<講演> 98アジア・フォーラム横浜集会 1998.12.8

 シンガポール戦と華僑粛清  

林 博史


これは毎年12月8日のアジア太平洋戦争開戦日にあたって、日本がおこなった東南アジアへの侵略戦争について考えようとする神奈川の市民グループが開いている証言集会での講演の速記録です。シンガポールでの虐殺からかろうじて生き延びることのできた謝昭思さんを招いて、証言を聞き、その後で私が話したものです。
 アジア太平洋戦争がマレー半島上陸から始まったこと、つまりマレーシア、シンガポールへの侵略から始まったことにこだわり続ける、この取組みは貴重なものです。 2001.11.1


1.シンガポール戦

 私も謝昭思さんにお会いするのは、今日が初めてです。シンガポールのこういう体験者のお話は、高嶋先生の話にもありましたが、なかなか聞く機会がありません。その話をふまえて、私は、シンガポール戦と、その戦闘中から戦後の日本軍の中国系住民に対する扱い、特に住民虐殺の問題について、少し広い視野から考えてみたい、私が素材を提供する形でぜひ皆さんと一緒に考えたいと思っております。

 よく戦場では「殺すか、殺されるか」なのだから、しかもシンガポールの戦場では住民がスパイ行為をしているかもしれないのだから住民を殺しても仕方がないのだという言い方がされますが、まず押さえておきたいことはなぜ日本軍がシンガポールを攻撃したのかという問題です。このアジア・フォーラム集会では、毎年、この問題を取り上げていますので、簡単にまとめます。日本軍が太平洋戦争− 最近はアジア太平洋戦争と呼んでいますが− を始めた最大の理由は、中国との戦争を継続するため、スマトラやカリマンタンの石油その他の東南アジアの資源を確保する必要から東南アジアを占領し、大日本帝国の支配下において資源を自給自足することでした。つまり、日中戦争の延長に東南アジア侵略、アジア太平洋戦争が考えられたわけです。シンガポールはご存じのように、経済的に見て東南アジアの中枢にあり、軍事的に見てもイギリス軍の拠点です。東南アジアを占領するためにシンガポールを占領することを第一の課題として日本軍はアジア太平洋戦争を始めていきます。

 マレー半島攻撃は第25軍(司令官:山下奉文中将)の担当で、本来は天皇を護衛する近衛師団、広島で編成された第5師団、九州の久留米で編成された第18師団の3師団によって編成され、マレー半島の北から上陸してシンガポールを目指していきます。ここではマレー半島での戦闘については省略しますが、重要なことが1つあります。1942年1月28日から2月4日にかけて、ジョホール州中部のクルアンという町に日本軍の軍司令部がおかれていました。マレー半島での戦闘中で、まだシンガポールに上陸する前ですが、憲兵隊の隊長が呼ばれています。ここで、シンガポール占領後、華僑の粛清をやるので憲兵隊は準備しておけという命令が出されます。これは当時の憲兵将校が証言しています。ですから、通常言われている、シンガポールでの華僑粛清が、シンガポール戦で華僑の義勇軍が勇敢に戦ったので、それに対する報復として行ったのだというのは明らかに間違いで、日本軍はシンガポールに入る前から華僑粛清を計画していたのは明らかです。

 1月31日にイギリス軍はジョホール=バル(注:マレー半島南端の都市)から撤退してシンガポールに立てこもり、日本軍がジョホール=バルに入ります。2月8日深夜、日本軍はシンガポールの北西側から上陸を始め、2月11日、島の中央のブキ=ティマ高地− ここを取られると市内中心部が危なくなるということでイギリス軍は重要な防衛戦を張っていました− で、激しい戦闘が行われました。ここで抗日華僑義勇軍(ダル=フォースとも呼ばれる)という中国系住民の義勇軍がイギリス軍の指揮下で戦っています。ただこの中国系の義勇軍は1000名ぐらいで、イギリス軍はこの時点で7、8万人ぐらい残っていましたから、これに比べたらほんのわずかな数でした。2月11日のこの戦いで日本軍はブキ=ティマを占領しましたが、非常にたくさんの死傷者を出しました。確かにこの戦いで中国系の義勇軍が勇敢に戦ったと言われていますし、事実勇敢に戦ったのだと思いますが、日本軍の戦記などを読んでみますと、日本軍の死傷者の多くは砲撃によるものが非常に多いようです。もちろん白兵戦での死傷者も多いのですが、イギリス軍の砲撃が非常に激しくて、2月11日から12日かけて砲撃による死傷者が大変多く生じています。この後、日本軍は二手に分かれ、第5師団はブキ=ティマから真っ直ぐシンガポール市街を目指して前進し、第18師団はブキ=ティマから南に方向を転じて西海岸に出て市街を目指すという命令が11日に出されました。

