『沖縄タイムス』2003年6月18日―20日

  発掘―沖縄戦の新資料    

                               林 博史


構成
<上> 民間人を装い奇襲攻撃―県民犠牲にした作戦命令
<中> 久米島を救った少年―鹿山兵曹長の日本軍が虐殺

<下> 愛楽園へ強制収容―米兵への感染恐れ隔離策

 

<上> 民間人を装い奇襲攻撃―県民犠牲にした作戦命令

 

 二年前からアメリカの国立公文書館で日本との戦争、特に日本の戦争犯罪に関わる新たな資料が次々と公開されはじめた。筆者は日本の戦争責任資料センターの共同研究チームの一員としてそれらの資料収集にあたってきたが、そのなかで沖縄戦についてもこれまで知られていない新しい資料をいろいろ手に入れることができた。ここではそのなかからいくつかの資料について紹介したい。

 沖縄戦の際の日本軍の資料は多くは戦火のなかで失われたが、少なくない文書が戦場で米軍によって没収され、その後一部は日本に返還されて現在では東京の防衛庁防衛研究所図書館で閲覧することができる。米軍は戦場で捕獲した日本軍資料をただちに分析し、必要な箇所は英訳して米軍関係者に配布した。その英訳資料のなかに原資料が失われたものが多数含まれていた。その中にはこれまでよくわからなかったことがわかったり、証言しかなかったものが裏付けられるものがいくつも含まれていた。

 まず紹介したいのは一九四五年四月一七日、激戦の続く西原で米軍が捕獲した文書である。「西原地区における戦闘実施要領」(日付なし)と題された文書には奇襲攻撃の際の注意として次のようなことが書かれていた。

「常に2−5名で戦闘隊を組織せよ。常に(陣地戦においても)組になって戦え」。「敵を欺け、しかし敵に欺かれるな」「服装においても話し方においても現地住民のように見せかけることが必要である。住民の服を借りてあらかじめ確保せよ(略)一案として方言を流暢に話す若い兵を各隊に一人を割当てよ」。「敵の装備、弾薬、食糧を奪い、それらを活用せよ。攻撃の案内として現地住民を連れて行け」

 つまり奇襲攻撃にあたっては民間人の服を着て言葉遣いも住民のようにふるまえということである。この命令は文書が捕獲された五日後には英訳されて米軍の各部隊に配布されていた。こうした日本軍の作戦を知った米軍は、近づいてくる者はたとえ民間人であっても日本軍の攻撃部隊だと判断するしかなかっただろう。昼間は砲爆撃のためにガマに潜んでいた住民が夜に食糧探しや移動のために外に出ていったが、そうした人々が米軍の一斉射撃をうけて犠牲になったことはよく知られている。そうした背景にはこのように住民を利用はしても、その保護をまったく考慮しなかった日本軍の作戦計画があったことがわかる。

 また五月はじめに米軍が没収したと見られる文書「極秘」「攻撃に際して遵守すべき注意事項」と題されたものがある(米海軍資料)。このなかで日本軍は「敵は卑怯にも、この県の人々に日本軍の軍服を着させるなど前線で利用している。敵と交戦している者は、そういう時には必ず躊躇なくそういう者を射殺せよ」「降伏するふりをして白旗をふる者がいるかもしれないので、前線の部隊はそうした者はすべて殺した方がよい」と命令していた。

 少し意味が理解しにくい文書だが、米軍に捕まって協力しているような者は射殺せよと解釈できるし、後者は投降する者がいることを認めたくないので「降伏するふり」と言っているのかもしれないが、要するに白旗を掲げて投降しようとする者は射殺せよということである。

 沖縄戦直前における住民動員についてもその実態がわかる資料が出てきた(米海軍資料)。四五年一月三〇日付の第三二軍参謀部の資料によると、二月はじめの時点における徴用労務者の部隊ごとの割当て数が記されていた。たとえば第六二師団(石部隊)には労務者三五〇〇名、学徒二五五名、計三七五五名(島尻郡から一三五〇名、中頭郡から二四〇五名)、北飛行場(読谷)には労務者一四〇〇名、学徒一〇〇名、計一五〇〇名(すべて中頭郡より)、など沖縄本島と伊江島を合わせて三万九七四二名が徴用されることになっていた。

 また戦闘直前の三月六日におこなわれた防衛召集について第六二師団の召集者の村ごとの割当てと召集人数がわかった(米陸軍資料)。たとえば西原村では待機者四六一名中四〇〇名、読谷山では六二四名中五五〇名が第六三歩兵旅団に配属されるよう命令されていた。第六二師団の管轄地域では待機者六九四〇名に対して五四八九名を召集することとなっており、行政関係者や病人などを除くと根こそぎ動員と言ってよいだろう。

