『ジャイロスGYROS』 第5号 2004年8月

沖縄戦の真実

                               林 博史


 この「ジャイロス」に書いたものは、当初、「沖縄のやさしさが日本を救う」という特集の一つとして執筆を依頼されたものでした。「沖縄のやさしさが日本を救う」などという発想そのものがひどいと考えたのですが、そうした内容のものを読もうとする読者によんでもらうことには意味があると思ったので、編集者に対して、特集の企画の趣旨そのものを批判するが、それでもよいのならば執筆してもよいと問い合わせたところ、OKをもらったので執筆しました。編集者の懐の広さにお礼申し上げます。刊行されたものをみたところ、特集のタイトルは「沖縄の苦悩」となっていました。私の批判をきちんと受けとめていただいた編集者の真摯な姿勢にはあらためて敬意を表します。
 なお私は自分では「真実」という言葉は使いません。「真実」を書いている、あるいは見極められるとは思っていないので、おそろしくて自分の文でそんな大それた言葉は使わないのですが、これは編集部が付けたタイトルに従ったものです。  
2004.11.9 記


沖縄戦とは  

満州事変から日中戦争へと中国に対する侵略を進めた日本は、さらに一九四一年からはアジア太平洋へと侵略を拡大し、当初は広範な地域を占領下に収めた。しかし米軍の反攻の前にじりじりと押しもどされ、四四年七月にはサイパンなどマリアナ諸島を奪われ日本本土はB29の直接の空襲にさらされるようになった。この時点で戦争としては決着がついていたが日本は戦争をずるずると引き延ばし、四四年一〇月には米軍はフィリピンに上陸した。アメリカは日本を降伏させるには本土上陸までせざるをえないと判断し、そのための中継補給の拠点として沖縄を占領することを考えた。そのことを予想していた日本も沖縄に十万人の軍を配置した。

沖縄戦とは、こうしたアジア太平洋戦争の最終盤、一九四五年三月末から六月末までの約三か月間、日米両軍の間で激しい戦闘がおこなわれ、最終的に米軍が沖縄を占領した戦いである。なおその後も散発的な戦闘は続き、沖縄の日本軍が降伏調印式をおこなったのは九月七日であった。約五十万人の沖縄住民が巻き込まれ、約十五万人が犠牲になった。ほかに軍夫や日本軍慰安婦として連行されてきた朝鮮人一万人以上、本土出身の日本兵六万五千人、米兵一万四千人などあわせて二〇数万人が犠牲になった。

 日本本土で多数の住民を巻き込んだ地上戦としては沖縄戦が唯一の戦いだった。それまで朝鮮、中国、東南アジア、太平洋諸島など外地で侵略戦争を戦ってきた日本軍が、多数の自国民を抱えて戦い、民間人の犠牲が軍人を上回った戦闘であった。  

本土の犠牲にされた沖縄

 なぜ沖縄戦がおこなわれたのか。天皇をはじめとする政府・軍首脳は、米軍を本土に迎え撃つ本土決戦を覚悟しその準備をすすめていたがそのための時間をかせぎたかった。同時にできれば沖縄で米軍に一撃を与えて、天皇制(当時の言葉では「国体」)を維持した形で戦争を終わらせたいという願望もあった。四五年一月に策定された大本営の作戦計画では沖縄は本土に含まれていなかった。沖縄守備軍は全滅することを予定されており、その軍に協力させるため、沖縄の人々は「一木一草」にいたるまで戦力化することが図られ「軍官民共生共死」がうたわれた。つまり軍に役に立つものは根こそぎ動員し、軍人と同じように役人も民間人も戦って死ねという思想が叩き込まれ実践された。沖縄の人々は民間人も含めて本土の利益のための捨石にされたのである。その一方、元々琉球王国であり日本ではなかった沖縄の人々を日本軍は不信の目で見ていた。貧しかった沖縄では移民が多かったが、沖縄にもどっていたその人たちは米軍のスパイと疑われた。日本軍は沖縄の人々を徹底して利用しながらも信用しなかった。そこには沖縄の人々の生命や安全を守るという発想はまったくなかった。

 日本軍によって殺された沖縄の人々

 沖縄戦の最大の特徴と言ってよいのが、日本軍によって多くの沖縄住民が殺されたことである。戦闘が始まる前に沖縄の日本軍は沖縄の方言を話す者は間諜(スパイ)とみなして処分せよと命令を出していた。軍用語で「処分」とは「処刑」のことである。戦場で、日本軍の後方で、あるいは米軍占領地域で、日本軍による住民殺害がおこなわれた。米軍に保護されたり食糧をもらった者、米軍に投降しようとした者はスパイだとして殺された。今年になって見つかった新しい資料では、警察や密偵を使って、米軍の占領地区で保護されている住民の動向を密かに探り、米軍に協力している者を見つければ殺せという命令が出されていた。沖縄本島の西にある久米島では、住民しかいないから攻撃しないでくれと米軍に頼み、住民を救った者はスパイとして処刑された。

