(沖縄県教育委員会)『史料編集室紀要』第28号、2003年3月

暗号史料に見る沖縄戦の諸相

                                林 博史  


これは沖縄県史を編纂している史料編集室の紀要に執筆したものです。ここで利用した暗号解読史料は2002年6月16日付の『琉球新報』で報道されたものです。沖縄以外では見ることが難しい雑誌なので、ここに掲載しました。


【目次】

1 暗号解読史料について
2 戦艦大和の特攻作戦
3 撃沈された輸送船―富山丸と対馬丸
4 沖縄戦前の動向―日本軍の沖縄への移動と
10.10空襲
5 沖縄海軍根拠地隊
6 宮古八重山の状況
7 米海軍の沖縄戦関係史料
8 暗号の誤読と日本軍の側の傍受
おわりに

 

1 暗号解読史料について

  日本政府の外交関係や日本陸海軍の暗号通信が連合軍によって傍受され、その暗号が解読されていたことは最近、日本でも知られるようになってきた。その背景として1990年代に入り、アメリカにおいて暗号解読関係の史料公開が急速に進んだことが指摘できる。そのことにより暗号解読に関わった関係者の証言も次々に出てき、それらの史料や証言に基づいた研究がこの間、英米で急速に進んできている[i]

 日本は敗戦直後に大量に公文書を廃棄してしまった。東京にある防衛庁防衛研究所図書館には旧日本軍の史料が保存公開されているが、通信記録は断片的にしか残っていない。日本本土とアジア太平洋各地に派遣された日本軍との間では命令の伝達や諸連絡に無線が使われており、その内容には重要なものが含まれていたことは言うまでもない。連合軍がおこなっていた暗号解読によって、失われた記録が復元できるのである。近年、米国立公文書館で公開されるようになった暗号関係の史料はアジア太平洋戦争の実相の解明に新たな光をあてるものである[ii]

 さて沖縄戦に関して言えば、保坂廣志氏が第32軍(陸軍)の暗号解読史料を、さらに戦時遭難船舶遺族会が、南西諸島近海での船舶の通信を解読した史料を入手し、紹介している。しかしまだまだ限定された文書に限られている[iii]

 米軍による暗号解読は海軍関係が進んでいた。米国立公文書館に所蔵されている米海軍作戦本部の史料(RG38シリーズ)のなかに約二千八百ボックスあまりの暗号解読史料が保存公開されている。それらにはドイツ関係も含まれるが、約半数は日本関係であり、沖縄関係も疎開船や軍の輸送船を含めてかなりの史料がある。一つ一つの通信がカード化されてファイルされており、筆者はこれまでの調査でとりあえず約5000件程度の解読通信を入手してきた。これらは主に日本海軍の暗号を解読した史料であり、沖縄海軍根拠地隊に関連するものが中心であるが、第32軍など陸軍関係も含まれている。またほかにMagic: Far East Summary「マジック―極東サマリー」と題された日報がある。これは日本の陸軍・海軍電報を解読したなかから重要なものを選んでワシントンにおいて整理したレポートで、そのなかにも沖縄戦の時期には沖縄関係のものがたくさん含まれている[iv]

 こうした暗号解読史料によって、これまでわからなかったこと、あるいは断片的な証言しかなかったことなど歴史の空白を埋めることができるものが少なくない。もちろん暗号史料も断片的なものが多いので、その他の諸史料や証言と合わせて分析することが必要であることは言うまでもない。ここでは、沖縄戦に関する暗号解読史料のなかから興味深いものをいくつか紹介したい[v]

 

2 戦艦大和の特攻作戦

  はじめに、戦艦大和の沖縄特攻作戦に関わる史料を紹介しよう[vi]

その背景を説明しておくと、米軍は沖縄本島中部西海岸に1945年4月1日朝に上陸を開始する。日本の守備軍である第32軍は持久戦の構えで、強い反撃はしなかったが4月4日牛島軍司令官は4月7日夜に総攻撃をおこなうことを命令した。その後、5日夜の時点で総攻撃を8日夜にすることに決した。一方、連合艦隊は海上特攻が8日朝に沖縄突入予定であったので第32軍の総攻撃を朝に早めるように要請したが第32軍は断った。結局、第32軍は8日夜、軍の一部で攻撃をかけたにとどまった。

