<戦後補償> 華僑粛清・ロームシャ動員

           ―マレーシアの場合

                  林 博史     


これは、内海愛子ほか編『ハンドブック戦後補償』(梨の木舎、1992年8月刊)の一節として書いたものです。1992年時点で、マレーシア国内から出されている戦後補償要求について紹介したものです。今から見ると、かなり古いデータですが、マレーシアでの戦争被害の特徴が示されていると思います。 2001.11.26記


 

〔発端〕

 1941年12月8 日未明、日本軍は真珠湾に先駆けてマレー半島東北部のコタバルに上陸しアジア太平洋戦争が始まった。マレー半島を南下した日本軍は翌年2 月15日シンガポールを占領し、その直後に華僑粛清を実施、「抗日分子」と見なした市民数万人を虐殺した。これに続いてマレー半島全域でも華僑粛清がおこなわれた。日本軍は資源の獲得を最大の目的としており、その邪魔となる「抗日」的な華僑を一掃しようとしたのが、一連の華僑粛清だった。
 ネグリセンビラン州では40か所以上で虐殺がおこなわれ、パリッティンギ村では約600 人の村民が子どもまで抹殺された。当時8 歳だった孫建成氏は両親や兄弟など一家9 人を殺され、祖母と2 人だけがかろうじて生き残った。
 
それからまもなくの1942年7 月日本軍はタイとビルマをつなぐ泰緬鉄道の建設に着工、マレーシアからもロームシャを狩り集めた。8 月ネグリセンビラン州のセレンバンにいた宋日開氏は町中で日本兵に呼びとめられた。「軍補」を募集していて、期間は1 か月から長くても4 か月という話で、今の仕事よりいいと思ったのでそれに応じた。しかし実際にはビルマ国境に近いテーモンタで過酷な労働につかされ、一緒に行ったロームシャたちは次々に死んでいった。セレンバンを出る時には780 人(ほとんどが中国人とインド人で、マレー人は若干名だけ)だったのに46年7 月に帰ってきた時はわずか49人になっていた。

〔運動の経緯と日本政府の対応〕

  宋日開氏ら49人は連絡を取り合い、泰緬鉄道から戻ってこなかった人の遺族などとも連絡をとり、合わせて288 人の名簿ができた。1986年4 月マレーシア駐在日本大使宛に手紙を出し、皇軍( 日本軍) によって騙されて泰緬鉄道建設に連れていかれ、大きな苦しみを受け、しかも報酬もなかったとして、288 人×3 年8 か月分の未払い賃金の支払いを要求した。
 日本大使館は87年10月に回答し、サンフランシスコ平和条約と日本とマレーシアとの協定(1967 年いわゆる「血債」協定) により賠償問題は解決済であると個人への補償を拒否してきた。
 一方、華僑虐殺のことが再び大きく取り上げられるようになったのは1982年の教科書問題だった。日本が侵略と虐殺の事実を隠そうとするのならば、事実を記録し語り継ごうとネグリセンビラン州では中華大会堂( 華人団体) が中心になって史料収集が始まった。この成果は88年1 月に『日治時期森州華族蒙難史料』として刊行された( 邦訳『マラヤの日本軍』青木書店) 。また同州で粛清をした日本軍の陣中日誌が発見されたこともあって、88年8 月に「アジア太平洋地域の戦争犠牲者に思いを馳せ、心に刻む会」の招待で虐殺から生き残った5 人が来日し各地で証言をおこない、日本でもマレー半島での虐殺の事実が知られるようになってきた。こうした中で孫建成氏が中心になって連絡のついた遺族らとともに日本政府に虐殺の犠牲者への補償を要求する運動を始めた。
 
孫建成氏は1989年10月に海部首相宛にパリッティンギの虐殺の犠牲者に補償をおこなうことを求める手紙を出すなど計8回日本政府に手紙を書いた。さらに91年7 月にはマレーシア訪問を前にした天皇に対して補償を求める手紙を大使館宛に出した。そこでは「無実の人々を殺したことは正当化されません。そうした虐殺は国際法に反することです。日本政府が犠牲者の遺族に補償することこそが公正なことであると考えます。私のつたない訴えがあなた( 天皇) の同意を得られることを願います」と述べている。しかしいずれも返事はきていない。