戦闘の邪魔になるという理由で殺された者も多かった。自然の壕(ガマ)に隠れているとき、赤ん坊などが泣くと米軍に知られるというので小さな子どもたちが殺された。戦場で精神に異常をきたした住民も殺された。壕に隠れていた住民を追い出して兵隊たちがそこに入っていった。壕の外は「鉄の暴風」と言われるような米軍の砲爆撃が荒れ狂っており、壕から出されることは死を意味した。この壕追い出しの結果、死に追いやられた人の数は数え切れない。また住民が持っている食糧を軍が強奪することもしばしば起きた。

 住民は日ごろより軍や役場、学校を通じて、米軍は鬼畜だから捕まると辱めを受けて殺されると教え込まれていた。そのため捕まるよりは自決したことも多かった。米軍の呼びかけに応じて投降すれば助かったのに。これは間接的に日本軍に殺されたと言って良いだろう。

 昨年見つかった新資料によると、日本軍は米軍に夜襲をかけるとき住民の服を着て住民の振りをして攻撃せよとの命令を出していた。実際にそうした攻撃をおこなっていた。米軍を欺くためだったのだが、この命令書は米軍の手にわたりそれを翻訳した米軍は注意するように各部隊に伝達していた。そうすると米軍は、相手が住民に見えても日本軍かもしれないからと考え見境なく攻撃を加えた。日本軍は住民を利用しようとはしたが、住民を守るという発想がまったく欠落しており、そのため住民の犠牲がますます増えてしまった。

 軍は食糧を確保し住民は餓死

米軍が上陸しなかった宮古八重山諸島でも多くの住民が日本軍によって強制労働や強制疎開をさせられ、飢えやマラリアによって多くの犠牲を出した。人口三万人あまりの八重山では三六〇〇人あまりが犠牲になった。特に波照間島は島民全員が強制的に石垣島のマラリア地帯に移住させられ、一二七五人中四六一人が死亡した。強制移住の理由の一つは家畜をすべて軍の食糧にするためだったと見られており、しかもわざわざマラリアの多い地帯に強制疎開させられている。宮古島にいた日本軍が本土に送った電報によると、住民が飢えで苦しんでいるときにも日本軍は六か月分の食糧を蓄えていたことがわかっている。沖縄守備軍であった第三二軍の参謀長長勇は沖縄戦が始まる前に、住民が餓死するから食糧をくれといっても軍は応じるわけには行かないと新聞で公言していたが、まさにそうした事態が生み出されたのである。

こうした点は今日的な問題でもある。二〇〇三年に制定された有事法制、さらに今年制定された国民保護法などを見ても、自衛隊という軍の行動を円滑にすすめ、軍に必要な民間人を動員するための規定は詳細に定められていても、一般住民の生命と安全を守るための措置はきわめて不十分である。沖縄戦は有事法制のシミュレーションとして貴重な経験であるが、きちんと反省されているとはとてもいえない。

 なぜひめゆりはあれだけ犠牲になったのか

 沖縄戦というとひめゆり女子学徒隊が有名で、修学旅行でも観光バスに乗ってもひめゆりの塔には必ずといってよいほど立ち寄る。彼女たちはけなげにも負傷兵の看護に努め戦火のなかで倒れた、沖縄戦の悲劇の象徴とされている。しかし彼女たちはなぜ死んだのか、その理由を考えてほしい。沖縄陸軍病院に動員されたひめゆり学徒の死者は一三六人にのぼる。そのうち実際に治療にあたっていた(ほとんど治療とも言えないものだったが)南風原にいた5月下旬までの死者は一一人にとどまっていた。南部に撤退し壕に潜んでいた、六月一八日の解散までの時期の死者を加えても計一九人である。つまり死者の八割以上は解散以降に生じている。彼女たちが属していたのは病院だったのだから壕の入口に赤十字あるいは白旗を掲げていれば助かっていた。ほかの高等女学校の生徒が所属した野戦病院では、白旗を掲げはしなかったが、軍医が捕虜になってでも生きなさいと生徒たちを諭したおかげで女生徒たちは自決せず多くが生き延びたところもあった。しかしひめゆりの場合、そうではなかった。もし陸軍病院の責任者が女生徒だけでも助ける意思があれば、赤十字か白旗を掲げていれば多くの生徒たちは助かり、ひめゆりの悲劇などという物語は生まれなかっただろう(一九人の犠牲をけっして軽視するつもりはないが)。彼女たちは当時の日本国家とその指導者たちによって殺されたのであり、生きることができたはずの人たちだった。  