 他方、海軍は5日連合艦隊司令長官が戦艦大和以下の特攻出撃を命令した。海上特攻隊として大和以下10隻が編成され、6日1520分徳山を出港、18時豊後水道に入り、7日2時大隈海峡に入って西に進路を向けて進んだ。7日朝米軍機によって発見され、1230分すぎから米軍機の攻撃を受け、1423分に大和は沈没した。連合艦隊は1637分に海上特攻隊の沖縄突入作戦を中止することを命令した。

 4月5日15時連合艦隊司令長官は、GF電令作第607号として次の命令を打電した。この電文は防衛庁防衛研究所図書館に所蔵されており、その原文は次のとおりである。

 

一 帝国海軍部隊及第六航空軍はX日(6日)以降全力を挙げて沖縄周辺敵艦船を攻撃せんとす

二 陸軍第八飛行師団は右に協力攻撃を実施す 第32軍は7日より総攻撃を開始、敵陸上部隊の掃滅を企図す

三 海上特攻隊はY-1日黎明時豊後水道出撃 Y日黎明時沖縄西方海面に突入 敵水上艦艇並に輸送船団を攻撃撃滅すべし

 Y日を8日とす

   この電報は米軍によって傍受解読されていた。米軍による解読状況は次のようになっている(電文中の下線の空欄部分は解読できなかった箇所である。?は解読者が付したものである)[vii]

    部隊及び第六航空軍はX日(6日)に全力を挙げて沖縄地域の敵艦船を攻撃破壊attack and destroyせんとす

二 陸軍第八航空師団は右への支援攻撃を実施す 第32軍は7日に総攻撃を開始、敵陸上部隊の殲滅annihilate(?)を企図す

三 海上特攻隊The surface Suicide Attack UnitY-1日、くりかえすY-1日に豊後水道出撃、Y+1(?)日、くりかえすY+1(?)日黎明沖縄東方の敵輸送船団に総攻撃heavy attacksをおこなう

Y日は8日、くりかえすY日は8日とす

 この解読された暗号にはコメントが付けられており、“カイメントッコウタイ”を上記のように訳したこと、Y+1日に?を付したことについてYプラス“ほかの小さな数字”かもしれないと注意書きしている。

 この解読では沖縄突入の日を確認できていないが、その企図は理解できる解読内容であった。同日の夜2203分、第二艦隊参謀長(第二艦隊司令長官伊藤整一中将が海上特攻隊の指揮官として大和に乗り込んだ)発の電報が解読されている。それは次のような電文である。

  わが艦隊は沖縄東方地域に8日未明到着する。貴部隊と7日12時より直接連絡を確保したい。周波数と暗号を知らされたし。当方は佐世保鎮守府7460キロサイクルならびに3730キロサイクルにあわせている。沖縄島周辺の敵状況、特に東方の輸送船団の状況について報告されたし。(以下空白)

   これに付されたコメントには、先の解読暗号でY+1日とあったのは間違いであり、Y日は8日であって、問題の日付はY日またはX+2日(いずれも8日のこと)であると判明したとある。

 この電報に対して海軍の沖縄根拠地隊司令官から第二艦隊参謀長に対して、6日4時31分返答がなされた。このなかで使用する周波数とともに使用する暗号書も伝えられている。そこで二種類の暗号を使うとあるがそれらは米軍が言うJN-147JN-11であると確認されている。なおこの電報そのものはJN-25を使って送られている。

 6日9時56分、連合艦隊参謀長からの電報が解読されている。

  我が海上特攻隊

大和

 (軽巡洋艦、艦名不明、第二駆逐艦戦隊旗艦[viii]、おそらく矢萩)

 駆逐艦八隻(  月クラス二隻、81758クラス三隻、  クラス三隻)

は豊後水道をY-2日(1800?)に出撃、

  を経由して沖縄にY日(早く?)到着する。friendly markingに対し厳重なる注意を払われることを望む。Y日は8日である。

 

 4月6日1305分、第一遊撃部隊(海上特攻隊)司令長官から佐世保鎮守府司令長官、連合艦隊司令長官宛に電報が発せられている。それには海上特攻隊のスケジュールが記されていた。

 

 第一遊撃部隊の作戦日程

 6日1800 豊後水道出撃(紀伊水道か?)

 2300 (トイ岬?)より66度方向に11マイル

 7日(0400?) (大隈海峡?)

 1000 北緯31.12、東経128.15の位置

 (2200?)北緯28.12、東経126.56?) 

