【用語の解説】

  満州侵略/満州開拓/太平洋戦争/十五年戦争/
 大東亜共栄圏/従軍慰安婦/
戦後処理  

                                  林 博史


これは、『歴史学事典 第7巻 戦争と外交』弘文堂、1999年、に書いた中からいくつか選んだものです。参考文献がくわしいので、便利だと思います。2005.3.1upload


満州侵略 まんしゅうしんりゃく

 日露戦争以来の日本による中国東北(満州)への侵略。1931918日の柳条湖事件により満州侵略は全面的なものとなった。日本にとって満州は朝鮮植民地支配の安定化とともに、仮想敵国ロシア(ソ連)との戦争に備えるうえで重要な位置を占めていた。

 日露戦争において日本はロシアと朝鮮・満州を戦場として戦い、その結果、大連、旅順を含む関東州を中国から租借し、東清鉄道の南半分を奪って南満州鉄道(満鉄)を設立した。そして満鉄と満鉄付属地を警備するための理由で関東軍を配備する権利を獲得した。これらを日本は「満蒙特殊権益」として、さらに拡大をめざした。満州を武力占領するために19286月には関東軍高級参謀河本大作らの謀略によって張作霖を爆殺したがこれは失敗に終わった。その後、1931918日関東軍は奉天(現在の瀋陽)郊外の柳条湖で満鉄の線路を爆破し、これを中国軍の仕業だとして軍事行動を開始した。天皇や軍中央はその行為を黙認し、翌年2月にはハルピンを占領、ついには満州全土を占領下においた。国際連盟や諸外国からの批判をかわすために323月に満州国を建国させた。これには清朝最後の皇帝であった愛新覚羅溥儀を連れてきて執政(後に皇帝)にすえ、「五族協和」などのスローガンを掲げさせたが、実際には関東軍が実権を握っていた。しかし反満抗日勢力による抵抗は活発におこなわれ、日本軍はこれらの「匪賊討伐」を繰り返し行わなければならなかった。

 こうした日本軍の満州侵略に対して中国国民政府は国際連盟に提訴し、これによりリットン調査団が送られた。満州国を認めないリットン報告書は33年2月国際連盟総会で賛成42、反対1(日本)、棄権1(シャム)で採択され、日本は連盟を脱退し国際的孤立化の道を歩むことになった。さらに日本軍は満州を足場にして華北への浸透をはかり「華北分離工作」を進めた。これが1937年からの日中戦争へといたることになる。
 その後ドイツ軍のソ連攻撃を好機として
19417月には関東軍特種演習を実施し、約85万人の日本軍を満州に終結させてソ連への侵攻の機会をうかがった。しかしドイツ軍の攻勢が予想に反して進まず、極東のソ連軍の西方への移動があまりおこなわれなかったために日本軍は年内の対ソ攻撃を中止、その後南進に転じた。
 太平洋戦の形勢が不利になるにつれ、関東軍は精鋭を南方に割かざるをえなくなりソ戦に対して攻勢にでることは放棄し、防衛策を取らざるを得なくなったが、194589日のソ連の攻撃によって関東軍はたちまち敗走し、満州国は崩壊、満州侵略の歴史に終止符を打った。

[関連文献] 臼井勝美『満州事変』1974. 岡部牧夫『満州国』三省堂、1978.浅田喬二・小林英夫編『日本帝国主義の満州支配』時潮社、1986.沢地久枝『もう一つの満州』文芸春秋社、1982.古屋哲夫『日中戦争』岩波書店、1985.藤原彰・今井清一編『十五年戦争史 1 満州事変』青木書店、1989.鈴木隆史『日本帝国主義と満州』上下、塙書房、1992. 山室信一『キメラ―満州国の肖像』中央公論社、1993. クリストファー・ソーン(市川洋一訳)『満州事変とは何だったのか』草思社、1994.

