B C 級 戦 犯

       林  博 史

『歴史と地理』(山川出版社)532号、2000年3月


BC級戦犯・BC級戦犯裁判とは何だったのか、についてかんたんに整理したものです。コンパクトにまとまったものとしてはほかにあまりないように思いますが。ただBC級戦犯裁判の意義について、ほかにも重要な意義があると考えています。近いうちに詳しく書きたいと考えています。   2003.8.1記


戦争犯罪とは

 「戦争犯罪」には大きく言って二つの内容が含まれている。一つは戦争をおこなう際のルールを決めそれに反する行為を戦争犯罪とする考え方であり、もう一つは戦争自体あるいは戦争を起こすこと自体を犯罪とする考え方である。

 前者については、傷病兵の保護を定めた第一回赤十字条約(一八六四年)が最初の条約といえる。この条約はその後幾度か改正された。また捕虜の保護をうたったジュネーブ条約(一九二九年)も締結された。他方、一八九九年におこなわれたハーグ平和会議で有毒性ガスやダムダム弾(人体の中で留まる特殊な弾)などの使用を禁止する宣言がなされ、そうした努力が「陸戦の法規慣例に関する条約(通称ハーグ条約)」とその付属規則(一九〇七年)として結実した。これには捕虜などの保護、毒や不必要に苦痛を与える兵器の使用禁止、占領地での住民の生命財産の保護、略奪の禁止などが含まれ、それまで積み重ねられてきた慣習を法典化した戦争法であった。これらの戦時国際法を侵犯することは戦争犯罪とされた。

 後者の考え方は、第一次世界大戦後のヴェルサイユ平和条約で、この戦争を開始したドイツ皇帝の「戦争開始者責任」が問われたことが始まりである。ドイツ皇帝は亡命したために裁判にかけられなかったが、不正な戦争をおこしたこと自体を戦争犯罪として裁こうとした最初の例である。侵略戦争は違法であるという考え(戦争違法化)は国際連盟の規約(一九一九年)や「戦争放棄に関する条約(パリ不戦条約)」(一九二八年)などによって発展していった。

 その後、前者を「戦争の法規または慣例の違反(通例の戦争犯罪)」、後者を「平和に対する罪」と呼ぶようになった。さらに第二次世界大戦中のナチスドイツによるユダヤ人に対するホロコーストという想像を絶する犯罪を念頭において「人道に対する罪」という概念も誕生した。

 ナチスドイツを裁くために連合国によって作成された国際軍事裁判条例(ニュルンベルク裁判の根拠、一九四五年)の第六条において犯罪のタイプとしてA項「平和に対する罪」、B項「通例の戦争犯罪」、C項「人道に対する罪」と三つに区分したことから、侵略戦争をおこして「平和に対する罪」に問われた国家指導者たちをA級戦犯class A war criminal、それ以外のB項とC項の犯罪を犯した者をBC級戦犯class B & C war criminalと呼ぶようになった。ただこれはアメリカ式の呼び方であり、イギリスは主要major戦犯と軽minor戦犯と呼んで区別している。

B級とC級犯罪は重なる部分が多いが、前者が戦時における敵国民への犯罪であるのに対して、後者は戦時だけでなく平時も含み、自国民への犯罪も対象としていることに大きな違いがある。たとえばドイツ国民であるユダヤ人を戦争前から迫害したケースは、B級には該当しない。そういう問題があったのでC級が考えられた。たとえば、カンボジアのポルポト派の犯罪は自国民を虐殺したわけだからB級ではなくC級犯罪である。日本についてはC級が適用されなかったが、それは植民地民衆(当時は日本国籍)に対する犯罪(強制連行や慰安婦の強制など)が裁かれなかったことと関係している。

 

戦争犯罪(戦犯)裁判とは

 「通例の戦争犯罪」については、被害をうけたそれぞれの国が自国の裁判所で戦争犯罪人を裁く権利が与えられた。したがってBC級戦犯裁判については国際法上の根拠ははっきりとあった。よく東京裁判が事後法によると批判されるのは「平和に対する罪」が国際法として確立されていたかどうかが議論になるからである。確かに「平和に対する罪」として定式化されるのは一九四五年八月のロンドン協定であるが、ドイツ皇帝の訴追を決めたヴェルサイユ平和条約や不戦条約に日本も参加していることを考えると「平和に対する罪」の内実はすでに形成されていたと考えてよいだろう。

