沖縄戦記録・研究の現状と課題 ―“軍隊と民衆”の視点から―     

 関東学院大学経済学部一般教育論集『自然・人間・社会』第8号、1987年4月

林 博史


これは沖縄戦について書いた最初の論文です。これまで沖縄戦についてどのように語られてきたのか、その成果はなにか、問題点や残されている課題はなにか、などについて整理してみたものです。10年以上前の時点のものですので、その後も調査や研究はさらに進展していますが、基本的な認識は今でも妥当だろうと思っています。沖縄戦について少し深く勉強してみようとする方に参考になるものがあるのではないかと思います。 1999.7.22


はじめに
T 沖縄戦記録の二つの流れ
U 沖縄戦研究の現状 
   
   1.犠牲者数などの実証的な確定作業
   2.忘れられた犠牲者たちの実相
   3.沖縄内の戦争責任

V 沖縄戦研究の視点と課題
 
1.日本軍の敗北過程の中の沖縄戦
   2.「皇民化」教育・政策の解明
   3.県行政,警察,学校等の戦争責任

おわりに

 

はじめに

 沖縄は,第二次世界大戦においてだけでなく,日本の近代史の中で,日本の国土として戦場になった唯一の地である。硫黄島もその一つといえようが,硫黄島には住民はいなかったのに対し,沖縄では戦闘は3か月余りにわたり,40万をこえる住民(宮古,八重山を除く)が戦争に直接まきこまれ,県民の中から約15万人の機牲をだした。  多数の住民をかかえて日本軍がどのように戦ったのか,住民はどのように扱われたのか,ということは現在にも共通する性格の問題であり,沖縄戦をどう総括するのか,ということはすぐれて現代的な課題である。
 日本軍が侵略戦争の中でアジアの民衆に対しておこなったことは,まだま だ研究がおくれているとはいえ,南京大虐殺や731部隊,毒ガス使用など解 明がすすんでいるが(中国での事例が中心で,東南アジアについてはほとん ど進んでいないという問題がある),他民族を虐殺・収奪・抑圧した日本軍が,自国の民衆に対した時,いったいどういう対応を示したのか,ということの解明は,日本軍の,さらには日本がおこなった戦争の性格を明らかにするうえで,欠かせない課題である。
 沖縄戦は,来るべき本土決戦の前哨戦であり,そこでの戦争準備を含めた経験は,本土決戦準備にも生かされていった(たとえば,15歳から60歳の男子と17歳から40歳の女子を義勇兵として国民義勇戦闘隊に編入する義勇兵役法が1945年6月22日に制定されたが,これは沖縄でおこなったことの本土版である)。沖縄戦はけっして沖縄だけの特殊な事例でなく,本土決戦がおこなわれていたならば本土においても同じような状況が生まれていたと考えられるものである。   
 ここでは,“軍隊と民衆”という視点から,沖縄戦記録・研究のこれまでの流れと現状を把握したうえで,今後の研究の視点と課題を,私の問題関心の範囲内ではあるが,述べることとしたい。

T 沖縄戦記録の二つの流れ

 沖縄戦を直接扱った書物は,今日までに200数十から300冊を越えるとみられる(注)が,大きく言って二つの流れがあるといってよいだろう。

(注)『沖縄戦一沖縄を学ぷ100冊』頸草書房,1985年,沖縄県立平和祈念資料館『沖縄戦関係図書資料目録』1985年,参照。この項では、仲程昌徳『沖縄戦記』朝日新聞社,1982年,嶋津与志『沖縄戦を考える』ひるぎ社、1983年,山田朗「沖縄戦に関する研究史(その1)」(沖縄戦を考える会 (東京)における報告,1986年7月17日)を参考にした。

 一つは,沖縄の悲劇をこ度とくりかえさない,戦争をこ度とくりかえさな い,という姿勢から書かれた記録であり,それは戦後の沖縄の軍事的役割・ 軍事基地への反対につながる流れである。
 そこに共通しているのは,沖縄が本土の持て石にされたこと,本土の沖縄に対する差別,日本軍が沖縄県民を守るものではなく,県民に犠牲を強要し 多くの住民が集団自決を余儀なくされ,さらには日本軍による住民殺害や食糧の強奪,壕からの住民追い出しがおこなわれたこと,など民衆の立場から日本のおこなった戦争を告発する姿勢であり,ひめゆり部隊の「伝説」にみられるような沖縄県民が祖国のために命を捧げたという殉国美談を拒否し, 戦争の悲惨さを訴える姿勢である。

 1950年に刊行された沖縄戦に関する最初のまとまった記録である沖縄タイムス社『鉄の暴風』朝日新聞社,1950年は,住民からの聞き取りをもとにまとめたもので,そのまえがきの中で「軍の作戦上の動きを捉えるのがこの記録の目的ではない。飽くまで,住民の動きに重点をおき、沖縄住民が,この戦争において,いかに苦しんだか,また,戦争がもたらしたものは,何であったかを,有りのままに,うったえたいのである」と述べている。『鉄の暴風』 は,事実のあやまりや米軍占領下の制約などいくつか問題点を待っているがその後の沖縄戦記録の出発点となるものであった。 1950年代は,沖縄人による戦場記録が生まれた時期で,仲宗根政善『沖縄の悲劇一姫百合の塔をめぐる人々の手記』華頂事房,1951年(その後,1968 年,1974年,1980年に改訂・改題され,最も新しいのは『ひめゆりの塔をめぐる人々の手記』角川文庫,1982年),大田昌秀・外間守善『沖縄健児隊』共同出版,1953年,の二冊は,女子学徒隊と男子学徒隊の両当事者の手による代表的な記録である。

 『沖縄の悲劇』は,沖縄師範学校女子部の教師としてひめゆり学徒隊を引率 し,生き残った仲宗根政善氏が,生き残った生徒の手記を集めて編纂した記録である。同書のまえがき(改訂のたびに手が加えられているが,ここでは角川文庫版による)において,「この悲劇が戦後,あるいは詩歌によまれ, あるいは小説につづられ,映画,演劇,舞踊になって人々の涙をそそっている。ところがこの事実は,しだいに誤り伝えられ伝説化しようとしている」 と述べている。1950年代に入り,「ひめゆりの塔」は一種のブームになり, 「伝説化」しようとしていたが,そのことへの危惧があった。
 「乙女らはも とより戦を好んで戦死したのではなかった。いたずける勇士をいたわり女性のもつ優しい天性のゆえにたおれたのであった。‥‥‥ふたたびあらしめてはならない最期の記録であった。乙女らが書き残そうとした厳粛な事実を私は誤りなく伝えなければならない義務負わされている。……乙女らは,『汗と涙と血を流して得た身重な体験を,この士に埋めたくない』と叫びながらついに,永遠に黙してしまった。しかし永遠に訴えつづけるであろう」という言葉にみられるように,殉国美談とみなされることを拒否し,倒れた女子生徒らの「書き残そうとした厳粛な事実」を伝えようとする著者の思いが, この本の刊行,さらにはたび重なる改訂をおこなってきた理由であった。著者は1968年の改訂版以降,沖縄の米軍基地のことにも言及し,「昔から平和 であった沖縄のこの美しい空を,この青い海の上を,戦闘機の一機も飛ばせたくない。戦争につながる一切のものを拒否する」「二十余万の生霊の静かに眠る土の上に,このような巨大な基地をそのままにしてよいのだろうか。 平和が,沖縄県民はもとより全国民の心である。沖縄戦を忘れてはならない。 戦争体験を風化させてはならない」(角川文庫版あとがき)と述べている。

(注)1985年6月23日にひめゆりの塔の前でおこなわれた慰霊祭で,ひめゆり生存者の代表として仲里マサエさんは,「私たちは,みなさんの死が殉国の美談にすりかえられることを最も恐れます」と述べ,反戦・平和の誓いを表明している。このように仲宗根氏の思いは,生き残ったひめゆりの同窓生に共通するものであるといえよう(『沖縄タイムス』1985年6月24日,『朝日新聞』1985年7月4日,なお本稿で使用した新聞記事は,すべて高嶋伸欣氏より提供していただいたものである)。