 8日0500 沖縄到着

 

 戦艦大和以下の道筋はほぼ完全に読まれていたと言ってよい。当初は「沖縄西方」を「東方」と誤読していたが、こうした航路から「西方」が正しいことが米軍にもわかった。
 6日
1824分、海上特攻隊を護衛していた航空隊からの報告として、海上特攻隊の動きはスケジュール通りに進んでいることが報告され、傍受解読されている。
 こうして7日朝、大和ら海上特攻隊は米軍の偵察機に発見され、攻撃されることになったのである。

 

3 撃沈された輸送船―富山丸と対馬丸

  さて沖縄と日本本土との間の航路で米潜水艦によって撃沈された船は数多い。その詳細がわかる可能性がある。一例として富山丸のケースを紹介したい[ix]

 富山丸は1944年6月25日独立混成第44旅団、同第45旅団などの兵員を載せて鹿児島を出港し沖縄に向かった。しかし27日朝、徳之島東方を航海中に米潜水艦の魚雷攻撃を受けて沈没した。防衛庁の戦史によると、「乗船部隊約四六〇〇名中行方不明約三七〇〇名の大損害を生じた」としながら「明確な被害資料が得られない」として二点の史料を紹介しているにとどまっている[x]

 さてこの富山丸について、米軍は日本軍の暗号を解読することによって撃沈を確認している。6月291830分に第32軍参謀部から東京向けに送られた電報のなかで、「(富山丸の)沈没が確認された。ほかに二隻が沈められたという心配があるが、これは確認されていない。位置は徳之島のキトク?の東4キロメートルである」という電文を解読している。これに付されたコメントには、富山丸の沈没はこれまで確認できなかったと記されている。

 さらに7月1日17時に第32軍参謀部から東京に送られた電報は、その被害の詳細を報告している。

 

 すでに富山丸(7089トン)     についての報告をおこなったが、30日6時の報告によると状況は以下の通りである。

一 日付 6月29日7時30

     二 位置 東経129.05  北緯(27?).47(徳之島の  トク東2海里)

三 沈没状況

  敵潜水艦によって左舷に魚雷三発を受け、約一分後に沈没した。

四 救助した人員  

    死者  207

        生存者 宇土大佐ならびに836名(うち重傷224名、軽傷88名)

             船員の生存者 33名(うち重傷2名、軽傷1名)

五 柴田大佐を含む残りの3553名については引続き救助活動中である。しかしほとんどは沈没した船とともに沈んだと考えられる(大量のガソリンが一瞬のうちに爆発したので、彼らは煙によって窒息死したに違いない)。

 

 この報告の数字によると、死者は3760名にのぼる。この数字に船員の死者が含まれていなければそれが追加されるだろうし、また重傷者のなかから死者がでていることも十分考えられる。

 対馬丸の遭難については残念ながらあまりくわしくない[xi]
 
1944年8月161840分に上海から広島に送られた電報によると、「われらはかずうら丸、ぎょうくう丸、対馬丸による護送船団を編成し、ウジハスとツガの直接の護衛の下で那覇に向けて1616時上海を出発した」と報告し、那覇到着は1913時との予定も報告している。那覇に着いた対馬丸は21日に学童らを乗せて那覇を出港するが、魚雷攻撃を受ける5分前に発せられた電報(佐世保宛、発信者不明)では対馬丸は222215分現在、北緯2932分、東経12930分にあると報告されている。そのわずか5分後に魚雷攻撃を受けたのである。2215分、対馬丸から佐世保鎮守府宛に発せられた電報は「222215分、北緯2932分、東経12930分において対馬丸は魚雷攻撃を受け、損傷を受けた」というものだった[xii]。ついで2240分に発信された電報(別の船からのもの)では、「対馬丸は2220分魚雷攻撃を受け、北緯2932分、東経12930分において沈没した」という報告だった。魚雷攻撃をうけると同時に発した電報が対馬丸が発した最後のものだった。

 

4 沖縄戦前の動向―日本軍の沖縄への移動と10.10空襲

  日本軍の沖縄への増強の様子について米軍は注目しながら暗号電報を傍受し、その戦力を推定していた。第32軍が編成されたのは1944322日であるが、戦闘部隊は同年の7月から8月にかけて送り込まれ、沖縄本島には第9、2462師団が、宮古島に第28師団などの主力がそろった。

 1944314日に大本営からの電報が「南西諸島における軍事作戦の準備がなされていない」として、「その地域の増強を急ぐ必要がある」と述べていることに米軍は注目した。そして第32軍という新しい軍司令部が那覇に設けられることをこの時点で把握していた[xiii]

