東南アジアの日本軍慰安所

林 博史


 この論文は2000年3月30日から4月1日まで上海でおこなわれた「中国“慰安婦”問題国際学術研討会」における私の報告の基となった原稿です。このシンポジウムは上海師範大学の中国慰安婦問題研究中心(センター)などが主催して開かれたもので、中国各地からだけでなく、南北朝鮮、台湾、フィリピン、アメリカ、日本から計170人が参加しました。中国では初めての慰安婦問題についての会議であり、また元慰安婦や性暴力の被害者が公開の場で証言をおこなった最初ともなりました。そのために中国のマスコミから注目され、連日テレビのニュースでも報道されました。このシンポの開催は、中国当局が、慰安婦問題を研究討議することを公式に認めたことを意味し、そうした意味できわめて重要な会議となりました。
 シンポでは時間の関係で要約しか話せませんでしたが、ここに全文を掲載しておきます。内容的には、『共同研究 日本軍慰安婦』での私の執筆分を中心に、これまでに書いてきたことをまとめただけのものですが、参考になるかと思います。 2000.4.5


T 東南アジアにおける慰安婦の徴集

 

アジア太平洋戦争の中で日本軍は占領した東南アジア・太平洋諸島の各地でも慰安所を開設し、日本・朝鮮・台湾・中国から女性を慰安婦として連れていっただけでなく、各占領地の女性を慰安婦にしていった。

 すでに中国戦線において各地に慰安所を設置していた日本軍は、戦線を東南アジア・太平洋に拡大するにあたって、事前より慰安所の設置を計画していた。そしてアジア太平洋戦争が始まると、南方軍とその傘下の各軍が慰安所を設置していった。一九四二年九月三日の陸軍省の会議で「将校以下の慰安施設を次の通り作りたり。北支100ケ、中支140、南支40、南方100、南海10、樺太10、計400ケ所」と述べている(1)。

 マレー半島では、開戦直後の四二年一月二日、第二五軍兵站の将校以下三人がバンコク出張を命ぜられ、そこでタイ人娼婦を集め、その中から性病検査で合格した三人を連れて帰り、タイ領ハジャイとシンゴラに慰安所を設置した(2)。一方、戦闘部隊とともに先行していた兵站支部は、一九四一年一二月一九日マラヤ北部のアロースターに入り、すぐに慰安所を設置した。ここにはマレー人、インド人、中国人、朝鮮人の慰安婦がいたという。朝鮮人慰安婦は日本軍の輸送船で連れてきていたようである(3)。
 シンガポール陥落が四二年二月一五日なので、それ以前の戦闘中から兵站の手によって慰安所が設置されていた。
 シンガポール占領してまもなくの二月二七日近衛師団通信隊無線第二小隊の駐屯地の「ほど近い所に慰安所が開設された」(4)。ここでは地元の女性を募集して集めたようである。
 また三月六・七・八日の三日間にわたって、日本軍の宣伝班の下で刊行された新聞『昭南日報』に一七〜二八歳の「接待婦」(慰安婦)を募集する宣伝が掲載されている。その応募受付はラッフルズホテルに設けられているが、ここは軍兵站が管理する将校用ホテルだったことから見て、軍兵站が関わっていると考えられる(5)。

 クアラルンプールでは、四二年五月に兵站の担当者が市内に残っていた日本人女性を集めた。元からゆきさん、つまり娼婦の経験者が一二人、そうでない女性二人が集まった。前者には慰安婦集めと慰安所の管理を任せ、後者には兵隊用の食堂の経営を任せた。慰安所の建物は日本軍が接収あるいは借りて提供した。そして八月ごろまでに七か所に一六軒の慰安所を開設し、慰安婦は一五〇人を越えていたと見られる。一番多かったのが、マラヤの中国人、次に朝鮮人が約二〇人、ほかにタイ人、ジャワ人、インド人、マレー人と中国人の混血、ジャワ人とマレー人の混血がいた(6)。からゆきさんが多かったマレー半島では、これらの人々のネットワークを使って慰安婦集めをおこなった。そこで集められた女性は地元の中国人が多かったようである。

