保守政治と町会
―大都市における町会活動の変容について―

『一橋論叢』(一橋大学)97巻2号、1987年2月

林 博史


 これはずいぶん前に書いたものです。ちょうど豊島区議会史の編纂の仕事を引き受け、そのために豊島区のさまざまな組織の資料を見る機会ができました。そのなかに町会の資料があり、高度成長期の大都市部での保守の変容と町会の変化を関連づけて見られるのではないかと思い、書いたものです。私としては、前年に藤原彰・荒川章二氏と共著で『日本現代史』(大月書店)を出し、戦後史に本格的に取りかかろうと考えていた時期の論文です。ただその後、戦争研究に引きずりこまれてしまいましたが。なお『豊島区議会史 通史編』(1987年3月刊行)の、「第5章 高度成長期の区議会」の「第3節 多党化状況下の区議会と参加型区政」「第4節 自治権確立運動の展開」を執筆しています。  2001.1.29記



はじめに

 一九六〇年代から七〇年代初めにかけて、高度成長の矛盾が顧在化する中で、様々な住民運動や市民運動が盛りあがり、革新自治体が全国に広がっていった。中央レベルでは佐藤長期政権が続き、自民党は得票率は低下させながらも安定多数を維持していたが、地方レベル、特に都市部では新しい状況が生まれていた。東京においてはすでに一九六五年に都議会議長選挙をめぐる汚職事件により自民党は都議会で過半数を割り、一九六七年には革新都政が誕生していた。一九七一年には美濃部都知事が三六〇万票という圧倒的支持により再選され、大阪でも革新府政が生まれた。保守政治は、こうした下からのうねりによって、立て直しを迫られたのである。
 本稿では、こうした時期における保守政治の変容と再編を考えるための一つの素材として、都市における保守党の有力な基盤である町会をとりあげ、町会のあり方が、この時期にどのような変容をとげたのか、について検討したい。

  ここで町会に関する研究について少しふれておくと、町会に関する研究は、社会学者を中心に分厚い蓄積がある(1)。ただ本稿の関心との関わりでいえば、一般に従来の研究は、町会の活動・性格をそれぞれの時期の政治状況の中で位置づけ、その歴史的変化を見ようとする視点が乏しい。また町会が保守党の基盤となっていることはしばしば指摘されているが、保守政治の内容とその変化との関連でとらえる議論は、ほとんどおこなわれていないように見受けられる。こうした研究状況をふまえ、本稿は現代史研究からの一つのアプローチである。
 本稿では、東京豊島区の町会連合会をとりあげて検討したい(2)。
 なお保守政治と町会のそれぞれの変容は、その連関を必すしも両者だけで説明できるものではなく、他の諸要素を含めて検討しなければならず、本稿では両者の連関については最後に展望するにとどめる。

(1)研究の整理については、吉原正樹『地域社会と地域住民組織』八千代出版、一九八〇年、中田実監修・東海自治体問題研究所編集『これからの町内会・自治会』自治体研究社、一九八一年、鈴木広・高橋勇悦・篠原隆弘編『リーディングス 日本の社会学7都市』東京大学出版会、一九八五年、参照。なお筆者は、町会を前近代的な組織とする見解はとらない。むしろそれぞれの歴史的段階や状況の下での町会の機能を客観的に位定づけることが必要だと考えている。
(2)豊島区の社会経済的状況は、『豊島区議会史』通史編(一九八七年刊行予定)を参照していただきたい。この豊島の例を全体の中に位置づけることが必要であるが、現状では各地の実証事例が乏しすぎる。この点は今後の課題としたい。なお町会連合会をとりあげるのは、史料上の制約もあるが、その方が保守区政とのかかわりがはっきりすると思われるからである。本稿で使用した史料の多くは、豊島区議会史研究会が収集したものであり、その利用によって本稿が可能になった。研究会のみなさんに感謝したい。

