南京から― 虐殺の現場にて

 『軍事民論』特集第46号、1986年10月

林 博史


初めて中国に行ったのは1986年の夏でした。香港から入って、広州→西安→酒泉→敦煌→トルファン→ウルムチ→北京→南京→杭州→蘇州→上海、と1か月あまりをかけて一人で旅してきました。この中国の旅は思い出深いものがあり、ずいぶん鍛えられました。その旅の終わりの方で南京により、その際に書いたものがこの文です。この次に南京を訪れたのは1999年のことで、あまりの様変わりに驚かされました。 2000.7.24


中国民衆の生活を体験することから

  中国に入って二五日目の朝、長江大橋を渡る列車の中から、あのあたりが虐殺の現場の下関だろうかと河岸をながめながら、南京に入った。南京は上海から列車で四〜五時問のところなのだが、二〇日余りもあちこちとまわり道をした一つの理由は、日本がかつて中国に対しておこなったことの典型である南京大虐殺の現場に行く前に、それを受けとめるものを自分自身の中に作っておきたかったからである。つまり自分で列車や、バスの切符を買って乗り、自分で安いホテルをみつけ、町 中で中国人と同じような食事をとり、そういう一人旅を通じて、中国人の物の考え方や生活意識、生活感覚といったものを少しでも体験することによって、彼らとの間に何らかの共通の基盤をもちたかったからである。 中国を一人で旅をしたことのある方なら十分体験ずみだと思うが、列車の切符を買うために何時問も並んで“没有”(ない)とそっけなく言われた時のつらさ、少しくらいなら歩いた方がましだと思いたくなるようなバスに乗る時のすさまじさ、入場券だとかを買う時にみんな窓口のカウンタ−にへばりついて、他人をおしのけながらお金を持った手を窓口の中に突っこみ、そこに負けじと突入していくようなこと、つり銭をしわくちゃのまま目の前にポイと投げつけられ、それをかき集めてしわを一枚々々のばしながらつりを確かめる時のみじめさ、子供に対するかわいがりぷり…、そうした積重ねの中で、そうした人々の生活を破壊し、生命を奪い、そして征服しようとすることがいかなることなのか、そういう生活を営んでいる中国人は、日本の行為をどう感じているのか、そうしたことを理解し感じることのできる、そういう旅をしたかった。

 外国人用の一流のホテルに泊まり、切符の確保に苦労することもなくファーストクラスに乗り、チャーターしたバス(たいていがクーラー付の日本製バス)で目的地に連れられていくような旅の仕方ではとうてい得られないと思うからである。特に中国は、外国人向けの外向きの顔と中国民衆の実際の生活との格差があまりに著しく、二つは別世界である。団体客や招待客は、前者だけを使って旅をすることになり、中国にいながらおよそ中国人の生活を知らないですますことができる。個人流行も外国人である以上、制約が多いが、それにしても団体旅行とは別世界の族をすることが可能であり、それを余儀なくされる。

 南京大虐殺の記念館へ

  そんな旅をしながら南京に着いたのだが、南京は予想に反して魅力的な街だった。メインストリートの中山路など主な道は、道の両側にびっしりとみごとな並木がつづき、町のあちこちに水路が流れていた。この並木もおそらく戦後の復興の中で作りあげたのだろうと思いながら、目的の侵華日軍南京大屠殺遇難同胞記念館(同館の日本文ガイドでは、“日軍侵華南京大虐殺殉難同胞記念館”)に向かった。ところが一度めは休館日に、二度めは昼休み(三時間ある)にぶつかり、三度めにしてようやく入ることができた。

 建物の左正面にはケ小平が書いたという記念館の館名と「遇難者・VICTIMS・遭難者300000」の文字が刻まれていた。館の中は、大きくいって三つの部分にわけることができる。一つは南側の庭で、ここには、南側での大きな虐殺地点であった二この地区について、それぞれ碑がたてられており、また周囲の壁には、日本軍の暴行の数々を表現した三組の大型レリーフがある。また庭の真中には大きな母親の像が立っており、館のリーフレットには「慈悲深い面差し、悲しげな眼、振りあげたカ強い手の動きは失なった身内を捜すようでもあり、また、『平和を、戦争はいやだ』、『歴史の悲劇を繰り返すな』という止むに止まれぬ心の声を表わしているょうでもある」と説明している。

