設けるために、英国その他の国の政府と協力する用意がある」と声明した[9]

この委員会の設置については、すでに同年6月にチャーチルがアメリカに対して設置を示唆しており、71日の戦時内閣においてチャーチルが設置を提案し、議論を経て7月6日の戦時内閣において承認し、同時に戦争犯罪人の扱いに関する内閣委員会を設けることも決定した。後者の委員会はイギリス政府としての戦犯問題への政策を明確にするために設けられたものであるが、この設置を決める過程での議論において、イーデン外相もサイモン大法官もともに戦犯処罰のための国際法廷を設置することには反対の意思を示していることが注目される[10]

イギリス政府のこうした対応の背景にはポーランドやチェコスロバキアをはじめとする亡命政府からの強い要望があったことが指摘できるだろう。アメリカ政府も事情は同じであった。こうしたドイツの被害を受けている中小国の要求に英米が動かざるを得なくなった、その一つの結果がUNWCCの設置であると言ってよいだろう(名前がやや違っている点は後で述べる)。また同時に香港など日本軍によって占領された地域での、日本軍による英将兵や市民に対する行為の情報が入ってきており、イギリス政府としても戦争犯罪問題に取り組まざるを得ない状況が生まれつつあったことも指摘できる[11]

 

2 連合国戦争犯罪委員会の発足

19431020日にロンドンで17か国が参加して開催された外交団会議において、委員会の設立が合意された。参加国はオーストラリア、ベルギー、カナダ、中国、チェコスロバキア、ギリシャ、インド、ルクセンブルグ、オランダ、ニュージーランド、ノルウェー、ポーランド、南アフリカ、イギリス、アメリカ、ユーゴスラビア、フランス(自由フランス委員会)であった。

1026日に第1回の会議がおこなわれた。UNWCCは3回にわたって非公式会議をおこなったのち、1944111日に最初の公式会議をおこない、議長にはイギリス代表のセシル・ハーストCecil Hurstを任命し、本格的な活動に入っていった。

ところで米英がUNWCC設置を宣言してから、実際の設立までほぼ1年もかかっている。その理由として指摘されているのは、一つは、第一次世界大戦後にライプツィヒ裁判が失敗した経験から戦争犯罪問題で具体的な対策に乗り出すことに消極的であったことである。第二にソ連の参加問題である。ソ連は、ソ連邦内の共和国であるバルト諸国などをUNWCCに参加させるように主張し、その問題をめぐってイギリス政府との間で交渉が続けられた。英連邦がオーストラリアやカナダ、インドなどを独立した代表としてUNWCCに参加させるのであれば、ソ連内の共和国も参加させるようにとの要求である。イギリス政府はソ連の要求は認められないとして交渉は難航し、その結果、ソ連なしでUNWCCは発足することになった[12]。ソ連の要求がどこまで本音であったのか、判断は難しいが、戦争犯罪問題で制約を受けたくなかったのかもしれない。

イギリス政府はさきほど述べたような理由からUNWCC設置に動くのだが、戦犯問題についてすぐに実際の行動に出るつもりはなかったようである。UNWCCへの参加をめぐるソ連との交渉のなかで、ソ連はただちに戦犯処罰を開始することを主張するが、イギリスはそれに反対していた。すでにドイツによる残虐行為によって多数の犠牲を出しているソ連との温度差が示されている。イギリスがすぐに行動にでることに躊躇していた理由は、ドイツあるいは日本に捕らわれている捕虜への報復を恐れたためであった。ドイツも、捕えた英米の捕虜、特に空襲をおこなった航空機の搭乗員を戦犯として処罰するという脅しをかけていた[13]。それまでの戦時国際法の理解では、戦争犯罪人の処罰は戦争中に被害国がそれぞれ裁判をおこなうことが通例とされていた。つまり相手国の犯罪行為を処罰することによって、犯罪行為を抑制しようというものだった。しかし第2次世界大戦においては、逆に自国の将兵が処罰されてしまうことを恐れて、戦犯処罰を控えるという事態が生まれていたのである。その結果、戦犯裁判は一部が戦時中におこなわれたのを除いて[14]、圧倒的多数が戦後に行われるということになった。

ところでこのUNWCCの創設とほぼ同時に重要な宣言が出された。それは19431030日に作成され、111日に発表されたモスクワ宣言であり、その中で戦争犯罪人の処罰の原則が定められた[15]。「ルーズベルト大統領、チャーチル首相及びスターリン首相により署名された残虐行為に関する声明書」と題されたこの宣言では、「ドイツ国に樹立されることあるべきいかなる政府に対し、いかなる休戦を許す場合にあっても、前記の暴虐、虐殺及び処刑に対して責任を有し、又これに任意に参加をしたドイツ軍将兵及びナチ党員は、解放された諸国及びそれらの諸国内に創立されるべき自由な政府の法令により裁判され、かつ、処罰されるため、彼らの憎むべき行為の行なわれた諸国に送還されるべきである」と宣言し、また「前記の宣言は、その犯罪が特定の地理的制限を有せず、かつ、連合国諸政府の共同決定により処罰されるべき主要犯罪人の場合に影響を及ぼすものでない」と付け加えている。つまり、犯罪を犯した者は、被害国による裁判によって処罰されるということが原則として確認されたのである。ただし「特定の地理的」な犯罪者とは言えないような犯罪人、つまり国家や軍、ナチスの指導者たちの扱いについては今後の決定事項として先送りしている。

 さてこうしてUNWCCが設置されたのであるが、英米の思惑通りにはUNWCCは動かなかった。発足当初からUNWCCに集まった各国代表たちと英米両政府、特に英政府との間の考え方の違いが露呈していくことになる。その経過は次章で見てみよう。 

 

U 連合国戦争犯罪委員会の活動   

1 UNWCCの性格をめぐる論争

 UNWCCの性格をめぐって19431020日の外交団会議において早くも議論が起った[16]。この会議の召集者であるイギリス政府を代表して議長を務めたサイモン大法官はUNWCCの目的として2点挙げた。第1に戦争犯罪を捜査しその証拠を記録し、可能であれば責任者を特定すること、第2に十分な証拠を得ることが予想できると見られるケースを関係国に報告すること、である。サイモンは、UNWCCの任務は予備的な捜査活動であり、戦争犯罪人を裁判にかける手続に関わることは後の段階で関係国が決定する問題であると述べ、UNWCCはあくまでも捜査、特に情報収集の実務のみをおこなうことが強調された。そして戦争犯罪人の裁判と処罰について、UNWCCとは別に専門委員会Technical Committeeという法律専門家による委員会を設置するつもりであると説明した。しかしこの説明に対して、オランダやノルウェーから二つの委員会の間で軋轢が生じるかもしれない、専門委員会はUNWCCの中の小委員会であるべきだなどと異論が出された。ただこの会議ではとりあえずはイギリス政府の提案通りに承認し、UNWCCの設立が決定された。

 1026日に開催された第1回非公式会議は、各国代表の意見を交換する目的で開かれた。ここでUNWCCの任務をめぐって重要な議論がなされた。まず戦争犯罪とは何かという根本的な議論が提起された。チェコスロバキアのエチェルBohuslav Ecerは、「一つの村を絶滅させるような行為は“戦争犯罪”ではないが、ルーズベルト大統領やチャーチル氏、イーデン氏が言ったように裁かれなければならない。それゆえもっと広い概念の“戦争犯罪”が必要であると考える。(中略)“戦争犯罪”は過去の概念であり、総力戦Total warの手段によって凌駕されてしまった」と戦争犯罪概念の拡大を提起した。オーストラリアのアトキンLord Atkinはエチェルの議論を受けて、犯罪のリストを準備すること、法廷について決定すること、証拠の性格を決定することを提案した。ポーランドのグレイサーStephan Glaserは法廷の問題はきわめて重要であると指摘した。

 さらに、専門委員会はUNWCCの下部の小委員会にすべきだという議論に展開していった。後に議長になるイギリス代表のセシル・ハーストも専門委員会という名称は誤解を招くと認めざるをえなかった。

 またベルギーのバエルMarcel de Baerからは、戦争犯罪にとどまらず、戦争という犯罪Crime of WarUNWCCは扱わないのか、という提起がなされ、エチェルからは、戦争犯罪は各国の裁判所が裁くという原則には同意しながらもそこでは扱えない犯罪や被告については連合国間の国際裁判所が必要であるという意見も出された。

専門委員会について、第2回会議でハーストは、法的問題を他の機関に問い合わさなければならないとするとUNWCCの仕事が絶えず停滞してしまうこと、このUNWCC自身が法律家たちの組織であり何人かのメンバーはUNWCCに小委員会を設置してそこで法的問題を検討したいと望んでいることなどを指摘し、各国代表に対して、この問題で各国政府の見解を確かめるように要請した。

この会議において、戦争犯罪とは何かを例示する具体的なリストについて、1919年に採択された32項目のリストを暫定的に使用することを承認した。その理由としては、日本とイタリアがそのリスト作成に参加していたこと、ドイツがそれに反対しなかったことを挙げている。

4回会議(1944111日)は最初の公式会議とされており、外交団会議において確認されていたようにイギリス代表のセシル・ハーストが議長に選ばれた。第5回会議(118日)において、ハースト議長は、イーデン英外相からのメッセージとして、専門委員会を設置しないことを外相のアドバイザーたちが同意したこと、ただし他の政府がそれに同意するように確認してほしい旨を報告した。かくして「連合国戦争犯罪委員会は戦争犯罪を扱う、連合国を代表する唯一の機関」(ハーストのコメント)となったのである。なお第6回会議においてほかのどの政府も専門委員会不設置に異論を唱えないことが確認された。UNWCCの役割を戦争犯罪の情報収集だけに限定しようとしたイギリス政府のもくろみは早くも潰れ、裁判所問題をはじめ戦争犯罪(しかも旧来の戦争犯罪概念を超えて)の処罰まで含めてUNWCCは自らが扱おうとし始めたのである。ここにすでにイギリス政府との対立が浮かびあがってきていた。この委員会の名称が当初は、連合国戦争犯罪捜査委員会と呼ばれていたのが、連合国戦争犯罪委員会と呼ばれるようになったのは、こうした性格の変化の表れであった。

第6回会議(125日)では、チェコスロバキアのエチェルから、事実証拠小委員会、執行小委員会、法律問題小委員会の3つの小委員会を設置する提案がなされ承認された。この提案のなかでエチェルは、戦争犯罪人のリストをUNWCCが作成すること、さらにはリストがあっても司法的行政的機関がなければ意味がないことを指摘した。第1次大戦後、連合国は戦争犯罪人リストを作成したが、平和条約の条項においてさえも犯罪人を逮捕し裁判にかけるための司法的行政的機関を設置しなかったことが失敗を招いたのであり、その大きな失敗を繰返さないために、連合国政府に勧告するのがわれわれの使命であると強調した。そして「地理的にもまた他の意味においても国際的な性格を持つ、連合国刑事裁判所United Nation’s Criminal Court」を設立するように訴えた。そうしたUNWCCの任務は、「連合国の戦後の協力のための将来の国際機関の設立のために、また国際的な無法状態に対する闘いにおいて最も効果的な武器としての国際正義の発展にも広範囲に及ぶ影響を与えるだろうと確信している。このことは、多くの最高の法律家たちが―そのなかにはわれらのセシル・ハースト議長も含まれる―生涯の仕事として一身を捧げてきた、この問題の解決を促進するだろう」と提案を締めくくった。

専門委員会については不要とするUNWCCの意見をあらためて英外相に伝えることが確認され(第7回会議)、ハーストが英外務省の担当者にその旨を伝え、同意を得た。その結果を第8回会議(28日)に報告したハーストは、UNWCCの権限について、「戦争犯罪人に関して生じる諸問題についてできるかぎり関係国政府にUNWCCが勧告をおこなおうとするならば、そのことがUNWCCの権限を超えているという理由での反対を恐れる必要はない」と述べ、UNWCCの役割を限定的に解釈せず、戦犯処罰のために必要なことに積極的に取り組もうと呼びかけた。当初はイギリス代表としてイギリス政府の意向に沿って動こうとしていたハーストではあるが、初期の時点から国際法律家として積極的に戦争犯罪問題を取上げようと意思表示をおこなったと言ってよいかもしれない。ただこの時点ではイギリス政府の意思に反しているとは思ってもいなかったのではないかと見られるが。

UNWCCの議論をリードした一人としてアメリカ代表のハーバート・ペルHerbert C. Pellを挙げられる。執行小委員会の議長になったペルは、第9回(215日)会議に、小委員会を代表して、戦争犯罪の処罰のために、各国の法制度のギャップを埋め、法制度を統一し、国際裁判所の設立のような国際的な行動などについての勧告をおこなううえでの必要な情報を収集するために、各国の法制度について問い合わせるように各代表に要請した。翌第10回会議(222日)において、ペルは、執行小委員会の任務の必要な予備作業として、本委員会の許可を得て、国際裁判所の組織についての議論を開始したいと申し出た。ハースト議長は、英法務長官の本委員会への出席の約束を得られないので、小委員会に議論をこれ以上待つようには言えない、と答え、議論開始を認めた。第8回会議においては、当面国際裁判所の問題は取上げないという理解であったのだが、わずか2週間で覆されてしまった。

12回会議(37日)には三つの小委員会より作業状況が報告されている。執行小委員会では枢軸国から連合国への戦争犯罪人の引渡しならびに連合国間の犯罪人の交換について議論していることが報告された。法律問題小委員会では、戦争犯罪の定義、上官の命令に従ったという申し立て、各国の法制度のギャップ、集団的犯罪責任、についてそれぞれ報告者を指名して検討に入ったことが報告されている。

この時期、ヨーロッパ大陸は依然としてドイツの支配下にあった。連合軍がノルマンジーに上陸し、南方からはローマを占領したのは446月であり、8月にソ連が解放したルブリン強制収容所に報道陣が入り、強制収容所の実態が紹介されるようになる。そのためまだこの時期は、ドイツの残虐行為について断片的な情報は伝えられていたが、戦争犯罪人を特定できるような具体的な証拠を集めることは難しかった。そのためUNWCCは戦争犯罪人のリストを作ろうにも作れず、本来の第1の目的であった証拠の収集と戦争犯罪人の特定、リスト作りがほとんど進まない状況にあった。会議においても「証拠が集まらないので、戦争犯罪人のリスト化が進まない」と嘆く声が幾人ものメンバーから出される状態であった(第14回会議)。

その後、822日の第28回会議では事実証拠小委員会より、255335人のケースがUNWCCに報告されていることが報告されている。実際に最初の戦犯リストが作成されるのは、19441122日(第40回会議)を待たねばならなかった。そうしたこともあり、UNWCCの議論は実務上の問題よりは、戦争犯罪をいかに扱うのか、という根本的な問題に集中していくことになった。

 

2 UNWCCにおける主な議論

以下、UNWCCでおこなわれた主な議論について紹介しておきたい。なお国際法廷をめぐる議論は次章で扱う。

まず戦争犯罪概念の問題である。さきに第1回会議でのエチェルの議論を紹介した。法律問題小委員会において集団的犯罪責任collective criminal responsibilityが検討課題として取上げられ、エチェルが報告者に指名されていた(M12)。第13回会議(321日)においてフランス代表グローAndre Grosの提出した文書が代読された。そのなかでグローは「こうした観察から引き出される結論は、(戦犯)リストの編さんは状況の現実性が求めるものではない。戦争犯罪人のリストを作成することは1918年には良い考えだったかもしれない。なぜなら犯罪は個人が責任を負うことのできる範囲内のものであったからだ。何十万人もの人々が、何百万人もの他の人々を死に追いやり、あるいはテロをおこなっているというこの1944年においては、その犯罪は個人の犯罪人のリストでは妥当でないほどに集団的性格を負っている。たとえかりに連合諸国の政府がすべての個人の犯罪を明らかにしたとしても、ドイツが犯罪者である残虐行為はそれらの犯罪の合計で量られるものではない。ドイツの系統的犯罪組織が犯罪者である」と主張している。

同様の議論はユダヤ人への迫害についての審議のなかでもなされている。7月にハースト議長は世界ユダヤ人協会World Jewish Congressと懇談をおこなっているが、その際に協会から渡された覚書の中で、「ドイツに占領されたそれぞれの地域におけるユダヤ人になされた犯罪について言えば、連合国の各政府から提出されたような証拠を単に集めただけでは、ヨーロッパ・ユダヤ人の絶滅という犯罪についての正確な像を得ることはできない」と述べられている(M25)。こうしたユダヤ人団体との意見交換を経て、ハースト議長は、さまざまな占領地でユダヤ人に対しておこなわれた個々の行為を結びつけるために、ユダヤ人絶滅策を全体として扱ったレポートが要るかもしれないと考えるようになった(M27)。

法律問題小委員会が516日付で作成した「連合国の懲罰行動の範囲」と題したレポートでは、戦争犯罪の概念として次の4つを挙げ、それらはUNWCCの管轄に入るとしている。

「1 これらの犯罪が犯された領域に関わらず、戦争を準備し、あるいは開始する目的をもって犯された犯罪

2 容疑者の階級がいかなるものであろうと、連合国内で犯された犯罪、ならびに連合国外あるいは空中あるいは海上において連合国の軍隊構成員あるいは民間人に対してなされた犯罪

3 犯罪が犯された場所に関わりなく、人種、国籍、宗教または政治的信条を理由に、国籍の如何を問わず無国籍者を含む、いかなる人間に対して犯された犯罪

4 平和の回復を妨害するためになされる犯罪」

このレポートは、清水氏が指摘するように後のニュルンベルク裁判の管轄規定の原型ともいえる内容であった[17]。言うまでもなく、平和に対する罪、通例の戦争犯罪(戦争の法規慣例違反)、人道に対する罪、の3類型であり、第4項を除いて1〜3がそれぞれに対応している。