  一 末端行政への協力


 一九五八年に豊島区町会連合会(以下「町連」と略記)が結成され、まず取り組んだ仕事が防犯灯の設置とその維持管理であった。この時期、大掃除やはえ蚊をなくす運動などの環境衛生に関することと防犯運動が町会の仕事の中心であり、かつ住民から期待されていたこと(2)であった。
 町連にとって結成以来一九六〇年代を通じて一貫して大きな課題であったのが、区政地区委員会制度の改革であった。
 豊島区では一九四九年、町会が廃止されている状況の下で、「区政の末端浸透を図るため」「区政への協力機構」として区議と学識経験者を委員とする地区委員会を設置した。その後、一九五二年一〇月に町会解散を命じた政令15号が失効し、各地区で町会が復活あるいは公然化してきた。町会は、地区委員会の役割は町会のテリトリーを侵すものと考えた。そして一九五九年には町会の要求により、地区委員会に町会代表がれわることになった。だがこれは中途半端な改正で、町連は地域の行政協力機構を町会に二元化することをめどしていた。そして単なる任意団体でなく、行政によって公認されることをめざした。       
 地区委員会の活動の内容を見てみると、一九六七年には一年間に一一地区(出張所ごとに設定)で計七一回の委員会が開かれ、交通安全運動、春季大掃除、夏期衛生対策、歳末助け合い運勘などの案件が扱われた。これらの案件の多くは、区が地区委員会に協力を要請する形であるが、同時に区は各町会に対しても協力を要請していた(4)。地区委員の構成は、一九六八年一月現在で、一一地区をあわせて、区議四八人、学識経験者三七人、町会代表一二九人(5)となっており、地区委員会に協力を要請することは、実質的には町会長を集めて協力を要請するのと同じような状況になっていた。
 町会は、実際の仕事は町会がするのに、区義や学識経験者が加わっていることが不満で、特に区議が地区委員会を自分の選挙に利用しているという批判もあった。また区が、実際には町会を利用しながら、町会は任意団体であるとして町会に助成をせず、別に地区委員会を作っていることも不満であった。
 町連は地区委員の改選(任期二年)を前にした一九六三年八月、町会が「地区委員として区行政に協力する」としたうえで、区義を参与として棚上げし、学識経験者を除き、町会代表だけで地区委員会を構成するよう陳情書を区に提出した。この主張はこれ以後くりかえされるが、一九六八年に事態は急展開をみせた。この年二月二七日の区議会本会議で社会党議員より「地区委員会制度を廃止すべきだ」という主張が出され、区側も「再検討すぺき時期に達しておる(6)」と認めた。これをうけて町連は、四月一三日常任理事会で、「地区委員制度は廃止して原則として町会長から町会組織を通して末端行政に協力すべきである」と全員が一致し、地区委員会の廃止を要求することを決めた(7)。

 こうした中で地区委員会の任期が一九六八年三月三一日で終わり地区委員会は空白となった。一一地区のうち五地区では、町会長会を設けて,地区委員会の代わりとする申動きもおこった。その後一九六九年四月に地区委員会は廃止され、区政連絡会が発足してようやく問題は解決された。区政連絡会の委員は町会代表(たいていが町会長)だけによって構成され、区議は常任相談役として棚上げされた。区政連絡会は「区政の末端浸透を図るとともに区民の要望等を区政に反映させることとし、その効率的運営を策する」ことが目的とされ、その役割を町会にほぼ全面的に依存することになったのである。
 こうして町連は地区委員会制度の改革を実現する一方で、区の末端行政の仕事を町会の仕事として取りこんでいった。
 区は区広報『広報としま』を約五千部出していたが、一九六二年度より一一万部に大増刷して全戸に配布する計画をたてた。町連はその配布を町会を通じておこなうよう申し入れ、その結果、区広報は区−出張所−町会−各世帯のルートで配布されることになり、また配付手数料が町会に交付されることになった(9)。一九六八年には、都が都民手帳を作成して都民に配布することになり、豊島区では、区が各町会長に配布を依頼、町連としてもその配布を引き受けることとした。

 この年、区の掲示板の管理が同席となり、町連でも検討をすすめた。そして一一月一三日の常任理事会で決定した「昭和四十四年度区予算編成に際しての要望書」の第一項に「区の掲示板の整備増設と管理移譲の件」をあげた。この中で「豊島区が設備している掲示板は約三百六十力所であるがそれ等の保全は必ずしも十分でなく、その利用にも見るぺきものがない。一方各町会が独自に設備している掲示板はほぼ同数であり、それ等はほとんど、都、区その他の官分庁の示達文書の提出にあてられている」と実情を指摘したうえで、「区においでは来年度事業としで区の掲示板を新設及び補修整備し、これが管理運営を各町会長に一任する方針を建てられた予算措置を計」るよう要望した(20)。さらに翌一九六九年一一月一三日に町連は、区の掲示板三二八基と町会の掲示板約一千基を全部区の所有とし、その管理を町会長に委ね、管理料を支払う、といぅ案を決定し、区に要望した。この案に基づいて区と町連の間で話し合いがすすみ、区は町会所有の掲示板一四九基を区に移譲してもらい、区有の三一六基をあわせて計四六五基(原則として三五〇世帯に一基の割合)とし、これを一基当たり年額三千円の管理費で町会に管理を委託する、さらに一世帯当たり年一○円の割で助成する(管理費と助成を合わせて計二七九万円)、という措置を決め、一九七〇年八月一日から実施した(11)。

