インドに抑留された日本人民間抑留者

 

関東学院大学経済学部総合学術論叢
『自然・人間・社会』第
25号、19987

林 博史


この論文は、太平洋戦争の開戦時にマレー半島など東南アジアにいた日本人がイギリスによってインドに抑留された状況について、イギリスのPublic Record Officeと日本の外務省外交史料館に所蔵されている資料から、分析したものです。イギリスの関連資料については、共同通信から「インドに邦人抑留 大戦中の英外交文書発見」として配信され、199682日付で地方紙各紙で紹介されました。 2001.11.26


はじめに
T
インドへの輸送と抑留
U
日英間の抑留者の交換まで
V
日本政府の抗議
W
犠牲になった日本人抑留者
X インド政庁の対応
Y 外務省からの批判とその後
おわりに
[注]

  [資料]赤十字国際委員会によるデオリ抑留所視察報告

 

 

はじめに

 

1941128日アジア太平洋戦争が開始されたとき、世界の各地に住んでいた日本人は否応なしに戦争に巻き込まれることになった。日本の敵国に住んでいた日本人は、それらの国から見れば敵国人になった。逆に日本とその植民地に住んでいた連合国民は日本の敵国人と見なされた。敵国人と見なされた者たちは、抑留所に抑留されたり、居住や行動の制限を受けたり、あるいは国外退去をさせられたり、何らかの規制を受けるのが普通だった。アメリカやカナダにいた日系人(国籍が日本の者だけでなくアメリカ、カナダ国籍の者まで)が強制収容されたことはよく知られている。しかし多くの場合、そうして抑留された民間人のことは、戦記で触れられることはほとんどなく、戦争の陰に隠れた忘れられた存在になってしまっている。

近年、内海愛子氏によって、日本軍によって抑留された連合国民、特にオランダ領東インド(蘭印、現在のインドネシア)で抑留されたオランダ人についての研究が進められ、これまで等閑視されてきたそれらの人々のことが明らかにされてきている[1]。オランダでは民間抑留者だった人々による手記が多く出され、オランダ人の戦争体験にとって重要な意味を持っていることが日本でもようやく知られるようになってきた。イギリスでもイギリス人の民間抑留者についての研究が進みはじめてきている[2]

日本軍によるこれらの民間抑留者に対する虐待などの実態やその抑留体験がその後長年にわたって深刻な影響を与えていることについてようやく解明されつつある一方で、連合国によって抑留された日本人については、アメリカの日系人のケースを除いてほとんど明らかにされていない。また抑留された日本人の手記や回想もほとんど出されていない。そのために日本人の民間抑留者については日本においてもほとんど知られることなく歴史の闇の中に埋もれたままになっているといっても過言ではないだろう。

元軍人やその遺族会によって、日本の侵略戦争であったことを否定する議論が声高に語られている一方で、抑留者のような存在が忘れられたままになっていることは、日本人の‘戦争の記憶’のあり方に関わる大きな問題であろう。

アジア太平洋戦争における日本の敵国27か国に居住していた日本人は56万人にのぼる[3]。アメリカにいた日本人の強制収容についてはすでにいくつかの研究があるのでそれに譲り[4]、本稿では開戦時に東南アジアのイギリス領にいた日本人について取り上げたい。東南アジアについて見ると、インドネシアやニューギニアにいた日本人はオーストラリアに連れて行かれて抑留され、フィリピンではアメリカによって抑留された。シンガポールやマレー半島、ビルマなどのイギリス植民地にいた日本人はインドに連れて行かれてそこで抑留された。ここで取り上げるのはイギリスによってインドで抑留された日本人のことである。

インドで抑留された日本人民間抑留者については、元抑留者からの丹念な聞き取りと彼らの日記を基に抑留の実態を明らかにした、峰敏朗氏の労作『インドの酷熱砂漠に日本人収容所があった』が唯一のまとまった仕事である[5]。ほかに水島司氏が戦後もマレーシアに在住していた一人の元抑留者の体験を紹介している[6]

筆者が調べたところ、イギリス国立公文書館Public Record Officeに所蔵されている外務省資料の中にイギリスが各地で抑留した民間人に関する資料が含まれている。また日本の外務省外交資料館には、敵国に抑留された日本人関係の資料が所蔵されている。これらの資料により、イギリス側(本国の外務省、インド省とインド政庁)、日本側(外務省)、赤十字国際委員会やスウェーデン総領事館という中立機関のそれぞれの動きを明らかにすることができる。これまでの文献ではこの二つの資料館に所蔵されている資料はまったく利用されていない[7]

そのような状況を鑑み、本稿ではこれまで知られていなかった、イギリスと日本の公文書館に所蔵されている資料をできるだけくわしく紹介しながら、東南アジアで捕らえられインドで抑留された日本人抑留者について見ていきたい。それらの資料によって、抑留されている人たちからは見えていなかったことが見えてくる。そうした資料と抑留者側の記録を合わせて見ることによって、その実態が総合的に明らかになるだろう。

 

T インドへの輸送と抑留

 

1941128日未明、日本軍はマレー半島東北部のコタバルに上陸、さらにタイ領のシンゴラ、パタニにも上陸した。これとほぼ同時にシンガポールも日本軍機によって空襲をうけ、アジア太平洋戦争が始まった。

日本との戦争が始まることを予期していたイギリスはマラヤに住んでいた日本人のことを事前に調べており、この128日早朝から日本人の逮捕が始まった。まず成年男子が捕らえられ、ついで婦女子にも拡大された。

シンガポール総領事館嘱託であった篠崎護は、シンガポールのイギリス軍の状況を密かに偵察にきた参謀本部の将校を案内したことからスパイ容疑で逮捕され禁固刑を言い渡されてチャンギ刑務所に収容されているときに開戦を迎えた[8]。そしてシンガポールのイギリス軍が降伏した翌日の1942216日に憲兵隊によって、チャンギ刑務所に収容されていた26人の邦人(うち朝鮮人1人、台湾人7人)とともに解放された。釈放された篠崎は219日に外務大臣宛に開戦後の在留邦人についての報告を送っている(資料@所収)。この報告はおそらく日本政府が入手した最初のくわしい情報と思われる。その報告のなかで「救出に至る迄の邦人動静経過」について以下のように述べている。

 

昨年十二月八日開戦に際し午前四時暁暗を衝いて邦人住宅の一斉検挙を行ひたり 邦人は一先つ市内ローカルプリズン及各□警察留置場に抑留せられたる後漸次チャンギ刑務所に連行留置したるか大部分は手回品用トランク一個を携行せるのみなりき  獄卒より聞き得た所に依れは新嘉坡に於ける収容邦人数は、婦女子を合し総員一千百四十名にして所在不明九名なりと  次いて婦女子はセント、ジョーンズ島の移民収容所に移し男子は全部チャンギ刑務所に収容、本館員は十二月二十二日他の囚人と共に新嘉坡監獄特別禁錮室に移されたり  移動の際一部邦人の姿を認めたるに依り彼等を鼓舞日本人たるの衿持を持するやう激励したるに彼等は本館員の姿を認め何れも悲壮なる中にも気を得たるを喜ひ万歳を叫ひたり 岡本総領事以下(中略)七館員は十二月十一日チャンギ監獄内白人収容所に移され(中略)十二月二十三日総員七名印度に押送[「後送の意か」との但し書きあり]せられたり  次いて一月七日半島方面より合流したる邦人を合し約一千六百名(或は一千八百とも称し居りたり)はセレター軍港を出発古倫母[コロンボ]へ後送二週間後英人は邦人セイロン島着を正式に発表せり

一方婦女子は未た移民収容所にありと伝へられるか皇軍突入後確めたる所に依れは一月中旬以後之も印度に送られたる模様なり(以下略)

 

高井日記によってその経緯を追ってみると、128日未明、家で寝ていたところを警察官がやってきて捕らえられ港にあった移民局に連れて行かれた。そこから日本人男子764名が船に乗せられて夕方に出港、クアラルンプールの西方の港ポートスウェッテン(現在のクラン)に送られた。そして9日朝、ポートスウェッテン郊外のバラックに収容された。その後、マラヤ各地から収容されてきたために15日には収容者は1422名になった。ところが19日に移動が発表され、高井らは26日に船に乗り、ふたたびシンガポールに戻された。抑留者たちは27日までにシンガポールに到着した。

  日本軍の進攻が早かったために当初の計画が狂ってしまい、ふたたびシンガポールに戻したのであろう。イギリス側に収容者のための準備ができていなかったためか、待遇はひどく、たとえばその食事は、「晩食、キウリ一切れ、ナスの水たき汁、ウヂの湧いた乾魚一切れ、バナヽ一本、残飯で握飯を作って一ケ食べる」(1214日)、「晩はクサ飯一ぱい、ウヂの盛んに歩いている乾魚一匹、アヒルの卵一ケ、大根の生一切れ、バナヽ一本」(1216日)というようなものだった。シンガポールに戻ってきてから少し食事は改善されたようであるが。

その後、翌4216日移動命令が出されて乗船、翌日約650人を乗せて出港した。そして18日にインドのカルカッタに到着し、そこから汽車に乗って21日デリーに着いた。デリーの駅で降り、そこから徒歩でプラナキラPurana Qilaにたどり着いた。その後、24日に998人、25日に婦女子ら800人(峰80頁によると916人)と次々に到着した。またラングーンやカルカッタなどマラヤ以外からも送られてきた。彼らはとりあえずテントの宿舎に収容された。

婦女子を受け入れた125日の日記には、イギリスの「暴虐、横暴」を激しく非難しながら、そうした記述に続いて次のように記されている。

 

嗚呼あの寒い北支に於て我が国の手に逮捕されている英米人市民の抑留者は果してどんな待遇を受けて居るだらう 恐らく人道を重んじ非戦闘員を愛する我が帝国として必づやこれが敵人かと疑はれる程の優遇を与へて居る事だろう。否非戦闘員のみに限らず戦場に於て忠勇な皇軍の手に捕虜となった何十万と言ふ敵国軍人に対しても全く同等の待遇を与へているに違いない

 

さてこのようにアジア太平洋戦争が始まるとすぐに日本人の逮捕抑留が始まり、当初はマレー半島中部に抑留しようとしたが、予想外の日本軍の進撃にあわてて抑留者をシンガポールに戻し、さらにクアラルンプールが危うくなると(同地の占領は111日)抑留者をインドへ移送した。宿舎にしても食料にしても準備が不十分なままに抑留され、しかも抑留者たちはわずかな身の回りのものだけしか持つことを許されなかった。

日本人抑留者が収容されたプラナキラはニューデリーの中にある古い城だった。インドのこのプラナキラに収容されることになった経緯についてインド政庁の説明を紹介しておこう。日本人抑留者についてはインド政庁Government of Indiaの内務省Home Departmentが担当していた。1943112日付のインド政庁からインド省に出された手紙(FO916/572)によると、次のように説明している。

 

194112月以前においては、内務省は、抑留あるいは拘束すべき者の分類に関わる政策の決定、地方政府の機関を通じての仮釈放センターParole Centreの管理、抑留や拘束からの解放の条件について主に担当していた。内務省は当時唯一の抑留所だった中央抑留所Central Internment Campの実際の管理には関わっておらず、主にユダヤ人難民の受け入れのために設けられたプランダールPurandharの仮釈放センターのみ直接管理していた。中央抑留所の管理は、インド省大臣もご承知のように、高級副官部を通じて後の防衛省の責任であり、内務省は抑留者の取扱いに関する政策について、―彼らの取扱いに関するすべての問題が内務省によって決定されたわけではけっしてないが―、時々ではあるが決定を下すことを求められた。

