VAWW-NET Japan編『日本軍性奴隷制を裁く2000年女性国際戦犯法廷の記録 Vol.6 女性国際戦犯法廷の全記録(U)』緑風書房、2002年、所収

 女性国際戦犯法廷  判決解題 判決の事実認定に関して

                             林 博史


 日本軍性奴隷制を裁く女性国際戦犯法廷の判決についての歴史的な事実認定への解説として書いたものです。この解説よりも判決全文ならびに法廷の全記録を読んでください。  2004.6.24


 ここでは歴史的な事実認定に関する部分について説明しておきたい。

すでに二〇〇〇年一二月に「認定の概要」が発表された際に述べられていたように、首席検事と各国検事団からそれぞれ起訴状が出されたが、首席検事が起訴した一〇名の被告についてのみの判決となっている。いずれにせよ昭和天皇の戦争責任について初めて正面から取り組んだ法廷であり、日本軍の「慰安婦」制度=性奴隷制と性暴力について昭和天皇を有罪と認定したという点でも歴史的意義を有することはくりかえすまでもない。特に判決第二部「事実の認定」では、日本によるアジア諸地域への侵略の歴史から「慰安所」制度が導入され各地に展開されていく過程が法廷に参加した各国・地域ごとに詳細に述べられている。とりわけ「慰安所」における女性たちのおかれた状況、さらに戦後も続いた苦しみなど女性たちの被害の実相を徹底的に明らかにしている。研究者や市民たちによって明らかにされてきた日本軍をはじめとする公文書や諸史料もふんだんに利用されており、地道な調査研究の成果と被害者の証言(加害者側の元日本兵の証言もあるが)とが結合して、この判決を生み出したと言えるだろう。

 この判決は、日本軍「慰安婦」制度について書かれた概説書でも研究書でもない。判決の特徴あるいは留意すべき点についていくつか指摘しておきたい。第一にこの裁判は東京裁判の到達点の上に立って、東京裁判が裁かなかったこと(天皇の戦争責任や「慰安婦」制度など)を裁き、東京裁判の限界を今日的に乗り越えようとするものであった。判決の注記を見るとわかるように、東京裁判の判決がしばしば引用されているのはそのことを示している。東京裁判において、「通例の戦争犯罪」の一部としてではあるが、中国やフィリピンなど日本軍の占領地における強かんや「強制売春」などの性暴力についても多くの証拠書類が提出され、判決においても一定の位置を占めていることは近年明らかにされてきている。平和に対する罪だけでなく、中国や東南アジアなど占領地での戦争犯罪がかなり取り上げられていると言える。しかし天皇はアメリカの政治的思惑から免責され、日本軍「慰安婦」制度そのものも取り上げられなかった。「慰安婦」制度自体を犯罪であると認識できなかったのか、あるいは犯罪であると認識しつつも何らかの思惑から裁かなかったのか、いまのところ断定できない。ただ朝鮮や台湾の植民地支配とその下での強制連行をはじめとするさまざまな行為が裁かれず、人道に対する罪が適用されなかったこととあわせて東京裁判の大きな問題点であった。

「強制売春」はすでに第一次世界大戦直後から戦争犯罪とみなされてきたが、本判決において、この言葉が犯罪性の認識をあいまいにしてきたことなどの問題を批判し、「性奴隷制」と規定したことは重要である。さらに人道に対する罪を適用して植民地下の女性を含む彼女たちに対する性犯罪を裁いたこと、そうした犯罪の頂点にいた天皇を裁いたことは東京裁判の限界を大きく乗り越えたと評価できよう。

なお東京裁判の証拠書類や事実認定のなかには、今日の研究水準から見れば事実関係のまちがいも少なくない。それがこの判決にも受け継がれているが、「慰安婦」制度自体についてはこの法廷に提出された証拠書類に基づいて事実認定がされており、判決の意義を損なうものではないだろう。