 こうして町連は、『広報としま』、都民便利帳の配布、区掲示板の管理など区の広報行政を末端で担う役割を積極的に要求し、町会の仕事として獲得していったのである。
 町会の活動をみると、こうしたこと以外にも防犯灯の維持管理、消灯など衛生対策、清掃への協力、交通安全運動、防犯運動、防火運動、青少年対策、都区税の納期の周知など行政の末端のすみずみにまで関わり、町会はいわば「末端行政機関」化しており、しかも町会自らがすすんでそういう役割を求めていたのである。地区委員会の改組も町会のそうした姿勢のあらわれであった。豊島区のある町会長が、「(町会は)都、区、警察、保健所、消防、神社、総てが集中する末端行政機関のめ感がある(12)」と持っているのは、実態を適確に表わしたものであろう。
 町会は、そうした行政の末端を担うことによって、任意団体としてではなく、半ば行政組歳として公認されることを望んでいたのであり、そのことに町会の存在意義を見いだそうとしていたのである。

(1)『豊島区町会連合会史』一九八○年、参照。
(2) 一九六一年八月に実施された都政モニタ一のアンケート調査によると、町内会・部落会を必要とする理由として(二つ選択)、「大掃除や蚊とはえをなくす運動等環境衛生 にカを入れるから」が七三・二%、と抜きんでており、以下、隣近所との親交三七・八%、防犯運動三三・九%、役所との連絡二四・四%などとなっている(東京都自治振興会 『町と生活』一九六二年六月号、五四〜五五頁)
(3)区民部区民課庶務係「地区委員会 地区協力員 区政連絡会 記録抄 一九六八年、(不明)「地区委員会について」一九六八年。
(4)区民課庶務係「町会・地区委員会資料」一九六八年。
(5)前掲「地区委員会について」
(6)『東京都豊島区議会会議録』昭和四三年第一回定例会(以下、区議会での発音は、同会議録の各号より)
(7)(豊島区町会連合会)「記録」昭和四三年度より(金谷勇氏所蔵)。これは町連の副会長兼事務局長−会長を務めてきた金谷氏のノートで、町連の常任理事会等の会議録や新聞切り抜き、その他関連資料が含まれており、昭和三八年度より五三年度まで計一九冊を見ることができた。以下、引用など町連関係の記述で注記のないものは、この「記録」によるものである。
(8) 区民課「町会内における区政地区委員会制度並びに町会長会結成等の動きについて」一九六八年。
(9)『町会連合会史』一三五頁。
(10)豊島区町会連合会「第拾壱画回定期総会議案」一九六九年六月一五日。
(11)『豊島区町会連合会史』一三九頁。なお基数については「記録」の数値と食い違っているが、「記録」の数値では計算があわないので、『会史』の数値をとりあえず使用した。
(12)東京都市政調査会『東京における地域社会組織』一九七一年、一四八頁。
(13) 町連では、一九六七年五月一二日の常任理事会で「各町会長は無報酬で町のために奉仕しており、その上、区及び各種官公庁からのいろいろな依頼業務に応じているが、何ら報いられるものがない」として、町会長を顕彰できるよう、区表彰条例の制定を求めることとし、一九六九年三月に実現をみた。これは上から行政により顕彰されることによって町会活動を意義つけてもらおうとする権威主義であるが、こうしたあり様は今日なお強く、民衆の主体形成の問題として重要である。

  ニ 区−町会関係の再編


 掲示板管理の町会委託が始まった直後より、区の中から町会に安易に仕事を押しつけることへの反省の声が出てきた(1)。また区広報の配付や掲示板の管理がうまくおこなわれていないという問題があった。そこでは区は一九七一年一月におこなった区政世論調査の中で、『広報としま』の各家庭への配付状況を調ぺたところ、「毎月届く」六〇・一%「ときどき届く」ニ六・八%「全く届かない」一〇・五%という状態で、しかも一日付のものが一〇日までに届くのは「毎月届く」と「ときどき届く」を合わせた中の三一・六%にすぎなかった。
 また七月には掲示板のポスター貼付状況を調ぺたところ、三枚貼ってあるぺきなのに、三枚とも貼ってあったのは四六五基中二九基六・二%、一〜二%が五九・六%ゼロが三一・八%であった(3)。
 『広報としま』はかねてから配付状況が悪いことを指摘され、町連でもしばしばその改善を各町会長に要望していたが、この調査結果は、区にも町連にも大きな衝撃を与えた。
 区では、七月に新しく選任された日比寛道区長が「この際、区の行政諒内会との具体的協力関係について基本的に再枚許したい」と区庁観で発音し、本格的にその検討に入った。
 一方、町連でも七月十二日の常任理事会でこの問題が議論になり、「三〇〜五〇%の町会はよくやってくれているが、……半数近くは広報も掲示板も共に区との約束は守られて」いないことを認めざるをえなかった。ところで各町会の間では、行政や各種団体から依頼される仕事が多すぎることへの不満はかねてから強く、一九七〇年の調査でも回答のあった豊島区の町会長八一人中六二人( 七六・五% )が、区から依頼される仕事が多すぎる、と答えている(5)。
 一方、住民の意識については、目白一二三町会の住民に対する調査によると、町会という言葉よりうける感じについて、「地域の親睦のための組織」三五・一%、「自治活動のための組織」三五・一%、「区・都の行政補助機関」一八・一%、などとなっているが、町会がある方がよいと答えた七五・九%の人に対して、その理由を間うたところ、「親和のため」四九・八%、「自治活動のため」三八・八%、「区・都の下請仕事をするため」四・一%、となっている(6)。つまり町会が行政補助枚関であると受けとめている住民が割合存在するが、町会にそういう仕事を支持している住民はほとんどいない、むしろ親睦や自治を期待するというのが住民の意向であった(7)。「末端行政機関」を志向する町会のあり方は、住民の意識とも著しくずれをみせ、そのため住民の町会活動への協力を得られないままに一部の幹部だけが次々と行政から依頼される仕事にふりまわされ、行政からはその見返りを与えられず、住民からも評価されない、という不満を町会幹部は持たざるをえなかったのである。
 一九六〇年代を通じて町連がめざした町会のあり方は、区当局の側からも、また町会内部からも再検討されざるをえなかったのである。

