講演要旨 

 マレー半島の華僑虐殺

        林 博史

 


 1998年11月8日から16日までおこなわれた第3回マレー半島ピースサイクルMalay Peninsula Peace Cycle(MPPC)の事前学習会(同年9月26日)で私が話した内容の要旨です。
 このMPPCは、第1回を1994年に泰緬鉄道ピースサイクルとして、第2回を1996年にタイ南部のパタニからペナンまでおこない、この第3回はペナンからクアラルンプールまで(ネグリセンビラン州も含む)自転車で走ってきました。第4回は2000年10月にクアラルンプールからシンガポールまでを予定しており、これで一応完結することになっています。タイ南部からシンガポールというのは、アジア太平洋戦争の開戦の時に日本軍がタイ南部に上陸し、シンガポールに攻めていった道筋であり、その日本軍は自転車に乗って進攻していったので「銀輪部隊」として有名です。ですから、第2回以降のMPPCは、日本軍の侵略の跡を辿りながら日本の加害の実態を知り、加害責任を考えようとするもので、かつてのように侵略と虐殺ではなく、平和のメッセージを携えて同じ道をたどろうとする企画です。特に第3回では日本軍による華僑虐殺の跡を辿り、その生存者から聞き取りをおこなうなど「華僑虐殺」と正面から向かい合うものになったようです。

 なお全行程を自転車で行くのではなく、バスと自転車を交互に使い、疲れればバスに拾ってもらえるようですし、自転車に乗らずにすべてバスのみの参加もできるようですので、どなたでも関心のある方は参加できると思います(多分)。

 この講演要旨と第3回MPPCの具体的な内容、参加者の感想などはすべて『第3回マレー半島ピースサイクル報告集』(1999年3月発行、販価500円)に収録されています。また第4回の予定や参加方法などくわしくは、MPPCのホームページをご覧ください。 2000.1.13

               MPPCのホームページ


 マレー半島の華僑虐殺(講演要旨)

                       1998年9月26日

 

日本軍がおこなった華僑虐殺について、こんど皆さんが行かれるマレー半島のネグリセンビラン州周辺に絞ってお話しします。より詳しく知りたい方は、必読書に指定していただきました『華僑虐殺─日本軍支配下のマレー半島』(すずさわ書店、一九九二年刊)を参照ください。この本は日本軍の残した資料と、日本側の関係者や、現地で当時の体験者から聞き取りをしてまとめたものです。

最近書きました『裁かれた戦争犯罪─イギリスの対日戦犯裁判』(岩波書店、一九九八年刊)もご覧ください。これはイギリスがかつての植民地であったマラヤやビルマ、香港などでおこなった日本軍の戦争犯罪を裁いた資料を見つけたので、これをもとに書いたものです。

 

軍資料が残っていた

 

マレー半島の南部に、ネグリセンビラン州というのがあります。これは英語の発音で、現地ではヌグリスンビランといっています。

華僑粛清は、シンガポールをはじめマレー半島全体で行われました。いままで調べた限り、数百人規模で村を皆殺しにする虐殺がおこなわれたのは、ネグリセンビラン州とジョホール州に集中しています。『華僑虐殺』ではネグリセンビラン州のことを主に書きましたが、これは全く偶然にも、日本軍の資料が残っていたためです。軍の公文書である「陣中日誌」です。この資料で日本軍の具体的な行動がわかりました。

 

 マレー半島では、シンガポールを含めて、戦争が終わった直後に各地で日本軍に殺された人々の遺骨を掘り起こしてお墓に埋葬し、また当時の体験者などの証言を集めた本が沢山出されました。ところがネグリセンビラン州では出されていませんでした。八〇年代になって、日本政府がアジア侵略のことを教科書に書かせないという問題が起きました。そこで実態を明らかにしておく必要があるとして、調査が始まったのです。

ちょうどそのころ、高嶋伸欣先生(当時筑波大学付属高校教諭、現琉球大学教授)が地理の勉強でマレーシアに行き、この調査に出会いました。その後、私も一緒に調べ始めたところ、日本軍の資料が出てきたのです。ネグリセンビラン州では体験者の証言なども聞くことが出来ました。こうして同州についてはかなり詳しいことがわかってきました。他の州については、まだ残念ながら、日本軍が残した資料は見つかっていません。

 

「抗日分子は処罰せよ」

 

 一九四二年二月十五日、日本軍はシンガポールを占領します。その直後の二月十七日に河村参郎陸軍少将が、シンガポール警備隊長に任命されました。シンガポールの華僑を粛清すべしという命令は二月十八日に出されます。二月二十一日から二十三日までの三日間、十八歳から五十歳までの男子が集められて、二言三言の質問を受けただけで「抗日分子」か否かの選別がなされ、「抗日分子」はトラックに乗せて海岸へ連れて行かれ、虐殺されました。

