「大東亜共栄圏」の実態--日本軍占領下のアジア

 

沖縄県史料編集室編『沖縄戦研究U』沖縄県教育委員会発行 1999年2月  

林 博史


これは新沖縄県史の一環として、沖縄戦の前史にあたる時期について刊行された2冊の本のうちの1冊に書いたものです。論文というよりも一般向けにわかりやすく解説したものです。本では写真や図表などをたくさん使いましたが、ここでは文字の部分だけ掲載します。 (1)から(16)の16項目と参考文献からなっています。  2002.5.19記


      

(1)「大東亜共栄圏」  

 開戦以来、 次々と占領地域を広げていった日本軍は、1942年(昭和17)5月1日にビルマ北部の中心都市マンダレーを占領し、これにより南方進攻作戦は一段落した。日本軍は、西はビルマ、インドのアンダマン諸島、南はインドネシア、ニューギニア北部からソロモン諸島、東はギルバート諸島、北はアリューシャン列島のアッツ、キスカ島にいたる広大な地域を占領下においた。また中国では農村部までは十分な支配をおこなえなかったものの要衝部を占領していた。1942年8月にアメリカ軍がガダルカナル島に上陸し反攻を開始してから太平洋の島々、44年から45年にかけてフィリピンを、また西からは45年にイギリス軍がビルマを奪回したが、多くの地域は最後まで日本軍の占領下におかれた。

 日本軍はこれらの占領地に軍政をしき、陸軍が香港、フィリピン、英領マラヤ、スマトラ、ジャワ、英領ボルネオ、ビルマを、海軍がオランダ領ボルネオ、セレベス、モルッカ諸島、小スンダ諸島、ニューギニア、ビスマルク諸島、グアムなどを担当することとした(「占領地軍政実施ニ関スル陸海軍中央協定」19411126日)。  

 軍政については大本営政府連絡会議が基本方針を決めたが、ここで日本・満州・中国と東経90度から180度まで、南緯10度以北の地域を「帝国指導下ニ新秩序ヲ建設スベキ大東亜ノ地域」と決定した(「帝国領導下ニ新秩序ヲ建設スベキ大東亜ノ地域」1942年2月28日)。これらの地域がいわゆる「大東亜共栄圏」と呼ばれる地域である。東条首相は42年2月の議会での演説の中で「大東亜戦争ノ目標トスル所ハ我肇国ノ理想ニ淵源シ大東亜ノ各国家、各民族ヲシテ各々其所ヲ得シメ皇国ヲ核心トシテ道義ニ基ク共存共栄ノ新秩序ヲ確立セントスルニ在ル」と所信を述べた。しかし「南方占領地行政実施要領」(前節参照)にはっきりと見られるように、日本がこれらの地域を占領したのはあくまで日本にとって必要な資源を獲得するためであって、日本を中心とした秩序のなかで各地域の人々は、日本の必要に応じた役割を求められたにすぎなかった。「大東亜共栄圏」「東亜解放」といったスローガンのもとでの日本軍支配の実態はどのようなものだったのだろうか。

                                      

(2)軍政の組織

 戦争時に占領地において占領軍が一般住民にたいして行政をおこなうことがあり、これを占領地軍政、あるいは単に軍政という。ただ海軍の場合は民政と呼んだ。1907(明治40)に結ばれ、日本も批准していた「陸戦ノ法規慣例ニ関スル条約」(いわゆるハーグ条約)の付属書「陸戦ノ法規慣例ニ関スル規則」にはこうした占領地に関するいくつかの規定が含まれている。そのなかには「占領者ハ、絶対的ノ支障ナキ限、占領地ノ現行法律ヲ尊重シテ、成ルベク公共ノ秩序及生活ヲ回復確保スル為為シ得ベキ一切ノ手段ヲ尽スベシ」「家ノ名誉及権利、個人ノ生命、私有財産並宗教ノ信仰及其ノ遵行ハ、之ヲ尊重スベシ」「掠奪ハ、之ヲ厳禁ス」などの内容が記されている。占領軍といえどもその行動は戦時国際法によって制約されていた。

 陸軍では軍政は陸軍省の管掌とされ、南方軍指揮下の各軍に軍政部がおかれた。その後、初期の軍事作戦が一段落した1942年(昭和17)7月軍政組織の整備再編がおこなわれ、南方軍総司令部(シンガポール)に軍政総監部(南方軍総参謀長が軍政総監を兼務)、第14軍(担当地域フィリピン)・第15軍(ビルマ)・第16軍(ジャワ)・第25軍(マラヤ・スマトラ)のそれぞれの軍司令部に軍政監部(各軍参謀長が軍政監を兼務)が設置された。ボルネオ守備軍にのみ引き続き軍政部がおかれた。海軍は海軍省に南方政務部が設置され、各地に民政部がおかれた。

 軍政を施行するにあたっては「極力残存統治機構ヲ利用スル」(「南方占領地行政実施要領」)こととしたが、主な部署には軍政要員が派遣された。軍人だけでなく各省から出向した官僚、金融機関や企業から派遣された者などからなっていた。したがって軍政は軍のみでおこなわれたのではなく、警察・地方行政などを担当した内務官僚、財政・経済施策を担当した大蔵・商工などの経済官僚が重要な役割をはたした。

 軍人以外の軍政要員のために司政官という官職が設けられた。司政長官、司政官、技師、警部などの軍政要員の定数は最終的に陸軍1万8465人、海軍7689人とされた。ほかに軍政顧問が設けられ、各軍司令部に政財官の有力者が任命された。行政の末端においては以前からの公務員など地元住民を使っていたことはいうまでもない。

(3)資源の獲得と軍票

 軍政の最大の目的は重要資源の獲得のためであったが、開戦直後の1212日に関係大臣会議で決定された「南方経済対策要綱」では「開発ノ重点ヲ石油ニ置」き、さらにニッケル、ボーキサイト、クロム、マンガン、雲母、燐鉱石、その他の特殊鋼原鉱、非鉄金属などの開発を進めること、そのために「極力在来企業ヲ利導協力」させることとしている。「一地点ノ資源開発ハ努メテ一企業者ノ専任トスルコト」などの原則のもとに担当企業が選定された。これにより三井・三菱・住友などの財閥系企業や戦前からこれらの地域に進出していた石原産業などの企業が軍と結びついて進出していった。

 日本が取得することを期待した資源は、大本営陸軍部が作成した「南方作戦ニ伴フ占領地統治要綱」(19411125)によると、フィリピンからマンガン、クロム、銅、鉄鉱、マニラ麻、コプラ、英領マラヤからボーキサイト、マンガン、鉄鉱、スズ、生ゴム、コプラ、タンニン材料、英領ボルネオから石油、蘭印から石油、ニッケル、ボーキサイト、マンガン、スズ、生ゴム、キナ皮、キニーネ、ヒマシ、タンイン材料、コプラ、パーム油、工業塩、とうもろこしとなっている。

 最も重要視されていた石油について見ると、北ボルネオのミリ、スマトラのパレンバンなどの油田を占領後ただちに復旧し、原油生産は19422594バレル、434963バレルと拡大した。日本への輸送も42167万キロリットル(生産量の40パーセント)43230万キロリットル(29パーセント)となった。しかし43年になると米潜水艦による船舶の喪失が急増し、船舶不足が深刻になった。そのため44年の内地還送量は約80万キロリットルに激減した。また連合軍による空襲により生産にも支障をきたすようになった。ほかの鉱物資源の開発も同様の状況であった。

 日本軍は占領地に軍票を流通させた。日本軍は開戦前から現地通貨表示の軍票(蘭印ではギルダー、マラヤではドル、フィリピンではペソなど)を準備し、占領とともに現地通貨と等価で流通させた。当初の計画では、軍政が順調にいけば軍票を回収し現地通貨のみに戻す予定だったが、実際には軍票の発行が急増していった。

 1942年3月に占領地の資源開発、為替管理、敵産管理などを目的とする南方開発金庫が設立された。1943年1月南方開発金庫に発券機能が付加され、4月より南方開発金庫券(南発券)を発行しはじめた。これは軍票ではないが実際には軍票と同じようなものだったので、一般には軍票と思われていた。外部との交易関係が断たれ、物が不足するなかで、物資を調達するために南発券が乱発された。発行高は194212月に4億6326万円だったのが、44年末には1062296万円、45年8月には1946822万円と急増していった。日本が中国で発券した儲備券の場合は1941年末の2.4億元から44年末には1397億元、45年8月には2兆6972億元にも達した。この結果、すさまじいインフレが引き起こされた。シンガポールの物価指数は開戦時の194112月を100とすると翌年12月には3524412月には1万076645年8月には3万5000350倍になっている。特に米は開戦時、60キロが5ドルだったのが、45年6月には5000ドルと一千倍にもなっている。

 日本軍の軍政を財政的に支えた一つが阿片だった。イギリスなど旧宗主国も阿片を植民地支配のために利用していたが、日本軍はそれを一層拡大した。太平洋戦争の勃発によりインドからの阿片の輸入が途絶えたため、日本のかいらい政権のあった中国の蒙疆を阿片の生産地として「大東亜共栄圏」の阿片供給をはかった。シンガポールは阿片の精製と包装をおこなって周辺地域に阿片を供給する役割をはたした。日本軍は阿片の専売制をとり、第25軍の1942年度の第一、第二四半期の予算では全経常部歳入の50パーセント以上が阿片収入によることになっていた。 阿片は主に華僑の苦力(クーリー)によって使用されていたが、こうした阿片政策は「大東亜共栄圏」の一面を示していた