194112月の終わりころ、インド政庁は、ビルマとセイロンからと同時にシンガポールから約2600人の日本人抑留者の受入れを求められ、ほぼ同じ時期にオランダ当局からオランダ領東インド(蘭印)のドイツ人2400人の受入れを求められた。この時、これらの新しい抑留者のための抑留所の設置と管理の責任が内務省に移されることが決定された。この結果、それまでに勤務していた軍のスタッフはさしあたりは引き続き抑留所で勤務を続けたが、ダーラドゥンDehra Dunの中央抑留所の責任も内務省に移された。

このように内務省が責任を取るようになってから以下のような措置が取られた。第1にニューデリーに日本人抑留者のための暫定収容所を設置した。第2にデオリDeoli2700人の抑留者を収容できる収容所を建設した。第32900人の抑留者を収容できるように、水浴びや洗濯のために運河の水を引いて水の供給を2倍にするなど中央抑留所を拡張した。(以下、第4から第6まで省略)。

 

この説明によると194112月末にシンガポールや蘭印など日本軍の攻撃を受けていた東南アジア各地から日本人やドイツ人の抑留者の受け入れを求められて、急遽、その担当が内務省に委ねられ、それから1か月もしないうちに抑留者がインドに送り込まれてきたことがわかる。この中で触れられているデオリ収容所は後に日本人が収容される所である。

こうした経緯で当初は約2600人、後に収容された者を含めると3000人近い日本人がインドに抑留されることになったのである。これらの日本人抑留者から見た抑留所での体験については峰氏の前掲書に詳しいのでそちらに譲り、以下、イギリス側(外務省、インド省とインド政庁)、日本側(外務省)ならびに中立機関である国際赤十字とスウェーデン総領事館のそれぞれの動きを見ていきたい。

 

U  日英間の抑留者の交換まで

 

  日本政府が関係者からの最初の報告をうけたのが先に紹介した篠崎からの報告と見られる。その直後の1942221日赤十字国際委員会がプラナキラ抑留所を訪問している。

アジア太平洋戦争が始まったとき、アメリカはスイスを通して、イギリスなど英連邦諸国はアルゼンチンを通して、連合国の捕虜と民間抑留者に対して日本がジュネーブ条約とジュネーブ赤十字条約(共に1929年)を適用するように要求した。日本政府はこれに対して、日本も締結している赤十字条約の遵守と批准していないジュネーブ条約の「準用」を回答した。赤十字国際委員会はそれぞれの捕虜収容所や民間抑留所を訪問して条約が守られているかどうかなどを視察し改善を勧告するなどの活動をおこなった。その活動の一環としてプラナキラ抑留所にも視察に来たのだった[9]

  このときの赤十字国際委員会の報告によると(日本語訳、資料A所収)、収容されている日本人抑留者は男子1841名、女子727名、子ども247名、計2815名(うち4名はタイ人)となっている。彼らが連れてこられた地域はマラヤ、シンガポール、北ボルネオから2598名、ビルマから73名、イランから1名、インドから143名となっている。

  プラナキラは「気候は乾燥し夏季は極めて暑し現在日陰の最高温度は約三十九度なり」という気候だった。男はテントに6名ないし8名ずつ収容され、女性と子どもは古城の屋内に居住していた。インド政庁が定めた食料の配給の基準は表1のようになっていた。赤十字に対して抑留者の代表は魚の増加を求めたことが記されているが、報告には「食糧は不足なし」と記されている。赤十字の代表はもちろん抑留者の代表にも会っているし、その報告では衛生施設や病院、個人の財産などにも触れているが、報告を見る限りでは大きな問題があったとは読み取れない。                           

ところで高井日記によると、赤十字国際委員会が抑留所を訪問した前夜は豪雨に襲われ、雨漏りがひどかっただけでなく「豪雨は終ひに大広間に海の如くなりドウドウとテントの内部迄流れ込みトランク、靴等まるで舟の様に浮かんでしまふ。ベッドの上から下を見ると我々は何の事はない、丁度大海の波の上にベットを置いて寝ているのだ」というありさまで、ベットや毛布もずぶぬれになって一晩をすごした。21日の朝には雨はやんだが炊事場の前は「大きな池」となっており泥や粘土を除けて炊事場に入ると「野菜も米も薪もはては塩も砂糖も屋根から落ちた泥水と戸口から侵入した泥水でだっぷりつかって居る」という状況だった。

こうしたところに赤十字の視察がおこなわれたのだが、赤十字の報告からはこのような状況はまったく読み取ることができない。いずれにせよこの赤十字の報告を日本政府は3月初めまでには受け取っていた。この報告を見る限りでは特に問題があるとは考えなかったであろう。

その後しばらくはプラナキラの日本人抑留者についての情報は日本政府には入ってこなかった模様であり、ひどい実態がわかるのは19428月に日英の交換船によって領事館関係者など抑留者の一部が戻ってきてからだった。

ここでこの交換船の問題について見ておきたい。抑留者の中で帰ることができた者と残された者の明暗が生まれ、取り残された者たちからの反発が生まれる原因にもなったからである。

敵国に抑留された外交官を交換で引揚げさせることは開戦直後から検討されていた。その後、日本軍は東南アジア各地を占領し軍政を開始するが、戦前からそれらの地域に居住していた日本人は連合国によって抑留されてしまったので、軍政の観点からも彼らの帰還を求めた。1942424日にはバンコクの日本大使館より外務省に対して次のような電報が打たれている(以下、交換船関係の資料はすべて資料Bより)。

 

昭南島を始め馬来占領地区に於て戦後経営順調に進捗中の処多年同地方に居住地方事情に精通せる在留民か印度方面にインターンせられ居る為之か協力を得られさる関係上各種工作実施上兎角支障を感し一般に之か帰還を希望し居る趣にして今般昭南島出張の岩田書記官に対し現地軍当局より本省に於て日英間抑留官民交換促進方要望ありたる趣なり 就ては既に御交渉中のこととは存するも実状右に御諒察の上然るへく御取計相仰度し

 

 昭南島の「現地軍当局」とはシンガポールとマラヤを担当していた第25軍のことであるが、軍政を進めるうえで彼らが必要だと考え、抑留者交換の窓口である外務省にそのような要望をおこなったのであろう。

さてどのような者を優先させて交換するのかという政策の立案過程をくわしく検討する余裕はないが、第1優先順位であった外交官とその家族以外では、商社員や銀行員、新聞記者、知識人らが優先されたと言ってよいだろう。日英間の「外交官等の交換に関する提案事項」と題された文書(日付、作成者不明)によると、交換する「一般在留民」として次の6項目を挙げている。 

(1)公吏其の他官吏に準ずべき者及公共団体より派遣せられたる者並に其の家族及従者

(2)新聞記者並に其の家族及従者

(3)商社及銀行の支店員、代表的在留民並に其の家族及従者

(4)宗教家、学者、学生並に其の家族及従者

(5)婦女子及其の従者

(6)特別の事由ある者並に其の家族及従者

 

 この項目の後に「戦争の遂行に有用なる者たると否とを問はざるものとす」と但し書きがつけられているが、この6項目を見る限り、公的な機関や大企業などにつながる者を優先している印象はぬぐえない。

また「大田私案」と記された文書では、「交換の範囲」の「在留民」として「新聞記者」「婦人、子供、老年の男子」「大会社及銀行等の幹部」の3項目が挙げられている。

 日本政府はイギリス政府、アメリカ政府とそれぞれ抑留者の交換をおこなうことを合意した。「敵国及断交国との官吏其他の交換に関する件」(欧亜局第3課、194254日付)は交換計画の概容を記している。

この文書によると、イギリス側のために鎌倉丸と龍田丸の2隻を、アメリカ側には浅間丸とコンテヴェルデ(イタリア船)の2隻をそれぞれ当てることとし、それぞれの船は上海や香港、サイゴンなどに立ち寄って英米の抑留者を乗せてモザンビークのロレンソマルケス(現在のマプート)で抑留者を交換することとなっている。当時のモザンビークは中立国のポルトガル領であった。当初の予定では710日にロレンソマルケスに到着することになっていたが、英米側の都合で8月に延期された。

日本側は交換者を同数にするという考え方を取らない方針だったが、実際には双方が提供できる船の収容能力に規定された。英米が使用するの3隻の船は合わせて約4200名を収容できたが、日本側4隻の収容能力は合わせて約3200名であり、日本側が受け入れられる人数もこれに制限されることになった。

この計画によるとイギリス関係で交換する日本人は、「英帝国各地より官吏其の家族従者」が約200名、「商社銀行の派遣員其他にして既に英政府に氏名通報済のもの」812名、「泰国外交官及在留民」が104名、計1116名である。なお第2のカテゴリーの812名のうち、マラヤからインドへ移送された者258名、ビルマからインドへ移送された者8名、蘭印や北ボルネオ、ニューカレドニアからオーストラリアに移送された者382名、などが含まれている。ただこの数ではまだ700名ほど余裕があるので、その分の人選は「印度及濠州に移送せられたるものの中より現地帝国領事の意見を徴し選定する様」伝えることとされていた。なお日本側からイギリスに引き渡す抑留者は計850名(うち官吏480名)とされている。その点では交換する抑留者は日英同数ではなく、日本人の方がはるかに多かった。

こうした日本側の交換者を見るかぎり、外交官とその家族以外では明らかに商社員や銀行員など大手企業の関係者が優先されたと言えるだろう。つまり海外勤務で派遣されていた会社員たちは優先的に帰されたが、東南アジア各地に住み着いて自営業などを営んでいた一般の人々は後回しにされたのである。

インド政庁側の資料(1943119日付、インド政庁内務省よりインド省への報告、FO916/775)によると、交換されたのは領事館関係者64名を含む784名、つまりプラナキラ抑留所からは720名となっている。その720名の内訳は次のようである

  最初の優先リストに載せられた民間人                        308
 
 最初の優先リストに載せられた民間人の家族               22
 
 第2の優先リストに載せられた民間人                             36
 
 第2の優先リストに載せられた民間人の家族                 36
 
 日本領事館員によって指名された民間人                       34
 
 病気、高齢、病弱の者                                                       69
 
 岡本[10]によって826名のリストの中から選ばれた民間人     215
                                                                                           
   720

なお720名の性別は男484名、女171名、子供(16歳以下)65名であった。

抑留者の交換についてはその後も交渉が行われたが、日英間についてはこの1回かぎりで終わってしまった。そのため選にもれた人々は終戦まで抑留され続けることになり、先に帰った人々との間に感情的なわだかまりが残ることになった。

プラナキラ抑留所では、この交換による帰還者の第1次分の発表が713日におこなわれた。ただそのリストは取り消されたり、幾度も追加され、最終的に720名が選ばれ86日に抑留所を離れた(峰152160頁)。戦前、南洋商会という商社に勤めていた高井もこの交換の中に選ばれ、書きためた日記3冊をカーキ色の布で枕を作ってその中に綿にくるめて詰めて持ち出すことができた。720名は813日にボンベイを出港し27日にロレンソマルケスに到着、92日龍田丸に乗船して出港し、16日シンガポールに、20日には横浜に到着した。