 第二が殉難同胞遺骨陳列室で、ここには、無数の遺骨が幾重にも重なったまま展示されている。規模は比較的小さいのだが、ぴっしりと積み重ねられたバラバラの骨をみると、虐殺がすさまじいものであったことが推測できた。

 第三が記念館のメインの建物で、資料展示室となっており、当時の写真と解説、文献などが展示され、映写室では記録映画も上映される。展示の内容は、同館内で販売されていた南京第二歴史当案館・南京市当案館・南京大屠殺史料編輯委員会『侵華日軍南京大屠殺暴行照片集』一九八五年、価格三元、の内容とかなり重複しているし、逐一紹介する必要もないと思うので、いくつか気のついたことを述べておきたい。

 展示の前言で、中国人民の抗日戦勝利40周年を記念し、受難にあった同胞を追悼するために南京市人民政府がこの記念館の建設を決定したとある。ここでははっきりとは書かれていないが、展示の中で、「侵華日軍南京大屠殺鉄証如山」と題して、”南京大虐殺まぽろし説”を念頭において、南京大虐殺が実際にあったことをいろいろな角度から示しているコーナーがわざわざ作られていることをみても、やはり82年の教科書問題、日本政府の南京大虐殺否認の動きが、この記念館建設の契機となっているように見うけられた。虐殺の事実の発掘作業もおこなわれているようであり、一九八四年の時点で、南京全市で生き証人約一七〇〇人余りが確認され、それぞれの住所、略歴、体験あるいは目撃した虐殺の状況がカード化され、ファイルされていた。

 展示の中心は写真であるが、その多くは見たことがあるものだった。日本でも毎日新聞社の写真記録などで見られるものが多く、展示は、日本側の写真をかなり使っていた。写真以外には、殺人に使った兵器として、機関銃二丁に小銃や日本刀、サーベルなども展示してあったが、あまりにきれいに並べられてしまって、ビンとこなかった。沖縄の県立平和祈念資料舘の入口にあるオブジェの方が、はるかに迫力をもってせまってくるものがあった。ただ写真を初めて見た人にとっては衝撃的であると思うし、中国人がくいいるように見ていたのが印象的であった。

 展示内容は、日本の従軍兵士の日記を使ったり最近の日本のものを集める努力をしているようには見うけられたが、日本の出版物として展示されていたのは、本多勝一『中国の日本軍』、洞宮雄『決定版南京大虐殺』などで、最近のものはなかった。日本でのこの間の研究の成果をもっと生かすことはできないものだろうか。

 ともかくも展示をみながら、よくもこれだけのことをやったものだとため息がでた。展示の中の説明で「南京遭日、屠殺、焚焼、奸淫、抱劫、破□之后、到処断□残壁城□内外、尸横遍地、血流成河、恐惧、凄惨□□全城。一時間、六朝古都、変成陽風惨惨、鬼哭神号的活地獄」とある。中国語がわからなくてもおよそ悪徳のかぎりをつくしたことがこれでもかこれでもかとでてくる。(□はこのパソコンで出せない中国の漢字)

 ちょうど団体客があったためか映画を見ることができた。最初を見のがしたのでタイトルはわからなかったが、南京大虐殺当時のフィルムと生き証人の証言を中心につづったもので、正直言ってこれには参った。というのは、写真とは比べものにならない迫力で日本軍の犯罪を告発したものであり、しかもそれをはとんどが中国人の中で、しばしば中国人のどよめきがおこる中で見たからである。   

 展示の最後に書かれていた“前事不忘、后事之師”という言葉は印象的であった。前事を忘れて后事の師とせず、経済繁栄におごる日本人に果たして未来はあるのだろうか、などと考えこまざるをえなかった。

 中国を征服しようとしたおろかさ、中国人を殺りくしてやまなかったおろかさ、それを反省もせずにすますおろかさ、記念館を出た時は、さすがに気がめいるのをおぼえた。

 南京大虐殺から沖縄戦へ

  ところで話はガラリと変わるが、この五〇年もたとうとする過去の出来事を今とりあげることの意味はいったい何だろうか。もちろん人によって意味づけは違うだろうが、私は、南京大虐殺−沖縄戦−本土決戦−現在の自衛隊、の四つの環をつなげて考えてみたいと思っている。

