日本人の戦前戦後の「東南アジア観」   

 

                『歴史地理教育』199312月号

 

       

               林 博史      

 


短いページ数で、明治維新から現在までの日本の「東南アジア観」をサーベイするというかなり無謀な依頼原稿でした。  2001.2.23upload


はじめに

 一九九一年の一二月八日はアジア太平洋戦争開戦五十周年にあたり各マスコミが大々的に報道した。しかし真珠湾攻撃が大きく扱われたのに比べ、東南アジア侵攻は二の次だった。マレー半島上陸作戦の方が真珠湾攻撃より早く、しかも日本の戦争目的が東南アジアの資源の獲得にあったことは周知の事実であり、そうした意味でマレー半島上陸こそが重要であるにもかかわらず、マスコミの意識はそこまで行っていなかった。また日本軍の東南アジア侵攻の象徴的な出来事が一九四二年二月一五日のシンガポール占領である。五〇年後のこの日とその前後にはシンガポールで各種の記念行事がおこなわれた。しかし日本のマスコミの扱いは小さく、あるいは無視した新聞社さえもあった。
 大学生認識を見ると、高校や予備校の先生たちの努力によって、中国に対してはひどいことをしたという認識を持っている学生が増えているが、日本が東南アジアを侵略占領し残虐なことをしたという認識がない学生が依然として多い。日本人の東南アジア認識はいまだに多くの問題があるように見える。

 

一、戦前戦中期の「東南アジア観」

 近代日本の指導者の東南アジア観の原点というべき位置にあるのが、岩倉使節団の報告書である久米邦武編修『特命全権大使米欧回覧実記』(一八七九年、岩波文庫所収)である。この報告書の特徴を田中彰氏は次の三点にまとめている(『日本人と東南アジア』小学館、一九八三年)。第一に近代化のモデルを欧米に求める文明信仰、第二に東南アジアは文明と無縁の怠惰な人々のいる所という南洋怠惰観、第三に日本の富強のための東南アジア資源着目論である。東南アジアの人々を「土人」「土民」と蔑みながら、その資源を利用して日本の近代化を進め、欧米並みの帝国主義国にのし上がっていこうとする発想であり、まさに「脱亜入欧」の思考である。

 こうした発想がその後の日本の近代の中でどのように変わったのか、変わらなかったのか、は今後の研究課題だが、アジア太平洋戦争期は上述の第二と第三の意識が極度に強まった時期と言える。
 開戦直前に大本営政府連絡会議で決定された「南方占領地行政実施要領」は「重要資源の急速獲得」をうたっているので有名だが、その中には「原住土民」という言葉が使われている。
 シンガポールやマレー半島での華僑虐殺を煽動した辻政信が、南方に派遣される兵士のために作成した大本営陸軍部のパンフレット『これだけ読めば戦は勝てる』(一九四一年)の中に「土人を可愛がれ、併し過大な期待はかけられぬ」と見出しが付けられた箇所があり、「土人は懶けものが多く、又三百年の久しい間西洋人から抑へられ、支那人から搾られて来て全く去勢された状態にあるから之をすぐに物にしようとしても余り大きな期待はかけられぬ」と決めつけている。戦争中の文献にはこうしたことを平然と書いているものが多い。あるジャーナリストは「マレー戦線では破壊さるべき文化は殆どない。人間のゴミ溜の様なこの半島は、殆ど文化らしきものを持っていない」(酒井虎吉『マレーの民族』一九四二年)とまで書いている。こうした偏見が民衆にたたきこまれていった。そのことが日本軍による住民虐殺や過酷な軍政の背後にあったことは言うまでもないだろう。

 

 では民衆レベルの東南アジア観はどうだったのだろうか。             
この点については研究が進んでいるとは言えない。鎖国が終わり近代になってから一般の民衆がシンガポール、蘭印、フィリピン、タイなど各地に渡っていった。女性が男性よりかなり多く、その女性の多くが娼婦だった。いわゆる「からゆきさん」である。ほかには村々をまわる行商人や雑貨屋、床屋、写真屋、ゴム園、漁業などに従事した。日本社会の底辺部にいたと見られる人々が東南アジア各地に渡り、国家や企業のバックアップなしに村々を回り、土地の言葉を覚えながら身振り手振りで商売をしていく人々の世界は、岩倉使節団や後に進出してくるエリート社員の世界とはまったく違ったであろう。そこには民衆レベルの人間的な関係が端緒的ではあれ形成されつつあったのではないだろうか。

 しかしその後、日本の帝国主義国としての台頭、日本企業の進出の中で、そうした人々は日本社会から見下される存在になっていった。シンガポールでは一九二〇年に日本領事館の主導によって日本人娼婦の廃娼が断行され、彼女らは地元の男性と結婚したり日本に帰ったりした。この措置は女性の人権の観点からではなく、第一次大戦後、国際連盟の常任理事国として欧米諸国に肩を並べた帝国主義国日本にとって、日本人女性が東南アジアの地元男性に売春しているのは「国辱」であるという意識からであった。