 『鉄の暴風』と並ぶこうした姿勢は,1970年代に入り,総合的な体験記録集の刊行に受けつがれ,発展させられていった。 1971年6月に刊行された『沖縄県史 第9巻 沖縄戦記録1』,1974年3月に刊行された『沖縄県史 第10巻 沖縄戦記録2』は,沖縄戦記録の新しい段階を画するものとなった。両書は主に座談会形式によって住民の戦争体験談を収集し,編集したもので,『沖縄戦記録1』では,のべ461人の体験談を基礎に編集されている。県史の沖縄戦記録編纂にあたって,従来の沖縄戦記録の問題点として,次の4点が指摘されている(安仁屋政昭「総説−庶民の戦争体験記録について」 『沖縄戦記録2』所収)。    

「第一に,これまでの沖縄戦体験記の大部分は,日米の軍事行動の記録が主流になっていて,戦禍のなかでの庶民の言語に絶する体験については,軍事行動を説明する材料の一部としてつけ足し程度にしか書かれていないことである。」    
「第二に,軍事行動の記録が主流であるということと関連して,これまでの記録のほとんどが,いわゆる砲煙弾雨のなかの戦争体験に限定されていることである。」    
「第三に,庶民の戦争体験に照らしてみると,これまでの戦記物の記述は,きわめて不正確なものが多いことである。」    
「第四に,沖縄県民の犠牲を,『殉国の美淡』として描いていることに対する疑問である。」(1096〜1100頁)

 この4点をふまえ,体験談を採録するにあたって留意されたことは次の12 点である(『沖縄戦記録1』編集趣旨ならびに凡例)。

 1 陣地構築(飛行場,陣地構築など)
 2 増産諸統制ならびに供出(野菜,芋,家畜など)
 3 疎開(九州,北部)
 4 防衛召集(戦闘,前線への弾薬,食糧運搬,負傷兵の後送,船舶特攻隊の後方任務など)
 5 一般県民の戦闘中の後方任務(前線へ弾薬,食糧運び・負傷兵の看護,炊事など)
 6 壕生活(水,食,生理,出産,スパイ嫌疑,その他特異な生活)
 7 友軍将兵に壕を追い出されて(とくに親子連れなど)
 8 米軍の砲爆撃と死体の状況
 9 県民の生死観(人間性の喪失,動物的心情など)
 10 投降(投降心理の推移)
 11 収容所(負傷者,食糧問題,死体埋葬,軍民の分離,その他)
 12 村への復帰(食,衣,住,遺骨収集,農作物の異常繁殖、協同作業,復興など)

 これを見てもわかるように戦場に限定せず,戦争の準備段階から戦後の復興の初めまで,地域的にも主戦場となった中・南部だけでなく北部や離島, サイパン,シンガポールまで扱っており,沖縄における戦争を総体としてとらえようとしたものである。
 これに続いて,『那覇市史 資料編 第2巻中の6 戦時記録』1974年,『 同 資料編 第3巻7 市民の戦時戦後体験記1』1981年,『同 資料編 第3 巻8 市民の戦時戦後体験記2』1981年,が刊行され,1980年代に入り市町村による住民の戦争記録が続々と出された。『宜野湾市史 第3巻 資料編2  市民の戦争体験記録』1982年,石垣市史編纂室『市民の戦時・戦後体験記録』 第1〜3集,1983〜85年,『浦添市史 第5巻 資料編4 戦争体験記録』1984 年,『南風原町沖縄戦戦災調査1 喜屋武が語る沖縄戦』1984年,『同2 兼 城が語る沖縄戦』1985年,『北谷町民の戦時体験記録集 第1集』1985年 名 護市戦争記録の会『語りつぐ戦争 市民の戦時・戦後体験録 第1集』1985年, などがあげられる。これらはいずれも住民の目から見た沖縄戦の証言・手記を中心にしたものであり,集団自決,日本軍の住民殺害などの実例が多数あって,民衆の視点から沖縄戦を考える貴重な手がかりとなるものである。

 『鉄の暴風』から今日の市町村の戦争体験記録集にいたる民衆の立場から沖縄戦を記述した流れに対し,1960年代以降顕著になる一つの流れがある。それは,全体として沖縄戦における日本軍ならびに沖縄県民の戦闘協力を肯定的に評価するもので,その中にも,軍の立場から日本軍の行動(特に第32軍の作戦・指揮)を正当化し評価する傾向と,一方で,ひめゆり隊や鉄血勤皇隊など男女学徒隊をはじめとする沖縄県民の祖国への命を捧げた献身的行為のみを強調する,いわゆる殉国美談の傾向がある。日本軍司令官牛島満をはじめ第32軍の「偉烈」をたたえた黎明の塔をはじめ慰霊塔がたちならぶ摩文仁丘は,この流れの疑集した地であり,戦跡観光におけるガイドもこの立場からのものである(『観光コースでない沖縄』高文研,1983年,護国神社国営化反対沖縄キリスト者連絡会『戦争賛実に異議あり―沖縄における慰霊塔碑文調査報告』1983年,参照)。  

 軍の立場から書かれたものとしては,防衛庁防衛研究所戦史室『沖縄方面陸軍作戦』朝雲新聞社,1968年、同『沖縄方面海軍作戦』1968年など防衛庁によるものと,生き残った軍人の手による八原博通(第32軍高級参謀)『沖縄決戦一高級参謀の手記』読売新聞社,1972年(1949年に刊行された古川成美『死生の門』中央社,はこの八原の手記をもとに書かれたものであり,この日本軍の作戦の実質的な指導者の見方が,防衛庁の戦史の骨格となっている)などが代表的なものである。
 後者の県民の戦闘協力を肯定的にみるものは多いが,代表的なものとして は,金城和彦・小原正雄『みんなみの巌のはてに一沖縄の遺書』光文社,1959年,金城和彦『愛と鮮血の記録―沖縄学徒隊の最後』國洸社,1966年,などの金城和彦氏の作品がある。金城和彦氏は,妹二人をひめゆり学徒隊として亡くしているが,氏の立場は、「たとへ時代はどのように変らうとも,国を思ひ,郷土を愛し,身を挺して祖国のために戦って散った学徒たちの純情 と至誠は,とこしへに光輝ある我が国の歴史にとどめ,日本民族の心の支柱 として子々孫々に伝へねばならぬと信じ,また念願し」(『愛と鮮血の記録』 あとがき・370貢)という文言に示されている。
 さらに氏の論理は,「大東 亜戦争」は日本の侵略ではなかった,というところにまでいきつく。県民の犠牲者を「精神力のあらん限りをつくして国に殉じた尊い御霊」と極端に美化し,「軍によって県民に集団自決を強要したり,スパイ容疑や軍の行動の妨げになるとの理由で殺害したりするなど,絶対に有り得ない」(金城和彦 「歪んだ教科書記述・沖縄戦」『世界日報』1984年8月17・19日号)と,軍による住民殺害の事実すらも「有り得ない」と理由もなく否定するのである。
 先にみた防衛庁の戦史においても,日本軍による住民殺害などについては, 一言も触れることなく,住民の集団自決についても,「戦闘に寄与できない者は小離島(慶良間列島・・・・筆者注)のため避難する揚所もなく,戦闘員の煩累を絶つため崇高な犠牲的精神により自らの生命を絶つ者も生じた」(『 沖縄方面睦軍作戦』252貢)と逆に美化されているのである(注)。

 (注) ただし防衛庁の内部資料では,「在来から沖縄に居住していた住民で軍の活動範囲内で敵に通じたものは皆無と断じて差支えない」にもかかわらず,「所謂『スパイ』嫌疑で処刑された住民についての例は十指に余る事例を聞いている」とし,その処刑は「軍の行き過ぎ行為である」と,根拠のない日本軍による住民殺害があったことを認めている(陸上自衛隊幹部学校『沖縄作戦における沖縄島民の行動に関する史実資料』1960年,25頁, この史料は江口圭一氏より提供していただいた)。また「島尻地区に軍の主力が後退するに至るや,非戦斗員である住民安住の壕を軍の必要に基いて,強制収用して,壕外に放遂し,無辜の老幼婦女子を死地に投じて多数の犠牲者を生ぜしめている」(同書2頁)と,軍による住民の壕からの追い出しが,多数の犠牲者を出したことも認めている。内部資料では,不十分ながらもこうした事実を認めているにもかかわらず,公刊戦史では,これらについて一切触れていない。