シンガポールで彼らを受け入れた富集団(第25軍)司令部の『戦時月報(軍政関係)』(19429月末)[11]には次のように記されている。 

交換船龍田丸は九月十六日、鎌倉丸は同二十五日夫々昭南に入港せり 龍田丸には馬来及ビルマの四百余名、鎌倉丸には旧蘭印、ボルネオ、濠州、セレベス等の四百余名被抑留邦人の帰還したるあり 何れも大部昭南に下船したるを以て之が復帰或は就業に関し斡旋し又は斡旋中なり

  これを見ても交換で引き揚げてきた者たちの多くはシンガポールで降りて東南アジアにとどまったことがわかる。そのことを見てもこの交換が軍が求めた軍政のための人材を確保することが大きな目的の一つだったと言ってもよいだろう。そうした人たちが去ったあとの9月から10月にかけてはプラナキラ抑留所での死亡者が最もたくさん出た期間になったが、それはあとで述べよう。

 

V 日本政府の抗議

 

さてプラナキラ抑留所の状況について初めて具体的に日本政府が知ったのは194293日のことだった。ロレンソマルケスに着いた岡本季正シンガポール総領事は91日イタリア領事を通してポルトガルの日本公使から外務省に電報を打ってもらった。それが外務省に届いたのが3日夜だった。その電報は、ロレンソマルケスに到着するまでに720名中6名の死者が出たこと、「印度に於て目下収容中の邦人は二千百名にして本官か親しく収容所を視察せる処に依れは之等邦人はテント生活を為し居るも待遇は土人中にても最下等のものにして随て極度の栄養不足に陥り居り衛生設備又甚た悪く赤痢流行し蔓延しつつあり 目下患者五十名なるか医療行き届かす前途憂慮に堪へす」という内容だった(資料@所収)。

この電報は中立国であったスイス、スウェーデン、スペインのそれぞれの日本公使館にも送られた。これを受けた徳永太郎スイス駐在代理公使は99日付で本省に電報を打ち、「十五日間の航海中に於て七二〇名中死者六名を出すか如きは如何に其の待遇悪きかか窺れ又印度に於ける邦人待遇に対しては義憤を感せさるを得す」としてイギリス政府に「厳重抗議方然るへし」と意見具申するとともに、岡本総領事らのリスボン到着を待って赤十字国際委員会に「厳重なる再調査を依頼」することを本省に伝えた。

これを受けて外務省は914日徳永スイス駐在代理公使に対して、「在印度抑留邦人に対する待遇は極めて悪き為一同甚だしき栄養不良に陥り又赤痢蔓延しつつあるも衛生設備不備にして医療行届かざる状態なる趣の処右事実は交換船シチ・オブパリス号にて僅か十五日間の航海中死者六名を出したる不祥事と共に帝国政府の深く憂慮する所なり  茲に英国政府に対し右に付強く抗議すると共に同政府より印度政府に対し在印抑留邦人の待遇改善方に付至急指令あらんことを要請する次第なり」との趣旨をイギリス政府に申し入れることを指示した。これが最初の日本政府からの抗議であった。

    ちょうどこの時期、8月から9月ころに領事館関係者によってまとめられたのではないかと見られる文書「馬来緬甸印度に於ける邦人抑留状況概要」(日付不明、資料@)がある。

  この中でインドに輸送されるまでの扱いについて「英官憲の取扱振は極めて苛酷にして一般に囚人並又は夫以下の待遇を与へたりと謂ふことを得」と非難し、プラナキラ抑留所についても「寒暑及雨に対する困苦に対して官憲は殆と対策を講し居らさる状態」「(食事は)品質極めて粗悪にして栄養不十分」「医薬の配給充分ならす」「構内一般の清掃装置不完全なるに基く蝿の簇生の為赤痢等流行性病疫発生の場合蔓延極めて迅速にして八月五日現在[プラナキラ出発の前日]罹病者五十名を算したり」などひどさを訴える内容となっている。こうした報告が日本政府の抗議の根拠となったと見られる。

日本政府からの抗議はスイス政府を通じてイギリス政府に伝えられた。抗議を受けたイギリス外務省は105日付でそのことをインド省に伝えた。それに対して29日付でインド省は以下のような内容を外務省に回答した(以下、筆者による要約、FO916/477)。

 

日本人抑留者はデリーの古い城に暫定的に収容しており、男子は床がレンガのテントに、婦女子は城のアーケードに居住していて、男子の宿舎は熱と雨からの保護は適切であり、婦女子にとっても非常に効果的である。ろ過された水とろ過されない水が供給され、排水溝も作られ、トイレは水洗で他のキャンプより良い。病院もあり必要ならば町の病院も使える。

抑留者は年取った者が多く、結核などの慢性病にかかっているものもいるし、赤痢の3件のケースは到着後24時間以内に報告されたものである。また伝染病にかかっている者はひどくなってからしか報告しないので広まったのである。さらに後にモンスーンにより赤痢が増えマラリアも起った。だがこの悪名高い不健康な時期にはインドでの死亡率は1000分の21にのぼり、イギリス人の避難民キャンプやデオリの抑留所でも感染している。

 交換引揚中の死者について、出発時にすでに13人が病気にかかっており、日本政府からの要請により病気や体の弱い者を優先させたからである。

 食糧の配給については、陸軍省が日本人捕虜向けに決めた基準を抑留者にも適用している。ただ抑留者からの要請により、米3オンス、調理油1.25オンス減らして、その代わりに0.5オンスの茶に代えた。ベリベリ(脚気)をふせぐために大麦を加え、肉、魚、生野菜を増やした。アジア人の基準では十分な栄養である。

 221日の国際赤十字のレポートが最近出たが、非常に好意的である。

 スウェーデン総領事は何度もキャンプを訪問しているが、スウェーデン政府に対して日本政府の抗議は非常に誇張されており、キャンプの状態に満足しているので、新たな視察は必要ないと報告している。

    このように何も問題はないというのがインド政庁からの報告を受けたインド省の回答だった。ただこの中で肉や魚、生野菜の配給を増やしたと言っているのは、106日におこなったことであり、日本政府からの抗議があって急いで改善した形跡が見られる(インド政庁内務省よりインド省への手紙、194339日付、FO916/776)。

これと同趣旨の回答が1024日にインド政庁からボンベイのスウェーデン総領事に直接、出されている(資料A)。またその内容はストックホルムの日本代理公使から日本外務省に伝えられている(117日付、資料@)。

抑留所を視察したスイス総領事からもスイス政府に対して「収容者の苦情は至極誇張され居り一般収容情勢は満足なる趣なり」との報告がなされている旨が、スイスの日本公使から外務省に伝えられている(1116日付、資料@)[12]

さて日本政府の抗議を受けて動きが急展開していくが、日本政府はスイス政府を通じて6項目に整理した具体的な抗議をおこなった。この抗議は117日にロンドンのスイス公使館からイギリス外務省に渡された。一方、ボンベイのスウェーデン総領事は1112日に日本政府の6項目の抗議をインド政庁に直接、伝達している。

日本政府の抗議内容の全文を紹介しておこう(日本語の原文を見つけることができなかったので、在英スイス公使館よりイギリス外務省宛の手紙から訳す、FO916/477)。 

  日本政府は少し前にスイス政府を通してイギリス政府に対して、ニューデリーの日本人民間抑留者の待遇改善について要求をおこなった。下記のような事実が、交換船によってインドから引揚げてきた日本人の証言によって明らかになった。

抑留者が住んでいるテントは非常に狭いだけでなく、寒い時期は極端に寒く、暑い時期は耐えられないほど暑い。テント内の温度が華氏120[摂氏約50]までのぼることもまれではない。テントは雨季には水につかり、砂嵐によって破壊されることも珍しくない。インド政庁は、日よけを付けたりテント内にレンガを敷くなどのようなおざなりの方法以上には、自然の力からテントを守る十分な対策を講じてこなかった。インド政庁は随分前に抑留者たちを恒久的な建物に移す約束をしたが、あれこれ言い訳をして約束を実行することを遅らせている。

食糧について、量とカロリーは別として、質が悪くバラエティに欠けている。日本人の好みに必要な調味料が不十分なため、多くの抑留者が食欲をほぼ完全に失い、その結果、疲労困憊している。

台所は換気が悪く調理施設が不十分なため調理は地面でやらなければならない。雨の時は雨漏りのために野外で調理するのと同様になる。

適当な浴室も洗い場もなく、それらの場所を隠すためのコンクリートの壁だけしかない。水は不十分で暑い風呂の施設はない。

トイレは設備が悪く、数も不十分である。またテントから遠く、老人や子どもはトイレを使うことに困難を覚えている。

抑留所の診察室と病院は施設が貧弱で、医薬品は乏しく、患者の扱いは不親切である。

  上記のような状態は抑留者に大きな苦痛を与えている。また衛生上も非常に危険であり、7月後半に抑留者のあいだで赤痢が広がったことはそのせいであることは疑いない。日本政府はイギリス政府とインド政庁に対して、日本人民間抑留者に与えられている不適切な扱いに対して今一度強く抗議をおこない、改善のための適切な措置が直ちに取られることを要求する。特にテントはニューデリーの過酷な気候を鑑み、できるだけ早く恒久的建物に代えられることが望まれる。

 

ところで日本政府からの抗議や抑留者からの不満を見て、一つ問題と見られるのが、アジアの民衆を見下した視線である。たとえば先に紹介した「馬来緬甸印度に於ける邦人抑留状況概要」の中には、「(当初収容したビルマで)食事は英国土民兵の夫れと同様なりき」「(プラナキラで)食事は当初印度兵の給与と同程度の物を配給し」というような言い方で非難する表現が見られる。「土民兵」とはビルマ人やインド人などの兵士を指す言葉であろうが、逆にイギリス側はこうしたアジア人の兵士と同様の食事を与えていることを待遇の正当性を主張する理由にしている(421217日付、イギリス外務省のコメント、資料@)。

これとは違う例だが、戦後、戦犯として刑務所に拘留されていた日本人の不満の一つがアジア人の囚人なみの扱いをされている、つまり白人とは差別されているというものだった[13]。もちろんこれらのアジア人に対する扱いが正当であると言うつもりはないし、イギリスにはアジア人に対する差別があったであろうが、アジア人に対する扱いも含めて自分たちに対する扱いが不当だと抗議するのではなく、東南アジアやインドの人々と同じ扱いをされていることが不当だという考え方には、アジア太平洋戦争時における日本人のアジアに対する姿勢が浮き彫りにされているように見える。

 

W 犠牲になった日本人抑留者

 

ここでイギリス側の資料からプラナキラ抑留所の様子を見ておきたい。

19421231日現在でプラナキラ抑留所に収容されている抑留者のリストが作成されている(FO916/775)。このリストをもとにいくつか見てみたい。

当初の収容者は2689名(男1718名、女725名、子ども246名)で出発し、その後収容された者が246名、抑留所内で生まれた子どもが19名、合計2954名(男1884名、女783名、子ども287名)が収容された。その中で領事館員などで別の場所に移され後に交換船で引揚げた者が11名、交換船での引揚げ者720名、釈放された者1名(女性)、捕虜と認められて捕虜収容所に移された者1名、抑留所内で死亡した者106名であり、それらの人数を差し引いた残りの2115名(1337名、567名、211名)が、1231日時点で抑留されていた人数である。この中には日本政府に名前を通告されることを拒否している者が43名いる。どのような理由なのかはわからない。