 ところで、東南アジアという言葉を使ってきたが、この言葉が一般的になるのは戦後であり、戦前の日本人にとっては「南洋」「南方」という言い方が普通であった。「南洋」の範囲は必ずしも明確ではないが、第一次大戦後日本の委任統治領となった南洋諸島が「内南洋」、それに対して東南アジア地域が「外南洋」と区別される。民衆のレベルにまで「南洋」イメージが浸透していくのもこの頃からではないかと思われる。その代表的な例が、有名な「冒険ダン吉」である。             
   
島田啓三によるこの作品は一九三三年から『少年倶楽部』に連載され人気を博した。この中で、日本人少年ダン吉は白い顔で描かれ、ダン吉王に従う島民は腰みのだけの裸の「黒ん坊」として描かれている。未開で野蛮な熱帯の「土人」たちと彼らを指導し「文明」をもたらす日本人というイメージがマンガによって視覚化され、民衆レベルでのイメージ形成に貢献しただろう。
 一九三六年以降、「南進」が国策となり東南アジア侵略が現実味を帯びてくる中で、民衆レベルの歴史の歪曲がなされていく。その一つの例が山田長政である。山田長政は「ふつう描かれているような『山田長政』を、実在の人物と思わないのが学者の良心というものであろう」とされている虚妄の人物である(矢野暢「『山田長政』神話の虚妄」『講座東南アジア学十東南アジアと日本』弘文堂、一九九一年)。それが「大東亜の建設に邁進する心構え」を培うための教材として国定教科書に取り上げられ、その虚像が全国に広められていった。その虚像が今なお根強い影響を持っている。

 もう一つの例が沖縄である。琉球王国は一四世紀から一六世紀にかけて中国・朝鮮や東南アジア各地との交易を通じて繁栄した。また別の性格のものではあるが、明治末以降多くの移民を出してきた(人口比では第一位)。琉球の独自の歴史は、皇民化に反するものとして抑圧されてきたが、紀元二千六百年である一九四〇年ごろから急にそうした歴史にスポットライトが浴びせられた。沖縄県当局者は「沖縄人こそは、南方発展の先駆者として山田長政より二百年も前にすでに海洋民族として燦然たる発展史を形成している」と持ち上げた(大田昌秀『近代沖縄の政治構造』一九七二年)。紀元二千六百年記念事業の一つとして出版された安里延『沖縄海洋発展史』(一九四一年)は、歴史書としての評価は別として、東南アジア侵略へ沖縄県民を駆り立てるために利用された例である。

(注)一昨年来、首里城の再建、NHKドラマ「琉球の風」の放映など一種の琉球ブームになった(結局、一部業界が騒いだだけだったようだが)。このドラマのセットはスタジオパークとして読谷村に作られた。読谷村は日の丸・君が代を拒否し、琉球の独自の歴史をベースにユニークな平和行政に取り組んでいる村である。このスタジオパークはこの読谷村と、沖縄の保守勢力を代表する国場組との合作と言える。「琉球の風」が、政治軍事大国化をめざす動きに利用されるか、単に建設業界と観光業界(国場組は両者の代表でもある)の利益のための道具になるのか、それとも沖縄が日本という国家の枠組みを超えた独自の経済・文化・平和を作っていくことができるのか、それらのせめぎあいが「琉球の風」の背後にある。

 

 

二、戦後の「東南アジア観」

 戦後、日本が戦争責任をきちんととらなかったことは言うまでもないが、しかし中国や朝鮮に対しては加害の事実を認識し誠実な対応をとろうとした人々がいた。しかし東南アジアに対しては、侵略したという意識はきわめて希薄だった。
  
東南アジア諸国に対して賠償あるいは賠償に準ずる経済協力がなされたが、侵略戦争の責任はあいまいにしたまま、もっぱら経済進出をはかるためでしかなかった。逆に日本が東南アジアを独立させたという議論がいまだに横行しているのが現実である。「独立させた」という認識の仕方自体に優越感に浸った傲慢さを感じさせる。
 戦後保守政治の基礎を作った吉田茂は、アジアやアフリカは民度が低く未開発であり、アメリカの資金と日本の技術で東南アジアを開発し「自由主義」を植えつけていくという認識を述べているが、これは明治以来の指導者たちの発想と同じである(『回想十年』第一巻、一九五七年)。
 近代以来の東南アジア観を、反省を与えられる機会がないままに戦後に引きずってしまった。東南アジア侵略が本格的に問題にされるようになったのは、ほんのこの数年来のことでしかない。

