アジア太平洋戦争のなかの日本軍と民衆

関東学院大学経済学会研究論集『経済系』第153集、1987年10月

林 博史


これは戦争の問題に取り組み始めた初期のころに書いたものです。いまさら、とは思いますが、初心がうかがわれるものですし、こんなことを書いていたという記録にはなると思います。 2001.11.26記


はじめに
T 日本軍とアジアの民衆
U 教令にみる日本軍の住民対策 
V 日本軍と日本の民衆−サイパン戦・沖縄戦・本土決戦準備
まとめにかえて
[注]

       

はじめに

 侵寧日軍南京大屠殺遇難同胞紀念館(日本軍侵華南京大虐殺殉難同胞記念館)は,南京郊外の江東門の近く,静かな運河のそばに建てられていた。筆者は1986820日この記念館を訪ねた。記念館の正面には,ケ小平の筆によるという館名とともに「遇難者 VICTIMS 遭難者 300000)」と刻まれていた。記念館の庭には,南京での大きな虐殺地点であった13の地点の碑やレリーフ,「殉難同胞遺骨陳列室」があり,館内には,様々な資料が展示されていた ()

 中国の旅において,南京をはじめ各地で中国の民衆を殺戮・虐待した日本軍の実態を痛みをもって感じさせられた。また中国以外のアジア各地におけ日本軍の虐殺事件,さらには自国の民衆である沖縄県民を数多く殺害した沖縄戦のことも考えざるをえなかった。

 アジアの民衆に対して加害者・抑圧者としてふるまった日本軍が,自国の民衆に対しても同じように立ちあらわれたことをどう考えるのか,それは沖縄だけに限定されるのか,もし本土決戦がおこなわれていたならば沖縄でおきたような事態が本土でもおこったのではなかろうか,そして今日の日本軍(自衛隊)は,そうした旧帝国軍隊のあり方をとのように総括し,克服しているのだろうか,という一連の問題が提起されているように思われる。

 本稿では,他国自国を問わず民衆にとって日本軍は何であったのか,日本軍はそれらの民衆をどう見ており,どのように対処しようとしていたのか,という問題を南京−サイパン・沖縄一本土,という流れの中で考えてみたい (2)

 

T 日本軍とアジアの民衆

 

 南京の記念館入口に掲げられてある「前言」には,「一挙に世の中に大きな衝撃を与えたこの歴史的事件は,中国を侵略した日本軍の無数の暴行の中で最も集中した,最も突出した一例である」と書かれている。その南京大虐殺の内容は次のようにまとめられている。

  殺害されたわれらの罪なき同胞の総数は30万人以上に達した.そのうち,集められて殺され,死体が焼かれてあとがわからなくなったもの19万人以上,ぱらばらに殺され,死体を慈善団体によって埋葬されたもの15万人以上である。

 日本軍はほしいままに婦女を強姦し,輪姦し,多くの婦女が強姦されたあとで殺害された。日本軍はいたるところに放火し,全市の家屋の約三分の一は焼け,全市の半分がほとんと灰尽に帰した。さらに日本軍はほしいままに略奪し,いたるところ10室に9室は空になった。個人の住宅,商店は論ぜず,倉庫の財産,金銀財貨,文化財や骨董品,難民の食糧や 病院の布団,民間の家畜にいたるまで奪われないものはほとんどひとつもなかった。たとえ外国人の財産といえども略奪から免れがたかった。

  中国を侵略した南粛の日本軍がおこなった大虐殺暴行は,その規模の大きさ,被害人数の多さ,持続時間の長さ,殺人手段の残酷さにおいて,人類文明史上,ほとんど例のないものである(3)。記念館の庭にあった碑の中から、上新河地区遇 同胞紀念碑の碑文を紹介しておこう。

  一九三七年十二月,中国を侵略した日本軍が南京を占領した後,わが大量の武装解除された兵士と上新河一帯に群集していた難民あわせて二万八千七百三十余人が,この地においてことごとく日本軍 によって殺害された。日本軍の虐殺手段はきわめて残酷で,縛って水に溺れさせたり,薪を積んで生きたまま焼いたり,銃や刀を使ったり,用いないものはなかった。婦女に対しては児童にいたるまで,すべてまず強姦をしてから殺害した。その悲惨さはこの世に絶する,ほとんど例のないものであった。遺体は積まれて山となり,血は流れて河となった。
 (中略)
「過去を忘れず,将来の師とする」。ここにこの趣旨にもとづき,特にこの碑を建てる。死者を慰め,あわせて後の人にわが中学を愛し,わが祖国を強め,侵略に反対し,平和を守るよう励ますものである
(4)

 南京市では,南京大虐殺の中で傷つきながらも幸運にも生きながらえることのできた人や虐殺の目撃者など1700人余りから証言をえて,事件の発掘作業が続けられている。中国においても1982年夏の教科書問題を契機に南京大虐殺についての調査,研究がすすみはじめ,(3)であげた2冊以外にも,中国人民政治協商会議江蘇省南京市委員会文史資料研究会編『史料選輯(侵華日軍南京大屠殺史料専輯)代第四輯』(内部発行)1983年(加々美光行・姫田光義訳『証言・南京大虐殺』青木書店,1984年),高興祖『日軍侵華暴行―南京大屠殺』上海人民出版社,1985年(牧野篤訳『南京大虐殺―日本軍の中国侵略と暴行』日本教職員組合・国民教育研究所,1986年)などが出されている。

 一方,日本においても藤原彰『南京大虐殺』岩波ブックレット,1985年,吉田裕『天皇の軍隊と南京事件』青木書店,1985年,洞富雄『南京大虐殺の証明』朝日新聞社,1986年,同縞『日中戦争南京大残虐事件資料集』青木書店,1985年,秦都彦『南京事件』中公新書,1986年、本多勝一『南京への道』朝日新聞社,1987年,などの成果が続々と出されている(5)

 これらの研究により,南京大虐殺の実態はかなり解明されてきている。投降兵・捕虜の殺害,「便衣兵狩り」と称して,戦闘を放棄した兵士と市民の無差別の殺害,一般住民への集団あるいは個々での殺害,略奪・放火・強姦あるいは強姦殺害などの日本軍の残虐行為がおこなわれ,それが末端兵士の勝手な非行ということにとどまらず,日本軍の組織的な犯罪であり,日本軍に内在する体質が問題であることが明らかにされてきている。

 もはや南京大虐殺は虚構であるとする説は,完全に崩壊したといえる。南京大虐殺だけでなく,日本軍が中国でおこなった様々な犯罪,たとえば,毒ガス兵器の使用,731部隊などの実態,アへン問題なとの研究もあらわれてきている。主なものだけでも,粟屋憲太郎・吉見義明「毒ガス作戦の真実」『世界』19859月,森村誠一『悪魔の飽食』第12部,光文社(のち角川書店),第3部,角川書店,19811983年,常石敬一縞訳『標的・イシイー731部隊と米軍諜報活動』大月書店,1984年,江口圭一編著『資料日中戦争期阿片政策』岩波書店,1985年,などがあげられる。