日本軍の作戦が住民を犠牲に

 そもそも日本軍が首里にとどまっていれば、住民の犠牲は数分の一で済んだだろう。日本軍は当初は首里に立てこもる計画だったが、本土決戦準備の時間かせぎをするためにあえて南部に撤退することを決めた。日米両軍の激戦地の中部地区でさえも住民の死者の半数以上は南部撤退後に生じており、南部住民の死者のほとんどが撤退後である。南部には多くの住民が避難しており、そこに日本軍が流れ込んできたことが住民の犠牲を甚大なものにした。さらにさかのぼれば、沖縄戦の始まる前に近衛文麿元首相が昭和天皇にすみやかに戦争を終わらせるように提言したとき、天皇は米軍に一撃を与えてからだと近衛の上奏を却下し沖縄戦に期待をかけた。沖縄戦での多くの住民犠牲はけっして戦争だから起きたのではなく、人為的な要因が積み重なって引き起こされたものなのだ。

 ひめゆりの塔やその側の資料館を訪ねた人たちは戦争の悲惨さを感じることはあっても、彼女たちを死に追いやった者たちまでは考えが及ばない。すべての原因は戦争一般に解消される。そうしたことを引き起こした国家社会の仕組みや責任者は忘却されていく。そうやって侵略戦争と残虐行為の責任者実行者たちは免罪され戦後も生き延びていくのである。誰も責任を感じず責任をとろうとしない、無責任社会日本はこうして再生産されてきた。そうしたところから戦争責任の自覚など生まれようがない。

両面性を持つ米軍

ところで米軍はどうだったのか。沖縄戦の体験者の証言を見ていくと、米兵は鬼畜だと教えられていたので怖かったが、捕まえた住民のけがの手当てをしてくれたり食糧をくれたり親切だった、むしろ日本軍の方が怖かったと語る人がたくさんいるのに気がつく。ガマの入口に来た米兵は通訳(日系2世が多かった)を通じて、助けるので出てこいと呼びかけて、出てきた人々を保護した。すでに保護した住民を使ってそうした呼びかけをさせることもあった。米軍に捕まったものはスパイだとして襲撃してくる日本軍から住民を守ることさえあった。これは沖縄住民が抵抗しないように日本軍から切り離す戦略の一つだったが、その結果多くの住民が生き延びることができたことも事実である。

その一方で捕まえた成年男子を処刑したり、女性を暴行するなどの行為も少なくなかった。あるいは日本軍と住民が混在しているところでは、見境なしに攻撃を加えた。もちろん日本軍の戦術がそうした米軍の対応を招いたのだが。四四年一〇月一〇日に米軍がおこなった沖縄への空襲(十・十空襲)では那覇の民間地区を無差別に爆撃し、市内の九割は壊滅した。元々、民間地区は攻撃対象にはなっていなかったが、予定の攻撃対象を破壊してしまった米軍機が民間地区もついでに攻撃を加えた結果だった。米軍もけっして人道的であったわけではなく、自分たちの損害を防ぐことが第一であり、そのためには民間人が多数いることがわかっていても攻撃を加えた。また米兵による住民への犯罪はほとんどが見逃された。  

今日まで続く住民犠牲

 こうした米軍の戦争のやり方は今も続いている。米軍はピンポイント爆撃と称しながら実際には多くの民間人が犠牲になっている。地上戦では、たとえばある地点から攻撃を受ければ、そこが住宅密集地であってもその一帯を徹底して砲爆撃を加え破壊する。民間人であっても自軍の防衛のためには警告なしに攻撃するという方法は現在イラクでごく普通におこなわれている。

四月にファルージャで米軍は七〇〇人以上のイラク人を殺害したが、その虐殺としか言いようのない攻撃は沖縄戦でのやり方を思い起こさせるものがある。ファルージャでの戦闘には沖縄の海兵隊も参加していた。かれらの沖縄駐留は日本政府が支持し経費の多くを出していることはよく知られている。そうした海兵隊のために日本政府は北部の辺野古に数千億円をかけて新しい海上基地を建設しようとまでしている。住民を犠牲にしながらもそうした戦争を反省しようとしない日米両政府の軍事同盟がイラクでの米軍による住民被害を増大させている。沖縄戦は今につながっている。 