 連合国は一九四二年はじめの段階で、戦争犯罪人の処罰が連合国の主要な戦争目的の一つであることを宣言していた。ポツダム宣言に「一切の戦争犯罪人に対しては厳重なる処罰を加えらるべし」という条項が含まれたのは当然の帰結だった。

 第二次世界大戦後、A級戦犯についてはドイツはニュルンベルク裁判、日本は東京裁判という国際法廷によって扱われた。東京裁判では二八人が起訴され、途中病没や免訴された三人を除く二五人に有罪判決(うち死刑七人)が下された。なお東京裁判では「平和に対する罪」が裁かれたと一般には理解されているがそれは不正確である。起訴理由にはA級だけでなくB級も含まれ、B級で有罪となった者だけが死刑になり、A級だけで死刑になった被告はいない。東京裁判においても通例の戦争犯罪が重視されていたことを見逃してはならないだろう。

 BC級戦犯裁判の根拠は、各国が定めた法令である。裁判の基本的なあり方については、戦争中に設置されていた連合国戦争犯罪委員会で議論され、ガイドラインが示されていたが(たとえば上官の命令という理由では情状酌量の理由にはなっても免責の理由にはならないことなど)、細かくは各国に委ねられた。一部の例外を除いて基本的に被害者の国籍によって裁判をおこなう国が決められた。

 

BC級戦犯裁判の概要 

 日本に対するBC級戦犯裁判は、米英仏蘭豪中比の七か国によっておこなわれ、表1のように被告総数は五千七百人、うち死刑判決は九八四人である(ただし後に減刑されたものも多い)。なおこの数字は日本側でまとめたものであり、必ずしも正確ではない(イギリスについては表2参照)。裁判がおこなわれた場所も日本の横浜をはじめ、日本軍が占領した中国、東南アジア、太平洋諸島の各地にわたっている(図1)。

 七か国以外にソ連のハバロフスク裁判(一九四九年一二月)では七三一部隊など細菌兵器に関わった十二人が裁かれた。ただソ連は死刑を認めていなかったので死刑判決はない。

 中国では国民政府が裁判をおこなったが、その後、中華人民共和国が誕生すると四五人が裁判にかけられ(一九五六年六月〜七月、裁判地は瀋陽と太原)、最高で禁固二〇年の判決をうけた。

 裁かれたのは原則として日本国籍を有していた者であるが、分かっているかぎりでは、その中に朝鮮人一四八人、台湾人一七三人も含まれている。彼らは捕虜収容所の監視員や軍の通訳として動員されたことから捕虜虐待などの罪に問われたものである。 

 裁かれた行為は、捕虜や民間人に対する不法な殺害、拷問・強制労働などの虐待、虐待致死などが圧倒的に多いが、それ以外にも強かん、強制売春、略奪、財物の破壊焼却、アヘン販売、人肉食など多岐にわたっている。

 なおBC級戦犯裁判の裁判記録やその関係資料は、筆者が把握しているかぎりでは米英豪ですでに公開されているが、それらの裁判記録を利用した研究はほとんどない。だから表1のデータも最終的には大幅に書き換えられると予想できる。オリジナルの史料に基づいた研究は残念ながらイギリス裁判しかないので、それについて少し詳しく見たい。

 

イギリスの裁判    

 イギリスはインド以東のアジアに多くの植民地を持っており、それらは日本軍の占領下におかれた。その植民地民衆に対する日本軍の戦争犯罪もイギリスが裁くことになった。裁判がおこなわれた場所は、シンガポール、マレー半島(マラヤ)、ビルマ、北ボルネオ、香港の計二〇都市である。捕虜に対する犯罪はシンガポールと香港で集中して裁判がおこなわれたが、住民に対する犯罪は原則として現地で裁いたので裁判地が多くなっている。

表2のように九一九人が起訴され、八一〇人に有罪判決(うち死刑二八一人)が下された。ただし判決は上級機関によって検討されたうえで確認されなければならないが、その際に一一九人が減刑あるいは判決破棄(つまり無罪)になっているので有罪確定は七八三人(うち死刑執行は二二二人)である。