  町連は区との協議をへて、一九七一年一二月一七日の常任理事会で、区広報の配付を返上することを、さらに翌七二年二月一七日には、掲示板の管理と便利帳の配付も返上することを決定した。なお区は、区広報は新聞おりこみとし、掲示板管理と便利帳配布は業者に委託することとした。「行政の責任として当然区がやるぺきところは区がやる」という原則が確認されたのである。この結果、町連は重荷になっていた下請仕事が軽減され、活動の重点をゴミ減量運動と防災対策に移し始めた。区もそれを期待し、一九七二年度の区予算に初めて町連への助成金三〇万円を計上」した(9)。
 ゴミ減量運動は、一九七一年九月に美濃部都知事がおこなった「ゴミ戦争」宣言をうけて、豊島区ではゴミの自区内処理ができないという状況の下で考え出されたもので、七二年初めより区の呼びかけで始められた。この運動にはゴミの減量とともにゴミ問題の認識の普及や資源の回収という意味があった。町連はこの運動に積極的に協力することを決め、町会が中心になって、古紙・布・ビン頬などを回収し、これらを資源回収協同組合に買い上げてもらうという「豊島方式」による運動に取り組んだ。これには区内一三一町会を一四プロックにわけ、各プロックごとに月一回定例日を設け、表1(省略)のように半分以上の町会が参加し、参加世帯数も過半数を超える幅広い運動となった。一九七二年度においては町連が「ゴミに始ってゴミに追われた(10)」と自認するほど町会をあげての取り組みとなった。   

 一方、防災対策であるが、一九七二年一月の町連と区長との懇談で震災対策について話し合われ、区の要請もあって町連としても震災対策に積極的に乗り出すことになった。            
 当初は、消火器普及のために助成を要望するというようなことであったが、一九七三年一月の町連主催の新年区政懇談会で、金谷町連会長は、町連が取りくむぺき課題としてゴミ問題とともに「特に大震災時の混乱するであろう時の町会並に町会長、幹部のあり方を十分検討して対処することに重点をおきその使命を全うしたい」と震災対策を取り上げた。そして四月二六日町連と区長との懇談会で地域防災組織づくりについて話し合われ、六月の町連定期総会でも地域防災組織づくりが強調された。大震災においては「直接自らを守らなければならない」「初期対策は町会が主力となる可きだ」(一〇月一三日常任理事会)という認識の下に、地区防災編成表を作り、町会区域内の住民を対象に防災訓練を実施する町会もでてきた(11)。
 区は一九七四年六月に町会を単位として地域防災組織をつくる案を提示し、町連も区の方針にのっとって組織づくりに取り組んだ、そして七五年一月には九〇近い町会で組織づくりを完了、六月には一三一の全町会で完了した。
 この地域組織づくりなどの震災対策への取り組みには、ゴミ減量運動ほどの住民の参加はみられないが、地域の自衛という点から全住民をまきこんだ運動にしようとする傾向は見受けられる。
 町連のこうした活動が、住民の積極的な参加を得、町会活動の活性化につながっているとは必ずしも断定できないが、少なくとも町連が、一部の町会幹部が専ら行政の仕事を請負い、「末端行政機関」化しようとする、いわば上のみを向いた姿勢から、町会の活動の基盤を住民の中に求めようとし、住民ぐるみの町会活動にしていこうとする姿勢を持ちはじめた(12)、とはいえよう。この変化は同時に町連と政党との関係の変化と並行してすすむのである。