 こうした流れのひとつで欠かすことのできないものとして,曽野綾子氏の一連の仕事,『生贄の島―沖縄女生徒の記録―』講談社,1970年,『ある神話の背景―沖縄・渡嘉敷島の集団自決―』文芸春秋,1973年,がある。特に後者の『ある神話の背景』は,渡嘉敷における住民の集団自決が部隊長の命令によるものである,とする『鉄の暴風』以来の通説を否定したもので,それまでの記録のあいまいさを見直させた点で重要な仕事である。しかし曽野綾子氏は,日本軍が投降勧告にきた住民(伊江島)を殺害したり, 家族が心配で部隊から離れた防衛隊員を斬殺したりしたことを軍として当然であると肯定しているのが特徴である。

 さて,こうしたこつの沖縄戦記録の流れは,1980年代の今日,どのような状況にあるのか,みてみよう。 1970年代からの総合的な体験記録集の刊行,さらに米軍史料の公開などの中で,ようやく沖縄戦の全体像を描きうる条件が整ってきつつある。民衆の視点からのそうした仕事として,大田昌秀『総史沖縄戦』岩波書店,1982年, 同『那覇10・10大空襲』久米書房,1984年,大城将保『沖縄戦』高文研,1985年,『日本の空襲 九 沖縄』三省堂,1981年,などが生まれた。こうした仕事の中で,沖縄戦は本土決戦をおくらせるための「捨て石作戦」であり, 沖縄県民に無用の多大な犠牲を強い,しかも日本軍自身が沖縄県民に対する加害者として現われたこと,などが明らかにされてきている。

 他方,第二の流れの中からも沖縄戦美化編が再浮上してきている。 一つは,日本軍の作戦行動を全面的に肯定する稲垣武『沖縄悲遇の作戦―異端の参謀八原博通』新潮社,1984年,であり,一つは,沖縄戦を沖縄県民の 「純粋な自己犠牲のドラマ」として描こうとした世界日報社会部『血戦・沖 縄―県民かく戦えり』世界日報社,1984年,である(両書については,山田朗氏より御教示をうけた)。
  『沖縄悲遇の作戦』では,日本軍は住民の避難などについても可能なかぎり配慮したと従来の戦史以上に軍の作戦を肯定し,さらには,軍の戦略持久作戦が米軍に「甚大な出血を強い」たことがアメリカに本土決戦を避けさせ, 天皇制に対する宥和的な対応をひきだし,天皇制を守ったかのように沖縄戦 を高く評価している(222頁)。日本軍の抵抗が本土決戦をおくらせ,アメ リカに慎重な態度をとらせたことは,従来からそういう主張があるが,ここでは,天皇制を守った戦いのように描かれ,また体験記録集の中で続々と出てきた日本軍の沖縄住民への加害の事実に対して,少なくとも軍首脳は住民の保護にできるかぎりのことをした,と弁護している点が特徴であろう。
  『血戦・沖縄』は,「沖縄の同胞が,可憐な少年少女も含めて軍官民一体 となり,絶望的状況の下に最後まで戦い抜き,斃れて悔いなかったという祖国防衛戦の栄光の真相」を見直すことをめざし,祖国への自己犠牲を「日本の精神の最も実しきもの,壮烈なるもの」(八頁)として今日にうけつごう とするものである。そして,天皇のために身を捧げた沖縄県民は天皇の沖縄訪問を願っているとし,また沖縄が「かつては本土防衛の楯になり,戦後もアジア防衛の一大拠点としてのその価値を発揮していること」(265頁)を肯定している。
 この延長上に,日本を守る国民会議が作った高校教科書『新編日本史』原書房,がある。 同書の検定前の原稿本では,「沖縄の学徒隊」と題するコラムを設け,その中で,「……沖縄でも県民が一丸となって軍に協力し,米軍に抗戦した。 なかでも,中学生や女学生が学徒隊として戦列に加わり,その尊い命を国にささげた」とその「尊い犠牲」をたたえている(注)。

 (注)なお検定後の見本本では,この箇所は,「…県民が一丸となって抗戦し,中学生や女学生も学徒隊として戦列に加わった」とされ,「尊い犠牲」は「尊い命をささげた」と修正されている。しかし基調は変わっていない。

 日本を守る国民会議は,憲法改正をめざす組織で,その中で特に教育の正常化を重視しているが,沖縄戦の美化論は,そうした政治の流れの中から強まってきているとみてよかろう。1980年代における沖縄戦をめぐる議論においては,沖縄戦の全体像をどう描くのか,それはとりもなおさず,近代日本とその帰結としてのアジア太平洋戦争をどう総括し,今日に生かすのか,という問題が正面から問われてい るのである。

U 沖縄戦研究の現状  

 1970年代以来の総合的な体験記録集の刊行をうけて,沖縄戦の全体像を民衆の視点から描こうとするこころみがおこなわれてきていることは先に述ペたが,同時に,これまでの記録・研究では抜け落ちていたり軽視されていた問題をとりあげたり,新しい視点からの研究がすすみはじめたのも1980年代の特徴であろう。ここでは,それらを大きく3つにわけて見てみたい。

1.犠牲者数などの実証的な確定作業

 沖縄戦における戦没者数は,沖縄県援護課が公表している全的な数字では, 次のようになっている。  
  県外出身日本兵              6万5,908人  
  県出身の軍人軍属(学徒隊など含む) 2万8,228人  
  一般住民                 約9万4, 000人  
  米 軍                     1万2,520人  
  総 数                    20万0,656人   (内 沖縄県出身者  12万2,228人)

 この数字の中で,米軍と日本の軍人については比較的調査がゆきとどいておりほば信用できるが,一般住民の数は推定によるものである。実際の沖縄県民の犠牲者数は,終戦前後のマラリアによる病死や餓死などを含めて,約 15万人ほどにのぽるだろうとみられているが,きちんとした調査はおこなわれていない。また当時,約1万余あるいは2万人ほどが沖縄にいたとみられる 朝鮮人の軍夫や従軍慰安婦は多くが戦死したと思われるが,その数は概数す らもわかっていない。

 この放置されてきた犠牲者数の確定にとりくんだのが,石原昌家氏とそのゼミナールの学生たちで,彼らは市や自治会の協力のもとに字ごとの徹底した調査をおこない,その成果は,『浦添市史 第5巻 戦争体験記録』1984 年,の中でまとめられている。
 この調査は,字ごとに屋号をすべて再現し,各屋号ごとに家族数,戦死者数,家屋の被害、日本軍の民家利用状況(宿舎、糧秣倉庫、慰安所)を調べ, また字における集落配置,日本軍陣地,住民の避難壕などの配置も明らかに している。また「沖縄戦のとき避難壕で生まれたが,名もなく死んだえい児, 戸籍簿に記載もれになってこの世に生を受けたことになっていないひと,命を金にはかえられないと援護法(戦傷病者,戦没者遺族等援護法―筆者注) の適用を拒んで戦死者の公式記録からもれているひと,一家全滅の戦死者な どが,新たに戦死者の数として掌握されてい」る(『浦添市史』298頁)。
 この調査によって明らかにされた旧浦添村における戦死者は4,112人にのぼり,市の社会課で把握していた公式の戦死者3,925人を187人も上まっていた。また村の計2,077世帯の中で,戦死者を出さなかった世帯は433世帯 (21.3%)にすぎず,逆に一家全滅(疎開者などは除く)した世帯が469世帯(22.6%)にのぽることが明らかにされている。
 また『浦添市史』では,市社会課の資料にもとづいて,首里戦線が崩壊する5月27日までの時期(注)(浦添はその主戦場であった)には、浦添村住民の戦死者は全戦死者の45.3%にとどまり,日本軍の南部撤退後に54.3%もの犠牲者を出していること,戦死した地域も南部で46.3%を占めていることも 明らかにした。このことは,軍事的には沖縄戦が首里戦線の崩壊で決着がついていたにもかかわらず,本土決戦準備の時間をかせぐために日本軍が玉砕を遅らせ,南部に撤退したことが,多大な犠牲者を生みだしたことを如実に物語るものである。