 

満州開拓 まんしゅうかいたく

 満州事変による満州国の建設とともに満州の経済開発も着手された。1932年から大蔵省や商工省の官僚が送り込まれ関東軍に協力して開発にあたった。対ソ戦にむけて軍需生産、特に鉄鋼、石炭、硫安などの増産が図られた。太平洋戦争下で労働力が不足すると中国人労働者を強制労働させて補ったが、多くの犠牲者を出した。

 一方、大恐慌によって窮乏した本土の農村への対策として、また対ソ戦にむけた軍事力の補助として満州への移民が1933年から始められた。1936年に関東軍の計画に基づいて20か年百万戸送出計画を立て、500万人を送出そうと本格的に移民を進めた。1938年からは村を分割して集団で移民する分村移民が開始された。移民にあたってはすでに耕作していた中国人を追い出して土地を奪い取ることも行われ、移民が日本軍による武力を背景にしていたことを示していた。また同年からは15歳から19歳の男子によって編成された満蒙開拓青少年義勇軍も送り込まれはじめ、太平洋戦争中にはこれが満州移民の主力となった。終戦時の在満邦人約155万人のうち、開拓団や義勇軍などの移民は約27万人に達した。これらの移民の多くはソ連との国境地域に沿って送り込まれた。

 太平洋戦争で日本の形勢が不利になるにつれ、関東軍から精鋭部隊が南方に引き抜かれていった。そのため開拓団などから在留邦人を根こそぎ徴兵したが訓練も装備も不十分な部隊であった。19455月に大本営は満州南部の新京(長春)より南に防衛線を作ることを決定したが、開拓団には伝えなかった。取り残された開拓団はかかしの役割を果たさせられた。ソ連軍の攻撃が開始された89日には関東軍司令部は新京を放棄して朝鮮との国境に近い通化へ「転移」した。そのため成年男子を徴兵で取られて老人や女性子どもばかりが残されていた開拓団は関東軍に置き去りにされ、ソ連軍に蹂躙されることとなった。ソ連軍による殺傷、強姦、略奪をうけ、集団自決した開拓団もあった。その中で数千人の子どもたちが中国人に引き取られて生き延び、後に中国残留孤児と呼ばれるようになった。死者は在満邦人全体では約17万6千人とされているが、うち8万人あまりは開拓団ら移民であり、彼らの犠牲の多さは際立っている。

[関連文献] 満州開拓史刊行会編『満州開拓史』私家版、1966.満州移民史研究会編『日本帝国主義下の満州移民』龍渓書舎、1976.小林弘二『満州移民の村』筑摩書房、1977.岡部牧夫『満州国』三省堂、1978.桑島節郎『満州武装移民』教育社、1979.中村雪子『麻山事件―満州の野に婦女子四百余名自決す』草思社、1983.井出孫六『終わりなき旅―「中国残留孤児」の歴史と現在』岩波書店、1986.藤田繁『草の碑―満州開拓団・棄てられた民の記録』能登印刷出版部、1989

 

太平洋戦争 たいへいようせんそう

 1941128日、日本軍のマレー半島上陸と真珠湾攻撃によって始まり、1945年8月15日の日本の無条件降伏、9月2日の降伏文書調印によって終わった戦争。日本はドイツ、イタリアと結んで、英米蘭中など連合国を相手に戦った。十五年戦争の第三段階であり、また第二次世界大戦の中のアジア太平洋地域での戦争でもある。当時の日本では「大東亜戦争」と呼んでいたが、戦後、アメリカの呼び名である太平洋戦争が使われるようになった。しかしこの名称ではもっぱら日米間の戦争というイメージが強く、中国や東南アジアなどの地域が抜け落ちるために近年ではアジア太平洋戦争と呼ぶことが多い。

 日中戦争において泥沼にはまり込んだ日本は、ドイツが電撃戦でフランスなどを打ち破ったことに刺激されて日独伊三国同盟を締結した。19417月には南部仏印進駐をおこなってアメリカとの関係が悪化、アメリカから石油の禁輸などの制裁を受けた。これにより日本は対英米開戦を選んだ。東南アジアを占領して石油などの重要資源を確保し自給自足の経済圏、いわゆる大東亜共栄圏の建設をはかった。そのためにアメリカ、イギリス、オランダなどを相手に開戦し、半年間に東南アジアにとどまらず西部太平洋、インド洋にまで戦線を拡大した。占領地には軍政をしき資源の確保を最優先するとともに日本軍に抵抗する民衆を徹底的に抑圧した。しかし19426月のミッドウェイ海戦の敗北、8月からのガダルカナルでの敗北などにより形勢は逆転した。19447月にはマリアナ諸島が陥落して日本の敗北は必死となった。しかし天皇と軍部は形勢逆転を期待して戦争を継続、本土への空襲、沖縄の陥落、原爆投下とソ連の参戦をへてようやくポツダム宣言を受諾して戦争は終わった。