(1)『豊島新聞』一九七一年一月一二日。
(2)豊島区『区政世論調査』一九七一年、『広報としま』一九七一年四月一日。
(3)『豊島新聞』一九七一年七月二〇日。
(4)『豊島新聞』一九七一年八月一七日。
(5) 前掲『東京における地域社会組織』六一頁。
(6) 同前一一六〜一一九頁。なおサンプル数は、アンケート配布二五五、内回収一九四。
(7)住民の町会に対する意識が時期によってどのように変わっていったのかがわかるような調査は管見の限り見受けられなかったが、一、の注(2)で見た一九六一年における調査に比べて、七〇年代には住民の意識はかなり変わってきているといってよいのではなかろうか。もう一例あげておくと、一九七五年の都下の調査(都内一〇〇〇人対象、回収七五五人)では、「町内会・自治会の一番大切な目的」として、地域の親睦と住民の不満や問題の解決をあげる人が共に約四〇%にのぼり、「区・市・町・村と相互に連賂をすること」は一二・一%にとどまっている(東京都都民室『自治意識と都民参加に関する世論調査』一九七五年)。全体的に親睦や自治、地域の問題の解決(新興住宅地に多い)などに期待が集まっているといえよう。
(8)区長の発言、一九七一年七月一五日町連との懇談において(『豊島新聞』一九七一年七月ニ○日)
(9)『豊島新聞』一九七二年二月二九日。
(10)町連定期総会における金谷勇会長のあいさつ(一九七三年六月八日)       
(11)駒込第一町会が−九七三年一一月四日に防災訓練を初めて実施し、参観者含めて約三六〇人が参加した。なお七
 三年六月の町連資料によると同町会区域内の世帯数一〇八〇、加入会員数六ニ○となっている。
(12)この頃には、「最近漸く『東京都民公害・災害自衛本部組織を町会が中心になって組織しよう』という住民の生活防衛という自主活動が認められ注目される」(前掲「東京における地域社会組織』八五頁)ようになっていたし、町会活動が「会員の親睦と文化活動に向けられつつある」 (国民政治研究会編『岐路に立つ町会』新宿区新聞社、一九六九年、ニ五―ニ六頁)ことも指摘されている。このことは町会と行政との関係が弱くなったとか軽視されるようになったということではなく、そのあり方が変化したということである。なお地域防災組織づくりは、危機管理論の視点からその問題点が指摘されており、その点は認めたとしても、町会が住民を基盤にした、新しい契機を持ちつつあることをここでは確認しておきたい。

  三 町会と政党

 ここでは町連と政党との関係の変化を見よう。
 町連は保守区政・自民党との結びつきが強かった。たとえば豊島区では一九六七年の区長選任まで自民党単独与党の区長であったが、その六七年の区長選任の際には、「町会連合会として区民不在の政治が行なわれては困るという見地から特に区長問題を常任理事会にて時間をかけて検討した結果、常任理事会としては、木村区長を信任して再選せられるよう区議会議長に会長談話の形式で申し入れることに決定」し、町連会長が区議会正副議長を訪ね、木村現区長の再選を申し入れている。この時にはちょうど区議会内で、現行方式で区長を選任せよとする自民党と、区長の空白期間が生じても区長公選実現を優先すぺきであるとする野党とが対立していた時で、その中で町連は、自民党の主張を一方的に支持し、自民党区長の再選を求める動きをおこなったのである。
 また町会は自民党の有力な基盤でもあった。たとえば、一九六三年から七五年までの四回の区議選で当選した自民党区議は計五〇人であるが、その内町会関係者は判明したかぎりで二三人と約半数にのぽっている。さらに表2(文末に掲載)をみると、一九六三年までは自民党区議の約六割を町会関係者が占めており、落選した現職の町会長を含めると、多数の町会関係者が自民党から区議選に出ていることがわかる。また自民党から区議選に出ようとする場合、まず地元の町会に働きかけて、その役員たちの支持を得ることが求められるので(2)、町会役員でなくても自民党の区議になろうとする者にとって町会との結びつきは不可欠であった。
 その他、一九六〇年代においては、町連の定期総会には自民党代義士の中村梅吉(代理の時もある)と自民党都議が来賓として毎回出席しており、他の政党では、社会党都議が六五年と六九年の二回だけ(一九六三〜七三年の間)出席しているにすぎない。豊島の自民党はほぼ中村梅吉派といってよく、それと町連は深く結びついており、自民党区政ともそうであった(3)。