 戦闘部隊の増強は7月以降になるが、米軍はまず44年7月13日の東京からの電報に注目している[xiv]。そのなかで兵員を輸送するために12万登録総トン、軍需物資のために約9万立方メートル分のスペースが、7月中に日本から沖縄への輸送に割当てられるというものだった。この12万登録総トンという割り当ては、4000トンの船30隻分に相当し、装備にもよるが4万名から7万5000名を輸送できると見積もっている。この7月の輸送計画には、第24289師団や陸軍航空部隊が含まれているとも推定している。これらの輸送がおこなわれると、沖縄の日本軍は5万2000名から7万2000名程度(海軍の地上兵力2000名を含む)に増員されると推定している。

 その後も各部隊の移動に関する通信を傍受分析しながら、沖縄での日本軍の状況を把握しようとしているが、45312日の時点で、沖縄全体で3師団(第24,28,62師団)と5つの独立混成旅団(第44,45,59,60,64)が配備されていることを特定し、総兵力は123000名(陸軍航空の地上部隊5000名、海軍地上部隊17000名を含む)と推定している[xv]。この推計は南西諸島全体のものであるが、きわめて正確に兵力数を把握していたと言ってよいだろう。

 10.10空襲についての史料もあるので、いくつか紹介しよう。

10.10空襲についての沖縄の日本軍からの報告を米軍が最初の傍受したのは、筆者が見つけた限りでは7時ちょうどに沖縄海軍根拠地隊司令官から佐世保鎮守府などに発せられた電報である。このなかで「6時40分敵艦載機が飛行場地域を攻撃。我軍は交戦中」と報告されている。さらに第1次攻撃が終わったのちの8時50分に沖縄海軍根拠地隊司令官から発せられた電報がある。このなかで「6時40分艦載機約100機によって攻撃された。飛行場周辺や船舶を爆撃ならびに機銃掃射したのち8時20分に引揚げた。敵の損害は不明。我が方の損害は、ホウライ丸と6隻沈没、沿岸警備艇5隻損傷、自力航行不能、北ならびに 飛行場被害、現在のところそれ以上の情報はないが、………」と報告されている[xvi]

 その後も「100機以上の敵艦載機と交戦中」(9時10分)、「約30機の敵艦載機が攻撃中」(1215分)、「約30機の艦載機が攻撃中」(1515分)、「16時敵は南方に引揚げた」(16 分)、など状況が逐次報告されている。そして1805分「空襲警報解除。明朝の攻撃に対して厳重に注意せよ」との電報が海軍根拠地隊から傘下部隊に打たれている。大島の防衛部隊からは「今晩の敵上陸に備えて厳重警戒せよ」(1847分)という電報が発せられており、その混乱ぶりがうかがわれる。こうした電報を傍受解読していた米軍の担当官は「沖縄地区への攻撃は完璧に計算された奇襲」であったと評価している。

 被害状況の報告については、第32軍参謀部から発せられた電報が解読されているがそのなかで艦船についての被害状況がわかる[xvii]。輸送船10隻沈没などが報告されており、この内容は第32軍が作成した「南西空襲戦闘詳報」(防衛研究所図書館所蔵)の一部と重なる。

 

5 沖縄海軍根拠地隊

 米軍による暗号解読史料の主なものは日本の海軍の電報を解読したものである。したがって沖縄関係では小禄にあった沖縄方面海軍根拠地隊(司令官大田實少将)が打電あるいは受け取った電報が多数傍受解読されている。そのなかから一部興味深いものを取り上げよう。

 1945年4月7日9時14分に沖縄方面根拠地隊司令官より指揮下の各部隊に発せられたものがある。それは次のような電文である[xviii]

「4月7日4時われわれは小禄地区で銃撃を受けた。それが止まったのち、那覇地域で多数のスパイa large number of spiesが捕えられた。これらの者はすべて日本人のような服装をしていた。綿のサッシュをまとっている者もいれば、軍に勤務する民間人のように変装している者もいた。今後、敵の上陸に備えて、特にスパイの侵入が頻繁になってきたので厳重な警戒が必要である。」

 この7日の時点では米軍は宜野湾の日本軍主陣地に到達したばかりである。またスパイがまとまって行動することは考えにくいことなどから判断すると、この電文で言われているスパイとは一般の住民と考えて間違いないだろう。沖縄戦に関する軍の史料については4月以降はほとんど残っていない。住民がスパイをしているという警告は具志頭に駐屯していた歩兵第八九連隊の史料に出てくる[xix]。また海軍部隊で生き残った元兵士の証言のなかにスパイを捕まえ処刑したという話が出てくる[xx]が、多くのスパイを捕まえたという軍の史料はこれが初めてと言ってよいだろう。各部隊に対するこうした命令がさらに悲劇を拡大することになったことは間違いない。