 この太平洋戦争の性格としては第1に世界の再分割をめざしファシズムないしは独裁的な体制を取る日独伊の枢軸国と、人民の政体選択の自由や恐怖と欠乏からの自由などを含む連合国憲章を掲げた連合国との戦争であり、言い換えればファシズムと反ファシズムとの戦争であった。第2に後発帝国主義国である日本が先発帝国主義国である英米蘭などに挑んだ帝国主義国同士の戦争であった。第3に中国や東南アジアなどを日本の支配下におこうとする日本のアジア民衆に対する侵略戦争であった。そのため日本は各地で強力な抗日勢力と戦うことになった。なお民族運動の観点から見れば、時には日本に協力することもあったが、最終的には日本を含めた帝国主義諸国を追い出し独立を勝ち取るための方策であり、全体として民族解放戦争であった。これら以外にも日ソ戦などいくつかの性格が複合しているのが太平洋戦争の特徴である。            

[関連文献] 日本国際政治学会編『太平洋戦争への道』1〜7、朝日新聞社、19621963.家永三郎『太平洋戦争』岩波書店、1968(第二版1985).歴史学研究会編『太平洋戦争史』1〜5、青木書店、19711973.藤原彰『太平洋戦争史論』青木書店、1982.木坂順一郎『太平洋戦争』昭和の歴史6、小学館、1982.藤原彰・今井清一編『十五年戦争史 3 太平洋戦争』青木書店、1989.クリストファー・ソーン(市川洋一訳)『太平洋戦争とは何だったのか』草思社、1989.入江昭『太平洋戦争の起源』東京大学出版会、1991.森武麿『アジア・太平洋戦争』日本の歴史20、集英社、1993.細谷千博・本間長世・入江昭・波多野澄雄編『太平洋戦争』東京大学出版会、1993. 山田朗『大元帥 昭和天皇』新日本出版社、1994.クリストファー・ソーン(市川洋一訳)『米英にとっての太平洋戦争』草思社、1995.木坂順一郎「アジア・太平洋戦争の歴史的性格をめぐって」『年報日本現代史』創刊号、1995.

 

十五年戦争 じゅうごねんせんそう

 1931918日の柳条湖事件から1945815日の敗戦までのあしかけ15年にわたって日本がおこなった戦争の総称。段階としては1931年からの満州事変、193777日の盧溝橋事件からの日中戦争、1941128日のマレー半島と真珠湾攻撃からの太平洋戦争と三段階に分けることができる。この太平洋戦争の段階において日本の戦争は第二次世界大戦の一部に組み込まれた。
 十五年戦争という言葉は鶴見俊輔が最初に使い始めた。この三つの戦争をばらばらにではなく内的に連関した一連の戦争として捉えようとするのが特徴である。つまり満州事変のうえに華北分離工作があってそれが日中戦争へつながり、日中戦争の行き詰まりを打開する方策として南進が図られ、東南アジア占領を目指して英米と戦う太平洋戦争にいたるという連関である。太平洋戦争前の日米交渉の争点が満州国あるいは日本の中国侵略をどうするのかという問題であり、満州事変と日中戦争なしには太平洋戦争はなかった。もちろん満州事変から必然的に太平洋戦争に至ったとは考えておらず、途中のいくつかの段階で別の選択肢があったことを見ながらも、三つの戦争の連関を重視している理解である。

