日本は過去を克服できるか
    
―戦争責任と補償問題

       林 博史



日本科学者会議の機関誌『日本の科学者』2002年8月号に書いたものです。世の中、あまりいい話がないですが、結論で書いた考えはいまもそう思っています。 2003.10.7記


はじめに

  日本では1980年代に侵略戦争と加害責任についての本格的な研究が始められ、人々の間でその問題が広く認識されるようになった。さらに1990年代に入り、戦後処理が終わっておらず、とりわけ被害者個人への謝罪・補償という問題が未解決であり、早急に解決する必要があるという、いわゆる戦後補償問題が浮上してきた。戦後補償を求める運動が広がり、裁判も次々に提起されるようになった。

 ところが90年代の中ごろからそれに反撃する右からの動きが本格化した。自民党の右派勢力や藤岡信勝らのグル−プが、日本のおこなった戦争を正当化し、被害者を攻撃するキャンペーンをくりひろげはじめた。その一方で日本政府は個人補償をあくまで拒否し、裁判でもほとんどのケースで原告は敗北した[i]

 こうした巻き返しの前に戦後補償の運動は後退あるいは停滞を余儀なくされているのは否定できないが、同時に2000年代に入り、新たな国際的な連帯の取組みが進みはじめ、90年代とは異なった状況が生み出されつつあるとも言える。ここではその代表的な運動として女性国際戦犯法廷、2001年の教科書問題、真相究明法制定運動の三つを取り上げて、日本における「過去の克服」の取組みの現状を考えてみたい。 

1 女性国際戦犯法廷

 2000128日から12日まで東京で「日本軍性奴隷制を裁く女性国際戦犯法廷」が開催された。法廷は加害国日本と被害国6か国の女性たちや国際的な人権活動家たちによる国際実行委員会によって組織され、旧ユーゴ国際戦犯法廷前所長ら4人が判事団を構成した。最終的に南北朝鮮、中国、台湾、フィリピン、インドネシア、マレーシア、東チモール、オランダ、日本の10か国・地域から検事団が構成された。

 この背景には、90年代以来、日本軍「慰安婦」問題について国連人権委員会への働きかけを通じて国際的な女性のネットワークが作られていったこと、旧ユーゴやルワンダの経験から戦時における女性への性暴力が今日においても世界的に広がっており、その根本的な原因の一つとして日本軍「慰安婦」問題を不処罰のままに放置していたことが認識されるようになったこと、が指摘できる。そして日本政府が一貫して法的責任を拒否し、日本の裁判所も政府の姿勢を追認している状況のもとで、民衆の手による裁判をおこない、戦時性暴力の不処罰→再発の悪循環を断ち、正義を回復し、被害者の名誉と尊厳を回復しようとする試みがこの法廷であった。

 証拠に基づいた裁判をおこなうために日本軍・日本政府の公文書、被害者などの証言、ビデオ記録、専門家証言・意見書など各国による証拠収集がおこなわれ、膨大な証拠が提出された[ii]。首席検事がまとめた共通起訴状において、昭和天皇を含む10人の国家・軍の指導者を人道に対する罪の容疑で起訴した。8カ国64人の元「慰安婦」など日本軍による性暴力の被害者も出廷して証言をおこない、連日1000人を超える人々が傍聴に詰めかけた。法廷の最終日に「認定の概要」が出され、そのなかで「被告天皇裕仁有罪」と読み上げられたとき、場内は拍手と歓声で興奮に包まれた。昭和天皇がはじめて裁かれた瞬間だった。最終判決は1年がかりで作成され、2001124日ハーグにおいて下された。性奴隷制(日本軍「慰安婦」制度)について昭和天皇以下9人に人道に対する罪として有罪、フィリピンのマパニケでのレイプ事件について山下奉文に有罪、昭和天皇に一部有罪(実行責任は証拠不十分で無罪)という判決であった。また日本政府に対しては公的謝罪や個人補償、資料公開などが、旧連合国に対しては慰安婦についての犯罪を裁かなかったことの説明を求めるなどの勧告もおこなわれた[iii]。この判決と勧告を実現しようという運動が取り組み始められている。