 このように中国における日本軍については比較的関心も高く,研究もすすんできているのに比べ,中国以外のアジア地域における日本軍の残虐行為については関心はきわめて薄い。だが最近ようやく東南アジア地域についても関心が向けられるようになってきた。

 たとえばシンガポールについてみると,中島正人『謀殺の航跡―シンガポール華僑虐殺事件』講談社,1985年,小林正弘『シンガポールの日本軍』汐文社,1986年,桜本富雄『〔大本営発表〕シンガポールは崩落せり』青木書店。1986年,などが発表されている。また膨大な史料集である許雲樵原主編・蔡史君編修『新馬華人抗日史料19371945』文史出版,シンガポール,1984年,の部分訳ではあるが,田中宏・福永平和訳『日本軍占領下のシンガポール』青木書店,1986年,も刊行された(6)

 マレーにおける日本軍の残虐行為については,研究といえるものはほとんどない。小島晋治『アジアからみた近代日本』亜紀書房,1978年,において,シンガポール,マラッカ,ピナンの殉難碑が紹介されているが,最近では,地理教育研究会『侵略・マレー半島』(私家版)1984年,や高鳩伸欣「東南アジアに戦争の傷跡を見る‘85」(1)〜(5)『未来』198511月〜19865月,などによってマレーにおける日本軍の虐殺事件が掘りわこされてきている。

 たとえば,マンティン(文町)では,1982年の教科書問題を契機に虐殺事件の調査がおこなわれ,郊外の草むらの中から,ドラム館に入れられた多数の遺骨が発見された。これは194226日(旧暦)に200人余りの中国系住民が日本軍によって殺害された時のもので,19851月に「文町日治蒙冤紀念碑」が建てられている(7)

 中国においても東南アジア諸地域においても1982年の教科書問題を契機に,日本軍がおこなった残虐行為,戦争犯罪の事実を掘りおこし,史料として保存しようとする動きが強まっている。南京の記念館の建設もマンティンの紀念碑の建立もそのあらわれである。また日本の中国侵略全面化のきっかけとなった蘆溝橋事件の50周年にあたる198777日にあわせて,蘆溝橋のそばに「中国人民抗日戦争記念館」が仮オープンし,重慶では「日本侵略者重慶爆撃の碑」の落成式がおこなわれた(8)

 アジア諸地域の動きに並行して,日本においても日本軍のアジアにおける戦争犯罪の実態を明らかにしようとする努力が始まってきているといえる。

 これまでの日本現代史研究,戦争史研究は,なぜ日本は侵略戦争に進んだのか,誰がどのようにして戦争とファシズムを準備しすすめたのか,なぜそれを止めることができなかったのか,という一連の問題に関心が向けられていた。それは,今日,再び戦争という誤ちをくりかえすまいとする主体的な意味ある営みであり,重要なテーマである。だが,その侵略戦争の中で,いったい日本(軍)は何をおこなったのか,という戦争の実相の解明については,日本国民の戦争被害(原爆や空襲など)を除いて,なおざりにされてきたといえる(9)。その例外的といえる先駆的研究は,家永三郎『太平洋戦争』岩波書店,1967年,であった。

 戦後,あるいは現在の日本や日本人のあり様を考えるうえで,加害・被害をひっくるめた国民の戦争体験,戦争下の政治・経済・社会の変動を明らかにすることは,不可欠の課題である。そのことが実際の研究の課題として,ようやく取り上げられてきているといえよう。

 この間の研究を総括することは筆者の能力をこえるので(10),ここでは日本軍がアジアの民衆に対して残虐行為をおこなった理由について南京大虐殺の研究から紹介しておきた。藤原彰氏は,南京大虐殺をひきおこした「日本軍隊の性格と特質」について、次のように整理している(11)

  第1に「日本の軍隊では,兵士の人権と自我を尊重する観念が近代国家の軍隊としてはいちじるしく欠如していた」。そのため「兵士の自発的意志に期待できず」,軍隊の秩序は「きびしい紀律と服従の強制」によって維持され,上から下へ抑圧は委譲された。捕虜や占領地住民はその抑圧委譲の相手にされた。「軍隊内,自国内でさえ人権や自由を尊重しない」軍隊に敵国民衆や捕虜のそれを尊重する態度はまったくなかった。

  第2に「非合理な精神主義の強調」である。つまり「生命を無視する肉弾攻撃が尊重」され,「捕虜は最大の屈辱」とする考え方があった。

  第3に「エリート幕僚層を主とする下剋上的傾向」である。その彼らが「残虐行為をリードする場合が多かった」(12)

  これらの3点に加え,さらに日中戦争には「宣戦の大義名分がなかった」ことが兵士を荒廃させ,「軍紀の頑廃と非行の続出」を生みだしたこと,「軍隊にも国民にも,中国にたいする蔑視感,差別感が存在していたこと」などが指摘されている(13)

  つまり,人権も自我も抑圧され,生命をそまつにあつかわれた日本兵たちが,大義名分のない戦争にかりたてられ,日頃から育まれた中国・アジアへの差別感の下で,アジアの民衆に対した時におこったのが,南京大虐殺を代表とする数々の残虐事件であったというのである。

 さて,こうした研究をふまえてこれから問題にしたいことは,こうした日本軍が自国の民衆に対した時にとういう対応を示そうとしたのか,そして示したのか,という問題である。「兵士の生命軽視は,じつは国民の生命軽視に通じるものであった」(14)ことは,かねてより指摘されているが,そのことを具体的に検討したい。

 

U 教令にみる日本軍の住民対策

 

 太平洋戦争開始まで日本軍には,上陸防御についての基本教令はなかった。アメリカ軍の反攻が本格化し,19439月に「絶対国防圏」が設定され,ようやく19431115日『島嶼守備部隊戦闘教令(案)』が出された。これは194410月に出された『上陸防禦教令(案)』にとってかわられた。さらに『上陸防禦教令(案)』は19457月にその『補遺』が出されて一部手直しがなされた。

 また上陸防禦についての教令ではないが,『上陸防禦教令(案)』で重視された「遊撃戦闘」を具体化したもので,密接な関係を有する『国内遊学戦ノ参考』が1945115日に出されている。

 ここでは,『島嶼守備部隊戦闘教令()』『上陸防禦教令(案)』『国内遊撃戦ノ参考』の三つの文書を紹介しながら,日本軍が太平洋諸島ならびに沖縄・本土の防衛戦にあたって,住民(自国、他国を問わず)をどのように扱おうとしていたのかをみたい(15)

 参謀本部・教育総監部『島嶼守備部隊戦闘教令(案)』19431115日,は,太平洋諸島がその適用範囲となっているとみてよいが,その中で住民の利用については,「第二十ニ」に次のように書かれている。