 十五年戦争論に対しては、塘沽停戦協定によって満州事変と日中戦争との間には断絶があり連続した戦争とは言えないとする批判がある。日本軍は黒龍江省、吉林省、遼寧省の東3省(満州と呼ばれていた地域)をおさえ、1933年に入ると熱河省と河北省に侵攻した。同年5月に中国側と塘沽停戦協定を結び戦闘はいったんは終わったが、熱河省全体と河北省の一部を満州国に組み入れ、また河北省東部からの中国軍の撤退を認めさせ、日本軍は華北分離工作の足がかりを確保した。ここを拠点とした日本軍の工作が中国側に危機意識を与え、抗日救国を訴えた中国共産党の八一宣言が出されることになる。日本軍による華北分離工作の強化とそれに反発する中国側の抗日機運の高まりの中で盧溝橋事件がおきたのである。日本は一撃を与えれば中国は屈服すると考えたが、それは誤りであった。偶発的な事件である盧溝橋事件が日中戦争に拡大していった原因は満州事変の中で生まれていたのであり、両者の連続性を重視するのが十五年戦争論である。
 十五年戦争という議論にはいくつかの批判はあるが、一連の戦争を関連付けて理解するという点で広く使われるようになっている。            

[関連文献] 歴史学研究会編『太平洋戦争史』1〜5、青木書店、19711973.『岩波講座日本歴史』2021、岩波書店、1976~1997.黒羽清隆『十五年戦争史序説』三省堂、1979. 鶴見俊輔『戦時期日本の精神史』岩波書店、1982.江口圭一『十五年戦争の開幕』昭和の歴史4、小学館、1982.藤原彰『日中全面戦争』昭和の歴史5、小学館、1982.木坂順一郎『太平洋戦争』昭和の歴史6、小学館、1982.石島紀之『中国抗日戦争史』青木書店、1984.歴史学研究会・日本史研究会編『講座日本歴史』(10)近代4、東京大学出版会、1985.藤原彰・今井清一編『十五年戦争史』1〜3、青木書店、19881989.江口圭一『十五年戦争小史』青木書店、1986(新版1991).江口圭一『二つの大戦』体系日本の歴史14、小学館、1989.森武麿『アジア・太平洋戦争』日本の歴史20、集英社、1993

 

大東亜共栄圏   だいとうあきょうえいけん

 太平洋戦争中に日本が掲げたスローガン。19407月に成立した第二次近衛内閣の外務大臣松岡洋右が就任直後の記者会見で「わが国眼前の外交方針としては、この皇道の大精神に則りまず日満支をその一環とする大東亜共栄圏の確立をはかるにあらねばなりません」と語ったことが、最初に使われたケースである。その以前の193811月に近衛内閣は「東亜新秩序」声明を出していた。そこでは日本、満州、中国の提携を意味していたが、それをさらに東南アジア地域まで拡大しようとしたのが大東亜共栄圏であった。第二次近衛内閣は「基本国策要綱」を決定し南進を目指した。松岡外相は日独伊三国同盟さらに日ソ中立条約を締結し南進の条件を整えていった。このことが太平洋戦争に至ることになる。

 太平洋戦争の緒戦の勝利により日本軍は東南アジアから西部太平洋にいたる広大な地域を占領下におき軍政を敷いた。開戦の直前の194111月に大本営政府連絡会議が決定した「南方占領地行政実施要領」では「占領地に対しては差当たり軍政を実施し治安の回復、重要国防資源の急速獲得及作戦軍の自活確保に資す」とし、そのためには「民生に及ぼさざるを得ざる重圧は之を忍ばしめ」「独立運動は過早に誘発せしむることを避くるものとす」とされていた。つまり石油などの重要資源を獲得するために住民に負担をかけながら独立運動は押さえるというものであり、大東亜共栄圏とは日本が必要な資源を獲得し戦争を遂行するためのものであることを示していた。19435月の御前会議において、ビルマとフィリピンには形だけの独立を与えるが、マラヤ、スマトラ、ジャワ、ボルネオ、セレベスを帝国領土と決定し重要資源の供給地とすることを秘密裏に決定したことに大東亜共栄圏がスローガンでしかなかったことが示されている。

