歴史学研究会編『歴史家はなぜ“侵略”にこだわるか』青木書店、1982年

東南アジアでもこの“侵略”ぶり

                                          林 博史


 これは戦争に関して書いた最初の原稿です。ちょうど歴史学研究会の委員をやっていたときに教科書問題がおこり、歴史学研究会でそれに対するブックレットを出そうということになり、私もその編集担当に加わりました。そのなかで東南アジアについて誰が書くのか、という話になったときに執筆者が見つからなくて、私が書くことになり、急いで勉強して書いたものです。当時はまだ大学院生で、内務省社会局の研究をしていたのでこうした問題はまったくの素人でした。内容的には恥ずかしい限りで、これを出典にしてなにかを書くことはご遠慮ください。
 しかし後から振り返ると、この原稿は、その後の私の行く道を示していたようです。またそのときの歴史学研究会の委員長が荒井信一さんで、荒井さんとは10年後にまた日本の戦争責任資料センターで一緒に仕事をすることになりますし、いろいろな意味で個人的には思い出に残るものです。
2004.1.26upload


 文部省による「侵略」の記述の書きかえは、中国・朝鮮にたいするものだけではなく、東南アジア諸国にたいする侵略についても行なわれています。 一九八一年度検定において「東南アジア侵略」の記述が「東南アジア進出」と書きかえられたのは、その一例です(帝国書院『新詳世界史』)。

 こうした検定に対し、「日本が中国と東南アジアを侵略し、中国、朝鮮半島や東南アジア各地で暴行を働いたことは隠しようのない事実である」(シンガポール『南洋日報』一九八二年七月二六日)、「血まみれの侵略の歴史を否定することは許されない」(フィリピン『ワールド・ニュース』一九八二年八月一五日)というように、きびしい避難の声が東南アジア諸国からも起こりました。

 このような非難がなぜ東南アジア諸国から起こってきたのかを理解するためには、第二次大戦中に日本が東南アジア諸国をどのように占領し、支配していたのかを具体的に知る必要があります。

 まずはじめに、日本がどういう目的で東南アジアを占領しようとしたのかをみてみましよう。太平洋戦争突入の直前に決定された政府の方針では,治安の回復、重要国防資源の獲得、作戦軍の自活確保を目的として軍政をしくことがかかげられていました。またこの目的のために現地住民に負担をおしつけながら、独立運動を誘発するのを避けることもしるされています(「南方占領地行政実施要領」)。これらの地域を日本への原料供給地、日本製品の市場とするため、工業を育成せず、労働者の賃金をできるだけ低くおさえる方針も出されました(「占領地軍政実施要領」)。

 石油、スズ、ポーキサイトなど重要資源の豊富なマラヤ(今のマレーシアとシンガポ−ル)とインドネシアは、日本の領土に編入されることが、天皇も出席した御前会議で決められました(「大東亜政略指導大網」)。他方で、フィリピンとビルマについては、一九四三年になってようやく日本は「独立」を許しました。しかし、軍事、外交、経済など全般にわたって日本が把握することとなっており、真の独立からはほど遠いものでした(インドシナは一応フランス領、タイは「独立国」でした)。

 このようにみてきますと、日本の東南アジア占領の主な目的は、重要資源の獲得であり、東南アジア諸国の独立や経済発展などは考えていなかったことがわかるでしょう。

 以下、日本占領下の各国の状況をみてみましょう。
(1)フランス領インドシナ(ベトナム、ラオス、カンポジア)
 フランスがナチス・ドイツに敗れたのを好機として一九四〇年九月、日本軍は北部を占領し、翌年には全土を占領しました。当時、重慶にあった中国国民政府にたいするアメリカ・イギリスの援助がインドシナを通って送られており、このルート(援蒋ルート)を切断することが占領の表面上の目的でした。しかし実際にそれにとどまらずインドシナは、東南アジア戦略のための前進基地としても、また良質な無煙炭などを産出する点でも重要視されていました。ベトナムは米の宝庫でしたが、日本軍は米のかわりに戦略物資であるジュートなどを強制的につくらせました。その上日本軍が大量の食料調達したことなどが重なり、一九四五年はじめには約二〇〇万人が餓死したのです。
 日本・フランスの支配に反対し独立をかちとるため、一九四一年に、ベトナム独立同盟(ベトミン)が結成されました。この機関紙『救国』では、人々が飢えのためバナナの板、木の皮、人肉まで食べていること、日本軍による強姦や殺人事件が起こっていることが報じられています。ベトミンは民衆の支持をひろげ、日本の敗戦直後の一九四五年九月に、ベトナム民主共和国の独立を宣言したのです。