 (注)日本軍は5月22日首里放棄・南部喜屋武への撤退を決定,27日に軍司令部は撤退を開始し,30日に摩文仁に到着した。

 石原氏たちは,浦添に続いて,波照間島のマラリア被害の実態を明らかに し(後述),さらに中部激戦地の嘉数,西原や摩文仁の米須などの調査をおこない,石原昌家監修『大学生の沖縄戦記録』ひるぎ社,1985年,として刊行した。この中では,浦添での調査の経験を生かし,戦死状況や家畜被害, 移民・出稼なども調査の対象にし,旧宜野湾村嘉数で,日本兵による住民虐殺7人,餓死8人,自決1人などの事実を明らかにしている。また最後の激戦地となった南部の米須では,1,040人中580人(55.7%)の戦死者をだしているが,5月27日までの戦死者が35人であるのに対し,5月28日以降では253人にものぽっている(時期不明が292人)。浦添の例ともあわせて見てみると,沖縄県民が本土決戦準備のための「捨て石」にされたことが「1人1人の死にざまを伝える具体的数字としての重みを持って」せまってくる調査である(石原昌家「沖縄戦・戦災実態調査にみる『戦場の村』化過程」『沖縄国際大学 文学部紀要 社会学科篇』10巻1号,1982年,70頁)。

 そのほかに集団自決の実相を調べ,自決者数とその氏名,自決の状況を明 らかにした仕事として,下嶋哲朗『南風の吹く日―沖縄読谷村集団自決』童心社,1984年,がある。これは,米軍の上陸地点である読谷村波平における集団自決を波平の人々との共同調査で明らかにしたものである。チビリガマ という壕に避難した31家族139人のうち,21家族から82人の自決者をだし, 読谷村だけでもほかに2ケ所で集団自決があった,ということであり,このほかにも知られていない集団自決が数多くあると思われる。
  こうした犠牲者数を明らかにするという一見単純な仕事が,沖縄戦とは何であったのかということを考えるうえで,新しい問題・視点を提起しているのである。

2.忘れられた犠牲者たちの実相

 これまでの記録では忘れられていたり不十分にしか扱われてこなかった人々や地域の実相を解明しようとする努力もすすめられてきている。それらをいくつか見てみたい。

 @ 波照間島のマラリア―特務機関の着任

 沖縄本島や慶良間諸島に比べ,米軍が上陸しなかった宮古・八重山諸島な どにおける沖縄戦の実態は,必ずしも十分にわかっていない。
 宮古・八重山では日本軍の駐留などにより食糧難に陥り,マラリアが猛威をふるった。八重山では,3万1千人余りの住民のうち,58.8%がマラリアにかかり,21.5%が死亡した(『沖縄県史 第10巻』17頁)。この八重山の中でも特にひどかったのが波照間島で,1,275人中1,259人(98.7%)がマラ リアにかかり,461人(36.2%)が死亡している。しかもその責任は日本軍にあった。この波照間での状況を明らかにしたのが,石原昌家監修・石原ゼ ミナール・戦争体験記録研究会著『もうひとつの沖縄戦−マラリア地獄の波照間島』ひるぎ社,1983年,である。
 日本軍の駐留していなかった波照間に陸軍中野学校出身の特務機関員(離島工作員)山下虎雄(本名酒井喜代輔軍曹)が,青年学校の指導員として送りこまれた。「各工作員の任務は,青少年の教育を通じて護郷精神を鼓吹するとともに将来に備えて遊撃戦ないしゲリラ戦の幹部を養成し,青少年に遊撃戦戦闘技術の教育並びに組織作りを行い,要すれば拠点構築,陣地構築を 実施させることにあった」という(『陸軍中野学校』中野校友会,1978年, 651頁。石原昌家「沖縄戦の全体像解明に関する研究 V」『沖縄国際大学 文学部紀要 社会学科篇』13巻1号,1985年,73頁より引用)。
 この離島工 作員は,沖縄だけで9島に計11人が配置され,宣伝・防諜・諜報・謀略などの遊撃戦=秘密戦,すなわち敵味方双方へのスパイ活動にあたった。離島工作員山下は,波照間の全島民を西表島に疎開させるため,疎開しないものは斬る,井戸に毒を入れ家も焼き払うとおどし,疎開を強要した(山下の証言では,石垣島の第45旅団司令部の命令,という)。島の指導者たちは,波照間に米軍が上陸する恐れもなく,また波照間にはマラリアがないが西表島は マラリア地帯でありかえって危険であると反対したが,結局は疎開を余儀なくされ,1945年4月8日から疎開を始めた。そしてその西表島で,先に述べたようなマラリアの猛威におそわれたのである。
 山下が,戦後,波照間を訪れた際に島民有志19人の名前で抗議書を山下につきつけているが,その中で次のように述べている(『もうひとつの沖縄戦』 229〜230頁)。

 「あなたは,今次大戦中に学校の教師の仮面をかぷり,また国民を守るはずの軍人を装いながら,島の住民を守るどころか住民を軍刀による抜刀威嚇によって極悪非道極まる暴力と横暴をふるまい,軍の命令といつわり,島の住民を死地マラリアの島へ医薬品等皆無のまま強制疎開させ,全島の家畜を日本軍の食糧に強要させ,全島を家畜の生地獄にさせ,またその後は食糧難とマラリアで全島を人間の生地獄にさせ,そのために家系断絶や廃家を続出させたほどの悲憤の歴史的事実を,あなたは忘れたのか。」
 日本軍がなぜ波照間の全島民を強制疎開させたのか,その理由は必ずしもはっきりしないが,ひとつには軍の食糧確保が考えられる。事実,疎開に連れていけない牛,豚,親などの家畜は,日本軍が屠殺し乾燥肉にして持っていった。また住民を米軍支配下にやらないためであったと考えられる。これは住民をスパイ視する軍の住民観からくるものである。
 このようにまだ不明な点も多いが,米軍が上陸しなかった島での被害と, そこでの日本軍の責任を明らかにしたことは,重要な仕事である。

 A 朝鮮人軍夫・従軍慰安婦

  摩文仁丘の各県の慰霊碑とは少し離れたところに「韓国人慰霊塔」が建っている。この塔には「この沖縄の地にも徹兵・徴用として動員された一万余名があらゆる艱難を強いられたあげく,あるいは戦死あるいは虐殺されるなど惜しくも犠牲になった」と刻まれている。だが実際にどれほどの人が沖縄に送りこまれ,そして死んだか,はっきりとわかっていない。
 朝鮮の大邱で編成され,沖縄に送られた特設水上勤務第101〜104中隊(注) だけで,1中隊約1,500人,計6,000人ほどであったとみられ,強制的にあるいはだまされて連れてこられた朝鮮人は全体で1万数千から2万人程度と言われている。彼らは,陣地構築,飛行場建設,物資の荷上げ・運搬など人夫と して働かされた。

 (注)日本人の将校・下士官らのほかは,朝鮮人軍夫で構成され,たとえば第104中隊第2小隊をみると1944年9月1日現在で,現員,将校1,下士官6,兵7,軍属(朝鮮人軍夫)211,計225人となっている.戦闘部隊ではなく人夫集団であった(「特設水上勤務第百四中隊第二小隊 陣中日誌」『本部町史 資料編1』1979年,1,1116〜1,117頁)。

 朝鮮人間題を正面から取り上げた,日本人による最初のものといってよい仕事が,福地曠昭『哀号・朝鮮人の沖縄戦』月刊沖縄社,1986年,である。 この本は,内容があまりに断片的すぎて必ずしも十分整理されたものではないが,以前から知られている久米島での日本軍による朝鮮人一家虐殺事件や軍による朝鮮人軍夫の殺害,米軍が上陸すると「利敵行為のおそれがある」 と朝鮮人軍夫を監禁した例など,朝鮮人がどのように扱われ,機牲になったかを豊富な例で語っている。

 だまされて動員され,軍隊慰安婦にされた朝鮮人女性も多い。山谷哲夫『 沖縄のハルモニ』晩聲社,1979年,は沖縄に連れてこられた朝鮮人従軍慰安婦を取り上げた最初の仕事である.日本軍は,沖縄を含めて全体で約5〜7万人あるいはそれ以上の朝鮮人慰安婦をおいたとみられているが,沖縄にどれだけいたのか,はっきりとはわかっていない。福地氏によると250名は下らない,と推測されている。
 たとえば『浦添市史』によると,浦添村内18字のうち,慰安所の設置が確認されたのは7字14か所で,慰安婦の人数がわかる7か所をみると朝鮮人慰安婦10人,沖縄人慰安婦47人となっている。
 朝鮮人間題は,沖縄戦が日本(本土だけでなく沖縄も含めて)による朝鮮民衆への加害という側面を持っていること,沖縄戦が日本の侵略戦争の中の一つの戦闘としてたたかわれたことを改めて認識させるものである。