 島嶼二於ケル住民ノ利用如何ハ戦闘ノ遂行二影響スルコト大ナリ故二守備隊長ハ之ガ指導二周到ナル考慮ヲ払フト共二関係機関トノ連絡ヲ密ニシテ其ノ状況ヲ明カニシ皇軍ノ威武二悦服シテ各種ノ労役二服シ或ハ警戒,監視ニ任ジ或ハ現地

 なお『上陸防禦教令(案)』の第189の「住民ノ利用」については,藤原彰『沖縄戦・国土が戦場になったとき』青木書店,1987年,128129頁(江口圭一氏執筆分)参照。

 自活二邁進シ終ニハ直接戦闘二従事シ得ルニ至ラシムルヲ要ス 而シテ不通ノ分子等二対シテハ機ヲ失セズ断乎タル処置ヲ講ジ禍根ヲ未然二排除スル等之ガ対策ヲ誤ラザルヲ要ス

 この項目に続いて「第二十六」では,「住民二依ル諜報亦軽視スベカラズ」とし,「第二十八」で,敵上陸後の情報を収集するうえで「住民ヲ活用スル」ことが,「第三十一」では,海岸・対空警戒にあたって「住民ヲシテ所要ノ等戒ヲ担任セシメ」ることが指示されている。

 この一方で,「第三十」では守備隊長が「住民二対スル警戒」を統一すること,「第三十二」では敵の諜報・謀略機関が住民を利用するので「警戒ヲ厳ニシ住民ノ取締二注意シ要スレバ移住ヲ行ハシムル等ノ手段講ズルコト緊要ナリ」としている。

 つまり住民を労役だけでなく,警戒・諜報活動にあたらせ,さらには直接戦闘に参加させることも含めて利用しようとする一方で,住民に対して警戒を厳にし,「不逞ノ分子」には断乎として処置する,という考え方であった。

 なお先に引用した「第二十二」の中にある「皇軍ノ威武二悦服シテ」という文言について,教育総監部『島嶼守備部隊戦闘教令(案)の説明』19444月,では,「南方住民の現状を見るに彼らを悦服せしむる為に特に精神的事項を重視するの要あり,蓋し船船の逼迫は物資の交易を著しく阻碍し彼等の生活は甚だしく圧迫せらるるのみならず物資及労力の提供を余儀なくする等物質的に悦楽せしむること困耗なり 特に之が指導上注意を要する所以なり況や南方住民の怠惰安逸を習性とするに於てをや」と解説している。

 これをふてもわかるように日本人以外の住民が対象とされている文書だが,その住民に物資や労力を供出させることが彼らの生活の圧迫することを認識しながらも,彼らを「怠情安逸」と差別し,「皇軍の威武」すなわち日本軍の威光と武力によって従わせようとするのである。もちろん,それに不満を持つ者は「不逞ノ分子」として処分されてしまうのである。

 194410月「廣?大ナル島嶼及大陸二於ケル沿岸要域ノ直接防禦」の教令として,参謀本部・教育総監部『上陸防禦教令(案)』が作成された。これは,『島嶼守備部隊戦闘教令(案)』に「‘必要ナル増補,修正ヲ加フルト共二本土等二於ケル沿岸要項ノ直接防禦ノ為必要ナル事項ヲ併セ記述セルモノ」で,フィリピン,台湾,中国大陸などの外地だけにととまらず,本土における上陸防禦をも対象にした教令であり,当然,沖縄にも適用されたとみてよい(なおテキストによっては「本土等二於ケル」の語句がないものがある。

 この違いがなぜおきたのかはわからないが,どちらにせよ沖縄・本土にも適用されたとみて間違いないと考えられる)。

まず「住民ノ利用」については,内地にも適用されることが考慮されたからか,少し修正されている。 

  第百八十九 住民ノ利用如何ハ戦闘遂行二影響スルコト大ナリ故二守備隊長ハ之ガ指導二周到ナル考慮ヲ払フト共二関係機関トノ遠路ヲ密ニシテ其ノ状況ヲ明カニシ各種ノ労役二服シ或ハ警戒,監視二或ハ現地自治二任ジ終ニハ直接戦闘二従事シ得ルニ至ラシムルヲ要ス 而シテ不遣ノ分子等二対シテハ機ヲ失セズ断乎タル処置ヲ講ジ禍根ヲ未然二要除スル等之ガ対策ヲ誤ラザルヲ要ス 外地二在リテハ先ヅ皇軍ノ威武二悦服セシムルコト ニ著意スルヲ要ス 

 ここでは,「皇軍ノ威武二悦服務」させるのは外地の住民だけに限定されているが,内容的にはまったくかわっていない(16)。そのほかの部分でも,「第百」敵上陸後の情報収集に「住民ヲ活用スル」こと,「第百二」「住民二依ル警戒組織ヲ利用スル」こと,などとともに「第百三」守備隊長が「住民二対スル警戒」を統−すること,「第百五」敵の諜報・謀略機関が住民を利用するので「守備隊長ハ防諜ニ関シ住民ノ取締ヲ厳ニシ要スレバ移転セシムルヲ可トスルコトアリ」としている点など,少し修正されてはいるが,住民の利用と住民に対する警戒については,『島嶼守備部隊戦闘教令(案)』の内容が,ほぼそのまま踏襲されている。 つまり「南方住民」=日本人以外の現地住民を対象に作成された教令の内容が,日本本土を対象に含めて作成された教令においてもほぼ同じ内容であることに注目したい。

 なお19457月に参謀本部・教育総監部『上陸防禦教令(案)補遺』が出された。この『補遺』は「主トシテ国土二於ケル沿岸要域ノ直接防禦ニ任ズベキ概ネ師団以下ノ部隊ヲ対象」として出されたもので,本土決戦のためのものである。ここでは,先に引用した『上陸防禦教令(案)』の「第百八十九」の全文が削除されている。削除の理由は明らかでないが,占領地住民に適用する規定をそのまま本土住民に適用することに躊躇したのであろうか。

 しかしながら,他の住民利用,住民警戒の項目はそのまま残っており,『上陸防禦教令(案)』が持っていた住民観が,それほど変わったとも考えにくい。本土決戦における住民に対する対応をよく示しているのが,大本営陸軍部『国内遊撃戦ノ参考』1945115日,である(17)

これは「敵戦線ノ後方及非決戦(持久)正面二於ケル我ガ遊撃行動等ヲ設想セルモノ」であり,国内が対象地域である。また時期からみて,当然沖縄も対象地域とふてよかろう。ここで遊撃部隊と地域住民との関係について次のように述べられている。

  遊撃部隊ハ郷土出身者ヲ主体トシテ編成セラルベキモノニシテ隊員ハ当該地方ノ状況二通暁シ特二民衆卜不離不可分ノ関係二在ルヲ通常トス(第十八)