                                       

(4)経済の破綻と民衆生活

 東南アジアの諸地域はイギリス、フランス、オランダなどの宗主国やアメリカとの間で世界的な貿易のネットワークを作っていた。また1930年代になると中国や日本の軽工業製品も入ってきていた。たとえば英領マラヤでは、輸出品としてはゴムとスズが中心だった。開戦前、ゴムは世界総生産の約4割、スズは約三分の一を占める、マラヤの二大産業だった。輸出先は圧倒的にアメリカだった。輸入品としては、シンガポールが中継・加工貿易の拠点であったことから、石油(蘭印、英領ボルネオから)、ゴム(蘭印)、スズ(蘭印、タイ)、米(タイ)などを輸入していた。要するにゴム、スズのマラヤの特産品と蘭印などから輸入した原材料を中継あるいは加工してアメリカに輸出し、食糧はタイなど周辺地域から、工業製品はアメリカやイギリスから輸入するという構造になっていた。

 蘭印の場合は、石油などの鉱産物やゴム、キナ皮、コショウ、コプラなどの農作物を輸出し、工業製品を輸入するという構造であった。輸出先は、アメリカ、オランダ、イギリス、日本などである。シンガポール向けも多いが、これはすでに述べたようにそこを経由して上記の国々に輸出されていた。輸入はアメリカ、オランダ、日本などからである。

 フィリピンの場合は、輸出入ともにほぼ全面的にアメリカに依存していた。砂糖、ココナッツ製品、マニラ麻などをアメリカに輸出し、工業製品をアメリカから輸入するという構造で、貿易に占めるアメリカの比重は1930年代には70%台にもなっていた。フランス領インドシナはフランス本国と、ビルマはイギリス、インドと密接に結びついていた。

 このように東南アジアはその域内ならびにアメリカ、イギリスなどの先進工業国と深い交易関係を結んでいた。

 日本とこれらの地域との関係は、1930年代においてはフィリピンにとっては輸出入ともに日本はアメリカについで第2位、タイと蘭印にとって輸入で第2位の位置をしめていた。 ただその比率は大きくても十数パーセントにすぎなかった。日本からの輸出品は綿織物を中心とする繊維製品であり、ほかに雑貨類や加工飲食料品などを含めて、消費財の軽工業品が圧倒的な比重を占めていた。日本の輸入品は生ゴム、石油、鉄鉱、マニラ麻などの燃料・原料が中心であった。

 日本軍による占領によって、東南アジアと外部地域との交易関係は断たれ、また東南アジア内の交易関係も寸断された。日本にはこれらの地域の産物をすべて引き受け、またこれらの地域で必要な工業製品を供給する力はなかった。日本国内でも日中戦争開始以来、物資不足が深刻化し、食糧や衣類などの配給制、切符制が実施されるようになっていた。軍需生産のために、国民にとって必要な物資さえも満足に供給できなくなっていたのであり、広大な「大東亜共栄圏」に工業製品を供給することははじめから不可能であった。

 ゴム、砂糖、コーヒーなどの輸出品は輸出先を失い、そこで働いていた労働者は職を失った。必要な工業製品は入ってこなくなった。そのうえ日本軍は「現地自活」方針をとって駐留する日本軍に必要な食糧や物資を現地調達したために物不足は深刻になり、軍票の乱発とあわさってひどいインフレに陥った。

 日本は1943年後半よりこの地域で必要な工業製品を地元で生産する方針に転換したがうまくいかなかった。食糧を輸入に頼っていたマラヤ、フィリピンなどでは食糧自給のために商品作物から米やとうもろこしへの転換が図られたが、日本軍に食糧を供出させられたこともあり、深刻な食糧不足に陥った。食糧の多くを輸入に頼っていたマラヤでは人々はさつまいもやタピオカを作った。タピオカはキャッサバから作ったでんぷんであり、マレーシアでは日本占領時代が食糧難の時代であったことから「タピオカ時代」と呼んでいる。

 食糧問題で最も深刻だったのはベトナムだった。ベトナム北部では1944年末から45年にかけて、100万とも200万人とも言われる多数の餓死者を出した。タイビン省だけの調査でも人口100万人のうち約28万人が犠牲になった。この原因としては、日本軍による強制的な食糧の徴発、水田を潰して軍事物資であるジュート(黄麻)への作付けの転換を強制したこと、戦況の悪化などの理由により南部のデルタ地帯からの米の輸送が途絶えたことなどが指摘されている。

 日本軍の占領地域ではないが、インド東部のベンガル地方で1943年末から44年にかけて大飢饉が発生し、約150万人(一説によると約350万人)が餓死した。これはビルマが日本軍によって占領されたことによって米の輸入が途絶えたこと、日本軍のインド侵攻(44年3月よりインパール作戦開始)にあたって、英軍が牛車や小船などの輸送手段を徴発する一方で食糧輸送の手だてを行なわなかったことなどによる。日英の二つの帝国主義国の犠牲になった出来事であった。

(5)民族対策と民族主義

 東南アジアには多様な民族が混在していた。それらの民族間の違いや矛盾を日本軍は利用しようとした。

英領マラヤ(マレー半島とシンガポール)はもともとはマレー人の地であったが、彼らは主に米作などの農業に従事し人口も少なかった。そこで19世紀以降、植民地化したイギリスが労働力不足をおぎなうために、スズ鉱山の労働者として中国人を、ゴム園の労働者としてインド人を連れてきた。特に19世紀末から20世紀にかけて、缶詰の普及によるスズ消費の拡大、自動車生産にともなうゴム消費の拡大はこうした移民に拍車をかけた。移民してきた中国人はスズ鉱山にとどまらずゴム園や商業にも進出し、マラヤ経済に強い影響力をもつようになった。そしてついに人口でもマレー人を追い越すにいたった。インド人は少数派であったが商業や金融業にも進出していった。1941年6月末の推定によると、マラヤの総人口5520275人、うち中国人2382529人、マレー人2283930人、インド人744430人、欧州人・欧亜混血人5万0836人、その他5万8550人となっている。

 宗教については、マレー人はイスラム教、中国人は仏教や道教、インド人はヒンズー教やシーク教というように民族ごとに異なっており、住居も民族ごとに住み分けられていた。一般的に言えば、中国人はマレー人より自分たちの方が優れているという意識が強く、一方、マレー人は自分たちの土地なのに後から来た中国人の経済力が強いことに反発を感じているという傾向がある。ただ戦前までは職業的にも地域的にも住み分けがおこなわれていたこともあってその対立はあまり表面化していなかった。

 中国人は中国を祖国と考え、インド人はインドを祖国と考えていた。これらの地域に住む中国人を当時は華僑と呼んでいたが、その言葉には今住んでいるところはあくまでも仮の住まいであって、いつの日か一旗あげて郷里に帰ろうという意識を持った人たちという意味が込められている。ただ戦後は住んでいるところが祖国であるという意識に転換し、華人と呼ばれるようになっている。

 マレー人は各地のサルタンを政治的宗教的に支配者として仰ぎ、マレー人としてのナショナリズムはまだ未成熟だった。こうした事情からマラヤの民族運動は周辺地域に比べて未発達だった。マラヤを植民地にしたイギリスもこれを利用して分断統治をおこなった。

  1931年(昭和6)の満州事変、特に1937年(昭和12)の日中戦争の開始以来、東南アジア各地の華僑は抗日救国運動を展開、中国への義援金募集・日貨排斥(日本製品のボイコット)・抗日宣伝などをくりひろげた。この運動の中心になったのがマラヤ、特にシンガポールの華僑だった。たとえば重慶政府が発表した海外華僑からの献金総額2億9400万円(1937年7月から4010)のうち1億2500万円(425%)がマラヤの華僑からのものだった。こうしたことから日本軍はマラヤ華僑全体を「抗日的」と見なした。マラヤの占領とその後の軍政を担当した第25軍が作成した「華僑工作実施要領」によると、「占領直後ノ応急要領」として「服従ヲ誓ヒ協力ヲ惜シマザルノ動向ヲ取ル者ニ対シテハ其ノ生業ヲ奪ハズ権益ヲ認メ 然ラザル者ニ対シテハ断乎其ノ生存ヲ認メザルモノトス」とし、さらに「第一期作戦終了直後ニ於ケル対処要領」として「協力ニ参加セザル者ニ対シテハ極メテ峻厳ナル処罰ヲ以テ処理ス 即チ財産ノ没収、一族ノ追放、再入国ノ禁止ヲ行フト共ニ反抗ノ徒ニ対シテハ極刑ヲ以テ之ニ答ヘ華僑全体ニ対スル動向決定ニ資セシム」ときわめて厳しい姿勢を打ち出している。また「華僑全体ニ対シ最低五千万円ノ資金調達ヲ命ズル」としている。

この政策の表れがシンガポールやマレー半島各地での華僑虐殺であり(後述)、また5000万円(ドル)の献金の強制だった。1942年4月献納の予定で5000万円の目標額がマラヤの各州ごとに割り振られたが、なかなか集まらず、2200万円を横浜正金銀行から借入れ、6月に献納式がおこなわれた。第25軍軍政部の4〜6月期の経常部歳入(予算)が294万ドルであることと比較すると膨大な金額であることがわかる。