 B アイヌ

 沖縄本島に配備された第24師団所属の歩兵第89連隊は旭川で編成された部隊で,そこにはアイヌも徴集されていた。そのアイヌ兵のことを中心に書かれたのが,橋本進『南北の塔』草土文化,1981年,である。また富村順一『 皇軍とアイヌ兵』JCA出版,1981年,もアイヌ兵を扱った作品である。
 アイヌが沖縄に送られたのは,所属部隊が沖縄に配備されたという事情にすぎないと考えられるが,ヤマトによって侵略され差別された少数民族のアイヌが,日本の侵略戦争の中でまた犠牲者にされたこと,と同時に「『本土』 の権力者によって,被差別の底辺民衆と位置づけられたアイヌと“琉球人”の心の通い合い」(『南北の塔』130頁)が生まれたことが明らかにされている。沖縄南部の糸満町真栄平に建てられている「南北の塔」には,塔の北側に「キムンウタリ」(山の同胞),南側に「真栄平区民」と刻まれており, 「心の通い合い」の象徹ともいえる。
 このアイヌの問題は,サハリンなど北方で何の法的根拠もなく日本軍によって動員,徴用されたウイルタたちの犠牲の問題ともあわせて,考える必要 があろう(田中了,D・ゲンダーヌ『ゲンダーヌ―ある北方少数民族のドラマ』現代史出版会,1978年)。

 (補注)南北の塔は、沖縄戦で戦死したアイヌのための(あるいはそうしたアイヌを含む)記念碑であるかのような理解が橋本進氏の本によってなされ、そのような理解が広がっているが、地元の真栄平の住民からは、南北の塔はあくまで区民の塔であって、もともとそのような意味はないと批判がなされている。(糸満市『糸満市における沖縄戦の体験記集』1996年、P115-119、参照) 1999.7.22追記

 C 防衛隊

  防衛隊とは,陸軍防衛召集規則により満17歳から45歳までの男子を対象に防衛召集(注)された者を呼ぷ一般名称であり,沖縄では,約2万2,000人あるいは約2万5,000人が防衛召集をうけ,そのうち約1万3,000人が戦死したとされている(大城将保『沖縄戦』75頁,201頁,『日本の空襲 九』54 頁,参照)。

 注)陸軍防衛召集規則(1942年9月26日制定,1944年10月19日部改正)の第2条に「防衛召集トハ戦時又ハ、事変二際シ防衛上必要アル場合二於テ在郷軍人(…略…)ヲ召集スルヲ謂フ」とある(防衛庁防衛研修所戦史室『本土決戦(1)関東の防衛』朝雲新聞社,1971年,605頁)。

 召集規則にかかわらず実際には,13歳ぐらいから60歳ぐらいまでの男子は,根こそぎ召集された。  男子学徒隊が1,685人,うち戦死者732人,女子学徒隊が543人,うち戦 死者249人,であることを考えると,防衛隊の比重の大きさは圧倒的であり, この防衛隊のあり様は,沖縄の日本軍を考える場合,欠かせない要素であるだけでなく,沖縄住民の戦闘参加のあり様を考えるうえでもきわめて重要である。
 だが,学徒隊が「殉国美談」の典型的な事例としてよく取りあげられるのに比べ,防衛隊は「殉国美談」の事例にはふさわしくなかった。それゆえ, 「防衛隊の実態がいまなお沈黙の闇に埋もれたままである。一冊の戦記もなければ,一基の記念碑(慰霊塔)もない。学徒隊の悲劇が戦記や映画などで広く流布し,『ひめゆりの塔』や『健児の塔』が門前市をなす賑わいをみせているのに対し,防衛隊については顧みる者もないありさまである」(大城将保『沖縄戦』202頁)という状況であった。
 防衛隊を扱ったものとしては,防衛召集された個人の戦場記録である池宮城秀意『戦場に生きた人たち』サイマル出版会,1968年,と石垣島の防衛隊の記録である石垣正二『みのかさ部隊戦記一郷土防衛隊・白保飛行湯』ひるぎ社,1977年,が目につく程度で,1985年にようやくまとまったものとして, 福地曠昭『防衛隊』沖縄時事出版,が刊行されたにすぎない。なぜこのような状況なのか,大城将保氏は次のように説明している。

 「根本の理由は,旧日本軍にとって,学徒隊は都合がいいが,防衛隊は都合が悪いからである。」「彼ら(学徒隊−筆者注)はもっとも濃厚に軍国主義教育の洗礼を受けた世代であり,それだけに,ややもすれば異族視される郷土沖縄の劣等意識を背負っており,自ら皇国に殉じることによって  皇国民の証をたてようとする使命感にもえていた。それにひきかえ,防衛隊の場合はそう単純に『殉国の至情』にもえるわけにはいかない。彼らは一家をかかえた生活人であり,軍隊教育も軍事教練も受けてはいない島民である。第一線にかりだされた彼らは,友軍の敗勢をみきわめると雪崩をうって戦線を離脱して妻子のもとに逃げ帰ってきたのである。帝国軍人の金科玉条は“必勝の信念”であったが,生活者の彼らの目からみれば,槍を持って戦争にとぴこんでいくような戦法ではもはや勝ち目はないと判断できたのである。」(『沖縄戦』203〜204頁)

 ここにも述べられているように防衛隊員の戦線離脱の例は多いし,防衛隊員を差別する本土出身兵(上官)を袋だたきにしたという例すらある(『浦添市史』61頁)。 約20人ぐらいで集団で戦線を離脱したある防衛隊員は,その理由として, 部隊長が日頃から沖縄人を蔑視,差別しており,こういう隊長とは一緒に死ぬわけにはいかない,と思ったことと,妻帯者が多く家族のことが気になって家族の下へ走ったことの二点をあげている(『浦添市史』70〜71頁)。
 防衛隊員の多くが妻子などの家族をもち,一般社会での生活経験―常識を持っており,そこから“軍の論理”を相対化しえたのではないだろうか。そういう防衛隊員の姿は,「純粋な自己犠牲のドラマ」には反するものとして切り捨てられてきたのである。この防衛隊にもようやく注意が向け始められてきているといえよう。

 D 収容所−米軍支配下の沖縄住民

 民衆の視点からみるならば,戦闘地域や後方だけでなく,米軍支配下においてどのような状況におかれたのかを明らかにすることも忘れてはならない課題である。米軍は占領した地域の住民を後方の収容所に収容していき,そしてその中から戦後の沖縄の行政が出発するということからみて収容所は沖縄戦と戦後沖縄を結ぷ結節点でもある。
 この収容所の実態,そして戦後の行政の出発を正面から取りあげたものが, 宜野座村誌編集委員会『宜野座米軍野戦病院集団埋葬地収骨報告書』1985年, である(この本は大城将保氏にご教示いただいた)。 宜野座地区だけで,約10万人以上の住民が収容されていた模様で,周辺の金武,名護などをあわせると約20万人にのぼる。これらの収容所と米軍の野戦病院では「飢えと負傷と,さらにマラリアによって老人と子どもがつぎつぎと死んでいった」(同書5頁)のであるが,宜野座市では,1983年に集団埋葬地の遺骨の収拾作業をおこない,死体埋葬の状況を部分的ながらも明らかにし,同書にその内容が収録されている。
 浦添村の住民の死者をみても収容所における死者は312人(9.8%)にのぽっており,しかもそのうち243人は,6月24日以降に死亡しており,軽視できるものではない(『浦添市史』316頁)。
 一方,収容所内では暫定的に行政機関(市制)がつくられ,1945年9月には選挙もおこなわれており,指導者の連続性の問題など解明されるべき点が多い。

3.沖縄内の戦争責任

 沖縄戦の戦争責任を問題にする場合,なによりも侵略戦争を準備・実行し, そして本土決戦,「国体護持」のために沖縄を「捨て石」にして沖縄県民に多大の無用の犠牲を強いた日本の指導者たち,また実際に沖縄でたたかった第32軍の指導者たちの責任が問われなければならないし,事実問われてきて いる(注)。