 大東亜共栄圏では日本を中心とする自給自足の経済圏を作ろうとしたが、日本にはそれだけの経済力はなく、欧米諸国との交易に依存していた東南アジア経済は破綻した。また日本軍の占領に抵抗する住民は徹底した抑圧をうけ、シンガポールやマレー半島での華僑粛清など殺された者も多かった。また泰緬鉄道の建設などのためにロームシャとして動員され命を落とした住民や従軍慰安婦にされた女性も多かった。こうした過酷な占領に対して抗日運動が広がっていった。フィリピン、ベトナム、マレー半島では抗日ゲリラが活発に活動し、ビルマの民族主義者たちは表面的には日本軍に協力しながらも連合国と通じて最終的に日本軍を追い出した。インドネシアでは日本軍に協力しながら独立の準備を進めた。日本は欧米帝国主義国にかわってアジアの盟主になろうとしたが、連合軍による反撃とともに民族運動の高まりによって大東亜共栄圏は崩壊することになった。 

[関連文献]  小林英夫『「大東亜共栄圏」の形成と崩壊』御茶ノ水書房、1975.ヤン・プルヴィーア(長井信一監訳)『東南アジア現代史』東洋経済新報社、1977.岩武照彦『南方軍政下の経済施策』汲古書院、1981.内海愛子・田辺寿夫編著『アジアから見た「大東亜共栄圏」』梨の木舎、1983.田中宏編『日本軍政とアジアの民族運動』アジア経済研究所、1983.鈴木静夫・横山真桂編著『神聖国家日本とアジア』勁草書房、1984.防衛庁防衛研究所戦史部編『史料集 南方の軍政』朝雲新聞社、1985.小林英夫『大東亜共栄圏』岩波ブックレット、1988.吉川利治編著『近現代史のなかの日本と東南アジア』東京書籍、1992.小林英夫『日本軍政下のアジア』岩波新書、1993.浅田喬二編『「帝国」日本とアジア』近代日本の軌跡10、吉川弘文館、1994. 疋田康行編『「南方共栄圏」―戦時日本の東南アジア経済支配』多賀出版、1995. 

 

従軍慰安婦 じゅうぐんいあんふ

 戦時に軍の占領地などにおいて軍の管理下におかれ、一定期間拘束されて将兵たちの性の相手をさせられた女性のことである。従軍慰安婦という場合には十五年戦争期における日本のケースを指すのが普通であるが、近年ナチス・ドイツも同様のことを行っていたことが解明されてきており、日本の例にとどまらずこの言葉が使われてきている。なおこの言葉は実態を示していないとして「(軍)性奴隷」と呼ぶべきだとする議論もある。

 日本軍による慰安所の最初の例としては1932年初めに上海に設けられたものが確認されている。その後1937年日中戦争が始まり、南京に侵攻していくに際して、虐殺、略奪、強姦をくりかえした。地元女性に対する強姦が治安維持のうえで問題だと考えた中支那方面軍は南京やその周辺に慰安所を設置した。その後、日本軍が占領した中国各地に慰安所が設けられた。さらに太平洋戦争が始まると東南アジア・太平洋各地の占領地にも慰安所が設けられ、戦争末期には本土決戦準備の過程で国内にも慰安所が作られた。
 日本軍が慰安所を設置した理由としては、強姦の防止、民間の売春宿では性病にかかる危険性が高いので軍が管理する慰安所を設けて性病予防を図ったこと、休暇制度もなく将兵を長期間、戦場に留めておくために「慰安」を与えようとしたことなどがあげられる。

 当初は派遣軍司令部が慰安所設置を企画し、業者を選定して日本本土や朝鮮、台湾に派遣し、軍や警察が便宜を与えて女性を集めさせ、慰安所の経営も業者にさせるケースが多かった。その際に日本の工場でいい仕事があるというように詐欺で連れてくることが多かった。他方、前線の各部隊では地域の有力者に強制して女性を集めさせたり、ゲリラ討伐に出動した際に若い女性を拉致してくることもあった。こうした場合の慰安所は軍直営のことも多かった。慰安婦にされた女性の出身は日本本土、朝鮮・台湾などの植民地、中国、東南アジアなどの占領地のほぼすべてにわたっている。またインドネシアで抑留されていたオランダ人も慰安婦になることを強要されたケースがある。

