秦郁彦『慰安婦と戦場の性』批判

『週刊 金曜日』290号、1999年11月5日   

林 博史  


 この著者は時々、まともな仕事もするのですが、しばしば人が変わったように、ずさんな仕事、あるいは人を誹謗中傷するような、因縁をつけるようなこともやります。この本は、ずさんな仕事の代表的なケースでしょう。この小文でも紹介したような、写真や図表の無断盗用、資料の書換え・誤読・引用ミス、資料の混同、意味を捻じ曲げる恣意的な引用・抜粋などの例をリストアップしてみたのですが、膨大な量になりあきれてしまいました。どこかで公表しようかとも考えたこともありましたが、バカらしくなってやめました。それにしても人に対してはさんざん因縁をつけながら、自分の間違いを指摘されても無視して開き直るのには、驚くばかりです。なお前田朗さんがこの本の「図版盗用」「写真盗用」「伝聞・憶測・捏造」などの問題点を詳細に批判されていますので御参照ください(『季刊戦争責任研究』第27号、2000年3月、『マスコミ市民』370号、1999年10月、に掲載された前田論文参照)。 2002.12.17


 南京大虐殺の中で日本軍兵士によって地元女性に対してすさまじい強姦等の性暴力がおこなわれ、そのことが日本軍による組織的な性暴力である軍慰安婦制度を本格的に導入する理由となったことはよく知られている。南京大虐殺と慰安婦問題の認識は切り離せない。

 さて中学校の教科書から慰安婦の記述を削除させようとする運動の仕掛人は秦郁彦氏であった。藤岡信勝氏は一九九五年六月の南京事件についてのパネルディスカッションで秦氏から「次の企画として「従軍慰安婦」問題をとりあげることをサジェストされ」「その後も秦氏からは折にふれて慰安婦問題の情報をいただいていた」(『教育科学』一九九六年一一月号)と、秦氏の役割を正直に述べている。「朝まで生テレビ」(九七年二月)で秦氏が藤岡氏や小林よしのり氏らの側で登場し、「慰安婦」を「売春婦」とののしったのは記憶に新しい。その秦氏が『慰安婦と戦場の性』(新潮社)という本を出した。「事実と虚心に向き合う」(同書あとがき)と自分では言っているが、果たしてそうだろうか。この本は、内容以前に物事を研究するうえでの基本的なモラルに関わる問題、すなわち写真や図表の無断盗用、資料の書換え・誤読・引用ミス、資料の混同、意味を捻じ曲げる恣意的な引用・抜粋などが目につく。

 前田朗氏の『週刊金曜日』の論文から「国連の人権機構」図(三二二頁)が無断盗用され、しかも秦氏が改ざんした箇所が間違って直していることは前田氏がすでに批判している(『マスコミ市民』一〇月号)。また当時の慰安所などの写真や現在の人物の写真など出典がなく、本人の了解もなく、無断盗用であり、かつ肖像権の侵害だろう。

 資料の扱いもずさんさである。たとえば、一九三八年に内務省が陸軍からの依頼をうけて慰安婦の徴集の便宜を図った資料がある。この本では内務省警保局の課長が局長に出した伺い書が、内務省から各地方庁への「指示」に化けている。さらに五府県に慰安婦の数を割当てているが、その人数がでたらめで、資料では合計が四〇〇人になるのに、氏の数字では六五〇人とされてしまっている。引用も言葉を勝手に変えたり、付け加えたり、およそ研究者の仕事とは思えない(五六頁)。

 私がイギリスで見つけて本誌でも紹介したビルマ・マンダレーの慰安所資料がある。これらの資料は時期も違う四点の別のものなのだが、氏は混同して一つの資料であるかのように扱っている。それは置くとしても、氏はその中の規定の一部を取り上げ(これも適当に書換えているが)、「兵士の乱暴や業者の搾取から慰安婦を保護しようとする配慮が感じられる」(一二〇頁)と解釈している。しかし原文は「慰安所に於て営業者又は慰安婦より不当の取扱を受くるか或は金銭等の強要を受けたる場合は直ちに其の旨を所属隊長を経て駐屯地司令部に報告するものとし如何なる場合と雖も殴打暴行等の所為あるへからす」となっている(原文はカタカナ)。これを素直に読めば、業者や慰安婦が兵士に対して不当な取扱や金銭等の強要をおこなった時の対応の仕方について記した条文であることは明かである。慰安婦が軍によって保護されていたと言いたいために、原文を正確に引用することを避け、そう結論付けたのだろうか。