 シンガポールにあった英軍主体の東南アジア連合地上軍司令部の下に裁判所が設置された。陸軍中佐を裁判長とし少佐と大尉各一人、計三人が裁判官となる(大きな事件では五人のこともあった)。検察官は法務少佐があたり、弁護人には当初を除き日本人弁護士がなり、英軍将校が助言者として付いた。裁判は一審だけで、無罪判決は上級機関の確認なしに確定する。有罪判決の場合には、被告は嘆願書を出すことができた。裁判の速記録や証拠書類など一式はまず連合地上軍の副法務長に送られ、そこで検討される。彼は自分の意見を付けて確認官(連合地上軍の指揮下にある各軍司令官)に送り、各軍司令部の法務官が副法務長の意見を参考にして、判決を確認するという手続きを取る。確認の際に刑を減免することはできるが刑を重くすることはできない。

 裁判を進めるうえで桎梏となったのが法務将校と日本語のできるスタッフの不足だった(捜査段階から法廷での通訳まで)。一九四六年五月時点で八九〇〇人の容疑者を逮捕しており、さらにまだ容疑者を逮捕していない捜査事件も多数抱えていたが、結局裁判にかけられた人数は九百人あまりにとどまった。

 これまでBC級戦犯裁判においては主に捕虜に対する犯罪が裁かれたと言われてきた。つまり裁いた国は帝国主義国であり、植民地民衆のことよりも自国の捕虜などへの犯罪を重視し、報復として裁判をおこなったという理解だった。しかしそうだろうか。イギリスの裁判で、誰に対する犯罪が裁かれたのかを裁判記録から作成したのが表3である。これを見るとはっきりすることは、起訴された被告の六〇%はアジア系民間人に対する犯罪で裁かれている。捕虜と民間人の両方が被害者のケース七一人のうち六五人はアジア系民間人である。これらをあわせると起訴された被告の約三分の二はアジア系民間人に対する犯罪が問われたことになる。一方、捕虜に対する犯罪で裁かれたのは二五%にすぎない。

 さらに死刑判決の六七%は民間人のケースであり、捕虜のケース二三%の三倍にのぼっている。死刑確認では民間人のケースが七二%とさらに高くなっている。

 裁判記録に基づいて言えることは、イギリス裁判においては裁かれた事件の多数が地元のアジア系住民に対する犯罪であったということである。

 なぜそうなったのかについては拙著『裁かれた戦争犯罪』で詳述したのでそちらを参照していただきたいが、かんたんに言えば、イギリスは大英帝国を再建するうえで現地住民の支持が必要だった。戦犯裁判は住民への加害者を裁き、イギリスが彼らの保護者であることを示す絶好の機会として考えられた。また加害者を処罰せよという住民の要求は強く、住民の協力によって戦犯裁判がおこなわれた。戦犯裁判の背景にあるのは、日本軍の占領と残虐行為のひどさであり、それへの民衆の怒りだった。だから住民の支持を得るためには加害者を裁くことが不可欠だった。そうした意味でイギリスの戦犯裁判は日本軍の被害をうけた民衆の力が重要な推進力であったといえる。したがって「勝者の裁き」という見方は―その側面があることは否定しないが―アジア民衆の被害と彼らの要求を見ない、一面的な議論であろう。

 

各国の裁判の特徴 

 先に述べたようにイギリス裁判以外は、裁判記録に基づいた研究がまだなされていない。ここではとりあえず日本側の資料で各国ごとの裁判のおおまかな特徴を述べておきたい(この項については研究の進展によって修正されうることをご容赦いただきたい)。

 アメリカは横浜、マニラ、グアムなどで裁判をおこなった。マニラ裁判ではフィリピン住民に対する犯罪が裁かれたが、フィリピンが独立したのでそれらのケースはフィリピンに委ねられた。日本軍の占領地域には、グアムなどを除いてアメリカ領がほとんどなかったので、アメリカ裁判では捕虜(撃墜されたB29の搭乗員を含む)に対する犯罪を裁いたケースが多い。したがってアメリカ裁判については、主に捕虜に対する犯罪を裁いたと言ってもよいだろう。

 オーストラリアはラバウル、マヌスなど各地で裁判をおこなった。捕虜に対する犯罪を扱ったケースが多いが、ニューギニアやその周辺の島々での住民に対する犯罪が裁かれたケースも少なくなかった。

 オランダはバタビヤ(現ジャカルタ)など蘭領東インド(インドネシア)各地で裁判をおこなった。ここでは捕虜に対する犯罪とともに日本軍に抑留された民間のオランダ人に対する犯罪が多く裁かれたことが特徴である。ジャワだけで七万人近くの民間人が抑留され、虐待やひどい環境のために多くが犠牲になったことの反映である。その抑留者のなかから慰安婦になることを強制された事件も戦犯裁判で裁かれている。なおボルネオなどの裁判では住民に対する犯罪も多く扱われている。