 イギリス軍の下の義勇軍にいたかどうかなど、地域によって質問の内容が違っていました。また学校の教師などは反日教育をおこなったとして狙われ、選別されました。

 

 日本軍がまだマレー半島を南下しているとき、ジョホール州のクルアンにおいてすでに、軍司令部は華僑虐殺計画を立てていました。ここに司令部があったのは、一月二十八日から二月四日までです。よくいわれるのは、シンガポール戦のとき華僑の義勇軍が勇敢に戦ったので、それに反発して日本軍は粛清をやったというものですが、これは誤りです。この論理は、戦争が終結して、シンガポールでの華僑虐殺が東京裁判で裁かれたとき、つまり戦後になって日本側がつくりだした弁護のための言訳です。

 

 日中戦争の際に、マラヤの華僑は祖国を支援してきたので反日的である、という理解がもともとあったのです。日本軍の指導者たちは、中国戦線にいた経験から、中国人に対しては最初から甘い姿勢を見せたら駄目である。だから占領したら反日的な分子はすぐ徹底的に処罰せよ、という命令をだしたのです。

 シンガポールで粛清した人数は、日本軍の戦後の弁明では五千人くらいとされています。シンガポールでは四万から五万くらいとよくいわれます。これもいまとなっては証明が難しいのですが。イギリスに残っていた河村少将の個人日記に、二月二十三日に各憲兵隊長から報告させた数として、合計約五千人と記されています。しかしこの日はまだ粛清の途中ですから、五千というのは最低限のもので、これ以下ではないという数字です。それ以上は、いまの段階では何ともいえません。

 

村ごと皆殺し

 

シンガポールでの粛清をやりながら、第二十五軍は二月の末に再びマレー半島側に戻っていきます。久留米で編成された第十八師団がジョホール州を担当し、広島城のなかに司令部があった第五師団がジョホール州以外のマレー半島全域に分散します。そして第二十五軍の山下奉文司令官の命令にもとづいて、一九四二年三月のほぼ一ヶ月間、マレー半島各地で華僑粛清作戦がおこなわれました。

第五師団のうち、歩兵第一一連隊がネグリセンビラン州とマラッカ州の警備を担当します。南警備隊とよばれました。一つの連隊は大隊三つで編成されますが、そのうち二つが配置につきました。そのなかの第二大隊第七中隊の「陣中日誌」が残っていたのです。あと一つの大隊はシンガポールに残って、ここの粛清を担当しました。

 

この「陣中日誌」によれば、二月二十七日、第五師団命令が出されます。まだシンガポールにいるときです。「師団ハ「ジョホール州」及昭南島ヲ除ク馬来全域ノ迅速ナル治安粛清ニ任ズ」。そして二月二十七日、もうネグリセンビランの州都セレンバンに移動しているのですが、こんどは「南警備隊命令」が出されます。これには「南警備地区ニ於ケル敵性分子ノ分布竝ニ策動状況ハ別紙要図ノ如シ」という手描き地図がついていました。その図(省略)を見ると、日本軍の得ていた情報がどれくらい正確であったかがわかります。セレンバンから鉄道に沿って右下に、一月三十日と二月七日、爆破があったと記されています。これはどうやら事実のようです。日本軍では華僑ゲリラがやったとしていますが、これは根拠のない情報です。実は英国軍が後方を撹乱するための工作チームを送り込んでいて、彼らが鉄道を破壊したのでした。戦後ゲリラが表に出てきて、戦中の行動を沢山の本に出しているので、その中で明らかになったものです。

 

爆破のあった近くで、沢山の虐殺が起きています。レンバウというところで最初の粛清がおこなわれました。生き残った人の話だと、日本軍は村人を集めて、鉄道を爆破したのは誰かと尋問しています。相当意識していたようです。二百人規模、あるいは数十人規模の虐殺がおこなわれました。

ゲリラの行動について触れますと、日本軍がマレー半島を南下していたとき、マラヤ共産党は非合法ですから、活動家は捕らえられて獄中にいました。彼らは日本軍と戦うためにイギリス軍と協力するからと交渉した結果、釈放されました。そして一六四人の青年が選ばれて、ゲリラ戦の訓練を受け、四つのチームに別れて半島に送り込まれます。そのうちの一チーム三十五人が、この地域に入っていました。日本軍の認識では図のタンピンからクアラピラにかけて「悪ナル共産党分子散在ス」とあります。

 

このゲリラ隊は日本軍との小競り合いで負けて、カンポン・ペリトチンギ(パリッティンギ。中国語では村)に潜みます。しかしそこでも危ないというので、ティティという町の郊外のジャングルに逃げていきます。食料は村の人からもらっていました。これが二月末くらいです。粛清がはじまったとき、ゲリラは三十数人です。図で「約二千ノ敵性分子五〇〇宛組ヲ作リ」とあるのは、誤った情報です。ただ日本軍は、ゲリラがパリッティンギにいたという情報はつかんでいたようでした。