この提案は523日(第19回会議)に提出され審議された。賛成意見が出されたが、ただ各国政府がどう考えるのかという疑問が出された。その結果、ユダヤ人迫害問題を取上げることについて、イーデン英外相に問い合わせることが確認された。このイギリス政府とのやりとりは次章で検討したい。

犯罪の犠牲者の国籍問題も重要な問題であった。従来の戦争犯罪概念では、敵国民に対する犯罪のみが戦争犯罪とされていた。自国民をどのように扱うのかは国家主権の内部の問題であり、自国民に残虐行為をおこなっても国際法では問題とされなかった。しかしドイツによるユダヤ人に対する残虐行為は、ポーランドのようなドイツの敵国民であるユダヤ人に対してだけでなく、ドイツやオーストリアなどドイツ国籍や枢軸国籍のユダヤ人に対してもおこなわれていた。また従来の戦争犯罪概念は、個々の将兵らが個別におこなう行為を問題にしていた。したがってその具体的な行為に関わった者たちを裁くことで処理できると考えられていた。19441024日にUNWCCのアメリカ代表であったホジソンJoseph V. Hodgson中佐がマックロイ陸軍次官補に送った連合国戦争犯罪委員会についての報告のなかで次のように問題を整理している[18]

「敵によって起こされた多くの蛮行は、以前の戦争の際に生じたような単に個人または個人のグループによる犯罪的行為と見なすことでは理解できない。もちろんそういう性格のものもある。しかし一番特徴的なのはそれではない。現在の戦争をこのように残忍なものにしている特徴点は、ベルリンから命令された政策を追及するなかで、きわだったタイプの犯罪が持続的に繰返されていることであり、それらは一定の目的を達成するために計画され、この目的のために意図的に命令ないし奨励されている。その例はユダヤ人に対する迫害作戦であり、ポーランド人知識人に対する作戦、強制収容所での恐怖、人質の大量処刑、戦争捕虜の虐待、ゲシュタポとSSによる恐るべき虐殺、そして民間人の大量追放である。」

 つまりドイツがおこなっていることは、個々の将兵による行為ではなく、ドイツという国家あるいはナチスという国家と一体となった組織が組織的体系的におこなっていることであり、末端の犯罪現場の命令者や実行者を処罰するだけではとうていすむ問題ではないという認識である。そうした認識から、個々の犯罪ケースの容疑者だけでなく、国家やナチ、SSなど組織の幹部を戦争犯罪人として裁くことこそが不可欠であるという認識が生まれてきた。

 そしてそうした国家ぐるみの残虐行為を実施するような戦争を準備、開始、遂行したことそのものを裁くべきであり、そうした責任者を主要戦争犯罪人として処罰すべきであるという議論がなされていくのである。

法律問題小委員会では侵略戦争は戦争犯罪ではないという意見が多数を占め、それが多数意見レポートとして、戦争犯罪であるという意見は少数意見レポートとして本委員会に提出されて議論された。少数意見を提出したエチェルの議論は、いま紹介したような認識に立つものと言ってよいだろう(M35)。エチェルの意見を支持した中国のウン・キンは「ドイツと日本の侵略戦争の張本人たちがしかるべく罰せられなければ、戦争犯罪人を処罰しようとする努力が戦争を防止する効果はなくなってしまうだろう。そして別の戦争がおきたならば、こうした残虐行為はもっと大規模に、そしておそらくもっと非道なやり方で繰返されることになるだろう」と主張した。UNWCCにおける議論は主にドイツを念頭に置かれてなされていたが―構成国の多くがヨーロッパでドイツによって祖国が蹂躙されていた国であるから当然であるが―、しかし中国やオーストラリアなどは日本による残虐行為を念頭においてその議論に加わっていたことを忘れてはならない。中国の議論ではしばしば日本についても言及されており、主要戦争犯罪人についての証拠を集め、彼らも戦犯リストに載せようとする提案が議論されたときには、中国のウン・キンは「ヒロヒトや東条のような人間を処罰しないままにすますべきではない」とその提案を支持する発言をおこなった(M33)。

侵略戦争は戦争犯罪ではないとした多数派意見においても、その時点における国際法の理解としてそう判断していただけであり、そうした広範囲で組織的な残虐行為の深刻さは認めていた。またそうした指導者を何らかの方法で、政治的処置のように罰することには異論はなかった(M35)。また清水氏が正当に議論しているように、後にアメリカから提起されてくる共同謀議論はこうした組織的系統的な残虐行為(後に人道に対する罪として定式化される)の責任者を一挙に裁くための便法として提起されてくるのである[19]

侵略戦争は戦争犯罪かどうかという議論は、1010日と17日(第3536回会議)に議論された。ハースト議長も少数意見レポートを支持し、戦争犯罪であると認めようとする意見が議論をリードした。また戦争犯罪であるかどうかは別としても全体として侵略戦争の主導者たちを罰すべきであるという点ではそれほど異論はなかったが、いくつかの国から本国政府の考えを確認する必要があるという意見が出され、審議を6週間延期することとなった。126日(第41回)に再度取上げられたが、また継続審議となり、結局、UNWCCではこの問題での結論を出すことはできなかった。この背景には、イギリス政府、特にUNWCCとの窓口になっていた外務省が侵略戦争は戦争犯罪ではないという見解を持っていたこと、アメリカ政府もこの問題をUNWCCで決定しないように棚上げを求めていたことがある。アメリカ政府はWで紹介するように11月の時点で、侵略戦争を戦争犯罪と認めるかどうかについて決定できなかった。そのためスティムソン陸軍長官はUNWCCがこの問題で決定しない、つまり採択しないように国務長官を通じてUNWCCの米代表に指示していたのである[20]

 もう一重要な問題として上官の命令問題がある。つまり上官(あるいは上司)の命令に従って戦争犯罪をおこなった場合、その実行者に責任が問われるのかどうかという問題である。実行者はしばしば命令に従っただけであるから自らは無罪であると申し立てるので、それをどのように扱うのかということが問題となった[21]UNWCCにおいても第6回会議(44125日)にエチェルが三つの小委員会設置を提案した際に、議論すべき問題の一つとしてこの上官の命令問題を挙げていた。その後、くりかえし議論されていくが、最終的には1945328日(第54回会議)において「上官の命令の申し立てについてのレポート」が採択された。そこでは、連合国のそれぞれが異なった規則を採用していることや、犯罪者を免責するのか刑罰を軽減するのかは個々のケースの状況によって異なることなどを考慮し、「UNWCCは原則も規則も有効に提出できるとは考えない」としたうえで「上官の命令にしたがって行動したという事実だけでは戦争犯罪を犯した者をその責任から免責しないという見解を満場一致で支持する」としている[22]

 この考え方はすでに第1次世界大戦後の1919年に設置された「戦争開始者責任および刑罰執行委員会」において表明された考え方の延長線上にあった。英米両国は上官の命令に従った場合には免責される旨の内容の軍マニュアルを持っていたために他の連合諸国から批判を受け1944年末までにこの考えに沿って軍のマニュアルを改訂していた。UNWCCの決定はそれより遅れたが、その議論が英米両政府の改訂に影響を与えたことは予想できる。

 

3 UNWCCのメンバー

 ここでUNWCCの主なメンバーについて見ておきたい。

 まずイギリス代表である議長のセシル・ハーストは常設の国際司法裁判所の判事であった人物であり、英外務省の法律顧問も務めた経歴の持ち主だった。アメリカ代表であるハーバート・ペルは、学生時代からルーズベルトと知り合いであり、ニューヨーク州選出の下院議員も務め、ルーズベルトの選挙運動でも活発に動き、ポルトガルとハンガリー公使も務めた。彼はルーズベルトとの政治的個人的関係からUNWCCへの米代表に選ばれたようであり、そのため国務省との関係はよくなかった。ニューヨーク州選出の下院議員であったことからもユダヤ人団体とは関係が浅くなかったようである。

 UNWCCのメンバーには、戦時国際法に関する非政府国際組織あるいは国際会議において重要な役割を果たしていた人物が少なくなかった。たとえばケンブリッジ大学法学部Faculty of Law of Cambridge Universityのメンバーを中心にヨーロッパの法律家を含めて組織された、「刑法の再建と発展についてのケンブリッジ委員会The Cambridge Commission on Penal Reconstruction and Development」は194111月にケンブリッジで会議を開き、そこで「国際公共秩序に対する犯罪」についての規則と手続を検討するための委員会を設置した。この委員会は42715日に中間報告をまとめた。そこには「国際刑事裁判所設置の機が熟したと同時に戦争犯罪の多くは国内裁判所の管轄に含まれるだろう」と述べている。委員会のなかでも国内裁判所では裁くことのできないケースを扱うために国際裁判所が必要であるかどうか、賛否両論があったようである。いずれにせよ戦争犯罪を扱う裁判所問題が議論されていた。この委員会は10名のメンバーで構成されていたが、そのうち6名がUNWCCのメンバーになっている。UNWCCの議論において重要な役割を果たすことになるオランダのロッテルダム裁判所判事であったドゥ・ムーアDe Moorやベルギーのブリュッセルの控訴裁判所判事であったマルセル・ドゥ・バエルMarcel De Baerも含まれている。

 この委員会は中間報告を出した後、3つの小委員会を設けてさらに詳しく研究をおこなった。小委員会はとくにまとまった報告を出していないが、その中の一つである「上官の命令についての小委員会」(議長ムーア)では、「上官の命令という申し立ては自動的に抗弁とはならない」という原則を確認している[23]。これは後にUNWCCが承認する原則でもある。

 もう一つ別の動きとしては、ロンドン国際会議London International Assemblyがある[24]。この会議は国際連盟協会League of Nations Unionの後援の下で創設され、19411020日には戦争犯罪問題が同会議の主要な議題の一つとして取り上げられた。423月には戦争犯罪問題を検討するための委員会が設けられ、約30回にわたる委員会での議論をへて4312月にその問題についての報告が作成された。ここでの議論のなかで、戦争犯罪の定義が検討され、侵略戦争は国際的な犯罪であることが主張され、あるいはユダヤ人への犯罪のような人種的絶滅策について 、かりにその地域の法律によって罰せられなくとも、国際法によってそうした人類に対する犯罪は罰せられるべきであることが確認された。上官の命令によるという抗弁はそれ自体が抗弁にはならず、ただその命令の強制の状況に応じて免責するか、刑を軽減するかどうかを裁判所が考慮に入れるという提案をおこなった。戦争犯罪を裁く裁判所としては、各国が裁判をおこなうことができることを確認したうえで、それではカバーできない犯罪を扱う機関として国際刑事裁判所International Criminal Courtの設置を提案している。この国際刑事裁判所では、各国の国内裁判所では管轄権がない犯罪、たとえばユダヤ人や無国籍者への犯罪、複数の国でおこなわれるか、複数の国籍の者に対して犯された犯罪、さらには国家元首によって犯された犯罪crimes committed by heads of stateなどを扱うとされている。

 ナチスなど枢軸国による犯罪が、従来の戦争犯罪の概念では収まらないものであることから、戦争犯罪概念とそれを扱う裁判所について、進行しつつある事態に対応するための議論がおこなわれており、後の人道に対する罪や平和に対する罪、上官の命令による抗弁の問題、それらを裁くための国際裁判所などが早くから議論されていることが確認できる。

 そして後にUNWCCに参加するメンバーについて言えば、このロンドン国際会議には、ケンブリッジ委員会でも重要な役割を果たしていたムーアやバエルなどのメンバーに加えて、中国のリャン・ユエンリLiang Yuen-Li、チェコスロバキアのエチェルBohuslav Ecerも加わっていた。リャンはアメリカの大学で法学博士の学位を取ってから多くの国際会議に中国の法律専門家として出席した人物であり、エチェルは弁護士としてチェコスロバキア亡命政府の司法省に勤めていた。

 それ以外にもオーストラリアのアトキンは法廷弁護士であり、高裁判事も勤めた人物であり、フランスのグローGrosは法律の大学教授、ルクセンブルクのボブソンBobsonは法学博士で司法大臣、ポーランドのグレイサーは刑法の大学教授、ハーストの後を継ぐ議長となったオーストラリアのライトは弁護士であり、高裁判事も勤めた。中国代表の顧維鈞クー・ウェイチェンWellington Koo(Ku Wei-chun)は、中華民国の国務総理兼外交総長も務めた大物であり、1932年から41年までは駐仏公使(のち大使)、41年からは駐英大使を務めながら、中国政府を代表して西欧諸国や国際連盟に対して日本の侵略と残虐行為を訴える役割を果たしていた[25]

 UNWCCの多くのメンバーは、裁判官や弁護士、法律の大学教授など法律の専門家であり、こうした国際法律家たちの活動に参加し、戦争犯罪問題について議論してきていた人々だったのである。米代表のペルも政治家としてユダヤ人組織や国際世論の動向に敏感に対応しようとしていたことは明らかである。彼らは、UNWCCを単なる情報収集のための機関に限定しようとした英米政府の意図通りに動くような、単なる実務家ではなかったのである。戦争の違法化を目指し、あるいは国際刑事裁判所を設置し戦争犯罪を裁くということは第1次世界大戦後から各国の法律家たちが目指してきたものでもあった。第2次世界大戦のなかで未曾有の戦争犯罪が展開されているのを目の前にして、彼らが戦時国際法の新たな発展と国際司法制度の実現を目指したのは、ある意味では当然であったろう。

 

V 連合国戦争犯罪委員会と英政府―国際法廷をめぐって      

1 国際法廷をめぐる議論

 前章で見たようにUNWCCの発足当初から、戦争犯罪を裁くための法廷について検討が必要であるという議論がなされていた。戦争犯罪の証拠を収集するにあたっても、それを扱う法廷のあり方によって証拠の性格も異なってくるのであるから当然の問題意識であろう。また第1次世界大戦においては、あらかじめこの法廷の問題が決まっていなかったことが失敗を招いたという判断もあり、休戦の前にこの問題を決めておくべきであるという理解があった。

 すでに述べたようにモスクワ宣言が戦犯の処罰についての原則を定めていた。つまり犯罪のおこなわれた場所の政府が裁判をおこなうことを原則として規定しながらも、複数の国の領域に犯罪行為がまたがるようなケース、あるいはドイツにいて各地の軍やナチ組織に命令を出していた国家やナチの指導者のようなケースについては、将来、連合国政府間で扱いを取り決めるということであった。それまでの戦時国際法の理解では、犯罪行為を受けた交戦国が法令を定め裁判所を設置し(あるいは既存の裁判所を利用して)犯罪者を裁くことが認められていた。そういう意味で、モスクワ宣言の原則は従来の戦時国際法を踏襲したものであると言えよう。しかしUNWCCの議論ですでに紹介したように、ドイツの残虐行為は従来の戦争犯罪という概念ではとらえきれないものであった。そこから主要戦争犯罪人の扱いが別に検討されるべき課題として提起されていたが、英米ソいずれも明確な方針が固まっていたわけではなかった。そうした中でUNWCCがこの問題を取上げることになった。

 UNWCCの本委員会においてこれらの法廷問題が議論されるのは、1944822日(第28回会議)からであった。103日(第34回)まで連合国戦争犯罪裁判所と混合軍事法廷[26]の二つの国際法廷をめぐって議論が繰り広げられ、最終的にこの二つの国際法廷の設置を勧告することを決定した。

 執行小委員会は81日付で「連合国軍事法廷の提案」(文書U/26)を作成し、それを修正した案(文書U/26(1))が16日付で作成され、UNWCCのメンバーに配布された[27]。この提案では、将来、UNWCCは連合国戦争犯罪裁判所または法廷設立の条約案を各政府に勧告するだろうが、その検討にあたって遅れが生ずるだろうから、その間、別の法廷(一つまたは複数)が必要と思われるとして、連合軍の各方面の最高司令官が軍事法廷を設置し戦争犯罪人を裁くことができるようにすることを提案している。第30回会議(95日)にこの提案と、アメリカから提出された「連合国混合軍事法廷による戦争犯罪人の裁判」(文書C461944831日付)が討論に付された[28]。なお執行小委員会の議長はアメリカのペルであった。両案の審議において、まずハースト議長が、軍事法廷と条約裁判所の両方が必要であるとしつつも、「確かに、これまでに提出されているケースはすべてモスクワ宣言の下では国内裁判所によって裁かれうるだろう。しかし高いレベルで犯罪政策を命じた一団の者たちがいる。あるいはいくつかの国内裁判所では適切に処罰することができない者たちがいる。これらのケースは多分30人から50人を超えることはないだろう。しかし文民裁判所は協約によってのみ設立されるので、当然遅れが生じるだろう。このギャップは、最高司令官によって速やかに設置することができる軍事法廷によって埋めることができるだろう」と軍事法廷を支持する発言をおこなった。

両案にかかわっているペルも同じように文民裁判所設置が遅れるだろうとして「スピードが絶対必要である」とスピードを強調し、同時に太平洋地域の国々はそうした法廷を望んでいると付け加えた。

オーストラリアのライトも「現時点においては軍事法廷のみが効果的かつ迅速に任務を遂行できる」と賛成した。ほかに中国、インド、ユーゴスラビアが賛成意見を述べたが、ノルウェー、ベルギー、オランダ、フランスというヨーロッパの大陸国が疑問を呈した。