 南京大虐殺は、他民族を抑圧する日本帝国主義(その一つの究極としてのファシズム)の軍隊がおこした典型的な事件である。もちろん南京だけでなく中国各地で、そして東南アジアなど各地で大なり小なり同じようなことをやった。その日本の軍隊は侵略を専門とする軍隊で、明治以来、他国で戦争をおこなってきたが、その軍隊が日本の国土でおこなった初めての本格的な戦闘が沖縄戦である。
 沖縄において日本軍は、今日、証言によって明らかにされているだけでもおよそ二〇〇人以上、おそらくこの数字をはるかに上まわる沖縄県民を殺害した。さらにいわば間接的に日本軍に殺された人々、たとえば壕にかくれていたのに日本軍によって追い出され、その結果、米軍の砲爆撃の犠牲になったりした人々は、一九五〇年の厚生省の調査(きわめて不十分なものだが) によると一四歳末満だけで一万人を越えている。また集団自決という形で多くの県民が自ら命を断ったことも忘れてはならない。

 南京大虐殺と沖縄戦を結びつけて考える場合、南京で捕虜の大量殺害を指示した参謀が沖縄軍参謀長長勇であったということや、南京攻略に参加した第9師団が、一時期沖縄守備軍の主力として配備されていた、ということだけで言っているのではない。

 かなり前の朝日新開(一九七八年一二月二日付)で紹介された記事だが、沖縄の渡嘉敷に駐留していた中隊長で、後に陸将補になった人物が次のように語っている。

 「沖縄戦は明治以来、外地ばかりで戦争してきた日本軍が、はじめて経験した国土戦でした。戦争が始まる前に国土戦のやり方を決めておくべきだったが、それがなかったので、外地の戦場でやってきた慣習をそのまま国土戦に持ちこみ、沖縄戦の悲劇がおこったのです。」

 侵略をこととする軍隊が、そのやり方を国内にもちこんだのが沖縄戦である、というのだ。他民族を抑圧する軍隊は、自国の民族をも抑圧する、ということのあらわれであろう。
 沖縄県民が、米軍の捕虜になれば女性はすべて暴行され、男女とも皆戦車でひき殺される、という噂を信じて、米軍の手にやられるよりはと考えて自決を選んだ。この噂はずいぶん行き渡っていたようだが、これは日本軍が中国などでおこなってきたことから類推したものにすぎない。日本軍が南京や中国でやった経験が、沖縄県民を死に追いやることにつながっているのである。沖縄の日本軍は、中国戦線から転用されたものが多く、この点はもっとつめて考えなければならない問題であろう。

 沖縄での日本軍の行動は、一面では沖縄県民への差別感情・差別観と結びついているとは思うが、沖縄だから起こったということでもないし、沖縄でしか起こらなかったということでもないと思う.もし本土決戦がおこなわれていたら、本土でも同じようなことがくりかえされていたかもしれない、というよりくりかえされていたであろうと思われるからである。

 家永三郎氏の小論で知ったのだが、本土決戦部隊の将兵に配られたという「国土決戦々闘守則」があって、その内容はひどいものである。ご存知の方も多いと思うが、たとえば
 第二項「決戦間傷病者ハ、後送セザルヲ本旨トス。負傷者ニ対スル最大ノ戦友道ハ、速カニ敵ヲ撃滅スルニ在ルヲ銘肝シ、敵撃滅ノ一途ニ邁進スベシ。戦友ノ看護附添ハ、之ヲ認メズ」、
 第五項「敵ハ住民婦女老幼ヲ先頭ニ立テテ前進シ、我ガ戦意ノ消磨ヲ計ルコトアルベシ。斯ル場合我ガ同胞ハ、己ガ生命ノ長キヲ希ハンヨリハ、皇国ノ戦捷ヲ祈念シアルヲ信ジ、敵兵撃滅ニ蹄躇スベカラズ」
というのがある。つまり負傷した兵士は、捨てられ、住民を場合によっては殺してでも敵を撃滅せよという内容である。沖縄戦においても退却することができない重傷兵には手榴弾や青酸カリが配られ、自決を強要されたし、自決するカが残っていない者は、注射等によって殺されていった。