ティティというのは、戦前は確かに共産党の拠点でした。錫鉱山があったので、その労働者のルートで沢山入っていたのです。

 

「陣中日誌」では三月四日、カンポンイスタナで家屋捜索し「本日不分子刺殺数五五名」、三月五日「不分子六〇名刺殺ス」、三月六日「不分子十三名刺殺セリ」というような記録を書いています。

南警備隊では、ネグリセンビラン州を六回に分けて時計と反対回りで粛清していきました。三月十六日、クワラピラを粛清したときの命令が出ています。この日パリッティンギ村では、約六七五人の村民が全員集められて皆殺しされました。若干生き残った方もいますが。村は焼き払われて廃虚となります。このときゲリラはティティの方に移動していたので、関係ない人を粛清したことになります。

 

三月十八日には、州北端にあるティティの近くの村(マレー語ではジュルンドン)にゲリラが潜んでいるという情報を得、ここでも一夜にして皆殺しをし、村に火を放って全滅させました。

 ゲリラはイロンロンから北の方に離れたジャングルにいたのですが、ゲリラと関係のない村人を小学校に集め、十人から二十人ずつに分けて連れ出し、家の中で膝まづかせて背後から銃剣で刺し殺したあと、家を焼き払ったのです。いま現地の慰霊碑には一四七四人が殺されたと書いてありますが、この数字の根拠はよくわかりません。当時ここで土地を管理していたマレー人の役人が戦後おこなった証言では、約二〇〇戸千人くらいが住んでいたといっていますから、かなり大規模な虐殺があったのは間違いありません。

 

 これにかかわった将校が、戦後イギリス軍の戦犯裁判にかけられた記録を、イギリスで見つけました。小さな子供までが抗日分子だと思ったのか、と問われ、そうは思わなかったと答えています。ただ処刑したのは別の中隊で、この中隊長は逮捕された人を警備する役割でした。

この将校は、これを契機に、虐殺をやってはいけないと考えたようです。その後、約一年間クワラクラワンの警備にあたりますが、その期間中にゲリラが何回か日本軍を攻撃し、憲兵隊から村を粛清せよという依頼が出されます。しかしこの将校は、ゲリラは村の外から来た者である。村民は関係ないといって、憲兵隊の依頼を拒否し、むしろ村を守る立場に回ったのです。そのために戦犯裁判では、村人たちが自分たちを助けてくれたから寛大な措置をと弁護しています。

 

「疑わしきは殺せ」

 

第七中隊の「陣中日誌」には、一ヶ月間で五八四人のゲリラを各村で刺殺したと記されています。この数がどこまで信用できるか微妙ですが、少なくとも日本軍側は、銃弾は一発も使っていません。ゲリラと交戦していれば銃弾も使うし、死傷者も出るはずです。戦闘行為があれば必ず「陣中日誌」に記載されることになっています。しかしその記録はもちろんありません。したがってこれは、無抵抗の人々を一方的に刺殺したという裏付けになります。この一ヶ月間、ゲリラはジャングルの中に隠れていたから、無傷です。日本軍はジャングルには入らないで、村人だけを虐殺したのです。

 

三月の一ヶ月間に殺された人数は、厳密には難しいのですが、ネグリセンビラン州で三千数百人と私は推定します。この州は人口が比較的少なく、中国人は十二万人くらいでした。殺されたうち、三分の二くらいは女性と子供です。

 生き残った方からの聞き取りでわかったことですが、当時、日本軍は中国戦線で女性とみるとレイプすると怖れられていました。それで男性は町に残って店や家を守ったのですが、女性や子供は親戚などを頼って奥地の村に避難させていました。日本軍は、華僑は町で商売をしているものだとの認識で、残っている男には手をつけず、奥まった集落にいるのは怪しい奴だと決めつけて、婦人と子供を大勢虐殺したのです。

 

セレンバンやマラッカなどの都市では、このような皆殺しはできないので、家宅捜索をおこなって「敵性容疑者」を選別し、検挙・虐殺をしました。この時の命令の中で、「敵性容疑者」の判定基準として、次のような項目があげられています。

 

イ.検索或ハ検挙ニ際シ反抗シ又ハ態度不遜ナル者

ロ.第三項記述ノ物品(第三項=兵器、援蒋抗日並共産党ニ関スル証拠物件、鉄道破壊用器具、ほか)ヲ所持スルモノ(中略)

ニ.敵性分子共産党員ノ疑ヒアル者(以下、略)

そしてつぎに処断として、「左記ノ者ハ処断ス」とあり、三項目書かれています。

 

