「日本の戦後処理問題に関するピョンヤン国際討論会」
                         1993.11.7-8  

          〔報告〕「従軍慰安婦」政策の指揮命令系統について                    

                    林 博史         


これは1993年11月に平壌でおこなわれたシンポジウムで私がおこなった報告です。日本の戦争責任資料センターに参加の依頼があり、何人かで北京経由で行きました。シンポには韓国やフィリピンからも参加者がありました。この報告は、日本の戦争責任資料センターでおこなっていた共同研究の成果を私なりにまとめたものです(吉見義明・林博史編『共同研究日本軍慰安婦』大月書店、1995年、として刊行)。このシンポの後、「核疑惑」や飢餓問題などによりこうした取り組みが朝鮮民主主義人民共和国(北朝鮮)ではしばらくできなくなってしまいました。初めての北朝鮮行きだったことを含めて印象に残ったシンポでした。 2000.8.27


はじめに

                                        

 本報告では、日本の「従軍慰安婦」政策の指揮命令系統を検討し、陸海軍・内務省・外務省・朝鮮台湾両総督府がそれに関わっていたことを明らかにする。そのことにより「従軍慰安婦」問題に対する日本の国家責任の所在が明確になるであろう。

 なお本報告は、日本の戦争責任資料センターがおこなってきた資料調査と議論の成果をふまえてまとめたものである。

 

1.派遣軍による慰安所の設置

 

 陸軍の慰安所は「満州事変」直後から設置された。その後、太平洋戦争の開始頃まで、軍慰安所の設置・「慰安婦」の徴集を指示したのは、各派遣軍であった。

 1932年 3月上海派遣軍参謀副長と高級参謀が「陸軍慰安所」を作る指示を出し、参謀が設置にあたった。

  日中全面戦争開始後の1937年12月中支那方面軍が軍慰安所設置の指示を出し、この指示を受けた上海派遣軍の参謀第2課(後方担当)が案を作り、参謀長が南京慰安所の設置にあたった。

  1938年 6月北支那方面軍参謀長が、日本軍人による強姦事件が「反日感情」を醸成していることを憂慮し、なるべく速やかに「性的慰安ノ設備」=慰安所を設置することを指揮下の部隊に指示した。

  1941年 7月ごろ関東軍が 2万人の「慰安婦」を集めることを計画し、参謀が朝鮮総督府に依頼、 8千人の「慰安婦」を集めて満州に送ったと言われている。

  1942年 3月南方軍が台湾軍に「慰安婦」50名( 追加20名を含め計70名) を送るように依頼し、台湾軍司令官は憲兵を使って慰安所経営者 3名を選定し70名の「慰安婦」をボルネオに送った。この措置は事前に陸軍大臣宛に渡航許可を申請し、その許可を得ておこなわれている。

 各派遣軍は天皇に直隷し、軍令(作戦)関係は参謀総長の、軍政関係は陸軍大臣の区処(特定事項の指示を受けること)を受ける。各派遣軍はその下にいくつかの軍を従え、その軍の下に師団があった。各派遣軍ではその傘下の軍・師団などの参謀が憲兵と協力して地元住民の中から「慰安婦」の徴集にあたった。また派遣軍などが業者を選定して、朝鮮・台湾・日本に送り、それぞれの憲兵や警察の援助を得て「慰安婦」の徴集にあたった。そこでは朝鮮・台湾の両総督府や両軍司令部の協力ないしは黙認があったと見られる。

  天皇は朝鮮総督・台湾総督を任命し、指揮権を持っていた。台湾総督については拓務大臣が監督権を持ち、1942年拓務省廃止後は内務大臣が監督権を持ち、必要な指示も出せるようになった。朝鮮総督については、内務省が統理上必要な指示を出せただけで、独自性が強かった。 

 太平洋戦争開戦直前の大本営直属軍(海外)

 

  同時期の支那派遣軍の構成

 

                   支那派遣軍

 

           北支那方面軍

 

        参謀総長

 

南方軍

 

支那派遣軍

 

 

第11軍

 

大本営(天皇)

 

 

関東軍

 

 

 

第13軍

 

        陸軍大臣

 

朝鮮軍

 

 

 

第23軍

 

 

 

台湾軍

 

 

 

 

 

 

 

                                         

2.陸軍中央の統制と指導

 

  1938年 3月陸軍省兵務局兵務課が起案した「軍慰安所従業婦募集ニ関スル件」が副官より北支那方面軍に出されている。この中で、派遣軍が「慰安婦」集めのために内地に送り込んだ業者が「誘拐ニ類」するようなことをして「軍ノ威信」を傷つけるおそれがあるので、派遣軍が徴集にあたって統制し、業者の選定を適切にすること、憲兵・警察と連絡を密にすることを指示している。この文書は陸軍大臣の委任を受けて、陸軍次官、兵務局長らの決裁を得たものである。

 1940年 9月陸軍省副官より各部隊に配付された「支那事変ノ経験ヨリ観タル軍紀振作対策」では、日本軍による「掠奪、強姦等ノ悪質犯」が「多発」していることを認め、「性的慰安所」を含め「慰安施設」の「強化」を図るように指示している。

 1942年 6月陸軍医務局衛生課が起案した「大東亜戦争関係将兵ノ性病処置ニ関スル件」が副官より各部隊に出されている。ここでは性病予防のために慰安所の衛生管理に手ぬかりのないように指示している。