なお1927年以降に生まれた者(16歳未満)が「子ども」として扱われている。

彼らが逮捕された場所は、インド84名、セイロン14名、ビルマ116名、シンガポール1901名となっている。このシンガポールにはマレー半島全域が含まれていると見られる。

抑留者は日本人だけではなかった。台湾人182名(男98名、女42名、子ども42名)、朝鮮人7名(男のみ)、中国人10名(男6名、女4名)、マレー人7名(男1名、女3名、子ども3名)、タイ人7名(男6名、女1名)、合わせて213名が含まれている。

これら全員のリスト(英語)が残っているが、氏名、誕生日と生まれた場所、職業、逮捕された日付と場所、近親者の名前と住所が記されている。

さてここで問題は抑留所で死亡した106名のことである。これはプラナキラ抑留所に到着してから42年末までの数字である。この数字には居住地で抑留されてからプラナキラに到着するまでの死亡者は含まれない[14]27日に最初の死者が出るが、死亡者リストから2月の14名の例を紹介すると次のようになる(死亡日、名前、死亡時の年齢・性別、死因の順)。

 

  27  ウエムラ           68歳(男)  虫垂炎

      7 (名前不明)        生後10    死因不明

                                             *双子の赤ん坊の1人

      8  ヒロタ夫人         50()     気管支炎から心不全

      9  チュー・シェンセン 10か月      くる病と赤痢   *中国人

     10  ハヤシ ツル        60歳(女)  下痢

     11  タニハル夫人       60歳(女)  肺炎

     12  キク               60歳(女)  子宮がん

       15  ミヤシロ カツミ    2か月       心不全

       16  チンコー・タザス   2歳半       ジフレリア

       17  コマキ タロウ      46()     肺結核

       18  ハラダ チカ        57()     肺炎

       19  ミネ アキラ        6か月        ジフレリア後の肺炎

       24  シガ イノヤ        65歳(女)  骨がん

       25  コウカ エイキチ    48歳(男)  赤痢と痔

 

  死亡者の死因を見てみると表1のようになる。初期は結核、肺炎、ガンなどそれ以前からかかっていたものが逮捕から移動、抑留生活の中で悪化したのではないかと見られるものが多いが、89月から赤痢による死者が増え、さらにマラリアやベリベリによる死者が出てきている。乾季の酷暑(4月から10月ころまで)のなかで衛生状態の悪さが赤痢となって現れているのだろうし、特にベリベリ(脚気)はビタミンB1不足から起きる病気で食糧に問題があったことがわかる。日本軍に捕えられた連合軍捕虜の多くがマラリアとベリベリで苦しめられたことはよく知られているが、この二つの病気による死亡者が出てきているところに状況が悪化していることを読み取ることができる。

表1   プラナキラに収容された日本人抑留者の死因別死者数 (1942年)
1942年 当月計(人) 赤痢 下痢 結核 肺炎 心不全 ガン 熱射病 ベリベリ マラリア 虫垂炎 チフス その他 不明
2月 14 2 1 1 3 2 2       1   1 1
3月 3                     1 1 1
4月 7 2   2     1           2  
5月 10 1   4 1 1 1       1   1  
6月 10     2   3   2         3  
7月 10 2   3                 5  
8月 7 7                        
9月 20 6     1 3       4   1 4 1
10月 15 1   2 1       5 1     4 1
11月 9 3       1     3 1       1
12月 1               1          
死因別計 106 24 1 14 6 10 4 2 9 6 2 2 21 5
死因別計(参考)   26 9 16 8 12 4 2 10 7 2 2    
(注)死因が複数記されている場合には原則として主なものあるいは先に記されているもので分類した。  死因別計(参考)は副次的な死因を合わせた場合の数字を参考までに記した。
(出典) FO916/775より作成

 

表2      プラナキラに収容された日本人抑留者の年齢別性別死者数  (1942年)
  計(人) 子ども
70歳〜 4 2 2  
60〜 33 13 20  
50〜 26 13 13  
40〜 14 9 5  
30〜 12 10 2  
20〜 8 8 0  
10〜 1     1
1〜9 2     2
1歳未満 6     6
106 55 42 9
(注) 子どもとは16歳未満。子どもは性別がわからないケースがあるので 子ども欄にのみ記している。
(出典) FO916/775所収の死亡者リストより作成

 

死亡者を年齢別に見ると表2のようになっている。最高年齢は77歳、最低は生後10日の赤ん坊である。106名全体の平均年齢は47.9歳であり、中央値は54歳(男50歳、女60歳)である(1歳未満は0歳として計算)。全体として高齢者の死亡者が多いと見てよいだろう。子どもは1歳未満の犠牲者が6名と多いが、それ以上では2歳が2人、14歳が1人にとどまり、乳児を除くと子どもの犠牲は比較的に少ないように見受けられる。

20歳台では男子のみが8名、30歳台では12名中男子が10名を占めている。その理由はイギリス側の資料ではわからないが、「初期の頃に肉体労働をかって出た若い人がバタバタと倒れ」たという証言[15]もあり、そうした事情があったのかもしれない。

この1942年末までの死亡者が多いとみるのかどうかは難しい問題である。

プラナキラに抑留された者は交換船で帰った者も含めると2954名であり、106名はその3.6%にあたる。ただ死者の半数が720名がいなくなってからのものであることを考えると(86日以降の死亡者51名)、8月から12月の死亡率を年間に換算すると5%を超える。

日本軍による連合国民の抑留者は、日本側の資料によると1944年末現在で97000名余りで、戦争期間中の死亡者は8285名とされている[16]。ただこの資料は戦後、日本側が作成したものなので戦犯追及を念頭においてかなり死者を少なく見積もっているようであり、そのまま信用することはできないが、これが3年半の期間の死亡者であることを考えると、プラナキラの死亡者の割合はけっして少なくない。しかも日本軍による抑留者の場合は、戦争が進むにつれて日本側の戦況の悪化にともなって死亡者が増えていくのが普通であるが、プラナキラの場合は抑留の1年目に多くの犠牲を出している。後で述べるように43年以降はイギリスはこれらの日本人抑留者の待遇を改善するので、42年に死亡者が多いという点では日本軍のよるケースと対照的である。

また日本軍の捕虜になった連合軍将兵の死亡率は、東京裁判に提出された資料によると132134名中35756名(27.1%)、最近の捕虜関係団体による調べでは、148711名中42467名(28.5%)となっている[17]。この場合、年次別の死亡者数はわからないが、泰緬鉄道の建設が始まった4212月以降に死者が多数でていることなどを考えると43年以降に死者の多くが出ていると見られる。

もちろん民間抑留者の場合には高齢者や子どもが多かったことから犠牲が出やすいことは十分に想像できるし、プラナキラの場合には、東南アジア以上に過酷な気候のインドに連れて行かれ、イギリス側も十分な対応ができないなかで最初から犠牲が多数でたのだろう。日本軍による抑留者の扱いとかんたんには比較することはできないが、プラナキラでの状況はかなり悪かったとは言えるだろう。

 

X インド政庁の対応

 

  次に日本政府からの6項目にわたる抗議を受けたイギリス側の対応について見ていきたい。

まずプラナキラ抑留所を担当していたインド政庁内務省の説明から見よう。内務省がインド省宛に送った1942125日付の電報がある(FO916/477)。これはさきに紹介した1025日付で内務省が送った電報(インド省から外務省へは1029日付)での反論に次いで出された二回目の反論であり、ここでは日本政府からの6項目の抗議一つ一つに対して反論がおこなわれている。その全文は次のようである。

 

テントは軍の標準のものであり、468のテントに1351名の男の抑留者を収容している。極端な暑さと寒さという訴えは非常に誇張されている。寒さと暑さを防ぐ措置として火鉢と日よけが設備されている。今年はインド東部のイギリス軍もインド全土のインド軍もテント暮らしだった。だから日本人抑留所の女性スタッフやガードもみんなテント暮らしである。ひどい嵐のために2回テントが崩壊したがそのような嵐は恒久的な建物にも毎年ダメージを与えている。宿舎は悩みの種であるので、我々は抑留所を恒久的な建物に移したいと考えているが、建物が他の目的に使用されている。スマトラからのドイツ人をデオリから移動させることになっているデーラダン[中央]抑留所の拡張が建物の欠陥のために移動できず、そのために日本人の移動がこれまでできなかった。

食糧。 軍の補給機関から供給されている配給はインド軍に供給されているものと同じ質のものである。3月から8月までの軍の配給基準は陸軍省の基準とは違っているが、茶が付け加えられ、現金給与が13.5アンナではなく1.5アンナであること以外は抑留者の代表の希望通りである。多くの小規模のキッチン、つまり50名ごとに1つのキッチンは、1つのキッチンが250名をまかなっているたいていのキャンプに比べて、抑留者たちに多様な好みを満たすうえでよりよい施設である。

キッチンは特別に建設され、雨漏りや欠陥は気づき次第、修理されている。たいていの建物ならびに新築の建物はほとんどすべてモンスーンの時期には雨漏りする。

水浴びと洗い場。インド軍に対するものと概して同様である。60個のバスタブが水浴びと洗濯のために提供され、3または4個の蛇口のある洗濯所がいくつかある。水が足りないというのは真っ赤なうそである。ろ過した水の消費量は567月のそれぞれの平均は一人1か月当たり100026901417ガロンでキャンプの通常の割当ての3倍である。さらにろ過していない水は制限がない。

トイレ。90個の水洗便器が提供され、老人と病人はできるだけトイレとキッチンの近くに宿舎を割り当てるようにしている。

病院設備は、すでに報告したように十分であり満足できるものである。

[日本政府の]抗議はキャンプは不衛生だと結論づけているが、ニューデリーの真ん中に大きな不衛生なキャンプをおいてニューデリーの健康を危険にさらすようなことはしないということを日本政府はわかるべきである。

われわれの見解では、抗議は非常に誇張されており、日本による捕虜の非好意的扱いが公にされたことに対するプロパガンダとして見なしうるだろう。

 

テントに収容したのは一時的な措置で恒久的な建物に収容する意思はあったようだが、それが遅れたことについて内務省は別の文書でつぎのように説明している(194339日付、内務省よりインド省へ、筆者による要約、FO916/572)。 

  キャンプはもともと1941年に約1500人の抑留者用に建設された。ところがセイロンや中東、そしてのちには蘭印からの予期せぬ抑留者の到着のため仮のテントに収容したのである。同時に日本との戦争に入り飛行場や他の防衛上の施設の建設のために労働力や資材が強く求められたため、1941年末までと42年初めに認可された追加の宿舎建設が非常に遅れた。実際、19423月に注文した4つの追加棟のうちの最初の1つが完成したのはやっと先月のことだった。同じ困難が内務省が提供しようとした付随する改善の提供を妨げている。

    つまり予想外に多い抑留者と戦争のために労働力や物資が取られたために抑留者のための施設が後回しにされたことを物語っている。

しばしばプラナキラ抑留所を訪れ、日英間の調整をおこなっていたボンベイ駐在のスウェーデン総領事はインド政庁からの回答(先に紹介した125日付内務省の文書とほぼ同じ内容)とともにみずからプラナキラ抑留所を視察してまとめた報告をあわせて本省に送り、その内容が1230日に岡本公使(プラナキラから交換船でロレンソマルケスに着いてから直接、スウェーデンに公使として赴いた)に伝えられた(資料@所収)。ここでのスウェーデン総領事のコメントは次の通りである(外務省による日本語訳より)。 