一.敵性分子共産党員タル事明カナル者

二.態度終始不遜ナル者

三.本人ノ存在ハ社会ノ秩序ヲ乱ト判定セラレシ者

 

つまり、態度不遜だと検挙し、態度終始不遜だと処刑してしまうというものでした。こうした基準でセレンバン、マラッカでは、数百人を捕まえて、一たんは刑務所に入れ、トラックで郊外に連れ出して殺しました。

 ゲリラとか反日分子とみなしたものを裁判なしに即決で殺すやりかたは、満州事変から日本軍が始めたものです。「満州国」ができてから、日本軍の将校と「満州国」軍の将校は、ゲリラやその同調者とみなしたものは裁判抜きで処刑してもよい、疑わしきは殺せという法律をつくりました。それを広めた一人は華北でそれをおこなった山下奉文で、その手法をマラヤでも取り入れたのだといえます。

 

米諜報機関に取り入った辻政信

 

 マレー、シンガポールで華僑虐殺の実質的な陣頭指揮をとったのは、辻政信中佐という参謀です。東条英機(陸軍大将、のち首相)の直系の弟子として非常に優遇され、無謀なノモンハン事件(一九三九年、ソ連軍の近代化部隊の前に惨敗した)を指揮し、日本軍が大量に餓死する一九四二年後半のガダルカナル作戦でも大本営の参謀として現地に行き、やれやれと煽っています。

 戦後、シンガポール、マレーでの虐殺の張本人として、イギリス軍は辻を戦犯容疑で探します。しかし敗戦の当日バンコクで姿を隠し、やがて中国まで潜入して「共産党対策の専門家」という売り込みで蒋介石にかくまわれ、その後、GHQ(占領軍総司令部)のG2という諜報機関に取り入ってエージェントとなり、逮捕を免れます。

 

 辻は、戦犯追及が終わった一九五〇年に、『潜行三千里』という自らの体験を本にしてベストセラーとなり、石川一区から衆議院議員に立候補してトップ当選を果たします。その後参議院全国区に鞍替えして、第三位で当選しています。戦犯として裁判を受け、危うく生き残った人たちは、逃げ回った辻を恨み憎んだといいます。そうした人物を英雄視して選んだ国民のあり方もまた、問題にすべきでしょう。最後は参議院議員のとき、ラオスの宿舎を出たきり行方不明になり、ついに見つからないままとなっています。

 

日本軍は占領中、マレー人を道案内や、警察官として使いました。中国人社会の内部のことについては、中国人を沢山スパイにしてもいますが。戦争末期の四五年になって、中国人ゲリラがマレー人に報復攻撃をかけます。それにたいしてマレー人も中国人の集落を襲い、流血事件が何度も起きました。日本軍はマレー人を煽っています。こうして中国人とマレー人との憎悪による衝突事件が繰り返し、戦後になっても起きます。戦前は別個の地域に住み分けて、互いに無視しながら生きていたのです。こうした対立は日本軍の支配を抜きには理解できないことです。

一九六〇年代になって賠償問題が持ち上がります。日本は独立後のマレーシアに、賠償とはいわず、それに準じるものとして貨物船を二隻贈ってケリにしました。しかし被害者にしてみれば、これは何の関係もないことです。

 

(講演後の質疑応答)

 

Q『華僑虐殺』によれば、この「陣中日誌」は、敗戦前に日本軍が病院船に偽装して運んでいるとき、米軍の臨検で船ごと没収されたために残っていたということですが。

A そうです。日本軍は敗戦直後、重要な文書をほとんど焼却してしまうんですね。ところが、いまのようなことで米軍が捕獲し、それがのちに返還されて東京・恵比寿の防衛庁防衛研究所図書館に眠っていたのです。

 

Q 今回マンティンにも行きます。『華僑虐殺』では、ゴム園で二〇〇人くらいの虐殺があったとでていますが、それ以上詳しい経過は分かりませんか。

A になぜ日本軍が粛清に行ったのかは、記録がなくてよく分かりません。センビラン州北部でも西のほうにあたり、ここにゲリラがいたという話はあまり聞かないんです、平地ですし。プルタンやティティからゲリラが逃れていった、と日本軍は考えていたのかも知れません。

 

Q 河村参郎という人は、別の本によれば穏健な人で、華僑虐殺もやりたくなかったようですが。

A 命令に驚いて、何とかならないかと聞くのですが、軍司令官の決裁ずみだといわれて、結局その通り忠実に実行しています。この人はイギリスがやったシンガポールでの戦犯裁判で死刑となります。獄中で書いた『十三階段を上る』では、中国人の犠牲者にたいしてお詫びしたい、申し訳なかったと反省しています。誠実な性格であったようです。

                                                (以上)