 

2.謝昭思さんの一家を襲った日本軍の正体

 少し細かく話をしていますが、謝さんの事件はどの部隊がやったのかということと関わりがありますので、細かい話をしています。謝さんの村の位置を聞いたのが昨夜で、それから急いで調べてほぼ日本軍の状況はわかりました。謝さんが描かれた地図をもとに大雑把に説明すると、パサパンジャンとかパシールパンジャンと呼ばれている、市街から西のジュロンに行くときに通る道路がありまして、その途中に集落があって、その集落の中にアイル=ラジャという道が真中を走っています。「アイル」と言うのは「水」のことで、川が流れています。現在はかなり地形が変わってしまっているのですが、この道の南側一帯が、現在のシンガポール大学になっています。謝さんのいた集落の南半分が現在のシンガポール大学ということで間違いないようです。謝さんの家は、アイル=ラジャのシンガポール大学をはさんで向こう側のようです。日本側の史料を読んでみますと、2月13日に第18師団の部隊がこの一帯に入っています。第18師団は二手に分かれて、アイル=ラジャの南側を第56連隊、北側を第114連隊が担当したことになっています。第56連隊は久留米で編成され、第114連隊は小倉で編成されています。現在のシンガポール大学の中の高台にイギリス軍が陣地をつくっていて、2月13日に第56連隊は激しい戦闘を行っています。第114連隊の方では、同じ日に何かの戦闘があったという記述は見られませんので、多分謝さんの話にあったように日本軍が来たのが13日(12日の可能性もあります)とすると、その日本軍は第114連隊だったのではないかと推測されます。

 この地域では、2月14日に非常に激しい戦闘が行われています。当時はオピアム=ヒル(アヘンの丘/アヘンの工場があったため)と呼ばれたところで、ここを守っていたのマレー人の連隊で、激しい抵抗をしたことで有名なところです。この戦闘で捕虜になってタンジョンパカの刑務所に送られたマレー人の将校たちは、日本軍に協力するか、軍服を脱ぐかと迫られ、あくまでイギリス軍人の捕虜という待遇を求めてどちらも拒否したため、中国系の義勇軍兵士やユーラシアン(アジア人と白人の混血)の兵士とともに、2月28日に8名の将校が銃殺されるという事件がありました。この時、7、80名が殺されましたが、中国系下士官の生存者がこの事件について詳しい証言を残しています。また、2月14日と15日に、少し東にいったところにあるアレクサンドラ病院、戦争当時はイギリス軍の陸軍病院でしたが、ここで200人から300人ほどの病院スタッフ、患者(イギリス軍兵士)が日本軍に殺されています。

 イギリス軍が2月15日に降伏する前に、このような虐殺事件がいくつか記録されています。従軍記者のオマタ氏の記録によると、例えばブキ=ティマを歩いていて、4、5人の男たち(中国系)が縛られているのを目撃しています。(兵士は、中国人なら重慶政府につながっている敵だと単純に考えて捕らえたようです。)殺されるところは直接見ていませんが、どうやら殺されたようだと記しています。第5師団の野砲兵第5連隊の兵士でサカモトサダオさんは回想の中で、上陸するとすぐ女も子どもも皆殺せという命令が出され、多くの女性・子どもが犠牲になったと語っています。同じく第5師団の第21連隊(島根県浜田で編成)のコウノさんが2月13日の出来事として、旅団予備の第2大隊に直ちに華僑を掃滅せよという命令がくだされた、付近の防空壕に退避していたブキ=ティマの華僑704人にその中に抗日分子がいて無線基地を作っていたという容疑をかけて老若男女を問わず射殺・爆殺したと、新聞への投書で証言しています。このような日本側の証言から考えあわせると、住民たちはスパイ行為をやるかもしれない、ともかく敵だから殺せという命令が出されていたようです。