 しかし、こうした状況が一九七〇年代に入り少しずつ変わってきた。
 町連は一九六六年度の予算編成期以来、毎年一一月頃に区長と区議会議長に対し、予算への要望書を提出し、区と交渉してきた。ところが一九七〇年一一月に七一年度予算編成に際しての要望書を出したあと、各政党にも働きかけることとし、一二月には自民党二会派の正副幹事長と、翌年二月には社会党と会談し、「町会の実情と区予算案に対する要望書の説明」をおこなった。この会談は町連にとって「成功裡に終了し」両党と「今後再会することを約束」した。これまでは区当局と交渉するだけであったのだが、町連と町会への助成などその要望がなかなか実現しないこともあって区当局だけでなく、区議会の各会派へのはたらきかけも姶めたのである。続いて一九七一年四月で任期が切れる区長の選任について、二月一三日の常任理事会では、前回の六七年と違って「現段階では見合せること」に決定した。また区議選についても事務局長が、町連加入の町会長の候補者に「祈必勝」のポスターを持参して激励してはどうかと提案したが「町連としては実施しないことに決定」した。
 一九七五年の復活した区長公選の際には、日比寛道現区長が自社公民四党の堆薦で立候補を表明し、共産党が独自候補を探しているという状況下の二月に常任理事会で議論がおこなわれた。その中で、

 一、町会連合会は一党一派にかたよらず各党と交流をもってきた
 一、特に共産党が日比区長に未だ同調していない
 一、各町会の動きは各個になされており連合会として制約しておらないし最近の各町会は政治的動きをさけている傾向が強い
 一、町会長の一部の人が別の組織をつくって積極的に動いているから希望者はその方で活動してもよい
 一、日比区長の選挙には不安が少ない

などの意見が出され、「町会連合会としては日比区長推薦の決議をしないことに決定」した。さらに区長選にあたって「町会連合会の名称を一切用いさせないこと」「会長、副会長個人も町会連合会長、町会連合会副会長の肩書を用いないこと」とし、ただし会長、副会長が肩書なしの個人名か他の団体の役職名で行動することは「制約しない」ことに決めた。この決定は、区長選においても町連として選挙活動には関わらないようにしようとする姿勢を明確にしたもので、一九七九年の区長選・区議選においてもこの点は再確認されている。
 こうして一九七一年以降、区議選だけでなく区長選においても町連が特定政党・候補に関わらない政治的中立の姿勢をはっきりさせるようになったのである。こうした姿勢は、町連の定期総会や毎年一月の新年懇談会への来賓の招待の仕方にもあらわれてきた。総会の来賓は先に述ぺたようにほぼ自民党議員だけであったが、一九七四年六月の総会においては、都議では自民党だけでなく、共産・公明両党からも出席した。区議では各会派の幹事長を招待し、社会・共産両党は欠席したが公明・民社両党幹事長が出席した。この年より各都議と区議会各派の幹事長を招待するようになった(七五年には社共両党幹事長も出席した)。
 新年懇談会においては変化は少しはやく、一九七一年までは総会と同じであったが、七二年には社公共三党の都議も招待し、七三年には区議会各派の幹事長を招待、以後この状態が続いている。

 さて、先に見たように自社両党と懇談し、気をよくした町連は、一九七一年度の町連の行事計画の中に区議との懇談をすすめる方針を入れ、七一年一〇月一三日「各党の代表と逐次懇談して町連及町会の意志の伝達を図ること」を決定、七二年二月自民党、三月社会党、公明党と懇談をおこなった。
 この中で社会党は、以前は区議会において「町会連合会で一党一派を支持する話し合いが行なわれていることは不審を持たざるを得ません。百歩を譲っても、一党の選挙母体になるような要素を持つ町会連合会に安心して区の仕事をまかせることは断じてできません(4)」と町連を批判していたのであるが、この懇談の席上、社会党側は「町会並に町会連合会の必要を認めているからその育成に援助するとはっきり申され」たという。
 町連の呼びかけに応じて懇談したのはこの三党だけであるが、以後自民党と公明党が町連に懇談を申し入れ、一九七四年一一月までに自民党と七回、公明党と二回、それぞれ懇談をおこなっている。自民党が圧倒的に多いが、町連はどの党にも懇談に応ずると表明しており、区議会への陳情も全会派に対しておこなっていることからも町連の姿勢がうかがわれる。

 以上見てきたように町連は、一九七〇年代に入って、自民党とのみ結びつくことを避け、選挙においては組織的に中立を維持し、一方で区議会の全会派に働きかけ、町連の要求を実現する方針をとった(ただ実質的には自民党との関係が最も強いことは変わらないが)。
 その理由としては、一九七一年四月の区議選で自民党が初めて過半数を割るなど自民党の勢力が減退し、町会の要求を通すためにも他の政党の協力が必要となったこと、七一年七月の区長選任において自社公民四党が区長の与党となったこと、七一〜七三年にかけて共産党も区の予算案に賛成する状況にあったこと、など政治状況の変化が指摘できる。しかし同時に、ニで述ぺたように住民に基盤をおいた町会活動をつくっていこうとすると党派的な色彩を町会内に持ちこむことを避ける傾向がでてきていた。七五年の区長選における町連の態度を決めた際の議論は、そのことを示している。そういう意味で、町連の活動の変化とその政治的姿勢の変化は、一連のものといえよう。