 小さな町では駐留した日本軍が独自に女性を集めていたケースが報告されている。ネグリセンビラン州のクアラピラでは、歩兵第一一連隊第七中隊が地元の住民組織の幹部に女性を集めるように指示し、一八人の中国人女性を連れてこさせ、将校用と兵士用の二つの慰安所を開設した(7)。

 マレーシアの元慰安婦の証言では、クアラルンプールの郊外に住んでいた一六歳のその女性は、一九四二年三月ごろ村にやってきた日本兵によって連行されてくりかえし強姦され、その後、慰安婦にさせられた。また当時一五歳だった女性が家に来た日本兵によって引きずり出され、強姦されたあとで将校専属の愛人にされたという(8)。

 このようにマレー半島では、新聞広告による募集、元からゆきさんを使った募集、地元の住民組織幹部に集めさせたケース、暴力的な拉致の様々な徴集の方法が取られていた。

 マレー半島では四二年三月から四月にかけて、各地で華僑粛清=虐殺がおこなわれていた。たとえばマラッカ州では三月はじめから二五日まで粛清がおこなわれていたが、三月二〇日に「慰安所に於ける規定」が制定され利用が始まっている。クアラピラの場合、四月三日に慰安所が開設されたことが陣中日誌によって判明しているので、粛清をおこないながら慰安婦集めを指示していたことになる。華僑粛清と並行して慰安婦集めがおこなわれ慰安所が開設されたのがマラヤの特徴である。

 フィリピンの場合は、マラヤとはかなり様相が異なっている(9)。   
 一九九二年一一月までに明らかになった三〇人の元慰安婦のケースを見ると、その年齢は一二歳から二六歳、その半数強は二〇歳以下だった。徴集の方法は、家にいる時や道を歩いている時、川で洗濯をしている時に強制的に連行され、強姦輪姦されたうえで慰安婦にさせられたケースが非常に多い。そうした連行の方法は日本軍の占領直後から始まっている。ゲリラ討伐の名による住民虐殺をおこなう一方で若い女性を拉致するケースがある。この段階では、特定の将校や兵士たちが拉致してきた女性を家に監禁して順に輪姦をくりかえすというきわめて粗暴な傾向が見られる。

 インドネシアについては(10)、セレベスの第二軍司令部が戦後に作成した「売淫施設に関する調査報告」では、「売淫婦は本人の希望に依り営業せしむ」「希望者を募集」と記している(11)。この史料によるとトラジャ、マンダル、ジャワ、ブギス、マカッサル、マンダル、などの慰安婦がいたことが記されている。

 インドネシアの元慰安婦の証言によると、ウエイトレスや事務員、看護婦などの仕事だと言われたり、裁縫をならわせてやるという詐欺の方法で誘いに応じて強姦されたうえで慰安婦にさせられたケース、警察官や村の役人を通して集めたケースなどがある。日本軍の一斉取締で捕らえられて慰安婦にされたというケースも報告されている。
 だまして連れていったケースが多いと見られるが、軍が表に出ずに警官や村の役人を使って集めさせたケースもかなりあると見られる。そこでは強制的に連行したケースもあったようである。

 ビルマではどのようにしてビルマ人慰安婦を集めたのか、まったくわからない。ただ占領直後から慰安所が開設されビルマ人が慰安婦にされていたようである。

 インドシナでは、一九四〇年九月に日本軍が北部仏印に進駐した。その直後にハイフォンの司令部で司令官西村琢磨中将と参謀長長勇大佐が葡萄酒を飲みながら、慰安所を急いで作れと「気炎をあげて」いた(12)。おそらく占領後まもなく慰安所が設置されたのではないかと推測される。

 ハイフォンの慰安婦の「検梅成績表」(一九四二年六月一三日)によるとベトナム人慰安婦一〇人の名前が記されている。この史料を持ちかえった元兵士の証言によると、「募集をすればすぐに現地人女性は集まりました」と述べ、ベトナム女性だけでなく安南人とフランス人の混血の慰安婦もいたと証言している(13)。