 議論は第31回(912日)に引き継がれた。フランスのグローから文書で発言がなされた。グローはスピードにこだわることに疑問をなげかけ、「UNWCCの義務は、戦時における犯罪は“割に合わない”ということを国際法における確固たる前例として確立することであろう」と述べた。そして軍事法廷を支持する論者のなかには文民的性格を持つ国際裁判所の設立に原理的に反対の感情を持っている者たちがいると、軍事法廷案が国際裁判所を妨げるものとして提案されているのではないかという疑いを露わにした。これに対して、ペルは「条約裁判所をサボタージュするつもりはないし、私自身、それを断乎として支持している」と弁解し、中国のウン・キンも「軍事法廷は条約裁判所に取って代わるものではなく、補完するものだ」と説明した。二つの法廷を並行して推進していく方向で議論が収束していきつつあった。

 第32回(919日)での議論の最初にハースト議長は、議長としてではなくイギリス代表として次の見解を述べた。「私の信じるところによれば、委員会メンバーの多数は軍事法廷を支持しており、条約裁判所の合意がなされ設立されるまでの避けられないギャップを埋めるために必要であると認識している。私自身の見解は、条約裁判所と同じラインで軍事法廷設置を支持する」。細部については検討しなければならない問題があるが、フランスやオランダ、ノルウェーなども軍事法廷そのものは認める発言をおこなった(後2者は第31回会議において発言)。その結果、細部での異論があったので、原案を各パラグラフごとに修正するかどうか採決が取られ、修正案が出来上がった。次回の会議では条約裁判所について提案を受けて議論することとなった。

 第33回(926日)には、執行小委員会作成の「連合国合同裁判所設立のための協約Convention for the Establishment of A United Nations Joint Court」(文書C50)が提出された。会議では字句上の修正が若干なされただけで特に異議なく承認された(修正された文書はC50(1))。同時にこの会議には「連合軍最高司令部による連合国間法廷設立を支持する勧告Recommendation in Favor of the Establishment by the Supreme Allied Military Command of Inter-allied Tribunals(文書C52)と添付メモ(C51)も提出されていたが、時間切れのためか審議は第34回(103日)に持ち越された。第34回にはC52に修正が加えられた案「戦争犯罪人裁判のための最高司令官による混合軍事法廷設立を支持する勧告Recommendation in Favor of the Establishment by Supreme Commanders of Mixed Military Tribunals for the Trial of War Criminals」(C52(1))が提出された。この提案についてもパラグラフごとに修正するかどうか採決がおこなわれて勧告案が確定した。そのうえで案全体についての採決がおこなわれ、賛成8、反対4で可決された(出席14か国なので棄権2か国?)。残念ながら各国ごとの賛否の態度はわからない。ヨーロッパ大陸諸国を中心に反対あるいは棄権に回ったと思われるが、その理由としては、ドイツからの解放によってさしあたりは英米の将軍が最高司令官となる連合軍の支配下に入る国々において、連合軍最高司令官による法廷が各国の裁判権を侵害するのではないかという危惧を持っていたことが指摘できるように思われる。たとえばオランダのムーアはオランダ政府としては軍事法廷設置に反対しないが、各国の裁判が優先するのでありこれに干渉してはならないという留保条件をつけていた(第31回)。

 こうして二つの国際法廷案がUNWCCで決定された。前者は、最終的に「連合国戦争犯罪裁判所設立協約案Draft Convention for the Establishment of a United Nations War Crimes Court」と裁判所の名称が修正されて確定されている。

 

2 連合国戦争犯罪裁判所設立協約案

 まず連合国戦争犯罪裁判所設立協約案から紹介しよう[29]。そこには次のような前文が付いている。

 

「(協約締結国は)敵によって犯された戦争犯罪の実行者が裁かれることを保障することを欲し、一般的に言って、そのような犯罪の裁判と処罰をおこなうにふさわしい法廷は連合国の国内裁判所であることを認め、そのような犯罪が国内裁判所によって罰せられることが好都合でもなく効果的でもない可能性がありうることに留意し、連合国の各政府は自らの判断で、犯罪を告発された者を国内裁判所で裁判にかけるよりもこの協約が設ける裁判所で裁くことができるように連合国合同の裁判所を設置することを決定した。(以下略)」

 

 全体は29条からなっているが、いくつかの条項を紹介しておこう。なお括弧を付した記述は条文の要約である。

第1条1 戦争の法規と慣例に対する侵犯を犯した容疑を受けた者を裁判にかけ処罰するために連合国戦争犯罪裁判所を設置する。

2 この裁判所の管轄は、戦争の法規と慣例に対する侵犯を犯した、あるいは犯すことを試み、あるいは他の者に犯すことを命令し、促し、幇助し、教唆し、あるいは扇動し、あるいは自らに課せられた責務の遂行の失敗により自らが犯した、いかなる個人も、その階級や地位を問わず、裁き処罰することに及ぶ。

3 (略)

第2条 (各協約締結国は、裁判所の構成員として3名を指名する。これらの構成員による秘密投票によって判事を選出する。)

第3条 (裁判所の構成員は協約締結国の国籍を有し、最も高い法的資格をもつ者であり、英語かフランス語に精通している者であること)

11条1 本裁判所における訴追の責任はそのケースを本裁判所に提訴した連合国政府が負う。

2 (その連合国政府がみずから訴追しない場合は、協約締結国間の会議で検察官を任命する)

34(略)

12条 (5名以上の判事で構成される小法廷を設置する)

15条 (被告の権利として、弁護の準備が十分にできるように詳細が記された容疑が文書で渡されること、弁護を準備する十分な機会が与えられること、自らが資格のある弁護人を選ぶこと、そうでない場合は裁判所が弁護人を指名すること、法廷での審議の間出席すること、文明化された国において一般に認められているように申し立てと弁護をおこなうこと、証拠を提出することなど) 

16条 (特に理由がないかぎり法廷は公開する)

17条1 (協約締結国の一つの裁判所によって審理された者は同じ容疑では訴追されない) 

2 (敵国の裁判によって裁かれたからといって、本裁判所による裁判を妨げるものではない。ただし敵国裁判によって科された刑は考慮する)

18条 裁判所は

(a)戦争の法を宣言している一般的な国際条約あるいは協定、ならびに締約国間において戦争の法を制定した特別な条約や協定、

(b)法として認められた一般的な実践の証拠としての戦争の国際的な慣例、

(c)文明諸国民の間で確立した慣習、人道の法、ならびに公衆の良心の命ずるところから由来する諸国家の法の諸原理、

(d)文明諸国民によって一般的に認められている刑法の諸原理、

(e)戦争の法の諸規則を決定するための補助的な手段としての法的諸決定、

を適用する。

20条 裁判所は死刑あるいはより軽い刑を含む適当な刑罰を宣告する権限を持つ。

 

3 混合軍事法廷の提案

次に「最高司令官による戦争犯罪人裁判のための混合軍事法廷」の内容を紹介したい[30]。これは協約案ではなく勧告なので、条文ではなく文章になっている。

この勧告では最初に、1943111日のモスクワ宣言において、その犯罪が特定の地理的な限定を持たない主要戦争犯罪人を除いて、逮捕された戦争犯罪人はその犯罪が犯された国の裁判所によって裁かれるためにその国に送り返されるという原則を確認し、またそのような当該国がそうした戦争犯罪人への最高の権限を持ち、それらの国の裁判所が第一義的な管轄権を持つことを確認している。そのうえで次のような提案をしている。

 

「連合国戦争犯罪委員会は連合国に対して戦争犯罪人を裁くために協約による連合国戦争犯罪裁判所または法廷の設置を勧告する。しかしながらその勧告と協約案が連合国によって検討されることが迅速な裁判に影響を与え、遅れが生じるかもしれないことが認められる。したがって、暫定的に戦争犯罪人を裁くためにいくつかの法廷が必要と思われる。

連合国戦争犯罪裁判所または法廷が設置された場合、それに加えて、戦争犯罪人の効果的な訴追をおこなうためのあらゆる手段が確立され維持されること、ならびに迅速な裁判ができないために戦争犯罪人が裁判や処罰から免れることがないことをどの連合国もが要求しているように、そのような戦争犯罪人を裁くために他の法廷が設置されることが望ましいと考えられる。

それぞれの作戦方面の、合同作戦をおこなっている連合国軍の最高司令官は、軍事法廷を設置し、その構成、権限、手続きを命令する権限と資格を有しているように思われる。

そうした軍事法廷は、連合国戦争犯罪裁判所または法廷が設置されるまでの間、戦争犯罪人の裁判のための公正で応急的な手段を提供し、またさらに設置後はそれらの裁判所または法廷に付け加えたものになると信ずる。(以下略)」

 

この勧告には「提案Suggestions」と題された説明文が別に採択されている。この提案によると、この混合軍事法廷は、連合国民から判事が選任され、適用される法は戦争の法規と慣例など国際法が考えられており、各法廷は5名以上の判事によって構成されることなどが提案されている。

こうしたUNWCCの国際法廷案はどのような内容のものとして評価すべきなのだろうか。連合国戦争犯罪裁判所は、第1条において「戦争の法規と慣例に対する侵犯を犯した容疑」を裁くとしている。ただ第18条においては、従来の戦争犯罪概念を超える内容、特に人道に対する罪につながる内容も含まれていると言ってよいだろう。ただ「平和に対する罪」に該当するものは見当たらない。これはUNWCCにおいても侵略戦争を戦争犯罪とみなすかどうかという議論がまだ決着がついていなかったことの反映であろう。またモスクワ宣言で各国の裁判権が承認されたケース以外についても扱おうとしていることは明白である。UNWCCの各会議において、組織的体系的に残虐行為をおこなった指導者たちを裁こうとする意見がしばしば出されていたことから見て、ドイツ国家やナチ、SSの高級幹部を裁こうと考えていたのではないかと思われる。もちろん、モスクワ宣言で裁判権が保障された国であっても、訴追できる力量がない場合にはこの裁判所が処理できることになっており、通例の戦争犯罪事件も扱うものとなっている。後のA級とBC級という区別はまだなされていないが、従来の戦争犯罪概念を超えた犯罪を、連合国各国の批准が必要な協約によって設立された国際法廷によって、裁こうとしたものと言えるのではないだろうか。最高司令官による混合軍事法廷との関係は微妙であるが、多くのケースをスピーディに処理するうえで効果的であると認識されていることは言えるだろう。混合軍事法廷についてはUNWCC内部でも反対論があり、どちらの国際法廷を主に考えるかについてUNWCCとしての明確な意思統一がなされていたとは言えない。ただ協約に基づく連合国戦争犯罪裁判所は特に異論なく全会一致で採択されていることから、それが必要であるということはUNWCCの一致した意見であると言ってよいだろう。

ただこの連合国戦争犯罪裁判所案では、事務局を実質的にイギリス外務省に依存することになっており、その実現の成否はイギリス政府に握られるという弱点を抱えていた。

 

4 戦争違法化のなかの国際法廷案

 重大な戦争犯罪を国際法廷を設置して裁こうとする考え方は、UNWCCが突然出したものではなく、第1次世界大戦後、さまざまな形で提起され議論されてきていたことであった。19191月第1次世界大戦終了後、連合国が開催した平和予備会議において、「戦争開始者責任および刑罰執行委員会The Commission on the Responsibility of the Authors of the War and on the Enforcement of Penalties」を設置することを決定した。5大国(英米仏伊日)から二人ずつとその他の5か国から一人ずつが委員として選ばれ、この委員会は3月に報告書を提出した。この報告書は、戦争開始者の責任、国家元首をも訴追できることなど重要な論点を提示しているが、国際法廷との関連で言えば、国内裁判所では裁くことができないような犯罪、たとえば複数の連合諸国の捕虜への残虐行為、複数の連合諸国民に影響を与える命令を出した当局者への容疑などを扱うための「高等法廷high tribunal」の設置を提案している。この高等法廷は5大国と6つの国から選ばれた裁判官によって構成される国際法廷として提案されている[31]

 この報告書はベルサイユ平和会議では採択されなかったが、ベルサイユ平和条約においてドイツ皇帝ウィルヘルム2世を特別裁判所で訴追するという条項に反映されている。

 その後、19202月国際連盟理事会は常設国際司法裁判所を設置するために法律家諮問委員会Advisory Committee of Juristsを設置した。法律家諮問委員会は、「国際公共秩序を侵害し、あるいは諸国の普遍的法に反する犯罪」を裁く機関として「国際高等裁判所High Court of International Justice」を設立する提案を採択した。この報告を受けた国際連盟理事会は総会にこの提案を提出し、総会は第3委員会に付託した。しかし第3委員会は192012月総会に、「この問題の検討はいまのところ、時期尚早である」との意見を提出し、国際高等裁判所設立の提案は葬られることになった[32]

さらに1922年には国際法協会International Law Associationの第31回会議において常設の国際刑事裁判所の設置が提起され、その後も1924年、1926年とこの問題が議論されている[33]。また1925年以降、国際議会同盟Inter-Parliamentary Union が、常設国際司法裁判所に国際犯罪についての権限を付与する方向での検討をおこなう動きがあった。1930年代に入ると、ユーゴスラビアのアレクサンダー国王の暗殺事件をきっかけに国際連盟は国際的な政治犯罪、特にテロを裁くための国際刑事裁判所設立の検討を1934年より開始した。193711月には国際刑事裁判所設立の条約案が作成されるにいたったが、いずれも実を結ばなかった[34]

2次世界大戦が始まると、ケンブリッジ委員会やロンドン国際会議などにおいて国際裁判所の設立が議論されていたことは前章で紹介したとおりである。このようにUNWCCの国際裁判所の提案は第1次世界大戦後の、国際連盟を含む国際機関や国際法律家たちの間で20年以上にわたって議論されてきていた問題であり、その懸案をドイツと日本の残虐行為を前にして実現しようとするものだった。そうした点で、UNWCCの活動は第1次世界大戦後の戦争違法化への国際的努力の上にあったと言えるだろう。モスクワ宣言という枠をはめられていたが、国際社会が共同で戦争犯罪を裁こうとする意図が働いていたと言っても言いすぎではないだろう。

 

5 英政府の反対

さてこうしたUNWCCの提案のその後の経緯について見ていきたい。二つの国際法廷の提案は、106日付でUNWCC議長セシル・ハーストの名前でアンソニー・イーデン英外相宛に提出されている。その際に付けられた手紙のなかで「あなたが近い将来、連合国戦争犯罪裁判所設立協約を検討するための、もしできそうならば締結するための外交会議を招集するために必要な措置を講じていただきたい、との希望を委員会は全会一致で表明していることをあなたにお知らせするように委託されました」と記されていた[35]。この手紙には、連合国戦争犯罪裁判所設立協約案と軍最高司令官による戦争犯罪人の裁判のための混合軍事法廷設立の勧告が添えられていた。

これをうけてイギリス政府内で検討がおこなわれた。まず、チャーチル内閣の副首相であったクレメント・アトリー(457月から首相)は、承認しがたいという意見を関係者に伝えている。19441019日付で外務次官から内務次官に出された手紙(アトリーの指示に基づいて作成された手紙であり、大法官や大蔵省法律事務所、陸軍省にも送られている)[36]のなかで、アトリーは、この提案をおこなうには、戦争犯罪人の移送についてある種の合意が必要であるだろうが、しかしながら「提案された国家間の協約が妥当であるほど正式なものであるかどうか、疑問である」。その理由としては、一つは、実際上は、戦争犯罪人を逮捕する連合軍司令部の問題であるからであり、また連合国戦争犯罪委員会に代表を送っていないソ連政府に協約を遵守させることは難しい、というものであった。また戦争犯罪の定義についても疑義を出し、さらに提案されたような協約を採用するとすればイギリスでは特別な立法が必要であるが、それが現時点では得策であるかどうかは疑わしいとしている。

 1023日に大法官の下で会議が召集され、大法官のほかに司法長官、軍法務長、外務省や陸軍省の関係者が集まって検討がなされた[37]。会議の席上、司法長官は、この協約案はモスクワ宣言と矛盾していると批判し、議論の結果、提案は承認できないことが確認された。混合軍事法廷については、占領した連合軍の最高司令官が戦争犯罪人を裁く権限があることが確認されたうえで、議論の結論として、混合軍事法廷の設置には反対しないこと、しかしわれわれは自分たちの裁判所で裁きたいケースがあることを委員会に伝えることとなった。

 この席上、外務省のメンバーが、連合国戦争犯罪裁判所については米国務省も英政府と同様の見解だろうと意見を述べたが、この点についてはあらためて米国務省に米政府の見解を問い合わせることとなった。

 この会議の翌日、1024日付で外務省がワシントンの英大使館に送った電報がある[38]。これはアメリカ政府の意向をうかがおうとするものだが、その中で反対の理由をくわしく述べている。

 協約案については、「イギリス政府はこの提案に強く反対する」としている。反対理由を整理すると、第一にかりにアメリカ政府などで批准に関して困難が生じなくてもそのような協約の交渉と実施には非常に長い時間がかかるだろうということがまず挙げられている。第二にソ連を最初から招き入れなければならないが、そのことは困難さを増すことになる。第三に提案はいずれにせよモスクワ宣言と矛盾しており、まったく不必要である。第四にかりに国際協約が成立しても裁判のための適当な人材を見つけたり、手続きを調整することなどにおいて大変な困難があるだろうということである。

 混合軍事法廷の提案については、「イギリス政府の見解としては、イギリス国民に対して犯された、あるいはイギリス領土内で犯された戦争犯罪で告発された者は、イギリスの軍事裁判所で裁く意志である」と最初に述べている。ただいくつかの連合国では、自国の裁判所で戦争犯罪人を裁くことが憲法上あるいは手続き上、できないという場合や、何か国かの連合国民に対して戦争犯罪を犯した者の場合などでは、混合軍事裁判所が有益である場合があるかもしれないと述べている。イギリス政府としてはそうした混合裁判所の設置に協力する準備があるが、ドイツを占領する前にあらかじめ決めておく必要はなく、三人の最高司令官が合同で、あるいは二人ないしは単独で設置できるだろう。手続きなどは最高司令官が処理するだろうとしている。