 (注)沖縄が天皇制を守るための「捨て石」にされたということだけでなく,沖縄戦の戦争指導に天皇自身が深くかかわっていたことが明らかにされてきている。藤原彰氏は,「沖縄戦と天皇」『静岡県近代史研究』12号,1986年,において4月12日と5月4日に第32軍がおこなった総攻撃が,いずれも天皇の強い意思によっておこなわれたことを明らかにし,また天皇が天皇制を守るために沖縄を捨てて顧みなかったことを明らかにしている。この2度の総攻撃,特に5月4日の総攻撃の失敗は,沖縄戦にとって大きな意味のあるものである。戦後において,沖縄を日本から分離し,アメリカの支配下におくことを天皇がアメリカに提案した,いわゆる天皇のメッセージ(進藤栄一「分割された領土」『世界』1979年4月)ともあわせて,天皇の沖縄に対する責任が問題になろう。

 そのことを前提としたうえで,今日の沖縄における平和,民主主義への主体の形成という観点から,沖縄(人)をたんなる被害者としてみる見方への反省が生まれてきた。
 安仁屋政昭「総説−庶民の戦争体験記録について」『沖縄県史 第10巻』 1974年,が沖縄内の戦争責任を論じた比較的はやい時期のものであろう。
 安仁屋氏は「支配階級の犯罪と民衆の責任とは区別されなければならない」ことを前提としたうえで「一方に日本軍による差別行為があらわにされたことの対極に,沖縄県民の側にも,この差別政策に全身を委ねていく姿勢が形成されていたこと」「とくに沖縄の支配層,上は県庁の上級官吏から,警察官, 教員,市町村長,兵事主任などにいたるまで,『天皇の赤子』として『恥ずかしくない死に方』を一般県民に指導した階層の言動」や日本軍は本土出身兵士だけでなく「沖縄県出身兵士をも含めての『皇軍』」であり,沖縄県出身兵士の中にも「忠誠心を発揮するために率先して残虐行為に走った者もかなりの数にのぽっている」ことを指摘している。
 こうした議論とはやや別の観点からのものもある。大城将保氏が「なぜ沖縄はこだわり続けるのか」『世界』1985年6月,の中で,「アジア民衆戦史への試み」を提唱し,次のように述べている。

 「沖縄は地理的にも歴史的にも,日本とアジア・太平洋地域との接点に位置している。それならば,戦争体験を発掘,継承していくわれわれの視野はとうぜんもっと南の地域まで拡大していかなければならないはずである。当時の日本臣民の一員として,アジア・太平洋諸民族にたいする加害者としての責任があるばかりでなく,現実にこの島に米軍の核基地の存在を許しているかぎり,われわれは常に潜在的な加害者の立場に立たされているのであって,アジア・太平洋人民から見れば,四○年前も今日も問題はなにひとつ解決されてないことになるだろう。」(104頁)

 たとえば,移民という問題をとりあげてみるとフィリピンや大平洋諸島への移民は,一面では日本の南進国策の一環ともいうべき性格を持っているが, 大戦前までの沖縄からの移民の累計は約7万2,000人余りで,全国累計の11% も占めている(琉球新報社会部『昭和の沖縄』ニライ社,1986年,159頁)。 県の人口比でみても,1940年現在の海外在留者は5万7,283人と沖縄県の現住人口57万人余のほぼ10%を占め,2位の熊本県の4.78%,以下他県を圧倒する高い比率である(『沖縄県史 第7巻 移民』1974年,13頁)。
 沖縄戦を広くアジア太平洋戦争の中で位置づけようとする見方からは,当然,沖縄の被害者の側面だけでなく,加害者の側面もクローズアップされてくることになるのであり,それはまた、“本土対沖縄”という視点を相対化することにもなる。

 ところで沖縄戦における沖縄内の戦争責任を実証的に追及しているのが, 石原昌家氏であり,氏の『虐殺の島一皇軍と臣民の末路』晩聲社,1978年, は,その貴重な成果である。氏は,地域の村落共同体の指導者の戦争責任をとりあげ,日本軍による住民殺害に,村落共同体の指導者たちが深くかかわっていることを明らかにしている。しかもその指導者たちの責任が問われることなく,戦後も指導者でありつづけている問題を指摘している(石原昌家 「沖縄戦と村落共同体」『沖縄国際大学 文学部紀要 社会学科篇』4巻1号, 1976年)。この問題は今日でもなおタブー視され,証言者の口も重いが,ようやく取りあげられ始めたといえよう。

 以上,大きく3点にわけてみてきたが,こうした研究の進展によって,こ れまでに書かれた沖縄戦像とは違った,より普遍的な像を構成しうる条件が生まれてきているのが現状であろう。

 

V 沖縄戦研究の視点と課題

 筆者は以前に「南京大虐殺−沖縄戦−本土決戦−自衛隊」の連関の中で, それぞれをとらえることを仮説として提起した(拙稿「南京にて」『軍事民論』特集46号,1986年)。これは近代日本の侵略戦争から,今日の日本の軍事的役割までをも見通した中で,沖縄戦やそれぞれを位置づけようとするものである。この点をさらに具体的に論ずることは別稿に譲り,この視点を前提としたうえで,沖縄戦研究をすすめるにあたっての筆者なりの視点と課題 を述べてみたい。もちろん以下は,筆者の問題関心にそった課題だけで,沖縄戦研究の一面にすぎないことは言うまでもない。

1.日本軍の敗北過程の中の沖縄戦

 沖縄戦における大きな特徴として)日本軍が沖縄住民をスパイ視し,多くの住民を殺害したこと,また住民の集団自決があちこちでおこったことがあげられる。日本軍による住民殺害は,今日,明確に確められているものだけでも40件以上,犠牲者は200人以上にのぽっており,闇に埋もれたままの件数を考えるとこれをはるかに上まわると考えられる。また直接,日本軍の手によって殺害されたのではなくても,壕から追い出されたため米軍の砲爆撃の犠牲になったり,日本軍に食糧を強奪されたため餓死等にいたったりした, いわば間接的に日本軍によって死に追いやられた例は,万を下らないとみら れる。(注)

 (注)厚生省の調査によると,14歳末満の戦没者1万1,483人のうち,「壕提供」が1万0,101人,「食糧提供」76人,「自決」313人,「友軍よりの射殺」  14人,などがあげられている(大田昌秀『総史沖縄戦』208頁)。

 集団自決は,日本軍の命令によるものとは必ずしも言えないが,手榴弾や青酸カリが配られて自決を強いられる状況があったり,また日本軍が,住民が米軍支配下に入ることを認めず,玉砕を非戦闘員にまで求める状況の下では, 集団自決は,日本軍の存在と切りはなして考えることはできない。住民殺害と集団自決の関係については,大城将保氏の次のまとめがある (『琉球新報』1985年7月13日)。

 「結論をまとめると住民虐殺も集団自決も第三二軍の住民,県民に対する防諜(ちょう)対策の最後の究極の破局として達成したコインの裏表。つまり敵につかまったらスパイになる。スパイにならないためには自決しなければならない。しかし自決できなくてうろうろしていて敵につかまったものは,スパイとみなされ処刑される。だから,集団自決と住民虐殺は表裏一体であるといえる。」

 こうした日本軍による住民(日本人)殺害や住民のスパイ視,壕からの追い出し,食糧強奪,あるいは集団自決は,必ずしも沖縄戦だけの特徴ではないことに注目する必要があろう。
 サイパンでの集団自決は,「バンザイ・クリフ」などの名で知られているが,筆者が少し調べただけでも,サイパン,テニアン,フィリピンのミンダナオ,パナイなどで日本人の非戦闘員に対して沖縄戦と同様の事態が生じて いる。
 サイパンの例をあげると,壕の中で将校が親に乳児を殺せと銃をつきつけて強要し,窒息死させたり(『沖縄県史10』1,010頁,『宜野湾市史』513 頁),住民をスパイだといって撃ち殺そうとしたり(沖縄県婦人連合会『母たちの戦争体験』1986年,335頁),住民に自決せよと青酸カリを配ったり (『母たちの戦争体験』315〜316頁),壕から追い出したり(沖縄県退職教職員の会婦人部『ぷっそうげの花ゆれて』ドメス出版,1984年,273頁)している。また米軍に収容されたキャンプで,現場班長らが山に隠れている日本兵に殺害されることもあった(注)(『沖縄県史10』1010〜1011頁,『ぷっそうげの花ゆれて』279頁)。