 本官は視察の結果、日本の抗議の大部分は誇張され居ることを認めたるも本官の意見としては天幕生活には困難あり 当局はプラナキラの一般状況を出来得る限り改善せんとする誠実なる意図を有す 食糧の変化に就ては被収容者の苦情なし 新食糧に付本官に提出せる分は印度政府の承認を得る為取次き置きたるを以て当局にて目下考慮中なるか実際の要求は茶を減しダールの供給を全廃し魚、米、馬鈴薯、砂糖、塩、調理用油並調味料として鰹節及支那醤油の増加を欲するに在り 本官は栄養以外の要求は不当と思考す 被収容者は印度官憲よりの手当増加を希ひ特に要求する所ありたるも本官には其の自国政府よりする手当も之を申出てさる様せられ度しとのことなり 料理場の通風は満足ならす 焜炉及煙突は取毀ち之か作り直しを要求せり 洗濯場は八け所増築さる浴場に付ては本官の注意及被抑留者の要求に依り改造工事進められ居れり 便所は九十個所ありて総て調子よく使用し得るに付苦情成立せす 天幕と便所との距離は六十碼より二百八十碼の位置にある所中央部にある小便所により不便は除かる

患者に不親切なる取扱をなすとのことは女医の信望なきに依るを以て之を収容所病院より転出方本官は要求したるか目下考慮中とのことなり 内務省は本官の改善方に関する浩翰なる諸申出を総て深く且同情的に考慮すへきを約言せり(以下略)

 

  スウェーデン総領事の判断では、テント生活にはかなり問題があり、ほかに細かな点で改善すべき点があるが、全体としてはそれほど大きな問題はなく、日本政府の抗議は「誇張」されているというものだった。

総領事による別の詳細な報告は1211日付でスウェーデン外務省に送られている(資料A所収)。この報告のなかで彼は428月初め、つまり交換される抑留者が出発する際にプラナキラを訪問し、その際に状況を視察し全般的に満足できる状況にあると判断し、また抑留者の委員会から提出された要求や不満はインド当局に伝えていたので、9月に日本政府から抗議があっても、一般的なものだったのですぐにプラナキラを訪問する必要を感じていなかった。しかし6項目の具体的な抗議があったので1122日にデリーに赴いた。そこでのいくつかの改善点は124日付でインド政庁に勧告した。翌日、内務大臣に直接会ってその勧告を渡すとともに数時間にわたって議論し、勧告について注意深くかつ同感をもって検討する約束をえた。

総領事はインドの現在の状況の中で、つまりビルマを失ったことからくるインドの負担の増大、中東から何千人もの捕虜を受入れなければならなかったことなどの困難の中で、「抑留者たちに可能な限り最善の条件を提供しようとする当局の誠実さは疑問の余地はない」と評価している。

報告の最後に抑留者委員会から受け取った手紙の一節が引用されている。 

結論として抑留所長や副官、すべてのその部下たちの親切で友好的な態度に言及するにやぶさかではない。そしてしばしば様々な問題について意見が衝突することがあるが、我々の間の雰囲気はいつも非常に友好的なものである。特に所長が赤ん坊や小さな子どもを非常にかわいがっているおり、所長が検査日に女性のセクションに来たときに、多くの彼を慕う人々が彼の明るい笑顔や言葉を楽しみにしているのは確かである。(以下略)

  全体として抑留所側に好意的なレポートである。

  このスウェーデン総領事からの改善勧告を受け取ったインド政庁の内務省は、インド省への電報の中でその内容を要約しながら、総領事が「日本人抑留者がプラナキラにいる間、彼らの宿命を和らげるために現在の状況のもとで可能なあらゆることをしようというインド当局の誠実な意思」があることを確認したと述べていることを引用し、「総領事の勧告をすべて検討し可能なものはすべて実行するだろう」ということ、たいていは小さな管理上の調整ですむことなどを伝えた。ただ月に20ルピーを支給するという勧告については、食事も宿舎も明りも提供されない、デリーのインド人労働者の賃金は、戦時手当てが付いても16ルピーにすぎないと実施に消極的だった(1212日付、FO916/477)。

 

Y イギリス外務省からの批判とその後

 

インド政庁とその内務省はスウェーデン総領事から好意的なレポートが出され、若干の改善で事態をすますことができると考えていたようである。しかし、イギリス本国の外務省はそうではなかった。
  外務省捕虜局は
125日インド省に次のような手紙を送った(FO916/477)。 

(スウェーデン総領事が幾度かデリーの抑留所を訪ねて状況に満足しているという意見を示しているが)スイス政府とスウェーデン政府を通じた抗議ならびに日本外務省による公式の声明を見ると、スウェーデン総領事が ―まだであれば ―もう一度抑留所を訪問するように依頼することが強く望まれる。日本政府から訴えられている連合国の悪事は日本の手中にあるわれらの人々に対する報復の口実として使われていることは明らかである。これに関連して上海とバンコクに関する、非常に心配させる電報を同封する。インド政庁にもこの報復が知らされ、いかなる欠陥も最善を尽くして修正するよう促し、利益保護国ができるだけ早く日本政府にそのことを報告するようにしてもらえればありがたい。

 

日本軍によって捕らえられている捕虜や抑留者が、これを口実にして報復をうけるのではないかと心配している外務省(捕虜局)は、いかなる欠陥もすみやかに是正するように強くインド省に促した。捕虜局はさらに1230日にはふたたびインド省に手紙を送り、インド政庁の対応を批判した(FO916/477) 

われわれはスウェーデン総領事のコメントを額面以上に高く受取っているように思う。あなたもお気づきのように総領事は「日本人抑留者などの運命を和らげようとする誠実な意思」と言っている。しかしこれは実行したことと同じではない。インド政庁はこの暫定的なキャンプを恒久的な宿舎に移す意思を持っているが、12ヶ月近くもたとうというのにいまだに暫定的なキャンプのままである。

われわれは日本政府の抗議が非常に誇張されていることにはまったく同意するし、スウェーデン総領事も同じ趣旨のことを以前に本国政府に伝えている。しかしにもかかわらず、インド政庁による詳細な説明は全体としてかなり不満足な印象を受ける。テントの宿舎がよりよいものに代えられるまでは、不満が増大し、利益保護国の勧告に答えようとするインドの努力も一時しのぎのもの以上にはなりそうにないことをわれわれは恐れている。

肝要なことは利益保護国と赤十字国際委員会の代表が十分に満足するか、そのレポートの中でそう言うことである。(以下略)

  このように外務省は特に宿舎の問題についてインド政庁の対応の遅れを批判した。その後、432月になって106名のプラナキラでの死亡者を含む名簿がインド省や外務省に伝えられたが、この死亡者のリストはインド省にもショックを引き起こした。

インド省は名簿を外務省に送る際に付けた手紙(226日付、FO916/775)の中で次のように述べている。

 

ニューデリーで死亡した抑留者の106名という数字は多い。私は幾人もがベリベリで死んだだことを知ってショックだ。また赤痢と下痢による死者がたくさんいる。そのことは医療面での問題の表れであるように思える。しかしながら日本人の多くはかなり年を取っていた。

 

ベリベリや赤痢、下痢による死者が多数でていたことは本国ではかなりショックを引き起こした。もちろんイギリス政府は日本政府に対しては、インド側に好意的なスウェーデン総領事のレポートを活用し、そのレポートを速やかに日本政府に伝え、日本政府に報復をやめさせるようにスイス政府に働きかけたり(1221日付、外務省からベルンへ、FO916/477)、食糧配給の基準がイギリス本国の市民と同じであることや(パンを減らして米を増やしている以外は)をはじめ厚遇していることや利益保護国や赤十字国際委員会などが満足を表明していることなどを強調して日本政府を納得させようとした(43111日付、外務省よりベルンへ、FO916/776)。

インド政庁側もいくつかの改善をおこない、たとえば食糧配給は43226日に基準の改定をおこない、前年10月に暫定的に引き揚げていた量を正式の基準として採用とした(表3参照)。つまり野菜、肉魚などの増加、大麦の追加など栄養のバランスを考えた措置であった。

 

表3  食糧配給量の変化(12歳以上1人1日あたり)
  1942.1.14基準 1942.2.21 1942.3.27基準 1943.2.26基準 1943.5.11 1943.8.24
馬鈴薯 2 2 2 2 2 2
生野菜 6 6 6 8 6 8
たまねぎ       2   2
20 20 17 15 17 15
大麦       7   7
ダール/大豆 3 3 1.5 2   2
肉又は魚 2 2 4 6 6 6
果物 3 3 3 3 3 3
調理用油 1 2 0.75 1 0.75 1
砂糖 0.5 0.5 0.5 1 0.5 1
0.5 0.33 1 1 1 1
    0.5 0.25 0.5 0.25
3 2 3 3 3 3
(注)単位はオンス(1オンスは約28.35グラム)。薪のみポンド(1ポンドは453.6グラム)
     基準とあるのはインド政庁が定めた配給基準を示す。日付のみの欄は赤十字国際委員会の報告の数字で視察日を示す。たまねぎと大麦は43.2.26の基準で初めて記載が出てくる。
(出典) 資料@Aより作成

1943112日赤十字国際委員会の代表がプラナキラ抑留所を訪問した。その後、国際委員会の在インド代表であるリクリRikliからジュネーブの本部に送られた手紙(43328日付)のコピーが非公式にイギリス政府にも伝えられた(FO916/776)

リクリはこの中でプラナキラは仮の抑留所だったので多くの欠陥や不足があったとし、テントに住むことは冬は寒く夏は暑く快適ではなかったと述べたうえで、インド政庁はデオリに宿舎を建設したが、移動させようとした直前の427月初めにいくつかの宿舎が火事で破壊されてしまったので、日本人抑留者たちは仮の宿舎(テント)に留まらざるをえなくなったと説明し、しかし当局は改善のための措置を取ったと評価した。

食事については量的には問題がなかったとし、食事に不平が生まれた理由として、「交換で引揚げた者たちが日本政府が言っている不満を訴えた者たちで、彼らはヨーロッパ並の生活水準であった銀行経営者や幹部ビジネスマン、領事などの高い地位の者たちが主であった。だから抑留所の状況が時がたつにつれて改善されていったことは関係なしに、抑留所の状況を不満に思ったのは当然であったろう。一方、抑留所に残されている者たちはたいていは漁師やセールスマン、零細商店主や労働者たちであり、はるかに低い生活水準に慣れており、抑留所のようによい食事を定期的に得られるような生活をしたことがない者も多くいるに違いない」と抑留者間の生活水準や文化の差が大きかったことを理由にあげている。そして「全体として日本人抑留者はよく扱われよい食事を与えられていた」と評価している。

リクリの文書からは、インドの日本人の扱いは問題があったにせよ、インド政庁は努力をおこない適切な対応を取っていたのであり、日本政府が言うような不満は、元々高い生活水準を持っていた者たちの、いわばわがままにすぎないというように考えていたことがわかる。この点ではスウェーデン総領事も同じような見方をしていた。