 つまりイギリスは自分たちの裁判はあくまで自分たちだけでやるつもりだったのである。ただ他の国のケースを扱うためにそうした混合軍事法廷を設けることには同意するが、その場合でも連合軍の最高司令官の権限でおこなえばよいという姿勢だった。

 1030日、ワシントンの英大使館より覚書(24日付の電報に基づいた)がアメリカ政府に渡され、アメリカ政府もイギリス政府と同様の見解を取るように希望し、アメリカ政府の回答があり次第、UNWCCに回答すると伝えた[39]

 UNWCCの米代表であるペルは、国務長官宛に1019日付で手紙を送り、協約案を全面的に支持するペルの意見を伝え、さらに協約締結のためにイギリス政府に働きかけてほしいと要請した[40]UNWCCの提案は国務省から陸軍省や海軍省など関係部局に送られて検討に付された。しかしアメリカ政府からイギリス政府に対して、この問題での明確な回答はなされないままに時間が過ぎていった。これは次章で見るように、アメリカ政府内で戦争犯罪政策が大議論になっておりアメリカ政府としての統一した明確な政策を打ち出すことができなかったからであった。そのこともあってイギリス政府はUNWCCに回答を出さなかった。ハーストは1130日大法官に対して外務省が回答さえも寄越さないことを批判した。このことはUNWCCのメンバーのなかに特にイギリス政府への批判、イギリス政府は戦争犯罪を罰することに積極的でないという批判をひきおこし、そのことを危惧した大法官は1213日司法長官と外務省の担当者を呼んで、事情を説明する必要があると説いた[41]

  イギリス政府からUNWCCへの回答はようやく194514日付でなされている[42]。結局、アメリカ政府からの回答なしにイギリス政府の判断で回答がなされた。イーデン外相からセシル・ハースト宛になされた回答では、「条約による連合国間裁判所の公式な設立は、時間という要因を考えると、望ましくもないし実際的でもない」と明確に否定した。

理由として次のような二点を挙げて同意できないことを伝えている。

第一に、西ヨーロッパにおける軍事作戦が合同作戦であり、しかも最高司令官はアメリカの将軍であるのでアメリカ政府との事前の相談が必要であり、それなしにイギリス政府が決定するのは好ましくない。さらに第二に、英米政府が条約による連合国間裁判所の設置に原則として合意したとしても、そうした条約を締結するための会議を招集することは不可能であるとしている。

なお軍事法廷については、自らが裁判を行うことができない国がある場合には、解決策として考えられうるとして検討の余地を残している。

いずれにせよイギリス政府としては、協約あるいは条約による国際裁判所設立という委員会の提案を拒否したのである。

イギリス政府、特に外務省は戦争犯罪については保守的な考え方を持っており、国際裁判所問題だけに留まらず、UNWCCの提起に消極的な対応しかしなかった。

前章で紹介したが、UNWCC会議において議論されたレポート「連合国の懲罰行動の範囲」に関して、人種的、政治的、宗教的理由によっておこなわれた、敵国領域における行為も含む、残虐行為をUNWCCが取上げる戦争犯罪として扱うかどうかについて、1944531日付でハースト議長からイーデン外相宛に手紙が出されている[43]。つまり自国民に対する犯罪を含めて、後に人道に対する罪として定式化される残虐行為をどう扱うのか、という問題である。

イギリス政府内では628日の戦時内閣において、ユダヤ人に対する残虐行為は戦争犯罪の概念には含まれないというサイモン大法官の提案を承認した[44]。そのうえでイギリス政府は、819日付で米国務長官宛に覚書を出している[45]。そのなかで、国際法で管轄権が認められている犯罪、すなわちユダヤ人に対する残虐行為も占領地におけるものだけをUNWCCは扱うべきであり、UNWCCが提案しているような者の処罰についていかなる公式の義務も負うべきでないというイギリス政府の見解を示している。ただし戦争が終わった後に敵国の後継政府が犯罪人を裁くように圧力をかけるという方法を提案し、アメリカ政府の見解を求めている。

つまり連合国が戦争犯罪として処罰することはできないが、ドイツの後継政府に処罰させるように圧力をかけるというものだった。

イギリス政府からUNWCCへの暫定的な回答は、8月末に大法官からの手紙によってなされた。大法官は、UNWCCはその任務を狭く解釈する必要はないが、ドイツにおけるドイツによるドイツ人に対する犯罪の処理をUNWCCの任務に含めるには困難な点があると、婉曲にUNWCCの解釈に難色を示した(M33)。さらに119日イーデン外相よりハーストに対して、そうした行為は戦争犯罪でないとし、UNWCCがこのような追加的な負担を負うのは間違いであると明確に提案を拒否した[46]

これまで検討してきた1944年末までの状況を見ると、イギリス政府内において戦争犯罪の扱い方について議論がなされていた。43年7月7日の戦時内閣で枢軸国の政治指導者や戦犯容疑者たちが中立国に逃亡することについての対策を検討している。連合軍のシチリア上陸、ムッソリーニの逮捕によるファシスト政権の崩壊という状況からそうした問題が生まれてきていたからだった。英政府内ではサイモン大法官が中心にその検討にあたっていた。8月にイギリス政府がUNWCC設立のための外交会議開催を各国に通知し、その会議が10月に開催されたことはすでに述べた。また111日にモスクワ宣言が出され、戦犯処罰についての方針の明確化が迫られることとなった。その直後、1110日に開かれた戦時内閣ではチャーチル首相から主要戦争犯罪人を裁判なしで即決処刑するという提案がなされて議論された。ただここでは強い反対意見も出されて、保留となっている[47]。その後も戦時内閣でくりかえしこの問題が取上げられる。なお104日にサイモン大法官から戦争犯罪法案が提案されたが結局承認されなかった。その理由の一つがドイツによる報復の恐れ、すなわちドイツに捕まっているイギリス人捕虜に報復されるかもしれないという恐れであった[48]。その後、1121日の戦時内閣において、イギリス国民に対しておこなわれた戦争犯罪あるいはイギリス領内でおこなわれた戦争犯罪については軍事裁判所で裁くという、イーデン外相とサイモン大法官の連名で提出された提案が承認され、その結果、従来の戦争犯罪概念でとらえられる戦争犯罪、つまり通例の戦争犯罪についてはイギリスの軍事裁判所で処理する基本方針が決定されたのである。これ以降、イギリス政府内では陸軍省が非主要戦争犯罪の担当として具体的な政策の策定と実施を担うこととなる[49]。こうした44年の動きは、イギリス政府がUNWCCとはまったく別の路線を選択したことを示している。

 

6 UNWCCと米政府

ではアメリカ政府の対応はどうだったのだろうか。

ペルのUNWCC代表への任命は大統領によるものであったことから、国務省は当初からペルに好意的ではなかったようである。ペルは19436月に代表に指名されたが[50]、ロンドンに向けて出発したのは11月だった。彼はその間、国務省から明確な指示がないことに苛立っていたが、ロンドンへの出発にあたって431111日付で国務長官ハル宛に、「この委員会の任務は、たんに過去の悪事への復讐の機関として働くこと以上に、第3次大戦を予防するための大いなる努力に参加することであると信じている」と決意を述べている[51]。この手紙の二日前にペルは国務省の関係者を訪ね、そのときに、UNWCCは事実認定fact-finding機関であって、戦争犯罪人の裁判まで任されていないという説明に対して、ペルは、いかなるタイプの法廷で裁くのか、いかなる法が適用されるのかがわからなければ、どのような証拠が必要なのかわからない、と反論し、法廷と適用されるべき法についての重要性を訴えていた[52]UNWCCの任務を証拠収集に限定しようとする英米政府の意図は、論理的に見ても当初から無理があったと言えるだろう。

こうした主張をするペルに対して国務長官ハルは、UNWCCは事実認定の機関であり、裁判までは任されていないという公式見解をくりかえしてペルを牽制した[53]

UNWCCに参加したペルは、早速、1944127日付で大統領に手紙を送っている。そこでは、被害を受けた連合国が裁判をおこなうことを前提としながらも、「一国以上の市民に対する犯罪あるいはドイツ内における非人道的な政策を命令した、一団の多くの者たちの問題が残っている。こうした者たちは、証拠についてかなり自由に扱うことのできる国際法廷によって裁かれるべきであるというのがコンセンサスである」と述べている[54]。その翌日の28日には国務次官補のロングにも手紙を書き、一国以上で犯された犯罪、無国籍者への犯罪、ドイツ国民(つまり自国民)への犯罪などの問題があるとし、UNWCCがそれらを処理する法廷などについて勧告すべきであるという意向を表明している[55]。このようにペルは、UNWCCの発足当初から、証拠収集という米英政府から与えられた枠を取払って、国際法廷問題や戦争犯罪概念の拡大というUNWCCの活動の方向を積極的に支持し、みずからも米政府の関係者に働きかけていたのである。

このペルの手紙に対する対応は国務省で検討され、その結果、29日にハルから大統領宛にメモが提出されている[56]。そのメモによると、当初のイギリス政府の考えではUNWCCには証拠収集に限定した役割だけが与えられ、別に専門委員会を設けるつもりだったが、ペルからの連絡によれば専門委員会の任務もUNWCCが負うということである。アメリカ政府としては他の政府に異論がなければ反対ではない、としてその措置を承認した。そのうえで国務省として次のことを提案している。第1に犯罪が連合国の一国民に対してなされたときは、犯罪者はその国の裁判所によって裁かれる。文民か軍事裁判かはその国が決めることである。第2に犯罪が一国以上の国民に対してなされたときは、犯罪者は混合軍事法廷mixed military tribunalによって裁かれる。第3に、第2への別の選択肢あるいは追加として、部下によってなされた政策とその実践に責任がある軍司令官たちやムッソリーニ、ヒトラーなどのような高級将校・幹部のケースにおいては特に、文民裁判官によって構成される法廷が望ましいと思われる、と提案している。

多国民への犯罪や政府・軍指導者たちは混合軍事法廷あるいは文民による国際法廷で裁くという提案であった。国務省内では1943年春より法律委員会Legal Committeeにおいて戦争犯罪人の処罰について検討してきており、その委員会が作成した案の基本原則は文民法律家によって構成される国際法廷であった。ハルから大統領への提案はこれを少し修正したものである。

ルーズベルト大統領からペルへの返事は44212日に出されている[57]。この返事の原案は国務省が書いているが、この中でルーズベルトは、国際法廷問題について次のように述べている。

「こうした問題の行動ができるかぎり迅速に取られるべきだという貴方の意見に賛成である。しかし、国際法廷の性格についての問題は非常に注意深く検討されなければならないものと考える。もしその法廷が文民から選ばれた法律家によって構成されるのならば、その法廷は非常に注意深く進むだろうし、その法廷は被告とその弁護団が合法的な時間かせぎ戦術を容易に取ることに向いているだろう。そうした法廷を認めないというつもりはないが、軍勤務者のなかから選ばれた有能な者によって、可能な限り構成されるならば、おそらく同程度の正義を伴いながら、より迅速な成果を得られるだろうと私は考えたい。どうであれ、そうした人物は、戦争に関する法規がどういうものであるのかを知っているか、知るべき立場にいるだろうし、戦争法規の侵犯を見抜き、証拠について適切な検討を加えることが容易にできるだろう。」

国務省案にルーズベルトがそのような修正を加えたのか、あるいは原案通りに認めたのかはよくわからないが(修正されたという形跡はないが)、このように大統領は、文民による法廷よりも軍事法廷が望ましいという見解をペルに伝えたのである。

さらに215日付で国務省からもペルに対して手紙が送られている[58]。これは9日付の大統領宛のメモとほぼ同一内容である。ただ第3の文民による国際法廷については、時間かせぎ戦術によって裁判が長引く危険性が指摘されている。これは大統領からペルへの手紙に記されている内容でもある。

この時点で国務省がどれほど文民国際法廷の可能性について真剣に考えていたのか、よくわからないし、ルーズベルトがどれほどこの案を支持し実行する意思があったのかについても疑問が残る。残されている資料状況から判断すると、おそらく国務省内の法律家に検討させていた案を省内できちんと検討しないまま持ち出してきただけのように思われる。しかしこうした大統領と国務省からの指示が、ペルが国際法廷問題で混合軍事法廷を主張する背景にあったことは間違いない。

その一方で、自国民や無国籍民に対する犯罪、人種や宗教などを理由とした犯罪を「人道に対する罪」という概念で戦争犯罪として考えようとするUNWCCならびにペルからの働きかけに対しては、米国務省は否定的な回答に終始した。ペルは大統領に対して、「人道に対する罪crimes against humanity」をUNWCC内で積極的に提案していることを説明し、「こうした寄る辺のない不幸な人々を保護するために“戦争犯罪”の定義を拡大することは、人道的な行為であるだけでなく政治家にふさわしい行為である。われわれは自国民にしか関心がないと言うのはただの悪い冗談にすぎない」と政治家としてのルーズベルトに訴えている[59]

ペルのこうした行動に対して、国務省からUNWCCに派遣されてきていたプレウスPreussが、ユダヤ人問題をUNWCCで取上げることを妨害したため、ペルは国務省に抗議している。その中で国務長官に対して、「こうした迫害を取上げないのはまったくひどいことだ」、米国民への犯罪しか取上げようとしないならば、「まったく利己的で、正義の観念をまったく考えようとしないという非難を受けることになるだろう」と批判した[60]

ユダヤ人への迫害を念頭において、自国民や無国籍民への犯罪や戦争前の犯罪を戦争犯罪に含めて考えること、すなわち人道に対する罪という従来とは異なる戦争犯罪概念を作るということについて、715日付でハルからペルに回答がなされている[61]。そこではドイツ国内におけるユダヤ人迫害、しかも戦争前における迫害を「戦争犯罪の概念に含めようとすること、またそれらを戦争犯罪として扱うことは賢明ではないというのが本政府の見解である」とペルの意見を否定し、従来の狭い戦争犯罪解釈を維持した。

この回答は、事前に陸軍省と海軍省にも案が配られ、616日に国務省法律顧問を含めて開かれた3省の会議で検討されたものである。陸軍省は、原案を一部修正したうえでスティムソン陸軍長官の名で承認する旨を国務長官に伝えている[62]

このように複数の連合国国民への犯罪を裁くための混合軍事法廷、あるいは政府や軍指導者を裁くための文民による国際法廷について、特に前者を国務省と大統領のラインで提案していた。これがペルのUNWCCでの混合軍事法廷の主張となっていった。しかし次章で見るように、UNWCCからの提案がなされた1944年秋は米政府内で激しい対立と議論がおこなわれていたときであり、米政府は明確な姿勢を打ち出すことができなかった。そのことはペルの失望を買うことになる。他方、人道に対する罪に関しては、447月までの時点では、国務省も陸軍省、海軍省も否定的な考え方しか持っていなかった。国務省からUNWCCに派遣されていたスタッフがペルに抵抗したために、そのことがペルと国務省との軋轢の一因ともなった。米政府内でユダヤ人への迫害問題が重要な問題として取上げられるのは8月以降、それも財務長官であったモーゲンソーのイニシアティブによるところが大きかったが、それは次章で見ることにしよう。

 

 さて英米両政府のこうした対応、というより回答もしないというUNWCCを無視するような対応に直面して、1944年秋には、UNWCC内でも不満が聞かれるようになった。ペルは、ハーストに宛てて、不十分なスタッフのために活動が妨げられていると訴え、「委員会の中で、このようにしてわれわれの仕事が妨げられているという感情は強くなっているし、失望と無気力も広がっている」と愚痴をこぼしている[63]

そしてイギリス政府が連合国戦争犯罪裁判所案を拒否した直後の1945117日、ハーストは議長とともにUNWCCの英代表も正式に辞任した。24日オーストラリア代表のライトが議長に選ばれた。ハースト辞任の表向きの理由は健康上の問題であるが、英代表でありながら英政府の方針に反し、UNWCCがやろうとしたことを悉く潰されてしまったことから、英政府との関係上、もはややっていけなかったからであろう。

 一方、ペルは、4412月からアメリカに戻って国務省や大統領などにUNWCCの提案を実現できるように働きかけをおこなっていた。しかし当初からペルを嫌っていた国務省は、議会がペルの経費支出を認めなかった措置を放置することによって、ペルがロンドンに戻れなくしてしまった[64]。その結果、UNWCCをリードしてきた英米の代表が去ることになった。英米の代表でありながら、自らの信念によって政府の考えには必ずしも従わずに行動してきた二人が切り捨てられたのである。

 UNWCCが議論をリードしてきた状況は完全に変わり、英米の両大国、とりわけ革新的な政策を打ち出そうとして政府内で激しい議論をおこなっていたアメリカがその後の議論をリードしていくことになる。米国務省は戦争犯罪について保守的な考え方をしていたが、UNWCCが提案したような条約に基づく国際裁判所の設立や、従来の戦争犯罪概念を超える残虐行為の処罰については、アメリカの陸軍省内に同調者が生まれてきていたのである。次に米政府内での議論を見ていこう。

 


 

W 米政府内の政策形成  

1 陸軍省による主導権の掌握

 連合国戦争犯罪裁判所協約案についてアメリカ政府は明確な方針を示さなかった。そのためにイギリス政府の反対で潰された形になったが、なぜアメリカ政府はそうだったのか。それは1944年秋から冬にかけての時期には、アメリカ政府としての明確な方針が決まっておらず、政府内で激しい議論が戦わされていたからである。回答しようにもできなかったというのが実情だった。アメリカ政府としての基本線がほぼまとまるのは19451月だが、大統領に承認された正式の政策として確定するのは454月、ルーズベルトが死去しトルーマンが大統領に就任するのを待たなければならなかった。本章ではUNWCCの提案との関連に留意しながら、米政府内の議論を整理しておきたい[65]