 私も、華人虐殺はブキ=ティマに集中していると思っていたのですが、謝さんの話をうかがって虐殺事件が西海岸でもあったという事実を今日、初めて知りました。ですから、謝さんの経験というのは、単なる突発的・例外的な例というわけではなく、シンガポール戦の最後の段階、つまり2月11・12・13・14日に、シンガポール市郊外でかなり広範に行われた出来事と考えていいと思います。
   例外的な例というわけではなく、シンガポール戦の最後の段階、つまり2月11・12・13・14日に、シンガポール市郊外でかなり広範に行われた出来事と考えていいと思います。

 

3.「大検証」

 次に占領後の華僑粛清の問題について少しお話したいと思います。この問題については、こう言うとシンガポールの方に怒られるかもしれませんが、残念ながらきちんとした研究はなされていません。あまりに分からないことが多すぎるのですが、いくつか重要な資料がイギリスに残っています。たまたまそれを見る機会がありましたので、それを基にお話したいと思います。2月15日にイギリス軍が降伏します。その時、日本軍は戦闘部隊を市内に入れませんでした。南京での経験があったからだろうと思いますが、戦闘部隊をそのまま市内に入れますと、略奪・強姦などさまざまな悪事をしでかすので、第25軍は戦闘部隊を市内に入れなかったわけです。憲兵隊だけ入れて、治安の維持をさせました。そして2月17日の夜に、河村参郎少将(第5師団所属)がシンガポール警備司令官に任命され、2月18日朝、山下第25軍司令官のもとに出頭します。そこで、軍司令官と第25軍の参謀長(実際に粛清計画を作成したのは辻政信参謀)からどのような命令を受けたかを、1946年から47年にかけて詳細に証言しています。内容は、抗日華僑を粛清するという命令で、2月21・22・23日の3日間でやれ、対象は、・元義勇軍兵士、・共産主義者、・略奪者、・武器を持っていたり隠している者、・日本軍の作戦を妨害する者、治安と秩序を乱している者、治安と秩序を乱す恐れのある者というものです。市内の中国人の男性を指定した場所に集めて検問を行い、抗日分子かどうか選り分けることにしたわけです。2月21日から23日までの3日間、市内に掲示が出されて、18才から50才までの華僑の男性は指定地区に集合せよ、という指示が出されます。そして、そこで検問を受けるわけですが、検問を受けるといっても、集められた地区によっては、一言、二言聞かれただけで抗日分子かどうか選り分けられています。ある地区では、元義勇軍兵士や公務員に手をあげさせて選り分け、トラックでどこかに連れ去って虐殺した。別の地区では、元義勇軍兵士や元共産主義者の裏切り者に覆面させてピックアップをさせたりした。この時の選別の様子については、元憲兵隊の下士官だった人の証言があります。この人は、シンガポールの住民を半分にする、つまり中国系住民の半分を粛清しろという命令が頭にあって、どうせ半分は殺すのだとするとどんどん選り分けなければならないので、だいぶいい加減な選別を行ったと、証言をしています。選り分けられた人をトラックで郊外に連れて行って銃殺して、海に流したケースが多いようです。

 この日記の存在はよく知られていて東京裁判に抜粋が提出されているのですが、その後行方不明になり、私がイギリスで見つけました− 3日間の粛清の最終日、2月23日に山下司令官に粛清の経過報告をする必要があったので、その日の朝11時、各地区の憲兵隊長を集め、経過報告を受けています。この時の報告によると、「処分人員約5000名なり、重要分子は引き続き留置取り調べ中なり」ということです。この時点では、虐殺は続行中です。粛清で殺された人の数は、現段階でははっきり分かりません。だいたい4万から5万、場合によって2万と書いているものもあります。

 戦後行われた戦犯裁判で河村少将は絞首刑になっています。同盟通信社(現在の共同通信社)の記者が、5万人殺す計画だったが、半分を殺した段階でストップがかかった、という話を第25軍の参謀から聞いたと、その裁判の調書の中で証言しています。この話は裏付けが取れないのですがこの時、その参謀が語ったことが本当だとすると約2万5000人殺したことになりますが、現段階ではそれ以上のことは分かっていません。