(2)マラヤ(マレーシア、シンガポール)           
 一九四二年二月、日本軍はシンガポールを占領しました。占領と同時に日本軍は中国人男子に出頭を命じ検問を行いました。そして約七万人の中国人を検挙し、数千人を処刑しました。殺された人数はこれよりはるかに多いといわれています(シンガポ−ル大虐殺)。マラッカでは中国人労働者数百人が日本軍によって虐殺されました。軍用倉庫にはいったマレー人をみせしめのため首を斬り、さらし首にすることも行なわれました。さらに日本軍は、華僑から「奉納金」という形で五、〇〇〇万元(現在の数億円に相当)を強制的に徴集しました。スズなど重要資源あり、中国人の多いマラヤにたいし、日本は最後で「独立」を認めませんでした。
  
マレーの人々は、マレー人民抗日軍をはじめさまぎまな形で抗日運動を展開したのでした。

(3) フィリピン
 日本は「大東亜共栄圏の一員としてのフィリピンの発展」などのスローガンをかかげ、フィリピン人の支持をえようとしました。しかし日本軍の行為は反日感情を高めただけでした。一九四二年一月、日本軍はマニラ占領後,数百人のフィリピン人を公衆の前で斬首しました。ケソン市の結核療養所には一、二〇〇人の病人が入院していましたが、日本軍はここを陸軍病院にするため、重症者もふくめて全員を追い出し、看護婦だけを残して働かせました。病人は何の保障もなく放りだされたのです。
 フィリピンでは食塩の自給自足ができず、米を輸入していました。しかし日本軍は多くの土地に綿花をつくらせ、一方で大量の食糧を現地で調達しました。その輸入が途絶えたためフィリピン人は飢餓状態におちいりました。
 日本軍は抗日運動を取り締まるため隣組制度をつくり互いに監視させました。たとえばゲリラ通謀者がみつかれば、その隣組長も罰せられました。また全政党・社会団体を解散させ、カリバビ(新生フィリピン奉仕団)をつくって軍政への協力をとりつけようとしました。
 しかし、マラヤ同様フィリピンでも、フクバラハップ(人民抗日軍)やフィリピン政府軍などによる抗日運動がはやくから展開されました。

(4)インドネシア
 
 インドネシアは石油、スズ、ボーキサイトなど豊富な資源を有する国です。ですから日本は、敗戦の直前まで「独立」を認めようとしませんでした。インドネシア人は当初、日本軍を歓迎しましたが、希望はすぐに失望にかわりました。
 日本軍は、結社・集会、政治的言論・行動・示唆を禁止しました。インドネシアを三つの地域に分割してしまい、民族旗と民族歌を禁止しました。そのかわり、「日の丸」を掲揚し「君が代」を歌うこと、学校では宮城邁拝(皇居にむかって最敬礼すること)も行なわれました。
 何千人という人々が「ロウムシャ」(労務者)として徴用され、マラヤ・ビルマ・タイなどへも送られました。この「ロウムシャ」という言葉は、日本の占領時代、重労働を強いられた人々、という意味でインドネシア語になっているほどです。それほど多数の人々が重労働に使われたのです。食糧に対する日本軍の徴用もきぴしく、多数の餓死者が出ました。
 敗戦後、アンボンで日本人戦犯の処刑が行なわれた時、民衆は「ざまみろ、早く死んじまえ」と火のような憎しみの叫びをあげたのでした(『昭和戦争文学全集』15)。