 従軍慰安婦の研究は1970年代に千田夏光による先駆的な仕事があるが、重大な戦争犯罪・人権侵害としてはあまり注目を受けず、1991年に韓国で元慰安婦が初めて名乗り出たことによって被害の実態が明らかになった。それを契機に関連する資料の発掘、元慰安婦の名乗り出が続き、研究が進んだ。しかし地域によって慰安婦たちがおかれた状況は多様であり、特に東南アジアや太平洋地域の実態は不明の部分が多い。同時にナチス・ドイツでも同じような慰安所があったことが明らかにされ、また旧ユーゴスラビアの内戦におけるすさまじい性暴力の実態がわかるにつれ、戦時における性暴力の代表的なケースとして日本軍の慰安婦制度を考えようとする研究が進み始めている。    

[関連文献] 千田夏光『従軍慰安婦』双葉社、1973.吉見義明編『従軍慰安婦資料集』大月書店、1992.国際公聴会実行委員会編『世界に問われる日本の戦後処理@「従軍慰安婦」等国際公聴会の記録』東方出版、1993.鈴木裕子『「従軍慰安婦」問題と性暴力』未来社、1993.韓国挺身隊問題対策協議会・挺身隊研究会編/従軍慰安婦問題ウリヨソンネットワーク訳『証言・強制連行された朝鮮人軍慰安婦たち』明石書店、1993.吉見義明『従軍慰安婦』岩波新書、1995.吉見義明・林博史編著『共同研究 日本軍慰安婦』大月書店、1995.川田文子『戦争と性―近代公娼制度・慰安所制度をめぐって』明石書店、1995.国際法律家協会/自由人権協会・日本の戦争責任資料センター訳『国際法から見た「従軍慰安婦」問題』明石書店、1995.クリスタ・パウル/イエミン恵子ほか訳『ナチズムと強制売春―強制収容所特別棟の女性たち』明石書店、1996


戦後処理 せんごしょり

 戦争によって引き起こされた諸問題、たとえば領土の確定、財産権の処理、償金・賠償の支払いなどを処理すること。通常は平和条約(または講和条約)のなかで取り決めがなされ、これにより戦争は完全に終了することになる。
 従来の戦争では戦勝国が敗戦国から領土の割譲、戦費に見合った償金
indemnityを取ることが通常であった。しかし第1次世界大戦の戦後処理の中で、侵略戦争などに対する戦争責任、戦争犯罪人の処罰、あるいは償金ではなく被害を回復するための賠償reparationsを支払うという考え方が出てきた。これは第二次世界大戦の中で連合国によってさらに発展させられ、理念としては領土の割譲は否定され、償金ではなく賠償の考えが採用された。

 日本に関しては、連合国による戦後改革の実施、戦犯裁判による戦争犯罪人の処罰などをへて、1951年に調印されたサンフランシスコ平和条約によって戦後処理がなされたが、賠償については要求する個々の国との交渉に委ねられた。この条約にはソ連などが調印せず、さらに長年にわたって日本によって植民地支配をうけた韓国・北朝鮮や最も日本による戦争の被害を受けた中国が招かれなかったことから、きわめて中途半端な平和条約になった。ソ連とは1956年に日ソ共同宣言により国交を回復し国連加盟を実現したが、その後、千島列島などの領土問題などで対立し今日にいたるまでまだ平和条約を締結していない。賠償については1954年のビルマに始まりフィリピン、インドネシア、南ベトナムの計4カ国と賠償協定を結び賠償をおこなった。それ以外にタイやマレーシア、シンガポールなどとは賠償に準ずる協定を結び無償援助や経済協力をおこなうことによって賠償に代えた。一方、日本はアメリカの圧力により台湾政府と日華平和条約を結び、中華人民共和国を承認しなかった。ようやく1972年に国交を回復し、1978年に日中平和友好条約を結んだ。韓国とは1965年に日韓基本条約などを結び計五億ドルの経済援助を供与することで戦後処理をおこなった。北朝鮮とは1991年から国交正常化にむけた交渉が開始されたがいまだに国交は回復しておらず、日本の戦後処理にとって国交を正常化していない最後の国家となっている。