 アメリカ政府内で本格的に戦争犯罪政策が議論されるのは、1944年夏以降であった。それまでは主に国務省が戦争犯罪問題について扱っていたが、それはイギリス政府やUNWCCなどとの連絡の関係で国務省が窓口になっていたからだけのことで、管見の限り先に紹介した法律委員会を除いて国務省内において戦犯処罰について具体的な検討をしていた形跡はない[66]。陸軍省内においても1943101日付で、参謀本部の民事部長Civil Affairs Divisionから法務総監代理に対して、軍事法廷による戦争犯罪人裁判についての指針をまとめるようにとの陸軍長官からの指令を伝えている。それに対して、1030日付で法務総監代理グリーンGreen准将から民事部長宛に「戦争犯罪人裁判」と題したメモが送られている[67]。ただこのメモはアメリカの憲法や法律、過去の判例などを整理しただけのものでしかない。陸軍法務総監部におけるその前後のやりとりを見ても捕虜への暴行の扱いなどきわめて初歩的な問題を議論しているにすぎない。この時期にはUNWCCが発足し、すでに紹介したようにさまざまな積極的な議論をしているのに比べると、あまりにも議論内容が貧弱である。

そうした状況が一変したのが1944年8月から9月にかけてであった。

19448月末にヨーロッパ視察から戻ってきた財務長官ヘンリー・モーゲンソー・ジュニアHenry Morgenthau Jr.は、ドイツに対するアメリカの政策が寛大すぎると考え、厳しい政策を提案した。それは、経済的にはドイツを徹底して非工業化することであり、政治的には徹底した非ナチ化であった。9月5日にモーゲンソーよりルーズベルト大統領宛に出されたメモの付属Bは「ある戦争犯罪の処罰と特別グループの扱い」と題されている[68]。そのなかで主要戦争犯罪人arch-criminalsについてただちにそのリストを作成して軍当局に伝達したうえで、そのリストの人物を速やかに逮捕し、将軍クラスの指揮官によってその人物を確認したうえで連合軍の銃殺隊によって処刑する、という裁判なしの即決処刑方式を提案した。またそれ以外に、戦争法規侵犯による殺人、報復としての人質の処刑、国籍や民族、人種、宗教、政治的信条を理由とした殺人などの戦時中に文明に対しておこなわれた犯罪については連合国政府による軍事委員会military commissionsが裁判をおこなうこともあわせて提案している。主要戦犯の即決処刑方式と同時に、人道に対する罪に該当する概念を提起し、それらの犯罪者を軍事裁判で裁くということも提案したのである[69]

 95日に開かれたアメリカ政府内のドイツに関する閣僚委員会Cabinet Committee on Germanyでモーゲンソーの議論が優勢だったことに危機感をもった陸軍長官スティムソンは同日付でモーゲンソー宛メモを書いている[70]。そのなかで「すべてのナチ指導者たちやゲシュタポのようなナチのテロリズムのシステムの手先を徹底的に逮捕し、捜査し、裁判にかけ、可能な限り即座に、速やかに、厳しく処罰する」ことを主張し、モーゲンソー案では戦争を防ぐよりもかえって戦争の原因を作ってしまうと批判した。つまりスティムソンはナチの指導者に対しても裁判による処罰方式を主張したのである。

 925日に米英両首脳のケベック会談がおこなわれるが、ルーズベルトはモーゲンソーを連れて行った。この会談にあたっては、米のモーゲンソーと英大法官のサイモンはともに主要戦犯を裁判なしで即決処刑する意見を両首脳に提言しており、ルーズベルトとチャーチルはナチの指導者を裁判なしで即決処刑することに合意した[71]

 ところがその一方で、9月21日以降、アメリカのメディアがモーゲンソー・プランを暴露し、攻撃を加えた。こうした厳しい政策ではドイツを最後の最後まで抗戦するように追い込んでしまうだろうというような批判がなされた。このことはルーズベルトのモーゲンソー離れを促し、即決処刑論を阻むことになった[72]。こうしたなかでスティムソンがイニシアティブを奪うべく、陸軍省内での検討が進むことになった。スティムソンは陸軍次官補マックロイに戦争犯罪政策の検討を命じた。

 

2 陸軍省主導下の政策検討

 陸軍省内における議論で注目されるのは、9月15日付で、G1(参謀第1部)の特別計画課長Chief of the Special Projects Officeであったマレィ・バーネイズMurray C. Bernays中佐が作成したメモ「ヨーロッパの戦争犯罪人の裁判」である[73]。バーネイズは、枢軸諸国による犯罪は戦争前にもおこなわれているし、さらに人種的、宗教的、政治的理由により自国民に対してもおこなわれていることを指摘し、「これらの蛮行を処罰せずに済ませれば、数百万の人々に失望と幻滅を与えるだろう」と述べ、ユダヤ人組織からこれらの行為を戦争犯罪として扱うようにとの強い圧力がかけられているが、それはユダヤ人だけではなく多くの人々の考えを代弁していると注意を促している。そのうえで、ナチ幹部を即決処刑してもそれ以外の数千人の共犯者を処罰する問題は解決できないし、ヒトラーを殉教者に仕立て、本質的に正義の行為を報復という間違った色で汚染することになる。また略式裁判にかけるという案も同様の問題がある、と批判した。そして「解決への提案」として、「適切に構成された国際裁判所において、ナチ政府ならびにSASS、ゲシュタポを含む党と国家の代理人は、戦争法規に反して殺人、テロリズム、平和的民衆の破壊を犯した共同謀議conspiracyについて裁かれる」と共同謀議理論を使って、犯罪をおこなった政府や組織の成員であれば有罪を宣告できるとする。そのうえで、国際裁判所で裁く者以外については、同様の考え方により各国の国内裁判所で裁くこととされている。

 バーネイズのメモに添付されている「提案された国際裁判所の構成と機能」と題された付属メモには、この国際裁判所は、UNWCCに参加している各国とソ連、自由フランスから一人ずつの代表によって構成されるとされている。

 ナチなど枢軸国によっておこなわれた残虐行為に関わっている者が、政策立案から末端の個人によるものまで広範囲に及ぶために、犯罪者個人を特定したり、特定の犯罪行為と個人とを結びつけることが難しいという問題、犯罪が広範囲におこなわれているが国ごとに適用される法や法的手続が異なるという問題など、それらを乗り越えるために共同謀議論による国際裁判所という方式を提案したのだった。

 清水氏が的確に明らかにしたように、共同謀議論は、個々の将兵による犯罪を想定していた旧来の戦争犯罪概念ではとらえられない、枢軸国による組織的系統的な残虐行為、後に人道に対する罪として定式化されるような残虐行為や、大規模で組織的な通例の戦争犯罪をおこなった最高指導者や各級レベルの指導者・実行者を裁こうとして導入されてきたものだった。またこの提案は、戦争前における行為も、自国民への行為も裁こうとするものだった。さらにバーネイズがこのように考えた背景には、ユダヤ人団体の圧力とともにそれがユダヤ人の意見に留まらず、広範な国際世論であったことにも留意しておく必要があるだろう。

 1027日付でスティムソンより国務長官ハルへ出された手紙[74]では、共同謀議論を利用して、戦争前であろうと戦時中であろうと、敵国の自国民への犯罪も処罰することを肯定している。バーネイズのメモはこの手紙に添付されており、スティムソンがバーネイズを支持していたことがわかる。スティムソンは、自国民への犯罪を戦争犯罪と見なすことに消極的だったかつての姿勢を変更したのである。

 さて117日の大統領選でルーズベルトが4選を決めた直後の9日、陸軍次官補マックロイが主宰して国務、陸軍、海軍省の3省の代表などを集めた戦争犯罪の手続に関する会議が開かれた。先に紹介したように1030日にイギリス政府よりアメリカ政府に対して、UNWCCの国際裁判所案に反対する覚書が渡されており、それを受けた国務省は113日付で陸海軍省にも伝達し、それに対する米政府の見解をまとめることが必要とされていた。

 この会議のために用意された「議題」として二種類の文書が保存されている[75]が、その一つでは「連合国が公的に宣言してきたように、戦争犯罪人を効果的に裁き、処罰することが米国の基本政策である」と確認したうえで、「枢軸国の自国民への迫害を含め、人種的、宗教的、政治的理由による迫害」は共同謀議論によって処理すること、条約裁判所か、混合軍事裁判所か、軍事委員会を含む国内裁判所か、という裁判所問題については、主要な共同謀議の証明のために非常に簡素化された条約裁判所を設置するという案が記されている。そしてこうした基本的な政策について3省長官の連名で大統領に提出する手紙を陸軍省が準備することも提案している。なお侵略戦争を開始することが犯罪かどうか、などについてはさらに検討すると結論を保留している。

 もう一つの文書は「戦争犯罪人の処罰」と題され、議論すべき課題とそれに対する陸軍省の見解がまとめられている。まず「範囲scope」として、布告(命令)fiatによるのではなく司法的に解決するように「正式の戦争犯罪裁判」を採用すべきであること、「自国民に対する政治的宗教的人種的な迫害の責任者を処罰すべき」ことを陸軍省の見解として述べ、そのうえで具体的な方策として、戦争遂行の不適切な手段とともに戦争を開始することについても裁こうとするのだから軍事法廷は適当ではない、主要裁判main trialの目的は人類の厳粛な裁きをおこなうことであるのだから、国家首脳の協定や軍司令官の命令によるのではなく、しかるべく批准された条約に裁判所の管轄権の根拠が基づくべきである、として条約に基づく国際裁判所を提案している。ただUNWCCの提案しているような案は不適当であると斥けている。したがって、簡素化された条約に基づく、共同謀議罪による正式の国際法廷(軍人も構成員に選ばれる資格がある)、それに続いて下位レベルの共同謀議者たち(SA,SSやゲシュタポなどのメンバー)を裁く文民または混合あるいは軍事裁判所(国際的な根拠があるのが望ましい)、そして連合国それぞれが戦争犯罪を裁く国内軍事裁判所、の三種類の裁判所を提案している。

 119日の会議[76]では、マックロイやその陸軍省の部下たちが共同謀議論による、条約に基づく国際裁判所を主張したのに対して、国務省の法律顧問であるハックワースが理論上ではなく実際的な観点から条約による裁判所には異議を提示し軍事裁判所の方がよいと意見を述べている。条約裁判所に対する批判あるいは疑問としては、上院が批准に反対するかもしれないこと、文民の法律家たちが専門的に細部にこだわり慎重になりすぎるのではないか(軍事裁判所の方が迅速かつ公平にやれる)などが出された。また敵の降伏前に設置しようとすると報復される恐れがあるので、降伏までは公に提案しない方がよいという危惧も出された。

 会議ではマックロイが、条約裁判所と混合軍事法廷の双方を支持するとして、その旨の覚書を大統領に提出することとし陸軍省が草案を作成することを提案し、了承された。

 この会議によって、戦争犯罪政策についての陸軍省の主導権が明確になった。また枢軸国の指導者を裁く裁判所として、条約に基づく国際裁判所がその中心にすわることが明確にされた。UNWCCの条約による国際裁判所案は実際的ではないとされているが、しかし従来の戦争犯罪概念を超える犯罪を裁くためには、国際条約に根拠づけられた国際裁判所が必要であるという認識は、イギリス政府には拒否されたが、アメリカの陸軍省内で支持者を得たと言えるだろう。この会議の冒頭、UNWCCの提案に反対するイギリス政府からの覚書の内容が紹介されており、UNWCCの提案とそれへのイギリス政府の頑なな姿勢がアメリカ政府に早急な政策確立を促したとも言えよう。

 この会議を受けて、1111日には早速、大統領宛の3省長官名によるメモ「ヨーロッパの戦争犯罪人の裁判と処罰」草案が作成されている[77]。従来の狭い戦争犯罪解釈を斥け、また裁判なしの政治的処置を否定して司法手続によるべきことを明確にし、共同謀議論による、条約に基づく国際裁判所によって指導者を裁くことを提案している。この案がその後の米政府内での議論の出発点となった。そうした点でこの1111日付メモは「アメリカの戦争犯罪政策の発展における第1段階の終わりを画する」ものであるというスミスの評価はそのとおりである[78]

 

3 独自路線をとる米海軍省

さて軍のもう一方の当事者である海軍省はどう考えていたのだろうか。これまでの研究では海軍省の動向がほとんど視野に入っていないのでここで見ておきたい。

 海軍省では、海軍長官の特別顧問special assistantであるキース・ケインKeith Kaneが海軍省の戦争犯罪政策を担当し、119日の3省会議にも出席していた。1111日付の陸軍省メモは13日に海軍省にも送られ意見を求められた。翌14日付で作成された海軍省内のメモ[79]では、共同謀議論に疑義が示され、また条約裁判所への反対論に答えていないなど否定的なコメントが付けられている。こうした海軍省内での検討を踏まえ、16日付でケインからマックロイ宛にメモが送られている[80]。その中で戦争犯罪裁判は海軍省が直接の関心を持っている問題であるとしつつも、「敵の自国民に対する残虐行為の実行者の裁判は国務省の管轄する政治的問題である」とし、大統領へ共同のメモを送るのは賢明ではない、共同謀議論については海軍省でさらに検討が必要である、と陸軍省の見解に同意できない旨を伝えている。このメモではケインは省内での議論に基づく個人的な見解であると断っているが、基本的には海軍長官の見解でもあると信じると付け加えている。

 このメモを出した前日の15日には海軍省から国務省にも手紙が出され、UNWCC提案の国際法廷問題についての見解が示されている[81]。そこではUNWCCの連合国戦争犯罪裁判所案ではイギリス政府の全面的な協力が求められているがそのイギリス政府が反対している以上、この案は賢明でもないし実際的でもないと、UNWCC案に否定的な態度を表明し、そのうえで混合軍事法廷というやり方について英ソと協議することを提案している。

 その後も陸軍省とのやりとりがなされるが、121日にケインの下で開かれた海軍省内の会議においても陸軍省の条約裁判所案は「海軍としてはまったく反対である」という見解であった[82]1221日付で作成されたロビンソンRobinson海軍少佐のメモは海軍省内の議論を示している[83]。このメモのなかでも陸軍省の提案に反対しているが、その理由の一つが日本との関係である。その点について述べている箇所を引用しておこう。

 

「(陸軍省の)提案は特に海軍の観点から見ると視野が狭すぎる。なぜなら日本との戦争およびアメリカ人に戦争犯罪をおこなった日本人の訴追への考えられうる影響を考慮していないように見えるからである。共同謀議論による大量のドイツ人の裁判はドイツとの戦争が終わってからおこなわれるようだが、しかし一方で日本との戦争は続いているのだ。だから、降伏すると共同謀議者として、適切な法手続きなしに日本人の大規模な訴追とその執行がおこなわれるだろう、だから唯一の残された道は最後まで戦うしかないのだ、と言って、日本のプロパガンダの指導者たちが狂信主義の炎をたきつけるのに利用するだろう。さらに提案されている大量裁判は日本に捕まっているアメリカ人捕虜たちが日本により共同謀議罪によって裁判にかけられる先例に利用されるだろう。(陸軍省の)メモによって提案されているような訴追とその執行、あるいはほかの処罰は日本やほかの枢軸国による報復を招く深刻な可能性がある。メモの提案では条約の公式の宣言を遅らせることによって報復を避けることができると言うがそれは非現実的であるし、またドイツだけしか考慮に入れず日本のことを軽視しているように思える。」

 

 ロビンソンは、海軍省が厳密な意味での戦争犯罪のみにしか関心がないというのは誤解であると反論し、陸軍省案への代替案として、人種的残虐行為についての国内あるいは国際委員会を設置し、その議長にはペルを置き、この問題の情報収集と適切な処罰方法の勧告をさせること、UNWCCと軍司令官によって設置される混合軍事法廷との密接な連絡と協力をおこなうこと、人種的な残虐行為を扱う条約はナチとの戦争が終了した後の平和会議で取上げるように準備すること、などを提案している。そのうえで、「条約裁判所で共同謀議論によって訴追するという提案された案は、UNWCCの活動や混合軍事法廷などによる戦争犯罪の訴追を混乱させ、かつ非効果的にし、さらにアメリカ人の生命をひどく危険にさらし、日本との戦争における米国陸軍ならびに海軍の目的を妨げるだろう」と反対している。

 海軍省は、共同謀議論ならびに条約による国際裁判所設置に難色を示し、陸軍省の提案には同調しなかった。イギリス政府が反対していることも条約による裁判所を斥ける理由ともなっているし、敵の報復を招くことも危惧していた。そしてUNWCCが提案し、イギリス政府も否定していない混合軍事法廷方式を選択肢として支持していた。

なお海軍省は戦争犯罪概念の認識についても旧来の認識を引きずっている傾向が見られる。たとえば8月19日付のイギリス政府からの問合せについて国務省から意見を求められた海軍省は、自国民への犯罪の扱いについてUNWCCの管轄に含めないというイギリス政府の意見に同意している[84]

また海軍にとって日本との戦争が主戦場であったこと、事実、米海軍による戦犯裁判は太平洋においてのみおこなわれたことを考えても、日本への関心が高かった。ドイツ問題を中心に考えていた陸軍省とは違っていたと言えるかもしれない。しかしドイツによる残虐行為の深刻さ、あるいは日本による中国などにおける残虐行為の深刻さをあまり理解していなかったとも言えるだろう。