  遊撃部隊ハ為シ得ル限り所在民衆ヲ遊撃戦ノ基盤トシテ利導活用スルヲ要ス(第四十七)

  常二民衆ヲシテ遊撃部隊卜一心同体同生共生ノ境地二立チ自主積極的二協カシテ活動スル如ク誘導スルコト特二緊要ナリ(第四十八)

 このように敵の占領地域などで活動する部隊にとって住民との結びつきはとりわけ重要であり,住民を積極的に活用することを重視していた。そこで住民に求められる活動については,「偵諜,連絡,警戒,掩蔽,救護,補給及謀略的宣伝ハ民衆ノー般二協カシ待ル部面ナリ」(第四十九)とされている。だがこうした活動だけにとどまらず「敵ノ警戒深ナルニ従ヒ民衆ハ防衛隊組織ヲ再建シ又之ヲ強化シ敵後方施設ヲ破壊シ敵軍事資貯ヲ隠滅シ個人的「テロ」行為ヲ敢行シ要スレバ清野工作等ヲ実施シ得ルモノトス」(第五十一)「郷土警備部隊竝二所在ノ民衆ハ作戦ノ推移二伴ヒ遊撃部隊二収編セラレ遊撃行動二任ズルコトアリ」(第七十六)とされている。つまり住民は遊撃部隊に協力し,それを支援するだけでなく,場合によっては自らが遊撃要員となり,「テロ」行為を含む遊撃戦闘をおこなうことが求められていたのである。

 住民をこうした活動に積極的に参加させるための方法として,口宣伝とビラの活用があげられている。だがそのやり方も「現地ノ実情二通暁セル工作員ヲ潜入」させて「隠密」におこなうことが「有利」である(第五十四)とされており,住民自身を謀略宣伝の対象とするものであった。また「民衆ノ面前二於テ敵兵ヲ殺戮スル等ハ民衆ヲ激励スル為有カナルー手段タリ」(第五十五)と,住民の目の前で敵兵を殺害することを戦意高揚の手段にしようとまでしている(18)

 こうして住民を遊撃戦闘に利用しようとする一方で,住民に対する警戒にも注意を払っている。たとえば「第五十八」には次のように書かれてある。

  遊撃部隊ハ絶エズ民心ノ動向ヲ審カニシ民衆ノ内情ヲ明力ニシ変節ノ徴候二留意シ脱落ノ有無ヲ詳知シアルヲ要ス 若シ不幸ニシテ変節者アルヲ知リタル時或ハ隠密二或ハ公然卜断チタル処置ヲ採リ 其ノ影響ヲ局限スルコト緊要ナリ 此ノ際断乎タル処置ヲ躊躇センカ単二民衆ヲ失フニ止ラズ自ラノ破滅ヲ招クコトアルニ注意セザルベカラズ

 また「偵諜スベキ要目」として,敵情や地目なととともに「民衆ノ状況特二敵占領地区内二於ケル民心ノ動向竝二敵側ノ対策」「皇軍皇民二偽?すセル敵軍就中半島人,本島人,日系米国移民,売国奴及航空機二依ル諜報謀略要員(部隊)等現出スルコトアルニ注意スルヲ要ス」(第百四十)との項目もあげられている。この偵諜のためには「極力信頼シ得ル民衆ノ獲得利用二勉」め(第百十二),「偵諜組織ハ事前二之ヲ確立シアルヲ要ス」(第百四十三)とされている。

 遊撃部隊によって利用される住民は,同時に遊撃部隊によって「スパイ」になりかねないものとして偵諜の対象にされているのである。住民の中に「変節者」や「脱落」者が出ないかどうか監視され,もし出れば時には秘密裡に処分されてしまうのである。朝鮮人,台湾人や日系移民も警戒の対象にされている。そして,遊撃部隊が信頼できる住民を集めて,住民が住民を「スパイ」する偵諜組織を作ることも考えられている。

 自国の民衆であっても,けっして信用せず警戒をし偵諜の対象とするのである。この点において他国の民衆も自国の民衆も同じように見られていたのである。自国の民衆との間にも信頼関係が成り立たず,いつ民衆によって裏切られるのか,「スパイ」されるのかと猜疑心をもって民衆を見ている日本軍の姿が示されている。

 

V 日本軍と日本の民衆−サイパン戦・沖縄戦・本土決戦準備

 

 日本軍が多くの民間の日本人をかかえて戦った初めての戦いがサイパン戦(19446月〜7月)であった。約43千人の日本軍が約2万人の在留邦人と約4千人の現地住民をかかえて戦闘をおこない,日本軍約41千人が戦死,在留邦人約1万人,チャモロ人・カナカ人419人が戦没した(19)

 チャモロ人,カナカ人の徴用・動員,彼らへの犠牲の強要がおこなわれる一方で,日本軍による住民(日本人)殺害がおこなわれた。サイパン戦はその始まりであった(20)

避難した洞窟の中で,日本兵が赤ん坊の殺害を命じて親などに殺させたり,親子ごと洞窟から追い出したケースは多々あった。たとえば「飲まず食わずの避難生活が非常に苦しく,幼な子を抱えた避難民には日本兵がとても恐ろしかった。小便や海水を飲まされた子供が苦しくて泣くと,日本兵が家族の目前で日本刀で,その首を切り落としてしまうので,とうせ殺されるのなら親の手で殺した方がよいということで我が子の口と鼻を抑えつけて次々と殺していくのをふました」という証言をはじめ,こうした事例は多い(21)。

 ほかにも岩上で投身しようかどうかためらっていた親子3人に対し,日本兵が父親を撃ち殺し,母親にも命中させた(22)。また降伏しようとした親子3人を背後から射殺したり,敗戦を説論した軍医少佐が射殺されたこともあった(23)。日本兵は住民が投降することを許さず自決せよと青酸カリを配った(24)。住民に対して銃を発砲し,食糧を強奪していく日本兵もあった(25)。

 住民を「スパイ」視する日本兵の言動もあらわれていた。山の中に避難していた住民に対し,「この山には,スパイが入り込んでいる,敵と通じ,民間人をだますために水や食糧をはこんでくる者がいるから注意せよ,決して捕虜になるな,捕虜になるくらいなら自決せよ」という「軍命令」が伝えられ,「山を出て行く者は後ろから友軍に撃ち殺されると言う噂」も流れていた。そして2人の朝鮮人が「スパイ」ということで住民の前で銃殺された(26)。またある洞窟内では,日本兵が抜刀して住民に対し「お前らはスパイだ,今日は味方撃ちしてやる」と住民をスパイ視して騒ぎ,あやうく殺されかけたこともあった(27)。