 いずれにせよ、全体としてシンガポール戦の最中の事件と、その後の華僑粛清が、日本軍の一連の虐殺であったということは疑いないと思いますなぜこのようなことが起こったのかという理由については、最初の少しお話しましたけれど、中国人の義勇軍が勇敢に戦ったから、あるいは中国人がゲリラ活動をしようとしていたから先手を打って粛清したのだという理由が言われていますが、これは戦後の戦犯裁判の中で日本軍が弁護のために使われた論理です。

 大谷敬二郎という人が書いた『憲兵』によれば、この人は憲兵中佐で、粛清当時はシンガポールにはいなかったのですが、粛清直後の42年3月初めにシンガポールに入り治安担当者としてシンガポール・マレー半島にいました。その当時の情勢は、抗日華僑が地下に潜ってゲリラ活動をしているような状況では全くなかったと述べています。また、日本軍が行った華僑粛清は、暴虐非道の、まさに言語に絶するものであったと、戦後書いています。当時、実際に粛清にあたったある憲兵中尉もやはり、日本軍は非常に間違ったことをしたと、戦後出した本の中で書いています。シンガポールの華僑粛清は戦闘が終わった後ですし、担当した憲兵自身が暴虐非道なことをやったと認めざるを得ない事件だったのです。

 

4.シンガポール戦の「遺産」

 次に、少し違った角度から、シンガポールでの戦いの意味について考えたいと思います。これまで日本軍とイギリス軍が戦ったという言い方をしてきましたが、ここで戦ったイギリス軍というのは、実は半分以上が植民地出身の兵士でした。12月8日の開戦の段階で、マレー半島にはイギリス陸軍が8万8000人いましたが、その中でイギリス本国出身の兵士は1万9000人しかいません。オーストラリア兵が1万5000人ほどです。つまり、白人の兵士は3万4000人ということになり、半分にもならないということです。半分以上は、インド兵とマレー半島の現地召集の兵士たちです。そして、ダルフォースとして紹介した中国人の義勇兵はこの数に含まれていません。また直接の兵士ではありませんが、シビル・ディフェンス、たとえば空襲警備隊− 空襲に備える警防団のようなもので医療や消防にも当たり、武器はもっていませんでした− のように軍に協力する人々が開戦直後のシンガポールで1万1000人ぐらいいました。マレー半島全体では少なくとも数万人の現地のアジア系の人々がイギリス軍に協力してさまざまな活動を行っていました。ですから、日本軍が戦った相手というのは、実は多くがアジア人でした。先ほど、ブキ=ティマの戦いで中国系の義勇軍が勇敢に戦った、またオピアム=ヒルというところでマレー系の軍隊が勇敢に戦ったという話をしましたが、この経験は非常に大きな意味を持っていると思います。

 たまたまシンガポールのあるビデオを見ていましたら、ダルフォースの生き残った方が、イギリス軍はもっと戦えたのになぜあんなに早く降伏してしまったのか、と不満を述べていました。イギリスにしてもフランスにしてもオランダにしても同じことだと思いますが、植民地支配を維持するために、白人はアジアの人間よりも優れているのだから白人が統治するのが当然なのだ、白人にはかなわないのだ、と白人神話を教え込んでいました。イギリスは、ヨーロッパでの戦争のために植民地防衛に多くのアジア人を使わざるを得ませんでした。イギリスはイギリス帝国を守るために大量のアジア人を使うわけです。インド人、マレー人、中国人がイギリス軍に入って戦うことになりました。実際に戦ってみると、イギリス兵は全然勇敢ではない、我々アジア系の方が勇敢に戦っている。そういう戦闘の中で、白人が優れているというのは神話にすぎなかったのだ、という体験がされたのだろうと思います。同じことが、他のところでも言えたわけで、戦争の後半になって、イギリス軍はインドからビルマを通じて反撃しようとして、ジャングルでの戦闘のために、アフリカから黒人の部隊を連れてきますが(主にケニア辺りから連れてきたようです)、ビルマで日本軍と戦って、その経験から、白人よりも我々の方が勇敢に戦える、白人というのは別に大したことはないのだ、と黒人兵が書いています。イギリスは帝国を守るためにアジア人を動員したわけで、アジアの解放とかアジアの人々に自信をつけさせるためではなかったのですが、白人神話がまさに神話に過ぎないのだと気づいていく、そういう結果になったわけです。