 この法廷の評価はすでにたくさんの方々が論じているのでくりかえさない[iv]が、ここでの関心からいくつかの点について指摘しておきたい。

第1に東京裁判が裁くことを回避し、戦後の日本人もそれを避けてきた、昭和天皇の戦争責任(この場合は日本軍「慰安婦」制度という戦時性奴隷制)と正面から取り組み、民衆主権による法廷の場で裁いたことである。天皇の免責が戦後日本のあり方を歪めてきたことは言うまでもない。憲法第9条が天皇免責とセットで導入されたことはすでに指摘されてきたことであるが、第9条の平和主義の歪みを正すためにも日本の戦争責任問題の解決は避けて通れない課題である。なお海外のマスコミがこの法廷を大きく報道したのに比べて、日本のマスコミが法廷そのものを無視したり、あるいは報道しても天皇有罪を隠そうとしたことも指摘しておかなければならない。

 第2に被害者の名誉と人権回復を求める声、とりわけ被害者自身の証言が法廷のベースとなって法廷を動かし、さら国際法をジェンダーの視点から問い直した。客観性を装った国際法やあるいは学問研究をジェンダーの視点からその問題性を浮き彫りにした。歴史学会のこの法廷への冷淡さ、と言うよりも、この法廷だけでなく日本軍「慰安婦」問題を含む戦争犯罪・戦争責任問題への反応の鈍さは、日本の歴史学の問題を示している。

 第3にフェミニズムの視点から女性たちの国際連帯、とりわけアジア地域の連帯が広がりつつあることである。しかもそれは日本という加害国の一員であることを見すえ、その戦争責任の解決が日本国構成員としての責任であることを自覚し行動することを通じての、アジア女性との連帯であるということが重要である。女性であれば、フェミニストであれば国家を超えられるかのような、安易なナショナリズム批判とは無縁である。と同時に指摘しておかなければならないことは、韓国において韓国自身への批判的な議論がなされるようになってきたことである[v]。たとえば戦後長期にわたって元「慰安婦」の女性たちが韓国社会のなかで差別され苦しめられてきたこと、「売買春」問題を女性の人権問題として考えず依然として「娼婦」への差別意識が強いこと、そうした韓国社会のあり方が韓国軍によるベトナム女性へのレイプなどの性暴力を生み出したこと、などが議論されるようになってきた。さらに米軍占領下の沖縄を思い起こすような在韓米軍による韓国女性に対する性暴力も取り上げられてきている。日韓の人々の間の対話が可能な状況がこうした取組みを通じて生まれてきていることは貴重な成果であろう。

 

2 2001年教科書問題  

 2001年に大きな問題となった「新しい歴史教科書をつくる会」の中学歴史・公民教科書をめぐる問題は、本誌20019月号の特集でも取り上げられているので、ここでは日本の戦後補償問題への取り組みとの関連で触れたい。

 すでに周知のように「つくる会」の歴史教科書はシェアがわずか0.039%という惨敗に終わった。ただ他方で日本の加害の記述が充実している日本書籍がシェアを半減させるなど全体としては戦争に関する記述は後退した。そういう意味では「つくる会」のねらいは一定程度成功したとも言える。「つくる会」は次回の検定時のリベンジを期してすでに活動を始めており、予断を許さない[vi]

 まず指摘しておかなければならないことは日本国内における市民の取組みである。「つくる会」が草の根保守を組織し、地方議会決議をあげさせながら中央を包囲する戦略をとったが、それに対抗する地域の市民の取組みが急速が広がったのが2001年の特徴だろう。「子どもと教科書全国ネット21」を初めとして採択区ごとに市民組織が作られ、またキリスト教関係者も取組みに参加した。教科書問題でいえば、かつて家永教科書訴訟を支える運動があったが、それをはるかに超える市民の取組みが生まれたと言ってよいだろう。と同時に栃木県下都賀地区採択協議会で当初、「つくる会」の歴史教科書の採択を決めたが、ひっくり返したケースを見ると、同地区内の国分寺町長が強く反対したことが大きかったと思われる。彼は中国従軍の経験を持ち、日本がやったことは「侵略戦争」でしかなかったことを実体験として感じていた。だから「つくる会」の教科書が書いていることはうそであり、認めることはできないと考えたのである。彼は長年にわたる自民党員であった。各地で自民党を支えてきた保守の人々のなかには、「侵略戦争」とまでは断言しないにしても戦争はもうこりごりだと言う人々が少なくない。教組の組織がほとんどないこの地区で「つくる会」教科書を採択させなかったのは草の根保守のなかの平和主義の力が大きかったと見るべきだろう。と同時にこの町長も引退間際だったことからもわかるようにこうした人々が次々と引退していることが、自民党のこの間の変化(有事法制や自衛隊海外派兵への積極さ)と関連しているだろう。かつての保守対革新という構図は解体し、別の枠組みでの人々の結集軸が必要であり可能でもあることを示しているように思われる。