 こうした残虐行為を含む華僑に対する強硬策は華僑の反発を強め、華僑主体の抗日運動を激化させ、また経済的実力を持つ彼らの協力を調達することを困難にしてしまった。

一方、マレー人に対してはどうだったのか。すでに開戦前に日本は急進的な青年らによる民族運動であるマレー青年連盟(代表イブラヒム・ヤコブ)と接触して反英宣伝のために資金を提供し、開戦後はマレー進攻作戦のなかで、政治工作を担当した藤原機関がかれらと接触、マレー人に対する宣伝工作などをおこなわせて日本軍に協力させた。こうしたなかで青年連盟の幹部らは「マラヤ共和国」の樹立を提案したが日本軍に拒否され、さらに民族運動を行なう政治結社として認めることを求めたが日本軍は文化団体としてのみ認めた。日本軍のそうした姿勢にもかかわらずマレー青年連盟は各地で急速に勢力を伸ばし、戦前は200300人程度しかいなかったのが、日本軍のマラヤ占領後二カ月で1万人を越えるに至った。ところが日本軍は1942年6月青年連盟を解散させた。日本軍はマレー作戦を有利にするために青年連盟を利用したが民族運動としてさえも認めず、勢力が拡大するとそれを危険視して解散させてしまった。ここに東南アジア支配の拠点であるマラヤでの民族運動に対する日本軍の姿勢がはっきり示されている。

その後、戦局が日本軍に不利になってきた194312月、日本軍を補うためにマレー人を組織して義勇軍と義勇隊を編成した。この時、青年連盟の代表であったイブラヒムを義勇軍の指揮官に就任させた。しかしイブラヒムなどの青年連盟の幹部たちは密かに各地の抗日ゲリラと連絡をとり、さらにイギリス軍がインドから送り込んできた136部隊とも連絡をとって、連合軍がマラヤに進攻してきたときに内部から呼応して日本軍と戦う準備をおこなっていた。かれらは裏切った日本軍をけっして信用しなかったのである。

こうしたことは東南アジア各地でも見られた。

 ビルマでは、民族主義団体のタキン党(主人を意味する)が第二次世界大戦が始まるとイギリスへの協力を拒否して弾圧されていた。日本軍の謀略機関だった南機関はタキン党の活動家30人を脱出させ海南島で軍事訓練をおこないビルマ独立義勇軍を編成させた。南機関はビルマを独立させると約束してかれらを日本軍に協力させ、日本軍とともにビルマに進攻させた。ところがビルマを担当した第15軍の「占領地統治要綱」(1942315日)では、「緬甸ニハ将来独立政権ノ樹立ヲ考慮セラルルモ之ガ実行ハ差シ当リ大東亜戦争終了後ト予想ス 従ヒテ将来ニ対スルノ処理ニ関シテ当分之ニ触レザルモノトス」というように「独立」問題を戦争終了後に先送りし、差当りは独立の言質を与えないという方針をとった。こうしてビルマを占領した日本軍は独立を与える約束を反故にし、軍政を開始するとともに、2万人以上になっていた独立義勇軍を解散させ、3千人ほどのビルマ防衛軍に縮小改編させた。

1943年8月日本はビルマに独立を与えたが、首相にはタキン党から登用せず、タキンの指導者アウンサンは国防相になった。アウンサンは地下で抗日活動をおこなうグループと連絡をとり、44年8月ビルマ国軍、共産党、人民革命党などとともにファシスト打倒連盟(のちに反ファシスト人民自由連盟パサパラ)を組織した。そして翌45年3月連合軍がインドからビルマに進撃してくると、それを迎え撃つという名目でラングーンを出撃した後、反転して連合軍とともに日本軍を攻撃、5月にはビルマ国軍の手で首都ラングーンを日本軍から奪い返した。

日本軍はビルマ進攻にあたって、民族主義運動を利用したが、勝利を得ると途端に約束を反故にした。後に彼らに頼らざるをえなくなり再度登用するが、彼らはもはや日本軍を信用することはなかった。

(6)領土拡張と大東亜会議

 日本軍が占領した地域を日本の領土にしてしまうのか、それとも独立させるのか、それは日本の戦争目的に直接関わる、きわめて大きな問題であった。

 シンガポール占領前日の1942年2月14日大本営政府連絡会議はシンガポールを昭南島に改称することを決定し17日に発表した。これはシンガポールを日本の領土とすることの意思表示とも見なされうるものだが、将来の帰属についてしばらくは公にはされなかった。

 1943年1月14日大本営政府連絡会議は「占領地帰属腹案」を決定した。このなかで「大東亜防衛ノ為帝国ニ於テ確保スルヲ要スルヲ必要トスル要衝並ニ人口稀薄ナル地域及独立ノ能力乏シキ地域ニシテ帝国領土ト為スヲ適当ト認ムル地域ハ之ヲ帝国領土ト」すること、「従来ノ政治的経緯等ニ鑑ミ之ヲ独立セシムルコトヲ許容スルヲ大東亜戦争遂行並ニ大東亜建設上得策ト認ムル地域ハ之を独立セシム」ことという「基準」を定めた。そして後者の「基準」によりビルマとフィリピンに独立を与えることとし、その他の地域については「追テ定ム」と決定を留保した。

 ビルマに関しては、すでに1937年にイギリスがビルマをインドから分離し、ビルマ人の自治政府を組織させていたこと、日本軍のビルマ進攻にあたって、民族運動家に独立の約束をしてビルマ独立義勇軍を組織させて日本軍に協力させたにもかかわらず、占領後はその約束を反故にして軍政をしいたが、連合軍の反攻に備えて彼らの協力が再び必要になったことなどの事情が背景にあった。フィリピンについては、1934年アメリカは10年間の準備期間をおいてフィリピンの独立を与えることを決定した。これに基づいて憲法が制定され、総選挙を経て1935年フィリピン・コモンウェルス政府が発足し、1946年には独立することになっていた。ここに日本軍が入ってきたので、建前上、独立を認めざるをえなかった。

 しかしこの独立は実質的には「独立」の名に値しないものであった。ビルマに対しては、 軍事的には「帝国トノ間ニ共同防衛ヲ約セシメ兵力ノ駐屯、軍事基地使用及設定等ヲ認メシメ特ニ軍事的結合ヲ鞏固ナラシム」、「外交」では「緊密提携」、「経済」では「緊密協力」を「約セシム」ことを条件とし、フィリピンに対してもほぼ同様の条件を規定している。この内容は言い換えると外交・経済は実質的に日本が掌握し、軍事的にもフリーハンドを確保しようとするものであった。

 1943年2月1日の衆議院秘密会において南方の軍政状況を説明した佐藤賢了陸軍少将は「行政府ヲ軍政監部ノ下部機関トシテ置イテ居ラウガ、コレヲ奉ツテ独立政府ト致シマセウガ、実際ニ於テ大シタ変リハナイ―――ト云フト具合ガ悪イノデアリマスルガ、率直ニ申シマストサウデアリマス」と述べている。要するに「独立」しても軍政下にあるのと変わらないということであり、このような条件下ではとうてい「独立国」といえるようなものではなかった。

 この方針に基づき1943年8月1日ビルマが、1014日フィリピンが「独立」した。

 その他の地域の扱いについては、1943年5月31日の御前会議で決定された。ここで決定された「大東亜政略指導大綱」によると次のようになっている。

其ノ他ノ占領地域ニ対スル方策ヲ左ノ通リ定ム 但シ(ロ)(ニ)以外ハ当分発表セズ

(イ)「マライ」「スマトラ」「ジャワ」「ボルネオ」「セレベス」ハ帝国領土ト決定シ重要資源ノ供給源トシテ極力之ガ開発並ニ民心ノ把握ニ努ム

     (ロ)前号各地域ニ於テハ原住民ノ民度ニ応ジ努メテ政治ニ参与セシム

(ハ)「ニューギニア」等(イ)以外ノ地域ノ処理ニ関シテハ前二号ニ準ジ追テ定ム

 (ニ)前記各地ニ於テハ当分軍政ヲ継続ス

 つまり現在のマレーシア、シンガポール、インドネシアにあたる地域は日本の領土にするということである。さらにニューギニア(現在、西部はインドネシア、東部はパプア・ニューギニア)などについて、ここでは決定していないが日本の領土にするという方向で考えていくことも決められている。しかもそうしたことは秘密にされた。

 このことは日本が東南アジア諸国を欧米帝国主義から解放し独立を与えようとしたのではなく、石油などの重要資源があり戦略的にも重要な地域は日本の領土にし、日本が欧米に代わって新たな支配者になろうとしていたことを明確に示している。

 この御前会議の決定のなかで同年10月下旬ころに大東亜会議を開催することが決定された。

 1943年6月大本営政府連絡会議はマレー北部の4つの州、ペルリス、ケダ、ケランタン、トレンガヌをマラヤから取り上げ、タイに割譲することを決定した。タイの日本に対する戦争協力を確保するためにとった処置であり、同年10月にこの4州はタイに移譲された。しかし、これら4州はマレー人の多い地域であり、マラヤのマレー人にとっては日本への反発を与えることになった。

 194311月5〜6日に東京で大東亜会議が開催された。この会議には、日本から東条首相、国民政府の汪兆銘行政院長、満州国の張景恵国務総理、フィリピンのラウレル大統領、ビルマのバ・モー主席、タイのワン・ワイタヤコン首相代理、自由インド仮政府のスバス・チャンドラ・ボース首班が出席した。タイは首相を派遣せず、朝鮮、台湾、マラヤ、インドネシア、インドシナからの代表はいなかった。

 会議では「大東亜共同宣言」を決議した。この中には「大東亜ヲ米英ノ桎梏ヨリ解放」「道義ニ基ク共存共栄」「自主独立ヲ尊重」などの言葉がもりこまれた。これには連合国の理念として反ファシズム・民主主義を打ち出した大西洋憲章に対抗して日本側の理念を出そうとする重光葵外相のねらいがあった。しかし日本の本音は必要な領土の拡張であり、また日本軍による占領の実態はこうした美辞麗句とは正反対であった。