 東南アジア・太平洋地域において慰安婦にされた女性の出身は、日本の公文書、日本側と地元の証言・回想記などから判明したものは、これらの外部から連れてこられた日本人、朝鮮人、中国人、台湾人がいる。そして、マレー人、華僑(華人)、タイ人、フィリピン人、インドネシア人(各種族)、ビルマ人、ベトナム人、インド人、ユーラシアン(欧亜混血)、太平洋諸島の島民、オランダ人などがあげられる。

 ラオス、カンボジアについては不明だがその可能性は高い。日本軍が占領し部隊が駐留したほとんど全地域から女性が慰安婦にされたと言ってよいだろう。

 東南アジア・太平洋地域における慰安婦の徴集の方法を整理すると次のように分けることができよう。日本人、朝鮮人、中国人、台湾人は地域外から連行されてきたケースなので除外する。

 第一に現地在住の日本人に集めさせたケースである。マラヤで元からゆきさんに慰安婦集めを委託したのが典型的な例であるが、元からゆきさんが多かったマラヤに特徴的なケースであろう。この場合、現地の娼婦のネットワークが利用されたと思われる。この場合、詐欺的な募集がおこなわれたかどうかはわからない。

 第二に新聞などによって募集したケースである。シンガポールでの募集広告がその代表的な例である。その場合は性の相手をすることがわかるケースであるが、かりにそれを承知で応募してきた場合でも、想像以上の耐え切れない苛酷な「慰安」を強要されたケースもある。たとえば先に紹介した近衛師団の通信隊の近くに設置された慰安所では、募集に応募してきた女性が「予想が狂って悲鳴をあげ」拒否してしまったのに対して、その女性の手足をベットに縛りつけて、慰安を強要したことがあった(14)。

 第三に地元の住民組織の幹部などに慰安婦集めを命じたケースである。マラヤやインドネシア、フィリピンなど各地でこうした事例が報告されている。先に紹介した軍医少佐の報告でも村長に割り当てて集めることが提案されており、この方法はかなりの地域でおこなわれたのではないかと見られる。

 第四に詐欺による募集である。よい仕事があるから、事務員やタイピスト、看護婦にするからというような口実で集めて、結局は強姦してから慰安婦にするケースである。徴集の段階では詐欺だが、結局は慰安婦になることを強制したケースである。これは各地で広く取られた方法であると言える。第一〜第三の場合もこの詐欺にあたるケースが多かったのではないかと見られる。

 第五に暴力的な拉致によるケースである。日本兵が家に押し入り、暴力的に若い女性を拉致し、兵士たちが輪姦したのちに慰安婦にした例はフィリピンで数多く報告されているが、マラヤでもそうした事例が報告されている。

 徴集にあたって、軍が直接おこなったのか、民間の業者が介在したのか、史料がほとんどないので断定できないが、占領地で軍政が敷かれていることから軍の役割は朝鮮や台湾よりはるかに大きかったのではないだろうか。特に小規模の部隊が駐屯する町では、徴集も経営も軍直営の傾向が強い。

 東南アジア太平洋地域における慰安婦の徴集の特徴は、第一にアジア太平洋戦争の開戦前から軍中央において準備がおこなわれ、組織的に慰安所設置、慰安婦の徴集がおこなわれたことである。中国戦線での経験がこうした対応を生み出した。
  第二に占領地であり、軍政が敷かれていたことから(かりに「独立」国であっても実質的に軍が支配していた)朝鮮や台湾以上に軍が徴集に果たした役割は大きかったと見られる。
  第三に占領地の住民に対する一連の残虐行為の中で、あるいは並行して慰安婦集めがおこなわれたことである。フィリピンではゲリラ討伐の名の下に村の男たちを虐殺しながら若い女性を拉致強姦し慰安婦にしていった。マラヤでは中国系住民の粛清=虐殺をおこないながら、並行して慰安婦集めをおこなっていた。こうした占領地では日本軍の暴力が剥き出しにされたことが特徴的である。
  第四にインドネシア、特にジャワの女性がマラヤやボルネオなどに連れていかれて慰安婦にされた例が多い。特に一九四四年以降、マラヤにかなりのインドネシア女性が連れてこられた模様である。日本軍の戦局が不利になり、日本本土や朝鮮、中国からの慰安婦の供給が滞るようになるとジャワが供給地にされた。