 このようにしてソ連と北朝鮮を除いて基本的に国家間の戦後処理は終了した。しかし一方で戦後処理とは国家間の問題にとどまらず個人の人権に関わる問題であるという認識が生まれてきた。日本に関しては、サンフランシスコ平和条約や東南アジア諸国との賠償協定、あるいは日韓基本条約などの二国間条約などによっても解決されていない、戦争の被害者への償いの問題が浮かび上がってきた。具体的には従軍慰安婦をはじめとして日本軍による戦争犯罪の被害者への個人補償がなされていないこと、朝鮮台湾などの植民地出身の軍人軍属らが日本国籍を失ったとして援護の対象からはずされていること、軍票による被害や軍事郵便貯金の払い戻しなど債務の返還がなされていないこと、日本国内でも原爆被爆者や空襲被害者、治安維持法の被害者などへの補償がなされていないこと、在日韓国朝鮮人に対する差別扱いがいまだになされていることなど個人の人権という観点から個人への戦後処理がなされていないことが、特に1990年代に入り大きな問題になった。

 その背景としては冷戦構造の解体、韓国などアジア諸国の民主化の進展によりそれまで押さえ込まれていた被害者たちが声をあげはじめたこと、日本の大国化が進むなかで日本国内で過去の侵略戦争や植民地支配を問い直す運動や研究が始まったこと、ドイツがおこなっているナチスの被害者への個人補償の事例が紹介されるようになり、80年代末からアメリカが太平洋戦争中におこなった日系人に対する迫害を謝罪し個人補償を始めたことなどが指摘できる。このように日本が冷戦の下で自らの戦争責任の問題を回避してきたことを問い直そうとするものとして戦後補償運動がおきた。こうしたなかで戦争被害者への金銭的な補償にとどまらず名誉回復措置、医学的心理的なケア、真相究明と公的な謝罪、再発防止策などを含めた戦後補償を求める動きが広がった。国家間の協定により戦後処理は終わるのか、それにとどまらず人権を侵された個人への補償も必要と考えるのか、をめぐって国際的な議論がなされているのが1990年代の状況である。     

 [関連文献] 鹿島平和研究所編『サンフランシスコ平和条約』日本外交史27、鹿島平和研究所、1971.大蔵省財政史室編『昭和財政史―終戦から講和まで 第1巻 総説 賠償・終戦処理』東洋経済新報社、1984.大沼保昭『東京裁判から戦後責任の思想へ』有信堂、1985(第41997).渡辺昭夫・宮里政玄編『サンフランシスコ講和』東京大学出版会、1986.吉川洋子『日比賠償外交交渉の研究』勁草書房、1991.内海愛子・田辺寿夫編著『語られなかったアジアの戦後』梨の木舎、1991.戦後補償問題研究会編『在日韓国・朝鮮人の戦後補償』明石書店、1991.田中宏『在日外国人』岩波新書、1991(新版1994).ハンドブック戦後補償編集委員会編『ハンドブック戦後補償』梨の木舎、1992(増補版1994).国際公聴会実行委員会編『世界に問われる日本の戦後処理@「従軍慰安婦」等国際公聴会の記録』東方出版、1993.日本弁護士連合会編『世界に問われる日本の戦後処理A戦争と人権、その法的検討』東方出版、1993.日本弁護士連合会編『日本の戦後補償』明石書店、1994.粟屋憲太郎ほか『戦争責任・戦後責任』朝日新聞社、1994.「特集 白書 日本の戦争責任」『世界』1994.2.荒井信一『戦争責任』岩波書店、1995.中村政則・天川晃・尹健次・五十嵐武士編『過去の清算』戦後日本・占領と戦後改革 第5巻、岩波書店、1995. 小田部雄次・林博史・山田朗『キーワード日本の戦争犯罪』雄山閣、1995.殷燕軍『中日戦争賠償問題』お茶の水書房、1996.