 インドネシアに関しては、1944年9月小磯首相は議会で、将来独立を認める旨の演説を行なった。すでにサイパンが陥落し、米軍のフィリピン攻撃が日程に上ってきていた段階であり、インドネシアからの資源の日本本土への輸送はほとんど分断され、軍事的にも重要性を失っていた。その後、戦争最終盤の1945年7月17日になって最高戦争指導会議(大本営政府連絡会議が改編されて設置された機関)が「東印度」(インドネシア)に独立を与えることを認めた。しかし独立が実現する前に日本は降伏した。

 インドネシアと同じく日本の領土と決定したマラヤについて、外務省内で独立問題について検討がなされたが、結局、独立には困難があるとして見送っている。したがってマラヤに対しては最後まで独立を付与することはなかった。

(7)教育文化政策

 すでに植民地であり日本の領土であった朝鮮や台湾ほどには徹底していなかったが、それら植民地と同じような皇民化政策が東南アジア各地の占領地においてもおこなわれた。シンガポールでは、日本軍占領時代(昭南時代)の祝祭日として2月11日紀元節、2月15日マレー新生記念日(シンガポール陥落の日)、3月10日陸軍記念日、4月3日神武天皇祭、4月10日靖国神社例祭、5月27日海軍記念日、11月3日明治節、12月8日大東亜聖戦記念日など、天皇にちなんだ日本の祝日や戦争に関わる日が記念日として導入された。学校での日の丸掲揚、君が代斉唱、宮城遥拝、教育勅語の奉読などもおこなわれた。学校で日本語が教えられただけでなく、一般住民に対しても日本語が奨励された。シンガポールの日本軍の宣伝班の発行した新聞『建設戦』(1942年4月29)は「日本語普及運動宣言」と題して、マラヤとスマトラの住民に対して、「軍司令官閣下の談話に示された通り、両地区の住民は悉く、天皇陛下の赤子に加えられたのである。大日本帝国の有り難き国体を彼等住民に理解させることは、新領土に駐屯する全皇軍兵士にとって尊き責務である。そのためには、まず国民たるの資格として、彼等に日本語を学ばしめ日本語を使わせなければならない。(中略)国旗のひらめく所、言葉もまた日本語に満ち溢れなければならなぬ。かくして馬来もスマトラ島も真底から日本の一角となるのである」と呼びかけている(桜本富雄『シンガポールは陥落せり』青木書店)。ここには人々の独自の文化や言語を尊重しようとする発想はまったくなかった。

ただ長年にわたって植民地支配を行なってきた朝鮮や台湾と違って、日本語を公用語として強制することまではできなかった。マラヤでは、194311月「敵性国語駆逐」を実行するとして、軍政組織が使う言葉を43年6月までに日本語のみにすることを決めた。しかし住民が日本語の読み書きをほとんどできないのに日本語しか認めないと行政ができないとの声が軍政担当者からもあがり、結局うやむやになった。

 現在でも戦時中に小学校教育をうけた人のなかには、唱歌を歌える人がよくいる。日本語として覚えられている言葉は「バカヤロウ」や「ケンペイ」という言葉である。大量の労務者が動員されたインドネシアでは「ロウムシャ」という言葉が今も残っている。こうした言葉ばかりが残っているところに当時の日本軍と地元住民との関係が示されている。

(8)強制労働と労務動員

日本軍は戦争遂行のために労働力の動員をはかった。特に人口が多く、かつての輸出産業が衰退して仕事を失った労働者が多いジャワ島が労務者供出の重要なターゲットになった。ジャワからはマラヤ、スマトラ、ボルネオ、タイなどに連行され、そのロウムシャの数は約30万人、うち7万人が犠牲になったと言われている。ジャワ島内も含めるとロウムシャの数は400万にのぼるとも言われている。

泰緬鉄道の建設にあたっては捕虜だけではなく、民間のロウムシャも大量に使用された。ここにはビルマ、タイ、マラヤ、ジャワなどから20万人以上が投入され、少なく見積もっても4万2千人、イギリスの資料では約7万4千人が死亡した。ビルマでは、ビルマ軍政監部がビルマ民政府にロウムシャの供出を命じた。勤労奉仕隊として177300人が各地方に割り当てられてロウムシャとして狩り出されたが、その半数は途中で逃げ出したと見られている。マラヤでも地方ごとに割り当てられたが、建設現場のひどい状況がうわさで広がってくるとなかなか集められなくなった。すると強引なロウムシャ狩りや騙して集める方法もとられた。

 泰緬鉄道の建設現場では、厳しいジャングルのなかでの激しい労働と栄養失調、医薬品の欠乏によって多くが犠牲になった。死んだものは大きな穴を掘って、そこに捨てられわずかに土がかぶせられただけだった。あまりのひどさにビルマ政府は日本軍に待遇改善を求めたが効果はなかった。

当時、シンガポールの昭南博物館で働いていたコーナー氏はジャワからシンガポール経由で連行されてきたインドネシアのロウムシャの模様を次のように書いている(E.J.H.コーナー『思い出の昭南博物館』中央公論社)。

 「彼らはタイへ船で輸送されたが、その船は途中シンガポールに立ち寄った。航海は二週間であったが、それに耐えられないような年寄り、障害者、病気のジャワ人たちは船から吐き出された。それで、博物館と私たちの住んでいた旧セント・アンドリュー・スクールのあいだの空地に、彼らを収容するためのバラックが建てられた。彼らはよたよたと生気のない足どりで歩きながら、そのバラックにはいっていった。航海中に死んだ者も少なくなかった。そういうときには、死体を米袋に入れ、生き残った仲間が海に捨てた。米袋は穴だらけであったから、穴から手や足が突き出ていた。バラックのなかでもたくさん死んだが、やはり死体を米袋に入れて、海へ投げ捨てていた。(中略)女性については、若くてきれいだと、カトンの近くにある兵営に売春婦として送られた。そこで、彼女たちが『助けて、助けて』(マレー語)と助けを求めて泣き叫ぶ声は、通行人の心を引き裂いた。」

 カトンには日本軍の慰安所があり、ロウムシャとともに女性が慰安婦として連行されてきたことを示している。

東南アジアの住民とは言えないが、英軍兵士としてシンガポールで日本軍の捕虜となったインド人が約6万7千人いた。これは捕虜になった英軍の約半数にあたる。かれらの一部は日本軍が組織させたインド国民軍に加わるが、一部は日本軍の労働力として東南アジアや太平洋諸島に連れて行かれ、日本軍の飛行場や陣地の建設に使われた。連合軍の反撃のなかで犠牲になっただけでなく、連合軍の上陸が迫るとスパイをしたり寝返ったりするのではないかと疑いをかけられ、日本軍によって処刑されたケースを多かった。

香港では強制移住政策がとられ、占領当初の人口約150万人は45年には5060万人にまで減少した。その一部は海南島での日本窒素による鉄鉱石の開発にために連行され、多くの犠牲を出した。

                    

(9)日本軍「慰安婦」

 太平洋戦争の開始前から日本軍は占領地での慰安所設置を計画していた。すでに1941年7月陸軍省内の会議で蘭印調査から帰ってきた深田軍医少佐が「村長に割当て厳重なる検梅の下に慰安所を設くる要あり」と報告し、しかも村長に事実上、強制的に集めさせることを提案している。42年9月の陸軍省の会議では、慰安所について、「北支100ケ、中支140、南支40、南方100、南海10、樺太10、計400ケ所」を作ったと報告されている(金原節三「陸軍省業務日誌摘録」)。

マレー進攻作戦においては、その作戦中から慰安所の設置がおこなわれた。占領後、42年夏ころまでにはマレー半島の日本軍が駐留していた主な町に慰安所が設置された。その町の数は30以上にのぼると見られる。

東南アジアでは朝鮮や台湾、日本本土から連れてこられた女性もたくさんおり、また中国本土の女性もビルマなどに連れてこられている。しかし東南アジア地域の日本軍慰安婦の多くは現地の女性であったと推定されている。東南アジア各地での日本軍慰安婦の徴集方法の特徴は次のように整理できる(吉見義明・林博史編著『共同研究 日本軍慰安婦』大月書店)。

第一にマラヤでは残っていた元からゆきさんに慰安婦集めを委託したケースである。クアラルンプールでは日本軍の兵站の担当者が市内に残っていた元からゆきさんたちを集めて慰安婦集めと慰安所の管理を任せた。

第二に新聞などで募集したケースがある。シンガポール占領直後に日本軍の宣伝班のもとで刊行された新聞『昭南日報』には「接待婦」(慰安婦)を募集する宣伝が掲載されている。この場合、応募してきた女性は仕事の内容を承知していたと見られるが、その場合でも想像を越える過酷な扱いを強要されたケースもある。たとえば、シンガポールのある慰安所では、応募してきた女性が「予想が狂って悲鳴をあげ」拒否したのに対して、その女性の手足をベットに縛り付けて、「慰安」を強制したことを当時の将校が証言している(総山孝雄『南海のあけぼの』叢文社)。

第三に日本軍が駐留する地元の住民組織の幹部に慰安婦集めを命じたケースである。マレー半島の町クアラピラーではそうして女性18人を集めさせて将校用と兵士用の慰安所を設けている。この方法はインドネシア、フィリピンなど各地でおこなわれている。