(1)特別区長は都知事の同意を得て区議会が選任する方式で、区長公選は一九七五年に復活した。
(2)小沢今麿氏より聞き取り(一九八五年八月一三日)。自民党区議は、商店街、医師会、歯科医師会、浴場組合、環境衛生美容同業組合などからも支持をうけているが、たとえば医師会は毎回二人を推薦(『豊島区医師会三十年史』一九七九年)している。また商店街役員は、一九六三〜七五年当選者五〇人中四人(内二人は町会役員と重複)で、町会関係者に比べて圧倒的に少ない。一九七〇年におこなった豊島区内の町会長に対するアンケート調査によると(前掲『東京における地域社会組織』、都議選・都知事選で町会として侯補を推薦したことがあるのは八一人中七人(八・六%)、町会長として推薦したことがあるのは二一人(一四・八%)で、区議選においては、町会として四人(四・九%)、町会長として一一人(一三・六%)である。ただ区議選において町会長として推定したことがあるかどうかの質問には、無回答が二五人(三〇・九%)もあること、町会長就任以来、調査時点で選挙を経験していない町会長がかなりいることを考えると実際にはもっと高い数字になろう。
  だが、その推薦の事実は、町会内の住民にはあまり伝わっておらず、その効果がどれぼどあるのか、疑問がある。 ただ町会長らは地域の有力者であり、町会や町会長の名前を使うかどうかは別として、彼らの推薦あるいは支持を得ることは、区議侯補者にとって意味は大きいと考えられる。
(3)ただし、区議選においては町連として自民党侯補を推薦することはしていない。たとえば、木村区長の再選の要望を決めた一九六七年の時も、「区議会議長(ママ)選挙は、いろいろな立場がある故、格別の意見統一をさけ『明るい選挙棄権しない選挙』を実施するよう」申し合わせている。
(4)金子義隆議員の区議会本会議での発言、一九六八年六月二六日。

 まとめにかえて ―保守区政の変容―

 最後にこの時期に保守区政がどのように変容しつつあったのかについて見ておこう。
区政が顕著に変わったのは、一九七一年七月に日比寛道が区長になってからである。それまでは自民党単独与党の区長で、七〇年頃から福祉などを重視する傾向はみせていたが、住民の参加や住民との対話には消極的姿勢を示していた。日比は長年助役として自民党区政を支えてき、自民党に推されて区長になったのだが、区長になるとその姿勢を一変させた。
 日比が区長に選任されるにあたって、自民党は四月の区議選で四八議席中二三議席と過半数を割っており、社公民三党の支持も得て選任された。また区議会で否決されたとはいえ、豊島区でもこの年の初めより区長準公選運動が起こり、準公選条例制定を求める直接請求がおこなわれていた。都では、対話と都民参加を訴えた美濃部知事が、圧倒的な支持を得て再選されていた。
  こうした状況の中で登場した日比区長は、九月二八日におこなった区議会での初めての所信表明演説において、 経済の高度成長と都市生活における急激な構造変化のなかで、今日ほど住民要望が普遍約かつ多角的に顕在化し、しかもかつそれがますます拡大しつつある時代はない。住民参加とか、住民運動とかは生活防衛というかたちで燃えあがっているが、総ゆる都市問題が集約されているともいえる本区の地域社会において、区民が何を望み、何を要求しているのか、区はこれをいかに受けとめ、いかに先取りするかが今日の区政にとって最大かつ焦眉の課題であると述ぺて、区民との対話をすすめることを打ち出した。そして一一月末以来、約三年間に計三三回にわたって区民との対話集会をもち、ゴミ問題、老人対策、公園、道路など区民の声を区政に反映させていった。また予算編成にあたっても、老人・心身障害者・児童などの福祉増
進や町の緑化を重点課題とし、七二・七三年度予算案は、共産党も含めて全会一致で承認された。
 一二月には広報課を広報室に拡充し、区民相談室も設けた。また前区長時代の末に始まったことであるが、七〇年一一月に発足したモニター制度や七一年と七二年におこなった区政世論調査も区民の声を汲み取ろうとする施策の一つであった。