 (注)この件については,殺害した本人の証言があり,米軍に協力的な人物を殺害したという(『那覇市史』第3巻8,616〜617頁)。これは,遊撃戦による「スパイ」摘発・殺害のケースである。

 ミンダナオでは,日本軍による食糧強奪や日本人住民の殺害(『宜野湾市史』454,464,490頁),パナイでは.集団自決を日本軍が手伝った例である が,住民の輪の中に日本兵が手榴弾を投げこみ,生き残ったものを銃で撃ち殺しさらに鋭剣で殺したという例(『那覇市史』第3巻8,599頁),テニアンでは,米軍に捕まりそうになったらこれで死ぬように,と日本兵から手榴弾を渡され,約80人が集団自決をおこなったり(『浦添市史』422頁),壕の中で泣く子を日本兵が殺した例(『宜野湾市史』522頁)など,沖縄戦と共通したことが続々と起こっているのである。またロタでは,米軍が上陸するというので,女子供は明方に自決するように言われ,子供に死装束をさせて待ったが,幸い米軍はロタには上陸せず,助かったということもあった(『浦添市史』475頁)。

 こうして見てみると,日本軍による日本人の殺害等は,米軍の反攻によって日本軍が玉砕していった島々において,共通にみられる現象といってもよかろう。日本人の非戦闘員におしなべて死を強要し,スパイ視し,彼らから食糧を強奪したりすることは,一部の心ない日本軍人の行為というよりも日本軍に広く一般的にみられる行為であり,日本帝国軍隊の体質にかかわる問題であるといえよう。沖縄においては,それに加えて沖縄差別が加算されていると考えていいのではなかろうか。日本軍が,占領した島々の民衆を虐待 し,しばしば殺害したことと,日本人の非戦闘員をも上記のように扱ったこととの関連を含めて,アジア太平洋地域における日本軍のあり様の中で,沖縄戦を位置づける視点と,その作業が必要である。

2.「皇民化」教育・政策の解明

 曽野綾子氏が波嘉敷の集団自決について「三百人はタダでは死なない。かりに一人の隊長が自決を命じても,その背後にある心理がなければ,人々は殺されるまで死なないことを,私は肌で感じて知っているように思う」(『 ある神話の背景』角川文庫版,254頁)と言っているが,ここでいう「背後にある心理」を明らかにするためには,「皇民化」教育が重要な鍵を握っている。学徒隊などの戦争への積極的な参加もこの「皇民化」教育の成果といえる。この「皇民化」教育・政策と沖縄差別があいまって,沖縄県民を戦争へかりたてていったメカニズムの解明が望まれる。(注)

 (注)これに対する反対の意見として森田俊男「十五年戦争・沖縄戦と教科書問題」『科学と思想』47号,1983年,がある。氏は,「このことを専ら明治政府以来の中央政府の差別的統治と皇民化教育の帰結としてとらえることは,ここではとらない。問題は郷土への外国軍隊の進入に対して,郷土を守れない,と思う感情―ほかでもない地域的個性,七○年間の同化政策でもこわされなかったものとそれへの愛がその基底にあるはずだ―が,軍部(天皇制ファシズム)によって利用された,ということではないか」  (4O6頁)と述べている。氏の後段の部分は理解できるが,それでは,後で述べるような本土に比べても極度な画一化,大和化やそこでの沖縄県民の行動を理解できないのではなかろうか。

  「皇民化」教育・政策を明らかにするにあたっては,第一に極度の画一化 ・大和化という,本土や朝鮮・台湾などと比較しての沖縄の共通性と特殊性の解明,第二にそれが強制力と一対のものであったという点,第三に「皇民化」の限界とそれをのりこえる契機がどのように育まれていったのか,という視点から見てみたい。
 第一の点だが,たとえば,生徒を引率して宮崎に疎開した小学校の教員が, 疎開先の小学校で,教員同士が方言で話をし,朝礼でも校長が平気で方言で話をすることに驚いた話がある。沖縄では徹底して標準語の使用を強制され, 学校の中で方言など使えなかったからである。この教員は,金具類の献納についても,沖縄での徹底した献納ぷりに出べて宮崎ではあちこちの家をのぞくとなべやかまなどがすべて残っており,正直に貴重なものまで献納したことをくやんだと述べている(『那覇市史』第2巻中の6,69〜70頁)。 そのほか,沖縄の児童の疎開を受けいれた九州各県の小学校では,沖縄の児童が標準語をみごとに使うことに驚いた,という話がいくつかある(浦崎純 『消えた沖縄県』沖縄時事出版社,1965年,55〜57頁)。つまり方言を否定 し「標準語」の使用を強要する教育が,本土よりはるかに徹底して実施されていたのである。

 また1937年に沖縄教育会から発表された「読み替えるべき姓」にも見られるように,沖縄風の姓名を大和風にかえたり,読み方をかえたりする改姓改名もおこなわれている。読みかえとは,東門(アガリジョウ)をヒガシカド, 具志頭(グシチャン)をグシカミ,という具合である。これは,1939年から朝鮮で実施された創氏改名に比類するものである。(以上に関しては,西原文雄「昭和十年代の沖縄における文化統制」『沖縄史料編集所紀要』創刊号, 1976年,大田昌秀『近代沖縄の政治構造』勁草書房,1972年,琉球新報社 会部『昭和の沖縄』ニライ社,1986年,など参考)。

 こうした沖縄における「皇民化」教育・政策の特質の解明にあたって,第二に強制力の問題がある。すでに仲程昌徳氏が『沖縄の戦記』の中で指摘していることであるが,『那覇市史』第2巻中の6,の中に外間米子編「ひめゆり部隊に参加しなかった私たち」と題して,当時沖縄県師範学校女子部に在籍しながら,ひめゆり部隊に参加しなかった8人の手記が収められている。
 1944年7月の閣議決定により,老幼婦女子の沖縄から本土あるいは台湾への疎開が始まり,また沖縄本島内でも主戦場に想定されていた中南部から北部への島内疎開がおこなわれた。
  師範学校の生徒についても,北九州の各師範学校で疎開してきた沖縄師範の生徒を委託生として受入れることになっていた。ところがその委託生としての疎開を認める権限を握っていた生徒主事は,その許可を与えなかった。 「疎開するのは非国民だ,国賊だ」と学校内で日頃から宣伝されていたうえ, 家族とともに生徒が疎開を申し出ると,「これまで支給した月二十五円の給費を全額返してから疎開するように」と言ったり,「君は国頭へ疎開するというが,向うも安全とはかぎらん,もし国頭で死んだとしたら犬死だよ,靖 国神社へもいけず,国賊だよ,みんなと一緒に死んだら靖国神社へ祭られる, 君はどっちを選ぷかね」「靖国神社と犬死とどちらを選ぶか」と疎開することを認めようとしなかった。
 もちろん学校の教員の中にも疎開をすすめる者もいて,この手記をよせた元生徒たちは,学校の正式の許可のないまま家族 と共に疎開し,生きのぴることができたのであるが,女子学徒隊への動員が, それに参加しないものを「国賊」とののしり,心理的な圧迫を加えることと並行しておこなわれたのであり,事実,疎開をあきらめ,ひめゆり部隊に参加し戦死したケースもこれらの手記の中で紹介されている。
 これは学校のことであるが,ほかに軍や警察,行政,地域の警防団等々住民を戦争にかりたて,戦争協力以外の道を閉ざす強制システムとあわせて見る必要があろう(後述)。
 次に第三の点であるが,先に防衛隊に戦線離脱の例が多いことを述べた。 このことは,学校教育―特に学徒隊の場合は,師範学校や県立中学,県立高等女学校その他,比較的エリート層である―の中で純粋に「皇民化」教育をたたきこまれた学徒隊とはちがって,市民社会での生活を経験し,養うべき家族をもつ防衛隊員の場合,軍の非人間的論理をそのままうのみにしないものを持っていたからであるといえよう。      