第四に詐欺による募集である。いい仕事があるから、事務員やタイピスト、看護婦にするからというような口実で集めて、結局は強姦してから慰安婦にするというケースである。第一〜第三の場合もこの詐欺による場合が多かったのではないかとみられる。

第五に暴力的な拉致によるケースである。日本兵が家に押し入り、暴力的に若い女性を拉致し、兵士たちが輪姦した後に慰安婦にした例はフィリピンで数多く報告されているがインドネシアやマラヤでもそうした事例が報告されている。

徴集にあたって、物理的な暴力が使われていない場合でも連れてきた女性を慰安婦にさせる時に強姦がおこなわれ、彼女たちの自由が奪われるケースが一般的であった。また東南アジア地域での徴集の特徴としては、占領地の住民に対する一連の残虐行為の中で、あるいは並行して慰安婦集めがおこなわれたことである。植民地朝鮮や台湾では、日本が植民地支配のもとで育てた人身売買のシステムを利用して女性を集めることができたが、東南アジアのような占領地では、中国での占領地と同じように、軍による暴力・強制力がむき出しになる傾向が強かった。

中国での事例としては、山西省盂県で、日本軍が女性たちを拉致して連行し、監禁してくりかえし強姦をおこなったことが知られている。その部隊は独立混成第四旅団傘下の部隊であった。独立混成第四旅団はのちに第六二師団歩兵第六三旅団となり沖縄に派遣され、ほとんどが戦死している。沖縄戦における日本軍の沖縄県民に対する行動は、こうした日本軍占領地における行動と密接に結びついている。

 また戦争末期の1944年以降、ジャワの女性がマラヤやボルネオなどに慰安婦として連れて行かれている。

地元の女性ではないが、インドネシアで日本軍に抑留されていたオランダ人女性200300人が慰安婦にさせられている。慰安婦にさせられた女性は、日本の公文書、日本側と地元の証言・回想録などから判明しているかぎりでは、日本人、朝鮮人、台湾人、中国人のほかにマレー人、華僑、タイ人、フィリピン人、インドネシア人、ビルマ人、ベトナム人、インド人、ユーラシアン(欧亜混血)、オランダ人、その他太平洋諸島の島民があげられる。まだ資料的には確認されていないが、ラオス人、カンボジア人も慰安婦にされていた可能性は大きい。

 慰安所における状況は、軍の上級機関が管理し、業者に経営をさせていたケース(大都市に多い)、警備隊が直轄しているケース(小都市に多い)などによって異なるが、総じて自由を拘束され、軍人に対する性的「慰安」の提供を強要された。

日本軍兵士による地元女性に対する強姦事件も多かった。被害者やその目撃者の証言も多いが、陸軍中央でもそのことは問題になっていた。陸軍省の会議ではとくにフィリピンで日本兵による強姦が多いことが問題にされていた。1942年8月になっても「南方の犯罪610件。強姦罪多し。シナよりの転用部隊に多し」と報告されている。こうした事態に対して、軍中央は慰安所の開設・増設によって対処しようとしたのであるが、1943年2月の会議でも、これは東南アジアだけのことではないが、「強姦逃亡等増加せる外将校の犯罪増加せることに注意を要す」と報告されている(金原節三「陸軍省業務日誌摘録」)。

占領地の女性に対する強姦は慰安所の設置によってもなくならなかった。慰安所という性暴力のシステムと強姦という性暴力は並行して占領地の女性に向けられたのである。        

10)住民虐殺・虐待

アジア太平洋戦争における最初の大規模な残虐事件は、シンガポールの華僑虐殺だった。1942(昭和17)2月15日にシンガポールの英軍が降伏し、マレー半島全土を日本軍が占領下においた。その直後、第25軍司令官山下奉文は「最も速かに市内の掃蕩作戦を実施し、これ等の敵性華僑を剔出処断」せよという命令を下した(河村参郎『十三階段を上る』亜東書房)。憲兵隊を中心としたシンガポール警備隊が市内の、近衛師団が市内を除くシンガポール島を担当、18歳以上50歳までの華僑男子は21日までの指定された場所に集まるように布告が出された。各検問所では簡単な尋問がおこなわれただけで、「抗日」とみなされた者はトラックに乗せられて郊外の海岸などの運ばれ、機関銃で射殺された。この粛清の事実上の首謀者だった軍参謀辻政信は検問所をまわって、「何をぐずぐずしているのか。俺はシンガポールの人口を半分にしようと思っているのだ」と憲兵隊を激励してまわった(大西覚『秘録昭南華僑粛清事件』金剛出版)。この粛清を指揮したシンガポール警備隊長河村参郎の日記には、粛清の途中の23日に憲兵隊長を集め、そこで「処分人数総計五千名」と報告を受けたことが記されている。

 戦後、日本軍関係者が作成した文書では約5000人を「厳重処分」(裁判にかけずに直ちに処刑すること)したとしている。シンガポールでは4〜5万人が虐殺されたとされている。

  シンガポール粛清が始まった2月21日、第25軍はマレー半島全域での粛清を命じた(以下、林博史『華僑虐殺』すずさわ書店)。第25軍傘下の第18師団と第5師団はマレー半島各地に移動し、その後約1カ月にわたって粛清をおこなった。 マレー半島南部のネグリセンビラン州とマラッカ州では3月3日から25日まで歩兵第11連隊によって粛清がおこなわれた。「抗日分子」や「抗日ゲリラ」が潜んでいると疑われた村が皆殺しにあった。特に主な道路から離れた、奥まった所の村やゴム園の宿舎がやられた。そのため町にいると危ないと考えて避難してきていた女性や子どもが多数殺された。都市では皆殺しにはできないので、一軒ごとに日本兵がまわって「抗日的」と見なした者を検挙した。日本軍の命令書によると「態度終始不遜ナル者」や「本人ノ存在」が「社会ノ秩序ヲ乱」すと判断した者は処刑せよとされており、検挙されてから郊外に連れて行かれ処刑された。当時、人口が約30万人だったネグリセンビラン州だけで、30数カ所3千数百人の華僑が虐殺された。同州には数十人のゲリラがいたと見られるがかれらはジャングルのなかのキャンプにいて助かった。

 日本軍はマレー半島の華僑全体を「抗日的」だとみなし、シンガポール攻略前から粛清の計画を立て実行した。太平洋戦争の初期のこれらの一連の虐殺は、この戦争が中国への侵略戦争の延長線上におこなわれたことを示している。

フィリピン、ビルマ、インドネシアなどでは戦争の末期に大規模な虐殺が相次いでおこなわれた。フィリピンでは1943年2月に第14軍司令官田中静壱中将がパナイ島を視察中にゲリラに襲撃された事件がきっかけで7月から徹底的な粛清作戦が実施された。ゲリラ討伐の名目で実際には子どもから老人まで多数が殺された。米軍が4410月にレイテ島、翌年1月にルソン島に上陸してきてから、特にマニラと南部ルソンで大規模な虐殺が次々と起きた。バタンガス州とラグナ州では歩兵第17連隊(通称藤兵団)が「対米戦に先立ちゲリラを粛清する」「住民にしてゲリラに協力するものはゲリラとみなし粛清せよ」と命令を下した。バタンガス州リパの虐殺に加わった兵士の証言によると、16から60歳の男子を通行証明書を渡すという名目で学校に集め、証明書を渡したうえで10人ずつ雑木林の奥の崖のそばに連れて行き、銃剣で刺して谷底に突き落としていった。そうして一日がかりで約800人の住民を虐殺した(友清高志『狂気―ルソン住民虐殺の真相』徳間書店)。フィリピンにおける日本軍による虐殺の犠牲者は数十万人にのぼると見られ、中国に次いで多い。

ビルマでは、これまでわかっているかぎりで最大規模の虐殺は1945年7月のカラゴン事件である。パラシュート降下したイギリス軍の工作員とゲリラを支援していたカラゴン村を日本軍が襲い、女性子どもも含めて、10人くらいずつ井戸の側に連行し刺殺してから井戸に投げ込み、合わせて600人以上を虐殺した。現場で指揮した大隊長は、戦後、英軍による戦争裁判にかけられ死刑になるが、裁判のなかで子どもまで殺したことを追及されると、もし子どもを助けても孤児になり生きていけないので殺したと弁明している(英国国立公文書館所蔵英軍戦争裁判記録)。

 ビルマではインドからイギリス軍の反攻が行われ、それに呼応してビルマ国軍も日本軍を攻撃した。また各地の抗日ゲリラも協力して日本軍をビルマから追い出そうとした。そうしたなかで日本軍は住民全体を敵視し、虐殺したのである。

 侵略軍であった日本軍は住民から信頼されていなかったし、また日本軍も住民をいつ連合軍に寝返るかもしれない存在として、あるいは密かに抗日ゲリラに通じている者と疑っていた。そうした時には住民全体が「抗日分子」に見えてくる。これは中国での日本軍もそうだった。日本軍の一連の住民虐殺は、戦争だからという一般論によって説明できるものではなく、侵略戦争のなかでおこなわれた残虐行為であった。

 ところで、こうした日本軍の残虐行為はアジア民衆に対してだけでなく、日本人に対しても向けられた。その最初はサイパン戦だった。

 サイパンには約2万人の日本の民間人が残っていたが、その半数が19446月から7月のサイパン戦で犠牲になった。サイパンに住んでいた日本人の約6割は沖縄県出身者であった。この戦闘のなかで、逃げ込んだ洞窟のなかで泣きやまない赤ん坊を殺害したり、親子ごと洞窟から追い出したり、米軍に投降しようとした民間人を射殺するなど日本軍による残虐行為が頻発した。また民間人の投降を許さず「自決」を強要するなど、後の沖縄戦で見られる状況がほぼすべてこのサイパン戦で現れていた。