 以前の保守区政は、区長が公選でないこともあって、区民に基盤をおこうとする姿勢が稀薄であったが、日比区政は、区民の声を様々なルートで汲みあげて区民の中に自らの基盤を作ろうとする点で、以前の保守区政にはなかった新しい政治スタイルをとったのである。もちろんこれには、革新都政の影響がはっきりと見てとれるが、革新都政への都民の強い支持と期待を敏感に感じて、保守区政が従来のあり様から脱皮しようとしていることがうかがわれる。
 ここで区民に基盤をおこうとする場合に、区と区民の媒介になるものとして期待されたのが町会であった。対話集会では、町会長から構成される区政連絡会が活用され、ゴミ減量運動でも防災組織づくりでも町会にその中心的役割を担うことが求められた。保守区政の変容と町会の変容は、不可分の現象であったといえよう。こうした変化を生みだした要因は、何よりも住民運動・市民運動の高まりや革新自治体の増加に示される民衆の運動であり、それが保守攻治を下から揺り動かしていったことへの保守の側の対応であった。
 保守区政がこうした施策をとることによって、中間政党の公明・民社両党だけでなく社会党まで与党として取り込むことが可能になった。野党である共産党は、それへの対策を十分に示すことができず、中央レベルの問題でしか区長を批判できなかった(1)。
 一九七〇年代前半の時期は、中央レベルでは革新連合政権をめぐる議論が活発におこなわれ、それへの期待が高まっていた時期であった。東京都では社共中心の革新都政が支持を集めていた。ところが一方で、特別区レベルでは、自社公民四党が与党という政治状況が広がり始めていた。
 一九七五年の区長選においては、二三区の当選者の内訳は、自民単独推薦九、自社公民七、自公民二、野党共闘五(社共公民三、社共公一、社公民一)であった。野党の候補者の段階でみると、社共共闘が成立したのは八(社共公、社共公民も含めて)にとどまり、共産単独推薦一四と共産党が孤立化しつつある状況が示されている。このように自社公民共闘が自民単独に次いで大きな比重を占めており、社共公対自・民の対決となった都知事選とは、かなり違った様相を示していることがわかる。 社共を中心とした革新自治体が増加していた時期に、一方で、保守の変容にともなってこのような状況が育まれており、このことが七〇年代後半以降の政治状況への伏線となっているのである(2)。本稿で検討してきた町会の変容は、こうした流れの中で位置づけることができよう。

 (1)中央レベルの問題とは、たとえば、区長が政府の高度成長政策を根本的に撤回させる認識がない、といったような批判のことである。こうしたやり方では、逆に区議会の中でうきあがる結果になってしまうのである(『豊島区議会史』通史編第五章第三節6参照)。
 (2)一九七九年の区長選では、ニニ区の当選者の内訳は、自民単独推薦はわずか一に減り、自社公民一二(自社公民共の二を含む)、自公民七、自公一、社共一であり、自社公民四党推薦が自公民三党推薦と共に主流となっている(新自ク、社民連の推薦は除く)。この流れが豊島区では一九七一年から生まれていたことは、一九七〇年代前半の政治状況を見るうえで重要な意味があろう。
  なお七〇年代後半以降、一般に「保守化」「保守復調」などといわれるが、ここでは、「保守」といっても六〇年代の保守ではなく、革新との対抗の中で脱皮した新しい「保守」のあり様への支持、ととらえるぺきであろう。その内容の独自の検討は、別の機会に譲るしかない。

 

表1 (省略)


2  自民党区議の中に占める町会関係者

区議選実施年  当選者数 現町会長  町会役員経験 当選後町会 役員 町会関係者 関係のない者 新人当選者中の町会関係者 落選した現 町会長
1955 18(36) 6(7) 3(8) 3(5) 12(20) 6(16) 3/5 6(9)
1959 28(35) 6(7) 8 3 17(18) 11(17) 4/6 8
1963 31(32) 11 6 1 18 13(14) 7/11 4
1967 26(27) 5 7 1 13 13(14) 2/4 4
1971 23(24) 7 5 1 13 10(11) 4/4 3
1975 25(26) 3 8 1 12(13) 13 2/6
1979 24(25) 5 7 0 12 12(13) 1/1
出典 )  豊島区町会連合会 記録 各年度, 『豊島区町会連合会史』,自治振興課「町会並類似団体に関する調」1955 ,(豊島区)『 豊島区勢概要 』1963年,その他、より 作成
)
@ 括弧内は,保守系無所属を含めた場合の数である。
A1955は, 民主党 17と自由党1 合計
B「町会役員経験者」には,町会役員の時期が不明なものを含む。「当選後町会役員」は, 議員任期中あるいは任期終了後に町会役員に就任したものである。
C「現町会長」といっても, 入手できた町会長名簿の作成日と区議選の実施日には,ずれがある。たとえば,1963年では, 区議選は,4月30 日だが,町会長名簿は1 1 現在であり,ある程度は, 筆者の推定も含まれている。またさらに調査がすすめば,修正されることが十分ありうる。そういう意味でも,本表の数値は,中間集計的なものである。