沖縄の海軍については「沖縄県民斯く戦へり 県民に対し後世特別の御高配を賜らんことを」という大田司令官の電報が有名であり、ひどかったのは陸軍だけであるかのようなイメージがあるが、海軍もまた住民をスパイ視し、時には殺害していたことを忘れてはならないだろう。

 小禄の海軍根拠地隊からは本土に向けて、米艦隊の状況や天候が日々報告されている。これらの情報を基にして特攻機の出撃がおこなわれた。また戦況報告も逐次なされている。6月4日に米軍は小禄飛行場に上陸し、海軍部隊と本格的な戦闘に入った。6日1653分に大田實司令官から本土に対して生き残っている部隊の人数が報告されている。これによると将校347名、兵6758名、配属された民間人attached civilians2995名、計一万名、さらに任務に付いていない者が千名(負傷者などか?)とある。この時点で小禄地区の海軍部隊には将兵以外に約三千人の民間人が動員されていたことがわかった[xxi]。沖縄戦において軍に動員された民間人の数はほとんど記録に残っていないので貴重な手がかりになる史料である。

 

6 宮古八重山の状況

  宮古島にいた海軍部隊の食糧事情がわかる史料もある。45年4月16日に宮古島警備隊から佐世保通信隊と沖縄根拠地隊司令官に打電された電報では、4月15日現在の在庫量として「米 145日分2636人向け、乾パン60日分、その他の食糧30日分」とある。

その一か月後の5月21日には2632人用の食糧在庫として「米 108日分、副食128日分」と報告している。同時にこの島では陸海軍あわせて3万3千人が自給する必要があり、弾薬と食糧、とりわけ米と塩をわれわれに輸送してもらうことが何よりも必要であると訴えている。

4月15日の時点で米145日分、すなわち約5か月分を貯えていたということである。沖縄守備隊である第32軍は食糧6か月分を貯えておくように県に求めていたが、海軍はほぼそれだけの米を貯蔵していたわけである。宮古島の陸軍の食糧状況がわからないが、宮古の住民は飢えとマラリヤで苦しめられていたことはよく知られている。

別の暗号解読電報によると、奄美大島の海軍部隊も5月1日時点で、隊員4500人のために食糧四〜五か月分を保管していると報告しており、宮古とほぼ同じ量の食糧を貯蔵していたことがわかる[xxii]

住民が餓死するから食糧をくれと言っても軍は応じるわけにはいかないという長勇第32軍参謀長の発言が思い出される[xxiii]

 石垣島の日本軍について、米軍は暗号解読からその重要性を認識したようだ。1945年4月1日時点で、解読電報を分析していた担当官は「石垣航空基地は今日までの日本軍による作戦上重要なポイントであるように見える」と分析していた。この判断の根拠は、台湾にいた第1航空艦隊と石垣との間で頻繁に電報のやりとりがなされていたことである[xxiv]。つまり米艦隊に対する台湾からの航空攻撃の重要な拠点が石垣であったということである。

 石垣島はくりかえし空襲をうけるが、その背景には日本軍の基地としての重要性を米軍が認識していたこともあると言えるかもしれない。 

 

7 米海軍の沖縄戦関係史料

暗号解読史料だけでなく、沖縄戦に関する史料はまだまだ米国立公文書館に保存されている。米第10軍などの米陸軍の史料は沖縄戦研究のなかで利用されてきているが、米海軍や海兵隊の史料はほとんど利用されていない。海軍でいえば、沖縄戦に派遣されてきた艦隊の日誌やアクション・レポートがある。それらの艦隊に所属する空母や戦艦、各艦船の史料も残っている。空母のアクション・レポートを見れば、いつ、どこに、何機の戦闘機・爆撃機が出撃し、どれほどの爆弾を落としたのかが明確になる。たとえば1945年6月9日と10日の沖大東島と南大東島の空襲[xxv]には、ヨークタウン、シャングリラ、タイコンデロガ、インデペンデンスの4隻の空母からのべ222機が出撃し(パトロールや救助などを含めると四六三機)、落とした爆弾は97.55トンとナパーム弾46タンク、失った戦闘機と爆撃機が各1機、しかし搭乗員計3名は救助されたので戦死者はいなかった。この大東島への空襲は、時限信管(VT信管)付爆弾の実験と、さまざまな種類の施設にいろいろな方法でナパーム弾を落としてみる実験のためにおこなわれたことがはっきりと書かれている。VT信管とは、電波を出してその反射をとらえ、設定した距離になると爆発するもので、かつここで使用された爆弾は空中で爆発してその破片が飛び散りながら落下するというもので、対人殺傷をねらったものだったとみられる。この空襲によって南大東島は壊滅状態になった。この空襲は戦略的にはまったく意味のない島に単なる実験のためにおこなわれたものである。つまり大東島(とそこにいた軍人だけでなく住民も)は、爆弾の実験台にされたのである。