さらに194410月から米軍の反攻が始まったフィリピンでは、ここにも多くの日本人移民がおり、太平洋戦争開戦前にはその約7割が沖縄県出身者であった。ミンダナオ島では米軍の上陸により山中に追いやられた日本兵による日本人からの食糧強奪や殺害がおきたし、パナイ島では日本軍とともに逃避行を図ったが、付いていけない民間人たちは「自決」を強要され、残された傷病兵の手によって手榴弾や銃剣によって殺された。

 こうした状況がさらに大規模に生まれたのが沖縄戦であった。

 

11)捕虜虐待

 太平洋戦争において日本軍の捕虜になった連合軍将兵は約35万人にのぼり、うち29万人が開戦後、6カ月以内に捕まった者である。このうちイギリス、オランダ、アメリカ、カナダ、オーストラリア、ニュージーランドの本国軍将兵が約15万人、残りはインド人やフィリピン人などである。後者の場合は日本軍に協力することを宣誓させた上で釈放したり、インド人の場合は日本軍が組織させたインド国民軍に編入されたりしている。ただ一部には協力することを拒否して処刑されたシンガポールのマレー人将校たちのようなケースもある。

戦争中の捕虜の扱いについては1929(昭和4)に締結されたジュネーブ条約などにおいて人道的に扱わなければならないことが国際法上、確立していた。日本は日露戦争でロシア人捕虜を、第一次世界大戦ではドイツ人捕虜を人道的に扱った。しかし1929年のジュネーブ条約については軍の反対により批准しなかった。捕虜の扱いを心配した連合国が日本政府にジュネーブ条約の適用を求めてきた際に日本政府は「準用」すると回答した。しかし実際にはそうならなかった。

 日本軍は国内外に捕虜収容所を設け捕虜を収容したが、その過程で起きた大きな事件が「バターン死の行進」だった。1942年4月フィリピンのバターン半島に立てこもっていた米比軍が降伏した。彼らは収容所までの長い道のりを一部区間を除いて歩かされ、途中、飲食物をろくに与えられず、警備の日本兵から殴打されたりし、収容所にたどり着くまでに7万6000人中約1万7000人が死亡した。収容所についてからも犠牲者が続出した。

泰緬鉄道の建設には約6万5千人の捕虜が投入された。泰緬鉄道はタイのノンプラドックからビルマのタンビュザヤまでの415キロの鉄道で、42年6月大本営によって建設が決定され、直ちに着工、翌年10月に完成した。人跡未踏のジャングルの山岳地帯であり、マラリヤなど熱帯伝染病の多発地帯に短期間に鉄道を建設するために病気の捕虜までも作業に駆り出し、食糧も医薬品も欠乏するなかで約1万20003000人が犠牲になった。特に奥地に送られたFフォースと呼ばれた捕虜グループでは7062人中3096人(44%)が犠牲になった。

 戦局が悪化すると、捕虜たちの待遇が一層悪化したにとどまらなかった。台湾収容所ではいざという場合には捕虜を「圧縮監禁」し「最後の処断」に備えることが指示されていた。つまりいざとなれば捕虜を殺せということだった。事実、パラワン島では日本軍の飛行場建設のために連れてこられていた米兵捕虜140人が194412月日本軍によって虐殺された。

 またボルネオ島東北部のサンダカンの捕虜収容所にいたイギリスとオーストラリア軍の捕虜約1850人は西海岸まで道のないジャングルと湿地帯のなか約400キロを歩いて移動させられた。途中で動けなくなった者は日本兵によって射殺され、ようやくたどり着いた者も食糧運搬などの強制労働によって次々に死んでいった。その結果、戦後まで生きのびることができたのはわずか6人だけだった。この「サンダカン死の行進」では日本兵もたくさん犠牲になっているが、人命軽視の日本軍の体質は捕虜に一層ひどくはたらいた。

軍人だけでなく東南アジアにいた欧米の民間人も日本軍によって抑留された。特にインドネシアでは9万9830人のオランダ人が抑留され、1万2542人が死亡した。その中の一部の女性は日本軍の慰安婦にさせられた。

捕虜も民間抑留者も、解放されてからも精神障害や身体障害、悪夢などに悩まされており、「収容所後遺症」と言われている。

 欧米諸国の兵士に対しては、一応捕虜にする措置がとられたが、 中国での捕虜については、捕虜にさえもしないという政策がとられた。満州事変後の1933年(昭和8)に陸軍歩兵学校が頒布した『対支那軍戦闘法ノ研究』のなかには「支那人ハ戸籍法完全ナラザルノミナラズ特ニ兵員ハ浮浪者多ク其存在ヲ確認セラレアルモノ少キヲ以テ仮ニ之ヲ殺害又ハ他ノ地方ニ放ツモ世間的ニ問題トナルコト無シ」と書かれてある。1937年の日中戦争が始まると、8月に陸軍次官の通牒によりハーグ条約などの交戦法規を「悉ク適用シテ行動スルコトハ適当ナラズ」と指示した。太平洋戦争開戦後は欧米人を対象とした俘虜情報局と俘虜収容所が設置されるが、中国に対しては設置されなかった。南京大虐殺のなかでの重要な出来事は中国軍捕虜の大量虐殺であり、それが日本軍によって組織的におこなわれたことはその表れである。欧米軍の捕虜の何倍あるいは何十倍もあったはずの中国人捕虜は、殺されるか、強制労働させられた。

                            

12)中国占領地

 日本軍は満州を除く中国本土に約70万人、敗戦時には約100万人の大軍を派遣した。しかし都市と交通網だけ、つまり点と線のみ抑えただけで農村部までおさえることはできなかった。「現地自活」方針をとっていた日本軍は食糧を確保するために市場価格より大幅に安い価格で米などを強制買い付けした。また国民党軍や共産党軍に対する経済封鎖をおこなったため、都市には農産物が入らず、農村には工業製品が入らない状況になった。そこに日本軍は物資調達のために軍票や円系通貨を乱発し激しいインフレを引き起こした。

1940年9月の第一期晋中作戦、すなわち山西省の抗日根拠地に対する「燼滅作戦」以来の日本軍の燼滅・粛清作戦は、中国側から三光作戦と非難をあびるようになっていたが、太平洋戦争開始後も各地でおこなわれた。また1942年から万里の長城沿いの地域の「無人区」化が図られた。これは八路軍の活動を封じるためにこの地域を「無人区」にしようとした作戦で、対象となった村は焼き払われ、抵抗する村人は殺された。追い出された人々は「人囲い」と呼ばれた集団部落に集められたが、農地も家畜も不足し、ひどい環境のしたで伝染病や飢えのために多くの犠牲を出した。長城のすぐ北側の熱河省興隆県ではこの「無人区」化によって7万間余りの民家が焼かれ、3万頭余りの家畜が奪われた。1万5402余りが殺され、1万5千人が強制労働のために満州に連行され、そのほかに凍死、餓死、病死者を多数出した。その結果、16万余りの人口が10万人余りにまで減少した。

こうした三光作戦や「無人区」化作戦によって、1941年から翌年にかけて華北の抗日根拠地の面積は六分の一に、人口は4000万から2500万人に、八路軍の兵力は40万(1940年)から30万人に減少した(姫田光義・陳平『もう一つの三光作戦』青木書店)。

しかし、こうした日本軍の作戦は中国民衆を一層、抗日に追いやっただけだった。1944年以降、日本軍が太平洋戦線に部隊を転用したことと、アメリカ軍の援助を受けた国民党軍の強化が進んだこと、解放区からの反攻が始まったことなどから日本軍の戦線を縮少しはじめた。軍事的にも経済的にも日本軍占領地の崩壊が進みはじめだした。

13)植民地と満州の戦争動員

 日中戦争の開始以来、強化されていた皇民化政策は太平洋戦争開始後もさらに推し進められ、そのうえにたって軍事動員が推進された。朝鮮ではすでに1938年(昭和13)に陸軍特別志願兵制度が導入されていたが、1943年には海軍にも同じ制度が導入された。同年には朝鮮青年特別練成令が公布され、青年の軍事訓練が義務づけられた。さらに日本の兵力不足を補うために43年8月朝鮮にも兵役法が施行された。翌年4月から徴兵検査が開始され、敗戦までに209000人が徴兵され、うち復員したのは9万7000人だけであった。

 労働力不足を補うための朝鮮人強制連行は1939年の「募集」形式から、42年には、朝鮮総督府と朝鮮労務協会が各地方行政機関に人数を割り当てて労働者を集め、日本企業に引き渡す方式である「官斡旋」方式、44年国民徴用令の適用による「徴用」と強制の度合いが強められた。

 徴用令によって軍属として徴用された者も多く、一部は捕虜収容所の監視員として南方に送られた。彼らは捕虜と直接接する機会が多かったために戦後、捕虜虐待の責任を問われ戦争裁判で罰せられた者が多い。あるいは軍夫(軍のための雑役夫)として各地に送られ、戦闘に巻き込まれて戦死したり、沖縄ではスパイ容疑で日本軍によって殺されたケースも多かった。

 日本本土をはじめ南方、沖縄、サハリンなどに強制連行された朝鮮人の数は100万人を越えると見られている。それ以外に日本軍の慰安婦として連行された女性も多い。

 台湾でも、日本語の使用と神社参拝の強要、改姓名という日本式の氏名への変更の強要、志願兵制から徴兵制の導入など朝鮮と同じような政策がおこなわれた。動員された軍人・軍属は約20万人余りに上り、うち約3万が戦死した。日本軍慰安婦も徴集されボルネオなど南方に連れて行かれた。