 ロビンソンのメモに示された案が陸軍省などに示されたかどうかは確認できなかったが、アメリカ政府内の議論は陸軍省主導で進められ、結局、1945122日に大統領宛に出された覚書は、陸軍、国務、司法の3長官の連名となり、海軍省は加わらなかった。その一方で、海軍は4412月には秘密裏にグアムにおいて戦犯裁判を開始し、独自の路線をとることになった[85]

 

4 協定による国際法廷案へ―アメリカの政策確定

 その後のアメリカ政府内における議論については、すでにくわしい研究がある。陸軍省のマックロイはその指導下で1111日付メモの方向でまとめようとするが、陸軍省内部の法務総監部をはじめ、国務省法律顧問、司法省からも批判を受けることになり、大統領への覚書案は何度も書き換えられることになった。批判点は、共同謀議論、侵略戦争を戦争犯罪とすること、条約による国際裁判所設立、などに向けられた[86]

 各方面からの批判を受けて陸軍省のプランは行き詰まりかけたが、19441217日ベルギーのマルメディMalmedyにおいてSSが約80名のアメリカ兵捕虜を虐殺する事件がおこり、それが大きく報道された。その結果、こうしたSSによる組織的な残虐行為を裁かなければならないという雰囲気は共同謀議論を受入れさせる土壌となった。ルーズベルトは12月にローゼンマン判事を戦争犯罪問題の大統領顧問に指名したが、ローゼンマンは陸軍省案に好意的であった。その影響があったのか、4513日ルーズベルトは国務長官宛の短いメモに署名した[87]。それはUNWCCの進行状況ならびにUNWCC米代表の、ヒトラーや主要なナチ戦争犯罪人の犯罪に対する態度をかんたんに報告せよというものであるが、それに付け加えて、「その容疑にはケロッグ条約(不戦条約)に違反して侵略戦争を遂行したという告発を含むべきである。おそらくこれら、さらにほかの容疑も共同謀議の告発に加えられるだろう」と記されていた。ここにおいて、侵略戦争遂行を訴追すること(戦争犯罪と見なすこと)、ならびに共同謀議理論を適用することを大統領の意思として示したという点で大きな意味があった。

 国際裁判所をいかにして設立するのかという問題は残されていた。1945119日の日付で、二つの案が残されており、一つは条約による国際裁判所を勧告するものであるが、もう一つは条約ではなく政府間協定によって設置される国際法廷International tribunal created by executive agreementを勧告するものとなっている。最終的には後者の案が合意を獲得し、その結果、1945122日付で国務長官ステッティニアスEdward Stettinius Jr.、陸軍長官スティムソン、法務長官ビドルFrancis Biddleからルーズベルト大統領宛覚書「ナチス戦争犯罪人の裁判と処罰に関する件」[88]が提出されることになった。

 この覚書では、ヒトラーやヒムラーのようなナチスの重要な戦争犯罪人を裁判なしに死刑に処することは、「確実で迅速な処置ができるという利点」があるが、「連合国全体に共通する最も基本的な正義の原則に反する」こと、ドイツ人はこれらの犯罪人を「逆に殉教者として考えるように」なるだろうこと、この方法では「少数の者」しか処理できないこと、を指摘して裁判なしの処刑には反対し、司法的な方法をとるべきであると提案している。そのことによって「この時代における一般の人々の最大の支持を受け、また、将来の歴史においても尊敬を受けることになるであろう」し、さらに「将来、すべての人類は、ナチスの犯罪と犯罪性に関する公式の記録を研究できることになるであろう」と理由を述べている。

 裁判の方式として、個々の特定の残虐行為に関わった者は、モスクワ宣言で規定されたように当該国の国内裁判所で裁かれることを確認したうえで、ドイツの指導者たちは関係する連合国が締結する「行政協定によって設置される国際法廷」によって裁かれることを提案している。その裁判所は文民あるいは軍人のどちらから構成されてもよいが、軍人が裁判官となるほうがよいとしている。

 この覚書において、主要戦犯を裁判にかけること、そのために政府間協定に基づく国際法廷を設置することを提案している。裁判なしの政治的処刑を否定しつつ、同時に条約あるいは協約に基づく国際裁判所も斥けている。

 ここにおいてようやくアメリカ政府の政策が固まったのである。しかしこの3長官の覚書は大統領によってすぐには裁可されなかった。24日から開かれたヤルタ会談では戦犯問題についての重要な決定はなされず、最終的に大統領が3長官覚書を裁可するのはルーズベルト死後の4月トルーマン新大統領によってであった。

 イギリス政府との交渉は4月から始まったが、ドイツ指導者を裁判にかけることにイギリス政府は抵抗して交渉は難航した。しかし5月はじめのヒトラーなどの自殺とドイツの敗北をきっかけにイギリス政府はアメリカ案への反対を取り下げてドイツ指導者の国際裁判案を原則として受入れる決定を下した。ヒトラーが法廷で演説をするというおぞましい事態がなくなったということがイギリスの態度変更を促す一因であった。その後、4大国による国際軍事法廷という米案をベースに議論が進み、88日ようやくロンドン協定ならびに国際軍事裁判所条例が調印されたのである[89]

 こうしたアメリカ政府内での議論をたどってみると、UNWCCの案、すなわち連合国が条約によって国際裁判所を設置するという案が米陸軍省内にその共鳴盤を見出したことがわかる。もちろんそれはUNWCC案通りではないが、連合国諸国が参加する国際裁判所の構想であった。従来の戦争犯罪という概念では捉えられない組織的体系的な残虐行為とそれを遂行する侵略戦争をおこなった指導者を裁くためには、国際社会の新たな合意に基づく国際裁判が必要であるという認識は共通するものであった。それが議論のなかで条約による設立という手続が放棄され、政府間協定に基づく国際法廷になり、さらに後には4大国による国際軍事法廷(ニュルンベルク裁判)、さらには米主導の国際軍事法廷(東京裁判)とアメリカの主導性が強くなっていくが、侵略戦争の議論についても、旧来の戦争犯罪の概念を超える残虐行為の扱いについてもUNWCCの議論が反映していることが見られる。人道に対する罪や、侵略戦争を戦争犯罪とみなす平和に対する罪の定式化など、UNWCCでは明確には定式化されなかったにせよ、主な議論はUNWCCにおいて展開されていたものであり、UNWCCが米の議論を引き出す条件を作り出したと言えるだろう。と同時にアメリカ主導で展開していったことにその後の戦犯処理の問題点も出てきたとも言えよう。

 

X 疎外された連合国戦争犯罪委員会   

1 巻き返しをはかるUNWCC

先に紹介した1945122日付の三長官覚書のなかで、UNWCCについて「作業の成果があがらないため、広く世論の批判を受けている」とし、「われわれは、連合国戦争犯罪委員会を、この目的(筆者注―証拠収集などの訴追の準備)のために十分利用することができないし、また、既にその本来の使命を果たしたので、現在、解散してもよいと考える」とUNWCCに厳しい見方をしていた[90]。この時点でアメリカ政府は戦犯処罰についてUNWCCの主導性を拒否し、自らが主導権を握って進める決意を固めたと言えるだろう。イギリスも、政府の意図を超えて独走するUNWCCを好ましく思っておらず、UNWCCを実務的な役割に限定しながら、重要な問題はアメリカと協議しながら進めていこうとしていた。

この後、戦争犯罪問題について、特に主要戦犯問題については米英ソの大国が主導権をとって進めていくのだが、そうした協議から排除された中小国にとって、UNWCCは戦争犯罪問題について発言できる場として残された足がかりとなった。特にオーストラリアはその代表のライトが議長になったこともあって、UNWCCを利用して主要戦犯問題についても発言していこうとした。ここではこの点について見ていきたい。

 UNWCCが戦争犯罪の捜査、犯人の逮捕、裁判に関わろうとした試みが1945531日から62日にかけてロンドンで開催した各国事務所会議National Office Conferenceだった[91]。ドイツが敗北したことを受けて、早急にドイツ戦犯問題の処理をおこなうためにUNWCCが開催したものである。各国の戦争犯罪担当部局の担当者を集めて、情報を相互に交換し、また一国では扱えない問題を処理する手続などについても議論する目的で開催された。連合国16か国の代表とともに、連合軍ヨーロッパ派遣軍司令部や米陸軍のヨーロッパ方面軍・地中海方面軍などの軍の関係者も参加した。

 会議の冒頭、ライト議長は「単に情報を集める時期は終わり、犯罪者を裁判にかけ有罪とし刑を言い渡し処罰するという行動に出るときが来た」。「犯罪人の処罰には二つの目的がある。一つは正義を求める人々の要求を満足させる懲罰であり、もう一つは将来におけるそのような犯罪を防止するための警告と模範を示すことである」と決意を示した。

 会議での議論については省略するが、各国における戦争犯罪の捜査状況や取組み体制、問題点などの状況が報告され意見交換がなされた。

 UNWCCはこの会議において声明を出すべく用意をしていた。その声明案の中には、UNWCCの下に戦争犯罪に関わる情報の記録事務所を設置しそこに情報を集約すること、複数の国から引渡し要請がある容疑者の扱いはUNWCCが決定すること、各国が起訴しない者についてはUNWCCが、設置されるであろう連合国国際裁判所に起訴する権限を有すること、関係国が捜査をできない場合にはUNWCCが捜査チームを派遣すること、などが盛り込まれていた。つまりUNWCCが戦争犯罪の情報収集にとどまらず、捜査そのものにも乗り出し、国際裁判所を設置してそこに起訴するということまで含まれていた。当時、米英仏ソの4大国の間で主要戦争犯罪人の扱いをめぐる協議が進行していたときであった。この声明案では主要戦争犯罪人についてまでは口を出すことはできなかったが、それ以外の、個別の戦争犯罪を超えた集団的犯罪についてはUNWCCが扱おうとするものであり、4大国だけで議論を進めようとすることへの対抗意識がうかがわれるものであった。

 この会議の直前の523日のUNWCC会議では、ベルギーのバエルが主要戦犯の扱いについてはまだ決着がついていないので、UNWCCが提案を出すべきだと主張し、それを受けてオランダ代表のムーアが、4大国の軍事法廷という提案は不十分であり、最もよい方法は国際刑事裁判所であり、2番目に政治的宣言、3番目にできるだけ多くの連合国が参加する軍事法廷である、と意見を述べていた。ただ議長のライトはそれに対して、「そのような決定を待っていたら、戦犯は寿命で死んでしまうだろう」と国際刑事裁判所については冷淡な評価をしていた。UNWCC内の公約数としては、4大国が主要戦犯の扱いを決定することには異議を挟まないものの、UNWCCが「重要な犯罪人key criminals」としてリストアップしていたドイツ人だけで561人にのぼっており、4大国が扱わないそれらの者についてはUNWCCが処理しようという意図であったと思われる。

 こうした声明案は当然のことながら各国から批判を受けた。米英仏代表だけでなく中国、ノルウェー、ポーランド、カナダ、インドも、そうした具体的な方策を示す文書を承認する権限を与えられていないし、本国政府と協議もしていないとして採択には留保する旨を表明した。その結果、声明案は8か国の留保意見を付けて記録として残されるだけの扱いとなった。

 UNWCCを外して主要戦犯問題を扱おうとする4大国に対抗して、連合国の代表を集め戦争犯罪処理に食い込もうとするUNWCCの意図は完全に失敗に終わった。しかし4大国が扱う主要戦犯裁判と各国国内裁判所が扱う戦犯裁判との間には、埋められるべきギャップが残されており、そうした問題の処理が解決されたわけではなかった。

 その後、718日のUNWCCの会議にはアメリカ政府を代表して主要戦犯問題を担当することになったロバート・ジャクソンRobert H. Jacksonと英司法長官マックスウェル・ファイフDavid Maxwell Fyfeが出席し、主要戦犯訴追にあたってUNWCCの協力を求めているが、もはや儀礼以上のものではなかった。88日に4大国で結ばれたロンドン協定についても、UNWCC829日にUNWCCとして承認するという議決をしているが、実質的な意味はなにもなかった。

 また日本人戦犯の問題については、戦犯捜査機関を設置することなどを含む勧告を829日に採択しているが、これもマッカーサー司令部には無視されたと言ってもよいだろう。

 UNWCCは非主要戦犯を扱うとされていたが、45103日の会議では、すでにおこなわれている戦犯裁判の報告がまったく届いていないとの不満が議長から表明される有様だった。非主要戦犯を裁き始めた各国にとってもUNWCCはもはや必要ない存在と化していた。

 

2 天皇戦犯問題とUNWCC

 日本人の主要戦犯問題が最初にUNWCCで取上げられようとされたのは、19458月だった。日本の敗戦が明らかになった814日、ライト議長は米代表のホジソンに対して、真珠湾攻撃のような戦争犯罪を起こすような計画と政策に責任のある日本人主要戦争犯罪人のリストを直ちに準備し採択すべきであると話した。そして815日の午後に開催予定のUNWCC会議において天皇ヒロヒトの名前を日本人戦犯のUNWCCのリストに入れるよう動議を出すつもりだが、この点についての米政府の見解を知りたいと語った。ホジソンは15日付の電報でこのことを国務長官に報告し指示を仰いだ[92]。同日のホジソンからの別の電報では、ライトはアメリカ政府の見解を待っており、天皇をリストに載せるという提案はしないと知らせてきたことを報告している。

 実はその前の81日の会議で日本の戦犯問題が取上げられ、そのときにライトはUNWCCが日本の重要な地位key positionsにあった者たちのリストをつくることを提案していた。

 ホジソンの報告を受けたアメリカ政府は、陸軍法務副総監であるウェイアJohn Weirがロンドンのホジソンと直接電話で話をした。それは15日のUNWCC会議が始まる直前だった。ウェイアは、「降伏の条件として天皇がその地位に留まることになっているのに、UNWCCが天皇を戦犯としてリストに載せたりしたら大変困ることになる」と言ったうえでさらに「天皇以外の主要戦犯についても、降伏条件が完全に実施されるまでどのようなリストを作ることも重大な間違いだ」「現時点では主要戦犯についてどんなリストも作らせないようにできたらたいへんよい」と日本人主要戦犯のリスト作りそのものをさせないように指示した。

 このアメリカ政府の意向はライトにも伝えられたと思われる。結局、15日のUNWCCの会議には天皇を含む主要戦犯のリスト化の件は提起されなかった。

 日本人の主要戦犯問題はもう一度UNWCCで提起された。それはUNWCCが最後の抵抗を見せたものと言えるかもしれない。仕掛けたのはオーストラリアであった。194619日の会議において事実証拠小委員会議長のベルギーのバエルが同小委員会より、UNWCCはロンドン協定で定義された三つの戦争犯罪、すなわち平和に対する罪、通例の戦争犯罪、人道に対する罪のすべてを扱うことができるという提案をおこなった。これはオーストラリアが日本人主要戦犯のリストをUNWCCに提出したことを受けての提案だった。オーストラリア代表でもある議長のライトがそれを承認する意向を表明したが、米のホジソンがただちに反対の意思を示した。もしバエルの提案を認めるのであれば、各国政府に照会して意見を聞いてからであると議論の延期を求めた。それに対してオーストラリア代表のマンスフィールドAlan James Mansfieldは、オーストラリア政府は翌2月から東京で始まる裁判の前に主要戦犯リストを作成することに重大な関心を持っており、2週間以上遅らされるのは困ると速やかに審議するよう促した。他方、UNWCCがリストを作り、参考にされたとしても実際上の効果はないのだから極東委員会にリストを送ればよいのではないかという醒めた議論も出された。それに対しマンスフィールドは極東委員会に情報としてリストを送ってもよいが、主要戦犯リストを扱う最も適当な機関はUNWCCであると反論した。結局、各国の政府に照会するために123日まで審議を延期することになった。

 しかしその会議前の17日、マンスフィールドは東京裁判のための検察官として赴任するためにロンドンを離れた。123日の会議では、オランダ政府はすべての戦争犯罪をUNWCCが扱うことに同意する旨を表明し、議長も強く同意した。米代表のホジソンは欠席していたが文書を用意しており、読み上げられた。UNWCCの扱う対象は戦争の法規と慣例、すなわち通例の戦争犯罪のみに限定するべきであるというアメリカ政府の意見が表明された。議論はさらに次回に引きつがれた。130日の会議では、議論は平行線のまま、ついには採決に持ち込まれ、UNWCCは平和に対する罪と人道に対する罪についても管轄できるという提案が、賛成9、棄権6で採択された。棄権はアメリカ、中国、フランス、カナダ、ノルウェー、ニュージーランドであった。イギリス代表が賛成したのは予想外であるが、英代表のロバート・クレイギーはUNWCCが管轄権を持っていることを認めつつ、厳しく限定して注意深く検討されるべきだという意見を付した。

 その後、オーストラリアから提出された64人の日本人主要戦犯リスト(天皇ヒロヒトを含む)について本会議と事実証拠小委員会で議論が続けられたが、213日の会議ではそのリストについて本格的に議論がなされた。米のホジソンは、すでに日本の主要戦犯を扱うための検察団が組織されており、情報も収集している。オーストラリアのリストは管轄権を持ちかつ必要な情報も持っている機関に送られるべきである、と主張しUNWCCがリストを採択することに強く反対した。米に続いてニュージーランド、中国、フランス、イギリスも反対意見を表明した。UNWCCに管轄権があると主張した英のクレイギーも、この問題を扱うに必要な材料は東京にあって、ここにはないという実際的な理由から反対した。

 こうした議論の結果、これらの戦犯についての証拠がロンドンにはなく東京にあるという理由で、オーストラリアのリストは東京の対日理事会と国際検察局に送るというホジソンの提案が全員一致で承認された[93]