 フランスはサイゴンで裁判をおこなった。多くは捕虜や民間のフランス人に対する犯罪であった。

 オランダとフランスはともにインドネシアとインドシナという大きな植民地を持っていたが、戦前も戦後も民族主義には抑圧的な姿勢で臨んだ。イギリスが民族主義を抑圧するのではなく、それとうまく付き合おうとしたことと対象的だった。イギリスに比べて、オランダとフランスが戦後すぐに武力による独立闘争に直面し、戦犯裁判において住民の被害を取り上げることに消極的だったのはそうした政策の違いの反映であろう。

 フィリピンと中国(国民政府も共産党政府もともに)の裁判は言うまでもなく、自国の民衆に対する犯罪を取り上げている。

 このようにBC級戦犯裁判といっても多様であり、各国ごとに資料に基づいて丁寧に議論していく必要がある。ただ全体として言えることは、アジアの民衆の被害がかなり多く取り上げられ、裁かれていることである。

 なお中華人民共和国の裁判は、犯罪者を処罰することよりも悔い改めさせることに主眼をおいたものだった。だから約千百人の戦犯のうち起訴したものは四五人にすぎなかった。裁判の時期が一九五六年と遅かったこと、公正な裁判をおこなうことによって国際社会に新中国を承認してもらおうとしたこと、特に日本との関係改善を望んでいたことなどの理由が考えられるが、多くの戦犯が人道的な扱いに自らの残虐行為を悔い改め、その後も加害責任を自覚して日中友好のために努力してきたことは、中華人民共和国裁判の際立った特徴である。

 

裁判の問題点と日本での議論 

 これまでの日本でのBC級戦犯裁判の議論では、裁判が勝者による一方的な裁きであったこと(検察側の証拠が一方的に採用され不十分な証拠で有罪とされたこと、弁護の機会の不十分さ、通訳の不適切さ、人違いによって裁かれたことなど)、上官の命令に従っただけの者までが裁かれたこと、拘留中の被告あるいは容疑者が暴行されたこと、などがくりかえし言われてきた。獄中での暴行がひどかったことは事実であり、また被告の目からは上記のような不満があったことは事実であろう。またケースによってはそうした批判があたっている場合もあっただろう。戦争という混乱した中での出来事であり、しかも事件から数年たってから捜査がなされたことからその困難さは十分に予想できる。

中華人民共和国の戦犯の例で考えると、彼らは当初、自分たちがやったことが犯罪であるという意識はなかった。戦争だから当然だと考えていた。そこからは拘留されていること自体が不当だという意識しか生まれなかった。しかし日本軍によって殺され痛めつけられた中国の人々に思いを致すことができるようになると、自分たちのやってきたことの犯罪性非人道性を自覚するようになった。中国側の人道的な扱いと事実を徹底的に追求する姿勢が日本人戦犯の意識を変えていった。

それに対して他国から戦犯とされた人たちは、被害をうけた人々の痛みを感じることなく、逆に獄中で暴行をうけ、あるいは責任ある上官たちが逃げてスケープゴートにされたという思いから、自分たちが被害者であるという意識しか持てず、自らの行動を省みる機会を逸してしまったケースが多い。日本での議論が、加害の事実や被害者の痛みを見ようとしないものが多いのは、そうした元戦犯の意識に規定されているからだろう。

他方、英米でのBC級戦犯裁判の研究はあまり活発ではないが、概して公正な裁判だったと肯定するものが多い。裁判をおこなった法務将校らの意識としては公正さを心がけていたと言ってよいだろうが、英米での議論は戦犯の受けた暴行など日本側の議論を無視してしまっている。日本軍による加害の事実をふまえて、被害者、裁いた者、裁かれた者のそれぞれの認識と行動を検証したうえで、BC級戦犯裁判を議論する時期であるだろう。

忘れてはならないことは、裁判にまで持ち込まれたケースはほんの一部であり、裁かれなかった犯罪が膨大にあることである。これまで日本では一握りの戦犯に責任を押し付けて済ませてきた。しかしあらためて日本国民全体が、日本が犯した戦争犯罪とその責任を受け止めることが必要だろう。

 