 

2 東南アジアにおける日本軍慰安所の展開   

 

 東南アジア・太平洋地域における慰安所の展開について見ていこう。

 日本軍は一九四二年五月ごろにはほぼ南方作戦を一段落させ、占領地域は最大限に拡大した。

 マラヤにおいては、徴集の項でも述べたように、マレー戦の最中から慰安所の開設をはじめ、四二年二月一五日のシンガポール陥落後まもなくシンガポールに慰安所が開設され、マレー半島各地でも三月以降、各地に開設された。いずれも兵站が慰安所の設置を担当した。四二年七月に軍政部が軍政監部に改編されたのにともない、この時に慰安所に関する事項も兵站から軍政機関に移管されたものと推定される(15)。

 マラヤとスマトラに在留する邦人に関する憲兵隊の調査によると四二年七月二〇日現在、「慰安婦」が一九四人いるとされている。全体で男女を含めて朝鮮から来た者が一九六人とされている。このことから朝鮮人慰安婦を中心に邦人慰安婦が一九四人いたことがわかる(16)。このころにはマラヤの主な都市には慰安所が設置されていたと見られる。シンガポールを含めて考えると、この時点での日本軍慰安婦の中で、邦人(朝鮮人と日本人)以外の慰安婦(多くはマラヤの中国人など)の方が多かったのではないかと推定される。

 一九四三年一〇月五日に馬来軍政監部によって「慰安施設及旅館営業取締規程」が制定されたが一一月一一日には同名の規定とともに「慰安施設及旅館営業遵守規則」、同別冊「芸妓、酌婦雇傭契約規則」が制定され、一二月一日より施行されている(17)。これらの規定の中で「慰安施設の経営者は邦人に限定するを本則」とするが従業員は「為し得る限り現地人を活用」するとされている。軍政監部の方針としても地元の女性を慰安婦にしようとしていたことがわかる。

 なお海軍はこの規定の適用を受けず、独自に慰安所を設置している。少なくともシンガポールとペナンには海軍の慰安所があった。一九四二年五月三〇日付の海軍省軍務局長・兵備局長から南西方面艦隊参謀長宛に出された「兵備四機密第一三七号」「第二次特要員進出に関する件照会と題する文書によると、「準特要員」(慰安婦のこと)として海南市から五〇人をペナンに送ることになっている(18)。海軍省の中枢が慰安婦送り出しをおこなわれていることがわかる。

 これまでマレー半島で慰安所が設置されていたことが、史料や証言で確認できるのは約三〇都市にのぼっており、大隊規模の駐屯地にはほぼ設置され、中隊規模の駐屯地では設置された所とされなかった所の両方がある。多くの都市では当初は兵站により、途中からは軍政機関による慰安所の監督管理がおこなわれ、敗戦まで慰安所が維持されていた。

 フィリピンでは、日本軍の公文書で慰安所があったことがわかる最も早いものでは、一九四二年五月一二日のパナイ島イロイロの第一慰安所での慰安婦への検梅結果の報告である(19)。日本軍がパナイ島に上陸したのは四月一六日のことなので、一か月もしないうちにすでに慰安所が開設されていたことがわかる。ここの慰安婦はフィリピン女性である。ミンダナオ島ブツアンに駐屯していた独立守備歩兵第三十五大隊の史料によると、一九四二年六月六日に慰安所に関する規定を制定している。ついで六月一一日には近くのカガヤンにも慰安所を開設し、カガヤンには四人、ブツアンには三人の慰安婦がいたとされている。四三年二月一四日にはこの大隊としては三つめの「第三慰安所」を開業させている。なお日本軍のミンダナオ島上陸が四月二九日、同島の米軍が降伏したのが五月一〇日である。