  さてインド政庁によってなされた細かな改善措置も報告されているが、ここでは省略する。一番大きな問題と認識されていた宿舎の問題はどうなったのだろうか。

43313日デリーの南東にあるデオリ抑留所への移動が始まった。この日、第1陣の60名が出発し翌日デオリに到着した。さらに15日に第2630名が、17日には婦女子を含む約700名が、411日には残り800名が出発、翌12日までに移動が完了した(峰171-175頁)。

プラナキラの抑留所は434月後半に閉鎖された。デオリ抑留所にいたドイツ、イタリアその他のヨーロッパ人抑留者はデーラダンの中央抑留所に移動し、それと交代に日本人がデオリに移ったのである。デオリはアジア人だけの抑留所であり、43年6月29日現在、2391名(うち子ども175名)となっている。なおこの時点でインドに抑留されている民間人は日本人以外もすべて合わせて5716名となっている。他に約500名のイタリア人がおり彼らは現在捕虜収容所にいるがまもなく民間抑留所に移されることになっているので合わせて約6200名余りということになる(194383日付、インド政庁内務省よりインド省への報告、FO916/572)。

その後、194311月、ボンベイのスウェーデン総領事館の書記官がデオリ抑留所を視察しその報告がなされている(1125日付、資料A)。

書記官エクストリームは当初は週末のみ視察する予定だったが、抑留所長から抑留所のすべての施設やさまざまな訴えについて徹底して調査してほしいという依頼をうけたために予定を3日間延ばして視察をおこなった。この報告のなかで「インド政庁はデオリを抑留所のモデルにするために相当の金を使ってきたし、まだ使おうとしている。その努力が成功していることは、最近イギリスから到着した抑留者たちがデオリはイギリスでの最もよい抑留所に匹敵すると言っていることによって十分に証明されている」と高く評価している。

この報告では、宿舎、食糧、食堂、支給金、キッチン、浴場と洗濯場、トイレ、病院、娯楽、教育、その他についてくわしく視察報告を記している。

抑留所内の病院で治療したケースは、たとえば10月の最後の週ではマラリア68名、インフルエンザ2名、下痢2名、精神疾患1名、消化不良2名であった。10月の治療の統計から「10月の1週間ごとの平均は2100名の抑留者中77名、つまり約3.5%ということである。この驚くべき低い数字は抑留所における優良な状態と抑留者の健康と安寧の証明として十分である。この点について抑留所長は次のように指摘した。プラナキラの月例報告では抑留者たちがデリーに到着した時には90%以上がマラリアにかかっていたが、彼らがデオリに来たときにはこの数字はいくらか下がっており、さらに現在ではほとんど無視できるほど大きく減少している。このことはデオリがインドの中で非常に健康によい気候であるという所長の言葉を裏付けている」とデオリでの状況が非常に改善されていることを認めている。

この書記官の報告をスウェーデン政府から伝えられた岡本公使は次のような電報を東京の外務省に打電している(4499日付、資料A所収)。 

 デオリ抑留所は印度政府が之を模範的抑留所となさんか為多額の費用と努力を払ひ来れる処其の効果は施設取扱振り等に現はれ好印象を与へたり 宿舎は三翼より成り何れも広大強固なる煉瓦セメント造にして各宿舎毎に小庭園、茶園を有し料理場浴場便所等の設備整ひ満足し居れり 食糧に関しては印度当局に於ては抑留者側の希望に副ふ様努力し居り 抑留者全部満足にして栄養不足に依る虚弱者無し 病院の施設も完備し抑留所の優秀なる状況と相俟ち抑留者の健康状態良好にして被抑留者及抑留当局間の関係も極て良好なり

  赤十字国際委員会によるデオリ抑留所の訪問は確認できただけで19435(抑留者2101)8(2092)12月(2103名)、443月(2100名)、8月(2010名)、452月(2103名)となされている(資料@A、FO916/776,1103)。またスウェーデン領事館からも何回か訪問がおこなわれている。全体として良好な状態にあることが報告されている。

19452月の視察報告(資料A)では「建物は良い状態にあり、宿舎は清潔で風通しが良く広々としている」、食糧は「豊富で質も良い」など非常に良好な状況が報告されている。

なおこの報告によると日本人抑留者2103名のほかにビルマ戦線で日本軍から取り残された元「慰安婦」(原文は ‘ex confort Bn.’)であった朝鮮人22名が収容されている。彼女たちは日本人とは隔離されて収容されていた。ただ残念ながら彼女たちのくわしい記述はない。抑留者たちの記録によると19441025日にビルマから女性22名が収容され、日本人たちとは別にテントをはって収容され、彼女らは「いわゆる戦線婦人」であった朝鮮人と噂されていたという(峰184頁)。

元抑留者の記録によるとデオリに移ってからの新たな入所者は439月にロンドンとアフリカからの8名だけである(峰183頁)。また別の抑留者の日記によると抑留所での死亡者は、1942年が115名だが、4333名(うちデオリに移ってからは28名)、4429名、45年(5月まで)5名となっている(峰210頁)。抑留所内では畑を耕して様々な野菜を供給できたし、郊外散歩が許されるようになり、学校も開かれている。死亡者や収容人数の推移、さらに抑留者の体験記からもデオリに移ってからは状況が改善されたことがわかる[18]

その後、日本政府からの抗議もなくなった。第2次交換船を出すことについての交渉がおこなわれたが、結局実現しないまま終戦を迎えることになった。

 

おわりに

 

このデオリ抑留所は戦後、悲劇の場所となる。日本の敗戦を認めない「勝ち組」と認める「負け組」にわかれ、19462月勝ち組による負け組リーダーに対する暴行事件が起き、それをきっかけに勝ち組による「騒擾」事件がおきた。その「騒擾」に対する鎮圧によって計19名が死亡するという事件が起きた。この事件については事件後に調査に入ったスウェーデン領事館員による報告が日本政府にも伝えられているがここではくわしく触れる余裕がない[19]

抑留された人々は465月にようやくインドを出発し、6月末に日本に戻ることができた。ほぼ4年半にわたる抑留生活だったことになる。

本稿で紹介した資料は日英両政府機関ならびに赤十字国際委員会とスウェ―デン総領事館という中立機関のものである。当然、抑留されていた人々のとらえ方とはずいぶん異なっていることは言うまでもない。しかし一方で抑留者からは見えなかった部分が明らかになったであろう。

最初に抑留されたプラナキラ抑留所が、急いで作られた暫定的なものであり、宿舎に特に問題があり、過酷な気候に適応できなかった。また食糧も基準が作られていたが質に問題があったと見られる。たとえばダールという豆が配給されたが日本人には食べられず、野菜といっても初期はタマネギばかりだったということもあったようである。赤痢がたくさん出たということは衛生環境にも問題があったということだろう。抑留者には老人や子どもが多かったこともこうした状況への適応力が弱く、犠牲を生み出すことになった。

ただ抑留所のガードやスタッフによる暴行など直接の虐待は、抑留者の記録を見てもない。その点では日本軍のスタッフとは違っていた。

第2次世界大戦においてインドは人的にも物的にもイギリスに多大の貢献をさせられた。特に対日戦が始まるとその負担は一層重くなり、敵国民である抑留者への手当てが後回しにされたことがプラナキラの事態を悪化させたと言えるだろう。インド政庁はそうした事態をやむをえないこととして弁明しようとしたのだが、しかしイギリス本国の外務省さらにインド省はインド政庁のそうしたやり方を認めなかった。これは日本軍に抑留されている連合国の捕虜や民間人が報復されるのではないかと恐れたためであるが、日本人抑留者をできるだけ厚遇することによって報復をさけようとした。そのことによって抑留者の待遇は改善されていった。もちろんプラナキラでの扱いについてイギリス側の責任は免れることはできないし、その点では批判されるべきであるが、しかし日本軍・日本政府とイギリス政府の対応には大きな違いがあったと言うべきであろう。

第2次交換がおこなわれなかった理由ははっきりしないが、日本政府からみれば、軍政に役立つような人物は第1次交換船でもどってきたので、それ以上の交換に意欲を持たなかったということがあるかもしれない。そうであるとすれば残された人々は一種の棄民であったといえるかもしれない。国家が外交官や商社員、銀行員など国家的な利益にかかわる者たちには関心を示すが、そうではない一般の人々の保護は後回しにされるという国家の論理の表れであろう。

抑留された外交官や商社員などの場合、仕事で海外勤務をしていた際に戦争が始まって抑留されたケースが多いだろうが、そうではない人々、最後まで残された人々や抑留所で死亡した高齢者の場合は移民によって東南アジアに住み着いていた人たちが多かったと見られる。彼らは生活の基盤をすべて奪われ、戦後、日本に送還されてきた。そのことがこの問題が日本でもほとんど忘れ去られた理由の一つだったのではないだろうか。

このインドに抑留された日本人抑留者の問題は、日本人の中でも弱い立場におかれた人々が戦争遂行の中で犠牲にされ、忘れ去られていったということを示しているとともに、自国の国民を保護しようとする観点からではあるが、敵国の捕虜や抑留者を人道的に扱おうとしたイギリスとそうではなかった日本との違いをも浮き彫りにしている。

 


[注] 

[1]  内海愛子「加害と被害―民間人の抑留をめぐって」(歴史学研究会編『講座世界史8 戦争と民衆』東京大学出版会、1996年)、ネル・ファン・デ・グラーフ(内海愛子解説)『ジャワで抑留されたオランダ人女性の記録』梨の木舎、1996年、内海愛子、H.L.B.マヒュー&M.ファン・ヌフェレン『ジャワ・オランダ人少年抑留所』梨の木舎、1997年、など。

[2]  Bernice Archer, “ ‘A Low-Key Affair’: Memories of Civilian Internment in the Far East, 1942-1945” , in Martin Evans & Ken Lunn(ed.), War and Memory in the Twentieth Century, Oxford: Berg, 1997、参照。

[3]  内海愛子前掲論文190頁。「日本人」という場合、国籍が日本国籍である者を意味するのか、エスニック・グループを指すのか(この場合は国籍が日本でない者も含む)、あいまいな概念である。この56万人という数字は後者、すなわち外国籍を取得した者も含んでいる。本稿では、資料上、その区別がはっきりしないものが多いので、国籍概念とエスニック概念を含む漠然と広い概念として「日本人」と表記しておく。なお外国籍を取得した者のみを示す場合には「日系人」と表記する。

[4]  バーンスタイン委員会報告書(読売新聞外報部編訳)『拒否された個人の正義』三省堂、1983年、岡部一明『日系アメリカ人強制収容から戦後補償へ』岩波ブックレット、1991年、など参照。

[5]  朝日ソノラマ、1995年。同書からの引用の場合は、本文中に「峰---頁」とのみ記す。

[6]  水島司『アジア読本 マレーシア』河出書房新社、1993年、所収。この方は、筆者が本稿で紹介した資料を見つけてから、共同通信を通じて連絡を取ろうとしたが、残念ながら亡くなられてしまっていた。

  ところでインドでの抑留者のことはすでに戦争中から知られていた。19428月の交換船で帰国した同盟通信社シンガポール支局長だった飼手誉四は「印度抑留戦記」と題する体験記を『同盟グラフ』1943年新年号、に書いている。捕虜になった日本兵のことは日本政府は国民には知らせなかったが、民間抑留者の場合は秘密にしていたわけではなかったようである。