 米軍の収容所内では,「アメリカ軍に協力するものは非国民として抹殺する」という噂が流され(28),実際にも収容所内で.「日本の敗北が近づいたようだから,米軍の命令通りするより外はない」と話していた,米軍に協力的な海軍軍属が日本兵(憲兵)の命令をうけた実業学校生徒によって殺害されている(29)

 このようにサイパン戦において,日本軍による日本人住民殺害がおこなわれているとともに,住民を「スパイ」視する言動もすでにあらわれていることに注目したい。

 このサイパン戦における上述のような事態が一段と広がり,激しくなったのが沖縄戦である。日本の国土において,約50万人の住民をまきこんでおこなわれた沖縄戦で,日本軍による住民殺害.住民への横暴があいついだことはよく知られている(30)。そして日本軍は沖縄住民を徹底して動員,利用する一方で「沖縄県民を差別し,あたかも敵国人であるかのように扱い,防諜に警戒」していたことも明らかにされている(31)。ここでは,住民に対する警戒,諜報・防諜について,Uで紹介した各教令との関連に留意しながら述べたい。

 沖縄の第32軍司令部は,「報道宣伝 防諜等二関スル県民指導要綱」(19441118日)(32)において,県民を戦争にむけて総決起させるように努めるとともに「常二民側ノ真相特二共ノ思想動向ヲ判断シ我ガ報道宣伝ノ効果,敵側諜報宣伝,謀略ノ企図及内容ノ捜査等敵策動二関スル情報収集二努メ敵ノ諜報,謀略並二宣伝行為ノ封殺ニ遺憾ナカラシム」ことが重視されていた。この住民の情報を収集するにあたっては,「軍ハ絶へズ各防衛担当部隊,憲兵隊,連隊区司令部及県当局卜密接二連絡」するようになっていた。

 この「要鋼」にも住民を利用しようとしながらも同時に警戒の対象にしていることがはっきりと示されている。

 この「要綱」が秘密戦・遊撃戦の中で具体化されたのが「国頭支隊秘密戦大綱」(194531日)である(33)。この中の「諜報勤務方針」において,その「指向目標」を次のように定めている。

 

 1.本攻撃前(対内諜報)

 (イ)住民ノ思想動向特二敵性分子ノ有無

 (ロ)政治,経済諜報

 2.本攻撃開始後

 (イ)軍事諜報(敵情偵知)即チ本来ノ任務二邁進ス

 

 ここでは「本攻撃前」に限定されてはいるが,住民に諜報のほこ先が向けられていることがわかる。また国頭支隊では,戦意昂揚(宜伝)・防諜思想普及(防諜)講演会などとともに諜報分子獲得懇談会の開催も計画していた。「諜報分子葎得」とはつまり,住民を「スパイ」する「スパイ」を住民の中から選びだそうとすることである。

 この国頭支隊の秘密戦への官民の協力機関として作られたのが,国士隊である。国士隊は1945312日「緊迫セル諸情勢二鑑ミ地方側二秘密戦特務機関ヲ設置シ一般民衆二対スル宜伝防諜ノ指導及民情ノ把握並最悪時二於ケル諜報戦ノ活動ヲ教化スル」ことを目的として国頭支隊の指導下に結成された。この国士隊には,国頭郡の翼賛壮年団の幹部を中心に33人が隊員として加わった。33人の職業は,助役・書記など町村吏員6人,国民学校や青年学校の校長・教頭・教諭など教員11人,県議・町村議4人,医師2人(郡医師会長と歯科医郡支部副支部長),ほかに郡翼壮本部長,湯屋業なととなっており,郡内各町村の有力者が集められていた。彼らは一般民衆ハ勿論自己ノ家族卜?モ本機関設置ノ趣旨,任務,企図等ヲ漏泄セザルコト」と指示されており,秘密組織であった。

 国土隊の任務は「宣伝,防諜,諜報,謀略」の4つであったが,それらは「平時」と「最悪時」にわけられ,「平時ノ任務ハ主トシテ宣伝,諜報二重点ヲ置キ併セテ防諜勤務二服ス」「最悪時ハ諜報,謀略二重点ヲ置キ併セテ宣伝防諜ヲ行フ」とされている。

 ここでいう「宣伝」とは次のような内容であった。

 (一般民衆を対象に)原則トシテ皇国ノ使命及大東亜戦争ノ目的ヲ深刻ニ銘肝セシメ 我国ノ存亡ハ東亜諸民族ノ生死興亡ノ岐ル所以ヲ認識セシメ真二六十万県民ノ総蹶起ヲ促シ以テ総力戦態勢へノ移行ヲ急速二推進シ軍官民共生共死ノ一体化ヲ具現シ如何ナル難局二遭遇スルモ毅然トシテ必勝道二邁進スルニ至ラシムル様一般部民ヲ指導啓蒙スルコト

 つまり住民を戦争にかりたてる役割である。「諜報」の具体的な内容は,担当区域内において「(イ)容疑人物ノ発見(ロ)容疑者ノ行動監視 ()容疑物件(仮例(ママ),怪火,逆宣伝ビラ等)ノ発見,探索」をおこなうこととともに住民を対象として「担任区域内ノー般民心ノ動向二注意シ(イ)反軍,反官的分子ノ有無(ロ)外国帰朝者特二第二世,第三世ニシテ反軍,反官的亨動ヲ為ス者ナキヤ()反戦厭戦気運醸成ノ有無,若シ有ラバ其ノ由因 ()敵侵攻二対スル民衆ノ決意ノ程度()一般民衆ノ不平不満言動ノ有無,若シ有ラバ共ノ由因()一般民衆ノ衣食住需給ノ状態(ト)共ノ他特異事象(仮例,県内疎開ノ受入状況等)ヲ穏密裡二調査シ報告スルコト」である。つまり一般の民心を秘かに探り,住民の不平不満や反軍・反官的な言動をみつけ,それを軍に報告するという「スパイ」行為が諜報なのである。ここで移民帰りが特に警戒されていることは注目される(34)

 ここで見た国頭支隊秘密戦の実態は,『国内遊撃戦ノ参考』が,そのまま沖縄で具体化されたものといってよい。「偵諜」という言葉が「諜報」にかわっているほかは,内容的には,変化はない。このことから考えて,本土においても国士隊のような組織をつくることが考えられていたと推測される。

 さて,国頭支隊秘密戦は,遊撃戦地域におけるものであるが,それ以外の地域の一般の戦闘部隊は,住民をどように見ていたのであろうか。先にみた第32軍司令部の「県民指導要綱」にもあったように県民を諜報の対象とすることは,秘密戦だけでなく,軍としての考え方であった。下級の部隊の史料からはなかなかこうした点はわからないが,南部島尻の具志頭地区にいた第24師団歩兵第89連隊第2大隊(深見大隊)の史料は興味深い(35)。