 パナイ島の北東にあるマスバテ島では一九四二年八月にマスバテ島警備隊によって「軍人倶楽部規定」が制定されている。その後、軍政機関が関わるようになる。一九四二年一一月二二日に軍政監部ビサヤ支部イロイロ出張所からイロイロ憲兵隊分隊宛に送られた「慰安所(亜細亜会館 第一慰安所)規定送付の件」によると、「イロイロ出張所管理地区内に於ける」「慰安所の監督指導は軍政監部之を管掌す」とされている。

 また一九四二年中に「パナイ島事業統制会」が組織され、その下にパナイ島接客業組合が作られ、セブ軍政監部支部長に認可を申請した資料が残されている。この接客業組合は「軍指導監督下に置かれ」「軍政監部の施行されたる法規を厳守するもの」とされている。この組合の事業の中に酒場や娯楽場などとならんで慰安所がある。このように慰安所は軍政監部の管理下におかれていた。

 一方、軍政監部だけでなく憲兵隊も慰安所に深く関わり続けていた。一九四三年八月にバギオ憲兵分隊からの調査依頼に基づいてタクロバン(レイテ島)憲兵分隊がタクロバン町の慰安所の状況について回答している。それによるとタクロバン町の慰安所は一か所、慰安婦はフィリピン人が九名、経営者はフィリピン女性である。

 このようにフィリピンでも占領直後から兵站や各駐留部隊によって慰安所が設置されていった。そして四二年の後半ごろから軍政機関が慰安所の監督管理をおこなうようになった。また当初より憲兵隊が深く関わっていた。四三年一〇月のフィリピンの「独立」によって軍政機関は撤廃されるので、その後は再び各駐留部隊や兵站による管理に移ると見られるが史料が残っていない。

 一九四四年七月マリアナ諸島が陥落してからフィリピンには日本軍が次々に増強された。こうしてフィリピンにやってきた各部隊は独自に慰安所の開設をおこなっていったようである。たとえばミンダナオ島に飛行場建設の任務を受けて上陸した第一二六野戦飛行場設定隊では、一階を酒保とし二階を慰安所とする建物を作った。ベニヤ板で六部屋に区切り寝台も大工出身の兵の手で作った。慰安婦については、主計少尉が邦人通訳の紹介でダバオのボスを訪問して、日本から持ってきた女性用の服の布を渡して慰安婦の斡旋を依頼した。そして六人の地元女性を集めた。こうしてすべてが軍直営の慰安所が開設された(20)。

軍政監部や各駐屯部隊による慰安所規定が定められ、一応形式的には組織的な管理がなされていた慰安所だけでなく、各部隊によるきわめて乱暴な監禁輪姦そのものの延長と言えるような状況もあった。建物の一室に監禁され、外出も許されず毎日何人もの兵士から強姦されるような状況がそうである。抗日ゲリラはこうした状況におかれた女性の救出にあたり、ゲリラによって解放された慰安婦も少なくない。

 インドネシアでも各地に慰安所が開設されていたことがわかっているが、慰安所の規定はまだ見つかっておらず史料もきわめて少ない。ただ戦後、復員にあたってセレベス民政部(海軍の軍政組織)の海軍司政官が作成した報告が残されており、海軍の軍政下にあったセレベスの慰安所の状況がわかる(21)。

 南部セレベスに関する史料では、民間人が実質的に経営していたという説明になっているが、各施設の「婦女の保護、収入支出、休養給与等の適正監督、風紀衛生等の取締指導等」は各県分県監理官がおこなうこと、「糧食、寝具、食器類、水道料、使用人の給養等一切民政部負担」となっていることなどから見て、ほとんど民政部(海軍の軍政機関)の丸抱えといってよい。民政部の監督下にあった慰安所は二三軒、慰安婦は二二二人となっている。トラジャ人、ジャワ人などほとんどがインドネシア人である。この他に第二軍司令部、パレパレ警備隊、神地区警備隊、ケンダリー海軍部隊のそれぞれの下に計七つの慰安所があった。このうちパレパレとケンダリーでは将校自らが責任者となる軍直営方式であり、残りの二つも民政部のものと同様に一応民間人が責任者だが軍丸抱えであった。