 この空襲の背景には、やはり暗号解読による南大東島の状況の把握があった。4月12日の南大東島の海軍建設隊からの週報によると、平射弾道砲2門とその防壁が設置された、飛行場の滑走路の舗装47%完成、誘導路の舗装68%完成、地下施設、救急所、トンネルは完成と報告されていた。なおその少し前の326日の電報では、地上防衛施設の建設のために飛行場の拡張工事を一時中断する旨の報告がなされていた[xxvi]。こうした基地建設の進展が爆弾の実験対象になった理由にあったことも忘れてはならないだろう。

 これらの海軍のアクション・レポート類は最近、県公文書館で閲覧することが可能になった。そのなかで10.10空襲についてはかんたんな紹介が新聞でも報道されているが[xxvii]、これらの史料を使うことによって10.10空襲の詳細が明らかにされていくだろう。

 

8 暗号の誤読と日本軍の側の傍受

  ところで米軍は暗号解読によりかなりの情報を得ていたことは確かであるが、防衛研究所図書館の史料と照らし合わせてみると、米軍は通信のすべてを解読できていたわけではない。傍受できなかったものもあるだろうし、傍受しても解読できなかったものも多かったようだ。

 たとえば5月末に第32軍は首里から南部に撤退した。第32軍は5月22日の夜に南部撤退を決定し、29日を第一線主力撤退のX日とした。牛島満軍司令官は29日に摩文仁に入った。米軍は日本軍の通信を断片的に解読し、そのなかにあった「今後の第32軍作戦司令部」「○○周辺地域に集中」「X日は28日に予定」という言葉から、28日に日本軍が地上での大規模な攻撃を計画しているのではないかと判断した。これがまったくの間違いであったことは明白である。第32軍の南部撤退に気付くのが遅れた一つの要因として、暗号の解読ミスがあった可能性がある[xxviii]

 この時期、日本軍の側も米軍の通信を傍受していた。南京にあった支那派遣軍総司令部からの通信によると、7月1日を期して沖縄とフィリピン周辺の米軍の海空の呼出符号が一斉に変わったと報告されている[xxix]。どれほど米軍の暗号を解読できていたかはわからないが日本側も米軍の通信を傍受していたことは間違いない。暗号電報は、仮に暗号を解読できなくても通信を傍受し、方角から発信元や発信先を特定し、さらにその頻度や通信の階層構造などを分析することによってかなりの情報を得ることができる。また別の史料によると、中国にいたドイツ機関が沖縄戦の時期の米軍の通信を傍受して、米空母の位置や特攻機による米艦船の被害状況を分析していたということである[xxx]。このあたりの問題は今後の課題である。

 

おわりに

 以上、ここで紹介してきたのは主に米海軍による日本海軍の暗号解読史料である。日本陸軍や外交電報の暗号解読史料まで含めると、まだまだ利用されていないものがたくさんある。

これまでの沖縄戦研究にあたってはもっぱら米陸軍の史料が収集され利用されてきた。たしかに沖縄住民との関わりでは陸軍史料に興味深いものが多いとは言えるだろう。しかし陸軍と同様に地上戦をおこなった海兵隊の史料はまだほとんど利用されていない。特に離島への上陸作戦は海兵隊が担当しているケースが多いので、沖縄本島北部や本島以外での沖縄戦の実態を解明するためには海兵隊史料の分析は不可欠であろう。さらに沖縄を取り巻き、兵員や物資の輸送、艦砲射撃、空襲、日本軍特攻機への反撃などをおこなった米海軍の役割もけっして小さくない。また対馬丸の撃沈に見られるように沖縄と日本本土を結ぶ航路への攻撃は米海軍の役割であった。そうした点から米海軍史料の分析も重要である。