 日本企業の経済進出の中でたくさんの日本人(会社員とその家族)が東南アジアに出ていくようになった。谷口恵津子『マダム・商社』(学生社、一九八五年)は、商社員の妻としてインドネシアに住んだ時の体験を記したものである。インドネシアでは、かつての植民者のオランダ人やインドネシアの上流階級が住むような、一般のインドネシア人の年収の数倍もするような家に住み、お手伝いや運転手を雇うのが当たり前である。夫人たちはお手伝いのことを「家に泥棒を飼っているみたい」と言って冷蔵庫に鍵をかけたり、卵に123と番号をつけたりする。「義理とか恩などは無縁です。同じ人間だからというような同情や勝手な信頼を寄せてはいけません。まして何かを期待するなどとんでもないことです」と決めつける。日本からやってきた夫人に会った時「いつも色の黒いインドネシア人と、陽に焼けた日本人ばかりをみなれている中で、その方の色の白さ、肌の美しさ、そしてやさしさが印象的でした」と率直に書いている。
 この本はそうしたことを批判的に書いているのではない。著者は自分の感性に疑問を持つことなく自慢げに書いている。こうした優越感と傲慢さに満ちた偏見が、日本の経済進出の中で増長されていることがはっきりと示されている。
 一九七〇年代以来、アフリカの飢餓救済などかわいそうな人たちを助けてあげましょうという「慈善」キャンペーンが行われているが、それらはそうした意識を補強しただけではないだろうか。「慈善」は優越感と表裏一体でしかない。

 一九八四年に高校生を対象におこなわれた世論調査では、「アジアのイメージ」として挙げられた言葉は、「貧困・飢餓・食糧不足」「発展途上(国)・後進(国)・未開発(国)・遅れている」「広大・大陸」「難民」というのが上位に並んでいる(村井吉敬ほか『アジアと私たち』三一書房、一九八八年)。
 最近の東京女子大生の東南アジアのイメージを見ると「貧困だとか内戦だとか、マイナスイメージがずっと先行してしまう」「新聞や本で何かが起こっていると知っても、それはほとんど無残な汚い暗いイメージ」「東南アジアに限らず、アジアというと、イメージが悪く、貧乏っぽい、汚い、発展途上国等をすぐ連想してしまうんです」というようにマイナスイメージが先行している(牟礼キャンパス有志編『二十歳の見た同時代 東京女子大現代史レポートから』汐文社、一九九三年)。

 この間のカンボジアをめぐる一面的な報道のラッシュは、内戦や貧困、大国の力を借りなければ自立できない人々、というようなイメージをふりまいていった。そうした東南アジアなどへの優越感をかきたてながら、平和で豊かな日本が彼らのために何かしてやらなくてはならないという「国際貢献」論が出てきた。
 経済大国化を背景として、湾岸戦争を期に一気に吹き出した「国際貢献」論、特に政府や自民党などから出てきた「国際貢献」論は、「軍事貢献」をねらいとしたものであり、それに反対する人々は非軍事的=平和的貢献を主張した。両者は相対立するものではあるが、「国際貢献」論という点では同じ土俵に乗っかった議論になってしまっていた。

 「国際貢献」論に共通するものは、第一に日本の国際的孤立を避けるという日本の都合から出た議論であり、第二に「貢献」される側の人々の都合を考えない、一方的な議論になっており、第三にその当然の帰結として、同じ人格を持ったパートナーとして共に生きる=共生という発想や相手からも学ぼうとする姿勢が見られないことである。
 明治以来の指導者たちの発想を引きずった「軍事貢献」論に対して、後者の平和貢献論を同列で批判するのは乱暴ではあると思うが、東南アジアなどアジア・アフリカの人々への優越感を感じざるをえない。

 しかし「国際貢献」論とは異なる発想も着実に育っている。二〇年前、独立したばかりのバングラデシュの救援活動に入っていった青年たちがいた。彼らを母体にして生まれたシャプラニール=市民による海外協力の会は、次のように述べている。「当時、世界でもっとも貧しい国といわれたバングラデシュの農民は、貧しいけれど、純朴でたくましく明るい人たちであった。農民たちと接していく中で、若者たちは、彼らが本当に欲しているものは同情や哀れみや、それを起点とする『援助』ではないことに気づく。『援助をする』というのは豊かな国に住む者の奢りでしかない、との反省にたどりつくまでに、そう多くの時間を必要としなかった。」(シャプラニール『NGO最前線 市民による海外協力20年』柏書房、一九九三年)
 日本国際ボランティアセンターからカンボジアに派遣されることになった大西睦美さんは新聞のインタビューに答えて「精神的には、むしろ教えてもらうことの方が多い。物質的に豊かな日本にいると、本当の豊かさを見失いそう。新しい自分を発見してきます」と語っている(『愛媛新聞』一九九一年八月四日)。奢りのない、謙虚さと健全さを感じさせる言葉だ。
 一九八〇年代から広がってきたNGOの活動の中で、従来の東南アジア観とはまったく違う青年たちが生み出されている。国家の威信をバックにするのではなく、同じ人間としての共感と信頼を育てる中で、共に生きていこうとする人々の営みは、近代の初めに国家から見捨てられて東南アジア各地に裸一貫で渡り、東南アジアの人々の中で生活を築いていった無名の人々の思いを、現代の人権と平和にふさわしい水準に発展させているものと考えられないだろうか。最近の戦争責任・戦後補償の市民的運動の広がりも併せて見る時、近代日本の東南アジア観に見られる問題を克服しうる主体が育ってきていることが九〇年代の特徴である。
 近代以来の日本人の東南アジア観を克服する課題は、日本が政治軍事大国への道を歩むのか、平和と人権をベースにした地球市民への道を歩むのか、その選択と直接関わる問題なのである。