 インドネシアでも軍政機関と各部隊の両者がそれぞれ管理する慰安所があった。小さな島になるほど軍直営の性格が強いと見られる。米軍が上陸しなかったインドネシアではマレー半島と同様、敗戦までこの状況が続いたと見られる。

 ビルマでは、日本軍は中部の要衝マンダレーを五月一日に、北部の要衝ミートキーナを八日に占領、五月一八日ビルマ方面の主要作戦を終了した。このビルマでも各部隊が駐屯地に移動してまもなく慰安所が設置された模様である。第一八師団歩兵第一一四連隊の元兵士の証言によると、四二年六月ごろには中部の都市メイクテーラに三軒の慰安所が開設され、日本人、朝鮮人、中国人の慰安婦がいたという(22)。

 ビルマの場合、中国で経営していた慰安所や食堂などの業者にビルマに行くように働きかけており、その業者たちが軍の便宜を供与されてそれらの慰安婦を集めたようである(23)。

 連合軍がビルマで捕らえた朝鮮人慰安婦と民間の日本人経営者に行った尋問報告書によると、東南アジアに送り込む慰安婦を集めるために四二年五月に周旋業者たちが朝鮮に送り込まれ、負傷兵の看護などと騙して前金を渡して女性を集めた。そして約八〇〇人(七〇三人の朝鮮女性と九〇人ほどの日本人男女)が八月にラングーンに到着しビルマ各地の慰安所に送り込まれた(24)。         

 日本軍の公文書として唯一見つかっているのが、ビルマ中部のマンダレーの慰安所規定である(25)。
 一九四三年五月にマンダレー駐屯地司令部が定めた「駐屯地慰安所規定」によると、経営者がいたことがわかるが、使用時間や料金などが細かく規定され、「調味品類其の他の必需品」は駐屯地司令部に「請求」し、貨物廠から交付されることになっている。またマンダレーは商社がたくさん進出してきていたからか、商社員らにも特別に慰安所を利用させる項まであり、軍と商社の結びつきの深さがうかがわれる。
  マンダレーでは一九四五年一月に制定されたマンダレー駐屯地勤務規定の別紙によると、この時点でも九軒の慰安所があり、「内地人」の慰安所一軒(将校用)、広東人一軒、「半島人」(朝鮮人)三軒、ビルマ人四軒と、日本人、朝鮮人、中国人、ビルマ人の慰安婦がいたことがわかる。またビルマ人の慰安所のうち一軒は「ビルマ兵補専用」となっており、日本軍の下請けをさせた植民地軍にも慰安所を設けていたことがわかる。

 四四年以降、日本軍が敗走する中で、多くの慰安婦が戦場に捨てられて、戦火や飢餓病気の犠牲になった。

 ビルマでは、日本人、朝鮮人などの外部から連れてこられた慰安婦たちが最前線にまで駆り立てられ、日本軍の敗走の中で多くの犠牲を出したことが特徴だろう。日本兵さえもろくに補給なしに餓死病死させられた戦場で、彼女たちは一層ひどい状況に追いやられたと言えよう。

 ベトナムでは、日本軍が進駐してから慰安所が設置されており、東南アジア地域では最も早く日本軍の慰安所が設置されたのではないかと推定される。ベトナムでは一九四五年三月の仏印武力処理までは仏印当局との二重支配だったので、各部隊が慰安所を設置していたと見られる。この点では独立国だったタイの日本軍の場合も同じようだったのではないかと推測される。

 インド領だったニコバル諸島にも日本軍の慰安所が開設され、ここには日本人やインドネシア人の慰安婦が連れてこられていたという(26)。

 ほかにも現在のパプア・ニューギニアのラバウルやカビエンをはじめとして太平洋の他の島々、南洋諸島のサイパン、トラック、パラオ、米領グアムなど日本軍が占領した地域のほとんどの所に慰安所が開設された。小さな島になるほど軍の直営の性格が強くなることは言うまでもない。ラバウルのような大きな町では兵站が管理し、業者が入ってきているが、小さな町や島では駐屯する部隊の直営になるケースが多い。

 