 ほかにも米軍の心理作戦に関する諸史料は沖縄住民について重要な情報を含んでいる。また米軍の戦闘神経症に関する史料は日本軍将兵や沖縄住民の戦闘によるトラウマ(心的外傷)やPTSD(心的外傷後ストレス傷害)を理解するうえで貴重な手がかりになるだろう。愛楽園など沖縄のハンセン病に関する史料も手が付けられていないし、米軍史料を見ていると思わぬところに沖縄戦に関わる重要な史料が含まれていることがある。

沖縄戦について、実はまだまだ利用されていない史料が眠っているし、わかっていないことが多い。沖縄県公文書館や各自治体史編纂委員会でも米国立公文書館の史料の収集に務めているが、さらに継続的な史料収集を期待するとともに、若手の研究者がこれらの史料を使って沖縄戦研究をさらに豊かにしていただくことを期待している。


[]

[i]  アメリカの研究としては、Edward J. Drea, MacArthur’s ULTRA:Codebreaking and the War against Japan, 1942-1945, University Press of Kansas, 1992, John Winton, Ultra in the Pacific: How Breaking Japanese Codes and Ciphers Affected Naval Operations Against Japan, Naval Institute Press,1993(左近允尚敏訳『米国諜報文書ウルトラin the パシフィック』光人社、1995年), David Alvarez (ed.), Allied and Axis Signals Intelligence in World War U, Frank Cass Publishers, 1999、イギリス軍の動きを主に取り上げている(暗号解読において当初イギリスはアメリカに先行していた)Michael Smith, The Emperor’s Codes: The Breaking of Japan’s Secret Ciphers, Time Warner Trade Publishing, 2000,などが参考になる。また暗号解読史料だけでなくその他の史料も含めて、日本の敗戦過程とアメリカの対日政策を描いた、Richard B. Frank, Downfall: The End of the Imperial Japanese Empire, Random House,1999は、沖縄戦の位置付けを考えるうえでも重要な研究である。日本人による著書としては、吉田一彦『暗号戦争』(小学館、1998年)、原勝洋『暗号はこうして解読された―対日情報戦と連合艦隊』(KKベストセラーズ、2001年)などがある。

 日本では真珠湾攻撃をアメリカが事前に知っていたかどうかをめぐる関心が強い。話題を呼んだ本として、Robert B. Stinnett, Day of Deceit: The Truth about FDR and Pearl Harbor, Free Press, 1999(妹尾作太男監訳『真珠湾の真実―ルーズベルト欺瞞の日々』文藝春秋、2001)があるが、日本における同書に対する説得力ある批判としては、左近允尚敏「『真珠湾の真実』に異議あり」『Voice200111月、同「通信情報から見た真珠湾攻撃」(秦郁彦編『検証・真珠湾の謎と真実―ルーズベルトは知っていたか』PHP研究所、2001年)などがあげられる。

[ii]  暗号解読史料のなかで、敗戦時における日本軍による公文書廃棄については、『朝日新聞』2002年7月18日、広島の原爆被害状況報告については、『朝日新聞』2002年7月29日、で紹介されている。それらのくわしい史料紹介は、前者については、林博史「進展するアメリカの戦争関係資料の公開―米国立公文書館資料調査中間報告(2)」『季刊戦争責任研究』(日本の戦争責任資料センター)第37号、2002年9月、同「敗戦時の公文書廃棄についての資料(補遺)」『季刊戦争責任研究』第38号、200212月、後者については、「原爆投下に関するマジック資料」『季刊戦争責任研究』第38号、を参照。

[iii]  保坂廣志「沖縄戦と暗号作戦」『琉球大学法文学部人間科学科紀要 人間科学』第2号、19989月、同「日本軍の暗号は解読されていた」『世界』1999年7月、「米暗号文書が語る 消えた船影」『琉球新報』1997年8月12日〜14日、参照。

[iv]  暗号解読についての史料は、米国立公文書館では海軍作戦本部(RG38)と国家安全保障局(RG457)の文書群に含まれている。後者には陸軍や外交関係の解読電報も含まれているが、整理されていないものが多い。これらの傍受・解読された暗号についての史料のタイプとしては、(A)暗号化された数字のままの文書→(B)それを日本語に解読した文書→(C)英訳した文書→(D)情報将校がそれらを見て評価し、コメントを加えた文書→(E)解読された情報のなかから選択され編集されたレポート(関連する米軍部隊司令部レベルから大統領に報告されるレベルまでいくつかのレベルがある)といくつかの段階がある。RG38には主に(D)、RG457には(C)(D)(E)の史料が含まれている。Magic: Far East Summary「マジック―極東サマリー」は(E)の史料である。