この2001年教科書問題は韓国のなかの日本()観に一つのインパクトを与えたようである。昨年秋、韓国の「日本の教科書を正す運動本部」が日本の新聞に意見広告を出した。その見出しは「『あぶない教科書』不採択という結果は日本国民の良識の勝利です」というものだった[vii]。つまり日本政府は検定で「つくる会」教科書を認めたにもかかわらず、日本の民衆は拒否したということである。これまで「日本人」「日本国家」が一つのものとして認識され批判されてきたが、国家と民衆は必ずしも一体ではないことが認識されるようになったことを意味している。「つくる会」教科書採択に反対する運動が韓国でも報道されたことが影響しているだろう。

教科書問題をめぐって日中韓の市民の共同の取組みがおこなわれるなかで、3国の市民団体などが共同して20023月に南京において「歴史認識と東アジアの平和フォーラム」が開催された。東アジアに平和の共同体を建設していくうえで歴史認識の問題は避けて通れない課題であり、その取組みを通して市民のなかから平和の連帯を創っていこうとする試みである。この会議のくわしい内容は別に譲る[viii]が特徴的だったのは、韓国の報告者たちが韓国自身の歴史教育・歴史教科書の問題点を指摘していたことだった。韓国の歴史教科書が日本史の教科書の構成をなぞっており、国家・民族の超歴史性、神聖化、権力の肯定が目立つこと、韓国の教科書も人類の普遍的価値を盛り込む努力が必要であること、韓国の歴史教科書では日本の右翼的な教科書を批判しきれないこと、などの指摘がなされた。

韓国ほどではないが中国にも変化が見られる。南京での「平和フォーラム」での中国側の報告では、イギリス国立公文書館の資料や日本の外交資料に基づく実証的な報告がおこなわれた。結論ありきではなく、あらためて資料に基づいて議論しようという姿勢が出てきている。昨年20015月に南京で開催された「南京大虐殺研究国際シンポジウム」では中国側の基調報告において、原爆などに基づく日本人の戦争体験と被害者の立場から戦争の苦しみを理解する日本人の心情を理解すべきこと、そのことを理解したうえで対話と理解が可能であることを主張する報告がおこなわれた[ix]。また個別報告においても中国政府が発表してきた南京虐殺の犠牲者数の変遷を追いかけた報告がなされた。つまり30万人という公的な数字を相対化しようとするものだった。中国との間でもようやく冷静な議論ができる状況が少しずつではあるが広がりつつある。

 現在、東京学芸大学とソウル市立大学のグループによる「日韓歴史共通教材」制作の努力をはじめ、いくつかのグループが日韓共同での副読本あるいは共通教材をめざした取組みを始めている。作業はそれほど簡単ではないが、こうしたことが可能になったのはこの数年のことである[x]。筆者は、EUのような共通教科書がよいとは思わない。むしろ多様な見方がわかるような教材こそが必要だろう。同じ歴史認識を持つことではなく、違いを相互に認識し理解することこそが東アジアの平和にとって大切であると考える。

 