 (5)ビルマ
 日本軍は、援蒋ルートを切断し、インドへ侵略をすすめるためビルマを占領しました。日本軍は、タキン党を中心としたビルマ独立義勇軍とともに、イギリス軍とたたかったため、当初はビルマ人から好感をもって迎えられました。
 しかし、日本が「独立」を許したのはようやく一九四三年八月であり、しかも独立意欲の強いタキン党以外から首相をもってきました・「独立」の際に日本・ビルマ間で軍事秘密協定を結びました。この協定で、日本軍はビルマ国内での軍事行動上の一切の自由をもつことになり、ビルマ政府は日本軍の軍事行動に必要な一切の便宜を提供することを約束させられました。日本軍の作戦を円滑にすすめるための「独立」にすぎなかったのです。やがてビルマ国軍は抗日に転じ、イギリス軍とともに日本軍を追い出すことになりました。

(6)台湾
 台湾は日清戦争以来、日本の植民地でした。一九三〇年代にはいり、台湾は東南アジア侵略の前進基地として重要視されるようになりました。台湾でも朝鮮と同じように「皇民化」政策が協力に推進されました。台湾人の土着信仰の対象である寺廟が整理され、神社参拝が強制されました。日本語の使用も強制されました。「改姓名」が実施され、日本式に氏名をあらためることも行なわれました。
 一九三九年からは労務動員が本格的に行なわれ、島外へ送られた人は一〇万人をこえました。また島内でも多い時は一日に約三〇万人が動員され、働かせされました(「台湾統治要領」一九四五年)。一九四五年一月には朝鮮につづいて徴兵検査が行なわれました。敗戦までに約二〇万人が兵士または軍属として徴用され、日本の厚生省がつかんでいるだけでも三万人以上が戦死しています。戦傷者はさらに多いとみられますが、これらの人々や遺族に対する補償を日本政府は行なわずに放置しています。
 食糧の収奪もはげしく、米の強制買い上げが行なわれ、一九三七〜一九三九年には米の生産高の約半分が日本へ持ち去られました。

(7)太平洋諸島
 太平洋諸島においては日米両軍の死闘がくりひろげられました。多くの島で日本軍は玉砕し、またガダルカナル島をはじめ多数の餓死者を出しました。たとえばギルバート諸島のタラワ、マキン鳥は日本軍「全員玉砕」の地として知られています。両島で日本人、朝鮮人約五、〇〇〇人(朝鮮人は飛行場建設のため強制連行された人々です)、米軍約一、〇〇〇人が戦死しました。
 ここで忘れられてはならないのは、これらの島々にはもとから住んでいる人々がいたということです。彼らは飛行場建設に動員され、荷かつぎをさせられました。ギルパートのある老人が知っていた日本語は、歌のほかに「シゴト、カカレ、ヤスメ」という言葉でした(小田実『世界が語りかける』)。家も樹もふきとぷ戦闘の中で、彼らにも当然冬多数の犠牲者が出たでしょう。しかしこのことは、日米両国民には、まったく目にはいらないかのようです。

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 日本の占領は、占領された地域の経済と生活を徹底的に破壊しました。食糧を輸入していたフィリピン、マラヤ、インドネシア(とくにジャワ島以外)は、日本軍による収奪とジュート・綿花など非食糧作物の栽培の強制、輸入の途絶などにょり飢餓状態におちいりました。米の豊富であったベトナムですら多数の餓死者を出しました。すなわち、日本は資源を奪うだけだったため、ゴム・砂糖・タバコなどの作物は輸出の道をとざされ、大打撃をうけました。工業製品の輸入はとだえ、そのため工業製品は著しく不足しました。その上日本軍は、数々の残虐行為をおこないました。
 こうした日本の占領は、民衆を抗日へと追いやりました。日本は、連合軍の反撃とともに、各国から起こってきた抗日運動によって、東南アジアから追い出されることになるのです。
 インドネシアのあるジャ−ナリストの言葉で、稿を終えたいと思います。

 此処で私が、是非とも強くして指摘せねばならぬ誤りがある。日本人の中には、いまだにインドネシアの独立は日本の援助によってなされたのだ、と広言してはばからぬ人がいる。違う! 私達は自ら闘ったのだ。あらゆる障害と闘って、独立を克ち得たのだ。(ヘラワティ・ディア「十年の憎しみを越えて」『文藝春秋』一九五五年一二月)