 こうした徴用や防衛召集者については、多いときで一日約五万人の勤労動員があったというような概数はわかっていたが、こうした具体的な数字が出てくるのは、伊江島の飛行場建設など一部を除いてなかった。

 防衛研究所に所蔵されている日本軍資料では沖縄戦直前から戦闘中の資料が極めて少ないが、こうした米軍の記録からその時期の日本軍資料がずいぶん見つかり、沖縄戦の実態がより一層わかってきた。

 

<中> 久米島を救った少年―鹿山兵曹長の日本軍が虐殺

  沖縄本島の戦闘に比べて離島の沖縄戦については資料の発掘が遅れている。離島の上陸作戦を担当した海兵隊資料の調査が進んでいないことも一因であろう。筆者が関心をもっていた島の一つが日本軍による住民虐殺が多発した久米島のケースである。久米島を担当した海兵隊の資料から、住民サイドからはわからなかった実態が浮かび上がってきた。

 久米島上陸作戦はジェームズ・ジョーンズ少佐指揮下の艦隊付海兵隊の水陸両用偵察大隊と第1海兵師団第7海兵連隊第1大隊A中隊など戦闘員七四二名とその他非戦闘員二二四名、計九六六名によって六月二六日に実施された。水陸両用偵察大隊のアクション・レポート「久米島攻略並びに占領」(一九四五年八月一五日付)に詳細が記されていた。

 この上陸に先立って一三日夜に三人の島民が米軍によって拉致され、米軍上陸とともに戻されたが、日本軍によってスパイ視され家族や区長らとともに虐殺されたことが知られている。

米軍は島の情報を収集するために駆逐艦キンザーで接近して一一二名の海兵隊員がゴムボートで上陸し六つにわかれて島の北海岸地域を偵察した。各グループともに捕虜を捕まえるよう命令されていた。一つのグループは小屋で寝ていた男を連行したがその際に騒がれたので付近の住民に知られてしまった。そのために拉致が発覚するのだが、比嘉亀さんと見られるその男は日本語が通じなかったために彼の尋問記録は残っていない。

別のグループは二人と出会い連行しようとしたが一人はこん棒で抵抗したので射殺し、死体は島の北方三〇〇〇ヤードの海に棄てた。そしてもう一人の一六歳ぐらいの少年をつかまえ、駆逐艦スクライブナーに連行した。この少年の名は英文の綴りでは「あらぐすくまごそり」(まごぞうと思われる)となっている。米軍によると、この少年は非常に頭がよさそうで、捕虜として価値があると思われると記している。この少年は宮城栄明さんの内妻の弟、射殺された男は宮城さんの牧場で働いていた耳の遠い者であろう。少年は兵曹長に率いられた約五〇名の日本兵が山にいることなどを尋問に対して答えている。また三月二四日に島を離れて、本島の東側にあるタカバナレ(宮城島か?)で捕まった民間人が島の日本軍には機関銃が1丁あるなどと証言をしていた。    

 二人とも島民は、米軍が上陸してくれば降伏するつもりだと抵抗する意思のないことを米軍に語っていた。こうした情報から、日本軍が上陸に対して攻撃をかけてくる可能性は少ない、島内の有利な地点に防御陣地を作って抵抗するだろうと判断し、予定より小規模の部隊で上陸作戦を実施することに決定した。これまで仲村渠明勇さんが米軍を案内して艦砲をやめさせ、久米島を救った人物として知られている。氏名不明の民間人は状況から見て仲村渠さんとは違う可能性が高いが、いずれにせよその民間人と少年も久米島を砲火から救ったと言ってよいだろう。しかし周知のようにこの少年は比嘉亀さんとともに鹿山兵曹長率いる日本軍によって虐殺されてしまった。拉致されたと見られていたもう一人は米軍に殺されていたことがわかった。

 米軍上陸後、日本軍による住民虐殺がおこなわれていくことになるが、それらを米軍は把握していたのだろうか。占領にあたっていた米軍の久米島警備隊の資料によると、日本軍が住民を‘脅迫’して食糧を集めていること、幾人かの島民に対して‘脅迫’、その他暴力的な活動を試みている証拠がいくつかあると記している(七月一六日付)。この‘脅迫’と訳した言葉の原文はterrorize,terrorizationである。今日の言い方では日本軍がテロをおこなっているということである。ただし具体的な住民虐殺の情報は記されていない。

 ところで米軍による沖縄攻略作戦であるアイスバーグ作戦は慶良間列島上陸、ついで本島上陸と進行したが、一九四四年一一月六日時点での作戦計画では、第一段階として久米島と与論島に上陸し、第二段階として沖縄本島上陸が計画されていた。この計画によると、久米島上陸作戦には二万八二一〇名、与論島には二万六三七一名が投入されることになっていた。いつの時点で久米島上陸作戦が後回しにされたのか、まだ確認していないが、ともあれ、久米島を救った人物としてこの少年の名は記憶されるべきだろう。