3 真相究明と過去の克服 

 「過去を克服」するうえで不可欠の作業が、それに関する資料をすべて公開し、何があったのかを明らかにすること(真相究明)であるという認識は、アメリカから具体的な動きとなって現れた。20001227日クリントン大統領が署名して「日本帝国政府情報公開法」が成立し、翌2001327日に発効した。これはすでに199810月に成立していたナチス戦争犯罪情報公開法に日本関係資料が付け加わったものである。つまり国防総省や国務省、CIA、国立公文書館など米政府機関が機密指定のままに保持している、日本との戦争・戦争犯罪に関するすべての資料(1931918日から19481231日まで)を調査し、リストを作成し、機密解除を勧告し、国立公文書館で閲覧できるようにするという法律である。若干の例外規定が付けられているが、日本との戦争については基本的に洗いざらい機密解除し公表しようとするものである。

 ナチスに関しては19991月に省庁間作業部会が設置されて以来、20005月までに約150万ページ分が機密指定を解除され、最終的には1000万ページ以上が機密解除・公開される見通しである。日本関係については、20023月の議会への報告によると2000万ページにのぼる資料を調査し(未調査は約1200万ページ)、うち約8万ページが関連する資料と認定され、そのうち18000ページをすでに機密解除した。関連する資料は最終的には20万ページにのぼると推定されている。

 たとえば戦略情報局OSS(CIAの前身)については、ナチス戦争犯罪情報公開法により20006月に約120万ページが公開されているが、それ以前にも膨大な記録が公開されている。そこには、特に中国での日本軍・特務機関関係の資料が多く含まれており、日本軍の戦争犯罪や対日協力者関係の資料が多い。また陸軍参謀部の組織・個人情報ファイルはすでに約8000件が公開されていたが、200111月にさらに約1400件がまとめて公開された。この中には辻政信、岸信介、石井四郎、児玉誉士夫といった戦犯(容疑者)の個人情報が含まれているほかに、ナチスの各種組織や個人、日本の軍人や政治家、戦争犯罪人(容疑者含む)、世界各地の共産主義者個人や組織などについての情報もあり、1940年代から1960年代の研究にとって貴重な資料の宝庫である。ほかにも国務省、CIA、FBIなどからも関連資料が出てきている。

 アメリカではすでに膨大な戦争犯罪に関する資料が公表されているが、それに加えて日本帝国政府情報公開法により、各省庁が機密として保持していた資料まで国立公文書館に移管して公開しつつあるのである[xi]

 作業部会の議会への報告でも指摘されているが、大きな問題は没収した膨大な資料をきちんとした目録も作らずに日本に返還してしまったことである。1950年代の冷戦状況と、第5福竜丸事件を契機とする日本国内の原水爆禁止運動の拡大などの状況下において、日本政府は、日本国民の反米感情を刺激しないようにという一種の揺さぶりをかけながら、服役中の戦犯の釈放とこれらの没収資料の返還をアメリカ政府に迫り、日本の中立化を恐れるアメリカはずるずると譲歩をおこなった状況がうかがわれる[xii]。こうして日本に返還された資料は防衛庁防衛研究所図書館と国立公文書館に分割して所蔵されているが、少なくない資料がいまだに公開されていないとみられる。冷戦状況下で、日本政府がみずからの戦争責任をあいまいにしたことと情報公開問題(資料の非公開)は表裏一体なのである。

 こうしたアメリカでの動きと並行して日本においても戦争に関する政府資料を徹底して調査し公開するための立法の動きが始まった。市民有志が「戦争被害調査会法を実現する市民会議」を結成し、国会議員に働きかけて19989月に自民、民主、公明、社民、共産その他100名あまりが参加する「恒久平和のために真相究明法の成立を目指す議員連盟(略称:恒久平和議連)」(会長浜四津敏子、鳩山由紀夫)が結成された。恒久平和議連の議員たちを中心に162名の賛同を得て、200011月に「恒久平和調査局設置法(国立国会図書館法の一部を改正する法律案)」を衆議院に提出、継続審議中である。

 日本では20014月に情報公開法が施行されたが、歴史資料は対象外にされてしまった。また防衛研究所図書館や外交史料館なども対象外とされた。各省庁は保存期間をすぎた文書を国立公文書館に移管する義務もないので秘密裏に処分されてもわからない。たとえ国立公文書館に移管されたとしても、未整理状態にあるとして公開しなくても問題にされないし、公開するかどうかは国立公文書館の判断で決められてしまう。