 国家に抵抗した人々

 沖縄戦が語られるときにほとんど無視されてきたことはたくさんある。そのなかの一つが日本軍や政府の命令、教えに反して、自分や家族の、さらには多くの住民の生命を守った人たちのことである。有名なのは中部の読谷村のシムクガマという自然壕に隠れていた住民約千人がハワイ帰りの二人の判断で集団投降し助かったケースである。そのうちの一人の比嘉平治さんはハワイでバスの運転手をして英語を少し話すことができた。だからアメリカ人は鬼畜だという宣伝にも惑わされず、アメリカに戦争を挑んだ日本の無謀さをわかっていた。壕に米軍が来たときに血気にはやる青年たちが竹やりで挑もうとしたが、彼らを押しとどめ、自らが出て行って米兵に住民しかいないと説明し投降して助かった。住民数百人あるいは数十人が集団で米軍に保護されたケースはほかにもたくさんある。そこでは地域の指導者が軍や政府の宣伝を鵜呑みにせず、米兵と話をし、住民を説得しみんなで助かっている。もちろん日本軍がそこにいればそうした人たちはスパイとして殺されていたので、日本軍がいないことが助かるための必要条件だったことは言うまでもない。 

 「非国民」が人々の生命を救った

 沖縄現地で召集された防衛隊員(正規の軍人であるが補助的な役割をさせられた)の場合、戦場で脱走した者がたくさんいた。彼らは軍の中で本土出身兵に差別虐待されたため、こんな連中と一緒に死ねないと考えた。三〇代、四〇代の隊員は家族のことが心配で逃げ出す者も多かったし、戦況から日本軍は負けると判断しこんな戦争で死ねないと考えた者もいた。本土出身兵の中にも脱走した者が少なくない。こんな戦争で死ぬことはないと部下の防衛隊員に脱走を勧めたり黙認した将校や下士官もいた。ただ日本軍に見つかると殺されるし、砲爆撃の中をくぐってうまく米軍に捕まることも難しかったので脱走したけれど戦場で倒れたケースも少なくなかった。生徒を軍に動員された中学校や女学校の教師や軍の将校・軍医の中にも生徒たちを戦闘に巻き込むことに反対していた人たちがいた。県立第二中学では配属将校が食糧がないことを理由に生徒たちを家に帰した。県立農林学校では引率教師が銃殺される覚悟で生徒を家に帰した。

 たしかに軍や政府の宣伝や教育にだまされていた人々が多かったが、他方、そうしたうそを見抜き自分の頭で状況を考え判断し行動した人たちもけっして少なくなかった。彼らは当時の言葉でいえば「非国民」であったが、その「非国民」こそが多くの住民の生命を救ったのである。このことは国家の言うことを批判的にとらえ、自らの頭で考えることの大切さを示している。しかしこうした人たちの存在は政府にとっては都合が悪い。お国のために働いて死んだひめゆり学徒のことは知られてもよいが(もちろん彼女たちを死に追いやった責任は問われない形で)、そんな「非国民」の存在は闇に葬ってしまいたい、というのが戦後の日本政府と社会の思惑だった。だから沖縄でもシムクガマの入口にある碑のほかはこうした人々の存在を示す記念碑は残念ながらない。

 沖縄のやさしさとは

 沖縄は日本に組み込まれてから差別され続けてきた。沖縄の人個人への差別、沖縄戦、戦後は沖縄を米軍占領に差し出し(昭和天皇がアメリカに軍事占領を継続してほしいと申し出たことはよく知られている)、日本復帰後も在日米軍基地の七五%を沖縄に押し付けている。そうした沖縄の人々の悲しみや苦しみ、怒りを本土の人間たちは知らん振りをする。沖縄に行けば、ひめゆりの塔などは訪れるにしても、沖縄戦の悲劇は本土の責任抜きの戦争の悲劇一般に解消され、基地を押し付けている自分たちの責任(そうした日本政府を選んでいるのは本土の有権者なのに)は考えようとしない。沖縄戦の語られ方も本土の側が自分たちにとって都合のよい側面だけを選びだしてきた。いま、沖縄のやさしさというのが一種のブームだが、それも沖縄の悲しみや怒りは無視して、自分たちに耳障りのよい「やさしさ」だけを語る点では、同じ構造だろう。沖縄に犠牲をおしつけておきながら、沖縄のやさしさに救われるとは、あまりにも本土のエゴイズムむき出しではないだろうか。沖縄の悲しみや怒りを正面から直視しその原因を解決すること、その責任を果たさないままに沖縄のやさしさを云々できる資格が本土の人間にあるのだろうか。