 この会議の内容は翌日ホジソンからワシントンにも報告されたが、218日国務長官バーンズはホジソンに対して、UNWCCは日本人主要戦犯問題について方針を提案するだけの十分な証拠を持っておらず、国際検察局が主要戦犯リストを決定すること、アメリカ政府は、戦犯として天皇についてUNWCCで議論すべきでないという立場であることをあらためて示し、今後、この問題がUNWCCで取上げられたときには、この立場で臨むように指示した[94]。 

 このようにしてオーストラリアの主張は、オランダなどいくつかの中小国の支持を得たものの、英米中仏など大国の反対によって斥けられてしまった。アメリカ主導で進められていく東京裁判の準備に対抗して、UNWCCを足場に発言しようとしたオーストラリアの試みは失敗した。

 その後、東京裁判の検事として国際検察局の被告選定会議に臨んだマンスフィールドは、48日正式に天皇訴追を提議したが却下され、天皇が訴追されることはなかった。

 これ以降、UNWCCで重要な問題が提起されることはなかったと言ってよい。二つの主要戦犯裁判から排除され、非主要戦犯裁判にも関わることのできなくなったUNWCCは、あとはもっぱら各国の裁判の情報を収集し、理論的法的に整理する作業しか残されていなかった。

 

3 極東太平洋小委員会の活動

 ここで中国の重慶に設置された極東太平洋小委員会の活動について見ておきたい。

 UNWCCを設置したときから中国政府はアジアに戦争犯罪問題を扱う機関を設けたいと考えていた。1944510日、重慶に極東太平洋小委員会Far Eastern and Pacific Sub Commissionを設置することが承認された。ただ実際に小委員会が第1回会議を開いたのは1129日であった[95]。中国代表の王寵惠ワン・チュンフィWang Chung-huiが議長となり、11か国が参加した。王寵惠は中華民国の司法院院長や外交部部長(外相)、国際司法裁判所判事などを歴任、45年のサンフランシスコ連合国全体会議には中国代表として出席した有力人物であり、中国側の位置付けの高さがうかがわれる。小委員会に参加した国は中国、アメリカ、イギリス、オーストラリア、ベルギー、チェコスロバキア、ルクセンブルグ、フランス、インド、オランダ、ポーランドである[96]。小委員会は19473月末まで活動をおこなった。重慶という場所から、ここに集まってくる日本軍の戦争犯罪についての情報は圧倒的に中国政府が提供したものであったが、UNWCCの求める様式に従って中国政府が情報を整理する作業が遅れたこともあって、戦犯容疑者リストの作成もなかなか進まず、日本人戦犯の最初のリストが作成されたのは1945817日と戦争が終わってからであった。この日、127人分の日本人戦犯のリストが初めて配られた。その後、中国やオーストラリア、フランス、アメリカなどから日本人戦犯のリストが提出され、あるいはそれらの国から中国政府に逮捕を要請する日本人戦犯リストも提出された。そうした点で各国が日本人戦犯の情報を交換し、相互に逮捕引渡しを要請する場となった。

アメリカ軍の中国方面軍司令部法務部戦争犯罪課から重慶の米大使宛に届いた手紙(1946126日付)によると、日本軍将兵の日本への送還にあたっている中国の米軍と中国軍において、戦犯の逮捕にあたって小委員会が作成した戦犯リストがたいへん役に立っていると述べている[97]。なお4638日の会議で中国代表からなされた報告によると、小委員会が作成した6つの日本人戦犯リストの中でこれまで111名を逮捕し、そのうち108名がすでに裁判にかけられている。小委員会のリストにはない日本人戦犯57名(被害者が中国人のケース)も逮捕され裁判にかけられている。さらに日本人ではない他の国籍の者7名を逮捕し裁判にかけている。したがって合計175名を逮捕し172名を裁判にかけていると報告された。さらにアメリカ政府から中国政府に対してなされた依頼に基づいて、46210日までに79名の日本人戦犯を逮捕し裁判にかけたという。またオーストラリア政府からは22名の逮捕要請が来ているがまだ逮捕された者はいないと報告されている。連合国間で容疑者を探し逮捕引渡しを要請する、そうした実務上で小委員会が一定の役割を果たしていたといえるだろう。

19461029日の第33回会議において、小委員会の事務局長(中国人)より次のような報告がなされた。これまで日本人の残虐行為について約16万件の告発があり、中国政府の戦争犯罪担当当局が処理している。そのうち重大な内容である約3万件の訴えは、日本人戦犯に対する容疑の証拠として利用されている。小委員会に提出された約7万件のそれほど重大でない訴えは中国当局が直接扱っている。残りの6万件の訴えはまだ捜査中である。日本人戦犯の容疑を小委員会に提出する任務は19476月末までに終わらせることを最近決定したという内容であった。

1947年に入り最初の会議である114日(第36回)、中国代表から中国当局から提出すべきケースはもうあまりないし、中国の戦争犯罪事務局自体も終了しようとしているので、この小委員会も解散することを提案した。このことはすぐにロンドンの本委員会に伝えられ、本委員会も小委員会の解散を承認した。そのうえで34日の会議で、331日をもって解散することを決定し、その役割を終えた。

なお主要戦犯について中国とオーストラリアからそのリストが提出されているが、この小委員会ではほとんど議論されていない。理論的問題や政策に関する問題はロンドンの本委員会が扱ったので、この小委員会ではそうした問題についてはほとんど議論していない。興味深い事項を少し挙げれば、19451130日の第17回会議において、中国政府から提出された容疑に関して、催涙ガスとくしゃみガスの使用について、平時においても警察が使っているので、これらは戦争犯罪ではないと確認している。47114日、小委員会内に設けられている事実証拠小委員会より、台湾人に対して犯された戦争犯罪は、当時、台湾人は日本国民であったので事実証拠小委員会では取扱わないこと、タイとマラヤにおいて中国人に対して犯された戦争犯罪は現地の戦争犯罪を担当している当局に報告する、という提案がなされて承認されている。台湾人への犯罪を取扱わないということが、どのような経緯と理由で決められたのかよくわからないが、中国政府の意向が働いていることは間違いないだろう。この考え方は朝鮮人に対する犯罪を扱わないということとつながってくるだろうが、朝鮮人への犯罪が議論された形跡はない。

 なおこの小委員会を設置する議論の際にオーストラリアとオランダから重慶以外の南太平洋地域にも将来必要ならば小委員会を設置したいとの発言があり、重慶に設置したからといって他の太平洋地域に小委員会を設置することを妨げるものではないことが確認された。ただ実際には重慶以外には設置されなかった。

 

4 UNWCCの終結

 さてUNWCCは主にヨーロッパの戦争犯罪機関、たとえば、戦争犯罪人・危険容疑者中央登録所Central Registry of War Criminals and Security Suspects(C.R.O.W.C.A.S.S.)や連合軍ヨーロッパ派遣軍最高司令部SHAEFなどとは連絡をとり、情報収集に務めていたが、影響力を持つことはなかった。19474月には英代表より、年末を持ってUNWCCを解散する提案がなされるにいたった。この議論は秋まで先延ばしにされたが、4710月、1948331日をもってUNWCCを解散することを決定した。そして各国の戦犯裁判に関する法令や規則、さまざまな裁判記録などを集成した『戦争犯罪人裁判についての法報告Law Reports of Trials of War Criminals』全15巻(最終巻の刊行は19497月)と『連合国戦争犯罪委員会の歴史』の編纂をおこなって19483月末をもって解散した。

 このUNWCCの動きとは別に、19461211日、国連総会は「ニュルンベルク裁判所条例及び当該裁判所の判決によって認められた国際法の諸原則を再確認する」決議を全会一致で採択し、諸原則の法典化に向けた議論を始めていた[98]。そうした点でもUNWCCの役割はすでに終わっていたのである。

 

おわりに

 UNWCCの活動はどのように評価できるだろうか。確かにUNWCCがやろうとしたことは、イギリス政府の反対によって潰されてしまった。また実際にニュルンベルク裁判や東京裁判の内容を決め、実施するうえでリーダーシップをとったのはアメリカであった。そうした現実の国際政治のなかで、UNWCCは直接の主体として具体的な戦争犯罪政策を実施したわけではなかった。

 しかしそこでの議論と活動は、戦争犯罪の扱いに消極的だった英米を動かし、現実の戦争犯罪政策の内容にさまざまな影響を与えたことも否定できない。たとえば、従来の戦争犯罪概念を超える大規模で組織的な残虐行為の扱い(自国民に対する、戦前からの犯罪など後に人道に対する罪として定式化されるもの)、侵略戦争を戦争犯罪ととらえる議論(後の平和に対する罪として定式化されるもの)、犯罪を犯した個人にとどまらず犯罪組織についての問題、裁判所のあり方をめぐる議論(国際裁判所や混合軍事法廷など)、上官の命令という抗弁に対する扱い、など重要な論点はUNWCCで議論され、あるいは提案されていた。実務的には、連合国間の戦争犯罪についての情報交換、容疑者の逮捕引渡しなど連合国間の協力体制の検討、戦犯リストの作成とそのリストに基づく協力など一定の役割は果たした。またUNWCCの議論と働きかけが、英米両国、特にアメリカ政府を動かして戦争犯罪政策の策定を促した点も指摘できるだろう。

 国際裁判所問題について言えば、UNWCCの構想は米陸軍の中にその同調者を見出した。条約に基づいて設立され、大国のみならず多くの連合国も参加する国際裁判所というのが、陸軍省内での検討の出発点となる構想だった。しかしその後の議論のなかで、より実際的な方法に修正され、連合国の協調から4大国主導型へ(ニュルンベルク裁判)、さらにはアメリカ一国主導型(東京裁判)へとよりアメリカの主導性が強化されていってしまった。

後に国連におけるニュルンベルク原則の議論において、ニュルンベルク裁判の判事であったフランスのバブレーDonnedieu de Vabresが、「ニュルンベルク裁判は勝者の代表のみによって構成されており、国際社会を代表していない」という批判を受けていることに「大変敏感になっている」と語り、だからこそ国際刑事裁判所の設立を検討するように促したことにもその問題が示されている[99]

 一方、国際法廷としての混合軍事法廷は、部分的にそれに近い形が実際におこなわれた。対日裁判について見ると、中国を除いて対日戦においては、連合国軍最高司令官総司令部GHQ/SCAPと連合軍東南アジア司令部South East Asia Command(SEAC)の二つの連合軍総司令部があった。アメリカ裁判の中でも横浜裁判はGHQ/SCAPが制定した「戦争犯罪被告人裁判規程」に基づいておこなわれた。SEACの下でおこなわれたイギリス裁判は法的根拠はイギリスの勅令であったが、他方で連合軍組織としての機能も果たしていた[100]GHQSEACは、それぞれの管轄地域内における犯罪捜査を担当し、その司令部には連合国各国から連絡将校や捜査担当官が送り込まれ、情報の交換、容疑者の逮捕引渡しなどがおこなわれた。裁判そのものにおいても、犯罪被害者の国籍に応じて被害者の国から判事が選ばれることもあった。あるいはインドシナで日本軍によって処刑されたアメリカ兵のケースについてはSEACが担当しイギリス裁判によって裁かれ、その一方では日本国内の捕虜収容所での虐待については米兵以外が犠牲者のケースもアメリカ(GHQ)裁判で裁かれるなどの分担がおこなわれた。主要戦犯以外のさまざまな問題については、二つの連合軍総司令部が調整する役割を果たしていた。したがってBC級戦犯裁判は、基本的には各国ごとにおこなわれたと言えるのだが、一面では連合軍としての協力によっておこなわれたという性格もある。この後者の側面についてはこれまでのBC級戦犯裁判についての議論ではほとんど触れられていないが、この点を位置付けて議論する必要があるだろう。UNWCCもそうした連合国間の協力の一機関であったという性格を持っていたことも付け加えておきたい。

 UNWCCが設立される経緯やアメリカ政府の政策立案過程を見ると、戦争犯罪への取り組みは、米英など大国が主導して始まったというよりは、枢軸国、特にドイツの残虐行為の被害を受けたヨーロッパの中小国やユダヤ人など被害者たちの声から始まったことである。かれらは報復ではなく法による裁きを求めた。同時に第1次世界大戦後、戦争違法化にむけての国際的な努力をおこなってきた法律家たちがそうした被害者の声を法的に整理し戦犯処罰の具体化を議論し提言していた。そうした動きがUNWCCに合流してきたのである。戦争犯罪の処罰への動きは、大国による報復として始まったのではなく、被害者たちの声と戦争の惨禍を繰返させないように努力してきた国際的な取組みの反映として具体化されていくのである。法による裁きとは、報復ではなく、犯罪者を処罰することによって二度と同じような戦争犯罪を繰返させないためであった。勝者の裁き、あるいは勝者による報復という面ばかりを強調する日本での議論は、そうした点を見ていないと言わざるを得ない。ただ同時に、そうした取組みが大国によって主導権を奪われ、国際社会としての共同の営みという性格が換骨奪胎されていったことも見逃してはならないだろう。

UNWCCとの関連でいくつかの問題について触れておきたい。まずUNWCCにおける議論からわかるように、人道に対する罪や平和に対する罪という概念は、まずなによりも残虐行為が個々の犯罪というレベルのものではなくきわめて大規模に組織的なものとしておこなわれたことから来ている。UNWCCでの議論を見ると、後に人道に対する罪として定式化される残虐行為は、ユダヤ人への犯罪だけにとどまるものではなかった。しかし人道に対する罪として定式化されるなかで対象がユダヤ人問題に収斂されてしまい、そのこともあってか、日本には適用されないでしまった。ドイツではニュルンベルク継続裁判がおこなわれて、政府や軍、企業の幹部がある程度裁かれたが、日本に対してはGHQ裁判と呼ばれる2件(被告2人)を除いて継続裁判がなかったため東京裁判で裁かれた以外の政府や軍の幹部たちが免罪されてしまった。

BC級戦犯裁判では具体的な戦争犯罪の、現地の指揮官と実行者たちが責任を問われるケースが多かった。たとえば泰緬鉄道について言えば、BC級戦犯裁判で裁かれた被告は捕虜収容所や鉄道隊関係者、特に前者が圧倒的に多いが、実際の建設計画の実施や捕虜への食糧医薬品などの供給に責任のある南方総軍や大本営の幹部たちは、東京裁判で裁かれた東条英機陸軍大臣と木村兵太郎陸軍次官を除いては、まったく裁かれることなく終わってしまった。

 国家の最高指導者層と、現地の実行者たちとの間にいた、実質的に戦争を指導し遂行する上で要の位置にいた幹部たちの問題はUNWCCの議論ではかなり意識されていたが、実際の戦犯裁判ではほとんど処罰されないままに終わってしまったことは、大きな問題であった。非主要戦犯裁判では個々の具体的な犯罪の命令者と実行者が裁かれたため、そうした者たちが免罪されるという問題が生まれてしまった。 

UNWCCの議論において第2次世界大戦中におこなわれていた残虐行為が個人の責任を問うことによってだけでは処理できないものであることが意識され議論されていた。そこから機関あるいは集団の責任が問題とされていった。共同謀議論が生まれてきた経緯を見てもそのことが意識されていただろう。しかし機関や集団の責任が問われるときにおいても、刑法上では結局は個人の罪が問われることになる。刑事裁判としての戦犯裁判という方法ではこの問題は解決できない問題として残るだろう。

 旧来の戦時国際法の理解では、戦犯裁判は戦時中におこなわれることによって相互に違法行為を抑制するという目的を持っていた。しかし第2次世界大戦においては相手側からの報復を恐れて裁判を控え、戦後に裁判を実施することになった。その結果、勝者のみが裁判をおこなうことになった。なおこの点から見ると、日本が戦時中にB29の搭乗員を軍律裁判にかけて処罰したことは戦犯裁判と言えるかもしれない。こうした問題はあらためて検討が必要だろう。

 枢軸国自らが戦犯処罰をおこなう自主裁判については、日本ではGHQによって禁止されたが[101]、ドイツでは連合国の方針で実施された。連合国管理理事会法第10号(19451220日公布)に基づき、人道に対する罪(ただしドイツ人によるドイツ国民ないしは無国籍者に対する不法行為のみに限定)を処罰する権限がドイツの裁判所に与えられた[102]。日本とドイツの間でなぜこのような違いが生まれたのか、明確に説明できる準備はまだないが、その一つの原因として、本稿で指摘したように、戦争犯罪概念を狭く理解しようとしていたイギリス政府が、自国民への犯罪は枢軸国の後継政府が裁くように外交的圧力をかけるという提案をしていたことがあるのではないかと思われる。この点についてもさらに検討が必要である。

 本稿で見てきたようなUNWCCの目指したものは国際協調に基づき、より普遍的な性格を持つ国際裁判所を設立することによって、旧来の戦時国際法によってはカバーすることのできない、枢軸国によるすさまじい戦争犯罪を裁こうとするものだった。こうした動向を引き継いだアメリカ政府内の議論も当初の案は国際協調的な性格を持っていた。しかしその後の展開のなかでアメリカ主導型に変化していき、東京裁判ではアメリカの利害が露骨に出るようなものになった。もちろん東京裁判においても国際法廷という性格上、アメリカの思惑通りに進んだわけではなかったが、天皇の免責をはじめアメリカの戦後対日対東アジア政策の一部という性格が強かった。こうした国際協調と米主導との対立は、現在の国際刑事裁判所をめぐる動向や国連とアメリカとの緊張関係など、今日にまでそのまま引き継がれており、今日の対立の出発点が第2次世界大戦中にあることがわかる。そういう意味でも本稿で取上げた戦争犯罪とその処罰をめぐる課題はいまだに解決されていない今日的課題である。

 

 