 そこで国会の付属機関である国立国会図書館に恒久平和局を設置し、そこが各省庁の保持している資料の提出を求め、公開をうながす立法を目指している。この真相究明から始めるというのは、アメリカの日系人の強制収容に対する謝罪と補償のプロセスにおいて、まず議会に調査委員会を作って真相を究明し、その事実を共通認識としたうえで補償立法をおこなった経験に学んだものである。

 こうした動きは韓国においても始まっている。韓国では200110月に「日帝強制占領下強制動員被害真相究明等に関する特別法案」が議会に提出されている。

 すでに50年以上たった戦争に関わる資料はすべて公開し、真相を究明すること、そのことがわれわれが克服すべき「過去」とは何であったのか、という共通の認識を作り、公的謝罪と個人補償を含む戦争責任問題の解決のために欠かせない一歩であるという認識は太平洋の両岸で広がりつつある。

 

おわりに

 日本は過去を克服することができるのか、という設問に、「できる」と自信をもって答えられるような状況には、日本はない。しかし東アジアの平和を築こうとする市民の間の連帯がこれほど広がっているときはない。そしてそれらの人々の間で日本の戦後処理が不可欠であるという認識が共有されるようになってきた。20世紀は戦争と植民地支配により民衆が分断された時代であったが、21世紀に入ってはじめてわれわれは東アジアの人々の対話と連帯について語れることができるようになった。そこに希望があると考えたい。



(注)

[i]  例外的な判決としては、元「慰安婦」2人の訴えに対して、「慰安婦」制度が「徹底した女性差別、民族差別思想の現れ」であり「極めて反人道的かつ醜悪な行為」であったとし、さらに「今日まで同女らを際限のない苦しみに陥れている」ことも認定し、立法不作為により国に30万円の賠償を命じた山口地裁下関支部判決(1998427日)、三井三池炭鉱などに強制連行された中国人15人が三井鉱山と国に損害賠償などを求めていた訴訟で、「国と企業の共同不法行為」と認めて三井鉱山に総額16500万円の賠償を命じた福岡地裁判決(2002426日、ただし国への請求は棄却)などが挙げられる。

[ii] 法廷のための調査の成果として、VAWW-NET Japan編『日本軍性奴隷制を裁く2000年女性国際戦犯法廷の記録』第1巻〜第4巻、緑風書房、2000年、がある。

[iii] 法廷の記録と最終判決全文については、VAWW-NET Japan編の同シリーズの第5巻・第6巻(2002年)に掲載されている。

[iv] まとまったものとしては、VAWW-NET Japan編『裁かれた戦時性暴力』白澤社(現代書館発売)、2001年、『季刊戦争責任研究』(日本の戦争責任資料センター)第32号、20016月、がある。

[v] たとえば、山下英愛「韓国における慰安婦問題解決運動の課題―性的被害の視点から」『女性・戦争・人権』第4号、2001年、同「韓国における‘慰安婦問題解決’運動の位相」『季刊戦争責任研究』第3435号、2001912月、参照。

[vi] 採択終了後の「つくる会」動きについては、『季刊戦争責任研究』第35号(特集「つくる会」教科書問題の今後)、20023月、参照。

[vii] 東京多摩地区では朝日新聞に付いてくる『アサヒタウンズ』に掲載された(20011013日付)。

[viii] 『季刊戦争責任研究』編集部「“歴史認識と東アジア平和フォーラム”報告」『季刊戦争責任研究』第36号、20026月、参照。

[ix] 笠原十九司『南京事件と日本人』柏書房、2002年、297-318ページ、参照。

[x] この間の動きについては、君島和彦「日韓の歴史教科書交流の捉え方と現状」『教科書レポート2002No.462002年、参照。

[xi] 拙稿「次々と公開される戦争関係資料―米国立公文書館資料調査中間報告」『季刊戦争責任研究』第35号、20023月。National Archives and Research Administration(NARA)のホームページhttp://www.nara.gov/ , 省庁間作業部会Interagency Working Groupのホームページ http://www.nara/iwg/ も参照。

[xii]  米国立公文書館のアーキビストによる論文(未発表)。年内には『季刊戦争責任研究』に翻訳して掲載する準備をしているが、発表できるかどうかまだ未確定なのでここでは執筆者名も匿名にさせていただきたい。