 深見大隊では中部で激しい戦闘がおこなわれていた1945415日付で「対諜報綱強化ニ関スル件」を指示している。この中で島尻地区において「敵ノ偵察手段ハ逐次積極化」している,としたうえで,その手段として「1.将校下士官ノ服装ヲナシ潜入セルモノ2.兵ノ服装ヲナシ潜入セルモノ 3.或ハ避難民ヲ装ヒ潜入セルモノ」の3つをあげ,3の避難民を装った者については「時刻ハ主トシテ前半夜多ク避難民ヲ装ヒタルモノハ中頭ヨリ退避シ来レルヲ告ゲテ洞窟ノ所在及部隊位置ヲ聞ク」と警戒している。そして,「地方民ノ居住シアル洞窟ニハ監視者ヲ付シ侵入出ヲ監視セシムルコト」を指示している。

 また同大隊で出したとみられる「撃滅」と題する1945411日付新聞(ビラ)においては,「敵ノ諜報ニ対スル対策」として,「敵ハ飛行機,艦船,戦車等ニヨル直接威力偵察ノ外凡ユル諜報機関ノ総力ヲ挙ゲテ我ガ情報ノ偵知二狂奔シアリ 戦訓ニ依レバ敵ハ諜者トシテ占領地邦人第二世及口島占領地区地方民ヲ大々的ニ利用シ更二執拗悪?ナル変装疑騙ヲ以テ我力監視線ノ突破ヲ画策シアルハ防諜上更ニー段ノ厳戒ヲ要スル所ナリ」と述べている。つまり米軍占領地域の日本人(沖縄県民)がスパイになって潜入している,というのである。

 4月中句の時点において,島尻地区に米軍占領地域の沖縄住民がスパイとなり,避難民を装ったりして潜入していたとは,あまり考えられないが,深見大隊はそう思いこんでいたようである。だから,住民の中にスパイがいると警戒し,壕の出入まで監視しようとしたのであろう。住民全体が警戒の対象として疑いの眼でふられているのである。

 住民をスパイ視し,諜報の対象にしようとしたのは,秘密戦・遊撃戦だけのものではなく,付近に住民をかかえていた日本軍全体に共通するものであったといってよい。だからこそ沖縄住民をスパイ視し投書する事件が,遊撃戦地域(国頭)だけでなく,沖縄本島全域,慶良間諸島,久米島などでも続出したのである。

 次に本土決戦準備についてふれておきたい。

本土決戦準備においては,民衆を戦争の犠牲にしてやまない生命軽視の思想が極限に達したといってよい(36)

 九州の薩摩半島の防衛を担当していた第40軍は,194573日に陽作命第9号を示し,その中の「住民関係事項」において「住民処理ハ『住民ハ軍卜共二一身ヲ捧ゲテ国土防衛ニ任スル』ヲ第一義トシテ行動シ軍作戦行動ヲ妨碍スル者ノミ戦場近傍安全地帯二移ス如ク指導ス」とし,「註其ノ一」として「『避難』ナル観念ヲ去リテ軍ノ手足(ママ)纏トナル者ノミ邪魔ニナラヌ地域ニヨケシムルノ主義ヲトル」としている(37)

 住民の避難については九州の防衛を担当していた第16方面軍稲田正純参謀長の回想によると「二十年五月ころまでは,戦場の住民は霧島一五家荘(八代東方三○粁の山中)地域に事前に疎開するよう計画されていたが(軍の指示で各県が計画),施設,糧食,輸送等

を検討すると全く実行不可能であって,六月に全面的に疎開計画を廃止し,最後まで軍隊と共に戦場にとどまり,弾丸が飛んでくれば一時戦場内で退避することにした」(38))という。つまり疎開は断念し,国民は戦場に放置され「作戦軍はこれらの国民を懐に抱いて決戦を遂行」しようとしたのである。これは九州だけでなく本土各地にも共通する問題であった(39)。だから結局は第40軍のように邪魔者は去れ,と言うしかなかったのである。 住民の避難を放棄する一方で,軍のために命を捨てよと要求した。たとえば 大本営陸軍部『国民抗戦必携』1945425日は「一億特攻皇土護持」をうたい,国民に対して「挺身斬込戦法によって軍の作戦に協力すべきことを要望」していた(40)

 国民の生命を軽視するひとつの典型が,1945420日に大本営陸軍部がだした『国土決戦教令』である。この中には,「敵ハ住民,婦女,老幼ヲ先頭二立テテ前進シ我ガ戦意ノ消磨ヲ計ルコトアルベシ 斯カル場合我ガ同胞ハ己ガ生命ノ長キヲ希ハンヨリハ皇国ノ戦捷ヲ祈念シアルヲ信ジ敵兵撃滅二楕拷スベカラズ」という項目がある(41)。これは,戦闘で勝つためには,場合によっては婦女老幼をも容赦なく殺せというものである。

「一億特攻」の名の下に国民は国家(天皇)のために生命をなげだすことを求められ,勝利のためには,国民は日本軍によって殺されてもやむをえないとまでされたのである。また『国内遊撃戦ノ参考』にみられる住民観,住民対策が本土決戦にも適用されていたこと

も忘れてはならない。

 多くの日本人住民をかかえて戦闘をしたサイパン戦・沖縄戦,あるいは戦闘をすることが予定されていた本土決戦において,住民を徹底して利用・動員し,住民の生命を軽視し,軍のために生命をすてることを求める一方で,住民はスパイになりかねない警戒を要するものとして疑い,諜報の対象にするという点で,共通する性格をもっていたといえよう(42)

 

まとめにかえて

 

 侵略戦争のための軍隊であり,常に外地でその民衆をも敵としてたたかってきた日本軍は,自国の民衆に対した時もその対し方を根本のところで変えることができなかった。人権も自我も抑圧され,生命をそまつに扱われ,天皇のために死ぬことを当然と教えこまれた日本軍人たちは,他国の軍人(捕虜)や民衆,そして自問の民衆の人権や生命をも軽んじ,その生命を奪ったのである。

 日本軍にとって民衆(住民)とは,他国の民衆であろうと自国の民衆であろうと,徹底して利用しながらも,けっして信用できない,いつ「スパイ」になるかもしれない不信の対象でしかなかったのである。

 中国をはじめアジア太平洋の各地における虐殺事件なとの残虐行為,サイパン・沖縄なとでの日本人住民の殺害・迫害,本土決戦準備における国民の生命の軽視,サイパン・沖縄・本土に共通する日本人住民に対するスパイ容疑者視,など本稿で見てきたような事態は,民衆の自発的意志によらず,民衆への信頼を欠如させた「天皇の軍隊」の性格のあらわれであった。

 こうした日本軍は,アジア太平洋の民衆から強い反発をうけ,彼らの抗日の戦いの前に道義的にも物理的にも敗れていくとともに,連合軍の反攻の前に敗北を重ね 本土決戦準備へとすすむ中で日本軍自体に「士気の頽廃軍紀の崩壊」を生じ,敗戦と同時に日本軍は一挙に内部から崩壊していったのである(43)