 マレー半島・シンガポールでは、戦後、日本軍の支配があまりに酷かったのでイギリス軍の復帰を歓迎しますけれど、イギリスが戻った時、従来の植民地支配が復活できるかというと、白人神話が完全に崩れさっていて、イギリス軍は最後まで戦わないで降伏し、それによって現地の、特に中国系の人々が虐殺された、イギリス軍は一番大事な時に自分たちを守ってくれなかった、という思いが一方にあって、しかも我々は白人に守ってもらわなくても自分たちの力でできるのだという確信も生まれつつあったのではないかと思います。このことはシンガポールの教科書でも非常に強調されています。中国人とマレー人が勇敢に戦ったと強調されています。シンガポール政府が教科書でそのように扱っているのは、多民族国家であるシンガポールをまとめるためにナショナリズムを創るという政治的材料のために使っているので、そのまま鵜呑みにはできないのですが、戦争中の体験の中でアジアの人々が自信をつけていくという側面がありました。

 東南アジアの問題を議論する時に、例えば日本軍がインドネシアなどで現地の軍隊を育成した、そのことが戦後、東南アジア諸国が独立するのに役立ったのだと日本のしたことを正当化する議論があります。第2次世界大戦というのはまさに総力戦で、帝国主義国は帝国を守るのに自分たちのマンパワーだけでは足りなくて植民地の人々もフル動員せざるを得なくなり、日本もイギリスもフランスもオランダも全く同じ状況でした。帝国主義国が自分たちの利益のために植民地の人々を使った結果、自分たちの基盤を掘り崩してしまったという皮肉なことになった。シンガポール戦はそのような例ではないかと思います。

 

5.辻政信と戦後の日本人

 もちろん、日本軍がこのような住民虐殺を行った、このことは日本人に突きつけられた重要な問題で、それはそれとして考える必要があると同時に、シンガポールの人々が日本軍にやられただけでなくて、シンガポール戦での経験から戦後の彼ら自身の歩み、戦後の力を創っていった。そういうアジアの人々の主体性を見る必要があるのではないかと思います。

 最後にひとつだけ付け加えますと、華僑粛清を中心となって計画した辻政信という人物がいます。年配の方はご存じだと思いますが、シンガポールから東京に帰る途中、フィリピンによって、フィリピンでは「バターン死の行進」が有名ですが、そこで捕虜など殺してしまえといろいろ言っています。その後、ガダルカナルでも大本営参謀として乗り込んで、多くの日本兵を餓死に追いやった現地の責任者です。彼は戦後、このままでは戦犯として追求されるということで、東南アジアで潜伏して逃亡します。その時、彼を匿(かくま)ったのは中国国民党で、辻は、自分は共産勢力対策の専門家だと国民党に売り込んで、国民党を支持する多くの中国人が辻たちによって殺されたにもかかわらず、国民党は辻を利用します。一方、イギリスが辻を華僑虐殺の張本人ということで戦犯として追求し裁こうとしていました。

 この時、アメリカは、GHQの中の諜報活動を担当したG2が国民党政権と連絡を取って、イギリスの戦犯追求の担当官を呼び出して、辻は我々が保護しているのでイギリスは手を出すな、と言います。イギリスはそれにもめげないで最後の最後まで追求しようとしますが、G2つまりアメリカ軍が辻を庇(かば)ったので逃げ延びます。そして、戦犯追求が終わってから、辻は本を出してそれがベストセラーになり、石川県から衆議院選挙に出て、石川1区でトップ当選します。衆議院議員を約7年くらいやった後、参議院の全国区に出て第3位で当選します。日本国民が、このような人物を、衆議院選挙でトップ当選、参議院の全国区で第3位で当選させた、そこに戦後の日本のあり方の問題、私たちが考えなければいけない問題があると思います。辻などの仲間で、当時は大本営の参謀で主な日本軍の作戦計画を大体書いていたという瀬島龍三という人物は、今でも日本政府のいろいろな審議会の会長や委員長として出てきて平然としてしゃべっています。そういう人物が日本政府の顧問役としてああしろ、こうしろと言っている。そういう現在の日本につながる問題として、シンガポールでの華僑粛清・虐殺の問題を考えなければいけないと思います。