〔要求項目〕

 宋日開氏らの要求項目は泰緬鉄道で働いていたことを確認した288 人の未払い賃金3 年8 か月分( 一人当たり4 万ドル=約200 万円) の支払いというものであり、それ以外の補償は要求していない。 
 孫建成氏らは1967年の政府間協定による賠償( 船2 隻) がマレーシア政府に渡されただけで、犠牲者の遺族にはまったくないことを問題にしており、遺族への補償を要求している。具体的な金額や補償方法までは示していない。まずは日本政府の誠実な対応を求めている。しかし日本政府が孫氏らの要求を無視しているので、マレーシア国内の諸団体や国連にも訴えている。
 
なおネグリセンビラン州での虐殺の掘り起こしにあたった中華大会堂は事実を明らかにし歴史の教訓とするという立場で、史料集とその改定版の刊行をおこなっているが、補償は要求していない。
 (注 その後、マレーシアの中華大会堂は1995年8月に日本政府に対して「対日賠償請求覚書」を提出、謝罪と賠償を求めている)

〔運動組織者のプロフィール〕

 宋日開氏は1918年生まれ。ジョホール州クルアンに住んでいる。生き残って帰ってきた49人も今では19人になってしまっている。
 
孫建成氏は1936年生まれ。家族を殺されたあとはマラッカにいた叔父のもとで育ち、重量あげの選手としてアジア競技大会で3 位に入ったこともある。現在、空港のタクシーサービスで働きながら、補償要求運動を組織している。   

〔キーワード〕

華僑     

海外に住む中国人。特に東南アジアに多い。華僑の歴史は古いが、マレー半島ではイギリスが植民地経営のためにスズ鉱山などでの労働力として中国人を導入したため、急速に増え、1940年には中国人235 万人、マレー人228 万人となり、以前からいたマレー人を追い越すまでになっていた。華僑は祖国は中国であるという意識をもった人たちだが、戦後は東南アジア各国が独立し、現地で生まれた人々が多くなってきたため、生まれ育った国を祖国と考えるようになっている。そうした中国系の人々は華僑ではなく華人と呼ばれている。

 華僑粛清

シンガポールやマレー半島で日本軍がおこなった華僑虐殺事件のこと。1942年2月15日にシンガポールを占領した日本の第25軍( 山下奉文中将) はただちに華僑粛清命令を発した。日本から長年にわたって侵略を受けていた祖国中国への支援運動をおこなっていたマラヤの華僑を敵視し、「抗日分子」一気に一掃しようとしたのがこの粛清命令だった。シンガポールでは18歳から50歳までの華僑男子が集められた。簡単な検問によって「抗日分子」とみなされた者はトラックによって海岸や沼地に運ばれ、機関銃によって銃殺された。その犠牲者は4 〜5 万人と言われている。さらに第25軍はマレー半島での粛清も命じ、3 月〜4 月にかけてマレー半島各地でも虐殺がおこなわれた。都市部ではシンガポールと同じように検問によって選ばれた者が虐殺され、農村部では抗日ゲリラと関係があるとみなされた村が女性や子どもも含めて皆殺しにされ、燃やされた。華僑粛清は占領直後の1 〜2 か月に集中しているが、その後も各地で続けられた。

パリッティンギ( カンウェイ) 村の虐殺                      

マレー半島南西部のネグリセンビラン州の粛清は第 5師団第11連隊( 広島) が担 当し、42年3 月に6 次にわたって粛清がおこなわれた。その中で3 月16日におきたのが、この事件である。山中にあるこの村に「敵性分子」が「相当潜在」しているとして粛清を計画、日本軍は老幼男女を問わず村民を村の広場に集め、20〜30人ずつのグループにわけて周辺の山や畑の中に連れていき、膝まずかせて順番に背後から銃剣で刺し殺していった。その後、村を焼き払った。ここでの犠牲者は675 人と言われている。 

 教科書問題

1982年夏、「侵略」を「進出」と書き換えさせるなどの教科書検定が中国・韓国政府やアジア各国の人々から批判され、国際問題になった事件。文部省は、日本がアジア諸国におこなった侵略の事実を認めず、戦争を肯定する記述を強要する教科書検定をおこなってきた。日本政府はアジア諸国からの批判をうけてようやく「侵略」という言葉を教科書に載せることを認めて、一応の決着をみた。しかし、その後も「侵略」の実態をくわしく紹介しようとする記述を書き換えさせるなど侵略の事実を学校で教えさせまいとする姿勢は続いている。

 中華大会堂と掘り起こし運動

中国系住民の商工業者らを中心に組織された団体。日本の商工会議所のような組織でマレーシアの各州ごとにある。ネグリセンビラン州では、教科書問題が起きたときに、日本が侵略や虐殺の事実を認めないのならば、事実を記録して残そうと考え、中華大会堂が中心になって、虐殺から生き残った人を探し、その証言を集めて記録にとどめるとともに虐殺の跡から遺骨を収集して記念碑を建て、慰霊祭をおこなうなどの活動を始めた。その調査の成果は88年1 月に『日治時期森州華族蒙難史料』として刊行された( 邦訳『マラヤの日本軍』青木書店) 。