 満州では日本の兵站基地として石炭や鉄など重要物資の生産が図られた。すでに満州では軍部主導の産業開発が進められていたが、太平洋戦争が始まると鉄鉱、石炭、液体燃料、軽金属、農産物などの軍事物資の日本への供給の増大する方針をとった。炭坑や鉱山などでは中国人労働者が酷使され多くの犠牲を出した。満州を代表する炭坑である撫順炭坑では強制連行した中国人の使用を含めて、労働強化がはかられ、1942年だけで1万人以上と推定される死亡者がでた(上羽修「撫順炭坑中国人労働者の大量死」)。

14)日本軍の特質

日本軍がアジア各地でおこなったことを考えると日本軍の特質が問題にならざるをえない。一般的に言って、軍隊という組織自体が、他者(敵)を殺し屈服させ支配することを目的としている。人を殺すことを最高の美徳としてたたえる価値観は市民社会の価値観とは正反対のものである。戦争においては、他者(敵)を殺すことを兵士に容易ならしめるために他者を非人間化することは通例である。日本は中国人を「チャンコロ」といって見下し蔑視することによって、英米人に対しては「鬼畜米英」と呼んで、相手を非人間化した。米軍の場合は日本兵をサルに見立てた。ベトナム戦争ではベトナム人を「グーク」と呼んで蔑視した。

また軍はすべてが命令によって動く上下関係の厳しい組織であり、個人の人権・自由を基本とする市民社会の原理(現実にはそうはなっていないにしても)とは異質である。軍隊のなかでは下級兵ほどその抑圧はひどくなる。軍隊内部の抑圧がひどいほど、それが外部の弱者に対する残虐性となって現れる。

 軍隊に内在する論理が女性に対する性暴力を生み出す。一般に強姦という行為が加害者の性欲を満たすためではなく、支配欲の充足により「自己実現」(女性の人権を踏みにじる、きわめて歪んだものであるが)を図ろうとするためであることが指摘されている。他者を暴力で屈服させ支配する論理のもとで、軍隊内部で抑圧され疎外されている兵士たちは、占領地の女性(非人間化された対象である)を強姦し、あるいは女性を金で買いに行く。

 しかし日本軍の問題を考える場合、こうした軍隊の持っている論理だけでは説明できないものがある。アメリカ軍が日本兵を捕虜にせずに殺害したり、日本人女性に暴行を加えたことは多々あったし、原爆投下をはじめ一連の都市への空襲は一般の民間人を狙い撃ちした戦争犯罪である。しかし、太平洋戦争においてアジアの民衆に対して、日本軍ほど虐殺・暴行など各地で大規模な残虐行為をくりひろげた軍隊はほかにはなかった。捕虜に対する扱いも日本軍とアメリカ軍とでは、経済力だけでは説明できないほど違いがあった。沖縄戦で日本軍が沖縄の人々を虐殺、あるいは虐待したことも日本軍の特徴だろう。いくつかの点から日本軍が残虐行為をおこなった特徴を考えてみよう。

第一に日清戦争・日露戦争以来培われてきた、アジア民衆に対する蔑視観がある。中国人や朝鮮人に対する蔑視だけでなく、東南アジアの諸民族に対してはより一層見下していた。たとえば、大本営参謀本部が作成し、マレー戦に参加した将兵に配られたリーフレット『これだけ読めば戦は勝てる』(辻政信が書いたといわれている)には、東南アジアの民衆を「土人」と呼び、「土人は懶けものが多く、(中略)全く去勢された状態にあるから之をすぐ物にしようとしても余り大きな期待はかけられぬ」と蔑視観が露骨に示されている。

第二に日本軍が占領地の一般住民を敵視したことである。占領軍である日本軍に対する住民の抵抗はゲリラだけでなくさまざまな形でおこなわれた。日本軍は住民全体を疑い、村を丸ごと抹殺することさえおこなった。国際法はまったく無視された。相手が住民であろうと、「抗日ゲリラ」あるいは「抗日分子」という名目がつきさえすれば「治安粛清」と称して堂々と住民虐殺がおこなわれた。

 第三に日本軍の「現地調達」主義である。日本軍は各地で作戦をおこなう部隊の食糧や馬の糧秣について「現地調達」するという政策をとった。日本軍は補給そのものを軽視したが、とりわけ食糧については軽視どころか部隊に任せた。そのため各部隊は戦闘をしながら食糧を確保しなければならなかった。本来は代価(軍票など)を払って購入しなければならないが、実際には食糧略奪があたりまえのようにおこなわれた。戦地・占領地での略奪は戦時国際法に違反するだけでなく、日本軍の陸軍刑法や海軍刑法でも「略奪ノ罪」にあたるが、それが取り締まられることはほとんどなかった。

 略奪にあたって、住民の抵抗があれば、住民に対する残虐行為がおこなわれた。女性に対する暴行もその一部だった。それが抗日勢力が強いと見なした村であれば、略奪、女性への暴行、住民虐殺、放火がおこなわれた。中国ではこうしたなかで若い女性を拉致し慰安婦にさせるケースが報告されている。

中国など人が住んでいるところではこうした方法で食糧が調達できても(略奪された住民の苦しみがあることはいうまでもない)人のあまりいないジャングルのなかでは、略奪しようにも略奪するものがなかった。ガダルカナルやニューギニアで多数の日本兵が餓死したのはその結果である。日本軍兵士の死者の半数以上が広い意味での餓死(飢えに起因する病気による死を含めて)によるものと推定されるが(藤原彰「日本軍の餓死について」)、みずからの兵士の生命を軽視した「現地調達」主義は、日本軍を残虐行為に駆り立てたとと同時に日本兵自体の生命をも奪ったのである。

第四に国際法を無視したことである。第一次世界大戦までは、日本は参戦にあたって国際法を遵守する旨が開戦の詔書には含まれていた。しかし太平洋戦争の開戦にあたっては、詔書の案の段階ではあった「国際法規の範囲内に於て」という文言が最終的には削られた。日中戦争にあたっては、戦争ではなく「事変」であるとして戦時国際法を適用する考えはなかった。日中戦争〜太平洋戦争において日本は、捕虜や占領地の住民の保護など戦争下におけるさまざまな人道的な措置を定めた戦時国際法を守る意思がなかったのである。

 第五に日本軍内部の非人間性である。日本軍でも「私的制裁」は禁止されていたが、実際にはビンタをはじめさまざまな暴力が日常的におこなわれていた。「死は鴻毛(鳥の羽毛)よりも軽し」という軍人勅諭の言葉通りに兵士の生命は軽んじられ、特に下級兵ほどその抑圧はひどかった。軍のなかで蓄積された抑圧とストレスは外部に対して、とりわけ弱者に対して向けられた。占領地の住民はまさにその犠牲者であった。住民に対する兵士たちの残虐行為は軍隊内の秩序を維持するための安全弁として軍上層部は黙認したのである。

軍隊という組織そのものが持つ暴力性はこうした日本軍の特徴によって極度に増幅され、アジア太平洋地域では他の国とは比較できないほどの残虐行為を引き起こしたのである。

15)抗日闘争

  日本軍による過酷な占領に対して、各地で抗日闘争が繰り広げられた。そのあり方は地域ごとに多様であった。

フィリピンではさまざまなゲリラ組織が作られたが、その中心になったのはユサッフェゲリラとフクバラハップだった。ユサッフェとはアメリカ極東軍のことで、同軍は1942年5月に日本軍に降伏したが、各地に残されていたフィリピン人兵士たちはユサッフェゲリラを組織し知識人・政治家・宗教者らと協力し抗日ゲリラ活動をおこなった。彼らはアメリカに忠誠心を持ったゲリラだった。一方、社会党・共産党系の農民運動を基盤に42年3月中部ルソンで結成されたのがフクバラハップ(抗日人民軍)だった。彼らは日本軍追放と地主打倒を目標にしていた。両者は対立しながらも抗日活動をおこなった。

 マラヤでも多様なゲリラ組織が生まれた。最も強力だったのはマラヤ共産党によって組織されたマラヤ人民抗日軍だった。華僑が主体のマラヤ共産党はイギリスの植民地支配のもとで非合法化されていたが、日本軍のマレー侵攻が始まると共産党は英軍に協力を申し出、共産党の選抜した青年たちに英軍がゲリラ用の訓練を与え、日本軍の後方に送り込むことで合意がなされた。他方、多くの共産党員や国民党員らがシンガポール華僑義勇軍に参加してシンガポール防衛戦で勇敢に戦い、多くが戦死した。

英軍からゲリラ用の訓練を受けた計165人は4つのグループに分けられて、マレー半島の南部に送られた。彼らが中心になってマラヤ人民抗日軍が作られた。北部でも共産党員らが独自にゲリラ活動を組織し、後に人民抗日軍に統合された。

中国国民党系の華僑は華僑抗日軍を組織、主に中北部で活動した。またマレー人主体の地下抗日組織ワタニアも作られた。

 インドからのマレー半島反攻を計画していたイギリス軍は136部隊を編成して潜水艦やパラシュートによってマレー半島に潜入し、これら各地の抗日ゲリラと連絡を取り、彼らに武器弾薬を提供した。