[7]  イギリス国立公文書館のFO916シリーズ(第2次世界大戦中の捕虜と民間抑留者に関する外務省領事部Consular Department資料)にいくつか関連する資料が含まれている(以下、FO916/477のように本文中にファイルナンバーを記す)。日本の外務省外交資料館には、「大東亜戦争関係一件 交戦国間敵国人及俘虜取扱振関係」の一連の資料の中の「在敵国本邦人関係  在英(含属領)本邦人関係」(3冊、以下資料@と略記)、「一般及諸問題  在敵国本邦人収容所視察報告 在英ノ部」(6冊、資料A)、ならびに「大東亜戦争関係一件 交戦国外交官領事官其の他交換関係  日英交換船関係(6冊、資料B)などが所蔵されている。

伊藤範子氏より、抑留者であった故高井義昌氏(伊藤氏の尊父)の日記をご提供いただいた。なお高井氏は1943年末に召集されて戦死されており、19428月の交換船で引揚げてきてからそれまでに書きためたメモを清書したものと見られる。この日記の一部は『帝塚山論集』第72号(19913月)より第78号(19933月)まで「或る戦死者の日記」と題して掲載されている(以下、「高井日記」)。また戦争中にマレー半島にいて、交換で引揚げてきた元抑留者と一緒に勤務していた佐々木博氏からも氏の体験記『南十字星の下で』(私家版、1996年)を提供していただいた。両氏のご厚意に記して感謝したい。

イギリス公文書館のこれらの資料の概要については、共同通信配信記事(『神戸新聞』など地方紙各紙199682日付)を参照していただきたい。

資料の引用にあたって、カタカナはひらがなに、旧字体は新字体に直した。引用中の□は判読不明の個所、[  ]内は筆者による注意書きである。

なお「戦時下の民間抑留者―その相互比較」と題して、内海愛子氏と共に、日本側とイギリス側のそれぞれの民間抑留者の扱いについて比較検討した報告の記録が、『季刊戦争責任研究』第15号(19973月)に掲載されている。本稿はそこで話した内容をさらに発展させたものである。

ところでインドに抑留された日本人についてはインド省の資料の中に重要な資料が多数含まれていると考えられる。おそらくインド省の資料があれば、インド政庁の内務省やプラナキラとデオリの抑留所の原資料がある可能性があり、本稿で明らかにしたよりもはるかに詳しい実態が明らかにできるだろう。筆者はロンドンのインド省図書館で関連する資料を探したが、残念ながら見つけることができなかった。関連する資料についてご存知の方はご教示いただければ幸いである。

[8]  篠崎護『シンガポール占領秘録』原書房、1976年、第1章、参照。

[9]  ジュネーブ条約や赤十字国際委員会に関しては、油井大三郎・小菅信子『連合国捕虜虐待と戦後責任』岩波ブックレット、1993年、内海愛子「戦時下の外国人の人権」、小菅信子「捕虜問題の基礎的検討」(共に『季刊戦争責任研究』第3号、1994年所収)、小菅信子「太平洋戦争下日本軍による捕虜虐待の史的背景に関する一考察―日本における赤十字思想の展開と凋落」『上智史学』第37号、1992年、などを参照。

[10]  シンガポール総領事であった岡本季正のこと。なお総領事をはじめ領事館関係者はプラナキラではなく別に抑留されていた。

[11]  防衛庁防衛研究所図書館所蔵。

[12]  スイスの総領事がプラナキラを訪問したということは他の資料では確認できなかった。これはスウェーデンの間違いの可能性もあるが、とりあえず紹介しておく。

[13]  拙著『裁かれた戦争犯罪―イギリスの対日戦犯裁判』岩波書店、1998年、162167頁、参照。

[14]  峰氏によると到着までの死亡者は4名、プラナキラ抑留中の死亡者は117名(140頁)となっている。後者の数字は194334月にデオリの抑留所に移動するまでの期間の数字であるので、イギリス側資料の106名という数字はほぼ正確であると見てよいだろう。

[15]  水島前掲書272頁。峰139頁も参照。

[16]  茶園義男編『俘虜情報局・俘虜取扱の記録』不二出版、1992年、268245頁。

[17]  油井大三郎・小菅信子前掲書、9頁。

[18]  デオリ抑留所の状況について、赤十字国際委員会が1943511日と12日の二日間おこなった視察報告を本稿末尾に資料として紹介しておくので参照していただきたい。

[19]  この報告は外交資料館に所蔵されており、その内容は、『毎日新聞』1976531日、に紹介されている。イギリスではこれに関連する資料を見つけられなかったが、インド省資料の中にこれについての詳しい資料が含まれているはずである。

                      1998325日稿)

 

 

[資料]

赤十字国際委員会によるデオリ抑留所視察報告(19435月視察)

 

  デオリ、アジミール州日本人収容所

        訪問者  エー・デ・スピンドラー[M.A. de Spindler]

        訪問日   1943511日及12

 

収容所の名称    Japanese Internment Camp, Deoli / Ajmer

郵便宛名        c/o General Post Office, Bombay Section Prisoners of War

収容所の収容力 (全バラックが宿舎として使用せられたる場合)

       1     792
      
2     711
      
3     896
      
4     960
       
病院       不詳 

1943512日に於ける収容人員

       1舎(家族専用)
          
男子   410
          
女子   237
          
子供    53
           
    700

       2舎(家族専用)
          
男子   129
          
女子   343
          
子供   125
           
    597

       3舎(収容者無し)

       4舎(男子専用)
           
男子   804
           
    804

    収容全員数
          
男子1343   女子  580   子供  178    合計  2101

  民種別
       
日本人       1889
       
台湾人        184
       
支那人         10
       
泰国人          7
       
マライ人        5
       
朝鮮人          5
       
ロシア人(女)  1
        
合計        2101

舎長

       第1舎   上野 謙吾  (14937)
          第2舎   柴川 彌會吉(70255)
          第4舎   種村 鶴壽  (69851) 

概況

収容所は戦争地域外にあり。
 デオリは海抜1106ft330m)に位し(元抑留所のデリーは海抜757ftなり)丘陵の散在する平地地帯にあり。周囲は一部耕され居り青々としたる耕地を一瞥すれば其の間に潅木点在し特にモンスーン前後は爽快なり 気候は冬は良しきも(デリーよりも寒し)4月、5月、6月は頗る暑き由なり。(夜はデリー及ラホーレよりも涼しき由)マラリヤはモンスーン後は少なき由。収容所は頗る辺鄙にして最寄の鉄道両停留場まで夫々50マイル及70マイルあり。
   抑留者にして戦争地域内に於て労働し居るものなし。
   日本人抑留者は3舎に収容す。第1舎は1名の補助者(女)により監督せられ子供無き家族又は幼児2名迄を有する家族を収容す。第2舎は1名の婦人により監督せられ、子供2名以上又は多数の一族を有する大家族を収容す。独身の婦人も第2舎の別棟バラックに収容す。

第4舎には男子のみあり。男子にして家族中に例へば成年の娘を有する者は第1舎の別棟バラックを宿舎とする事を得。
  右各舎は広大なる平地上にありてバルブドワイヤーの二重の櫓[]を繞らせり。現在迄収容者はその宿舎外に於てはバルブドワイヤーを繞らせる運動場に於てのみ昼間を限りて会合し得る処収容所官憲の言に依れば右は取締上の必要に基くものなる由。

バラックは最初建設せられたる時□甚た不完全なりしが現在は改築せられ屋根はモンスーン大雨にも洩らさる様修繕せられたり。バラックの様式は良く暑き気候を考慮して建てられ屋根高く、両側の壁には上部に於て新鮮なる空気を入るる為窓を開けあり。

屋根付ベランダはバラックの両側にあり。収容者は昼間之を使用することを得バラックの屋根は煉瓦の角桂2列にて支へられ両列の間隔は6米なり。又桂間に3米のスペースあり。2本の柱の間のスペースは泥煉瓦を詰めセメントにて固められ、柱と共に□壁を形成す。家族専用宿舎に於ては柱一対の間に壁を造り横2米半、縦6米の小室を造れり。之等の各室は子供無き夫婦又は子供1名のみを有する夫婦に与へらる。多数の子供を有する家族は2室又は2室以上を其の間の壁を取外して部屋とせり。

12才以上の収容者はチャルバイ(寝台)を給せられたるか政府より薄き敷布団を給せられたるは彼等の半数のみにして他の者は自身の敷布団を使用す。

彼等の中一部は掛布団及蚊帳をも給せられたり。規則に依れば12才以下児童は2人に付寝台1個を給せらるることとなり居れるか各舎の指揮者(第2舎指揮者は英国婦人なり)は5才以上の児童は総て寝台を給せらるる様努力し居り既に一部の為成功せり。依って5才以下の幼児のみが他の1名と共にその寝台を分つこととなるべし、5才以下の1人児はその両親の何れかと臥するものと察せらる。

バラックには椅子も卓子も戸棚もなし。収容者は其の寝台の上に作り付けたる棚にその私用品を置くことを得。夜間は食堂及休息室を含むバラック全体に石油ランプを点す。50名乃至58名に対しランプ3個の割なり。

消防隊組織せられ砂及水バケツの他ポンプも備付けあり 命令は英語を解する各舎長に対し英語を以て与へらる。右は収容者自身に於て日本語又は他の言語に翻訳す。

 

衛生施設

50名に対し便所1あり。之に対し何等不平を聞かず。便器は掃除夫(各便所に付1名)により掃除せられ、便所の裏に置かれたる蓋付大壷に空けらる。而して右は毎日1回此処を通過する運搬自動車にて運ひ去らる。

収容者は小室にて入浴する事を得。然し乍ら同室には水道栓もシャワーも無きを以て彼等は湯及水をバケツにて運ばざるべからず。

抑留者は給水の不充分なる事を訴へ居れるが土木局技師の与へたる資料により計算する時は各収容者の使用水量は収容所本部及び歩哨を含み1日平均1人に付き45ガロンなるを以て右は頗る多量にして水不足に対する不平に一致せず。1145ガロンの水量は24時間中給水せられ、シャワー及び風呂に使用せらるるのみならず公衆用及一部小工業にも使用せらるる□洲都市の平均量としても頗る多量にして他の収容所にはその例を見ず。右数字は間違か又はポンプが推定量を汲み上げさるかに依るものならん。

 

食事及配給量

12回の食事あり。
   1人の1日配給量左の如し
   [1オンスは約28.35グラム、1ポンド=16オンスは約453.6グラム]

                                           普通配給量       病人配給量

   馬鈴薯                                2オンス         ―― オンス
       野菜(新鮮なるもの)                               
                                              17                       ――
       大麦                                  ――                    8
       大豆(又はダール)       1.5                       ――
                                                                         
       魚(新鮮なるもの)    (備考)                   4(12回)
      果物                                                             ――
       食用油                              4分の3                  ――
       砂糖                                  2分の1                   ――
                                                                         ――
                                             2分の1                   ――
       薪木                               3ポンド              1.5ポンド

    右の外食料補給額1アンナ半  [16アンナ=1ルピー]

       備考
              魚は求むることを得、肉6オンスの代りに魚4オンス、肉2オンスを給す

       備考
              魚は11回の代りに2回給せらるることを得

                           

配給量は日本人の為特に定められたるものにして今日迄の必要と経験に基き上記の表の通り定められたるものなり。依て右は印度軍又は英国軍の配給量とは比較し能はさるものなり。