戦犯裁判の意義  

 第二次世界大戦後の戦犯裁判は、戦争における過度な残虐行為を規制し、さらに戦争自体を禁止しようとする戦争違法化の努力の一つとしておこなわれた。それは大規模に行なわれた最初のものだっただけに多くの問題を含んでいたことは事実であるが、もしドイツや日本がおこなった侵略戦争とその中での残虐行為が裁かれなかったとしたら、そのこと自身が平和への営みを逆行させることになっただろう。

 もちろん原爆投下や都市への無差別爆撃をはじめ連合国の戦争犯罪を裁かなかったことは大きな問題であったが、後にベトナム反戦運動を支えた論理の一つが、かつてアメリカがおこなった戦犯裁判に照らして、アメリカのベトナム戦争は犯罪であるという論理だった。戦犯裁判がおこなわれたことによって、その後の侵略戦争や戦争犯罪を批判する手掛かりが得られたのである。その経験は今日、旧ユーゴにおける戦争犯罪を裁く国際刑事裁判所の活動や常設の国際刑事裁判所の設置の動きとつながっている。そこでは被告の人権の保障措置や死刑の廃止(最高が終身刑)など戦犯裁判の経験への反省が生かされている。

戦犯裁判が大国のパワーポリティックスによって歪められたことから、否定的にとらえる見方が強いが、そうした大国の横暴を規制し、公正な国際社会秩序を作る方向で国際刑事裁判所が活用されるならば、戦争をなくそうとする方向への重要なステップになることだろう。

 

参考文献(刊行順)   

内海愛子『朝鮮人BC級戦犯の記録』勁草書房、1982年

茶園義男編・解説『日本BC級戦犯資料』不二出版、1983年(このシリーズとして各国の戦犯裁判の資料集が刊行されている)

東京裁判ハンドブック編集委員会『東京裁判ハンドブック』青木書店、1989年

荒井信一『戦争責任論―現代史からの問い』岩波書店、1995年

藤田久一『戦争犯罪とは何か』岩波新書、1995年

中国帰還者連絡会訳編『覚醒 撫順戦犯管理所の六年』新風書房、1995年

岩川隆『孤島の土となるとも―BC級戦犯裁判』講談社、1995年

小菅信子・永井均解説・訳『GHQ日本占領史 第五巻 BC級戦争犯罪裁判』日本図書センター、1996年

林博史『裁かれた戦争犯罪―イギリスの対日戦犯裁判』岩波書店、1998年

 同 「裁かれなかった戦争犯罪―イギリス軍の戦犯捜査記録より」『季刊戦争責任研究』第19号、1998年3月

*さらにくわしくは、拙著巻末の参考文献、ならびに『思想』1984年5月号に掲載された文献目録を参照していただきたい。

 

表1 BC級戦犯裁判 一覧(Web版では省略) 

図1 BC級戦犯裁判のおこなわれた場所(Web版では省略)

表2  イギリス戦犯裁判の概要

 

裁判地域

裁判地

裁判件数

被告数

死刑判決

死刑確認

無罪

開始日

終了日

シンガポール

シンガポール

131

465

142

112

54

1946.1.21

1948.3.12

マラヤ

14ヶ所

68

169

62

57

20

1946.1.30

1948.1.28

北ボルネオ

2ヶ所

19

29

13

10

3

1946.4.8

1947.10.8

ビルマ

2ヶ所

40

132

39

23

14

1946.3.22

1947.11.21

香港

香港

46

124

25

20

14

1946.3.28

1948.12.20

20ヶ所

304

919

281

222

105

1946.1.21

1948.12.20

 

 

 

 

 

 

(注)(1)マラヤはクアラルンプール、ペナン、ジョホールバルなど、北ボルネオはラブアンとゼッセルトン(現コタキナバル)、ビルマはラングーンとメイミョー。(2)判決不明1人。(3)死刑以外の禁固刑、起訴取り下げなどは省略した。

(出典) WO235の各裁判記録より作成。拙著『裁かれた戦争犯罪』P104参照。

 

 

 

 

表3  被害者別判決(イギリス裁判)   

被害者種別

被告数

有罪

死刑

死刑確認

無罪・取下げ

民間人

550

486

188

159

64

西欧民間人

32

25

11

7

7

捕虜

227

201

66

44

26

インド人捕虜

38

32

7

3

6

捕虜+民間人

71

66

9

9

5

918

810

281

222

108

(出典) WO235の各裁判記録より作成。拙著『裁かれた戦争犯罪』P106参照。