 降伏を一切許さないという帝国軍隊(ファシズム期の特徴と思われるが)のあり様は、かぎりない人命軽視、というより無視であり、それは兵士に対してだけでなく、一般住民に対してもそうであった。  
  
もしかりに本土決戦が現実のものとなっていた場合、沖縄戦において生じたような日本軍による住民殺害、住民の集団自決、傷病兵の処分などの事態は、様相はちがったとしても、見られたにちがいなかろう。

 自衛隊は国民を守るか

  南京大虐殺−沖縄戦−本土決戦は、旧帝国軍隊にかかわることである。では今日の自衛隊はどうなのか、旧帝国軍隊のあり様をきちんと総括・反省し、民主主義に基づく国民の軍隊となっているのか、自衛隊は国民を守る軍隊なのか、という疑問が当然でてくる。

 これもまた有名な『防衛白書』一九九一年版は、「国を守る」ことについて「守るべきもの」は「国民であり、国土であると同時に、多様な価値観を有する国民にそれを実現するため、最大限の自由を与え得る国家体制であると考えるべきではなかろうか」とたいへんな内容をさらりと書いている。白書の執筆者には、およそ人権だとか国民主権だとかという概念は、頭の中に一かけらもないらしい。自由とは、国家が国民に与えてやるものと思いこんでいるようだ。
  自衛隊は、そして旧帝国軍隊も、国民を守るためのものではなく、国家体制を守るためのものである、と言ってしまえば、あまりにもあたりまえすぎるのであるが、そのことの内容を具体的にわかりやすく語る場合に、南京−沖縄からの一連の問題をきちんと実証的につめなければならないと思う。軍隊は国民を守ってくれるという思いこみ=幻想が、国民の中で一般的であるのだから。

 『防衛白書』の発想は、有事立法の研究や自衛隊の戦争・作戦計画の中にも貫かれている。こんなことは『軍事民論』の読者には、今さらのことなので書かないが、一言だけ述べておくと、自衛隊の頭の中には、国民を戦力としてどのように利用するのか、国民の財産(土地建物等)をどのように利用するのか、その利用に応じない“非国民”を処罰してやろう、という発想はあっても、国民の生命や生活をどのように守るのか、特に戦力にならない弱い人々(老人や婦女子など)をどのようにして保護するのか、というような発想はおよそ皆無である。

 沖縄戦においても、およそ戦力になるものはすべて動員し利用した。一方で疎開がおこなわれたが、戦争準備を最優先させたため島外・島内疎開ともに不十分だったし、島内疎開の場合は、その移動手段も、疎開先の住居もそこでの食糧も確保されないままに放置されていた。ひめゆり部隊を組織した師範学校女子部では、生徒主事が、疎開しようとする生徒を非国民よばわりし、疎開を妨害さえした。疎開する者は卑怯者であるという風潮が学校の中でつくられた。そして、沖縄戦の終盤においては、多くの住民が戦火をのがれて避難していた南部を主戦場とし、多大の無用な犠牲をだした。こうした旧帝国軍隊の発想は、驚くほど自衛隊の中に受けつがれている。

 自衛隊が、警察予備隊−保安隊以来、国内民衆の抑圧という性格を有していることは、多くの人々の仕事により明らかにされてきている。そして同時にアメリカ合州国の世界戦略の一環として、他民族(とりわけ東アジア)抑圧の役割を果たすことを期待され、客観的にはその機能を果たしてきたと言えるかもしれない。しかしながら戦後の民衆のカは、自衛隊の実力が、直接、国内外民衆の抑圧のために使われることを阻んできた。これは、日本の民衆運動がかちとった大きな成果だと思うが、にもかかわらず現在自衛隊が、他民族の抑圧と自国民の抑圧の両者の役割を、現実のものにしかねない、そういう状況にあると思われる。

 南京大虐殺−沖縄戦−本土決戦−自衛隊、という観点は、自衛隊の二つの役割をにらんで、それを克服するうえで、有効ではなかろうかと考えている(これらの関連はまだつめきれていないので、とりあえず仮説として提示しておきたい。別の機会につめた議論をしたい)。

                             一九八六年八月二一日 南京にて