抑留者の生活様式は非常に差違ありたる為多少とも欧州的標準にて生活したる者は亜細亜的趣味乃至必要により好く合致する様定められたる食餌を嫌ふ者多数あるは明かなり。然し乍ら大多数の漁夫其他漁夫と同階級に属する労働者及ひ小商人(抑留者の半数を占む)等は充分合理的に食物を給せられ居れり。

  11人1アンナ半の食料補給額は食料品が一般に価格騰貴せることを考慮すれは少きに過ぐべし。例へばパンの如き普通配給量中には含まれ居らさる処1ポンド2アンナ半より5アンナに騰貴し居れり。

  炊事は左の通り組織せらる。

約百名の収容者は1名の本職料理人及順番に1日中之を補助する6名の炊事人(男子及女子)の下に炊事班を組織す。台所道具は軍隊の規定に基き備付けらる。抑留者は自身にて台所用具を購入しデーリーより持参せるものの如く右は第4舎には必要以上あり。第1舎及び第2舎にては不足し居れり。右を平等に分配せは可なるべしとの印象を得たり。

抑留者の言によれば食糧欠乏の為特別の料理を作ることは不可能なりとの事なるが吾人の得たる印象に依れば右は寧ろ炊事班の内部的問題なるべく炊事班はそれ自体の考へにて料理を作らず各人の希望を聞くべきなり。

上記の通り多数の抑留者は適当の食物を得ること能はざることを訴へ居れるが収容所当局としては日本人を欧州的又は半欧州的様式の生活をなしたる者と亜細亜的様式の生活をなしたる者とを区別する事は殆と不可能なり。如何なる食事を作るべきやに就ての論議及び嫉妬は際限なく到底満足なる解決を与ふる事能はす現在の方法が最良なるべし。

地下室が大麦にて充満し居る事実は食糧は実際上不足し居らさる事を示すものにして収容者は他の食物を充分得らるる事を等閑に付し居れり。

尚抑留者にして普通の食事を摂る事能はさる者は医師の処方せる特別食餌を受くることを得。

  左記病人に対する特別食餌の一例なり

                       8オンス
      
ダール            3オンス
      
牛乳               2ポンド
      
砂糖               2オンス
      
                    
      
玉葱                
      
ギー                
      
                  1/6
      
バター            
      
パン              1ポンド

 衛生及健康状態

 病院は3部に分かたる。
  婦人及小児部
2  
男子部
3  
隔離室

 病院の人員左の通り
1
行政部付医官(印度人)
2
外科医長(避難独逸人)
3
日本人助医

  婦人部には付属看護婦あるも一二名[12名か、1ないし2名か?]を除き他は無資格者なり。男子部にも助手あり之又無資格者なり。
  右の外各舎には日本人医師あり、応急手当所を設く。外科医長の言に依れば病院は普通の手当及手術に必要なる診療器具を充分備へ居り。薬品は時々不足するものもあれど、現在まで之を入手する事常に可能なりき。
   此の外病院には3名の日本人歯科医あり。
 
外科医長は12回各部を回診す。

 

  1943510日現在の日本人入院患者数左の通

     マラリヤ(デオリ着以前に感染せる者)   39
    
下痢                                   7
    
診断未了の者(1943510日入院)    4
    
                                        2
    
敗血症軽症                        2
    
脚気                                    4
    
盲腸炎                                1
    
胃潰瘍                                1
    
口内炎                                1
    
気管支炎                            2
    
リウマチ性関節炎            1
    
疱瘡病                                1
    
胆嚢炎                                1
    
流産                                    1
    
憔悴                                    1
    
佝僂[くる]                     1
    
肺結核                                8
    
癩病                                    1
                 
合計                      80

                          [上記の数字の合計は78だが原文のまま]

  日本人抑留者中本所到着後510日までに死亡せるは58才及64才の2名にして動脈硬化症卒中に因る。外科医長は日本人医師の仕事は時々信用し□得ざるものあるを訴へ居れり。

 

衣服及酒保

12才以上の各抑留者は月額4ルピーの手当支給せられ、日常必需品例へば石鹸剃刀の刃等を購入し又衣服及靴の修繕に充つ。抑留者は年2回衣服購入用として25ルピーの手当を支給せらる。3才以上12才迄の子供は半年に18ルピー、3才迄の幼児は半年に12ルピーを支給せらる。物価騰貴せる為右金額は充分ならずとは云へ抑留者の大部分は抑留前多額の買物をなす習慣を有せさりし者なり。

多数の抑留者は湯呑、皿、及食事用具並に毛布及蚊帳を所有し居れるか其の他の者は持ち物全部を剥奪せられて収容所に到着せる為上記の品物は月手当又は私金を以て購入せさるべかりし次第なり。

マライ半島、ビルマ及新嘉坡より来れる抑留者は印度向け出発前着替を含む身回品を没収せられ其の際受取を与へられざりしことを訴へ居れり。
 
之に反し印度抑留者は身回り品を所持せり。
 右の如き申出の審査は不可能ならさる迄も困難なり之が為には徹底的取調を必要とす。

各舎に酒保あり資金を有する者は外国製品を除き市場に販売せらるる凡ゆる物品を購入し得へし価格は市場より五分高なるがこの差額を集めて収容所長は収容者の一般的福利に使用す。

 

衣類の洗濯

各舎は洗濯場を有す。右は水道栓を取付け傾斜を付けたるセメントの洗ひ場なり。然るに右洗濯場は未だ屋根なき為洗濯は早朝終了し太陽の直射烈しき日中は避けざるべからず。石鹸は4ルピーの各月手当にて購入す。

 

私金

私金を有する者は毎月80ルピーまで受取る事を得。但し、日本諸銀行に預金を有せし者は之等預金は没収せられ且敵国財産管理人の管理下に置かれたるを以て其の引出は許可せられず。

 

日課

127時及1830分に点呼あり。宿舎は午前8時以前に掃除をなし各人はバラックの点検に準備を整へ居るを要す。何人も労働を強制せられ居らず。但し抑留者が舎長により宛がはれたる収容所内の日常の仕事は之を行ふ。尚各人は自由に何等かの職を得ることを得。

抑留者中或る者は靴修繕を引受け又或る者は衣類を製作し又修繕し居れり。抑留所には1又は2個所に大工の仕事場あり。但し材料及道具は欠乏し居れり。理髪屋は各所にあり。

一般的に言へば抑留者の大部分は大して仕事なきを以て、家内工業を始むれば大なる利益あるべし。(本収容所を最初に訪問したる在ジュネーブYMCA代表ベル氏は斯る目的の為多額の基金を有するを以て、他の収容所と等しく本収容所に於ても、何等かの手工業をなさしむる為必要なる材料と道具を入手し得べし)。

尚又、収容所当局が収容者の一部をして菜園なりとも作らしむることに決定する様期待す。以前に本収容所に在りたる独逸人の為したるこの発案は容易に之を継続し得べし。当局は耕地に必要なる種子及用具を提供すべし。

 

スポーツ及余暇、児童の教育

  各種スポーツを行ふ為充分の地面あり。
    各舎はテニス・コート、バドミントン・コート及フットボールグランドを有す。

収容者が余暇に読書し又書き物をなす為にバラックあり。第2舎は舞台(抑留独逸人の残したるもの)及学校各1を有す。
    学校は8級に別る。

                          男子          女子
       
1年級                21           17
       
2年級                11            2
       
3年級                 6            2
       
4年級                 3            4
       
5年級                 4            1
       
6年級                 4            4
       
7年級                            2
        
8
年級                 4           
            
合計              53            32

   幼稚園
         幼児40

        即ち児童は合計125名あり

   教師
       
1  女教師3
       
2  男教師7
           
合計     10

水浴及水泳

12回各舎は50名の収容者を1名の看視人付にて付近の小さき湖の岸辺に送り3時間水浴又は遊戯せしむ。収容者の振舞良ければこの遊歩は延長せらるべし。若し逃走を企つる者なき場合はより多数の収容者に対し許可を与へ各人かバルブドワイヤーの□外により屡々出づる機会を得らるる様せらるべし。

デリーの図書□より各舎に対し約400冊の書籍か配布せられたるか其の多数は英書なり。日本語の書籍特に教科書がジュネーブを経て送付せらるるならば収容者は大いに感謝すべし。読み書きの出来さる者多数あり。壮年者に対する授業は頗る有益なるべく生徒となり又は教師となり得るもの多数あり この点に関してもYMCAの代表は英書を提供し援助を与へ得べし。収容所は多数の音盤を有し時々音楽会催さる。

  映画無く又収容者はラヂオ聴取を許可せられ居らず。

 

信仰

  収容所に於ては凡ゆる宗派の信者ある処大多数は仏教徒なり。
    各宗派は僧侶又は精神的指導者を有し、自由にその儀式を行ふことを得。日本人の習慣に依り死亡者は火葬に付かられ遺骨は日本へ送付の為木箱に密封せらる。

 

通信

収容者に対しその書信はPrisoners of Wars Serviceと記載し、日本の名宛人に直接発送する様指導令与へられ書信は露西亜経由日本軍の手中にある俘虜宛英国の俘虜郵便に託し極東へ直送せられたる旨確信ありたるも右俘虜郵便は如何になりたるや事実何人も承知せず。収容所内に於ては未だその書信が日本又は支那に於ける名宛先に到着したることを証する通信を受けたるものなし。

収容者は本問題を頻りに心配し本代表経由書信の発送方を数回要求せり。当局は厳重之を拒絶したるが極東に於ける郵便の行方に付ては何も知らざりき。

本代表の知り得たる処に依れば収容者は未だ極東よりは小包も書信も受領し居らず。只ジュネーブより電報又は書信問合せはありたり。約1週間前ジュネーブより司令部を通じ最初の通信約百通到着せるか目下同部にて検閲中なり。この新しき検閲の方法は以前よりも迅速に行はるることを期待す。以前は書信は国内のものと雖もボンベイの検閲局に送付せられ名宛人に到着する迄には2ヶ月或はそれ以上を要せり。

 

秩序

収容者中多数のグループ特に漁夫は無秩序にして他の収容者との連帯観念もなき様見受けられたり。収容所長はデリー前収容所長と同様所内の秩序を維持する為刑罰の処置を講するの止むを得さるを言ひ居りたり。以前は抑への利く日本人ありて秩序維持につき同所長に援助を与へたるか全部帰国せる為現在右は中々困難なる由。

 

収容者との会談

本代表は舎長及其の書記又は通訳より成る収容所委員会と会見せり その際所長及係官1名同席せり。
   一般的に言へは本収容所は我等一行に対し好印象を与へ収容者は全く幸福に見受けられたり。

送還

昨夏多数の日本人は送還せられたるか残留者は何時彼等か送還せらるるやを絶えす尋ね居れり。日本当局かこの点に関し明答を与へらるるに於ては事態は大いに改善せらるへし

  

(出典) 「大東亜戦争関係一件 交戦国間敵国人及俘虜取扱振関係 在敵国本邦人関係 在英(含属領)本邦人関係」第2巻(外務省外交資料館所蔵)、所収。原文は日本語(この報告のフランス語版はFO916/776に収録)。

 (注)  数値や固有名詞などの表記の仕方は一部修正した。濁点の使い方などの表記方法が統一されていないが原文のままである。[  ]内は筆者による注である。