 先に紹介したように台湾から南方に「慰安婦」を送る際に陸軍省が許可を与えている。日中戦争の時期は、中国に派遣された軍が主体となって慰安所が設置され、陸軍中央はそれらを監督統制している形であったが、太平洋戦争開戦を控え、軍中央が慰安所設置に直接関わってきた。

 陸軍は軍医少佐を蘭印( インドネシア) に派遣して衛生状況について視察させ、1941年 7月の陸軍省内の会議で、その軍医が慰安所設置の必要性を主張している。しかも村長に割当てるという事実上強制的な「慰安婦」徴集を提案している。

 太平洋戦争開戦後、陸軍省内の局長会議・課長会議では、南方で強姦事件が多発していることが繰り返し報告され議論されていた。そうしたことをふまえて、1942年9 月課長会議において、人事局恩賞課長が「将校以下の慰安施設を次の通り作りたり。北支 100ケ、中支140 、南支40、南方100 、南海10、樺太10、計 400ケ所」と報告した。

 他方、陸軍省は1942年 3月に1942年度の陣中用品の整備計画を立て、その中で年間所要量の 8割として「衛生サック」1530万個を整備することとした。この数は、外地にいる兵士 1人にほぼ月 1個の割当てになる。現在までに確認された資料によると1942年の一年間に計3210万3700個の「衛生サック」が交付された。その交付にあたっては、陸軍省経理局建築課が主務課となり、陸軍大臣・次官の委任を受けて、高級副官や経理局長らの決裁を得ておこなわれている。またこの交付には大本営兵站総監部参謀長( 参謀本部第 1部長が兼務、兵站総監は参謀次長が兼務) や陸軍軍需品本廠長らが関わっている。陸軍省だけでなく、大本営も関わっているのである。

  これらの交付の多くは、支那派遣軍・関東軍・南方軍などからの請求に基づいて行われている。「衛生サック」は派遣軍から軍―師団―連隊  と配付され、末端の兵士たちに配給された。

 南方では当初は兵站が慰安所開設を担当したが、後には軍政機関が担当したケースが多いようである( マラヤ・フィリピンのケース) 。一方、現地部隊による暴力的な「慰安婦」の連行も多く報告されている。

  このように陸軍省の各部局や大本営が「従軍慰安婦」の徴集・管理に関わり、1942年からは直接、慰安所設置に乗り出すのである。そうした点からも陸軍の中央から末端までの軍ぐるみで「従軍慰安婦」政策が実行されたのである。

 

3.海軍のケース

 

  海軍に関する資料は少なく、断片的にわかっているだけである。

 1942年 5月海軍省軍務局長と兵備局長から南西方面艦隊参謀長に対して「第二次特要員進出に関する件」が出されている。この中で、シンガポールやスラバヤ( ジャワ) など東南アジア 6か所に特要員=「慰安婦」を送ることや慰安所の経営方針などが指示されている。

  インドネシアのセレベス南部では、民政部長官( 海軍の軍政責任者) が慰安所設置の許可と監督をおこない、経営は部隊がおこなっていたものと一般邦人や地元住民がおこなっていたものがある。

 海軍の中央や各占領地の軍政責任者が「従軍慰安婦」政策を遂行していた。

 

4.内務省・外務省

 

  日中全面戦争の開始直後の1937年 8月外務省は、外務次官名で警視総監・各知事・関東州庁長官宛に「不良分子ノ渡支取締方ニ関スル件」を出した。それまでは中国への渡航に旅券が必要なかったが、今後は渡航者の居住する警察署長の発給する身分証明書を必要とすることになった。これは内地から中国へ送られる「慰安婦」にも適用された。たとえば1937年12月福岡県知事は内務大臣と外務大臣に対して、海軍の「慰安婦」として上海に渡航する者に身分証明書を発給したことを報告している。

 中国の済南在住の日本人が、「慰安婦」募集のために帰国する旨の身分証明書を済南の総領事から発給され、大分県に来て「慰安婦」を集め、警察署に身分証明書の発給を申請した。1938年 4月大分県知事は外務省に発給の可否を問い合わせたところ、外務省アメリカ局長から発給可との回答を得ている。

 「慰安婦」募集業者の内地への派遣、「慰安婦」の送り出しと受入れにあたって、外務省・総領事、内務省・知事・警察署長が便宜をはかっている。台湾総督府にも同様の資料が残っている。朝鮮総督府についても同様と推測される。

 「従軍慰安婦」の募集・送り出しに内務省・外務省も深く関与していた。

 

おわりに

 

  日本陸軍の慰安所は、当初は中国に派遣された派遣軍が主導して設置されていき、それを軍中央が管理統制していった。さらに太平洋戦争が始まると陸軍中央自らが慰安所の設置に乗り出していった。「従軍慰安婦」政策は、陸軍省・大本営を含めた陸軍の組織ぐるみによるものであった。この点は海軍も同様である。

 軍の「従軍慰安婦」政策には、朝鮮総督府・台湾総督府、内務省( 知事・警察含む) と外務省( 総領事含む) も関わっていた。内務省は地方行政・警察・土木・社会衛生などを所管していた内政の中枢に位置する官庁である。

 「従軍慰安婦」制度は、陸海軍をはじめ外務省・内務省も関わった国家総ぐるみの戦争犯罪・人道に対する犯罪であることは明確である。