 また移民体験というのも重要である。沖縄では,移民先から帰ってきた人が多いが,彼らは,海外での生活から英語かスペイン語を解し,しかもアメ リカ人を直接知っている場合が多かった。住民の体験記録集を読むと,米軍は捕えた住民を,女はすべて暴行し,男も女もみな戦車でひき殺してしまう という宣伝を本気で信じていたことがわかる。だからそういう鬼のような米軍に卑しめられ殺されるくらいなら家族そろって自らの手で死のう,という のが集団自決をおこなったり,投降をあくまで拒否した大きな理由でもあった。ところが移民体験者は,アメリカ人がそういう鬼である,という宣伝は 自分の体験にてらしてウソだと見やぷることができた。だから,移民体験者が,やってきた米軍と話をつけて壕内の住民全員を米軍の収容所に移したり (読谷村波平部落で集団自決をおこなったすぐ近くの壕,大城将保『沖縄戦』 158〜159頁),あるいは「アメリカという国は何もかも豊富な国だからあそこと戦争したら大変よ,あんたたちが行って,早く戦争をやめさせねばならないよ」と口ぐせのように言うハワイ帰りの人もあったのである(『浦添市史』79〜80頁)。また「自分の考えでは捕虜になったら助かる。決して殺さないと思う」と考え,またアメリカには「物がとっても豊富にあって日本では到底及びもつかない」と戦争の行方を冷静に見通すことができたのもハワイ移民から帰ってきた人であった(『浦添市史』67頁)。
 集団自決を選ぶか, 投降による生命の安全を選ぶのか,その選択にあたって,移民体験は,大きな要素となっているといえよう。相手の国の人々を知っている,ということが,“鬼畜米英ナショナリズム”を越える契機となっているのである。(注)

 (注)それゆえ移民帰りは,軍の「スパイ取締り」のうえで要注意人物の一つにあげられていた。

 偏狭なナショナリズムが,たいていの場合,他民族の歪んだ像を事実であるかのように宣伝し,国内民衆を動員することを考えると,市民社会での生活の常識や移民体験という違った。社会での生活体験,他民族の実際の生活や人を知っているということが持っている重さを沖縄戦は示しているのではなかろうか。

3.県行政,警察,学校等の戦争責任

 沖縄戦において,日本軍は批判の対象になるが,県行政などはほとんど問題にされず,しばしば島田知事は県民のため最後まで努力したと肯定的に扱われている。県などの責任も問題であることは,先に見たように安仁屋政昭氏によってもすでに指摘されてはいるが,全体として軍に関心が集中し,県などを含めて,戦争への動員,遂行の全体的なメカニズムの解明は遅れている分野といわねばならない。
 県行政についてみると,たとえば,中部で激戦がおこなわれていた1945年 4月27日に,集まることのできる南部の市町村長と警察署長の合同会議が開かれ,これが沖縄県での最後の市町村長会議になったのだが,ここでの県の 「指示事項」をみると,その第一項で「必勝信念及敵愾心の昂揚」と題し, 「惨忍な敵は我々を皆殺しするものと思ふ,敵を見たら必ずうち殺すという ところまで敵愾心をたかめること」を指示している。さらに第六項「村に敵 が侵入した場合一人残らず戦えるよう竹ヤリや鎌などを準備してその訓練を行って自衛抵抗に抜かりのない構えをとらう」,第七項「軍事を語るな,スパイの発見逮捕に注意しよう」とも指示している(浦崎純『消えた沖縄県』 128頁)。
 たとえ戦闘の最中で,軍や憲兵隊が立ち会った会議ではあれ,米軍は県民を皆殺しにすると,竹ヤリを持って一人残らず戦え,と指示する県に,県民の安全や保護という観点がどれほどあったのであろうか。

 男女学徒隊の編成についてみても,その具体的内容は,軍と県当局との間で数次にわたり折衝を重ね,中学校1・2年生男子に適性検査のうえ通信教育を,女学校上級生には看護教育をおこない,戦時には,軍人及び軍属として動員することを決め,実施している(『沖縄作戦における沖縄県民の行動に関する史実資料』32頁,『沖縄方面陸軍作戦』621〜622頁)。
 男子学徒隊は,1,685人中732人(43.4%),女子学徒隊は,543人中249 人(45.9%)が戦死し,特に男子学徒隊の中で通信隊に配属された者は,350 人中247人(70.%)もの犠牲者を出している(厚生省調べ,出典は同上)。 この点だけからみても県の責任はまぬがれない。

 県の中でも警察の役割は,大きい(以下,『沖縄作戦における沖縄島民の行動に関する史実資料』より)。警察は疎開業務や防空業務とならんで,「 軍の行う陣地構築,飛行場の新設等諸施設の工事に対する労務の提供,諸輸 送力の提供に対する援助」「軍の行う物資の調達,集荷の督励援助」をおこない,戦争が始まると「軍の糧秣又は弾薬輸送に対する住民の労力提供の督促並びに輸送指揮」もおこなった。つまり軍への労働力の狩り出しや物資の供出を軍に協力しておこなったのである。
 また防諜取締りも警察の重要な任務で,沖縄戦突入前に編成された警察警備隊の特別行動隊は,特高警察を主体とし,スパイ取締りにあたった。警察が実際にどれだけの役割を果たしたのか,あまりわかっていないが,沖縄戦の直前に実施が示達された「総動員沿岸警備訓練実施要綱」(渡久地警察,「秘密戦二関スル書類」『本部町史 資料編1』1979年,1030〜1034頁)をみても,「非常事態下二於ケル」「混 乱ノ防止」,「流言蜚語ノ取締」,「謀略ノ阻止」などを警察が主体となり, 警防団がそれに協力する形で訓練が考えられており,警察の役割は,決して小さくはないと考えられる。

 伊江島では,村長はじめ村当局,警察,青年学校,国民学校,警防団などが軍に協力して,対戦車攻撃や「挺身奇襲」などの軍民合同演習をおこない, 実際の戦闘でも男女生徒を含めて米軍への斬り込みをおこない,約1500人と推定される住民が戦死した(玉木真哲「沖縄戦史研究序説−沖縄戦防衛庁文 書・陣中日誌」『沖縄県史料編集所紀要』9号,1984年)。村ぐるみで女性や生徒を含めて住民を戦闘にかりたて,死に追いやった典型的な例であり, 軍だけでなく,県や村,警察,さらには学校,警防団等の責任は大きい。
 また住民の思想動向や敵性分子の有無などを調べる諜報や,防諜,宣伝, さらには謀略(米軍の飲料水への毒物撒布など)を任務とする秘密戦の協力組織「国士隊」のメンバーをみても,33人のうち助役などの町村吏員6人、 国民学校や青年学校の校長や教員11人,県議・町議・村議4人,医師2人,などとなっており,まさに地域の有力者たちが,軍に協力して住民をスパイする役割を引き受けているのである。
 戦争への住民の動員や住民をスパイ視し取締る役割は,軍だけのものではなかったのである。
 これらのほかにも新聞などマスコミの役割もあり,各機関・団体が,戦争の中で果たした各々の役割と相互の関わりを解明することが,沖縄戦を遂行 した日本側のメカニズムを明らかにするために必要であろう。

おわりに

 これまで筆者の問題関心にそって,いくつかの視点,課題を述ペてみた。 “軍隊と民衆”の視点にこだわるのは,そもそも軍隊とは何であるのか,を根本的に開い直す必要があると考えるからである。また軍事(史)研究にしばしば見られる軍事的合理主義が,人間の生命や安全,民主主義や平和をふみにじるものでしかないことへの批判的見地からでもある。
 戦争について,戦災についてくりかえし多くの人々によって語られながら, 日本がおこなった戦争の具体的な実態について,研究はおくれている。沖縄戦の解明は,アジア太平洋地域と本土との結節点である沖縄の位置に照らしてみても,日本のおこなった戦争を解明する重要な鍵になると思われる。

 (後記 本稿をまとめるにあたっては,沖縄戦を考える会(東京)における諸氏の報告や議論,資料の提供,同会ならぴに日本現代史研究会における筆者の報告についての議論,に負うところが多い。また大城将保氏,天久仁助氏,白戸伸一氏には資料文献の紹介をはじめお世話になった。感謝したい。)                                                 (1987年1月20日稿)

(追記 本稿脱稿後,沖縄の朝鮮人慰安婦をとりあげた,川田文子『赤瓦の家一朝鮮から来た従軍慰安婦』筑摩書房,1987年,が刊行された。1987年3 月22日記)