[v]  ここで紹介する沖縄戦関連史料は、『琉球新報』2002年6月16日、『沖縄タイムス』同年6月21日(夕刊)で紹介され、さらに筆者が「暗号解読史料に見る沖縄戦の実相」と題して『琉球新報』6月24日〜26日に連載したものをベースにしている。また拙稿「次々と公開される戦争関係資料―米国立公文書館資料調査中間報告」『季刊戦争責任研究』第35号、2002年3月、「進展するアメリカの戦争関係資料の公開―米国立公文書館資料調査中間報告(2)」、のなかでも関連史料について紹介している。

[vi]  日本の陸海軍の動きは、防衛庁防衛研修所戦史室『沖縄方面陸軍作戦』朝雲新聞社、1968年、同『沖縄方面海軍作戦』同、1968年、より。

[vii]  以下、戦艦大和など海上特攻隊についての暗号解読史料は、RG38/Orange/Box2132に収められているものである。いずれも英文から翻訳したもので、解読した日本語の原文はまだ見つけていない。この電文は傍受したその日のうちには解読されていたと見られるが、この史料そのものはあとになってから整理したもののようである。

[viii]  正式には、第二水雷戦隊。巡洋艦矢萩と駆逐艦八隻で編成。

[ix]  RG38/Orange/Box1524

[x] 防衛庁防衛研修所戦史室『沖縄方面陸軍作戦』52頁。

[xi]  RG38/Orange/Box1343。この史料の一部は、『琉球新報』1997813日、でも紹介されている。

[xii]  この二つの電報ともに2215分発というのはやや疑問ではあるが、史料の通りに記しておく。

[xiii]  RG38/Orange/Box1524

[xiv]  RG38/Orange/Box1522-1523Magic: Far East Summary, 7 Sep. 1944(RG457/Entry9001/Box2)も参照。

[xv]  RG38/Orange/Box1523, Magic: Far East Summary, 12 March 1945(RG457/Entry9001/Box5)

[xvi]  RG38/Orange/Box1638。なおこの電報は3通りに解読されており、英訳は微妙に違っている。10.10空襲関係の暗号解読史料については、Magic: Far East Summary, 10 & 11 Oct. 1944も参照(RG457/Entry9001/Box3)。

[xvii]  RG38/Orange/Box1524

[xviii] RG38/Orange/Box1638

[xix] 林博史『沖縄戦と民衆』大月書店、2001年、208213頁。

[xx] 沖縄海軍根拠地隊司令部通信隊特殊無線通信兵であった古堅宗一さんの証言によると、スパイだとして245歳の女性に拷問を加えたうえに電気を通し殺したこと、30歳くらいの男を逆さ吊りして拷問を加え竹やりに突いて殺したことなど、日本軍が訓練中に3人の沖縄の住民を殺したと証言している(創価学会青年部反戦出版委員会『戦争を知らない世代へ No.6 沖縄編 沖縄戦―痛恨の日々』第三文明社、1975年、5657頁)。また海軍航空隊員だった東江芳隆さんの証言によると、5月に海軍部隊がスパイ狩りをおこない捕まえた一人を拷問により殺し、また別の機会に一人を射殺したことがあったという(『那覇市史 資料編第三巻7』1981年、582頁)。

[xxi] RG38/Orange/Box1637

[xxii] RG/Orange/Box16371638

[xxiii] 『沖縄新報』1945年1月27日付での長参謀長談話(『沖縄戦と民衆』115頁に引用)。

[xxiv]  RG38/Orange/Box2131

[xxv]  Third Fleet, Action Report,(RG38/Action Report/Box41), Third Fleet, War Diary(RG38/War Diaries/Box30), Task Force 38.4, Action Report(RG38/Action Report/Box165)。これらの資料紹介については、『琉球新報』2002616日、『朝日新聞』2002811日、参照。

[xxvi]  Magic: Far East Summary, 18 April 1945(RG457/Entry9001/Box5)

[xxvii] 『沖縄タイムス』200289日。

[xxviii] Magic: Far East Summary, 28 May 1945(RG457/Entry9001/Box6)

[xxix]  RG38/Orange/Box2130

[xxx]  RG38/Orange/Box2130