 陣中日誌

陸軍の中隊以上の部隊で作成が義務づけられている公文書。兵隊個人が付けていた日記を陣中日記とか陣中日誌と呼んでいることがあるが、それらは私的文書であって性格が違う。陣中日誌には毎日の命令や報告、行動、人の異動などが記載されている。ネグリセンビラン州で華僑粛清をおこなった部隊の陣中日誌が88年に明るみに出て、その粛清の命令や軍の行動が詳細に判明し、マレー半島での華僑虐殺の事実が日本でもようやく知られるようになった。

 「血債」協定

1967年9 月マレーシア、シンガポールのそれぞれと日本との間に結ばれた協定。いずれも戦争中の「不幸な事件に関する問題」の「解決」をはかるための協定である。1960年代に入って、経済開発が進んでいたシンガポールであちこちの工事現場から粛清による犠牲者の遺骨や遺品が発見された。それを契機に日本に虐殺の補償=「血債」を要求する運動が起こった。その結果結ばれたこの協定で、マレーシアに対しては2500万マレーシア・ドル( 約29億4 千万円、貨物船2 隻) 、シンガポールには同額の2500万シンガポール・ドルを無償供与することになった。「血債」問題は政府間では一応の決着を見たが、実際の犠牲者には何ら補償されなかったため、その後もたびたび補償要求の声が起きている。だがこの協定には「マレーシア政府は(中略)第二次世界大戦の間の不幸な事件から生ずるすべての問題がここに完全かつ最終的に解決されたことに同意する」(第2条)とあり、日本政府はこれを根拠に補償を拒否している。       

映画]

『侵略・マレー半島  教えられなかった戦争』映像文化協会制作( 問い合わせ先  同協会  〒227 横浜市青葉区桜台4-48  Tel 045-981-0834)

 [参考文献]

林博史『華僑虐殺―日本軍支配下のマレー半島』すずさわ書店

高嶋伸欣・林博史解説編集『マラヤの日本軍―ネグリセンビラン州における華僑虐殺』青木書店

戦争犠牲者を心に刻む会編 『アジアの声  第三集  日本軍のマレーシア住民虐殺』東方出版

 

〔資料〕

孫建成より海部俊樹首相宛の手紙( 英文)                              1989年10月3 日付                        

拝啓

私、孫建成は日本占領下のマラヤの生き残りです。1942年3 月16日日本皇軍によって私の家族9 人が殺されたのを私は自分の目で見ました。祖母と私だけが幸いなことにその悲劇から逃れることができました。  私はここにその悲劇の犠牲者として、私の家族に代わってこの問題についてのあなたの関心を喚起し、あなたが満足のいく回答をしていただくことを希望します。( 中略)

  1942年3 月16日朝7 時、私はパリッティンギ村から出て、約40人の日本兵が自転車に乗って村に入っていくのを見ました。30分後、一人の日本兵が私の家に来て、彼について村の通りまで来るよう命令しました。私たちがそこに行ったとき、すでに数百人の村人が座っていました。そのとき村長は約80人の日本兵に食事を出してもてなしており、村人たちも心配なさそうに座っていました。村人は、食事がすんだら日本兵は我々に話をするのだろうと思っていました。しかし村人はだまされていたのです。まもなく大虐殺が始まりました。
 日本軍が村にやってきたのは村人たちと話し合うためではなく殺すためだったのです。私はその出来事の目撃者の一人です。私は9人の家族と600 人の村人が殺されたことをはっきりと覚えています。( 中略)

  9 人の私の家族が日本軍によって殺されたため、私の喜びの満ちた家庭が破壊されてしまったことは非常に残念です。私はその事件を忘れることができず、いつも記憶にあります。日本政府がこのことについて満足のいく返答をしていただくことを希望します。この虐殺事件で失われた生命と財産に対して、日本政府が補償をおこなうことを私は要求します。

  日本政府は1967年に2500万マレーシア・ドルの賠償をマレーシア政府におこないました。なぜ賠償がマレーシア政府には渡されたのに、虐殺の犠牲者の家族には渡されなかったのでしょうか。パリッティンギの人々は戦争をしていないのに日本軍によって殺されたのですから、私たちは補償を与えられるべきです。私の補償要求について、首相が満足のいく返答をしていただくよう心より希望します。ありがとうございます。    敬具