第二に裁判であるからには起訴状、証拠書類、法廷での証言など法廷に提出されたもののみに基づいて判決が書かれているという点である。周知のように多くの日本軍資料は戦後処分されたため、現在利用できる資料は断片的なものである。そのため「慰安婦」制度に深く関わっていたと推定される者であっても証拠書類として提出できないために起訴できなかったケースも少なくない。首席検事が起訴した被告はそうした制約のなかから選ばれたという事情を考慮して判決を読む必要があるだろう。したがって裁かれるべき者は本法廷の被告だけにとどまらず、同様の地位・職務についていた者たち、すなわち性奴隷制を考案、創設、運用、管理していた主要な者たちも含んでいると理解されるべきだろう。

別の点から言えば、たとえば検事団として参加していない国や地域―ビルマやインドシナ諸国、太平洋諸島の諸国―の女性たちの被害は触れられていない。また南北コリアの起訴状では「植民地」という概念を使わずに「強制的占領(強占)」という概念で一九四五年までの状況を説明していた。「植民地」か「強占」状態か、というのは論争があるが、「強占」という概念を使ったために、判決では朝鮮は中国や東南アジアなど日本軍の占領地と同様の扱われ方になっている。これまでの研究成果から見ると、女性の「慰安婦」への徴集のされ方は植民地と占領地とではかなり異なっている。やはり植民地の特徴をきちんと把握しなければ朝鮮や台湾の特徴は理解できないだろう。台湾は起訴状に「植民地」という位置付けをしたので判決でもそうなっているが、ただ植民地としての特徴の説明は起訴状にはほとんどない。そうしたことの反映として判決では、「慰安婦」制度にとって植民地が持った意味がほとんど触れられないという結果となっている。これは南北コリアの合同検事団の判断が招いた問題であるが、議論となるところであろう。むしろバウネット・ジャパンが編集した本シリーズ(特に第三巻)が植民地支配の持つ意味を正当に議論しており、残念ながら判決にはそうした議論がうまく反映していないと言える。

第三に大規模な強かんのケースとしてマパニケ事件だけが取り上げられている。こうした事件としては南京大虐殺のなかでのケースが真っ先に念頭に浮かぶが、南京のケースは東京裁判でも証拠としてかなり取り上げられ、また中国政府による戦犯裁判でも取り上げられたので、この法廷では首席検事は南京のケースを取り上げずにマパニケを他の一つの代表的なケースとして取り上げたという事情がある。

 日本の裁判所の判決では被害の事実認定を避けて、法解釈だけで訴えを棄却するようなものが少なくない。それらとは対照的にこの判決の冒頭には「沈黙の歴史を破って」と題された見出しが掲げられ、被害者女性の勇気あるカムアウトから叙述が始まる。性奴隷制の被害者である女性たちの言葉では言い表しようのない体験に耳を傾けるとき、「慰安婦Comfort Women」という欺瞞的な言葉の背後にある“真実”が見えてくる。「性奴隷」「性奴隷制」という言葉がその本質を示すものであることを判決は見事に描き出している。被害者の証言にはしばしば矛盾や食い違いもあるが、それこそが深刻な性暴力の被害の表れでもあり、またその証言の奥にある真相を見抜く力こそが必要である。判事団はその食い違いについても検討をおこなったうえで、被害者たちの証言の真実性をとらえることに成功した。性暴力を裁いた旧ユーゴ戦犯法廷の経験をくぐった判事団(首席判事はその所長だった)はその力を持つメンバーであったことがこの判決に示されている。さらに言えば、そうした判決を生み出したのは、被害者(というよりもその被害のなかを生きぬいてきたサバイバーたち)と彼女たちを支え励まし法廷を準備してきた女性たち(と若干の男性たち)であったことも見逃してはならない。

   判決全文は、VAWW-NET Japan編『日本軍性奴隷制を裁く2000年女性国際戦犯法廷の記録 Vol.6 女性国際戦犯法廷の全記録(U)』緑風書房、2002年、をご覧ください。