インドシナでは日本とフランスに反対するベトナム独立同盟会(ベトミン)が結成され、北部山岳地帯に解放区を設けた。1944年から45年の大飢饉のなかで「敵のモミの倉庫を破壊して人民を救おう」と呼びかけて全土で抗日闘争を活発化させ、45年9月2日ベトナム民主共和国の独立を宣言した。

タイは当時、東南アジアでは唯一の独立国であったが、実質的に日本軍の占領状態におかれていた。タイ政府は表面上は日本に協力する振りをしたが、政府や軍・警察関係者らは密かに「自由タイ」という抗日組織を結成した。抗日的として日本軍に逮捕されタイ警察に引き渡されたタイ人は警察内の自由タイによって密かに釈放された。また海外にいた外交官や留学生たちは自由タイの国外組織を作って国内とも連絡を取り、連合国からの支援をうけてゲリラを組織しようとした。日本軍はこの自由タイの動きを察知していたが、手を出すことができなかった。

ビルマではすでに見たように、ビルマでは日本軍によって育てられたビルマ国軍がイギリス軍とともに日本軍をビルマから追い出し、その後はイギリスの植民地支配の復活を許さず、独立を勝ち取った。

 インドネシアでは、オランダによって投獄されていたスカルノやハッタなどの民族運動の指導者たちは、日本軍に協力することによって独立を得ようと考えた。しかし日本軍の過酷な占領に対し、1944年2月に西部ジャワで農民の反乱がおき、さらに45年2月東部ジャワでペタのブリタル大団が即時独立を求めて反乱を起こした。このことは日本軍に対して、インドネシアへの独立付与を促したがその動きは遅く、日本降伏後の8月17日青年らの突き上げをうけてスカルノらは独立を宣言した。

太平洋戦争の当初、日本軍が東南アジア各地で欧米諸国の軍隊を打ち破ったことは、かれらの植民地支配に大きな打撃を与えた。白人はアジア人より優れているという白人神話は崩壊した。しかし日本は新たな占領者として乗り込んできたに過ぎなかった。当初、日本軍の到来を歓迎した人々もまもなく軍政に失望せざるをえなかった。日本軍は戦争遂行のために人々の協力を取り付けようとし、「アジアの解放」などをスローガンとして掲げた。それは日本の支配を前提としたものだったが、人々の独立への闘いは日本の意図を越えて進んでいった。一方で、日本軍に協力しながら自らの軍隊を育て力をたくわえ、他方では連合軍とも連絡を取って日本軍の排除を企画するという、二つの帝国主義国の力を利用しながら独立のチャンスをうかがった。したがって東南アジア諸国の独立は日本の意図したものではなく、東南アジアの人々が日本軍の過酷な支配下において、あらゆる条件を利用して力をたくわえ、主体的に独立への道を切り開いていき、まずは日本軍と戦い、その敗北後は植民地支配の復活をねらう旧宗主国と闘って独立を実現したのである。東南アジア諸国の民衆の主体的成長と闘いこそが独立を実現した原動力であった。

16)戦争被害と傷痕

  日中戦争〜太平洋戦争下におけるアジア各国の被害は甚大なものだった。死者の正確な数ははっきりしないところが多いが、主に各国政府の公式の発表を基に紹介すると、中国1000万人以上(調査の進展により最近では2000万人以上と言われ始めている)、フィリピン111万人、インドネシア400万人、ベトナム200万人、マレーシアとシンガポールで10万人以上、ビルマ15万人、インド150万人、韓国・朝鮮20万人、台湾3万人などである。このほとんどは民間人である。ほかに連合軍捕虜4万2千人あまり、民間抑留者1万数千人、オーストラリア1万7744人(捕虜約8000人を含む)などである。アジアの死者は全体として2000万人という場合が多いが、中国の死者の数によっては大きく増える可能性もある(『世界』1994年2月、特集白書・日本の戦争責任)。

 なお日本の死者が約310万人、うち軍人軍属230万人、民間人80万人である。日本の場合、沖縄を除くと、軍人の外地での死者が多数を占めているが、アジア諸国の場合には圧倒的に民間人が犠牲になっている。日本の侵略戦争であったことがここにも現れている。

 戦争被害は死者のみに限られない。家を焼かれたり破壊された件数などの物的な被害、難民になった人数は想像がつかない。

 人的物的被害とは異なるさまざまな傷痕も残している。マレー半島では、日本軍は華僑を抑えるためにマレー人を利用した。華僑粛清という名の虐殺のためにマレー人を道案内に使ったり、マレー人警官を同行させて日本軍の手伝いをさせた。そのため華僑から見ればマレー人が日本軍の手先となって同胞を殺していることになり、華僑が主体の抗日ゲリラは日本軍に協力しているマレー人を襲撃し、あるいは豚肉を無理強いするなどイスラム教徒であるマレー人を侮辱する行動にでた。このためマレー人が華僑の村を襲って村人を惨殺し、それに対して華僑が報復するという事態が戦争末期から戦後にかけて頻発した。このマレー人と中国系との対立はその後も尾を引き、現在でも大きな問題となっている。日本軍の残虐行為がその後何十年にもわたって深刻な影響を与えているのである。

 ビルマでは、多数派のビルマ族のほかにカレン族やカチン族などの少数民族がいる。カレン族にはイギリスの影響でキリスト教徒が多く、そのためイギリスが植民地支配のためにカレン族を登用しビルマ族を抑えるために利用した。日本軍は逆にビルマ族を使い、カレン族に対しては親英的とみなして抑圧した。そのためカレン族が日本軍の残虐行為の対象になったケースが多い。このためビルマ族とカレン族の対立は一段と増幅された。戦後、ビルマ族主体のビルマ政府に対してカレン族は武装闘争をおこない、ビルマの不安定要因となっている。

  植民地支配は通常、民族を分断し統治するという方法を取るが、日本軍の支配はそれが虐殺などの残虐行為と結びついていたために民族間の対立を一層増幅させることになった。

 日本軍は戦争後期になると日本軍を補うために現地の住民を使って義勇軍などを作った。ビルマ国軍やインドネシアの郷土防衛義勇軍(ペタ)などはその代表的なものである。これらの軍隊は戦後の独立にあたって大きな役割を果たした。特に植民地の再建をねらうオランダと独立戦争を戦ったインドネシアの場合は特にそうである。もちろんこのことは日本軍が日本の覇権のために作った軍隊を、民族運動の組織者が独立のために活用したのであって、ヨーロッパと日本の二つの帝国主義国の間で両者を利用して独立を勝ち取ったことはいうまでもない。しかし独立後の軍隊の土台が日本軍によって作られたことは否定できない。問題はそこにある。インドネシアで1966年にクーデターを契機に政権を握りその後1997年に至っても依然として独裁政権を続けているスハルト大統領はペタの軍人であった。ビルマで1962年に軍事クーデターで政権を握り、議会を解散し憲法を停止、後に表舞台からは姿を消すが今日に至るまで軍事政権の黒幕と見られているネ・ウィンは日本軍の訓練を受けたビルマ独立義勇軍の幹部の一人だった。独立後、長期軍事独裁政権が生まれたインドネシアとビルマではともに日本軍に育てられた軍隊がそこでも大きな役割を果たし、また日本軍に訓練された将校がその独裁者になっている。独立後の問題の原因の一つが日本占領時代に起因しているのである。

 

 

[参考文献](単行本を中心にあげ、論文は一部を除いて省略した)

石田甚太郎『ワラン・ヒヤ―日本軍によるフィリピン住民虐殺の記録』現代書館、1990

岩武照彦『南方軍政論集』厳南堂書店、1989

上羽修「撫順炭坑中国人労働者の大量死」『戦争責任研究』第13号、19969

内海愛子、田辺寿夫編著『アジアから見た「大東亜共栄圏」』梨の木舎、1983

内海愛子、G.マコーマック、H.ネルソン『泰緬鉄道と日本の戦争責任』明石書店、1994

江口圭一『十五年戦争小史<新版>』青木書店、1991

小田部雄次、林博史、山田朗『キーワード日本の戦争犯罪』雄山閣、1995

許雲樵、蔡史君編『日本軍占領下のシンガポール』青木書店、1986

越田稜編『アジアの教科書に書かれた日本の戦争・東南アジア編』梨の木舎、1990

――  『アジアの教科書に書かれた日本の戦争・東アジア編』梨の木舎、1990

小林英夫『大東亜共栄圏』岩波ブックレット、1988

――  『日本軍政下のアジア』岩波新書、1993

桜本富雄『シンガポールは陥落せり』青木書店、1986

シンガポール・ヘリテージ・ソサエティ編『シンガポール近い昔の話―日本軍占領下の人びとと暮らし』凱風社、1996

『世界』19942月号、<特集 白書・日本の戦争責任>

『戦争責任研究』各号所収の論文・資料(19989月現在、第21号まで発行)

林博史『裁かれた戦争犯罪―イギリスの対日戦犯裁判』岩波書店、1998

―― 『華僑虐殺―日本軍支配下のマレー半島』すずさわ書店、1992

疋田康行編著『「南方共栄圏」−戦時日本の東南アジア経済支配』多賀出版、1995

藤原彰、今井清一編『十五年戦争史』14、青木書店、1989

防衛庁防衛研究所戦史部編『史料集 南方の軍政』朝雲新聞社、1985

姫田光義、陳平『もう一つの三光作戦』青木書店、1989

油井大三郎、小菅信子『連合軍捕虜虐待と戦後責任』岩波ブックレット、1993

吉川利治編著『近現代史のなかの日本と東南アジア』東京書籍、1992

吉見義明、林博史編著『共同研究 日本軍慰安婦』大月書店、1995