おわりに

 東南アジア・太平洋地域については、アジア太平洋戦争の開始前から慰安所の開設が計画され、占領直後から日本軍の駐屯地に慰安所が次々に開設されていった。兵站や駐留部隊、軍政組織が整備されると軍政監部が慰安所を担当し、憲兵隊も密接に関わっていた。その一方でフィリピンでは、暴力的な監禁輪姦と変わらないような状況が広がっていったこと、慰安婦の徴集にあたっても特に暴力的だったことが特徴である。ビルマでは最前線にまで狩り出され、日本軍が敗走する中で、戦火だけでなく飢餓や病気により多大の犠牲を出した。米軍との戦場になった太平洋の島々でも多くの犠牲を出したと見られる。

 

(注)

 (1)金原節三「陸軍省業務日誌摘録」防衛庁防衛研究所図書館所蔵。

 (2)元日本兵の証言。林博史「マレー半島の日本軍慰安所」『世界』1993年3月、同「マレー半島における日本軍慰安所について」『関東学院大学経済学部一般教育論集 自然・人間・社会』第15号、1993年7月、参照。

 (3)竹森一男『兵士の現代史』時事通信社、1973年、一四八〜一五〇頁。

 (4)総山孝雄『南海のあけぼの』叢文社、1983年、一五〇頁。

 (5)林博史「シンガポールの日本軍慰安所」『季刊戦争責任研究』第四号、1994年

 (6)兵站の担当者だった元兵士の証言、林博史「マレー半島における日本軍慰安所について」七六〜七九頁。

 (7)林博史前掲論文「マレー半島の日本軍慰安所」二七六〜二七八頁。

 (8)中原道子「オルタナティブな運動としての「慰安婦」問題」『オルタ通信』1993年8月、二〜三頁。

 (9)フィリピンについては次の文献を参照。『フィリピン「従軍慰安婦」補償請求裁判訴状』フィリピン「従軍慰安婦」補償請求裁判弁護団、一九九三年、Dan P.Calica and Nelia Sancho, War Crimes on Asian Women ;Military Sexual Slavery by Japan During World War U;The Case of the Filipino Comfort Women, The Task Force on Filipina Victims of Military Sexual Slavery by Japan, 1993 。  

(10)インドネシアについては、川田文子『インドネシアの「慰安婦」』明石書店、1997年。

 (11)吉見義明編集・解説『従軍慰安婦資料集』大月書店、1992年、三七三〜三七五頁。

 (12)「欧亜局第三課三宅事務官宛書簡」1940年10月3日(吉沢南「ベトナム」『世界』1994年2月、より)

 (13)西野留美子『従軍慰安婦と十五年戦争』明石書店、1993年、六七〜六九頁。

 (14)前掲『南海のあけぼの』一五〇〜一五一ページ。

 (15)富集団司令部『戦時月報(軍政関係)』1942年8月末。

 (16)富集団司令部『第二十五軍情報記録(第六十八号)自七月十一日至七月末日』所収の「最近に於ける在留邦人状況の概要」(防衛庁防衛研究所図書館所蔵)

 (17)防衛庁防衛研究所図書館所蔵史料。

(18)重村実(元海軍中佐)「特要員と言う名の部隊」『特集文芸春秋 日本陸海軍の総決算』1955年12月、二二四〜五頁。

 (19)『従軍慰安婦資料集』二九九頁。以下フィリピンの軍史料はすべてこの資料集より。

 (20)高野部隊戦友会『威第一五三九〇部隊 高野部隊ミンダナオ島戦陣記』1989年、三七七〜八頁。

 (21)『従軍慰安婦資料集』三六五〜三七五頁。

 (22)『従軍慰安婦資料集』解説七八頁。

 (23)西野留美子『従軍慰安婦と十五年戦争』四六〜四七頁、七八〜八二頁。

 (24)『従軍慰安婦資料集』四三九〜四六四頁。

 (25)林博史「ビルマ・マンダレーの日本軍慰安所規定」『季刊戦争責任研究』第六号、1994年。

 (26)河東三郎『ある軍属の物語』思想の科学社、1989年