 

<下> 愛楽園へ強制収容―米兵への感染恐れ隔離策

  ハンセン病患者の施設である愛楽園については、最近、日本側の資料を使った研究が始まったところであるが、米軍資料からしかわからない問題も多い。米海軍や海兵隊、陸軍軍医総監部、琉球軍政資料などからそうした状況がわかってきた。

まず一つには日本軍がいない屋我地島に上陸する際になぜ米軍は激しい砲撃を加えたのかという疑問がある。米太平洋艦隊が四五年二月二八日付で作成した文書のなかに一月二二日に沖縄を空襲した際に空中撮影したデータをもとに沖縄の軍事施設を分析した資料が含まれている。これによると、屋我地島にはライフル・ピット(銃座用の凹)二つ、機関銃座二つがあると判断されている。また島には分隊ないしは小隊規模の部隊が島の北側、つまり愛楽園のある地域に駐屯していると判断している。こうした判断から上陸に先立って砲撃を加えたのではないかと推測される。

 屋我地島への上陸をおこなったのは第六海兵師団付の第一装甲水陸両用大隊であった。四五年四月二〇日に一個小隊で偵察をおこなったうえで、翌二一日計二二隻の上陸用装軌車LVTに分乗して本部半島を出発、一二時三〇分に島に上陸開始した。その前に七五ミリ砲と五〇ミリ砲で砲撃を加えた。この作戦を指揮したルイス・メッツガー大隊長は同大隊の公刊戦史『海岸を撃つ』のなかで、「戦利品も日本軍も見つけることができなかった。本部半島に戻ると、ハンセン病施設は気に入ったかと聞かれた。その後数日はたっぷり時間をかけて手を洗った」と語っている。上陸部隊の一員であったアール・ヒルは「われわれが上陸すると、武器を持たない民間人のグループがいて白旗をふっており、その中の英語を話せる人物が、あなたがたは害のない無防備のらい病院を滅茶苦茶に破壊していると知らせた。われわれはそのことを中隊本部に報告し、撤退の命令を受けた」と証言している。この愛楽園の関係者との出会いは、日本側の証言からも裏付けられる。

 屋我地島にはハンセン病施設があり、日本軍がいないことを確認した海兵隊はすぐに本部半島に引揚げた。その後の海兵隊の資料には愛楽園のことは何も出てこない。

しかし愛楽園が放置されていたわけではない。米軍上陸の五日後には、第六海兵師団の軍医や憲兵らが愛楽園を訪問している。視察団は二日にわたって視察し、ハンセン病患者が八〇〇人いること、施設のほとんどが米軍の砲爆撃によって破壊されたことも確認した。この視察の際に緊急援助物資を持っていったが、それに対しては早田園長が感謝したという。また愛楽園の医者が米軍の軍医たちを案内し患者の症例なども紹介した。

この視察を終えた軍医たちはその報告書のなかで次のような勧告をおこなっている。

1 ハンセン病療養施設は海兵隊の管轄下において現在の運営体制の下、屋我地島で継続させること、沖縄のハンセン病患者はすべてそこに収容して隔離し治療を受けさせること。

2 海兵隊は、療養所に必要なだけの十分な医薬品と食糧を供給すること。

3 後ほど、患者を収容する施設の建設のために必要な建設資材を供給すること。(以下略)

 つまり日本人スタッフを活用することによって愛楽園の運営が可能であり、そこに患者を収容させるという提案だった。

 沖縄島の島司令部軍医部が五月一五日付で出した「医学会報」第一号では、日本人の医者の推定では沖縄とその周辺の島々に約二〇〇人がいるとして、「これらのハンセン病患者は逮捕し、できるだけすみやかにハンセン病施設に送ることを勧告する」と記されている。ただし愛楽園の状況がすぐに改善されたわけではなかった。五月二七日にも米軍による視察がおこなわれているが、食糧や医薬品、医療機器の不足、不十分な宿舎という状況が判明し、二日後に米や食糧、医薬品などを供給している。

いずれにせよ愛楽園への援助は、人道的援助というよりも、ハンセン病が米兵に感染することを恐れて、沖縄戦のなかで本島に逃げたりした患者を隔離するための強制収容政策の一環であったと考えられる。そうした点でハンセン病患者の強制収容政策は日本軍から米軍へと受け継がれたと見てよいだろう。

 さて三回にわたって沖縄戦に関する資料を紹介してきたが、ほかにもまだ重要なものがある。特に沖縄戦とその後の米軍による住民に対する犯罪(レイプなど性暴力を含む)に関する資料はほとんど紹介されていない。今日の問題を考えるうえで米軍の研究がきわめて重要であるが、同時に最も遅れている分野でもある。沖縄戦や米軍について研究しようという意欲のある方には資料の紹介をはじめ協力を惜しまないので、ぜひ若手で取組む方が出てくることを期待している。