 戦後,アメリカ軍によって再建され,アメリカの極東軍事戦略の中に組みこまれた日本軍(自衛隊)が,この旧帝国軍隊のあり方をどのように総括し,とれほど克服しえているのか,その検討は別の機会に譲るしかない(44)

 

 

〔注〕

1 記念館の紹介は,拙稿「南京から」『軍事民論』特集46号,1986年,日本軍侵略中国調査訪中団南京大虐殺研究札記』1986年,参照。

 (2) ここで「南京」は,南京を示す固有名詞であるとともに,日本軍がアジアでおこなったことの典型としての意味もあわせて使用している。なお本稿を準備するにあたっては,関東学院大学経済学会の「休み中の外国出張についての補助制度」による補助をうけた。

 (3) 南京大屠殺史料編輯委員会・南京図書館編『侵華日軍南京大屠殺史料』江蘇古籍出版社,1985年,12頁。なお,中国第二歴史館・南京市档案館・南京大屠殺史料編輯委員会『侵華日軍南京大屠殺暴行照片集』(内部発行)1985年,参照。 

 (4)翻訳にあたっては,前掲『南京大虐殺研究記』23頁,に一部修正を加えた。

 (5)南京事件研究の動向については,吉田裕「一五年戦争史研究と戦争責任―南京事件を中心に」『一橋論叢』19872月,参照。

 (6) これらについては,原不二夫「シンガポール日本軍政の実像を追って」『アジア経済』19874月,参照。なお太平洋諸島における日本軍の研究は東南アジア地域よりもおくれている。石上正夫『日本人よ忘るなかれ―南洋の民と皇国教育』大月書店,1983年,が最近,1983年が最近の貴重な成果である。

7) 東南アジアで考える旅の会『侵略・マレ−半島'86- 4回マレ−半島縦断の旅・報告集』1986年,1214

 (8)『朝日新聞』198777日。いずれも76日におこなわれたようである。

 (9)江口圭一「十五年戦争史研究の課題」『歴史学研究』198211月,参照。

 (10)岡部牧夫「日本軍の魂虐行為をめぐって」『世界』19859月,参照。

 (11)藤原彰前掲書『南京大虐殺』56頁以下。

 (12)藤原彰『日本軍事史』上巻,日本評論社,1987年,227頁。

 (13)ほかの研究においても,やや観点はちがっても同じような要因がとりあげられている。たとえば,家永三郎『太平洋戦争 第二版』岩波書店,1986年,66頁以下,吉田裕前掲書『天皇の軍隊と南京事件』186頁以下,秦都彦前掲書『南京事件』216頁以下,参照。なおそのほかに南京攻防戦の特徴が南京大虐殺の条件になっていることも指摘されている。

 (14)藤原彰『天皇制と軍隊』青木書店,1978年,74頁。

 (15)各文書は,防衛庁防衛研究所図書館所蔵。上陸防御に関する教令については、防衛庁防衛研修所戦史室『大本営陸軍部(10)』朝雲新聞社,1975年,80頁,久田栄正・水島朝穂『戦争とたたかう―憲法学者のルソン島戦場体験』日本評論社,1987年,173175頁,参照。なお『上陸防禦教令(案)』の第189の「住民ノ利用」については,藤原彰『沖縄戦・国土が戦場になったとき』青木書店,1987年,128129頁(江口圭一氏執筆分)参照。

 (16)外地にいる日本人が,「外地二在リテハ…」の対象となるのかどうかは,明確ではない。

 (17) 遊撃戦に関する教令としては,このほかに19441月に参謀本部・教育総監部『遊撃隊戦闘教令(案)』が出されている。ただこれは外地を対象とし,住民対策についてはほとんどふれられていない。

 (18)このことは捕虜の処刑をも意味しているのかと思われるが,明確には断定しがたい。    ところで,沖縄の伊是名島では,陸軍中野学校出身で秘密戦の組織者である残置情報員  (離島工作員)が配置されていたが,ここで23名の米兵捕虜が殺害されている。1件めは,日本兵(島に流れついた敗残兵)や島の防衛隊員数名のいる前で,海岸で船島工作員が米兵を射殺,2件めは,同じく海岸で島の青壮年たち数十人の前で,一人の米兵を射殺,他の一人の米兵は撃っても死ななかったのでみんなでボート用の櫂などでなぐり殺している(石原昌家『虐殺の島―皇軍と臣民の末路』晩馨社,1978年,101103頁)。この2件の米兵殺害事件と『国内遊撃戦ノ参考』のこの規定が関連するものなのかとうか判断しがたいが,多くの島民の前で米兵を殺害したことは,米兵への敵愾心を高めるなどなんらかの意図があったのかと疑わせるものがある。

 (19)サイパン戦については,防衛庁防衛研修所戦史室『中部太平洋陸軍作戦(1)マリアナ玉砕まで』朝雲新聞社,1967年,陸上自衛隊幹部学校修親会『サイパン島作戦』東宜出版,1978年,白井文吾書編『烈日サイパン島』東京新聞出版局,1979年,『サイパンの戦い』月刊沖縄社,1980年,参照。現地住民の戦没者数は,サイパンのクロス・アイランド・ロードとミドル・ロードとの交差地点にあるMonumentの碑文による。

 (20)沖縄戦を考える会『沖縄戦をみつめて』沖縄戦を考える会,1978年,7477,参照。拙稿「沖縄戦記録・研究の現状と課題」『自然・人間・社会』8号,1987年,においてサイパン戦における日本軍による日本人住民殺害の事例をいくつか紹介したが,ここではその事例に補充した資料をあわせて紹介したい。

 (21)『沖縄県史10・沖縄戦記録21974年,10001010頁。同様の例は,ほかに『宜野湾市史31982年,513頁,山内武夫『怯兵記』大月書店,1984年,281頁,沖縄県退職教職員の会婦人部『ぶっそうげの花ゆれて』ドメス出版,1984年,273頁,サイパン会編集委員会『サイパン会誌―想い出のサイパン』1986年,411頁,446頁,507頁,などがあげられる。

 (22)ロバート・シャーロツド『サイパン』光文社,1951年(家永三郎『戦争貴任』岩波書店,1985年,195196頁,より)

 (23)田中徳祐『我ら降伏せず』立風書房1983年,142頁,189頁。

 (24)沖縄県婦人連合会『母たちの戦争体験』1986年,315316頁。

25)『サイパン会誌』67頁。

26)同前,414頁。

27)『母たちの戦車体験』336頁。ほかにもスパイと疑われてあやうく殺されそうになった例がある(前掲『烈日サイパン島』202203頁)。

28)『サイパン会誌』372頁。

29)『那覇市史』381981年,616617頁。『沖縄県史1010101011頁,『ぶっそうげの花ゆれて』279頁も参照。

 (30)関連する文献は数多いが,とりあえず,大田昌秀『総史沖縄戦』岩波書店,1982年,大城将保『沖縄戦』高文研,1985牢,藤原彰編著『沖縄戦・国土が戦場になったとき』青木書店,1987年,をあげておく。