 引用の恣意性もひどい。西野瑠美子氏が下関の元警察官に聞き取りをし、済州島での慰安婦の狩り出しについて「『いやあ、ないね。聞いたことはないですよ』との証言を引き出した」(二四二頁)と元警察官がはっきりと否定したかのように書いている。この聞き取りには私も同席していたが、西野氏の本ではその引用された言葉の後に「しかし管轄が違うから何とも言えませんがね」と続いている。証言者は、自分は知らないが管轄が違うから断定できないと謙虚に話しているのだ。ところが秦氏は後半をカットすることによってまったく違った結論に導こうとする。

 同様の手法はほかにもある。「慰安婦はどのように集められたか」という欄で、シンガポールにおいて、軍が慰安婦を募集すると「次々と応募し」「トラックで慰安所へ輸送される時にも、行き交う日本兵に車上から華やかに手を振って愛嬌を振りまいていた」という元少尉(小隊長)の回想録を引用している(三八三頁)。ところが原文ではこの文のすぐ後に「ところが慰安所に着いてみると、彼女らが想像もしていなかった大変な激務が待ちうけていた」と続き、さらに部下の衛生兵の話として、「悲鳴をあげて」拒否しようとした慰安婦の「手足を寝台に縛りつけ」、続けさせたと話が続く。秦氏はなぜかこれらの部分はカットしてしまう。

 慰安婦の人数について「狭義の慰安婦は多めに見ても二万人前後であろう」(四〇六頁)としている。その一つの論拠として陸軍省の医事課長だった金原節三日誌を使っている。この日誌の一九四二年九月二日の項に計四〇〇ケ所の「慰安施設」を作ったという記述が出てくる(一〇五頁、四〇〇頁)。氏はこの四〇〇という数字が「所在地なのか軒数なのかが、必ずしもはっきりしない」と言いつつ、「一軒あたりの平均慰安婦数は、実例から見ると一〇―二〇人だから、四〇〇か所に掛けると」と言って計算をしている。慰安所が全部で四〇〇軒とみなすには少なすぎるが、それは別としても、“軒”か“所”が「はっきりしない」と言いながらすぐ後に“軒”と見なして計算してしまう。そうすればはるかに少ない数字が出てくるからだろう。

 記者会見などやっていないのにそこでしゃべったと書かれた上杉聰氏の例(二四二頁)や、吉見義明氏はそんなことは言っていないと否定しているが、朝日新聞で慰安婦史料の発見記事が出ることを事前に「旧知の吉見氏から………聞いていた」(一二頁)と書いていたり、秦氏が頭の中で作り上げた「事実」が一人歩きしているようだ。

 ここで紹介した以外にも単なるミスではすまされないような問題が数多くあるが、誌面の関係でくわしく触れられないのが残念である(別の機会にくわしく紹介する予定である)。

 秦氏の主張は結局のところ「強制連行はなかった」(三七七頁〜)「兵隊も女も、どちらもかわいそうだった(伊藤桂一の言葉)」(三九五頁)、慰安婦の四割は日本人であり(四一〇頁)、「慰安婦の九割以上が生還したと推定」(四〇六頁)というものである。

 元慰安婦の証言は「身の上話」と呼ばれ、「女郎の身の上話」とダブらせたイメージ付けがなされている。「当の私自身も若い頃に似たような苦い思いをかみしめたことがある」(一七七頁)と正直に書いているので、「女郎の身の上話」に騙された原体験が、彼女たちの証言を頭から信用しようとしない、氏の慰安婦議論を規定しているのかもしれない。

 ところで一九九〇年から翌年にかけて中国新聞で「BC級戦犯裁判」という長期連載がなされたことがある。そこではマレー半島における華僑虐殺を正当化するための資料の改ざんなど膨大な「内容の改変」「事実誤認」があり、高嶋伸欣氏と私が抗議をした結果、中国新聞社は誤りを認めてこの連載を全面的に取消し、かつ総点検して約千五百箇所にわたる訂正をおこなうという誠実な対応をおこなった。このとき、膨大な「改ざん」のある連載を弁護する役割を買ってでたのが、秦氏だった(『正論』一九九二年八月など)。

 さらに付け加えると、秦氏はその『正論』誌上で、私が第三者に出した私信を無断で公表した。私は同誌上(同年九月号)で直ちに「研究者以前の市民のモラルに反する」と抗議をしたが、氏はいまだに知らん振りを決め込んでいる。そうした秦氏だからこそ、こういう本が書けるのだろう。