 

(注)



[1]  A級とBC級という区別は戦後一般化する概念であり、しかもアメリカ以外では使われていない呼称である。戦時中は一般に、主要major戦争犯罪(人)と非主要minor戦争犯罪(人)という区別の仕方をしている。イギリスなどは一貫してその呼称を用いている。したがって本稿の扱う時期については基本的に主要―非主要という区別で表現する。なお日本政府が持っている戦犯裁判関係資料は、近年ようやくいくらか公開されるようになったが、プライバシーなどの理由で重要な多くの資料が非公開扱いになっており、これが研究を妨げる大きな要因になっている。

[2]  拙著『裁かれた戦争犯罪―イギリスの対日戦犯裁判』岩波書店、1998年、拙稿「BC級戦犯」『歴史と地理』(山川出版社)532号、20003月、「連続討論・戦後責任 第2回 BC級戦犯裁判」『世界』20032月、における筆者の発言、参照。

[3]  欧米における連合国の戦争犯罪政策の形成についての研究としては、Bradley F. Smith, The Road to Nuremberg (New York: Basic Books, Inc., 1981), Bradley F. Smith, The American Road to Nuremberg: The Documentary Record 1944-1945 (Stanford: Hoover Institution Press, 1982), William J. Bosch, Judgment on Nuremberg: American Attitudes Toward the Major German War Crime Trials (Chapel Hill: The University of North Carolina Press, 1970), Arieh J. Kochavi, Prelude to Nuremberg: Allied War Crimes Policy and the Question of Punishment(The University of North Carolina Press, 1998),などがあげられる。日本では、大沼保昭『戦争責任論序説』東京大学出版会、1975年、清水正義「先駆的だが不発に終わった連合国戦争犯罪委員会の活動 1944年―ナチ犯罪処罰の方法をめぐって」『東京女学館短期大学紀要』第20輯、1998年、同「アメリカにおける共同謀議論の成立―資料紹介と解説」『東京女学館短期大学紀要』第22輯、2001年、同「『共同謀議罪』はなぜ必要とされたか」『季刊戦争責任研究』第35号、20023月、日暮吉延『東京裁判の国際関係』木鐸社、2002年、など。

[4]  粟屋憲太郎『東京裁判論』大月書店、1989年、同『未決の戦争責任』柏書房、1994年、など。

[5]  委員会の歴史については、The United Nations War Crimes Commission, History of The United Nations War Crimes Commission(London: HMSO, 1948)。以下、Historyと略記する。 

[6]  本稿で使用する資料について紹介しておく。UNWCCの資料は、アメリカ国立公文書館National Archives and Records Administration(NARA)とイギリス国立公文書館Public Record Office(PRO)にそれぞれ所蔵されている。それぞれの代表が受け取った文書ならびに本国との連絡文書などであり、二つの公文書館が所蔵する資料は重複しているものとそうでないものとがある。NARAでは、RG238UNWCC関係資料群であるが、それ以外にRG59(国務省資料)、RG153(陸軍法務総監部資料)RG125(海軍法務総監部資料)、RG107(陸軍長官資料)にも関連資料が含まれている。PROでは、TSTreasury Solicitor大蔵省法律事務所)、CAB(Cabinet内閣)LCOLord Chancellor大法官)、WOWar Office陸軍省)の各シリーズに収録されている。UNWCCの資料には原則としてNARAの資料番号を記した。なおPROでは、UNWCCの議事録や文書は主にTS26/66-74に含まれている。

 米英両政府の政策形成についての資料も上記の資料群に含まれている。米政府資料については、RG107に含まれている陸軍長官スティムソンと陸軍次官補マックロイの戦争犯罪関係資料がとりわけ重要である。またUNWCCと米政府との関係についてはRG59に含まれている国務省法律顧問Legal Advisorの資料に貴重なものが含まれている。なお日暮氏の研究ではこれらの資料がまったく利用されていない。NARA資料については、資料の含まれているRG(Record Group)/Entry/Boxを、PRO資料については、分類番号とファイル番号(例 WO235/933)を記す。資料の一部はすでに邦訳されているものもあるが、原文の英文と照らし合わせて筆者の判断により手直ししたものもある。

なおNARAでの資料調査においては、佐治暁人、広瀬貴子、村井則子の3氏の協力を得、また荒敬、内海愛子、中野聡、吉見義明の各氏に協力、アドバイスをいただいた。グレッグ・ブラッドシャー、ジョン・テイラー、ローレンス・マクドナルドなどNARAのアーキビスト各氏には一方ならぬお世話になった。特に広瀬氏には長期間にわたって調査のアシスタントとして多大の貢献をしていただいた。記して感謝したい。本稿のための資料調査にあたっては、関東学院大学より大学特別研究費(2002年度)を、日中歴史研究センターより歴史研究支援事業の研究助成(20012002年度)を受けた。

[7]   History, p.87.

[8]  Ibid., p.91.

[9]  Ibid., pp.105-106, 法務大臣官房司法法制調査部『戦争犯罪裁判資料 第4号 R.H.ジャクソン報告書』1965年、9頁(以下、「ジャクソン報告書」と略記)

[10]   Kochavi, pp.28-32.

[11]  Ibid., p.28

[12]   History, pp.111-112.

[13]   Kochavi, p.72, 日暮、69頁。

[14]  戦争中の戦犯裁判としては、ソ連がドイツ人戦犯を裁いたKharkov裁判(194312月発表)と米海軍がグアムでおこなったいくつかの裁判がある。前者については、Kochavi, pp.66-67,後者については、拙稿「グアムにおける米海軍の戦犯裁判」『季刊戦争責任研究』第4041号、20036月・9月、参照。

[15]  History, pp.107-108. 法務大臣官房司法法制調査部『戦争犯罪裁判関係法令集』第1巻、1963年、に邦訳がある。

[16]  RG238/Entry52JTR/Box1. 以下、本章においては、注記のないものはUNWCC議事録からの引用である。会議の回数を記していない場合には議事録番号を文中に記す。たとえば、M1というのは第1回会議録を意味する。PROでは、委員会の議事録はTS26/67-68に収録されている。

[17]  清水論文(1998年)130頁。

[18]  RG107/Entry180/Box1. 清水論文(2001年)65頁、参照。

[19]  清水論文(2002年)参照。UNWCCのフランス代表であるグローは、19456月からおこなわれた4大国のロンドン会議にも参加しているが、その際にフランス政府の見解として、「ただ単に侵略戦争を開始するというだけでは、犯罪とならない」としたうえで、「われわれは、疑わしくない事実、すなわち、戦争を国際法に違反して行なうことは、犯罪であるということから出発するのであり、それを元にして事件を組み立てるのである。また、その責任は、犯行を行なった者とこれを扇動した者に及ぶのである」「われわれは、まず争う余地のない犯罪があることを明らかにし、次いで上に向ってその責任の線をたどってゆき、戦争の先導者にまで到達しようとするのである」と説明している(719日会議議事録、ジャクソン報告書、406-408頁)。まず戦時国際法に明らかに違反した具体的な戦争犯罪があり、しかもそれが大規模に組織的におこなわれるような戦争をおこなったという理由でその侵略戦争を遂行した国家指導者を裁こうという議論であった。侵略戦争そのものを戦争犯罪として裁くべきであるという考えも、出発点は従来の戦争犯罪の理解を超えるような、大規模で組織的な犯罪がおこなわれているという現実であったと言えるだろう。

[20]  スティムソンからハル宛、19441127日付(RG107/Entry99/Box5).

[21]  この問題についての議論の経過は、History, pp.274-280, 拙著『裁かれた戦争犯罪』112-115頁、参照。

[22]   Commission Documents, C.86(RG238/Entry52Q/Box1)ならびにM531945321日)。

[23]  History, pp.94-99.

[24]  以下、この会議の活動については、ibid., pp.99-104.

[25]  中国社会科学院近代史研究所訳『顧維鈞回憶録』1-3、中華書局、1983-85年。中国関係の人物ならびに文献については笠原十九司氏からご教示をいただいた。

[26]   UNWCCにおける議論において、最終的には連合国戦争犯罪裁判所United Nations War Crimes Courtという名称になる国際法廷について、文民裁判所civil court、条約裁判所treaty courtなどさまざまな言い方で言及されているが同じものを指している。つまり文民裁判所としての性格を持ち、連合国間の条約treatyまたは協約conventionによって設立される裁判所であるので、こうして簡略化されて言及されているからである。混合軍事法廷Mixed Military Tribunalsは、Inter-allied military tribunalあるいは単にMilitary Tribunalと言及されることが多い。本稿ではcourtは裁判所、tribunalは法廷と訳した。ただしUNWCCの議論のなかでも両者はしばしば混同して使われており、それほど厳密に使い分けられていたわけではない。なおUNWCCで二つの法廷案が決まるまでの議論の経過については、清水論文(1998年)、にくわしい。

[27]  Committee U Documents(RG238/Entry52Q/Box1). 

[28]  Commission Documents, C46(RG238/Entry52Q/Box1). 本会議に提出された文書はC+番号を付されている。

[29]   Commission Documents, C50(1) (RG238/Entry52Q/Box1). 

[30]   Commission Documents, C52(1) (RG238/Entry52Q/Box1).

[31]  United Nations-General Assembly, International Law Commission, Historical Survey of the Question of International Criminal Jurisdiction,(Memorandum submitted by the Secretary-General), New York, 1949, pp.7-8. 藤田久一『戦争犯罪とは何か』岩波新書、1995年、32-39頁。

[32]  Ibid., pp.8-12. 大沼、97-100頁。

[33]  Ibid., pp.12-14. 大沼、100頁、藤田、69-70頁。

[34]  Ibid., pp.14-18.

[35]  Commission Documents, C60 (RG238/Entry52Q/Box1).

[36]  TS26/84.

[37]  TS26/84.

[38]   TS26/84.

[39]  RG59/Entry1372/Box30.

[40]  RG153/Etnry146/Box21. UNWCCの提案についての米政府内での議論はこのBoxに関連資料がまとめて収録されている。

[41]  この間の動きは、Kochavi,pp.118-121.

[42]   Commission Documents, C68 (RG238/Entry52Q/Box1). History, pp.453-454も参照。

[43]   Commission Documents, C23, C23(1) (RG238/Entry52Q/Box1). 

[44]  この戦時閣議を含め、英政府内での議論については、Kochavi,pp.151-155参照。

[45]  RG59/Entry1372/Box30.

[46]  FO371/39005/C1744(Kochavi, p.155より).

[47]  一連の戦時内閣での議論については、CAB65/35-36, CAB66/42(PRO). 拙著『裁かれた戦争犯罪』23頁、Kochavi,pp.73-75, 参照。

[48]  CAB65/44, 66/55, LCO2/2662. 

[49]  CAB65/44, 66/57. 拙著24-25頁、参照。

[50]  米代表指名の経緯については、Kochavi, pp.51-52.

[51]  RG59/Entry1369/Box6.

[52]  差出人不明(国務次官補ブレッキンリッジ・ロングBreckinridge Longか?)、国務省法律顧問ハックワースHackworth宛、1943119日付(RG59/Entry1369/Box6)。

[53]  たとえば、ハルよりペル宛、19431228日付(RG59/Entry1369/Box6)。

[54]  RG59/Entry1369/Box6.

[55]  Ibid..

[56]  Ibid..

[57]  Ibid..

[58]  RG238/Entry52L/Box7.

[59]  ペルより大統領宛、1944316日付(RG59/Entry1369/Box6)。

[60]  ペルより国務長官宛、1944620日付(RG59/Entry1369/Box6)。プレウスの妨害については、ペルよりバールBerle国務次官補宛、194465日付、も参照。

[61]  RG59/Entry1369/Box6.

[62]  スティムソンより国務長官宛、1944623日付(RG238/Entry52L/Box7)

[63]  ペルからハーストへの手紙、19441111日付(RG238/Entry52K/Box3)。

[64]  国務長官ステッティニアスよりペル宛、1945117日付(RG59/Entry1369/Box6)。Kochavi,p.125参照。

[65]  この1944年秋から45年春までの米政府内での議論については、注3で紹介したようにスミス、コチャヴィ、日暮氏などの研究があり、ほぼ基本的な流れと論点は明らかにされている。ただ日本での唯一の研究と言ってよい日暮前掲書では、アメリカ政府内で戦争犯罪問題の担当者であった陸軍長官スティムソンと陸軍次官補マックロイの文書(RG107)がまったく利用されていない。特にマックロイ文書は重要であろう。またUNWCCの議論が米政府内の議論にも影響を与えているが、その点について日暮前掲書ではほとんど評価されていない。

[66]  国務省法律顧問ファイルを見ても、戦争犯罪政策をめぐるファイルはUNWCCをめぐる英政府とのやりとりから始まっている(RG59/Entry1369&1372の各Box資料)

[67]  RG153/Entry145/Box14.

[68]  Smith(1982), pp.27-29.

[69]  Smith(1982), p.28.

[70]  Smith(1982), p.30.

[71]  Kochavi, pp.87-88, Smith(1982),pp.31-32.

[72]  Kochavi, pp.88-89.

[73]  War Crimes Working File, No.14(RG107/Entry180/Box1).  File ASW000.51 War Crimes, Jan. 1943 thru Dec.1944(RG107/Entry180/Box3)にも収録されている。全文の邦訳は、清水論文(2001年)67-71頁。 Kochavi, pp.157-158,参照。

[74]   War Crimes Working File, No.14(RG107/Entry180/Box1).

[75]  Ibid., No.18. 第1の文書にはタイトルも日付もない。

[76]  Ibid., No.19. この会議録の主要部分は、清水氏が邦訳して紹介している(清水、2001年)。

[77]  Ibid., No.20.

[78]  Smith(1982), p.12.

[79]  作成者不明、ケイン宛、Keith Kaneファイル(RG125/Entry13/Box11)

[80]  同上。War Crimes Working File, No.21(RG107/Entry180/Box1)にも収録。

[81]  War Crimes Working File, No.21.

[82]  121日の会議メモ、 Keith Kaneファイル。

[83]  Keith Kaneファイル。

[84]  海軍長官フォレスタルJames Forrestalより国務長官宛、194498日付(RG125/Entry13/Box11)

[85]  グアム裁判開始をめぐる動きについては、拙稿「グアムにおける米海軍の戦犯裁判(上)」参照。

[86]  各部局間のこうした議論のやりとりは、War Crimes Working File (RG107/Entry180/Box1)に収録されている。またSmith(1981), Chapter3&4、参照。

[87]  Smith(1982), p.92.

[88]  RG107/Entry99/Box5, RG107/Entry180/Box1,など。邦訳はジャクソン報告書、1-10頁。

[89]  45年1月以降の経過については、スミスや コチャヴィほか多くの研究があるのでそれらを参考にしていただきたい。4大国の交渉の詳細は、ジャクソン報告書を参照。

[90]  ジャクソン報告書、3頁、8頁。

[91]  この会議の議事録や書類については、RG238/Entry52JTR/Box1

[92]  RG59/Decimal Files/Box3641/File 740.00116 P.W.7-145, 8-3145.

[93]  対日理事会と極東委員会の理解が混乱しており、後日、両者に送ることになった(227日)。

[94]   RG59/Decimal Files/Box3642/File 740.00116 P.W.2-1446.

[95]  極東太平洋小委員会の活動内容については、同小委員会の会議録Far Eastern and Pacific Sub Commission Minutesを参照(RG238/Entry52K/Box4)。なおUNWCC内では、この小委員会とは別に「極東太平洋小委員会設置についての委員会」Committee on the Establishment of A Far Eastern and Pacific Sub-Commissionがロンドンに設けられている。この小委員会は、UNWCCの極東支部ないしは機関を設置したいという中国政府からの提案に基づいて、その問題について検討するために設けられた委員会であり、194454日から61日まで3回開かれ、重慶に極東太平洋小委員会を設置すること、ならびにその詳細を決定している。第4回と第5回は、19452月に開かれ、ここでは1941128日、つまり太平洋戦争開始以前の時期の犯罪を扱うかどうかという問題が議論された。中国はそれ以前から日本の侵略を受け、数多くの残虐行為を受けていたので、それ以前の犯罪も扱うように求めていた。これは中国政府の要求通りの線で了承された(文書FEC1-5)。さらに「特別極東太平洋委員会」Special Far Eastern and Pacific Committee1945813日と27日の2回だけ開催され、日本の戦争犯罪問題についての勧告案を議論している(文書SFEC.M1-2, RG238/Entry52JTR/Box1)。これらの委員会は3つともに中国代表が議長を務めている。

[96]  ただしルクセンブルグの代表は一度も出席していないので、参加国は実質10か国である。

[97]  極東太平洋小委員会文書D17RG238/Entry52K/Box4)。

[98]  国連でのその後の取組みについては、United Nations—General Assembly, International Law Commission, The Charter and Judgment of the Nuremberg Tribunal: History and Analysis, Memorandum submitted by the Secretary-General, 1949, 神谷龍男編著『国際連合の基本問題』酒井書店、1973年(第4章国際連合と戦争犯罪)、藤田前掲書、参照。

[99]  1947513日国際法法典化委員会での発言(Historical Survey of the Question of International Criminal Jurisdiction,p.25)。

[100]  SEACの戦争犯罪にかかわる活動については、拙著『裁かれた戦争犯罪』参照。

[101]  日本の自主裁判をめぐっては、Nagai Hitoshi, ‘War Crimes Trials by the Japanese Army’, Nature-People-Society: Science and the Humanities(関東学院大学経済学部総合学術論叢『自然・人間・社会』), No.26, January 1999, 参照。

[102]  石田勇治『過去の克服―ヒトラー後のドイツ』白水社、2002年、53-56頁。