 (31)拙稿「沖縄戦における軍隊と民衆一防衛隊にみる沖縄戦」(藤原彰編『沖縄戦と天皇制』立風書房,1987年秋刊行予定)参照。

 (32)同史料ならびに以下の国頭支隊秘密戦に関する史料は,いずれも『秘密戦ニ関スル書類』(国立公文書館所蔵)所収のものである。なおこの書類,『本部町史資料編11979年,に全文収録されている。

33)この大綱では,「宣伝,防諜 遊撃秘密戦ハ諜報謀略卜共二之ヲ秘密戦卜呼称ス」と定義されている。

 (34) 前掲拙稿「沖耗戦記録・研究の現状と課題」8788頁,参照。

 (35)「歩兵第89連隊第5中隊陣中日誌」(防衛庁防衛研究所図書館蔵)

 (36)藤原彰『太平洋戦争史論』青木書店,1982年,など参照。

 (37)防衛庁防衛研修所戦史室『本土決戦準備(2)九州の防衛』朝雲新聞社。1972年,422頁。

38)同前,422頁。

39)服部貞四郎『大東亜戦争全史』原書房,1965年,841頁。

40)同前,833頁。

41)家永三郎「軍隊の本質」(法学セミナー増刊15『日本の防衛と憲法』日本評論社,1981年)269頁参照。ここでは,「国土決戦々闘守則」の第五項として引用されているものであるが,『国土決戦教令』の「第二章 将兵ノ覚悟及戦闘守則」「第十四」である(防衛庁衛研究所図書館所蔵)。なお防衛庁公刊戦史には,『国土決戦教令』の一部が紹介されているが,ここで引用した部分は紹介されていない。

42)筆者とは反対の立場からではあるが,日本軍の特徴を端的に述ぺているのが,曽野綾子『ある神話の背景』文芸春秋,1973年(後に角川文春1977年)である。この本は沖縄の波嘉敷島の日本軍を扱ったものであるが,氏は普遍化して次のように述ぺている。

   「もし米軍が,鹿島灘に上陸して来たら関東地方に住む多くの非戦闘員は,日本軍の防衛線と米軍との間に定き去りにされて見捨てられたであろう。というよりそれらの住民を犠牲にすることを前提に,防衛の戦闘配置は決められるのである」。「軍隊が地域社会の非戦闘員を守るために存在するという発想は,きわめて戦後的なものである。軍隊は自警団とも違う。軍隊は戦うために存在する。彼らはしばしば守りもするが,それは決して,非戦闘員の保護のために守るのではない。彼らは戦力を守るだけであろう。作戦要務令綱領には次の一文が明確に記されていた。『軍の主とする所は戦闘なり,故に古事皆戦闘を以て基準とすべし』」。「正直なところ,軍の意識の中には,民の存在はきわめて稀薄であっ   たろうと思われるふしが見られる。いやむしろ,全くない,と言うべきであったかも知れ   ない。戦いを優先するものが,つまり軍であるからだ。戦いを優先しないものは,軍です   らあり得ない。もし軍が市民の生活を守ることを優先し,戦闘や殺人を拒否するものなら   ば、何で今さら反戦を叫ぶ必要などあるものだろう」。(角川文庫版,238240頁)

43)藤原彰『太平洋戦争史論』196197頁,大江志乃夫『天皇の軍隊』小学館。1982年,310頁以下,参照。なお本稿では,日本軍の住民観・住民対策について,とりあげた諸地域に共通する性格を明らかにしたが,もちろん,それぞれの地域,戦いの独自の性格をもあわせてみることが必要であることはいうまでもない。たとえば沖縄についていえば,アジア太平洋地域―沖縄―日本本土に共通する性格にくわえて,日本本土から差別されているということでアジア太平洋地域と共通する性格,日本の国土として日本本土と共通する性格,アジア太平洋地域とも日本本土ともちがう沖縄独自の性格,などの複合的なものと考えられる。これらの共通性と独自性をあわせて,アジア太平洋戦争論をくみたてることは今後の課題である。

44) ここではいくつかの例を紹介して見通しだけ少しふれておきたい。1968年に航空自衛隊幹部の優秀論文に選ばれたという松本正美三等空佐「日米安全保障条約再検討期を迎えるに際する隊員指導に関して」の中に次のような文章がある。

   「しかし,最近における戦争の様相は,イデオロギー対立と密接な連絡をもちつつ,同民族相克.同国民の心理的混迷の様相の激化傾向を深めつつあり,国内治安に対する軍の役割が重要化しつつある……。いかに同胞といえとも不法者等は容赦しない行動をとるためには 隊員一人一人余程の信念と自信を堅持してかからねばならない。まして親戚,知人を含む同胞を対象として不安や動揺を生じない隊員を育てあげることは,各級指揮官の切実な問題として銘記してかからねばならない」(大田昌秀『沖縄―戦争と平和』日本社会党中央本部機関紙局,1982年,175176頁より)

 これを見ると,「不逞ノ分子」に対しては「断乎タル処置ヲ講ジ」よ,とした『上陸防禦教令()』の発想とあまりに似かよっていること驚かされる。

 また自衛隊は,「専守防衛」の建前から日本本土内のある地域が戦場になったと仮定しての研究・訓練をおこなっているが,そこでは住民の安全の確保,避難なとの住民保護策はまったく考えられていない(大田昌秀前掲書『沖縄―戦争と平和』1415頁,173頁参照)。

 本稿で取りあげた問題ではないが,たとえ国民が選んだものであっても共産党が参加した政権は「合法的政権」ではなく,自衛隊はその政権の指揮には服さない,という防衛庁の考え方は,国民主権を真向から否定し,何が「合法的政権」かを自衛隊が判断するという政治介入を肯定するものであり,15年戦争期に政治に公然と乗りだした軍部の体質を反省もなく継承しているようにみえる(法学セミナー増刊7『戦争と自衛隊』日本評論社。1978年,44頁)。

 公開された十分な国民的議論と合意に基かず,国民の目から隠れてアメリカと密約を重ねながら,なしくずし的に創設一増強されてきたという自衛隊の歴史的経緯が,旧帝国軍隊の大きな問題点を引きずってきている大きな要因ではなかろうか(西ドイツとの比較については,大嶽秀夫「日本社会党悲劇の起源」『中央公論』198610月,が興味深い)。                          (1987717日稿)

〔追記〕本稿脱稿後,野村進『海の果ての祖国』時事通信社,1987年,に接した。日本統治下のサイパンとサイパン戦をとりあげたすぐれた作品である。この中で,テニヤンの収容所内においても,日本兵らによる日本人殺害がおきたことが紹介されている。
                         (198786日記)